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この作品「進化」は「アオチリ」「ポケモン小説1000users入り」のタグがつけられた作品です。
進化/くりの小説

進化

24,247文字48分

※チリの過去出身地その他捏造諸々注意
時代錯誤な相手や物事が出てきます ゆるして

チリが男物を纏う理由と初恋の話 

追記
要素被りしとった…。どうかお目こぼしを

さらに追記
2022/12/13~2022/12/19 ルーキー 1位(1位!?!?)
2022/12/19 女性に人気 54位
ありがとうございました 励みになります…

5/14今更ですがコメントありがとうございました。気付かなくてすみません…!今更返信するのもと思いこちらにて…

↓マロ 何かありましたら
https://marshmallow-qa.com/igaguri_ranb?utm_medium=url_text&utm_source=promotion

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「え?アンタ女だったのか」

随分失礼な物言いをする男だな、と。最初に抱いたのはそれだった。顔合わせ、互いに初めての挨拶の場にも関わらず、不躾にそう言い放った男の頬は既に赤い。
「なはは。もしかしてずっと誤解させてもうてました?そうなんです、実は男やのうて女なんですよ〜。紛らわしくてすみません」
しとどに酔った様相の男を前に、チリは嫌な顔一つ浮かべず言葉を返した。相手の言い方は尊大でひどくこちらを下に見ているのが明らかに透けて見えていたが、大事なスポンサーである以上、気分を害す訳にはいかない。
パルデア地方が誇る、ポケモントレーナー及び各種才能を育てる養成校。今日はそのアカデミーのホールを丸ごと貸し切って開催される、年に一度のスポンサーとの交流パーティーの日で。
チリ達リーグ関係者や学校の教職員、果てはリーグを制覇した将来有望なチャンピオンクラスの学生まで、一堂に会して出資者と立食形式の会食を行うのだ。
これからのパルデアの未来を支える、後進育成の為の大事な報告の場。とはいえ、形ばかりな場と言われても否めないこれを、これから羽ばたく者が多いアカデミーで開催するのはいかがなものか。
自然界への影響を考慮して開拓を最小限に留めている分場所を選べないのは理解しているが、それでも悪影響に過ぎると思う。
「おい、ちゃんと聞いているのか?」
「あ、はい。大丈夫ですよ、ちゃんと聞かせて頂いてます」
だらだらと身にもならない話ばかりが鬱陶しく、それとなく聞き流していれば、目敏く咎められてしまい内心小さく嘆息した。
他所行きの標準語を張り付け、相槌を打つ傍らちらりと周りを観察する。――よし。ネモとアオイは自分達より遠い位置で料理片手に談笑している。ポピーはそもそも幼すぎて不参加であるし、これ以上下手なとばっちりを食いそうな者はいなさそうだ。
指折りの実力者。既に己よりずっと力のある者達だとて、まだ可愛い子供である彼女達にこの汚いものは見せたくなかった。
「だから、お前はもっとちゃんとした格好をしろと言ってるんだ。女なら女らしく、そんなスーツじゃなくてドレスを着て歩いたらどうなんだ」
「あー、なるほど。そちらの方が宜しいですか?一応このスタイルもドレスコードに反してはいないのですが」
言うに事欠いていよいよ『お前』呼びと来たか。
こっちこそそちらに言いたい。お前こそ自分の何なのだ。くどくどと文句の止まらない男は据わった瞳でこちらを指差して声を張る。
「はあ!?問題も問題だろ。何だよそのパンツスタイル。社交の場で女がズボンを履くなんて、どう考えても論外だろ!!常識も分からないのか?これだから女って奴は頭が悪い!女ならドレスを着てヒールを履けよ。脚を出せ脚を。男を喜ばせられないような女なんて三流だろ。世の中の常識を学んでから出直してこい!」
うわあ、とんでもない持論すぎる。周囲で楽しんでいた数名が何事かとこちらを向いたが、正直な所、この化石の声など誰の耳にも入れたくない。
この男の常識は一体いつの時代から止まってしまっているのだろう。今時男が女がと性差を持ち出すのはナンセンスにも程があるし、後に続いた言葉からして下心が滲みすぎている。
「そうでしたか。失礼。では、次の機会ではお言葉の通りに致します」
こんな男と今後も付き合うくらいなら出直すまでも無く一生出て行っても構わないと思うけれど、それが出来ないのが残念ながら大人の辛いところであって。
どうせこれだけ酔っていれば次の時にはすっかり忘れているだろう。ドレスを着るつもりなど一切ないが、場を納める為に適当こいて大人しく頷く。
「お前は馬鹿か?次じゃなくて、今直ぐにしろと言っているんだ」
「はあ、しかし…。ドレスなどすぐさま手配など出来ませんが」
「それをしろとスポンサーが言っているんだぞ!!全く話にならん女だ!!もういい、俺が用立ててやる。来い!これは躾だ。ちゃんとしっかり覚えろよ!!」
「え?は!?まっ、ちょっと!!」
いやいやいや、それは流石にアウトやろ。
素直に頷いていれば満足してくれるかと思いきや、手首を掴んで歩き出そうとする男に抵抗する。
躾ってなんやねん。こちとらあんたの持ちもんちゃうけど。あーあ、折角秘密裏に済まそう思ってたんに、ネモもアオイもこっちに気付いてもうたやん。
「っ、あんた、流石にいい加減に…」
「――失礼。一体何の騒ぎでしょう」
こうなれば最早相手はスポンサーではない。
ただの暴漢と化した男に抵抗する為語気を荒げようとすれば、凛とした声が割り込んできて言葉が止まる。
振り返れば、スタイリッシュなダークカラーのスーツに身を包んだオモダカがじっとこちらを見ていて。彼女の姿を認めた男が、途端酔いが覚めた様子で血の気を引かせた。
