pixivは2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴
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りんご二つ分を縦に並べたくらいの円柱状の缶は、淡い水色にもくもくの雲模様とキャモメが描かれている。
その蓋を少し力を入れてぱこんと外すと、缶の容量半分ほどにチリの“幸せ”が詰まっていた。
少し味気無い、白色の山。
だが覗き込んだチリの口元は緩んでしまう。
「こんなに溜めてしもて…」
苦笑混じりの言葉ではあるが、その顔は普段の表情とは違い甘く柔らかい。
面接官としてのチリしか知らない人が見れば、二度見してしまいそうだ。
仕事でもよく使用する正方形の白無地のメモ帳を、ぴっと一枚切り離す。
それに“アオキさんと廊下で会った。少し話せて嬉しい。”と書き込み、100円玉を添えて、丁寧に折り畳む。
出来上がったった包みを簡単に確認して、よしと頷くと、今日の“幸せ”を缶の中に投げ入れた。
「これ皆さんで」
そう言ってアオキが手渡した紙袋を、おおきにと言ってチリは受け取る。
営業周りで度々出張に出ているアオキは、律儀なことに毎回お土産を買ってくる。
大抵はチリのいる面接室まで足を運び、お土産を手早く渡すと、すぐに踵を返してリーグ本部から出て行ってしまうのだが。
「いっつも貰うばっかで堪忍な、アオキさん」
「こちらが勝手にしていることなので、気にしないで下さい」
結構な頻度で貰っているお土産は、金額にすればまあまあだと思うのだが、アオキは気にしていないようだ。
それならばと、今回も有難く頂くことにする。
「それでは」
今日も今日とて、早々に踵を返したアオキの背中に、みんなで頂くなーとチリは投げかけた。
チリはアオキが好きだ。
ある日突然、それはすとんと自分の中に落ちてきた。
焦りや不安を感じるようなこともなく、あーそうやったんかーと妙に納得してしまうくらいに。
猫背気味で、仏頂面。
一見、取っ付き難そうな彼は、話してみれば冗談も言うし、以外とこちらを揶揄うようなことも言う。
少々覇気がなく、声が小さいところは悩みの種であるが、同僚としては十分に頼れる存在だ。
本当に決定的な何かはなくて、ただゆっくりゆっくり、植物の枝葉が伸びていくような速度で気が付けば惹かれていた。
だが同時に、アオキがチリに興味がないだろうことも、なんとなく分かっていた。
もともと人の目を惹く容姿のチリは、自分に向けられる視線には敏感だ。
今の今まで、アオキがチリを見る目にそういった熱量が乗ったことはなかった。
興味が無いものはしょうがない。
チリはこの恋との付き合い方を決めた。
ゆったり揺蕩うように暖かいこの恋心は、ある程度楽しんだら手放してしまおう。
同僚としての今後を思うと、きっとその方がいい。
それからチリはこの恋を、緩く、柔く、楽しんでいる。
今回のお土産は雲とキャモメが描かれた缶の中に、プレーンとココアの2種類のクッキーが入っていた。
オモダカやポピーにアオキさんからと渡し、ハッサクはアカデミーで教鞭をとる日で不在だったのでデスクに置いた。
他の目に付いたリーグスタッフにも配り終えた後、手元に残ったのは自分の分のクッキーと空の缶だ。
面接室で挑戦者が来ていない間に、クッキーを齧りながら、その缶を手に取って回し見る。
役目を終えてしまった缶のデザインは可愛らしく、捨ててしまうのは少々惜しい気がする。
もぐもぐと咀嚼しながらどうしようと考えていると、ふと、SNSでつい最近目にした“しあわせ貯金”という言葉が頭を過ぎった。
初めて目にする言葉に、首を傾げながら開いたその記事には、幸せを感じた時に適当な紙にその内容を書き、瓶の中に溜めていく、といった内容だった。
人によっては小銭を中に折り畳んで、一緒に貯金もしてしまうらしい。
その時にチリは、あー素敵やなぁとは思ったが、実行にまでは至らなかった。
缶を眺めながら、妙案がひとつ浮かぶ。
この缶に、チリがアオキから貰った幸せを、溜めていけばいいんじゃないだろうか。
そしてやめ時は決めていなかった恋だが、この缶がいっぱいになったときに手放してしまえば。
なんなら小銭も包んで、貯まったお金で恋心さよなら会なんかしても良いかもしれない。
いっぱい幸せくれてありがとさん!なんて言いながら、ちょっとだけ贅沢に一人恋心さよなら会を開いている自分の画が思い浮かんで、なははと笑ってしまう。
うん、ちょっとおもろいかも。
そうして手始めに、目に付いたメモ帳を手に取った。
正方形に白無地のよく見るタイプだ。
SNSでは華やかな折り紙などを使っていたが、勿論、ここにはそんなものはない。
少し味気無い気はしたが、まあでも、シンプルなんがええねんな、とアオキの言葉をちょっとだけ借りて自分を納得させた。
ぴっと一枚切り離し、さてさてとメモ用紙に向き合う。
“アオキさんから、お土産を貰った。
少しでも話せて嬉しかった!”
