ハキム・ベイ『T.A.Z. 一時的自律ゾーン、存在論的アナーキー、詩的テロリズム』読書会(3/4)

p.114〜p.185(ハロウィーン特別コミュニケ〜一九九〇年代に向けた分析)

(承前)

レ(ガスピ):とりあえず読まれた感想から言っていただければ。
虚(ペン):前回参加しなかったのでバーっと読んできたんですけど、実際の運動なんかで言及される印象があったので、「一時的自律ゾーン」がオキュパイ運動やアラブの春などの実践的な運動の流れにあるのかと思ったらめちゃめちゃスピってて。推薦文書いてるのもヤバい奴ばかりだし。(そこにある)ロバート・アントン・ウィルソンの『コスミック・トリガー』を最近読んだんですけど、あらゆる陰謀論を詰め込んだヤバい本でした。ざあっと読んでも何言ってるかわかんなくて、そのへん含めて話していければという感じです。とっちらかった本なのでちゃんとメモを取らないと自分がどこの話をしたかったのかわからなくなるんですよね。
レ:まあ難しいというか、イメージが散逸している感じですね。
虚:どこで何の話をしていたのか、振り返ってみるとマジでわかんねえってなります。
R(yo):「存在論的」という言葉はドゥルーズの系譜を感じさせます。
レ:これまでの読書会でもドゥルーズの話がたくさん出てきて、ハキム・ベイがドゥルージアンだったかはわからないですけど、通底しているところはありますね。
 まずイスラムの思想家がたくさん出てくる。イブン・アラビーという、存在論哲学を12、3世紀にやった人がいると。
虚:今ちょうど井筒俊彦の『コスモスとアンチコスモス』をちょっとずつ読んでるんですけど、そこで仏教の哲学とイブン・アラビーの思想の関連性にも触れられていました。前回の読書会の記録をざっと読んだんですけど、そこでも井筒俊彦とハキム・ベイが知り合いだったって話が出てきましたよね。
レ:イランの研究所で同僚だったらしくて。この本たくさん固有名詞が出てくるんですけど、当時のアングラカルチャーの百科事典としても読めるんですよね。カリカック家だったりヴィルヘルム・ライヒだったり、今となっては危険思想と呼ばれるものが脱構築、換骨奪胎した形で取り上げられている。実際p.143〜144あたりを読むと、この本(世界?)が船に喩えられている。古臭い思想だったり役に立たないものは全部船の外に投げ捨てて、要るものだけを取ってこよう、とあって。そのプラグマティックな姿勢がブリコラージュ的に思えました。
虚:なんでもかんでもこのコンテクストでこれを持ってくるかという、すごい繋ぎ方をしている。
レ:世界中のありとあらゆる宗教や文化をサンプリングして新しいアナーキズムの体型に組み入れる姿勢にラディカルさを感じますね。
虚:p.162に「禅は、悟りの『革命的な』含意の意識を欠くことで非難されるだろう」とあるように、わりとこの本では仏教的な悟りの側面を革命的に転化していこう(他にもイスラームの神秘主義も持ってくるわけですが)としていて、そこに好感というか、「いいな〜」と思いました。ちょうど今日マルクス・エンゲルスの『ドイツ・イデオロギー』を読んでたんですけど、この本も、「歴史の流れの中でプロレタリアートが形成されて革命主体としての自覚が生まれて…」とサラッと書くんですが、そこが一番むずかしいだろうな、という。どんなに資本主義の搾取が進んでいっても、それで自動的に革命主体が生まれるかっていうと決してそんなことはないわけですよね。そういうふうに考えると、革命的な運動を考えるときにはまず革命的な主体がどう派生するかという主体化のプロセスを考える必要があるよな〜と思いながら読んでいました。そこに近いと思ったんですが、ちょっと前に鹿野裕嗣の『ドゥルーズ『意味の論理学』の注釈と研究』を読んだんですけど、ドゥルーズ哲学でもいかにストア派を賢者の思想から革命家の思想に変化させるかを言っていて、そこでドゥルーズがストア派に行なった読解を禅にもやったら面白そうだと思いました。革命主体への主体化のプロセスという点でも『T.A.Z.』は面白いなと。
