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編集後記 |
「ボクのことを天才天才とみながいうけど、そうじゃない、ボクは人一倍走りこんでから速くなるタイプです」これは最近のレース誌に、今シーズンNSR500に乗ることになった原田哲也がよせたコメントだ。 「ストレートが速いバイクに乗って勝つのは当然だから」そしてこれは、壮絶なバトルを岡田忠之と重ねていた全日本ヤマハ時代に原田が、ホンダ車に乗る岡田を否定するようによく口にしていた言葉である。もちろん個人的な年月季節の移り変わり、要するにレーサーの老化もあるが(原田は私と同じ歳だ。そのレーサーとしての体力的、精神的な艶やかさは二十台中盤までのものとはまったく異なる)つまり原田もまた、かつては「ストレートが速くて勝ってあたりまえのバイク」と公言していたホンダに自ら乗って、バイクはそれだけでは当然ないということに気付いたのだな、と知った。 1994年、それまでホンダでしかレースをしたことがなかった私はヤマハTZ250を購入し、全日本250ccクラスに参戦した。型落ち寄せ集めパーツで組んだようなバイクでさっぱり走らず、しょっちゅうチーム員の後輩のエンジンを借りたりしていたのだが、こと足回りに関しては感銘感動の連続で、本文中にもあるようにそれは私にとって「革命的」な出来事だった。鈴鹿サーキットの3コーナー、250では3速で曲がる、まあまあ恐怖感の高いコーナーなのだが、ホンダRS250の場合は進入でしっかりブレーキングしないと曲がり切れなかった。ところがTZ250に乗ってそのステップワークを体得するようになると、ほとんど減速せずに進入でき、しかも恐ろしく早いタイミングからアクセルを開けることが出来た。それまでのホンダ車ではどんどん外に膨らむだけのバイクを力ずくでねじ伏せていた立ち上がり、TZはクルクルとリヤが旋回力を発揮して、アクセルを開ければ開けるほど内側に向かって立ち上がっていく。なんだこれは!?まさしくフォークリフトのようじゃないか!当時ホンダからヤマハに乗り換えたA級の250レーサーの中でもしも流行語大賞というものがあれば、間違いなく「ヤマハはフォークリフトのようだ」という言葉は大賞に輝いていたに違いない。そのくらいヤマハとホンダのハンドリング、しいてはコーナリングにおける方法論は、まったく違ったのだった。 さて石の上にも三年というジジ臭い格言を用いて本文を比喩的に扱うならば、意志の上にも三年、CBの上にも三年、と言い換えることが出来る。ちまたで流行りつつあったネイキッドモデルやNK4というマシンについて、当初はまったく興味がなかった。しかし肉体労働で稼いだ金を喰うものも喰わず右から左にレース資金へと流すことや、自分でメカニック、監督、シェフ、タイムキーパー、そしてレーサーのすべてをやることにも飽きていた。そこでモリワキという名門チームとそれまでに乗ったことがないNKマシンでのレースについて考え、モリワキ社長に「走らせて欲しい」と直筆便箋で手紙を送り、オーディションテスト走行を走った上で合格し、参戦することになった。今でも感心するのが「バイクを速くしすぎても意味がない」とずっと言いつづけたモリワキ社長のスタンスだ。このNK4というレースはいわゆるコンストラクターズ(分かりやすく言えばマフラー屋やパーツショップ、バイク屋だ)と鈴鹿サーキットが組んでそれぞれ活性しましょうみたいなノリで開催されたので、当然それぞれの組織には即金的な利益が不可欠だった。もちろんそれはモリワキにとっても同じはずで、バイクを速くして私が勝てばそれは経営上絶対に悪いはずがなかった。当然というかどうしようもないというか、誰もが知っているあるコンストラクターのバイクは、優勝したレース後の車検時に絶対に許されないヘッド面研のおもむろな形跡が見つかった(NK4というカテゴリーはエンジンへのチューニッグは一切不可である)。しかしそのときのモリワキの社長は「いい、黙っとけ、勝って証明しようやないか」と怒りの表情をあらわにしながらも多くを語らなかった。私もすごく悔しかったがその後のレースでは勝利し、社長と大喜びしあったのをよく憶えている。その後、初のNK4耐にチャレンジすることになるのだが、ここでもモリワキ以外のコンストラクターはコストを無視し、注目を浴び始め金になりそうな臭いを放ち始めたNK4耐にこぞってマシンに金をかけて参戦してきた。なぜ金をかけてはいけないのかというと、NK4のマシンには入賞車両の100万円での売却ルールがあり、要するにそれを超えるような金額の仕様にすることは本来の狙いからはずれる、という大前提があったからなのだ。