pixivは2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴
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「アオキさん。好きやで」
いつものように残業をしていた午後8時前。自分と同じく四天王専用の仕事部屋で残業をしていた、面接官と露払いを務める女性・チリから、突然こんな言葉を投げられた。
「……はあ」
突然の告白に動揺しながらも返した言葉は、相当間抜けだったと思う。彼女もそう感じたのか。
「なんやその返事。こないな美人さんが好き言うたんに。もうちょいまともな反応出来へんの?」
と、嫌味ったらしく言葉を返してきた。
特にムードも何もない。況してや『残業中』という、心身共に削られながら仕事をしているこの状況で発する言葉とは到底思えない。
しかしそんな状況下に構わず、彼女は自分に『好き』と言ってきた。自分はどんな反応をするのが正解だったのかわからない。
「むしろ、どんな反応を求めているんです」
試しに、聞いてみることにした。
「そりゃあこう…『ありがとうございます。自分もチリさんが好きです。結婚を前提にお付き合いを始めましょう。』てな感じ!」
「絶対言いません」
何だその反応は。明らかに聞く相手を間違えた。
残業中に告白してくる人だ。まともな回答が返ってくるはずがない。少し考えればわかることだった。
同時に、こんな人だったか…?という疑問も出てきた。自分の知っているチリという女性は、仕事に忠実で一切気を抜かない。公私はしっかり使い分ける人だった。
そんなことを考えていると
「アオキさんはチリちゃんのこと好きやないん?」
というチリの質問が聞こえてきた。
『好き』。その言葉が指す意味は何通りかあるが、今のチリが指す好きの意味はおそらくーーわかってはいるが、ここは敢えて惚けてみよう。
仮にこれで好きの意味が自分の勘違いだったなら、間違いなく「何自惚れとんの?」と揶揄われる
「その好きはどのような意味合いですか」
「そりゃあ勿論"愛"や。それ以外あらへん」
やはりか。まあ話の流れ的にその意味しかないだろうと、誰もが思っていたことだと思うが。
しかし意味こそ間違ってはいなかったが、堂々と言う彼女にこれまた心配になる。
彼女は本気で言っているのだろうか?
こんなおじさんが好きと?
自分の何処が良いと言うのだ?
仮に彼女が本気なのなら申し訳ないが、少なくとも今の自分には『チリに揶揄われている』としか思えなかった。
相手の心を弄ぶ嘘は言ってはいけない。きっと彼女は仕事の疲れで頭の整理ができていないのだろう。
何個も浮かんだ疑問を自分の脳内でそう解決させた。その上で自分が出来ることは、彼女を諭すことだ。
「…愛ですか。では自分はそれにはお応えしかねます」
「なして?」
「考えてみてください。貴女は四天王の露払いを務める面接官。
人との接触が一番多く、老若男女に好かれる美貌を持っている。当然ファンも多い。
そんな貴女にこんな平凡で取り柄のないただのおじさんが、貴女に釣り合うわけがありません。
仮に付き合ったらデートなどするわけでしょう?一緒にいるところを目撃されれば、それを良いと思わない人は当然出てくる。
その人がどんな行動を取るかわからない。刃を向けてくる可能性だって十分あり得る。
自分は勿論、貴女自身に危険が及ぶ可能性があるのです」
長々と語ってしまった。自分らしくもない。
チラリと彼女を見てみれば、彼女は俯いていて、顔はよく見えなかった。
一度たりとも口を挟んでこなかったが、しっかり聞いてくれただろうか?これが独り言で終わらなければ良いが。
「ですから…」
と、続きを話そうとしたその時
「…うっさいわ」
今まで聞いたことのない、酷く冷めた低音が物音一つしない静かな部屋に響いた。
今のは誰の声だ?考えたところで彼女しか有り得ない。だって今この部屋には自分と彼女しかいないのだから。
「グダグダ、グダグダ、やかましい」
チリはそう呟きながらゆっくりと立ち上がる。やがてバン!!と大きな音を立てて机に手を置き、こちらを睨みつけてきた。
「そないなこと、チリちゃんかてわかっとる。そこまで考えの甘い大人じゃあらへん。
それに今、自分んこと卑下したな?これ以上自分を卑下したら許さんで」
やってしまった。
誰が見てもわかる。彼女は今、猛烈に怒っている。声色、目つき、態度。どれも今まで一度も見たことないチリの姿だった。
動揺する自分を差し置いて、彼女は話を続ける。
「告白された回数なんて数えられん。やけど付き合ったことなんて一度もあらへん。やってチリちゃんは好きやないから。
そんなチリちゃんが初めて好きになったんがアオキさんなんよ。人生初めて告白したんよ。
覚悟なんて、恋に堕ちた時点でとっくに出来とる。
後はアオキさんの返事待ちや。チリちゃん、アオキさんの本心聞いとらん。なあ、どうなんよ?」
ーー本心?
自分の、本心?
自分は、チリさんをどう思っている?
チリさんは、同僚。それ以上でも以下でもない。そう思っている。
しかしそれは"本心"だろうか?
