ハキム・ベイ『T.A.Z. 一時的自律ゾーン、存在論的アナーキー、詩的テロリズム』読書会(1/4)

〜p.57 (第二版への前書き〜カオス:存在論的アナーキズムの宣伝ビラ)

レガスピ(以下レ):僕がこの本を選んだいきさつから話しましょうか。僕が大学で勉強しているアフリカにソマリアという国があるんですが、そこにソマリランドという国際承認されてない独立国家があるんです。ソマリア自体は中央政府が崩壊していて、「ディアスポラ」と呼ばれる海外に移り住んだ人たちがソマリランドに対して送金するカネで経済が回ってる状態なんですけど。ソマリランドは世界で唯一現存するアナーキズム国家で、僕はアナーキズムに対して関心があるのでこの本を選びました。
Taku(以下T):僕は今回の読書会ではじめてこの本を知りました。最近読んだ、ベトナム戦争時に書かれたファム・コン・ティエンの『深淵の沈黙』は、パルメニデス、ヘラクレイトスからニーチェ、ハイデガーまでの西洋形而上学と大乗仏教や禅をあつかう本なんですが、そこに出てくる井筒俊彦は、著者のハキム・ベイとイランの王立研究所で同僚だったらしくて。『深淵の沈黙』において、ティエンは資本主義と社会主義という弁証法的な対立の表象としてのベトナム戦争に対して反戦することを批判していて、というのもそれはベトナム人の思考が西洋的なものに侵されているからだ、と言っています。「弁証法的なもの」の文脈で読めればいいなと。
キュアロランバルト(以下キュ):森元斎が著書でこの本の名前だけ出していて、それで興味を持ちました。いざ読んでみると言葉選びとイメージの印象がシュルレアリスムに負っているところが多くて、作者がアメリカ人なので意外でした。たとえば「狂気の愛」というアンドレ・ブルトンの小説のタイトルを見出しに使ったり…「詩的テロリズム」の章の最後の「残酷演劇」という言葉には、完全にアントナン・アルトーの残酷演劇とその作用に対する目配せがあって。アルトーは『ヘリオガバルス:あるいは戴冠せるアナーキスト』という本を書いているし、ドゥルーズにも影響を与えている時点でかなりアナーキズムと近い位置にいる人で、全体にある、非西洋へのまなざし、魔術的なもの、薬物によって主体を変容させる、というイメージの使い方が、おそらくアルトーに大きく負っているんだろうと思いました。アルトーは『タラウマラ』でスペインのインディアンの小さなコミュニティでの魔術的な儀式を挙げて、西洋から逃れたまなざしを手に入れてアナーキズムに接近するところがある。著者はそこに目配せしつつ宣伝ビラという実践をしているのかなと。全体的によくわかんないところもアルトーっぽいと思いました。
レ:僕はヒッピー的なものだと思いましたね。60年代にベトナム戦争が起きてビートルズがサイケに走ったりしたのとダブって見えました。ヒッピーがアルトーに影響を受けた節もあるかもしれないですが。「詩的テロリズムは法に立ち向かうものであるが、しかし逮捕されてはならない」。以前読んだ『反逆の神話』は60年代のカウンターカルチャーがいかに資本主義と親和性が高いか滔々と語る本なんですが、そこで、60年代のムーブメントは問題提起と逸脱行為をごっちゃにしていたということが言われていました。ルールなんてのはお上が決めたものだから従うな!という。でもそれは必ずしも社会に対する問題提起にはならない、コミュニティをかき回すだけだろう、と。ここでハキム・ベイが言うことのそうした危険性みたいなものは感じました。暗黒啓蒙の先触れみたいな本ですね。
T:「野生の子供たち」というのも、子供=無垢=カオスというふうに素朴に称揚しているように見えるというか。カオスだから称揚しとけばいいのか、というところですよね。むしろ子供のほうが社会規範をじかに内面化する場合も多いと思うので。『神の裁きと訣別するため』でも蛆虫が出てきますよね。
キュ:アルトーは「西洋社会はあらゆるものを失った」ということを何度も書くんです。インディアンはまだなにも失ってすらいないからすべてを持っている、ゆえに西洋がもっとも劣っている。それは魔術の力によって共同体の無秩序が秩序立てられているからだと。ハキム・ベイが言う「詩的テロリズム」も、美や詩的であることが、秩序を壊す/生み出すことの表裏一体性ゆえに重要なのかなと思っていて。「花火」も美しいが本来は攻撃的なものであって、そこに「美」があるから、無秩序に秩序が生まれる、ということかと。
T:どちらかといえばヒッピーに影響を与えたのは『知覚の扉』やビートニクのほうですよね。
キュ:「魔術の復活」に主眼が置かれている気がします。制度化されていない美。