「お、オモダカさん…いや、これは私と彼女の問題でして」
「彼女は私の部下ですので。部下が起こした問題は上司である私の問題です。チリ、一体何が起こったのです?彼は最近パルデアに来たばかりの行商人の方ですし、私が知る限り貴方とトラブルになる事はないように思えますが」
流れるような言葉とその音色に含まれる重たい威圧。
我らがトップ、オモダカは笑顔の時こそ恐ろしい。
緩い笑みを顔に浮かべ、けれどそれとは対照的に全く笑っていない瞳で見つめられて、チリは渋々話の流れを白状した。
余計な事を言うなとばかりの恨めしそうな男の視線が全身に突き刺さっていたけれど、チリにとってはヨイショするだけの男より絶対君主の上司様の方が立場は圧倒的に上だ。そもこうなってしまえば男を持ち上げ囃す意味すらなく、その視線もなんのそので全てをまるごとぶちまけた。
「……ほう。そうですか。女性のパンツスタイルは非常識と」
「あ、いや、これはその…言葉の綾で」
「ですが貴方は今チリを連れて行こうとなさいましたよね?ドレスを用立てるとの事ですが、言葉の綾だったならこちらに関してはどのようなおつもりで?」
「それは…その…」
ああ、終わったな。容赦なく攻め立てていくオモダカの様子に、漠然とチリはそう思った。
先程チリはこの男にへいこらへいこらへつらっていた訳だが、オモダカに掛かればスポンサーなど頭を下げる対象ですらない。
アカデミーはともかくとして、各所から支援金を得る事で辛うじて自治体の体裁を保っているリーグは、実質オモダカ一人が握っているも同義だった。彼女の財力を以ってすればスポンサーなど全員切っても当分は困らず、リーグの力を借りたい相手からすれば彼女は絶対的に怒らせてはいけない相手なのである。
オモダカの話を聞くに、この男は最近この地に根を降ろしたばかりだと言う。地方を渡り歩く行商人であるのなら、商いをするその期間中は確実にリーグの支援が必要だっただろう。
なにしろ未開拓の土地には野生のポケモン達がたむろしているし、よしんば店を開いた所で余所の土地の匂いを嫌って攻撃される可能性が高い。
「―――大変残念な話ではありますが。先日申請頂きましたカラフシティ周辺での臨時設営は見送らせて頂きます」
「あ、ああ…。ま、待ってくれ!謝る!!謝るからこの通り!!」
商いをする前から提示された失敗通告に、男が必死に縋ろうとするがもう遅い。
星空のようなオモダカの瞳は既に人を見る目ではなく。何か、その辺に転がるゴミを眺めるようなそれをしていた。
「あ、あんた!!あんたからも言ってくれ!!頼む!この通りだ!!」
「行きましょう、チリ。不快な思いをしましたね」
「トップ…すみません。余計な手間を掛けさせてもうた」
自分達の声以外、完全に聞こえなくなってしまった会場。およそパーティー所では無くなってしまった気配に申し訳なくなるがオモダカがチリを責める事はない。
やがて誰かの手によって男が会場から連れ出されて行ったらしい。叫ぶ声が聞こえなくなったあたりで漸く皆も元に戻ってパーティーを楽しみ始める。
最高にやらかしてしまった実例が出た手前、残ったスポンサー達はもう大人しいだろう。まあ、あれが特別珍しい事例だっただけで、元々は紳士的な立派な大人が多いのだが。
「どうしました?気分が優れませんか?」
ざわざわと活気を取り戻し始めたホールをぼんやり眺めていれば、チリが料理に手を付けていない事に気付いたオモダカが心配そうに覗き込んでくる。
あの男の言葉ひとつでどうこうなる精神だとはオモダカとて思っていないだろうが彼女なりに気を配ってくれているのだろう。気遣いが有難い反面面目なく、暫し逡巡したチリは苦く笑って肩を竦めた。
「んー、そうかもしれん。悪いですけど、ちょっと外の空気吸うてきますわ」
「……そうですか。アカデミーの内部ですので心配は要らないかと思われますが、ちゃんと用心はして行って下さいね」
「はいはい、分かっとりますって」
こと今回に限って用心とは、恐らく人間の事を指して言っているのだろう。倒せばいい野生のポケモン達より、うっかり殺しかねない人間の方がよっぽど厄介でいて面倒だ。
腰のホルスターに付いた信頼のおける相棒達のボールを撫で、チリは扉を開けてホールの外へと抜け出した。生徒の宿舎も兼ねたアカデミーは広くとても大きいが、借りたホールは幸い玄関に近い場所にある。
「『女なら女らしく』、か」
窓の外から見える満点の星空を見上げつつ、ぼそりと小さくひとりごちた。別に傷付いたわけではない。初対面の、しかも思想が古臭すぎるあの男に言われた所で靡く風すら巻き起こらない。
だが、それを思い返してしまうのは、それが自らにとって疵の一つとなる馴染みの深い言葉だからで。
「チリさん、」
「え?あれ?アオキさん?どうしたんです、こんな所で」
ふと、聞こえた声に振り返れば、同じ上司に仕える同僚のアオキが所在無さげに佇んでいる。
どうしたのだろうか?そちらは出口の方向で、パーティー会場から抜けてきた風には見えないが。不思議に思うチリに、アオキは迷うように言葉を紡ぐ。
「ネズミを、摘み出すよう頼まれたので」
「ネズミ…?あっ!?もしかしてそれ、さっきのヤバいスポンサーの事か!?」
ネズミて。この人が人間をそう呼ぶ所など初めて見た。驚きに固まっていればアオキはそうだと頷こうとして――けれど思い直したように首を振り、重たそうに肩を落として見せる。
「いえ、あれをそう呼称するのはネズミの皆さんにも失礼でした」
「あはは!!めっちゃ言うやん!なんなん自分、あの人の発言に怒ってはるん?」
「怒りますよ。同じ中年男性としてあのような思想が総意と取られては困りますので。あまりに敬意が無さすぎます。チリさんにも、トップにも。性差なく立派な方は、この世に幾らでもいるというのに」