自分で自分がわからなかった。
だって恋心なんてとっくに捨てた。今更誰かに恋なんてする予定なかった。そのはずだった。
「……」
「…さっきはあんなに長々と語っとったのに、今は無言かいな」
無言に成らざるを得なかった。
自分の心の整理が出来ていない今、適当に返事してしまったら、後にも先にもまた彼女を怒らせかねない。
しかし、このまま無言を貫くわけにもいかない。
今の自分が、本気であろう彼女にかけるべき言葉は何だろうか…。
「…まあええ。返事は待ったるわ」
「え」
意外な言葉に顔を上げ、チリを見る。
どうやら待ってくれるらしい。怒りで満ちているはずの彼女の頭は、意外にも冷静だった。
「あ、そや。一つ忠告しとく」
「何でしょう…」
ーーあぁ、何か嫌な予感がする。
「空を揚々と飛び回るアオキさんを、いずれチリちゃんが確実に地に落としたる。
覚悟せえや?」
的中した。自分は一体何をされて、どう落とされるのだろうか。
ただえさえ三足の草鞋を履かされて疲れが溜まっていると言うのに、面倒事がまたひとつ増えてしまった。
そしてこの他にも、自分の"本心"というものに整理をつける時間も確保しなければならない。
これでは当分心身ともに休めそうではないな。
「じゃ、チリちゃん残業終わったし、言いたいことは言ったんで、この辺でお暇しますわ」
「…そうですか。お疲れ様です」
「おん、おつかれさん」
チリが部屋を出て行き、一人になってすぐ時計を見ると、ようやく8時を回ったところだった。
まさか、あの告白から5分程度しか経っていないというのか。
上司であるオモダカや、四天王の大将を務めるハッサクからの小一時間ほどの説教よりも長時間に感じた。
今まで体験したことのないほどに長い5分だった。
はあ…とため息を一つ吐くと、扉がコンコンとノックされた。
チリが忘れ物でもしたのかと思い
「チリさん?」
と、声をかけると扉が開く。
しかし扉から覗かせたのは、今さっきチラリと脳内に浮かんだ人物、ハッサクだった。
「チリではなくて悪かったですよ」
「ハッサクさん…」
ハッサクは軽く自分を揶揄いながら、ガニ股で自分の席まで歩き椅子に腰をかけると、何やら小言を言い始めた。
「本来なら8時前には残りの業務に手をつけ始めていたはずなのですが…」
「アカデミーの仕事が立て込みでもしたんですか」
わざわざ声に発して言うということは、自分に何か反応して欲しいのだろう。そう思い、可能性として考えられる事柄を一つ挙げてみた。
「そうではないですよ。小生、10分前には既にリーグ前に来ておりました」
「では何故?」と疑問の言葉を口に出すと
「貴方ねえ…先ほどのチリとの会話を忘れたとは言わせませんよ」
そう返答された。
成程。そういうことか。何となく読めた。
「小生がドアノブに手をかけた瞬間、チリのあの発言が聞こえてしまったもので。
あんな会話が始まってしまってからドアを開けるわけにはいかないでしょう」
それはそうだ。誰であってもそうすると思う。
そしてこの人は、恐らく自分とチリの会話を全て聞いていたのだろう。
ーーああ、また嫌な予感がする。
念の為ハッサクに聞いておこう。
「…では、先ほどの会話を全て聞いていたのですか」
「勿論ですよ。その上でアオキ、貴方に問います」
「…何でしょう」
「チリと、どうなりたいですか」
予想通りの問いだ。当たってほしくない嫌な予感ほど当たるのは何故だろうか。
そして、それを聞いてくると言うことは、この人は自分の相談相手になると言うことだ。それだけは勘弁して欲しい。
事実ハッサクは頼りになる。伊達にアカデミーの教師をやってないので、相談事はハッサクに頼るのが一番だろう。
しかし、この問題にだけは介入してほしくなかった。その真意は自分でもわからないが、とにかく自分で何とかしなければいけないと感じていた。
どうにかしてでも、断らなければ。
「…貴方に恋愛相談する気はないです」
とりあえず、それとなく断りを入れてみる。
「そんなこと言わずに。小生、これでも恋愛相談には慣れているのですよ。
何せ、様々な年代のアカデミー生から相談を受けますからね。
アオキくらいの歳の相談にも対応できますですよ」
やはりそう簡単には引かないか。
しかし、自分にも譲れないものがある。ここは自分も引くわけにはいかない。
「…とても有難い話ですが、遠慮します」
「自分の気持ちを整理しないのですか?」
「整理する方法に、貴方に相談するという手段は使いません」
「人に聞いてもらうことで、整理できることもあるかもしれないですよ」
「これはあくまで自分の問題。自力で解決策を模索します」
「貴方を馬鹿にしているわけではありませんが、アオキにこの問題を解決できるとは到底思えませんですよ」
「……」
図星だった。そんなこと、自分が一番わかっている。それでも、この問題は自力で解決したいのだ。
もっとも、自分の中の何が、自分をそんな気持ちにしているのかはわからないが。
そんな自分に構わず、ハッサクは言葉を続ける。
「…アオキ。貴方が一番わかっているでしょう?
貴方はもう少し、人に相談すべきです」
これも、ハッサクなりの気遣いなのだろう。
しかし、それは今の自分にとって一番煩わしかった。
「…人に相談したところで、良い方向に転がるとは限るらない」
「相談して悪い方向に転がるとも限りませんが?」
自分の発言にすかさず対抗するハッサク。
現状、明らかにハッサクの方が優勢だ。ハッサクが引かない限り自分に勝ち目はないだろう。
しかし、何故そこまでしてハッサクは介入してこようとするのか。
今は些細な疑問一つでもいち早く解決したいので、疑問に思ったことはすぐさま口にする。
「…そこまで自分に絡む理由は」
「単純ですよ。このままではチリもアオキも、仕事に支障が出かねそうなのでね。それは同じ四天王として困ります。
ポピーにも心配をかけかねない」
何ともごもっともな理由だ。反論する余地もない。
確かに、このままチリとギクシャクした関係で居ては、四天王戦のシステム上デメリットしかない。何せ、ハッサクを呼ぶ人がいないも同然になるからだ。
まあ、ハッサクまで辿り着けさせなければいいのだが、遅かれ早かれこの問題を解決させなければならないのなら、それは早い方がいいだろう。
しかしそれだけだろうか。ハッサクが絡んでくる理由は。
他に理由があるようで気が気でならないが、ハッサクはこれ以上理由を述べないだろう。となるとこの疑問はこれ以上考えるだけ無駄だ。
「…まあ、アオキがそこまで相談したくないと言うのなら良いんですがね」
突然どうした。急に一線を引き始めたハッサクに戸惑う。
自分の粘り勝ちということでいいのだろうか。ますます疑問が残る。
「しかし小生も、聞いてしまった以上は乗りかかった船だと思っていますので、アオキが相談したくなった時に声かけてくださいですよ。いつでも乗ってあげますから」
「…ありがとうございます」
助かった。ひとまず安心だ。これで自分からハッサクに相談事を持ち掛けない限り、ハッサクはもう介入してこないだろう。
しかし、何故こんなに自力で解決したいのか。この気持ちは何なのだろう。
これには、自分でもわからない"本心"が関係しているのだろうか。
こんな仕事場で考えたって仕方ない。今は残りの業務に手をつけよう。