レ:タオイズムの話がところどころ出てくる。この前ジェームズ・スコットの『実践 日々のアナキズム』を読んだんですけど、かいつまんで言うとお前ら普段からアナキズムの準備体操をしとけよって本で、面白いのが章ごとのパラグラフの冒頭に老子や中国のことわざの引用をするんです。タオイズムなり老荘思想なり、ああいった思想は学術的に体系立てられているとはいえないじゃないですか。アナーキズムにも似たようなところがあるんじゃないかと考えていて。要は…うーん…なんというのかな。老子が言っているのって毎日の実践で人生を良くしてこう、それで社会も良くしてこうってことで、アナキズムは「無政府主義」と訳されてきたけど、国家もたまには役に立つとスコットは言うんです。都合よく国家を使って直接行動なりで良くしていこうというのを強調している。『T.A.Z.』はぶっとんだ本なんですけど、この本にも地道にやっていけってメッセージを感じるんですよね。
虚:アナキズムの、国家の死滅という最終目的のデカさと実際的な実践の地道さの二面性はとてもあるなと、最近柄谷行人の『NAM』の読書会をやってて思いました。ちょっとずつ大資本とは異なる組合的な経済を作って、アソシエーションを形成してだんだん資本から脱却していこうという、議論としてはデカイことを、『トランスクリティーク』に基づいて柄谷は言っているんですけど、実践としては地道です。最近出た『NAM総括』を読んでもやっぱりNAMが失敗したのは個々の連合が存在しない状態でアソシエーションを形成しようとしたことで、やっぱりまずはそれぞれが個々のアソシエーションを形成していくしかないよねということを柄谷は言ってて、NAMの解散後、松本哉の「素人の乱」運動を褒めるようになるわけですけど、柄谷的なアナーキズムは地道な組合やアソシエーションで別の経済圏を作っていこうという話で、目的はデカいけどやることとしては地味になってくるというところはありますよね。
レ:グレーバーもアクティヴィストとしてデモをやってたわけで。柄谷もたしか「デモをすればデモをする社会になる」と言ってたと思うんですけど。「デモで社会は変わらない/変えられない」というペシミスティックな意見もあるにはあるけど、でもゼロ年代に東浩紀が言ってたような、ツイッターやSNSから社会・国家が変わるみたいな楽観的な見方は挫折している。だから行動なんですよね。
虚:僕は実際デモに参加したことがあるんですが、国会前でやるようなデモって、国会内部で行なわれる代議制民主主義の外で独立したものではなく、その補完の面、野党頑張れ的なところが強いなと思って。僕はデモをやることには意義があるし、関心がある問題には行けばいいと思うんですけど、いざ行くとそういうところにうんざりするんですよね。デモを代議制民主主義の補完物として位置づけると、仮に法案が通ったらデモ自体が敗北したようになってしまう。国会と相補的な関係としてデモを考えること自体、デモの直接行動としての可能性を殺してるんじゃないかとすごく思います。
R:僕は今ジュディス・バトラーの『アセンブリ』を読んでいて、本来的なアセンブリは集会であって、バトラーは特に身体が集まることを重要視しているんです。アーレントが古代ギリシアに見た「現れの空間」を拡張して、身体が集まること自体が政治なんだとこの本で述べている。根本的に僕ら人間は票に換算することなどできないし、政治家という存在が僕らを翻訳したものではないという代議制への懐疑はよく思います。
虚:ある身体が実際に空間に場所を占め、かつそこを政治的な空間にするのがデモの意義だと思うし、ツイッターのハッシュタグ運動も意義がないわけではないんですけどやっぱり別物だなとは思いました。
レ:夏目漱石の「二個の者がsame placeヲoccupyスル訳には行かぬ」ですよね。そう考えるとオキュパイ運動もかなり実存的な問題だったんだとは思いますね。
虚:身体がある空間を占めるときに、その身体が既存の政治体制における頭数のカウントの仕方とは別物として現れるところはあると思っていて。『T.A.Z.』にも「存在論的アナーキー」という言葉がありますけど、ドゥルーズが一つの身体それ自体の複数性を言っていることも「存在論的アナーキー」に近いと思います。政治体制として以前に、存在論的な原理、身体のあらわれ、主体の形成のプロセスとしてアナーキーなものを示していくという。存在論的な基礎づけができてないと、運動をやっても土台がグラグラでうまくいかないだろうなと思うんですよね。