レ:一つ気になった点があって。p.54の一行目、迷信の熟語に「マンボ・ジャンボ」ってルビが振ってあるんですけど、これはスワヒリ語なんですがまったく意味が違うんですよ。挨拶の言葉、英語でいうhelloの意味です。それをなぜここに持ってくるのかなと。スワヒリ語ってアフリカの言語なので、西洋「でない」部分、資本主義と共産主義の弁証法の主戦場である西洋から取り残されたマージナルな空間、みたいな扱い方がされているようにしか思えません。それと「詩的テロリズム」の詩人が捕まるみたいなくだりで佐々木中の『切りとれ、あの祈る手を』を思い出しました。文学はヤバいみたいな。
T:佐々木は『切りとれ』で、当時は50〜100部しか売れなくても数百年後に古典として読まれる可能性がある、と言ってましたよね。ギャラリー出版メディアの資本主義に包摂されてしまうような構造の外側を目指すようなものは広くは届かないから、商業性に回収されずにやりたいことやって、ってことには「詩的テロリズム」性を感じます。
キュ:「子供達が一生覚えているようなことだけをせよ」ってめっちゃかっこいいですよね。
レ:かっこいいフレーズ多いんですよね。
キュ:「夜強盗に押し入り盗むのではなく詩的テロリスト的なものを残す」、強盗がものを置いて帰るのがすごい。家の秩序は破壊されるけど誰も傷つかず、外部の痕跡が残るという。マンボ・ジャンボのところで、もし魔術なんかが迷信だったら読者は、コカイン、銀行業務、政治、社会科学を支持する、と書いてるじゃないですか。コカインが銀行業務などと同じ敵対するものとして読める。ハキム・ベイはヒッピー的なものに対する批判意識があるのかなと。あとこの本難しいんですよね…
レ:イメージが散逸してますよね。
キュ:秩序立てて「一時的自律ゾーン」なり「存在論的アナーキー」を書き記してしまうこと自体がダメなのかな。ワードは出てくるけど元が出てこない。サンプリング元がいっぱいあって凝縮されてる感じがある。
レ:論理に反対して箇条書きで書くみたいな、シオランだっけな、そういうことを言った人もいた気がします。
キュ:ドゥルーズもそうですよね。概念を先出ししたり、一冊の書物で読める議論にはなってない。
レ:ドゥルーズ=ガタリだったり、マルクス=エンゲルスの『ドイツ・イデオロギー』だったり、論の体裁を成してない本がその後共産主義などの思想の支柱になっていくのって、個人的には納得半分なんですよね。グレーバーはたしか、共産主義思想はビッグネームの思想家しか考えてこなかったみたいに言われてるけども、実際に共産主義思想を作ったのは当時の雰囲気だったり学生だったりアカデミズム周辺の人間だ、みたいなことを言ってて。ハキム・ベイも偽名ですよね。匿名性、思想を草の根から起こしていこう、それこそアナーキズムだ、というのがあったんじゃないかと思いました。
キュ:それで思い出したんですけどアルトーも『タラウマラ』を出版するときに名前を隠すよう何度も言ってて、でも出版社に勝手に書かれたんですが。作家がもつ権威みたいなのもありますよね。
レ:名前を出すと権力的になりますからね。デリダだかドゥルーズだかが署名の話をしてたじゃないですか。僕の知識が足りないのでこれ以上深いことは言えないんですが…。
キュ:なにかを語るにはこの短い文章に情報量が多すぎて、語ろうと思えば語りすぎるくらいには濃いですよね。
レ:ビジュアルのイメージがすごく先行してるなと思って。思想を語る上でビジュアルのイメージを先行させるのは、そういう戦略なのかもしれないですけど。アメリカにアフロフューチャリズム(アフリカ未来主義?)という思想があって、厳密にはアメリカのアフリカ系黒人がワークショップなりzineなりを作って起こしてるムーヴメントなんですが、それもビジュアル先行なんですよね。具体的にアフロフューチャリズムがどんな思想かというのはだれも言わない。ハキム・ベイもアナーキズムというものをビジュアル先行型で捉えてたのかな〜と。
キュ:アフロフューチャリズムにしろ、そこにはマルクス主義、目的に向かう思想の失敗というのがありますよね。ドゥルーズもそうですし。それこそ今の加速主義だって、加速させろとは言うけど加速したあとの世界ってどうなるのって話で。
レ:グレーバーもブルシットジョブが何かは言いますけどブルシットジョブをなくす方法は言いませんからね…。
キュ:グレーバーはアナーキズムを確実に定義しようとしてますよね。『民主主義の非西洋起源について』も、アナーキズムこそ民主主義と同義であるという話をしてますし。国家なき社会における民主主義の可能性は言ったりしてるんですけど、実際それをどう起こすのかというところは欠けている。最近はネグリとグレーバーを合体させれば何か見出せるんじゃないかと思っていて。ネグリはマルクス主義に依拠しつつも学生/環境運動なりが水平的につながって相互に関連しあい、〈帝国〉化した世界でのバランスをとるものとして「マルチチュード」の可能性を語っていて、転覆が起きたときにマルチチュードがどれだけつくられているか、どれだけ開かれたものであるかが大事で、世界に隙ができるまで、広い意味での「運動」がゆるく水平に連帯してることの重要性を、マルクス主義の中で定義しようとしているんです。ネグリ自体はアナーキストではないんですが、そこに近く、より体系立てられたものを目指している気がします。