チラリと見てみれば、ハッサクは既に残りの業務に取り掛かっていた。何とも切り替えの早い男だ。
これからのことは後から考えよう。
それからでもまだ遅くないはずだ。
次の日、朝の四天王専用部屋。
まだ就業時間には1時間半ほどある為、四天王は勿論、他のリーグ社員も殆ど来ていなかった。
昨日はあの後、結局仕事が全然手につかなかった為、わざわざ今朝早くからリーグに来て、仕事に手をつけているというわけだ。
みんなはまだ来ないだろう。先程淹れたコーヒーに口をつけながら、仕事で来ているとはいえ、一人静かな空間に気持ちを落ち着かせていた。
すると突然、ノックもなしに扉が開く。
驚きのあまり一瞬ビクッと肩が上がったが、その後すぐ聞こえてきた可愛らしい幼い声に落ち着きを取り戻す。
「おじちゃん!おはようですの!」
「ポピーさん、おはようございます。朝早いですね」
「おじちゃんもはやいですの!」
「仕事が立て込んでまして…」
「いそがしいのですね」
生憎子供の扱いは不慣れな為、正直ポピーと二人きりは気まずいと思うことがあるのだが、今は気持ち的にポピーと話すのが一番楽だった。
しかし子供は意外と聡いもので
「おじちゃん、げんきないですの?」
ポピーがそう聞いてきた。
「そう見えますか」
「はい…いつもより、おかおがつらそうですの」
「そうですか…」
聡い子供に対して、嘘は吐くだけ無駄だな。そう思い、元気のないことを否定しなかった。事実、体は思うように動いていない。思っている以上に自分は疲弊しているのだろう。
「そうだ!おじちゃん、あたままえにだしてください!」
「頭、ですか?」
「はい!ポピーがあたまなでなでしてあげますの!」
突然何を言い出すんだ、この幼子は。
子供は時に突拍子のないことを言い出す。こういうところが子供の扱いが不慣れな原因の一つだ。
頭を差し出すか悩んでいる自分に構わず「はやく〜」と手招きする幼子。ここで断るわけにもいかず、おずおずと頭をポピーに差し出した。
「よしよし〜!おじちゃん、おしごとがんばっててえらい、えらいですの!」
「…ありがとうございます」
正直こんなことで、と思ったが、心身ともに少し楽になったのは気のせいではないだろう。子供の力とは凄いものだ。
「おじちゃん、またつらくなっちゃったら、ポピーがいつでもなでなでしますので!」
「…では、またその時にお願いします」
「はーい!」と笑顔で元気に返事をするポピー。その笑顔を見て、自分もつい頬が緩んでしまう。
「ではポピー、そろそろしさつにいってきますの!」
「今日は視察があるんですか?」
「はい!オモダカおねえちゃんとジムしさつですの!」
『オモダカ』という名前が挙がった瞬間、自分の顔が引き攣った感覚を覚えた。出来れば最低限聞きたくない、考えたくない人の名前だ。
「しさつからかえったら、オモダカおねえちゃんといっしょにおえかきするんですの!」
「それは、良いですね」
「はい!ポピー、このひをたのしみにしてました!」
そう楽しそうに話をするポピーは、オモダカにとても良く可愛がられている。ポピーに向ける微笑みを、たまには自分たちにも向けて欲しいものだ。
仮に今の自分とチリのギクシャクした関係を知ったら、あの人はどう出るのだろう。恐らくポピーに向ける笑みとは全く違う、冷め切った笑みを向けてくるに違いない。考えるだけで肝が冷える。
そんなことを考える自分の緊張が伝わったのか、
「でもいまは…おじちゃんのことがしんぱいです」
さっきまで楽しそうにしていたポピーがしょんぼりとした顔で言ってきた。子供にこんな顔をさせるとは…。昨日ハッサクが言っていた言葉がリフレインする。
やはり、早急にこの問題を解決せねば。これ以上みんなに心配はかけられない。
「自分なら、大丈夫ですよ」
ひとまず、ポピーに笑顔に戻ってもらう為、安心してもらえそうな言葉をかける。
「ほんとうですの?」と疑問を口にしながらも、少し笑顔を取り戻したポピーに安堵し、ポピーの頭を優しく撫でる。
「おじちゃん。もしポピーがいないあいだにまたつらくなっちゃったら、そのときはチリちゃんかハッサクおじちゃんをたよるのですよ!」
次は何を言い出したかと思えば、ポピーの口から続けて、今一番聞きたくない名前と、今一番頼りたくない名前が挙がる。
オモダカと言い、さっきから何なんだ。
しかしポピーに非は全くないので、こればかりは本当に仕方ない。自分の気の持ち様だ。
事情を知らないであろうポピーに、またよからぬ心配をかけさせないようにする為に「そうします」と返事をしておく。
ポピーはその返事を聞いて満足したのか、「ではいってきますの!」と元気よく挨拶して部屋を出て行った。
再び静かになった部屋で、また一口コーヒーを飲む。
はあ…と何度目かわからないため息を吐き、仕事に手をつけようと書類を手に取る。
しかし脳内で、同僚達に言われた言葉がフラッシュバックし始めた。
「アオキさん、好きやで」
「チリと、どうなりたいですか」
「おじちゃん、げんきないですの?」
ーー全く、勘弁してくれ。これではまた仕事に手がつかなくなるではないか。
仕方ない。一旦仕事は置いて、今直面している問題について整理しよう。
チリのことは嫌いではないが、そもそも自分とあの人では住む世界が違いすぎる。それに、一回り年上の男性なんかが彼女に好意を抱いていいのだろうか。周りからどう思われる?
そんなことを考えていたら、再びチリの言葉がフラッシュバックする。
「チリちゃん、アオキさんの本心聞いとらん」
ーー"本心"。自分はチリのことを、本当はどう思っているのだろう。
「本心…。俺の本心、か…」
そう声に出して呟き、コーヒーをもう一口含んだ瞬間ーー
「ふーん、アオキさん、1人ん時は自分のこと『俺』って言うんやねえ」
「ブフォッ!!
ち、チリさん!?」
「んふふ、またひとつアオキさんのこと知れたわ」
後ろから突然声が聞こえ、驚きのあまりに思わずコーヒーを吹き出してしまい、モニターと手元に置いていた書類が汚れてしまった。
「あーあ。コーヒー吹き出して汚してもうたなあ」
この人、一体いつからこの部屋にいたんだ。
最初から?それともポピーと話している間?流石にポピーがいなくなった後ではないだろう。人が出入りする音で気が付くはずだ。
となると、ポピーとの会話を聞かれていた可能性が高い。
冷や汗が流れ出てくる自分とは対照的に、彼女は涼しげな顔でニヤニヤとこちらを見下ろしてくる。
「コーヒー少なくなってもうたやろ。新しいの淹れてきますわ」
「…ありがとうございます」
今はあまりチリと話したくはないが、自分は汚した机を拭かなければならないし、ここはとりあえずチリの好意に甘えよう。
「よーし、チリちゃん特製ブレンドコーヒー入れたるで〜!」
四天王専用の給湯室からそう意気込みを入れる大声が聞こえ、反射的に自分も給湯室へ向かう。
「あ?どしたん、アオキさん」
「…コーヒー。やっぱり自分で淹れます」
流石に普通にコーヒーを淹れてくれるだけだと思うが、もし何か変なものを入れられたら堪ったものじゃない。
しかしチリは不服そうに頬を膨らませ、
「いやや!チリちゃんがアオキさんのコーヒー淹れる!」
と、まるで幼女の様に駄々を捏ねてきた。
これではきっと何を言っても無駄だろう。そう思い
「わかりました。ただし、変なことはしないでくださいね」