R:労働と代議制民主主義って共通した問題があると思ってます。票や労働力に人間を換算するときに代替可能性というのが出てくる。僕じゃなくても他の誰かが票を入れればいい、だれかの穴を他の人が埋めてお金を稼げばいい。身体が主張するというのは代替可能な存在ではないという主張なのかなと思うところがあります。
虚:いま実際働いていても、業務のプロセスはだれでもできるようにしていくのが理想的といわれていて、資本の側が率先してなるべく代替可能な労働力を求めている。
レ:p.166でネットワーク(network)ではなくてウェブワーク(webwork)と呼ぼう、と言っている。英和辞書を引くと「web」は「複雑に絡み合った関係」とも出てくるんですよね。すごく示唆的だなと思います。毛利嘉孝が『ストリートの思想』でストリートのもつ匿名性が90年代に強い力をもったということを書いていて、『T.A.Z.』が書かれたのは80年代なんですが、ウェブワークという呼び方には現代的な側面があると思います。個人が複雑に関係を構成しあって、運動の絡み合いが複数的に出てくるというか。アラブの春もインターネット発で同時多発的に起こった革命として位置づけることもできる。すみません、うまいこと言えないです…。
虚:たんなる感想なんですが、『ドイツ・イデオロギー』にはプロレタリア諸個人の団結を可能にする手段として大工業都市と大工業による廉価で迅速な通信手段が確立されてなければならないとあって。100年以上経ってやっとそれが実現可能になり、資本主義が覆い尽くした世界でマルチチュードが連絡をとりあい、抑圧が広がった末の革命としてのオキュパイ運動やアラブの春は、旧来のマルクス主義が終わったあとにマルクスが予言したことが起きたってことでテンションが上がることだったんだろうなって思います。でも実際インターネットの革命の言説は大体2010年代前半から可能性の限界が見えてきて、むしろ分断が深まってきていると思うところがある。ツールと経済的な状況としては革命的条件が揃っているのに、じゃあ何が足らないんだとなると革命主体の形成があるなと、『T.A.Z.』を読むとアクチュアルに思うところですね。
レ:ハキム・ベイもこの本で地下出版のメディアを世界中に広めろと言っている。でもそこで前提されているのって、自分自身を、あるいは社会を表現する主体じゃないですか。
ペ:実際の経済的諸条件をすっ飛ばして主体の話をいっても、それは基礎づけを欠いた精神論になっちゃうので、堂々巡りで難しいなとは思うんですけどね。地下出版の話だと、この本と同時期に書かれているガタリの『分子革命』で自由ラジオというのが提案されていて、そこに同時代性を感じます。
レ:あ、ここにリンクを貼るんですけど、名前だけ出てくるリチャード・シェイヴァーというSF作家なんですが、ウィキペディアが面白いのでぜひ読んでみてください。フロイトのシュレーバー症例をSFチックにした感じです。
キュ(アロランバルト):ようやく電車から解放されました。「電車が電車が電車の電車の…」って感じでした(薬の服用を間違えて電車で爆睡していた)。
虚:吉増剛造になっちゃってる。
キュ:今回の箇所を読んで、今までよりも直接カオス理論なんかをちゃんと話しているところが多いとすごく思いました。p.152の「死の再生産に反対する」では今までのコミュニケではありえないぐらい「私」が出てくる。ベケットの小説ぐらい「私が、私が…」と言う。それがおそらく「死の再生産に反対する」ということだと思うし、「私」は語り手の核心なわけじゃないですか。ある種のあきらめが開示される。核心にどんどん近づいている感じがあって、あらゆる単語に対しても直進的なことを言っていて、それが最終的に作者に自分を語らせるところまで追い詰めるのも面白かったです。その次のシュルレアリスムの話も面白いなと思って。シュルレアリスムは無意識を書き表す運動ですけど、それが広告に使われた。広告は無意識に欲望を想像させるものなので順番がまったく逆になるんですよね。だからクソだって話で。p.167の最後めちゃくちゃ好きなんです。「その未来とは、これから始まるのだ(ちょっと待て、時計を見るから)……七、六、五、四、三、二、一……今」。ちょくちょくテルケルやビュトールみたいな書き方をするんですよね。そういうときに限って肉体的、チボードーについてフーコーが言った言葉を使うなら「内臓言語」を想起させる表現が多くていいなーと思います。