またコンストラクターが金をかけてマシンレベルを上げると、その環境にプライベーターがついてこれなくなるという側面も意識しなければならなかったはずだ。しかしそれらは目前のおいしい餌を前にあっさり破られ、開催当初の目的や狙いなどは簡単に消え去ってしまった。NK4耐表彰式で100万円以下のコストで製作されていた3位までの入賞車は、私のCBだけだった。そこでようやくモリワキの社長も「せやったら、やったろやないか」となり、古いダイマグ(これはモリワキがゼロゼットシリーズを製作したときの在庫として残っており、外面的にはともかく、モリワキ社内では、実質的なコスト増にならなかった)製ホイールをCBにはめこんで、以降のブッチ切りレースを展開していくことになるのである。 翌年はウェイトハンディキャップ制度が設けられ、開幕から3戦連続優勝した私は、それまで経験のない最高ハンディ、15キロの鉛を背負って鈴鹿200キロの併催レースに参戦する。15キロハンディを背負うと、鈴鹿のストレートエンドのスピードだけで10km/h以上、遅くなる。モリワキカラーのマシンは見た目こそ迫力ある風貌だったが、ストレートや立ち上がりはとてつもなく遅くなり、勢いを失ってしまった。そのレースでトップ争いをしたハンディウェイトのないハニービーのマシンには、直線で20メートル以上放される始末で、まったくレースにならなかった。結局このレースでこのシーズン初の黒星を喫する訳だが、それが耐久前のいい発奮材料となり、NK4耐ではスタートから他車を一切寄せつけずに完璧なぶっちぎり優勝を果たす。その後の最終戦ではウェイトハンディを背負ったまま、200キロレース時に負けたハニービーを完膚なきまでに叩き潰して、完全勝利を決めた。余談だが、そのレース後、前代未聞の「ゲリラライブ」を鈴鹿サーキットのポディウムで敢行してしまったのだった。しかし結果的にはここまでが、NK4というカテゴリーで私が楽しんだ季節となった。 さて、石の上にも三年、CBの上にも三年という格言は、しかし翌年には、意志の飢えには三年という苦言になってしまった。NK4というカテゴリーに国際ライセンスは出場できなくなり(これは底辺拡大という大義名分で、もちろん絶対にそんなことにはならないと私は猛反対したが、却下された。その後の顛末はご存知のように、NK4というレースは退廃の一途を辿り、今では風前の灯火と化してしまった)スーパーNKという、リッタークラスとの混走レースに出場することになる。ストレートスピードが40~50km/h以上も違うバイクとの混走・・・。かくしてレース前にミーティングが行われ、レースは2ヒート制とし、2ヒート目のグリッドは1ヒート目のゴール着順と反対にするということが告げられた。それはよりレースを面白くするための措置ということらしかったが、またしても私は反対した。仮にNK4で6位以内でゴールするようなことがあった場合、次のレースでは最後尾から6つ以内のポジションでスタートすることになる。しかし当然周囲はリッターバイクばかりなので、400に乗る人間はスタートして1コーナーに入る頃には間違いなくビリになるだろう。ただでさえ不利なのに、そんなデキレースがあるだろうか?やる前から結果が分かっているデキレースに参加することは出来ない。参加半数以上がNK4のマシンなのに、なぜリッターバイクばかりを保護するのか?私の抗議に主催者は折れ「2ヒート目のグリッドはそれぞれのクラスで逆にし、NK4の最後尾(つまり1ヒート目でNK4の中でトップゴールした人)とリッタークラスの最前列は少なくともスタート後の直線で簡単に追いつけないくらいの距離を置く」ということで合意した。 1ヒート目。私は必要以上に果敢にアタックし、5位でレースを終えた。当然回りは1000cc以上のバイクばかりで、直線で100メートル以上離されるバイクすべてをコーナーで追い越すしかなかった。ものすごく苛立つレースだったが「しかし逆グリッドになる2ヒート目なら、もしかすると勝てるかもしれない」とも考え、ふてくされずにゴールを目指した。このときのマークした東コースのレコードタイムも未だ破られていないはずだ。 しかし、約束したはずのレギュレーションは簡単に破られた。1ヒート目のレース終了後に配布されたグリッド表は、単純な逆グリッドだったのだ。つまりそれぞれのクラスを分け隔てたものではなく、そのまま、さかさまにしただけだ。私は競技員がたむろするコントロールタワーに駆け込み、主催者や競技監督を怒鳴りつけた。