と一応忠告しておく。
「チリちゃんそこまでワルやないわ!」と怒鳴り声が返ってくるが、それに構わず仕事部屋に戻り、机の清掃を再開する。
机を拭いていると、ふと先ほどのチリが脳裏に浮かぶ。ポピーくらいの幼子の駄々の捏ね方。年不相応な姿だった彼女が頭から離れてくれない。
そしてその姿を、不覚にも『可愛い』と思ってしまった自分がいる。
ダメだ。変に意識してしまっているからだろう。
こんなおじさんが彼女に抱いてはいけない感情だ。間違いなくセクハラに値する。
この感情を振り払う様に首を振り、早急に自分の脳内からかき消した。
「アオキさん、好きやで」
そうチリに告白されてからどのくらい経ったか。いや、実際日は全然経っていない。既に1週間以上経った感覚がしているが、せいぜい2日と言ったところだろう。
そんな考え事すら許さない、と言わんばかりの冷め切った笑顔をこちらに向けてくる女性が今目の前にいる。
ポピーと会話したあの日に、脳内に浮かんでは汗をかくほど恐怖した笑顔。まさかこんなにもすぐにこの笑顔と対峙する時が来るとは。
何故こうなったのかというと、至って単純な話だ。
自分はこの2日間、チリが確実に仕事場にいるであろう時間帯は、チャンプルタウンの方に身を置いてタスクをこなし、流石にもう帰っただろうというタイミングでリーグに行き、リーグでしか出来ないタスクをこなしてきた。
幸い面接突破者が一人もいなかったからこそ出来たことだ。
しかし他人から考えてみれば、この行動には違和感がありすぎるのだろう。何故このような行動をとっているのか、その真意を確かめる為に目の前の女性・オモダカは自分を午前中のポケモンリーグに呼んだ、ということだ。
「貴方がこの2日、営業部に一度も顔を出していないと聞きまして。私、現在貴方にそこまで多忙な仕事を任せた覚えはありませんが、どういうことなのでしょうか」
自分の本業は営業だ。ジムの方でチャレンジャーが出てこない限り、自分はポケモンリーグで仕事をするのが当たり前だろう。
しかし、自分は特に意味も無しにチャンプルタウンで仕事をしていたのだ。上司からすれば然るべき行為だ。
「…申し訳ありません」
ひとまず一言、謝罪の言葉を口にする。
「私が今聞きたいのは謝罪文ではありません。貴方の行動理由です」
謝罪文を軽くあしらわれ、更に問い詰めてくる。
『チリと気まずい関係だから』という私情でリーグに顔を出していないなんて知られたら、間違いなく鉄槌が下される。
しかしこれ以外に理由がない。どう答えようか。
頭を回転させ、どうにか理由を考えていると
「…では、質問内容を変えますね」
と言ってきた。
次は何だ。良からぬことではないことは承知しているが。
オモダカはテーブルに置かれた紅茶を口に含み、息をひとつ吐いてから、完全に冷めた眼差しを自分に向けて口を開いた。
「貴方、露骨にチリを避けていますよね。何故ですか」
なんだ。最初から知っているではないか。
しかし何故チリだと知っている。ポピーやハッサクの可能性だってあるだろうに。
この人はエスパータイプか何かか。
それとも誰かがこの人に状況を伝えたか。
この人はどこまで知っているのだろうか。
脳内が疑問と焦りで交差する。
この人だけには今のチリとの関係を知られたくないが、全て知られるのも時間の問題だろう。
「困るのですよ。同僚同士が仲違いになってしまうのは。何故、チリを避けているのです」
知られない為に、嘘を吐くしかない。
「…避けてないです」
「いいえ、避けています」
何故そこまで避けていると強く断言できる?やはり全て知っているのか。これはひとつ聞く必要がある。
「貴方に何がわかるんですか」
遠回しに質問してみることにした。
「ハッサクからある程度のことを聞きました。ポピーが前の視察の時、凄く心配してましてね。チリも最近様子がおかしい」
ハッサクが?彼は口が硬い。そう易々と暴露しないはずだ。
となると時系列から考えて、ポピーが心配していたので、オモダカ直々にハッサクに話を聞きに行ったというところだろう。そして恐らくハッサクは全てを話してはいない。
「このままでは仕事に支障が出るのですよ。四天王たるもの、ポケモンバトルにまで支障が出るのはあってはならないこと。わかっているでしょう?
なので迅速に解決を願いたいのですが、それにはアオキ、貴方が行動を起こさなければならない。
しかし、生憎今のアオキにはその意思が感じられないので、ここに呼ばせていただきました」
成程。しかしこの人も、そう簡単に自分が動くわけがないことを知っているだろう。つまりこの人が出る行動はーー
「…自分を脅す気ですか」
脅して、無理矢理でも自分を動かす。それだろうと思ったが
「貴方は、脅さないと行動しないのですか」
どうやらこの人から脅す気はなかったと取れる。
余計なことを言ってしまった。自発的に脅す気かと問いてしまったら、あたかも自ら脅してくれと頼んだようなものだ。
事実この人もそう捉え、言葉を返してきている。
しかし脅されたところで、自分は未だにどう行動に移せばいいかわからない。何せ何も整理がついていないのだから。
この人は自分に行動を起こしてほしいと言った。
この人に聞けば、今の自分が何をすべきか教えてくれるだろうか。
「自分は、何を行動すればいいんですか」
「決まっているでしょう。チリと話し合いなさい」
この人、全て知っているのでは?
あたかも何も知らないふりをして自分に問いただしてきたのだと考えたら胸糞悪い。
「はあ…」とため息を吐けば
「とにかく、私からは以上です。脅して欲しいならいくらでも脅してあげますがね」
と、悍ましい台詞を笑顔で口から出してきた。
「勘弁してください…」
片手で顔を覆い「それだけはやめてほしい」という意の懇願を口にしてその場を後にした。
部屋に戻ると誰もいなかった。
スケジュール表を見ると、今日はチリとポピーでジム視察に行っており、そのまま自宅に直帰と書いてあった。ハッサクはアカデミーだろう。
丁度良い。今日はこのままここで仕事をこなそう。営業部にも顔を出さなければ。
ここ数日手につかず、疎かになっていた仕事を順にこなしていくと、いつの間にか窓から夕陽が差し込んでくる時刻になっていた。
ふいにコンコン、とノックされた扉はすぐに開く。
「おや、アオキ」
「ハッサクさん。お疲れ様です」
「お疲れ様ですよ」
ハッサクだった。アカデミーの授業が終わり、こちらで残りの業務をしに来たのだろう。
「酷い顔してますですよ。午前中、トップにみっちり絞られでもしたんでしょう」
何故午前中アカデミーに居たこの人が、そのことを知っているんだ。
「昨日、トップから質問されましてね。あの笑顔の前では流石の小生も妥協してしまい…あまり口外したく無かったのですが、少しだけトップに話してしまいました。
そうしたら彼女、明日の午前にアオキを問い詰める、と」
自分の疑問が伝わったのか、ハッサクはそう語る。
やはり先ほど立てた仮説通りだったか。それにしてもハッサクでも、トップの圧には勝てないこともあるんだな、とどうでも良いことを考えていた矢先、
「アオキ、いい加減事を進めてみては?」
そう発言してきた。
「いい加減、とは」
「もう既に、チリとどうなりたいか決まっているのでしょう?素直になってみては?