レ:シュルレアリスムの他にもいろいろ攻撃しててレトリックも過激になってるんですよね。この箇所読むの二回目なんですけど結局シュルレアリスムのスローガン「同性愛者に死を!」の引用がどういう意味をもつのかわかりませんでした。「コンヴィヴィアリティ」という言葉が出てくるんですけど、たしかイリイチが使った言葉で、その意味もよくわからなかった。ハイコンテクストな書物なので読み手によって受け取るメッセージがかなり変わってくると思うんですよね。
キュ:用語説明多いですよね。
レ:呪いのかけ方で始まりますもんね。ここもインターネット的な感性だなと思って。むかし2ちゃんねるでも異世界の行き方みたいなのが流行ったんですよね。ハキム・ベイの書き方ってすごく露悪的で、こんなものには蓋をしようってものを無理やりこじ開けて、死体になったような思想を呼び起こしてゾンビ的に蘇らせる、vaporwave的に亡霊を回帰させる感じで。そこの黙示録性みたいなのは読んでいて面白いというか、たとえば「検索してはいけない言葉」みたいなインターネットのグロかったりする側面と違うと思っていて。やっぱりハキム・ベイがアカデミーの人だから取捨選択が巧みなのもあると思うんですけど…何を役立てて何を顧みないかというところに、アングラ文化とは違う、軸にある思想の根強さを感じるんですよね。
虚:「検索してはいけない言葉」も広告的な欲望を喚起して検索させるんだと思いますし、この本でもシュルレアリスムの戦略がどんどん包摂されていったとあるんですが、ハキム・ベイがそれに対するアンサーとして言う「詩的テロリズム」は、最初に欲望があったとしても、見る者が最終的に直面することになるものは、もともと欲望していたものとはまったく異なるもの、対面することである主体の欲望が再形成されるようなもので、その限りにおいて「効くのである」という話なのかなと思いました。この本でシュルレアリスム批判をしながら、かつ『T.A.Z.』もシュルレアリスム的手法であるコラージュによって形成されている書物なわけで。シュルレアリスム的なもの、広告的なもの、80年代的、ポストモダン的なものとギリギリ接近しながらこの書物が革命的であるところの線引きをどうするかというところに、ハキム・ベイは問いとしてあったのかなと思います。
レ:たぶんシュルレアリスムに対しては愛憎半ばする感情だと思うんですよ。
虚:関係なかったらディスる必要もないわけで、多分ハキム・ベイの試み自体がシュルレアリスム・ダダに近いところがある一方で、シュルレアリスム批判をすることでギリギリのところで自分を位置づける。p.157「シュールレアリスムの紛れもない廃棄通告」を読んで、そこでシュルレアリスムに対する否定の言葉をひっくり返せばその試みが明らかになるのかなと、話を聞いていて思ったところです。
レ:たしかアンドレ・ブルトンが言っていたんですが、シュルレアリスムの自動記述(オートマティスム)をどんどん速くしていくと「私」という単語が消えるんですよ。それと、ここでも仏教の話で「唯一者」というのが出てきて、p.139に「『唯一者』の目標とは結局のところ、〈すべての所有〉にある」と書いてあって、そこで中国の水墨画家の話が出てくる。「水墨画家が『竹になる』ことによって『それ自体を描く』」ことになるが、それは「無私」の状態ではないんだよと。オブジェクトと「私」の存在が一つになるというのは「無私」の状態ではないというのを再三強調しているのは、それこそ存在論的アナーキーに深く関わってくる問いだからなのかなと思いましたね。わざわざ「すべてを所有する」と言い換えてるところが、所有の主体を想定しているわけだから…かなり酔ってきて思いつくままにしゃべってます。