簡潔に、分かりやすく。
そう思いながら書いた、幸せが可視化された文は改めて見るとなんだか恥ずかしい。
ええいままよと羞恥心を振り切ると、スラックスのポケットに入っていた100円玉を、幸せを書いたばかりのメモ紙で覆って丁寧に折り込む。
そうして出来上がったチリの幸せの包み第一号を、一度掲げてふふっと笑うと、雲とキャモメの缶の中にそっと優しく置いた。
今はまだ一個だけだが、これがいっぱいになるときに、チリは恋心を手放すのだ。
深めにとられた、デスクの一番下の引き出しを開ける。
糖分が欲しいとき用の飴の缶の横が丁度よく空いていたので、チリの幸せと決意が入った大切な缶は、そこに収めることにした。
そうして、しあわせ貯金を二、三回行った辺りで、嬉しさに合わせて硬貨の種類も変えてみようと思いつく。
自分で開いたときに、気持ちの大きさが分かるように。
「あ、度々申し訳ないなぁ。前のもみんなで美味しく頂いたで」
“今日もお土産持ってきてくれた。
アオキさんの顔見れて、良かった。”
─100円玉
「おーアオキさん、久しぶりやなぁ。元気にしとった?」
“喫煙所でアオキさんに会った!
まあまあ話もできた!楽しかった!”
─500円玉
「えっ、何これいつ買ったん、可愛いやん…」
“ムックルがごめんなさいしてる、スタンプがきた!
アオキさん、可愛いんやけど!”
─50円玉
「…えっ!?あっ………もしもしっ?」
“業務連絡やったけど、アオキさんから電話来た。
声が聞けて嬉しい!”
─100円玉
「…うわっ、アオキさん!?…くれるん?…なはは、おおきに!」
“残業してたらアオキさんが缶コーヒー差し入れてくれた!
エグいくらい元気出た!”
─500円玉
すぐにメッセージが返ってきたこととか、廊下ですれ違って顔が見れたなんかの些細な出来事もあれば、視察が一緒だった、昼ごはんが被ったなんかのかなりの嬉しい出来事もある。
それを、チリは一つずつ丁寧に包んで、あの缶に貯金していった。
大体一日一回は、アオキの反応に喜ぶような出来事があって、チリのしあわせ貯金は順調に溜まっていく。
多ければ、一日三回入れる日もあるほどだ。
そうして半年たった頃には、そろそろ蓋が閉まらなくなりそうになっていた。
“たまたま外線とったらアオキさんやった。
ちょっと、運命やなって思った。”
100円玉をそう書いたメモ紙で包んで、1番上にぽんと置く。
擦り切れ一杯より、中身がちょっと盛り上がった状態の缶は、蓋を閉めようすると少し抵抗があったがなんとか閉まり切った。
そろそろ、次で終わりかもしれない。
少しの寂しさは感じるが、心の中は凪いでいた。
こうして穏やかに手放せるのであれば、チリとしては本望だ。
デスクの一番下の引き出しのいつもの定位置に缶を仕舞うと、んーっと伸びをする。
今日は今のところ挑戦者も来ていないようなので、この隙に飲み物を買いに行くことにした。
面接室を出て、しばらく真っ直ぐ歩いた後、廊下の角を曲がる。
そこで、うわぁっとチリは悲鳴を上げる羽目になった。
「…どっ、どないしたん!?」
「………面目ないです」
「自分、すごい泥まみれやで!?」
「ちょっと、そこでどろかけをくらいまして…」
そこに居たのはアオキであるが、その様相は酷い有様だった。
曰く、リーグ本部手前の草むらで、ポケモンバトルをしていたトレーナーのウパーが放ったどろかけが外れ、クリティカルヒットこそ免れたものの、アオキが泥を被ることになったらしい。
結果、アオキは顎の辺りから下は泥だらけになってしまっていた。
最初はぽかんとしていたチリだが、流石に放っては置けず、ちょっとこっち来ぃっとアオキを給湯室に引っ張って行った。
給湯室の戸棚を開ければ、やはり粗品で貰ったタオルが大量に余っている。
何枚か袋から出して水に濡らして絞ると、チリは腰から下、アオキは上を担当して泥を落としていくことにした。
「お手数お掛けしてすみません…」
