目を開ける。カーテンの隙間から見える空は白んでいた。ため息を吐き、観念して体を起き上がらせる。鉛のように重い体とは対照的に、頭ははっきりと冴え渡っている。このちぐはぐな違和感が酷く気持ち悪い。青白い顔を誤魔化すように、ファンデーションを叩き込んだ。
「おはようさんでーす」
「おはようござます。……チリ」
出勤してきたチリの顔を見て、オモダカが眉を顰めた。
「また、眠れなかったのですか?」
「やっぱ分かります?」
「顔が真っ青ですよ。今日は面接も午前中のみですから、終わったら仮眠室を使いなさい」
「……はい。すんません」
軽く頭を下げ、自らのデスクに向かう。パソコンが起動するのを待ちながら、チリは鈍く痛み始めた頭を押さえた。
――ぐっすりと眠れなくなったのは、いつからだろう。
眠れない夜があるのは今までにも何回かあった。どうやら自分で思っているより繊細らしく、無自覚にストレスが蓄積されると眠りが浅くなる。だがそれは一過性のもので数日経てば改善されていた。しかし今回はもう一週間以上だ。横になって気を失うように眠っている時もあるが、1時間経たないうちに目が覚めてしまう。流石に体は悲鳴を上げていて、オモダカが指摘するぐらいだから、自分が思っている以上に顔色が悪いのだろう。原因がわかれば対処もできるが、気がつけばこのような状態になっていたのだからタチが悪い。
何とか気力で午前中の業務をこなし、昼休みになるとチリは重い体を引きずって仮眠室へと向かった。仮眠室はリーグ内に何箇所か備えられているが、なるべく誰にも邪魔されない所が良いと思い、職員の往来が少ない場所にある所を選んだ。
回らない頭で扉を開け、使用中であることが分かるように鍵をかけるとベッドに倒れ込んだ。重たくなった瞼が自然と降りてくる。――少しは眠れそうかも?意識が引き摺り下ろされるような感覚に期待し、身を委ねた。
体が温かくて心地いい――。
アオキは困惑していた。何故なら自分の腕の中に同僚の女性がすっぽりと収まってすやすやと眠っていたからである。
セクハラ……つまり譴責、減給、いやクビか?上司の顔と様々な処分の名前が頭の中に浮かんでは消える。
鍵を掛け忘れていた自分が悪いので自業自得ではあるのだ。それでも、まさか人が既にいるベッドに転がり込んできてそのまま眠ってしまうとは思うまい。
――それだけ疲れているのだろうか。アオキは自分の胸元に顔を擦り寄せるチリの顔を見下ろした。最近眠れない日が続いているというのは普段の会話で何となく察していたし、オモダカとの今朝の会話も聞こえていた。寝顔こそ穏やかではあるが、顔色は化粧で隠し切れないほど悪いし目の下にも大きな影が見てとれる。
チリの腕はアオキの背中に回されしっかりとホールドされているが、解けないわけではない。しかしせっかく今はそれなりに心地よく眠れているようだし…自分が身動きすることで起こしてしまうのも憚られた。
アオキにとってチリは密かに想いを寄せている相手であったから――こうして彼女の温もりを感じることができているのが、嬉しいと思う自分がいた。こんなに歳の離れていて冴えない自分が、彼女と付き合えるなんて思っていない。だからこれは最初で最後の機会だ。だから、もう少しこの時間を堪能していたい。
そう、これはアクシデントだ。決して自分に下心があるからこんな状態になったわけでは――そう言い聞かせながら、チリが起きた時に何と釈明しようかと頭を悩ませるのだった。頭を使うと、眠くなる。チリはしばらく起きる様子もないし、自分ももう少しだけ――とアオキは目を閉じるのだった。
ゆりかごの中にいるような、安心感に包まれている。もう少しこうしていたい――そんな思いに駆られつつも、チリは目を開けた。一瞬どこにいるか分からなくなるが、何とか記憶を探って仮眠室のベッドに倒れ込んだところまで思い出した。あのまますぐに眠ってしまったのか。まだ体は重いが、朝よりは随分マシになっている。久々に深く眠ることができたようだ。
「トップに感謝せないかんな〜……それにしてもどの位寝たんやろ……」
独りごちて、ポケットに入れたままになっている筈のスマホロトムを取り出す為に身を捩った。しかし体がうまく動かない。そういえば、天井の景色にしては真っ白過ぎないか?……違う、自分は上じゃなくて横を向いているのか。とするとこれは?