ペ:そこでいうと、シュルレアリスムの欲望の話についても、「欲望の解放のためのすべてのプロジェクトはただ欲望の商品化に導かれるだけである」というところの、欲望のある種の無意識を見つめることが、自分がもともと意識的ではないけど所有していた欲望を解放し、見えるようにする点で欲望の商品化であるということで、この文章で「労働のマトリックスの網にかかったままでの欲望の解放のためのすべてのプロジェクト」とあって、思いつきで言っているんで違うかもしれないんですけど、欲望の解放のためのすべてのプロジェクトそのものに対してハキム・ベイは否定的ってわけではなくて、むしろシュルレアリスム的な欲望の解放・想像とは違う形での方法論があるっていうところの言いたさがあるのかなと。今の読みはめちゃくちゃドゥルーズ=ガタリに寄りすぎちゃってるんでハキム・ベイをちゃんと読めてるとはいえないかもしれませんが…。
レ:p.164でイスラームのダルウィーシュの話が出てくる。余談ですがソマリアはダルウィーシュの分派が作り上げた国なんですね(※普通に間違ってました。保護領化されたソマリアでダルウィーシュ軍と保護国であるイギリスとの間で戦争が起き、その経験がソマリア人の中で現在でも色濃く残っています)。ここでケルアックの『オン・ザ・ロード(路上)』が出てくる。『オン・ザ・ロード』ってずっと移動する小説なんですよね。アメリカ中をとりつかれたように車で行き来する小説で、どこかへ行くために移動するのではなくて、移動するために移動する。ここでいわれているノマド的なエネルギー、根無し草の、遊牧民的なエネルギー…以前の読書会の範囲で「ルートレス」という単語が出てきて。rootlessは文字通り根がないってことなんですけど、根がない・遊牧民的であるがゆえにそのつど新しい場所を形成できる。市民のノマド的なエネルギーをハキム・ベイはこうした宗教に嗅ぎ取っているんですよね。p.164でも「時間よりも〈むしろ〉空間のアンチテーゼのための旅なのだ」と言われているように、存在論的に人間一般が立脚する場所=トポスの、ものすごく原初的な部分からアナーキズムを考えようとしているふうに読めました。
虚:p.164-5あたりで神秘主義の系譜が羅列されているのは面白いと思います。ケルアックの目的なく動くっていうのもそうですけど、神秘主義について考えるとある意味神のほうから自分に訪れることをひたすら待ち続けるような…僕は卒論でシモーヌ・ヴェイユをやったんですが、ヴェイユは自分の中に真空が発生してそこに神が入り込むのを待機する、ということを言っているんです。詩的テロリズムによる主体の変貌というのはこれまで欲望していなかったものに遭遇するってことなので、詩的テロリズムが神秘主義的なコンテクストにつながってくるものなのかなとも思いますし。その点で目的地のない旅、決して欲望していない、ある対象に出会うための旅なのかなって思います。
レ:旅するってところが大事で。只管打坐して待ちのぞむというよりは直接出向いて会いに行く。中間的な態度ですよね。
虚:旅をビートニクと結びつけて考えると、その場から動かないトリップってのもある。そこの両義性もあるなと。LSDがインスタント禅といわれたように、動かない神秘主義とビートニクとの結びつきもある。この本で書かれているようなイスラーム神秘主義者の旅とケルアック的な旅…動くことと動かないこと。それこそドゥルーズは旅が嫌いだったって話があります。
R:レヴィ=ストロースも『悲しき熱帯』の冒頭で「私は旅や冒険家が嫌いだ」と書いている。目的地があって欲しい情報を取りに行く人類学者の方法への批判でありつつ、軍人、司祭などの仕事として旅をする人たちへの批判を感じたりはしますね。実際人類学者がどう向き合うかはここから始まってはいるなと。