―――『女の癖に』

草臥れた暗い瞳の奥、仄かに光る憤りの色に、チリの脳裏に自然過去の声が蘇った。女なのに、女の癖に。遠いようで近い過去、聞き飽きるほど耳にしたそれがリフレインする。
「…アオキさん。ちょっと付き合うてくれません?」
「はい?」
「丁度夜風に当たりたかったんで、少し話し相手になってくれると助かります」




「昔ね、よう言われたんですよ。『女なのに』『女の癖に』って」

それは、自身にとって苦い記憶だ。
女だてらに、と言う言葉が、チリはずっと好きではなかった。
「地元…遠い地方にある故郷の田舎ではな、チリちゃん結構強くて負け無しやったんです。親戚が新婚旅行で行ったパルデアの土産にってくれたウパーと特訓して、バトルして、そこじゃ誰も勝てんくらいにはめっちゃ強いって有名やったんですよ」
地図にもろくに載らないような、ジョウト地方の片田舎の村がチリが産まれた故郷だった。特にこれといってない夫婦の間に一人娘として産まれ、田舎特有の大らかさを受けて何不自由なくすくすくと育った。
チリには飛び抜けた賢さも身体能力も無かったが、ポケモンバトルの腕だけは確かだった。大人も子供も関係なく、チリのウパー…現在のドオーにはそこでは誰も敵わなかったのだ。
「将来はジョウトのチャンピオンになるんやって、子供の頃は信じて疑いもせんかったんです。…けど、親も親戚も周りの大人も、それを許してはくれんかった」
バトルで貯めた資金でどうぐを買って、いつかジム巡りの旅に出る事をチリは夢見ていた。相棒のウパーと日々語るその夢を踏み潰したのは、皮肉にもチリをここまですくすくと育てた片田舎の雰囲気で。
「『女は男に尽くすもの』『大人になったら結婚するもの』狭い狭い孤立した田舎では、それが世界の常識やった」
チリのバトルが遊びでないと判明すると、大人達はチリを囲んでこぞって責めた。旅に出るなんてとんでもない。嫁のあてはどこにでもあるのに。
挙げ句の果ては大事な大事なウパーを取り上げられ、罰として納戸に閉じ込められた事もある。女の癖に夢を見るな。女の子なんだからこれからもうバトルはやめてお淑やかにしなさい。
なんで?どうして?女だから、女の子だから。たったそれだけで、どうしてこのような目に遭わなければならないのか。
「やからね、愛想尽かして村を飛び出して来たんですよ。お仕置きで納戸閉じ込められた日に必死で抜け出して、貯めた賞金とウパーのボールだけ持って逃げてきた」
服も靴も、どうぐを詰めた鞄だって何ひとつ持っては行けない。着の身着のまま、お金と相棒だけを持って村の外に出たチリは、自身が大海を知らない井の中の蛙であった事を知る。
「旅に出て、ジョウトのチャンピオンになって帰れば認めて貰えると思って出てきたんやけど。最初外では全然勝てんかった。進化もしとらんウパー一匹ではどうにもならんくて、チャンピオンなんて夢のまた夢やって知ったんです」
夢が本当の夢であった事を知り、けれど他に行くあてもなく。なんとなく、このまま逃げ帰るのは絶対嫌だった。女、女とただそれだけで見下される世界に戻る事はしたくなかった。
途方に暮れて立ち尽くすチリに、道をくれたのはずっと側に居た相棒で。迷いながらも続けた特訓の末、やっと進化をしたウパー。こちらを見上げる黒々としたつぶらな瞳を眺めているうちに、チリはふと気付いたのだ。
自分は、進化したこのポケモンの名前を知らない。ウパーのリージョンフォームから進化した彼は、ヌオーと呼んで良いのだろうか。
どお、どお。ヌオーとは違う声で鳴く彼に頭を悩ませた。相棒の呼び名を知らないのは流石に不義理が過ぎるだろう。
知らない。分からない。考えて考えて、チリは漸く思い至る。

―――そうだ。知らないのなら、パルデアに行こう。

「幸い資金は節約して使っとったから、パルデア行きの飛行機のチケット位はギリギリ買えた。その後の事なんて何も考えとらんかったけど、ドオーを見られたらそれで良いと思っとった」
「……ドオーを」
「せや。ドオーを。ドオーの名前を知って、野生の子らに会いたかった。野生のドオーとうちのドオー、どっちが立派に育っとるんやろうなって、比べてみたかってん。ただそれだけ」
衝動的に海を渡り降り立ったパルデアは、当たり前だがジョウトの景色とまるで違う様相をしていた。知らないポケモンが空を舞い、地を見たことのないポケモンが走り回る。

