お詫びにチート全盛りしたけど、現代日本じゃ使い道がない。 作:チート全バフ
宗教家たちの『聖女』への批判はともかく、信仰の危機を前にして行動をしなくてはならない彼らの気持ちは理解した。
数千年と歴史を積み重ねた宗教が神の『威光』を放つ神像と『聖女』の奇跡の携えた聖女教によって、自分たちの信ずる神に対する信仰心と共に大きく揺らいでいるのだ。これはどちらの宗教が正しいなどという不毛な議論の話ではなく、宗教的指導者である立場の者が信者たちの信仰を守ろうとするのは当然のこと。
聖女教の信じる神様は本物であると俺は確信しているのと同時に、目の前に並ぶ様々な宗教の指導者たちの3割くらいは自分の信じる神様の存在を確信している。
隕石を追い返し、死者を蘇らせ、そして傷を癒して空を飛ぶ『聖女』と神像の『威光』を前にしても揺るがない信仰心、きっとこの頑迷ともいえるほどに強固な心を持つ者が、死後の世界で本物の神様と出会った末にそれでも屈せずに存在を否定して地獄に堕ちるのだろう。
残りの7割は神様を眼前にすれば簡単に心を入れ替えそうな、良く言えば柔軟さ、悪く言えば日和見主義の信仰心、こっちの方は信念の欠片もないのでどうでもいい。
「奇跡の独占を阻止したいってことですよね?聖女
「新興の宗教としての歴史の浅さを考えれば、聖女の起こす奇跡によってのみ聖女教はその隆盛を誇っているのは自明の理。信仰を奇跡という実益によってのみ信者が求めるなど、それは神を信ずる神聖な行いである信仰の在り方として間違っている」
人心を掌握するために奇跡を宣伝文句に使われることが多いと思うけど……いや、それを本当に行える存在が現れたから困ったことになっているのか。
神話や逸話で起きたとされる奇跡、それを取っ掛かりにして自分たちの宗教へと引き込む。そこから強固な宗教的な世界観と哲学と道徳を説いて、神への信仰と心の支えとなる信仰心を与えているのが今までの宗教の形であるのに、いきなり神の存在証明として『奇跡』を体現する聖女教など型破りもいいところだろう。
神話の物語や日常を生きる糧となる教義という『言葉』によって信仰を形作るのではなく、初手で神様の威光を浴びせ『体験』として信仰の型に嵌めるという聖女教の手法は、明らかに従来の宗教とは全く違う信仰へのアプローチである。
言葉ではなく目に見える『奇跡』と神像の与える神様の威光という『体験』。
その身で神を身近に感じ信仰を魂に叩き込む。カルト宗教が神秘体験を売りにするのにも近いが、それが
俺からしたらそれこそが『本物』であり『真実』なのだが、彼らからすれば自分の宗教観とは大きく異なる『奇跡』などは否定して『悪魔の誘惑』とレッテルを貼り忌み嫌うのは仕方ないのかもしれない。
聖女教の言う本物の神様は実在してるし、死後の世界も地獄も体験してるからなぁ……。俺からすると他の宗教の存在自体が地獄への片道切符を売り歩いているように見えるが、それは向こうからみた聖女教に対する感じ方と同じか。
現実問題として本物の神様と出会った身で『力』も『才能』も与えられている以上は、宗教家が何を信じようとも個人の自由であるのだが、聖女教の神様こそ『本物』と確信している俺からすれば、本物の神様を否定する行為に手を染めて、大勢の人たちを地獄に堕とす手引きをしろ、と言われて頷けるわけがない。
目の前の宗教家たちが自分たちの世界観を信じているように、俺も自分が体験した世界観を絶対と確信しているのだ。
「俺は聖女教の教える神様を信じている身なので、それを否定する手伝いはできません。聖女教の神様を大勢の人たちに信じてもらって、より多くの人が地獄に堕ちないようにと心から願っているので」
「君は聖女教の信者ではないのだろう?」
「聖女に関しては俺は崇拝なんてしませんが、彼女が信じる神様については本物であると
「ふむ……そうか」
信仰は違えども神様に対する絶対的な確信を持つ者同士で通じ合うことがあった。
頑なな信仰心を持つ3割の宗教家たちには俺の説得は無理だと悟っている。これだけ言っても残り7割はまだ諦めきれてない様子であり、さまざまな説得と聖人などの宗教的な地位という
聖人の地位を与えるとか指導者に据えるとか……自分たちの宗教を守るためとはいえ、流石にやりたい放題じゃないか?俺は聖女教の信じる本物の神様を信じていると明言してるのに、そんなの関係ないとばかりに俺の信仰心はガン無視かよ。あっ、3割の篤い宗教家たちが激怒し始めた……宗教指導者同士の論戦に発展したぞ……。
宗教を私物化する宗教家たちを本物の信仰心を持っている3割の人が批判する。
聖女教という明確な脅威が存在しようと、それでも宗教的指導者として越えてはならない線があるという論調で舌戦が始まった。様々な宗教家、信じる神も違い、その世界観すら相容れないものがあるとなれば、種火を放り投げれば、まるで世界の宗教戦争の縮図のように激しい罵り合いという惨状と化してしまう。
聖女教のように『奇跡』によって信仰の正当性を主張できないのならば、『言葉』による信仰心の激しいぶつかり合い、そして決着の付かない不毛な宗教論争へとヒートアップした。
ただですら聖女教という敵に対して気が立っているのに、そこに宗教を私物化するような発言をする同じ宗教家を見れば、火に油を注ぐが如く激しく燃え上がる。
俺はただ椅子に座りながらその光景を眺めていた。
世界的な宗教指導者が集まり壮大な論戦、この場面が生配信されれば信者同士でも喧嘩が始まり刃傷沙汰になりそうだと思いながら、不毛な議論が終わることを待つことにした。
結局、白熱した議論の末にとうとう手が出た宗教家による暴行事件が起こり、コミュニティの代表団の『否定派』の判断によって、彼らを全員追い出すことで事態の収拾を付けるのだった。