虚:「目的論的な旅の否定」というコンテクストをもってくると、史的唯物論なんかの否定にもなってくるわけだから、そこについては神秘主義が同時にアナーキズムとも並行して語られがちな所以かなと思いましたね。ヴェイユも神秘主義に傾倒する以前の早い時期から史的唯物論、ヘーゲル=マルクス的な歴史観を批判していた。
R:旅の話につなげると、ある場所へ調査に行くことを可能にする背景は何かといったら、当時では植民地主義の権力関係ですよね。「目的のない旅と神秘主義」と「目的のある旅と植民地主義」という対比。レヴィ=ストロースは史的唯物論、歴史の視点でものを見ることへの嫌悪感があったんでしょうね。サルトルのアンガジュマンじゃないですけど、歴史に参加していくってことを嫌っていたと思うんですよ。
レ:この前読んだスコットも似たようなことを言ってます。レーニンがいて、レーニンがボルシェヴィキを率いて…というふうに歴史はつねにビッグネームで語られるけど、実際の歴史は草の根の市民のミクロな動きでできているというのがスコットの主張です。「大きな物語」への回収は人間の欲求としてあるんですけど、そこに対する警告を『T.A.Z.』でも言っている気がするんですよね。
R:歴史って変わらないものを描くじゃないですか。大きな歴史を書く上で切り捨てられる/選別されるもの、そこに何かがあるんですかね。引っかかってはいるんですけど…。
虚:それでいうと、マルクス主義的な、生産力が発展すればそれだけ歴史の段階としては進んでいるという論への反論として、たしかピエール・クラストルなんかは、いわゆる原始共同体といわれるコミュニティは国家を発生させる富の蓄積をみずから拒否するようなメカニズムを作って、社会そのものが国家に抵抗するようにできていると言っています。柄谷行人も生産様式Dは生産様式A(贈与の互酬制)の高次の回帰であると言ってましたけど、マルクス主義的な史的唯物論に抗するものとして、アナキズムの文脈で直線的な富の蓄積と生産力の増大に基づく歴史観とは違ったものを打ち立てようという試みが行なわれてきた側面はありますよね。
R:これは半分愚痴なんですけど日本に「人類学」って学部ないですもんね。人類学って歴史で語られない人々をフォーカスするニュアンスが強いと思うんですけど、どうも学問の世界では端に置かれているような…世界の中心と周縁は学問の中心と周縁にすごくリンクしているように感じてしまいます。シュルレアリスムの話でいうと欲望を解放させて操作する流れとか心理学とまったく同じ流れですもんね。僕は政治経済学部で人類学やってるので端っこにいる気持ちになるんですよね…。
キュ:僕の政治経済学部の知り合いも、最近ずっと毛沢東主義とアナキズムにオルグした結果アナキズムに目覚めたんですけど、思考基盤が経済学なんですよ。最終的にそいつの中で消化されたものが加速主義的なアナキズム、AIやブロックチェーンによる自律分散型のアナキズムなんです。
虚:めっちゃシリコンバレーっぽいやつだ。
レ:いちばんよくない…
キュ:毛沢東主義って知識人を農村に返すじゃないですか。経済学にも「ルイスモデル(二重経済モデル)」という、第一次産業とそれ以外の産業のバランシングがうまくいっていないとGDPが上がらないという古い理論がある。僕が毛沢東の話をしてもそこに消化されて、彼が毛沢東を評価するのは農業のバランシングなんですよ。そこがすごく面白い。同じ思想の話をしているのに与えられた枠組みが違うから切り取って作られるものがぜんぜん違うんですよね。その人がただのアナキストになったらダメなんですよ。生成変化してお互いに織り込まれる経験から新しいものが産出されるわけで。
R:二重経済モデルとアナキズムが結びつくの面白いですね。
キュ:そこはアナキズムというより毛沢東主義ですね。毛沢東主義の側面としての官僚管理でのバラシングという話で。僕はその管理面にかんしては批判的というか、そこの部分は脱色した毛沢東主義で、自分は毛沢東主義アナーキズムって勝手に呼んでるんですけど。僕としては毛沢東は「主体性」の問題でアナーキズムは「間主体性」の問題という認識です。
虚:さっき歴史の話をしたと思うんだけど、マルクス=レーニン主義的な歴史性の問題を捨象して純粋に主体化の問題だけ毛沢東から取ってくるのってどうなの?