我を忘れた。こんなに世界は楽しくて面白いものなのかと、久々に思い出した瞬間だった。

ポケモンが好きだ。バトルが好きだ。未知のものをこの目で見て、思い出したその事実にチリは決めた。
ここでもう一回やり直そう。着の身着のまま。何も持たざる自分だけれど、幸い頼りになる相棒はいるので。
「そんで、細々どっかのお店の手伝いとかバトルとかして資金稼いで、アカデミー入学してジム巡りしとったんです。その後はアオキさんも知っとる通りやけど、流石にチリちゃんもあれから四天王になれるとは思いもせんかったわ」
ジョウト地方のチャンピオンになる。
そんな夢を諦め、絶望し、逃避してきた挫折ばかりの人生で。
こんな未来があるとは思いもよらなかった。今では沢山の友人知人、同僚に恵まれて充実した日々を送れている。
「今が充実しすぎて、ずっと忘れとったような話なんやけどね、これ。久々にあないな事言われたもんやから、思わずそれを思い出してもうた」
男のようなパンツスタイル。これだって、女、女と性を理由に差別を受けてきた過去と決別するための鎧みたいなものだ。あの日々から逃れるためにしたことが、巡り巡ってあの日々を思い出す引き金になるとは。人生とはあまりにままならないものである。
「はは、ごめんなアオキさん。急にこんな事聞かせてもうて」
「…いえ、」
ずっと意識してはこないようにしてきたが。
本当は、こうして誰かに一度聞いて貰いたかったのかもしれない。
パーティー会場でリフレインした記憶たち。それを落ち着かせる為に会場から抜け出したはいいもののあのままでは一向に気分が晴れる気配は無かった。
その時にたまたま会ったのがアオキであったから。信頼し、尊敬するトレーナーの一人である彼が、静かに怒り、性差を抜きに己を尊重してくれたから。深く仕舞ったこの気持ちを、聞いて欲しくて外に誘った。
謝る自分に、アオキは悩むような素振りをして困った表情を浮かべている。そりゃそうか。同僚のこんな重い過去の話、急に聞かされたらそんなの困るに決まっている。
「あー、気にせんで…って言ってもまあ、気にしはると思いますけど。ほんま気にせんで下さい。もうすっかり忘れてた話やったんで」
「……どのように返すのか正解か、私には全く分かりませんが。私は、チリさんがこちらに来てくれて良かったと思っていますよ」
「うん?」
「貴女は、片田舎で平凡に生きて嫁ぐには勿体無い人だ。勿論貴女がそれを望んだなら話は別でしょうが、チリさんのような人はありのまま、好きなように生きるのがとても似合っていますよ。貴女の在り方はとても眩しい。何度も挫折しながら、それでもここまでのし上がって来たのがその証拠だ。貴女がパルデアに来ようと思い立ってくれて良かった。それが無ければ、この輝きを目にすることは無かったのだから」
ドオーくんに感謝ですね。
最後に付け加えられたその言葉に、ドオーの入ったボールが嬉しそうにカタカタ揺れた。主人であるチリは、褒められたなあとそのボールを撫でることすら今はしてやれない。
怒涛のように流れた言葉。現在のチリを肯定する数々のそれを、上手く飲み込めずに呆然としている。
「……チリさん?」
「………。アオキさんは、チリちゃんをそんな風に評価してくれるんやね」
強い。格好良い。素敵。
それはこのパルデアに来てから、幾度となく受け取とるようになった自分への賛辞だ。女である事に負い目を感じ、鎧を着た『パルデアのチリ』への賛辞。
けれど、今アオキの口から出た言葉は『パルデアのチリ』へのそれではない。チリの過去を知り、挫折を知り。大海を知らない蛙であった頃のチリを知った、他でもない自分への、純粋な賛辞。
「なあ、アオキさん」
「はい」
「チリちゃんがドレス着たらどう思う?」
途端怪訝な顔をされ、思わず腹を抱えて笑い出したくなった。
せやろな。急にそんな事聞かれたら、誰やって一体何をと不審に思うわ。
けれどちょっと聞いてみたかったのだ。女の癖に。脚を出して男を喜ばせろ。
そう自身を蔑み言い放った男のようではないこの人は、女を出したチリに一体何を思うのかと。
「あのような事があった後で言うのは大変心苦しいのですが」
「かまへん。気を害したりせんから、遠慮なく言ってや」
「……正直に胸の内を明かしますと、とても素敵なのではないかと思います。スーツに比べ、露出が多くなるのが考えものではありますが、貴女はスラリとしていてスタイルも良いので、ドレスも良く映えるかと」
「ふぅん?」
「………。すみません。これって、もしやセクハラに該当しますでしょうか…?」
「え?ああ、ちゃう、ちゃうって!!アオキさんがそんなつもりで言うたんやない事くらい、チリちゃんちゃんと分かってますって!!」
一周回って女性…っていうか世間体に弱すぎんかこの人…。
だらだらと冷や汗を掻きながら頭を下げようとする彼を押し留める。別に不快になってなどいない。むしろ、ストレートに褒めてもらって嬉しくもあるのだ。
「そうなんか〜アオキさんはそう思うんやな」
「あ、あの……チリさん?」
「こっちの話や。アオキさんは気にせんで。ほな、そろそろ戻りましょうか。あんまりのんびりしとると料理全部食べられてまうかもしれん」
聞きたい事は全て聞いたし、モヤモヤも丸ごと吐いてスッキリした。
おおきに、アオキさん。感謝を述べつつ急かせばアオキも頷き歩き出す。アオキさん食べるの大好きやもんな。食事の時間減らしてもうてほんまに悪いことしたかもしれん。
今度食事誘って奢ろ。どの飯屋が良かろうか、頭の中を探っているとふとアオキが立ち止まる気配がして振り返る。
「アオキさん?どないした?」
落とし物でもしたのだろうかと彼を見れば真っ直ぐにこちらを射抜く視線とかち合って。
その強さに縫い止められたように動けなくなっていれば、カサついた唇が静かに動く。