どうせ貴方のことです。自分とチリでは釣り合わないだの、周りの目線が怖いだの、そんなこと考えているのでしょう。
貴方がチリを避けている理由は、本心からではない」
ハッサクの言っていることの意味が全くわからない。
自分がチリとどうなりたいか?そんなのまだ決まっていないから現状維持しているのではないか。
それに今この男、"本心"と言ったか。
自分ですらまだわかっていない自分の"本心"の何を知っていると言うんだ、彼は。
「…誰も彼も、あたかも自分をわかっているかのように告げてきますね」
そう、嫌味たらしく呟いてみた。
「わかりやすいですからね」
「は?」
わかりやすい?自分が?
ますますハッサクがわからない。
自分の何をハッサクに見抜かれたというのだ。
「アオキの、チリを見る目はわかりやすいですから。生憎チリは緊張のせいか気付いてませんがね」
自分のチリを見る目?
チリさんが緊張?
さっきからハッサクの言っていることがひとつも処理出来ないし、何から聞くべきなのかもわからない。
「あの…全てにおいて理解が出来ません」
「おや、わかっていないのですか。
アオキのチリを見る目は慈愛で満ちていますし、チリはアオキと話す時だけ凄く緊張しているのですよ。
それに気付いていないとは。アオキもまた緊張していたのですね。
なんだ。最初から小生の助けなど要らなかったではないですか。全く、貴方達は世話が焼ける」
待ってくれ。勝手に自分達について語り始めたかと思ったら、最後にはまだ何も解決していないこの問題を締め括ろうとしているではないか。
「あの、なに一人で納得しているんですか」
「だってそうでしょう。アオキも早く本心に気付きなさい。
そうすれば、この問題はすぐ解決しますですよ」
ーー"本心"。ここ数日、ずっと自分を悩ませてきたもの。
先ほどのハッサクの台詞が脳内を巡る。
「もう既に、チリとどうなりたいか決まっているのでしょう。素直になってみては?」
つまりこのことから、チリとどうなりたいか既に決めている自分の心こそ"本心"なのだろう。
ゆっくりと瞼を閉じて、心を落ち着かせた後"本心"と向き合ってみる。
ーーああ。そうか。
自分は"本心"を閉ざしていたんだ。
周りからどう思われるか怖くて、周りの目ばかりを気にして、今の今まで"本心"と全く向き合っていなかったんだ。
「俺の、本心は…」
そう口に出した瞬間、
「おっと。ここで口に出すのはお辞めなさい。
帰宅後にもう一度、ゆっくりと向き合ってみるといいでしょう」
ハッサクにそう阻止された。
確かに、今ここで発するべき言葉ではないな。そう思い「はい」と返事だけしておいた。
チャンプルタウンにある自宅に帰り、宝食堂でテイクアウトした焼きおにぎりを頬張りながら手持ちポケモンにもご飯を与え、シャワーを浴びる。
いつの間にか23時を回っていた。
髪を乾かし、ソファに腰をかける。背もたれに背中を預けて天井を見上げると、部屋の明かりが目に入った。
眩しい。まるで彼女の笑顔の様。彼女を彷彿させる明るい光に向かって一言「チリさん…」と呟いてみる。
彼女と初めて出会ったのは、彼女がオモダカに連れられて四天王部屋に訪れた時だった、と思う。
「チリ言います。チャンピオンテスト一次試験の面接官と、四天王の露払いを務めることになったさかい。よろしゅう願います」
コガネ弁と呼ばれる方言でつらつらと自己紹介を済ませた彼女。出身は恐らくジョウト地方だろう。出身地方は違えど、自分もシンオウ地方から遥々パルデアに来た身の為、彼女に少し親近感が湧いた。
…それにしても、ここで自分は少し彼女に違和感を覚えた。この顔合わせの数日前に、同じくコガネ弁で話す女性と出会った記憶があるからだ。
しかしあの時は自分は業務のことで頭がいっぱいだった為、その女性のことは全然覚えていなかった。
確かドオーを連れていた気がするが…
「ハッサクです。よろしくお願いしますですよ」
「おん、ハッサクさんよろしゅう」
そんなことを考えていると、ハッサクが自己紹介をしていた為、自分も後に続き自己紹介をする。
「どうも、アオキで「その方言、もしやジョウト地方出身でしょうか」
「そうみたいですよ。パルデアの観光中だった彼女に声をかけまして」
自分の声は、ハッサクに飲み込まれてしまった。オモダカにも聞こえてなかったようで、ハッサクに続く。
「ほう!小生もジョウト出身なのですよ!奇遇ですね」
ああ。そういえばこの人も他地方から来た者だったな。
いや。そんなことより、ハッサクの話が終わったタイミングでもう一度自己紹介をしなければ。
そう思い声を出そうとすると、
「なあ。そこの、アオキさん?ちゅう人が挨拶してくれとるから、その話後回しでええ?」
そうチリが発言してきた。
びっくりした。
「おや、そうなのですか」「アオキ、もっと大きな声を出しなさい」等、二人の小言が聞こえた気がするが、そんなこと心底どうでもよかった。
自分の声が、届いていた。
こんなこと初めてだった。
普段でも聞こえてないことがあるらしい自分の声。他の人と発声タイミングが重なったら尚更だ。
それなのに、彼女は自分の声を聞いてくれていた。凄く嬉しかった。
「アオキさんもよろしゅうな」
「は、はい。よろしくお願いします」
この時、ちゃんと挨拶を返せていたか不安だった。
初めてのことに気持ちが昂っており、声は上擦り、自分の表情はにやけて、相当気持ち悪い印象を与えていたかもしれない。
その後彼女は一旦ジョウトに帰った。何せ観光中だったのだ。そんな彼女に声をかけてここに連れてくるこの上司の脳内はどうなっているんだ。
次に彼女がパルデアに降りた時は、テーブルシティの外れにある賃借アパートに大量の荷物を置き、ポケモンリーグ専業という形で勤め始めた。
自分もリーグ勤めなので、時々彼女と顔を合わせることがあったが、日常的に初の顔合わせの時に起きたことと同じことが起きた。
例えば、いつも通りデスクワークしているとお腹が空いてきた感覚を覚えたので、一言「お腹が空いた…」と小声で呟いた時だ。
この声は誰にも聞こえていないと思っていた。発言者の自分ですらよく聞き取れない声量だったからだ。それなのに、
「なはは。アオキさん腹減ったん?」
そう、チリは笑いながら声をかけてきたのだ。