キュ:捨象しているというか…まあこの話長くなるので今度飲んだときにしゃべりましょう。
虚:僕は「主体化」のプロセスを存在論的に基礎づけることができれば、そこから古典的なマルクス=レーニン的モデルが出てくることはないとは思います。どんな革命主体が形成されるかという話からマクロな話に移っていく点で『T.A.Z.』は面白いなと。
キュ:それこそネグリの議論ですよね。マルクス主義でなければコミュニストでありうるかという問題で、かつたんなるマルクス主義でもダメでレーニンのいう主体が必要だという話で。僕の中ではマルクス主義のオルタナティブとしてのアナキズムと、主体としての毛沢東を手放すなというロジックがある。『T.A.Z.』にもカオスな対局物がベンヤミン的弁証法イメージでつながる瞬間があって、そういう意味でのレトリックなんですよね。理論的にはもっと複雑なんですけど。
ペ:矛盾という側から『T.A.Z.』を読んだ?
キュ:そうですね。矛盾が一瞬合致する瞬間が『T.A.Z.』でも出てくると思うんです。ネグリ的な「マルクス・レーニンを手放すな」へのオルタナティブとしての可能性を言えるのかなと。詳しい話は今度飲みに行ったときにしましょう。このままだとひたすら毛沢東の話をしてしまうので…。
レ:さっきの話に戻るんですけど、シュルレアリスムがどんどん自動記述をやっていったら自己が消えるという話で、p.137で「神秘主義が『自我』を消滅させる」と信じられていることに対して「馬鹿げたことだ」と言うんですね。そのあとで形而上学の最大の課題はある意味で自己を脱構築することだと言っていて、僕はそこにすごく共感したんですよね。内部から外部を志向しようという動きが、現代思想の…すみません、話がまとまらなくて…。
虚:自我が消滅するのではなく脱構築する、そこで違ったかたちの主体が立ち現れるという神秘主義の捉え方は僕もいいなと思います。
レ:それでp.174のほうで「アナーキストたちのあるものは、(…)蜂起の瞬間それ自体の中に彼らが探し求めていた種類の自由を見いだした」とある。蜂起の瞬間にベルクソンの「持続」みたいなものを見出すというか、それを自由と呼ぶのかどうかわからないですけど。革命の瞬間こそが最高潮に達したアナーキズムだという見方はなるほどと思いましたね。それが自治につながるかはともかくとして…。
虚:大杉栄もベルクソンのエラン・ヴィタールの話をしていたというのを読んだことがあります。
レ:そう考えると存在論的アナーキズムの基礎にあるのってベルクソン哲学なんでしょうかね。
虚:それでいえばドゥルーズもベルクソンの影響が濃いわけですし。『T.A.Z.』も禅の話が出てきますけど、西田哲学もベルクソンとの関係は深いのだから、そこは近いのかなとは思いますね。日本の仏教的な政治運動、国柱会から京都学派やオウムも、仏教を読みかえるときにアナキズム的文脈から読んでいくのは、それまでに反動思想になっていった日本の仏教的政治運動を乗り越える可能性かなとは思いました。仏教のアナキズム的な側面の話でいうと、たしか戦前のダダイストもダダと仏教のつながりを言っています。最近『京城のダダ、東京のダダ: 高漢容と仲間たち』という、韓国のダダイスト知識人と日本のダダイストの戦前の交流について書かれた本を読んだんですけど、高橋新吉が自分のダダを禅の亜流だとしていたという話が出てくる。『T.A.Z.』でいわれることを戦前日本で実践していた人がいたんですよね。さっきの自我の話でも、高橋新吉の「断言はダダイスト」という文章には、「DADAは一切のものに自我を見る」「仏陀の諦観から、一切は一切と云ふ言草が出る」というレトリックがあり、ダダが仏教の言説に近づいていく。『T.A.Z.』にもシュティルナーが出てきますけど、日本にシュティルナーを輸入したのもこの時代の日本のダダイストなんですよね。日本のダダイズム史を掘っていくと海の向こうで起きていた化学反応を先取りした言説があって面白いです。
レ:日本のダダイズムがアナーキズムと接近していたというところを掘り返してみたら新しくなにかが見つかる気はしますね。