寝起きのせいもあり頭が回らない。とにかく起きあがろうと、顔を上に向けると。
「あっ」
酷くバツの悪そうな表情をしたアオキの顔があった。
「えっ」
「あ、えっと……おはようございます」
「あ、アオキさん――――?!」
一気に頭が覚醒して、状況を理解する。チリは半ば叫ぶようにアオキの名前を呼んだ――。
「すみませんでした!!」
「い、いえ自分が鍵を掛け忘れていたのが悪かったので……」
深く頭を下げるチリはそのまま土下座でもしそうな勢いだったので、アオキは慌てて制止した。
「でもアオキさんに全く気づかんとそのまま寝るなんて……ほんま、迷惑かけてすみません……」
「いえ、自分は大丈夫ですので。……それだけお疲れなのでは?」
アオキからするとむしろお礼を言いたいような状況だったが。本心は胸の奥に秘めておくとして、落ち込んでいるチリに声をかける。図星を突かれた彼女の肩がぴくりと跳ねた。
「あまり眠れていなのでしょう?……すみません、今朝のトップとの会話が聞こえてしまいまして」
「いや……あはは、実はそうなんですわ」
チリは気まずそうに笑って見せるが、それも何だか痛々しい。
「あ、でもさっきは久々にめっちゃ良く寝れたんですよ!アオキさんに安眠効果でもあるんかな〜なんて、」
「――利用しませんか、自分を」
「え?」
「チリさんが眠るために、使ってください」
できればこれで終わりにしたくない。そんな欲が湧いて、気がつけば口が動いていた。何を言っているんだと笑われて終わるだろうと思っていたが、チリの返事はアオキの予想に反していた。
「――ええんですか?」
それからというもの、チリが少し眠りたい時にはあの仮眠室で落ち合い、アオキを抱き枕がわりにして少し眠るようになった。アオキの体温を感じ、心音を聞くと今までが嘘のようにすぐに眠ることができた。業務中にそう何度も抜け出すわけにはいかないから、業務が終わった後に残って仮眠をとることが多かった。
短時間ではあっても深く眠る時間ができたことで、チリの体調も随分楽になった。夜眠れなくても、アオキと一緒に眠ればいい。そう思えば気が楽になって、逆に夜も少しずつ眠ることができるようになっていた。
――いつまでアオキに甘えているのか。それはチリも分かっていた。人目を避けているにしろ、続けていればいずれ噂にもなるだろう。状況だけでいえば男女が同じ部屋で眠っているわけだし、そうなればアオキに迷惑がかかる。ただでさえ、アオキの貴重な時間を自分の睡眠時間の為に費やしてもらっているのだ。ずっと付き合ってもらう訳にはいかないのだ。――でも、この時間を終わらせたくない。そんな思いが、チリの中で大きくなっていた。最初はあの状態から何とか抜け出したくて、藁にもすがる思いだった。だけど今は。単なる同僚ではない。それ以上の感情が芽生えているのは分かっていた。アオキの優しさを利用しているのも。
そんな気持ちを抱えたまま、チリは今日もスマホロトムを操作してアオキに連絡をする。
「アオキさん……いつもすんません」
仮眠室へやって来たアオキに、チリは笑って声をかけた。アオキは返事をせずに頷くだけ。普段と違う様子に、チリの胸はざわついた。
いつものようにアオキの腕の中に収まる。その体温に身を委ねていると、すぐに意識は溶けるように眠りの世界に誘われていった。
「――チリさん」
瞼を閉じようかというその瞬間、アオキが初めて声を上げる。今までチリの眠りを妨げるような事は決してしなかったのに。
「もう、止めませんか」
最も恐れていた言葉に、チリは震えた。
「な、んで……」
「すみません、最初は私が言い出したことなのに。チリさんも最近は眠れるようになってきたみたいですし、もう私がいなくても」
「いやだ」
「……チリさん」
「いやだ!」
チリは起き上がって大声を上げる。チリを見上げたアオキの目が、狼狽えるように瞬きを繰り返す。気がつけばチリの頬を涙が伝っていた。
「アオキさんがいないと、眠れへんもん!……アオキさんがいないと、駄目やもん……」
泣きながら駄々をこねることしかできない自分が悔しい。それでも何とかアオキを引き止めたくて、チリは言葉を吐き出した。
「ああ……もう、」
アオキは吐き捨てるように呟いて、自らの頭を荒々しく描きむしった。
「俺が、どんな思いで――ッ」
アオキの言葉と共に、チリの視界が反転する。アオキの顔が上にあって、組み敷かれたのだと悟った。
「あ、アオキさん――」
「最初に、私を利用してくださいと言いましたね。あれは嘘です」
「え」
「私が、チリさんを利用していたんです。貴女が好きだから、少しでも貴女に触れていたかったから、貴女の状況に付け込んであんな提案をしたんです」
アオキはチリが口を挟む隙を与えてくれない。
「失望しましたか?しましたよね。チリさんは私を信頼して身を預けてくれていたのに、私はずっと下心があったんです。本当はもっと早く止めるべきだった。でもこの時間が楽しみで、愛おしくて、失うのが怖かったから、言えなかった。だけど、終わらせないといけない」
自ら終わらせると言いながら。なんでそんなに悲しそうな顔をしているの。出かけた言葉をチリは飲み込んだ。口にすればアオキが泣いてしまいそうな気がして。
「――もう、我慢できないんです。貴女への想いが、抑えられない――」
アオキの顔が近づいてきて、思わずチリは目を閉じた。キスされる。そう思ったが、アオキはチリの唇に触れるか触れないか所でその動きを止めた。何かを我慢するように、切れてしまいそうなぐらい強く唇を噛み締めて、勢いよく体を起こすとベッドから降りる。
「ま、待ってアオキさん!」
チリはアオキの腕を掴み、部屋から出て行こうとするのを何とか引き止めた。
「離してください」
「だ、だって離したらもうここには来てくれへんくなるんやろ?!」
アオキが振り返る。熱を持った瞳が、チリを見つめていた。
「――もう、ただの抱き枕では終わりませんよ。いいんですね?」
チリは思わず生唾を飲んだ。自分の感情が昂っていくのが分かる。
「……良いよ、だってアオキさんのこと、好きやもん」
「――ああ、夢みたいだ」
「今日はまだ、寝てへんよ?」
ふざけて笑ったチリの唇を、アオキは塞ぐ。温かくて、柔らかいその感触を何度も味わってから、再びチリの体をベッドに押し倒した。そして呟く。
「――――今日は、寝かせてあげられないかも」
「……望むところや」
にやりと笑って見せたチリに、アオキもまた満足気に口角を上げる。今度は少し荒々しく唇が合わせられた。睡魔とはまた違う、蕩けていく意識の中に落とされていく感覚。もっとそれに溺れていたくて、チリはアオキの背中に腕を回した。