「チリさんは、どんな姿になろうと素敵ですよ」

女性の装いでも男性の装いでも。好きな方を選んで構わないんです。

「―――は、」
「では」
先に戻っています。
言うだけ言って満足したように立ち去るアオキの背を、チリは追おうと思えど追えなかった。顔が、全身が。燃えるように熱くて顔を覆うのをやめられない。月明かりばかりの夜なら一切見えなかっただろうが、街灯のあるアカデミーの内部ならチリの肌の赤さは良く見えた事だろう。
ドキドキと早鐘を打つ心臓。まかり間違って止まってしまいそうなそれを抑える為にうずくまる。

「ッッッ―――!!なんっなん!?それ!?」

良識ある、大人の男は恐ろしい。
チリは女として初めて、その事実を知ったのだ。



***



スポンサーを招いた、立食パーティーから既に数ヶ月が経つ。
あの日から、チリの心はアオキに捕まれたままだった。付き合いは長いので言葉としては不適切だが、一目惚れと言って差し支えないかもしれない。
あの日、あの夜、最後に彼が言い放った時の瞳と表情が、チリの心の柔い部分に巣食って離れないのだ。
「アオキさーん。お疲れ様です〜」
「チリさん。お疲れ様です」
リーグの本部で会い、挨拶だけの短い言葉を交わし合う。
たったそれだけでチリの一日はひどく弾んだ。いやいやまるで幼児の恋か、と自身にツッコミを入れるがボケたつもりはない。
何しろ二十ウン年生きてきて初めての恋である。コンプレックスを抱え、性差が出るあれやこれやを無意識に回避してきたツケが巡り巡ってここに来た。
恋って普通どうするもん?好きや好きやって思いながら相手を眺めて、我慢できんくなったら告白するんか?
こと今になって、漠然とした、子供じみた恋愛知識しか持ち得ていない自分に愕然とする。あの女喰い、百戦錬磨のメタモンと影で呼ばれるチリちゃんが。いやそれただの噂やねんけどな?女の子食うた事ないし男女分け隔てなく告白もお断りしとるけど。
現実は噂に遠く及ばず。まさかの処女とは誰が予想出来ただろうか。予想せんで全然ええけど。ともかく己は完全な恋愛初心者で、夜泣き盛りの赤ん坊も同等だ。
今日もめっちゃ草臥れとるなー。少し曲がった背中が哀愁漂って可愛らしいわあ。デスクに向かう後ろ姿をこっそり眺めつつ、そう胸の中で零すのが精一杯なのである。
「……あれ?アオキさん。腕のところちょっと怪我しとります?」
「ん?ああ、気付かれてしまいましたか。実は今日、野生のムックル達が喧嘩をしていまして」
「野生の仲裁に入ったんか!?なら早う消毒せんと!」
なにをのんびりしているのだこの男は。血の止まった傷をそのまま放置しているアオキに慌てて救急箱を取り出した。
「大丈夫ですよ」
「あかんて。腕見せぇ。野生は色んな菌持っとるから、傷作られたら消毒するのが基本やろ」
アカデミーの授業でも最初に習う事である。
人に管理された個体と違い、野生のポケモンには様々な菌がくっついている。それがその土地特有のものであれば自分達にもいくらかの耐性があるが、もし海を渡ってきた別の大陸のものであれば命取りになる可能性もある。
人間はポケモンよりずっとずっと脆いのだ。自らが気を付けねば他の誰が気遣ってやれるのか。
椅子に腰掛けるアオキの側に膝をついて逃げる腕を追いかける。シャツを捲れば、薄く肉が削れた痛々しい線が顕になって、そこに消毒液を掛けた脱脂綿を押し当てた。
「っ、」
「痛い?悪いけどじっとしとき」
息を飲み、びくつく腕を押さえて優しく線をなぞった。よし、これで一先ず大丈夫だろう。
ガーゼを貼り、固定をしようと包帯を取る。
「そこまでは…」
「こないに長い絆創膏ないんですわ。大袈裟に見えますけど、諦めて巻かれてください」
細く走る線一本に大袈裟なと己も思うが、覆うものが無いので致し方ない。有無を言わせず包帯を当てがいくるくると巻いていけば、アオキは諦めたように大人しくなる。
「手際が良いですね」
「ああ。子供の頃、一人でよお無茶やったんで」
身一つで飛び出し頼れる者が誰も居ない環境では自然技術が身に付いた。
ドオーがどくタイプであった事もあり、怪我、病気に関しては一通り経験したように思う。
「………」
「あっ。や、別に気にせんといてください!!苦い記憶とかそんなんやないんで!!」
話の流れでさらりと口にしてしまってから、自身の背景を知るこの人に対しては重いものであった事に気付く。
あかんわ上手い事話せん。いつもやったら、簡単に適当吹っかけて話題流してやれたんやけどな。
