お詫びにチート全盛りしたけど、現代日本じゃ使い道がない。 作:チート全バフ
『樹海の魔女』が聖女へと昇華しての1年が経っても世界中の誰もが彼女を崇めていた。
隕石の衝突という人類滅亡の危機を救った本物の救世主。
書物に語られるだけの逸話や奇跡より、目に見える形で奇跡を行使する聖女が現れたとなれば、その聖女を教祖と据える『聖女教』の勢力の拡大は留まることを知らない。
信仰のハードルが限りなく低い教義、善行を積んで聖女の語る神様を信じるだけで良いといういい加減さ。無宗教の人が多い日本ではあっという間に広まっていった。
目に見える形で現世で利益を与える聖女、神様を信じて善行さえ積めば来世の保証をされる教義。
現金な話であるが、信じるに足るほどの奇跡と利益を提示されて、信仰のために行動を制限されるような面倒なこともないとなればとりあえず入信しよう、という日本人がほとんどだった。宗教の掛け持ちをしても良く、聖女教の善行も悪行も現実の社会規範に則っているので言い方は悪いが信仰する上での
しかし大きな欠点も存在していた。
聖女の言葉を元に作った教義だけではあまりにも薄っぺらいのだ。哲学も道徳も既存の社会の常識に依存し、心の拠り所となる信仰と呼ぶには余りにも拙いもの。聖女教が宗教の掛け持ちをしていい理由も、その脆弱性に気付いているからであり既に出来上がっている強固な世界観の他の宗教に頼っている形なのだ。
聖女にとっては神様を信じて善行を積めば天国に行けると理解していようと、その死後の世界も神と呼ばれる存在と出会う体験をしていない信者からすれば、もっと安心して心の支えになる確かなものが欲しかった。
信仰のハードルの低さと手軽さ故に信仰を強く抱くことができない。
つまるところ、聖女教は教祖である聖女の
発足して数年という短い期間もあり、教団としても屋台骨も安定していない。教祖である聖女もほとんど表舞台に出ないとなれば、当初はその勢力の拡大を恐れていた宗教家たちも、実際に広まってみればそこまで脅威でもなんでもないことを理解する。
一定数の勢力は残るだろうが世界的にその聖女教だけが席巻するなどあり得ないことを悟り、『
学者の予想では教祖が消えれば宗教団体として消滅し、その教義のシンプルさから民間信仰レベルにまで落ち着くとされていたのだが――――
『神の威光を放つ偶像を聖女様から授けられました!これは本物の神様の『後光』!浴びるだけで魂から神の存在を確信させるという素晴らしい像なのです!これが、なんと1000体もの数があり世界中の何処へでも神様の威光が届くことでしょう!』
――――宗教としての信仰の脆弱性を『聖女』の奇跡によって補うことで事態は急転する。教義ではなく本物の神の『
浴びるだけで魂を清められる聖女の『後光』。
まるで神を眼前にしたような『畏敬』を覚え、どんな犯罪者も狂人もその光に晒されるだけで穢れを濯がれたように落ち着く。社会実験の一環で聖女の『後光』を放つ映像を治安の悪い地域で流すだけで犯罪発生率は急激に抑えられ、凶悪犯を収容する刑務所では囚人たちが心を改めたように大人しくなるのだ。
映像越しの『後光』ですらこれだけの鎮静効果を発揮する光を直接浴びせられたらどうなるか。
聖女教が世界各地の教団に設置した神の像の効果はあまりにも絶大だった。
魂を清められ、邪な感情を抱くことのない心、心身共に神の『後光』によって濯がれた信者たちの信仰心はより篤いものとなる。
言葉ではなく体験として神を身近に感じられるのだ。
神の『後光』からもたらされる『威光』を知ってしまえば、どんな優れた説法もただの道徳規範を唱える言葉以上の感想など湧いてこない。
日本の諺ならば、百聞は一見に如かず、というのだろう。
宗教家の言葉よりも神の『威光』の方が優れているのは自明の理、それが聖女教の大きな欠点を補うどころか教義よりも結局は神のもたらす奇跡こそが真実という帰結を信者たちにもたらす。
そんな人智の及ばない神の御業で解決させていく『聖女』の奇跡に反則だろ、と宗教家は思わずはいられなかった。
悪魔や邪神と罵るには人類救済という功績が大きすぎ、そして否定をするのならば聖女の奇跡を超えなければらないという難題が待っている。
『聖女』を超えるにはそれ以上の存在をこちらも用意して対抗しようと、聖女教の躍進を阻むために『聖女』以外の自分たちの信仰に都合が良い存在を世界の宗教家たちは探し始めた。
そして、それはとある超富裕層のコミュニティで見つかることとなる。