レ:グレーバーはたしかマルチチュードという呼び方に反対してたんですよね。
キュ:あの二人やってること同じなんですよね。ネグリの著書にもグレーバーが組織していた活動が例に挙がったりしている。ネグリは理論とそれを束ねる体現者(マルクス主義でいえばレーニン)と出来事の三つの要素が揃うと革命・変革が起きると言っていて。バディウはマルクス主義を捨てて超人的なものがいるだけでそれを体現できると言い、バシュラールはマルクス主義は捨てないけども、存在者は必要ないということを言ってます。
レ:そこで超人みたいなものを持ち出したらやっぱりニーチェの閉じた密教思想的なものに接近しそうで怖い気もします。かといって組織しないのも問題がある。グレーバーはインタビュー集で、リーダー、権力者がいないグループというのは、もっと醜悪な形で権力を生成する、ということをジョー・フリーマンを引用して言ってます。そこの按配が難しいですよね。
キュ:香港のデモもリーダーのいないデモだったけど、日本だとアグネス・チョウが女神みたいな報道がされてましたね。リーダーがいないと責任が取れないっていうのは日本の戦後がそうでしたよね。アナーキズムはそれを否認しているというか。
レ:最近的場昭弘の『未来のプルードン』を読んだんですが、そこで驚いたのは、プルードンは資本主義を肯定してたんですよね。彼が言っていたのは中央政府がいない状態だから、政府の手が介入しない市場は奨励すべきだというようなことを言っていて。そこで労働者同士のアソシエーションが大事だと。ハキム・ベイのこういう著作を読むかぎり、連帯とアナーキズムの関係ってこじれてるなと思って。連帯しつつ連帯しない、力合わせるけど群れない、みたいな。
キュ:このあいだ外山恒一の『政治活動入門』を読んだんですが、ファシズムというのをナチス的なそれから一旦置いて、思想の源流をたどるんですけど、外山恒一いわくファシズムはアナーキズムともっとも近い概念で、ムッソリーニ体制では、ファッショ=束という言葉にもあるように、はじめは集うことだけが目的で、そこで各々が自由に発言し、思想を展開できる場をもうけていたらしいんです。内ゲバもなくお互いに異を唱えることが許されていて、集まって何をするか、政権を奪うか、共産主義的なものをするか、というのはある種民主的に開かれていた。完全なアナーキズムは一ミリも体制を許さないけど、それではノーをつきつけることはできても、政権を奪うことはできない。ファシズムはそもそも中身がない、イデオロギーとしては集まることしかないから、ナチスではユダヤ人差別やナショナリズムと結びついた。実際ナショナリズムと相性がよくて、右系のアナーキズムみたいな認識もできる、と。
レ:要はファシズムは容れ物でしかないってことですよね。
キュ:政治的な力をもつために集まって党派を組むことが根源にある。ソレルやサン・シモンの労働組合がより広くなってファシズムになったと。アナーキズムが目的になる。
レ:ドゥルーズもたしか政府は左派のために開かれた場所を持つべきだ、というようなことを言ってます。容れ物としてしか機能しない、中心のないイデオロギーは大事なのかな〜みたいな。
キュ:ネグリと外山恒一の言ってることってそんな変わらないんじゃね?と読んでて思ったんですよ。外山恒一は右、ネグリは左寄りだけど、集うためのファシズムってマルチチュードと根本的に何が違うんだろうと。マルチチュードは束にならずに横に広がるけど、ファシズムは当然リーダーが生まれるし、中心はないにしろ組織としての中心、権力が生まれてしまうのかなという。
レ:アフリカもイギリスから間接統治を受けた時代に無頭制社会に対してチーフ(統治者)を無理やり作り出すことで都合のいいように人頭制を稼いでいたところがあって、でも、そんなふうに回顧される原始共産的な無頭制社会がどこまで信用できるかって話で…立岩真也がエンゲルスの『家族・国家・私有財産の起源』に対して、あそこで言われている原始共産制の社会というのは当時の資本社会の裏返しでしかなくて、それはよくないと言ってたんですね。カオスなものへの接近が、われわれの社会がネガティブで、その裏返しがポジティブ、というものにも読める。
