第2話 啖呵、燈火が照らす夜道

 椿姫と名乗った狐娘が持っていた救急キットで傷の手当てをしてもらった。消毒をして、ガーゼを当ててテープをした程度だが、何もしないよりずっと良かった。

 なぜか消毒というのがアルコール度数脅威の八五パーセントの、裡辺地方の酒蔵メーカーが誇る「やしおり」という日本酒だった。おかげで、体から酒の匂いがする。こんな状態で補導されたら一巻の終わりだ。一応、燈真は停学中なのだから。

 左目の腫れが酷いこともあり、治癒を促進する包帯型の呪具を巻いていた。変な紋様が書いてあるせいで、思春期のイタい妄想に取り憑かれた中学生みたいになっている。


「あんたの家って、あそこでしょ」

「ああ」


 椿姫が指さしたのは、駅近物件のマンションだ。十四回建てで、燈真の部屋は八〇五号室である。

 帰る、と考えただけで胃が痛い。しかし避けていてはどうしようもないのだ。燈真はエレベーターホールに入り、エレベーターの呼び出しボタンを連打した。

 椿姫は黙ってそれを見ている。何か気がまぎれるようなことでも言ってくれればいいのに、何も言わない。

 ケージに乗り込んで八階を押し、閉じるのボタンを押し込む。体が押さえつけられるような上昇感が起こり、動き出した。エレベーターシャフトを駆け上がる小さなカゴの中で、燈真はさっき喰らった殴打のダメージを噛み締める。

 人間や妖怪と喧嘩した時に何度も殴られている。けれど、その痛みとは比較にならない。


「鼻息が荒いけど、私に抱きついたらはっ倒すから」

「誰がお前みたいなのに抱きつくか!」


 エレベーターが開いて、燈真は降りた。通路を右に曲がり、八〇五号室へ。鍵を取り出して開ける。ゴールデンウイークに合宿で取ったバイク免許と、それを理由に父が買うだけ買って載っていなかったオフロードバイクをもらった際に拝借したバイクの鍵も、くっついている。

 玄関を開けると、自分の家なのに他人の家に来たような匂いがした。


「リビングに誰かいるな。あのアマ、また男連れてきてんのか」

「変な家ね」

「こういうの、今時普通だぜ。いっそクソアマぶっ殺しゾーンがないのが残念だ」


 口汚く吐き捨てる。それだけ、燈真はあの女を——再婚相手を嫌っていた。

 ドスドスと足音を立てながらリビングを開ける。また俺の部屋で腰を振っていたら、言い訳を喚かれる前に殴る。そう思いながら。

 それだけの悪意が滲み出ていることを、燈真は自覚しているのだろうか? そんなだから魍魎が寄るのだと、椿姫はため息をつく。


「おい!」


 リビングにいたのは、義母——ではなく、実父だった。

 漆宮孝之しのみやたかゆき。旧姓・香川。芽黎がれい時代の現代、結婚後夫婦がどちらの姓を名乗るのかは選択できる。父は身寄りがない母の名を残すことを選んだのだ。


(その家名を、クソ女に寄越すんじゃねえ)


 燈真の怒りが刻まれた顔を、父は銀縁の眼鏡越しに見上げた。

 椅子に座って、ビール缶をグラスに傾けている。


「燈真、魅雲村みくもむらという場所を知っているか」

「知らん。それが」

桜花町ここは人が多い。多すぎる。少し空気の綺麗な田舎で休むといい」


 それが、言い訳であることなど——明白だった。


「はっきり言えよ。会社での立場が悪くなるから切り捨てるってよ。そりゃそうだよな、プロジェクトを任された室長の息子に逮捕歴があったんじゃ、出世の足枷だ。そうなんだろ」