まさかと思い、思わず「今の声聞こえたんですか」と聞いてみると「逆に聞こえてないと思ったん?」と返ってきた。
自分はそんなに大きな声で呟いていただろうか。そう思ったが「ポピーは何も聞こえなかったですの」という、チリのすぐ後に四天王に就任した幼子の声が聞こえたので、やはりそうだよな…と考えるのをやめた。
また、出張からリーグに戻ってきた時。誰もいない静かな廊下を歩きながら今日の反省をする。
「やってしまったな…」と一言声に出すと、後ろから「アオキさーん!」と元気な声が足音と同時に聞こえてきた。
チリだ。
流石のチリも、今の呟きは聞こえていないだろう。そう思っていた矢先
「んふふ。アオキさん、何をやらかしたんです?」
そう聞いてきた。
怖くなった。流石におかしい。地獄耳すぎる。
もしや盗聴器でも仕込まれているのではないか。そう考えたこともあった。
しかし、不思議と悪い気はしなかった。
だって自分のどんな声も彼女は、彼女"だけ"は気付いてくれるのだ。
そう思ったらもうダメだった。彼女は自分の"特別"になってしまったのだ。
自分の声に唯一気づいてくれる"特別な人"。
その気持ちは、いつからかーーああ。そうか。
「俺は、彼女が好きなんだ」
何てことない、少女漫画のような恋の始まり方をした。
初めてだった。こんなに胸をドキドキさせたのは。
告白なんて何度もされすぎてて、やがて「またか…」と半ば呆れ気味で断ることが当たり前になった。
このまま一生恋愛なんて、人からの好意なんて「めんどー」と思いながら、誰にも恋せずポケモンと一緒に生きていくんだろうなと思っていた。
そう。あの日までは。
昔、一度家族でパルデアに旅行しに来たことがあった。その時出会った、ジョウト地方とは姿の違うパルデアのウパーに心を奪われ、持っていた心許ない数のモンスターボールで何とか捕まえた。その日からパルデアウパーはチリちゃんの大切な相棒となった。
やがて長い年月が経ち、今ではドオーに進化した相棒は、ずっとチリちゃんのそばにいてくれている。
たまにはコイツも故郷に帰りたいだろう。そう思い、十数年ぶりにパルデアに一人で観光しに行った。
「久々やなー!何年振りやろ!」
「ドオ〜」
「ドオーも久々の故郷恋しいやろ」
「ドオ!」
ドオーと言葉を交わしながら、近くに町がないかパルデア地方を探索していると、名前のわからない町とクレープの屋台が見えてきた。
「そういや小腹空いたなあ。ドオー、クレープ食おうか」
「ドー!」
ドオーの気の抜けた返事に「ふふっ」と笑みを溢しながら、ポケットに入れた財布を取り出そうとポケットに手を突っ込む。
しかし、ポケットに財布は入っていなかった。
「あ、あれ?ない、あらへん!なして!?」
「ドオー?」
「ドオー…どないしよ…チリちゃん、財布落としてもうた…」
「……ドオー」
わかっているのかいないのか、間の抜けそうな声を発するドオーにガバリと抱きつく。
「あかーん!いつもならドオーのその間抜けな声と顔に癒されるんやけど、今は全く癒されへーん!」
焦りで胸の動悸が速くなる。どうしたものか。
落とした財布には結構な額の金銭が入っている。
仮に誰か拾って交番に届けていてくれたとしても、中身が盗まれている可能性が高いだろう。
それなら、誰かが拾う前に自分で探し見つけるまでだ。
「よっしゃドオー!来た道戻って財布探すで!」
「ドオー」
そう意気込み、草木をかき分けたりドオーに小さな湖に潜って探してもらったりと、隅々まで財布を探すが、全然見つかる気配がしない。
「あぁ…しまいや、チリちゃんの人生…このままジョウトにも帰れず、ホテルにも泊まれず、ここで野垂れ死にするんや…」
最悪の事態を口にしながら、膝から道路に倒れ込む。
すると、後ろから渋めの男性の声が聞こえてきた。
「あの、大丈夫ですか。こんなところで倒れると野生のポケモンに襲われますよ」
使い古されたビジネスバッグを手に持った、スーツ姿の猫背の男性だ。顔は、凄く疲れ果てているように感じた。
「あぁ…心配かけてすんません。どこかで財布落としてもうて…もう死ぬしかないと思っとったところなんです」
「発想が飛びすぎでは…」
ひとまず男性に事情を説明すると、男性の隣に何かを咥えたムクホークが寄ってきた。
「ピー」
「…感謝します、ムクホーク」
「?」
ムクホークが何かしたのだろうか。そう疑問符を浮かべていると、男性がムクホークが咥えていた物を手に取り、こちらに差し出してきた。
「これ、貴女のですか?」
それは何と間違えるはずのない、ドオーを彷彿させる茶色ベースの色をしたチリちゃんの財布だった。
「そ、それや!チリちゃんの財布!見つけてくれたん?おおきに!」
「お礼ならムクホークに。財布を見つけたのも、財布を持って持ち主の方へ飛び出したのもこの子ですから。自分はこの子を追いかけてきただけです」
「そなんや…ムクホークおおきに!」
お礼を言うとムクホークは「ピー!」と返事をする。何とも躾されたポケモンだ。この子もトレーナーも只者じゃないなと、長年ポケモンと過ごしてきたチリちゃんの勘がそう告げる。
「あの、何かさせてください!このままじゃチリちゃんの気が済まんので!」
「いえ、お気になさらず。当然のことをしたまでなので」
やんわりと断られるが、引くわけにもいかない。彼は命の恩人なのだ。
「でもほんまに助かったんです。見つけてもらえてへんかったら、チリちゃんほんまに死んでたかもしらんから」
「ですから発想が…」
何とか彼を引き止めようとする。
すると彼のスマホだろうか。ロトッと通知音が聞こえた。
「すみません。失礼します。」
そう断りを入れて彼はスマホに目を通した後「はあ…」とため息を吐く。
「何かあったんです?」
「仕事の方でトラブルがあったみたいで。自分はここで失礼します」
「え、あ、はい」
仕事と言われたら、これ以上引き留めるわけにはいかない。呆気に取られながら返事をすると、彼は「ムクホーク」と声をかける
「至急ポケモンリーグへ。飛べますか」
「ピー!」
ムクホークが大きな翼を広げ飛び立つ姿勢を取るが、そんなことより彼の口から出た用語が引っかかった。
『ポケモンリーグ』。今彼はそう言った。
ポケモンリーグに何の用がある?