T:資本主義の批判から原始共産社会が構想されるのはわかるんですが、そうじゃない強力な共産社会像を打ち出すとしたらどこから持ってくるのかが難しい。ハキム・ベイはそれを「魔術」に求めているということなのかな。
レ:ホッブズやルソーがなんとか苦労してどうやって社会が立ち上がったか言ってますけど、ホッブズの議論っていっさい魔術は出てきませんよね。きわめて理性的なところで論理立ててコミュニティの形成を描写してはいるんだけども、もっと混沌としたものが根底にあるよねってことがハキム・ベイの主張なんじゃないかと。そんな理路整然と社会作んないよね、みたいな。
キュ:社会契約なんかの問題って、所有権じゃないですか。財産を持つことを認めるのはすくなくとも法律的なものでしかないし、それをホッブズは自然権にまぎれ込ませたわけですけど。そういう社会で所有できないものは価値がないわけで。魔術やカオス的なものって所有はできない。西洋が所有概念にとらわれているかぎりは…という。それこそアルトーも西洋の文明が利便性を重視したがゆえに多くのものを失いまくったと言っている。たとえばものを交換するにしろそれへの思い入れは考慮されないわけで。精神的なものは西洋的な文明の体制からは除かれるみたいな。
レ:やっぱり貨幣ってものが脱魔術化ですよね。モースの『贈与論』を読んでて思ったんですけど、コミュニティ間でものをもらったり/あげたりする文化っていうのは、現地の人たちはそこに霊的なものがくっついてると考えるんですよね。強迫観念的にもらったものをお返ししないといけない、と。ハキム・ベイもp.33の「アート・サボタージュ」で通貨を破壊することがすぐれたアート・サボタージュではないかと言っている。貨幣なくして霊的なものの復権というふうにも読めるんでしょうか。
キュ:国王が隣の島に首輪渡して、その隣の島が隣の島に…みたいなふうに贈り物を循環させる諸島がたしかあった気がします。
レ:たぶん『贈与論』のポリネシアの人たちですよね。たしかそこで授受されるネックレスってできるだけ価値がないほうがいいとも書いてました。そこの認識論的転回というのかな、価値のないものに価値を見出す、というような。
キュ:以降の章で「海賊」って表象出てきますけどやっぱり海賊ってアナーキストには重要なんですかね。
キュ:ソマリアにも海賊が経済立ててるところがあるんです。中央政府がいないかわりに海賊で生計立てて公共サービス提供したりしてるんですよね。高野秀行がソマリランドについてけっこう分厚い本を書いてます。

references
ファム・コン・ティエン『深淵の沈黙』(東京外国語大学出版会, 2018)
A・アルトー『ヘリオガバルス: あるいは戴冠せるアナーキスト』(河出文庫, 2016)
A・アルトー『タラウマラ』(河出文庫, 2017)
J・ヒース, A・ポター『反逆の神話: カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか』(NTT出版, 2014(絶版)、今夏文庫化予定)
A・アルトー『神の裁きと訣別するため』(河出文庫, 2016)
オルダス・ハクスリー『知覚の扉』(平凡社ライブラリー, 1995(絶版))
佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』(河出書房新社, 2010)
マルクス, エンゲルス『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』(岩波文庫, 2002)
D・グレーバー『民主主義の非西洋起源について:「あいだ」の空間の民主主義』(以文社, 2020)
的場昭弘『未来のプルードン——資本主義もマルクス主義も超えて』(亜紀書房, 2020)
外山恒一『政治活動入門』(百万年書房, 2021)
ドゥルーズ『ジル・ドゥルーズの「アベセデール」』(角川学芸出版, 2015)
稲葉振一郎, 立岩真也『所有と国家のゆくえ』(NHKブックス, 2006(絶版))
エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』(岩波文庫, 1965(絶版))
マルセル・モース『贈与論 他二篇』(岩波文庫, 2014)
D・グレーバー『資本主義後の世界のために 新しいアナーキズムの視座』(以文社, 2009)
Jo Freeman "Tyranny of the Constructurelessness" (https://www.jofreeman.com/joreen/tyranny.htm)
高野秀行『謎の独立国家ソマリランド』(集英社文庫, 2017)

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