ふざけるなと。約束はなんだったのだと。こんなレースに俺は出れないぞと。あんたらはなんで平気で約束を破るのだと。「どうしようもないんです」彼らはそれだけしか言葉を発しなかった。そしておののくだけだった。そこへモリワキのスタッフと社長が現れ、私をなだめた。ナシモト、とりあえずサイティングラップに出て来い。私は自分がしてきた「レース」というもの自体がなんだったのか分からなくなるほど嫌気が差してマシンに乗り込み、サイティングラップを回った。周囲をビッグマシンに囲まれた、1コーナーがまったく見えないほど後方のグリッドに着くと、競技監督がそこに待っていて「頼むから走ってくれ、ボイコットされたらカッコつかん、キミの言いたいことはよくわかる、だけどどういようもないんだ」と涙ながらに懇願された。モリワキの社長やスタッフは顔を歪め、私はこのスーパーNKというレースに今後出場するのを止めようと、このときに決めたのだった。 そういうドロドロがあって、それでも他にやることもないしそのシーズンにモリワキのスーパーバイクに乗るライダーは決まっていたので、NK4耐には参戦するこになった。その過程で、TZのようなハンドリングのCBを完璧に作ろうと思ったのだ。NK4というカテゴリーに参戦出来ない以上ウェイトハンディは必要なかったので、165キロのバイクでのセッティングを煮詰めていった。本文中にあるサスペンションのレイダウンとは、その取り付け位置を変更させてやることでサスそのものを寝かせ、動きを変えてやるものだった。その効果は触れたとおり素晴らしいもので、実際あのときほど私の感覚に合うマシンに出会ったことはこれまで一度もない。あのCBに比べれば、NSR500もRVFもACも929RRもR1でさえも、ストレスを感じるバイクだ。但しレイダウンはただ寝かせればいいというものではなく、あくまでその位置を探りながら、いくつかの場所でトライする必要があった。まずサスペンションが効果的な動きをする位置を探し、その上で今度は車高を決めていく。その結果が極めてリヤの車高が高いバイクとなったのだった。あの時代にはまだこういうむき(要するにカチ上げ仕様)が否定視される傾向があって「それはミニバイク上がりのマシン設定だ」などとほざく、歩脚撫裸裏位(ごめん、足で歩いて裸を撫でて、そんで裏の位置で考えろ、というボキャブラリーという意味ですが)と漢字で書くことも出来ないアホなジャーナリストがたくさんいたが、その後のアプリリアやドカティ、ヤマハやカワサキのマシンのリヤ車高を見る限り、間違いではなかったのだろう。もちろん今となってはその否定視していたジャーナリストたちも、目の前にぶらさがった餌にくいついたコンストラクターや約束を平気で破った競技役員たちと同じように「素晴らしいバイクだ」と言い放つようになっているのだが。 その後のNK4耐は国際ライセンスを持つ人間が参加するチームはスリックタイヤ使用不可となり、通常のハイグリップタイヤ装着というまたしてもハンディを背負った上での参加となるが、ここでも圧勝し、私はNKというレースですべてをやり遂げたと実感する。約三年間同じマシンに徹底的に乗り込み、安価でユーザーに提供できる位置にあるべきマシンを開発し続けた。その間に売れた私のバイク、つまりユーザーがレギュレーションを利用して梨本圭が実際に使用していてレース直後に購入したバイクは、実に六台を数えた(これが本文中の“ドナドナ”を意味している)。ちなみに私以外に、実際のNK4レースで使用されていたバイクが他のユーザーによって購入されたことは一度もなかった。それらのバイクは鈴鹿やTIのレースで活躍したり、後にモーターサイクリスト誌で一緒に仕事をすることになる鈴木大五郎によってコチャコチャにされたりするのだが、NK4というカテゴリーの中では比較的多くのユーザーによって楽しまれた。また、モリワキが販売していたNK4のコンプリートマシンは、このクラスでは例外的に数十台も売れた。それらのマシンと私のいわゆる「モリワキワークス」仕様のストレートエンドの速度差は、スピードガン計測で5km/hにも満たなかった、ということが、売れた理由だったのかもしれない。 この1996年に二号に渡ってミスター・バイクに掲載されたレポートの裏側の一部には、こんな話があったのである。 |
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2001年4月23日 梨本圭
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