「事故なんやったら、しょうがないやろ」
しおしおと項垂れ気味のアオキに、チリは内心ドキドキと胸を高鳴らせていた。
落ち込んどるアオキさんもええなぁ、なんて恋は盲目もいいところだ。
二人がかりで何とか粗方の泥を落とし終えた後、アオキは水道水で口を濯いでいたが、濯ぎ終わっても相変わらず気持ち悪そうな顔をしている。
「まだ残っとん?」
「いえ、残ってないとは思うんですが、口の中が泥の味で…」
そう言って口もとを摩っているアオキは、本当に気持ち悪そうだった。
それにチリはあっ、と思いつく。
「面接室のチリちゃんの机に、アメちゃんがあるわ」
ちらりとこちらを見たアオキに、頂いて良いんですかと聞かれたので、ええでと答える。
「一番下の引き出しの缶かんに入っとるから、持っててええよ」
「…でしたらお言葉に甘えます」
そう言って話して、アオキとは給湯室で別れた。
あーびっくりした、と思いながらずらりと並んだ自販機の前で、チリは何を飲もうかなーと考える。
コーヒーは朝飲んだからなー、だったら水?炭酸水?…それにしても。
「あんな泥だらけのアオキさんに会うなんて、タイミングむっちゃ良かったなぁ」
あの出会い頭の様相を思い出すと、未だにぷぷぷっと笑ってしまう。
あのアオキの困っている顔が可愛くて、あの缶に次はこのことを入れよう、と思った。
これで、チリちゃんのしあわせ貯金も終わってしまうかもなぁ、と、思って、…………………。
「………、あぁあああああああああっ!?」
─ガコンっ。
炭酸水のボタンを押した瞬間に、アオキ以上の大大大事故を、自分が引き起こしていることに気付いてしまった。
状況としては50対50、フィフティフィフティ、半分半分である。
そんなことを考えながら、全力で面接室に走って戻りながら、チリは頭をぐるぐると回していた。
もしかしたら正しく飴の缶を引き当てているかもしれない。
缶を開けて明らかに違う中身に、すぐに蓋を閉めるかもしれない。
自分にいい想像を重ねながら、面接室に駆け込むと。
まだ、そこにアオキがいた。
チリの後ろで自動扉の閉まる音が、やけに大きく響く。
「……………」
「…………………っ、見たん?」
はぁはぁと荒くなる息をなるべく抑え、アオキの方に近付きながら、チリは思わず聞いてしまった。
かくして、50%の賭けには負けていた。
既に包みは五つほど開けられていて、机の上に並んでいる。
自身の幸せがアオキの眼前で紐解かれているのは分かっていたが、でも、そう聞かずにはいられなかったのだ。
だが、彼は答えあぐねているようだ。
硬直しているアオキに、じりじりと太陽に焼き殺されているような心境のチリは、早く刺し殺してくれと思う。
そんなチリの視線を受けながらも、アオキは考え、悩み、ずいぶんな長考を続けたあと口に出したのは。
「………………、チリさんは自分が好きなんですか?」
「なんでそこを的確についてしまうんっ?!」
ぎゃんっと、ツッコミに走ったのは許してほしいところだ。
この男、デリカシーがない。
「チリちゃんの急所当たっとるどころか、抉っとるで!」
「………すみません」
思わず謝った風のアオキに、チリはうううと恨めしい目を向けながら、拳に力を入れて、沸騰し続ける自身の頬の熱を抑えようとする。
「自分、チリちゃんに配慮とかないんか…」
そう言いながら項垂れるチリは、全身が熱くて泣きそうな心地になっていた。
手放すつもりの思いが、こんな形で白日に晒されるなんて、とてもじゃないが、いくら気丈なチリでも耐えられそうにない。
鼻の奥がじん…っと痺れてきて、既に決壊は近い。
決壊前に、もう自分で全てバラしてしまえと、ぐっと足腰に力を入れ目の前のアオキを見据えると、…それはチリちゃんのしあわせ貯金なん、と何とかチリは言葉にした。
「チリちゃん…、アオキさんが、好き、で…」
「………はい」
「アオキさんに、…会ったりとか、して、嬉しいことそこに、溜めてたん…」
