本当に目標がなければまずいのか?

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なぜ生きているのかわからないという根源的な不安がある。だから「わかりやすい」目標があると、人生が「わからない」という不安が減じるとは思う。これはこれで解決策であるから、それはいいのだが、では何が何でも目標を設定するとなると、それも違う。「わからない」のは人生の根源的不安であり、それは致し方ないのである。目標設定は、ひとつの誤魔化しであり、どうしてもそうしなければならないわけではない。たとえば障害者の人がパラリンピックを目指すのは、いかにも人工的な目標に思える。障害者がスポーツをするというのは、必然性がないし、人工的な箱庭設定で目標を作ってあげているわけだ。目標のための目標と言っても差し支えあるまい。パラリンピックは虚無である。出来レースだから本当の競技ではない。それでは、健常者のオリンピックは虚無ではないのか、というと、運動は動物本能の延長であるから、人工的とは言えない。オリンピックにしても、マラソンでたくさん走って何になるとか、陸上競技で人より速く走っても仕方ないとか、ニヒリズム的に難癖をつけるのは可能だが、やはりパラリンピックとの対比でいうと、健常者のスポーツは動物本能だが、障害者スポーツは動物本能ではない。要するに、障害者の人の人生に目標がないから、人生の意欲を与えてあげるためにパラリンピックという人工的な競技会をやっているわけである。そもそも健常者であれば目標がある人生とは限らないし、障害者は無為で鬱屈した毎日を過ごしていると決めつけるのも失礼な話だ。冒頭に述べたように、「わかりやすい目標」があれば人生の不安が減るので、それはそれでいいが、なければないで仕方ないものである。人生について、「わからない」という不安があるとしたら、それはそれで真理を知ってしまったようなものだし、ただ不安に耐えるしかないのかもしれない。ごく普通の人間が不安を抱えている場合、誰かが「わかりやすい目標」を与えてくれるわけではないし、せいぜい「やりがい」を搾取されるだけだろう。
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