最近はアオキを前にすると何だか緊張してしまって上手い話が思いつかない。話題を探すぎこちない仲などとっくのとうに過ぎたというのにこれだ。恋とは本当に難しい。
無心で包帯を巻く最中、カタカタと腰のホルダーが揺れていた。ドオーだ。ほんま可愛いやっちゃなあ。頑張れって応援してくれとるんか。
有難いけどチリちゃんこればっかりは駄目かも知れんわ。なんせ勝手が分からなさ過ぎる。
手探りなんて子供の頃の自分の十八番やったんやけど、一体どうやってやってたんやっけ。
「私も、」
「うん?」
「私も、旅をしていたトレーナーの頃は。良く怪我をして自分で治療しました」
「えっ。アオキさんもそんな頃があったん!?」
「随分昔の話ですがね。とはいえ、昔も今も包帯の巻き方は貴女よりずっと下手ですが」
包帯の巻かれ終わった腕を持ち上げ、しげしげと出来栄えを観察している彼の気紛れに思考が止まった。だって、よもやアオキ自身の過去の話を聞けるなど、全く思ってもみなかったのだ。
もっと聞きたいと欲が出てそう思うも、今は業務中なので強請るわけにもいかない。ポピーやハッサクもそうこうしている内に顔をだすだろう。そんな中で話を聞き出すのも悪いような気がしてこの場は引くしか選択肢が無かった。
「すみません。ありがとうございました」
「ええってええって。…なあ、アオキさん、今日の夜ってちょっと空いとる?」
「?そうですね、このまま何事も無く終われば、多少は時間が取れると思いますが」
「ほな、ご飯いきません?パーティーの時のお礼もしとらんし」
「食事…ですか。お気になさらず。礼をされるほどの事はしていませんし、自分と二人ではきっと楽しい食事になりませんよ」
「楽しいか楽しくないかはこっちが決めるから別にええねん。あの時話聞いてもろうて助かったんは事実やし、お礼させて貰えるとこっちとしても有難いんやけど」
「しかし…」
「ほな、アオキさんのトレーナーの頃の話聞かせてや。アオキさんがどんなトレーナーやったんかチリちゃん結構興味あるし、アオキさんと一緒にご飯食べたいわ」
もちろんアオキさんが、トレーナー時代を聞かせてもいいと思っとるならやねんけどな?
どうや?ドオー。上手い事自然に流れ持って来れたんとちゃう?
内心ドオーに呼びかける。アオキの性格上、奢りをちらつかせれば一度引く事は分かっていたから仕掛けるのはやりやすかった。
良心を利用するようで申し訳ないが、けれどこちらも必死で背に腹は変えられない。
これでもあかんか。フルバトル、残り一匹のポケモン同士、最後の大技を打つ時と同じ緊張感で答えを待つ。世間体にめっぽう弱いアオキの事だ。もしかすると男女二人で食事など、と頭の中で葛藤しているのかも知れない。
「……分かりました。行きましょう」
「やった!!ええん?」
「ええ。少々色々考えてしまいましたが、貴女相手に男だ女だを引き合いに出すのは野暮かと」
「……真面目やなあ」
それが例え自身の葛藤を無意味に帰す事になろうと。こちらの心情を慮り、折れてくれる優しさに好きが溢れて止まらなくなる。
あーどうしよ。これ、上手くちゃんと隠せてるんかな。本人なんともないような顔しとるし、うん、多分バレてはおらんのやろな。
ホッと気付かれていない事に安堵を覚えつつ、内心片隅で残念に思う自分も居て。
己はどちらを望んでいるのだろう。知られたい?知られたくない?分からない。
ただ一つここで確実なのは、この人が今晩食事に付き合ってくれるという事で。
「おっし!!ほなサクッと仕事片付けて、お互い定時上がりで楽しく乾杯や!!」
「潰れても介抱は出来かねますので飲酒量はほどほどに…」
後ろでボソボソアオキが何かを言っているが聞こえない聞こえない。
急いでデスクに向かって深呼吸を一つ、溜まった仕事を片付け始める。
「チリちゃん〜アオキおじちゃんも。お疲れ様なのです」
「お!ポピーも来たんか、お疲れさん!偉いなあ、今日も一日頑張ろな」
「はい!チリちゃん、今日は張り切り元気さんですね。良いことでもありました?チリちゃんが元気だと、ポピーもとっても嬉しいです」
「ん〜♡ポピーはほんまかわええなあ!せやねん、良いことあったから、今日は一日一生懸命頑張るんやで」
正確には、仕事の終わりに良いことがあるから、だが。
可愛らしく小首を傾げて喜ぶポピーに頬ずりをして、直ぐにデスクに向き直る。
目指すは定時。多少過ぎても一時間の範囲内で。仕事的にも問題なく、このスピードで片付けていけば余裕を持って終わるだろう。