「決してそうじゃない。お前のためなんだ。わかってほしい」

「くだらねえ。……こっちから出てってやるよ、こんな家。……荷物まとめたらさっさと出てく。十六年、世話になったな」

「燈真、そうじゃない! ……、違う、違うんだよ」


 燈真は大股で自室へ向かった。孝之は額を抑え、ギネス記録の限界に挑むようなため息をつく。


「孝之さん、燈真のこと——」

「いや、大丈夫。柊様と君たちを信じるよ。息子を、どうか頼んだ」

「ええ。……それが、浮奈うきなのためになるなら」


 椿姫は父親という存在の苦悩と、そして思春期ゆえの意地っ張りを相互に見て、安易にどちらの味方にもなれない己の立場に歯噛みする。

 孝之は、もっと踏み込むべきだ。そして燈真は、もっと歩み寄るべきだ。傍目にはそれが痛いほどよくわかる。だが他ならない己が十年前に母親と同じことをした。

 椿姫は今年で、六七歳である。妖怪だから人間換算で十六歳、女子高生をやっているが、彼女はなんだかんだで六十七年生きていた。成長の度合いがゆっくりであるとはいえ人並みに反抗期を経験していたし(なんなら今もそうだし)、それゆえの親子喧嘩も一回や二回ではない。

 そして、だからこそ部外者に首を突っ込まれる不快感を知っていた。

 自分の人生がかかった大切な時間。それが思春期だ。そこに、部外者の介入を許す気がないのは人も妖も同じである。


 三十分ほどして、燈真がやってきた。ボストンバッグとリュックサックに荷物を突っ込んできたらしい。最低限の着替え、筆記用具くらいしか持っていないのだろう。

 椿姫が一応、老婆心で聞く。


「学校の教科書とかは?」

「わざわざ家に持ち帰ってきてない」


 どうやら高校に置いてあるらしい。テスト期間前だったり、生真面目な生徒でもなければむしろ普通かもしれない。燈真は、まあ、あまり自主的な勉強をする方だとは思えないし。

 孝之が何かを言いかけ、やめて、しかしまごつくように眼鏡を拭き始める。

 焦ったくて仕方なかった。椿姫は慣れない念話で、燈真に聞こえないように孝之へ「今のうちに言っておきなさい」と発破をかけた。


「燈真」

「……何」

「風邪、引くんじゃないぞ」

「……ああ。親父も、気ぃつけろ。あと、秋斗を頼む」

「わかった。……行ってこい」


 燈真は黙って廊下に向かって歩き出す。リビングのドアを開けて、少し立ち止まって、


「悪かったな、不出来な息子で」


 自虐的にそう言って、出ていった。

 孝之は虚をつかれたような顔をして、そして俯いてしまった。

 椿姫は「大丈夫。私が根性を叩き直す」と胸を叩き、燈真に続いて部屋を出ていった。

 八〇五号室を出ると、夜風が怪我だらけの体に吹き付けられる。

 燈真は部屋のドアを少し撫でて、拳を少し押し付けてから、意を決したように歩き出した。

 椿姫にはそれが燈真なりの静かな覚悟と、男としての闘志の現れのようにも思えて、差し出口を叩く気にはなれず黙って付き添うのだった。


×


 夜行バスのチケットは取ってある、と椿姫は言った。段取りのいいことだと燈真は思いながら、夜食を買うためとコンビニに寄っていた。


「椿姫、魅雲村ってバイトできるようなとこあるか」

「バイトっていうか、あんたを鍛えるからそんな時間ない。……親友との約束で、あんたを色んな意味で強くしないといけないの」

「親友……? 強くって、精神的に?」


 燈真は惣菜パンのコーナーを眺める。カレードーナツや焼きそばパンの売れ残りに、安いハンバーガーが二個ほど残っている。それ以外は、燈真が苦手とする甘い菓子パンがほとんどだ。


「それもある。あんたさ、濡れ衣着せられたんだって?」

「お見通しかよ。そーだよ。通草あけびっていうクソ野郎にな」

「そのクソ野郎の祖父が権力者だから言いくるめられたんだっけ。でね、その権力者ってのが私たちにとってもほんっとうにイヤ〜なやつでさ」


 椿姫が生クリームとあんこがたっぷりのコッペパンを手に取った。そんなの食ったら味覚がバカになるぞ、と言いたくなったが、まあ何を食うかは個人の——個妖こじんの自由だ。

 燈真はパンは諦めて、プロテインドリンクと、おにぎりのツナマヨを二つ選ぶ。一説によればツナマヨおにぎりはあるメーカーに務める社員の子供が、ツナにマヨネーズをかけて食べていたのを見て思いついた具らしい。そんなトリビアを、雑学系の本で読んだ記憶がある。