最早、アオキの顔も見えないほどに、視界はぼやけていた。
ああ、こんなみっともなく恋心を曝けだすつもりはなかった筈なのに、とそう思えば思うほどに、目の奥が熱くなる。
「でも、これで…しまいやから」
これ全部溜まったら、アオキさんのこと諦めるつもりやったん、と全て言えたか分からない内に言葉尻が拠れ、すすり泣いてしまった。
ひっ、と喉の奥が鳴るのを堪えながら、ごめんなさいと何とか絞り出した。
「全部、今日、諦めるから…」
ずずっと鼻を鳴らしながら、自身の感情の制御は最早チリの手元から離れてしまっていて、涙も鼻水も全て流れ出していく。
「…チリさん」
「…ふっ…ごめ…なさ…っ」
「…チリさん」
「……っ、…ぅっ」
「………、チリさん!!」
アオキが出したとは思えない声量に、思わず顔をあげてしまった。
ぐずぐずと目が溶けてしまいそうなほど泣いているチリと目を合わせながら、アオキが問いかける。
「なぜ、諦めるんですか」
「…っ、やってアオキさんの目が、」
チリちゃんのこと好いてないんやもん、っと、ぐいっとグローブの右手の甲側で勢いよく涙を拭う。
そして、アオキの表情が見えた。
「………へ、」
なぜ、そんな熱っぽい視線をこちらに向けているのだろう。
アオキの明らかに情が乗った視線をみて、え、なんで、だって、今まで…と狼狽したチリに、アオキは大きな溜め息を吐いた。
「こっちは歳だけは十分に重ねているんです」
自制くらいはできますよ、そりゃ、と言うアオキに頭のついてきていないチリは、えっ、えっ…?と戸惑ったままだ。
それを見て、アオキは気まずそうに一つチリに投げかける。
「いつも、出張帰りにお土産を持って行くでしょう」
「…、はい」
「なんで、あなたのところに持って行くと思うんです」
「…ここが一番、出入口から、近いから、やないんですか…」
「……………だったら守衛に預けて、帰ればいいでしょうが……」
言われて更に頭が混乱する。
だってチリが思うことが正しいのであれば。
それは、あまりに、自分に都合が良くないだろうか。
「…、チリちゃん、…待って、ちょっと、自惚れてしまい、そう、なんやけど」
「………、自惚れて下さい」
足元が一気に崩れた気分だった。
そう言われた瞬間、今まで見えていた恋が豹変した。
優しく揺蕩っていた恋は、急激に勢いを早め、マグマのように波打って飛沫を散らした。
ずっと柔らかく暖かい恋だったから、チリは正しく手放せると思っていたのに。
心拍が急速に胸を殴りつけて、呼吸の仕方を忘れたようにぐぅっと苦しくなる。
どくどくと、血流の音が鼓膜の奥で鳴り止まない。
熱く煮えたぎる様子に、自分の恋心にすら、背中を蹴られて手酷く裏切られた気分だった。
「…っ、待って、ちょっと…」
色々と追いついてないん、と泣き過ぎてぐらぐらと揺れる頭で一生懸命に考えているチリに、アオキは畳み掛けるように言った。
「好きです」
それは彼らしい、シンプルな告白だった。
ひゅ…っと喉を鳴らしたチリは、既に言葉を出すことすら出来ない。
手放す寸前だった恋心をアオキに掬い上げられ、最早寒暖差で死んでしまいそうだった。
アオキが返事を待っている。
その顔は余裕綽々で、少し憎らしいとすら思えてきた。
こちらの心の裏が取れてから踏み込んで来るなんて、なんて、なんて酷いいけず!
だけど、初めて見る表情にそんな顔もカッコいいなぁなんて。
チリの盲目は、どうやら無事に継続中らしい。
はくはくと、自身の口から中々言葉は出ない。
ただ半年間、一生懸命に溜めてきたチリのしあわせ貯金は、思い描いていたのと全く違う形で使うことになるのだろうなと、それだけは分かっていた。
恋心を手放そうとするチリちゃんと、寸でのところで間に合ったアオキさん。
べったに載せたやつ。
表紙はきなこもちさん(user/13139016 )が描いてくれた、素敵なイラストです。
めちゃくちゃ可愛い…。本当にありがとうございます…。