「チリさん!!緊急の要件です!!」
「はあ!?」

そういう考えを持っている時に限って、不慮の事故とは起こるもので。
飛び込んでくるリーグスタッフの話を聞きながら頭の片隅で自身の冷静な部分が囁く。

それ、世間一般ではフラグって言うんやで。

うっさいわ。あまりに回収早いねん。
泣こうが喚こうが降りかかった事実は覆らず。
定時退社は無理だと悟り、即座に頭の中でそろばんを弾いた。
これ、今日いつ帰れるんかなあ。あんまり待たせんかったらええんやけど。

午後十時半。残り一時間三十分で日付が変わろうかという時間に至ってもなお、職場に詰める事態になろうとは、この時のチリは未だ思ってもみなかった。



カチ、コチ。時計の針が無情に進む。既にどっぷり更けた深夜、片付かない仕事を前に背もたれに体重を掛けて天を仰いだ。
こんな筈では無かったのに。恨みがましく書類の山を睨むもそれが無くなることはないわけで。普段人を散々社畜呼ばわりしている己がこの様では世話がない。
本日中に業務を片付けるのはもう諦め、髪を解いてガリガリと頭を掻きむしりつつスマホロトムを呼び出して画面をタップした。
スマホの画面に映るのは、本日約束していた好きな相手とのメッセージ画面で。数時間前、これはもう終わらないと半泣きで送った中止のメッセージに気にしないで下さいと簡潔な返信が付いている。
今頃彼は家で寝る準備を整えた頃だろうか。午後には外の仕事に出掛けてしまったので何時退社したかは預かり知らないのだが、ゆっくり休んでくれたらなと思う。
「あー…行きたかったなあ…」
未練がましく、文句が溢れる口が止められない。深いため息をひとつ吐いて、徐にポケモンをボールから出した。
「どお?」
「ドオー、頼むわ〜チリちゃんのこと慰めてや」
地面を這う巨大を抱きしめ身体を埋めた。毎日丁寧に磨くツヤツヤボディは柔らかく、これだけで安らいで意識が飛んでしまいそうだ。
「どお〜」
「せやねん。チリちゃん、あん時は上手くやったなって思ったんやけどなあ」
のんびりしたドオーの鳴き声を、適当に解釈して返事をする。彼の言葉は種族の違う己には分からないけれど、何となく、そうだと思うような言葉が頭の中に流れてくる。
ドオーもこちらの言葉をなんとなく理解しているような節があるので、これは長年の絆というものだろう。
「どお、どお、」
「ん〜…せやなあ、お腹すいたなあ。ドオーらもご飯まだやったもんなあ。ごめんなあ、ちょっとしたら用意するわ」
ポケモンだって人間と同じ生き物だ。ボールに入っててもお腹は空くしご飯が欲しい。
強請られて長らく食事を摂っていない事に一度気付いてしまうと、きゅう、と鳴る腹の虫が耐え難くなる。なんでも良いから食べ物入れんと。けど、もう店なんて殆ど閉まっとるし。
せめてドオー達のご飯だけでも…。まってあかん動けん。ごめんな待って、あとちょっと、もう少し、
「ごはん………」
「食事ならここにありますが。ドオーくん達の分は私が用意しますので貴女も休憩なさって下さい」
「助かる…って、えっ!?」
身体に降りかかる疲労その他もなんのその。
突如聞こえた声にバッと勢いをつけて振り返ればそこには紙袋を下げたアオキが居て。
なんでここに。退社した筈では無かったのか。無言ながらに問いを投げかけるチリを、アオキは一瞥して手にした紙袋をチリのデスクへ開いた。
「仕事が終わりそうにないと連絡を頂いので。私も仕事が残っていましたし、これ幸いと片付けていました」
「この時間まで…?えらいよう働きますやん。アオキさん明日は朝からジムの予定入っとらんかった?そろそろ休まんと倒れてしまいますよ」
「現在進行形で倒れている貴女にそっくりそのままお返ししますが。貴女こそ明日も面接があるでしょう。そろそろ休まなければ明日の業務に支障が出ます」
「うっ」
ぐうの音も出ない。ドオーに懐いていたのは気力の喪失が大半だとて、動けなくなっていたのは確かである。この繁忙期、明日も朝から面接希望が殺到するのは当然のことで、そこで通過者が出た場合己との真剣バトルが発生するのである。
寝不足、疲労の抜けきらない中でバトル。そんなの、フルスペックが出せようもない。
チリがヘマをすることで潰れるのは、自身の面目だけではないのだ。
「ははは…。せやな。すみません、もうちょい片付けたらすぐ休みます」
この地位を崩す訳には行かない。やっと積み上げたチリの城。砂で出来たここに水を掛けて泥のように潰してしまえばチリはきっともう立てなくなる。
どれだけの安寧を得てもそれが崩れる未来はいつか簡単に、唐突に訪れるのだ。自身はそれを知っている。なのに何も見えなくなって突っ走った。
恥ずかしい。情けない。こんな醜態、この人には見せたくなんてなかったのに。
「はは、面目なー」
顔を伏せ、ドオーの背を見つめて務めて明るい声を作る。威勢のいい、いつもの『パルデアのチリ』を保っていないとうっかり涙が出てしまいそうだ。
息を吸い、音を立てないよう気をつけながら鼻を啜って、波打つ感情を落ち着ける。
やはり恋なんてものは厄介だ。こんな感情を得てしまったから、身に沁みた大事なものまで取りこぼした。
「チリさん、立てますか?」
「大丈夫や。すぐ立つさかい、ちょっと待って」
淡々とした、アオキの声が憎らしかった。この人のせいで、自分はこんなにもぐちゃぐちゃになっているのに。
「どお、」
大丈夫?ドオーが心配そうに、こちらを見上げて小さく鳴いた。僅かに持ち上がる大きな頭。緩く反った背中のフォルムが愛らしく思う。
「よっ、と」
一息ついて立ち上がり、椅子に腰掛けて背もたれに背中を預ける。熱い目頭を揉んでいると肩に温かいものが被せられて、突然の事に目を瞬く。