ポケモンリーグはポケモントレーナーにとって最高峰の場所だ。パルデア以外の地方のポケモンリーグは、チャンピオンロードを通り抜けないと行くことの出来ない場所の為、相当な実力がないと辿り着けない。チリちゃんにとってはそんな場所だ。
そんなところに彼はこれから向かうのだ。相当な実力者であることに間違いない。
ボーっと彼を見ながらそんなことを考えていると「ではこれにて」と彼の声が聞こえてきた。
慌てて意識を引き戻し「あのっ、聞きたいこと沢山っ、せめて名前…!」と声に出すが、彼には届かなかった。
その後すぐ、彼は「はっ!」と声を発しながら無駄な動きひとつ無しに、綺麗なフォームでムクホークに飛び乗り、空を揚々と飛びながら去っていった。
その一連の動きは、チリちゃんの心を盗んでいくには十分すぎる姿だった。
「なんや、今の…。優しくて、かっこええ…。ポケモンリーグっちゅうことは、バトルだって相当強いはずや…」
そんなチリちゃんの呟きに「ドオ?」と半分蚊帳の外になっていたドオーが返事するが、その間抜けた声はチリちゃんの耳には入ってこなかった。
胸がうるさいくらいドキドキ鳴っている。
こんな感情、とっくの昔に捨てたはずだと思ってたのに、今更なんやねん。
この気持ちは、紛れもなく"恋"そのものだった。
チリちゃんは、名前も知らない男の人に"恋"をした。
あの男の人にまた会えないかなと期待を胸に膨らませ、当時の予定より旅行期間を延ばしてパルデアの観光を続けた。
道中、ポケモントレーナー数人とバトルもした。
すると「先ほどのバトル、拝見させていただきました。素晴らしい才能の持ち主ですね」と、ポケモンリーグのトップの座に立つオモダカと名乗る女性が声をかけてきた。
パルデア地方はあまりポケモンバトルが盛んではないようで、ポケモンリーグはいわゆる人材不足らしい。四天王にもどうやら二枠空きがあるらしく、オモダカに「四天王に興味はないか」と話を持ちかけられた。
チャンスだと思った。四天王。ポケモンリーグ。そこにはチリちゃんがもう一度会いたい"あの人"がいるかもしれない。
そう思ったら、オモダカの話を断るなんて考えなど浮かばず、すぐに話を承諾した。
「それでは早速」とオモダカにポケモンリーグに連れられ、現時点で既に決まっている四天王のうち二人と顔合わせをすることになった。
そこでチリちゃんは言葉を失った。
目に入った四天王の二人のうち一人は、間違えるはずもない。まさにあの時チリちゃんが恋をした"あの人"だったのだ。
嘘やろ。四天王やったん?
確かに相当な実力者だとは思っていた。しかしまさか、四天王だったとは。
これからこの人と一緒に四天王をやれるのか。そう考えたらまた胸が鼓動を速め、ドキドキとうるさく鳴り始める。
あかん、あかん。自己紹介せな。
「チリ言います。チャンピオンテスト一次試験の面接官と、四天王の露払いを務めることになったさかい。よろしゅう願います」
ちゃんと自己紹介できただろうか。変なこと言ってないだろうか。不安になったが、その後すぐ「ハッサク」と名乗る金髪の男性の自己紹介に入った為、大丈夫だったのだろうと安堵する。
ハッサクに「よろしゅう」と挨拶を返し、次自己紹介をしてくれるであろう彼の方を見る。
彼は何て言う名前なんだろう。
ずっと知りたかった名前をついに聞くことができる。
チリちゃんは神経を耳に全集中させ、彼の声が聞こえてくるのを待った。
「どうも、アオキです」
アオキ。アオキさんって言うんや。ようやく名前を知れた。
アオキの声に誰かの声が重なった気がしたし、今もなお誰かと誰かが話している声がするが、そんなもの全く耳に入ってこない。
チリちゃんは、アオキの全てに夢中になっていた。
アオキの声はどうやら小さいらしい。そのせいか、よくハッサクに説教を受けていた。
でもチリちゃんはそう思えなかった。だって聞こえるのだ。彼のどんな声も、耳に届くのだ。
そしてその声は、ひどく心地が良かった。ずっと聞いていたい。そんな声。
あかん。チリちゃん、この人にゾッコンや。
もう戻れへん。チリちゃんはこの人が、アオキさんが
「大好き」
ナッペ山の冷えた空気が少し流れ込んでくるチャンプルタウンの朝。
6時に起きて、顔を洗い、朝支度を済ませ、ポケモンと一緒に朝ご飯を食べる。なんてことない、いつもと同じ日常。
しかし、自分の考えていることだけいつもと違う。
いつもなら『仕事が面倒』『今日はどんな無理難題を上司に言われるのか』『今日はジム挑戦者は来るのか』など、仕事のことを考える朝だが、今日だけは違った。
胸が必要以上に鼓動を刻んでいる。
こんなことに思いを馳せたのは何十年ぶりだろう。
もう、こんな感情を胸に抱くことなんて無いと思っていた。
もう、恋なんてこれから先もすること無いと思っていた。
しかし人生長く生きていれば、予想外のことも沢山起きるものだ。
どんな時も平凡を求める自分にとっては、あまり起きてほしくないことなのだが、今回の予想外の出来事だけは『起きてほしくない』と思わなかった。
こんなに職場に行きたいと思ったことは一度もない。
そう思えるくらい、しっかり伝えられるかの不安1割、これから起こることへの楽しみ9割で心が満たされている。
ーー自分は今日、チリさんに告白する。
いつもよりだいぶ早くポケモンリーグに着いてしまった。
気持ちがソワソワして落ち着かないので、空でも眺めて心を落ち着けるかと思い立ち、エレベーターで屋上へ行く。
屋上にあるベンチに腰掛け、空を見上げる。雲ひとつない、清々しいくらい気持ち良い空をしていた。
せっかくならと思い、連れてきていた四天王用のポケモン達をボールから出した。ポケモン達は各々好きなように行動し始める。
普段狭いところに閉じ込められてばかりで、自由に空を飛び回ることが殆ど無い子達だ。今のこの時間が至高に違いない。
目を細めてポケモン達を眺めていると、屋上の扉が開いた。
屋上に人が来ることは殆ど無いので「珍しい」と思い、扉の方に目をやると、そこには今一番会いたい女性が、こちらに手を振って寄ってきていた。
「まいど、チリちゃんやで」
「どうも、チリさん」
いつもと変わらない挨拶を交わす。
「エレベーターに乗るアオキさん見えたから、チリちゃんも走って次のエレベーター乗ったんやけど、仕事場にアオキさんおらんのやもん。せやからここにおるんかな思ったんよ」
ひこうタイプの手持ちポケモン達に、ここで自由行動時間を与える為に、自分が時々屋上に行っていることは四天王内で周知の事実だ。
チリは恐らくそのことを言っているのだろう。
「チリちゃんも座ってええ?」
「どうぞ」
チリはそう言って自分の左隣に腰を下ろし、自分と同じように空を飛び回るポケモン達を見上げていた。
「元気な子らやなあ」
「そうですね」
「ご主人様と大違いやな」
そう何かと揶揄われるのもいつものことだった。
この"いつも"が、これからもずっと続けば良いのに。
そう思っていると、チリが少し声を震わせて問いかけてきた。
「なあ、アオキさん」
「はい」