「それと俺の鍛える話がどう繋がるんだ? 地下闘技場でも牛耳ってんのかよ、あいつのジジイは」

「やつが牛耳ってるのは退魔局……の、一部一派。聞いたことない? 妖怪を徹底管理に置き、式神として使役すべし、っていう強行意見」

「反妖怪、人間至上主義ってやつだな。くだらねえ、俺らがお前らに勝ってんなら、あのバケモノくらい俺でも捻り潰せてた」


 燈真たちはセルフレジに通した。スーパーのバイトでレジ打ちは慣れている燈真は、素早くバーコードを読み取って機械を操作した。

 財布を出そうとすると、椿姫があっという間に自分の携帯端末エレフォンをかざし、ポンポンという電子マネーで支払ってしまう。


「やっぱり、あんたは根は悪いやつじゃない。……妖怪のこと、好きなのね」

「好きかどうかはわかんねえよ。でも、嫌う理由がない」

「大丈夫、村に来れば嫌でも好きになるから」


 コンビニを出て、夜行バスが待つところへ向かう。

 椿姫が選んでいたいちごミルクのキャップを捻った。パキッという乾いた音が、夜道に響く。通りが減った国道を、それでも何台かのヘッドライトが闇を切り裂いていく。


「なるほど。俺はそのクソジジイをぶっ潰すことで濡れ衣を晴らし、お前らは急進的な意見をねじ伏せるってわけだ」

「極論は、そう。でも通草は術師としてはフツーね。あいつは権力の使い方……政治力で成り上がった男だから。だから、あんたには最強の退魔師になってもらう」


 燈真は思わず、レジ袋を落としそうになった。


「は?」

「厳密には特等級退魔師ね。大丈夫、なれるなれる。男の子なんだから夢はでっかく。ね」

「待っ、た。待て、そんな無理難題を押し付けんのか⁉︎」

「無理じゃないって。難題でもないし。特等相当の妖怪は別として、人間の特等級退魔師は国内に三人いる」

いないんだよ、馬鹿! 停学くらってるようなボンクラがそんな偉業を——」


 椿姫が、燈真の耳を摘んだ。


「じゃあ、あんたは明日も負け犬のまま? 来週も、五年後も、二十年後も、濡れ衣に甘んじた腰抜けなの?」

「それは……嫌だ。負けて泣き寝入りなんて、嫌だ」

「ふうん。じゃあ、不当な方法で仕返しをして、その暴行犯と同じ卑劣なカスになる?」

「誰が! ……正当な方法で復讐する。奴らには、相応の間豚箱に入ってもらう。襲われた子は今も入院してんだぞ!」


 椿姫は人知れず感心した。なんだかんだ言って、燈真は他人のために本気で怒れる少年だ。馬鹿みたいに真っ直ぐで、愚直。だが、その心の燈火は、常に真に進むべき道を照らしている。

 あとは、彼にそれを気づかせるだけでいい。あとは勝手に、歩いていく。


「じゃあ、あんたがどうすべきかはっきりしてるんじゃないの? 家に帰るっていうなら、お父さんとの仲直りを手伝うけど」

「……啖呵切って逃げ帰れるか。……やってやるよ。最強の退魔師になって、クソ野郎を捩じ伏せてやる」

「言ったわね。……言っとくけど、修行では一切合切手を抜かない。内臓の位置が変わるようなこともするわよ」

「上等だよ。絶対逃げないからな」


 燈真は力強く言い切った。椿姫は、ひとまずはそれに満足して歩行を再開する。

 それから燈真が提げている袋からクリームとあんこのパンを取り出し、封を切った。


「椿姫、いろいろ迷ったけど、やっぱり言うぞ」

「はあ? まさかこの十秒で逃げ——」

「そういう菓子パンばっか食ってると、味覚がバカになる。ソースは俺だ」

「うるっさい! 私から甘いもんとったら生命の方にまで関わんのよ!」


 椿姫が尻尾でバシッと背中を叩いてきた。燈真は、そのモフッとした感触を少し役得だと喜んで、夜行バスが待つターミナルまで歩を進めるのだった。

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