『T.A.Z.』はイメージのポリフォニーな側面を大事にしている。あとパロディの創造的破壊性ですよね。オリジナルの意味合いを「ずらす」ことで破壊に追いやるという性質。
キュ:バフチンも権威を転覆させる手段としてパロディを挙げてます。制度的に回収されないというよりは制度を解さない。道化はあえて解さず愚者として振る舞うことでパロディとしてあらゆる価値を転覆させられる。
虚:露悪的なものがスタンダードに対する逆張りだとそれゆえに価値強化につながってしまう。そこの線引きをしっかりしないといけないですよね。
レ:シェイクスピアの『リア王』にも道化が出てくるんですけど、それは権威の象徴であるリア王の半身としてなんですよね。作中では道化の存在がリア王の別人格というふうにあつかわれている。道化が権威の裏返しにも読める。
キュ:道化って喜劇的な存在じゃないですか。それゆえにつねに仮面の裏、悲劇的な面も持っている。僕は「ジョーカー」を見たときに監督は絶対バフチンを読んでいただろうと思って。ジョーカーは愚者から道化に、笑わせたかったのに笑われる存在になる。あの映画は悲劇的ですけど、ジョーカーが笑うことが喜劇にもなっている。逆張りがその価値を認めることになるって話を聞いて、『テコンダー朴』という漫画を思い出したんですけど、あの漫画ってあらゆるものを馬鹿にしているんですよね。どんな人種、イデオロギーも無差別にパロディ化されている。
レ:それって冷笑主義とすごく近いですよね。そこの危うさが…
キュ:そこはたしかに反転しかねないですけど、フロイトの言うようなユーモアによって深刻さから離れる笑いもあります。そこはたんに脱色や冷笑とは別の問題な気もしていて。冷笑は上下・権力関係があるわけじゃないですか。道化にしろ愚者にしろ下にいる立場なので。
虚:冷笑主義というと冷笑する主体そのものは安全な位置にいるけど、道化はまず道化になることから始まるわけですし。
キュ:道化の場合は権威のパロディでありながら、笑わせると同時に笑われるわけじゃないですか。そこの二重性に道化がいる。
レ:その話でヴァトーの《ピエロ》を思い出しました。ピエロの悲劇性。

references
ロバート・アントン・ウィルソン『コスミック・トリガー―イリュミナティ最後の秘密』(八幡書店, 1994)
井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス: 東洋哲学のために』(岩波文庫, 2019)
マルクス, エンゲルス『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』(岩波文庫, 2002)
鹿野裕嗣『ドゥルーズ『意味の論理学』の注釈と研究: 出来事、運命愛、そして永久革命』(岩波書店, 2020)
ジェームズ・C.スコット『実践 日々のアナキズム―世界に抗う土着の秩序の作り方』(岩波書店, 2017)
柄谷行人(他)『NAM―原理』(太田出版, 2000(絶版))『NAM生成』(NAM, 2001(絶版)),『ニュー・アソシエーショニスト宣言』(作品社, 2021)
柄谷行人『トランスクリティーク―カントとマルクス』(岩波現代文庫, 2010)
吉永剛志『NAM総括: 運動の未来のために』(航思社, 2021)
松本哉, 二木信『素人の乱』(河出書房新社, 2008(絶版))
ジュディス・バトラー『アセンブリ ―行為遂行性・複数性・政治―』(青土社, 2018)
毛利嘉孝『ストリートの思想 転換期としての1990年代』(NHKブックス, 2009)
フェリックス・ガタリ『分子革命―欲望社会のミクロ分析』(法政大学出版局, 1988)
ジャック・ケルアック『オン・ザ・ロード』(河出文庫, 2010)
レヴィ=ストロース『悲しき熱帯 I』(中公クラシックス, 2001)
毛沢東『実践論・矛盾論』(岩波文庫, 1957)
吉川凪『京城のダダ、東京のダダ: 高漢容と仲間たち』(平凡社, 2014)
シェイクスピア『シェイクスピア全集5 リア王』(ちくま文庫, 1997)
白正男, 山戸大輔『テコンダー朴』(青林堂, 2007〜)

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