「そろそろ、本心聞いてええ?」
遂に来た。チリに自分の想いを伝える時が。
深く息を振って、胸を落ち着かせる。よし、と意気込みチリの方に目をやると、チリは俯いており、かすかに肩を震わせていた。
「…チリさん?」
不安になり、チリの名前を呼ぶ。
「あぁ、堪忍なぁ」
そう涙声で言う彼女の声が耳に入ってきた。
何かしてしまっただろうか。さっきまではいつもの彼女だったはずだ。
「…あんな、チリちゃん、ずっと待ってたんよ」
チリが、ポツポツと話し始めた。
「いつ本心聞かせてくれるかなって。けどアオキさん、最近ずっとチリちゃんのこと避けとったよな。
そのせいで堕とそうと思っても堕とせんかったし」
ごもっともだ。オモダカに同じことを問われたあの時は否定したが、今となっては否定できない。
「…避けるくらい嫌いなら、早く嫌いって、言って欲しかった。
チリちゃんも、辛いんよ。もう待てへん。
これ以上、変に期待させんとって…!」
チリの足元に、涙の粒が溢れているのが見えた。
彼女は今、泣いている。
愛しい女性をここまで追い詰めて、泣かせて。自分はどこまでも最低な男だ。
泣きじゃくるチリの背中をそっと左手で撫でた後、チリを優しく抱きしめた。
チリは自分の行動に驚いたのか「あ、アオキさん!?」と上擦った声で名前を呼んできた。
「すみません。貴女をそこまで追い詰めてしまって」
「……ううん」
謝罪の言葉を口にし、暫く抱きしめながら彼女背中をさする。
やがて彼女から体を離し、彼女と目を合わせる。
「チリさん。自分…いえ。俺は、チリさんが好きです」
遂に、伝えることができた。
てっきりフラれるとでも思っていたのであろう彼女は、涙で腫れた目を大きく開け、パチパチと瞬きをしている。
「な、なして?じゃあなんで避けとったん?」
「それは…まだ、俺の本心に気づいていなかったからです」
「本心…」と呟くチリを見ながら、告白を続ける。
「俺は、俺の声に気付いてくれる貴女が好きです。俺のどんな声にも唯一気付いてくれる貴女は、俺にとって特別な人。
貴女は、特別なんです」
「特別…。なはは、そっかぁ。チリちゃん、アオキさんの特別なんやなぁ」
そう呟きながら、今度はチリが抱きついてくる。
「おおきに、アオキさん。ほんまに嬉しい」
「…随分待たせてしまいましたね。ずっと待ってくれて、ありがとうございます」
「…なあ、アオキさん」
「はい」
「好きです。チリちゃんと付き合ってください」
「…はい。ありがとうございます。俺も貴女が好きです。結婚を前提にお付き合いを始めましょう」
そう告げた後に二人で顔を合わせて笑い合い、暫くの間抱きしめ合った。
空ではひこうタイプの手持ちポケモン達が、今もなお揚々と飛び回っていた。
午後9時。もう殆どの社員が帰っているであろう時間に、自分は屋上に来ていた。
朝と同じベンチに座り夜風を浴びながら星空を眺める。
暫くすると屋上の扉が開き、ガニ股でこちらに向かってくる男性が見えた。
「ハッサクさん」
「アオキ。夜は風が冷たい。風邪をひきますですよ」
ハッサクはそう言いながら、朝はチリが座っていた自分の左隣に腰をかける。
「…ハッサクさん」
「何でしょう」
「その節はありがとうございました」
あの時は煩わしいと思っていたが、ハッサクには大変お世話になったのは事実だ。一言お礼を言わなければ自分の気が済まない。
「いえいえ、良いのですよ。チリの恋が叶っただけでね」
ん?と疑問に思った。この人、チリの恋を最初から知っていたのか?
いつから?そもそもチリはいつ自分のことを好きになったんだ?
「実はですね、チリが四天王になった数日後、チリから相談を受けまして。恋愛相談だったので驚いたのですよ」
チリが四天王になった数日後。
もう何年も前ではないか。まさか。その頃からチリは自分を好きだったと言うのか。
「チリの恋を陰ながら応援させていただいていたので、小生も人肌脱ごうかと思い、アオキに寄り添おうとしたのですが…生憎断られてしまいましてね」
あの時は自分でも頑固だったと思う。
そういえば、ハッサクは自分に絡む理由をもうひとつ隠してそうだったな。その理由は『チリから恋愛相談を受けていたから』だったということか。
そんなことを考えていると「そういえばアオキ、覚えていますか?」と何か問われた。
「…何を、ですか」
「チリは、四天王になる前から、貴女に恋をしていたそうですよ」
どういうことだ。
四天王になる前から。つまり自分はチリとどこかで会ったことがあったということなのだが、心当たりがない。
顎に手を当て頭を回転させる。
ああ。そういえば。チリとの顔合わせの数日前、チリと同じコガネ弁が方言のドオーを連れた女性と出会ったな…ということを思い出した。
まさか、あれがチリだったのか。
申し訳ないが、はっきり言ってあの時どんな会話をしたかは殆ど記憶に残っていない。
残っているのは、自分は相当疲れていたことだけだ。
「ははは。チリが覚えていなかったことを知ったら、さぞ怒るでしょうね」
「勘弁してください…」
「思い出させてあげた小生に感謝するのですよ」
「…ありがとうございます」
「おや、気持ちが全くこもっていませんですよ」
ハッサクと、特に何でも無いやり取りを交わす。
ふとこの人がいて良かったと、柄にもなくそんなことを思ってしまった。
「アオキさん!おはようさん!」
「おじちゃんおはようですの!」
「チリさん、ポピーさん、おはようございます」
四天王専用部屋には既にチリとポピーが来ており、自分に向けて元気よく挨拶してきた。
「あら!おじちゃん、おかおがげんきになりましたの!」
「…そうでしょうか」
「はい!ポピーうれしいですの!」
そういえば、ポピーにも沢山心配をかけた。
近いうちにムクロジでポピーの好きそうなケーキでも買ってこよう。
そう思いながら自席に着くと、チリがコーヒーを持ってきてくれた。
「ありがとうございます」
「んふふ、チリちゃん特製ブレンドコーヒーやで。味わって飲みや」
「…変なものは入れてないですよね」
「やーかーらー!チリちゃんそこまでワルやないって!」
ああ。このやり取りすらも懐かしい。
この数日間は、息が詰まるくらい本当に長い数日間だった。
これからの日々は、あっという間に終わるくらい楽しい時間になるのだろうか。
これから始まる日々が、とても楽しみだ。
END
【注意】
※何もかも全て捏造です
※アオキとチリ以外の四天王・トップも出てきます
※誤字脱字あるかも
※関西弁(コガネ弁)調べてないので間違いあるかも
※小説での二次創作は初の為、読みにくさを感じることや、不備などが沢山あるかと思います
※殆どアオキ視点。一部だけチリ視点で展開します。
最初は漫画にしようと思っていたのですが、話が凄く長くなってしまい、描き終えられる気がしなくなってしまったので、せっかくなら小説に挑戦してみようと思い、思い切りの気持ちを大事にして書いてみました。
途中体力の減りが垣間見えてしまっているかもしれません。
どうか温かい目で読んで頂けると幸いです。