自身の肩に目をやれば、見慣れたグレーのスーツがそっと掛けられていて。思わずアオキを見遣れば彼は共有の棚からドオー達用のフーズを出しているところだった。
「……アオキさん、ごめんなあ。チリちゃんから言い出したんに、ご飯一緒に行けんくて」
「構いません。この仕事にトラブルはつきものです。いちいち気にしては身が持ちませんよ」
「やさしー…。チリちゃん、アオキさんのこと好きやわあ」
きっと、どうしようもなく、身体も心も疲れていた。
ぽろり。転がした好意のその言葉に、アオキの指が引き攣ったのが見て分かる。あ、と。自分の言葉を理解するがもう手遅れで。辺りに満ちた微妙な空気に気まずくなり、必死に出すべき言葉を探す。
「あ、あぁー…その、これは、」
「どお〜!」
「っ、すみません、ドオーくん。待たせてしまいましたね」
告げるべきか、誤魔化すべきか。答えを出せず言い淀むチリの声に割り込むように、ドオーが抗議の声を上げた。食事を前に空腹が限界だったらしい。足元に近寄り、不満げに鳴く彼にアオキが慌てて皿を差し出す。
瞬間皿に飛び付き食事を貪るドオーにアオキ共々毒気を抜かれた。一瞬で消え去ったその空気を再び呼び起こすのは体力、気力的にも億劫で、何事も無かったかのように腰元のホルダーに手を伸ばす。
「アオキさん、他の子の分もお願いしてもええですか?」
「ああ、はい。そのつもりです。チリさんもどうぞそちらのサンドウィッチを召し上がって下さい。好みに合うか分かりませんが、何も食べないよりマシでしょう」
「とんでもない。ほんますみません。お言葉に甘えさせて貰いますわ」
ボールから手持ち達を呼び出せば、次々と置かれる皿の前に行儀良く並んで食事を始めた。満足そうな彼らにホッとしつつデスクの上の紙袋を手に取り、有り難くそれを頂く事にする。
「あ、これ、最近流行りの店やん」
「ご存知でしたか。味も評判通り良いそうですよ」
「ん?ってことはアオキさんもまだ食べた事ないんか?悪いわ、先にそんなん頂いてしもて」
「お気になさらず。私は宝食堂一筋ですし、パンより米派ですので」
「はは。アオキさんらし…」
ん???
髪を結び直し、紙袋から取り出したサンドウィッチを一口齧った所で疑問に思う。
なら、このサンドウィッチはなんのために??自分の好みでは無いものをわざわざ買って、ここまで来た意味とは一体。
「お口に合いませんでしたか?」
「ん、いや。美味しいですよ。ハラペーニョが効いてピリッとしてて、めっちゃチリちゃん好み」
「そうですか」
緩やかに、安心したように笑みを浮かべられて、まさかと一つの可能性に思い至った。いやそんな、本当に?そこまで己にとって都合の良い想像が果たして許されるのか。
口の中のサンドウィッチを咀嚼しつつ、齧りかけのそれにそっと目を落とした。香ばしいパン、覗くレタスと生ハムとハラペーニョ。掛かったオイルの香るそれは健啖家のこの人には些か物足りなさそうで、どちらかと言えば明らかチリの好みである。
「アオキさん、仕事まだここでするん?ご飯、チリちゃん食べてもうたけど」
「いえ。もう帰ります。家に帰れば準備がありますし、ここには資料を取りに来ただけですので」
家に帰れば準備がある。
やっぱこれ自惚れてええやつやん。
純度百パーセント。これ、わざわざ自分の為に買うてくれとる。
メッセージに滲む必死な気配から食事も摂っていないと踏んだのだろうか。資料を取りに来たというのもおそらく方便だ。この人は、残業に追われる自分を心配して様子を見に来てくれていた。
もう諦めて帰っていたかも知れないのに、食事だってちゃんと食べていたかも知れないのに。どうなっているか分からない自分の為に、彼は好みでないサンドウィッチをわざわざ持ってきてくれたのだ。
「―――なあ、」
「?はい」
「………いや。なんでもあらへん」
アオキさん、あんた、チリちゃんのことどう思ってるん。
思わずそう聞き掛けて、踏み止まり頭を振った。
もう長い付き合いの同僚だ。アオキの事はよく知っているつもりでいたけれど、それはあくまで仕事仲間のアオキであって仕事のないアオキの事をチリは知らない。
自身の物差しで測るのなら、ここまでする相手に好意をもっていない筈がない。…が、実直で気の利くこの男からすれば、これは普通のことなのかも知れないと万が一にも思えば何も聞けなかった。
「…?では、資料も回収したので私はこれで」
「お疲れ様です。ほんまありがとうございました。また後日お礼させて下さい。ご飯も今度行きましょ」
「お気になさらず。食事はそうですね、また次回に」
去っていく草臥れた背広の後ろ姿を引き留めたいと思ってしまうのは迷惑だろうか。
もっとそばに居たい。話をしたい。あなたの気持ちを知りたいと、次々と欲求が溢れ出してチリを襲う。
まって、と弱々しい女の悲鳴を飲み込むように、サンドウィッチを噛んで飲み込んだ。舌に感じる刺激的な痛み。まるでそれが胸の痛みのようで。
「どおー」
「…ん。ちゃんと食べたんかドオー。えらいえらい。もうちょいで食べ終わるさかい、ちょっとそこで待っといてな」
いつの間にか足元に来ていたドオーが満足そうに寝転んでいた。
食事が終わったら、今日はもう帰ろう。明日の面接とバトルも手は抜けないし、自分含む彼らの栄誉に傷は付けられない。
サンドウィッチの最後の一切れ。少し苦しい恋の味を飲み込んで、立ち上がった。あ、背広。返すん忘れてた。ふわりと動きに合わせてひらめく、大きなそれに顔を寄せて匂いを嗅ぐ。

「あー……好き」

香るのは、彼が好きな食堂の匂いと、清涼さを含んだ風の匂い。
どこまでもアオキらしいその香りを、とてもとても愛しいと思った。



****



「そういえば、そろそろまたアレの時期ね」
「アレ?……ああ、もしかしてリップ、パーティーのこと言うとる?」
ベイクタウン、ポケモンジム。
毎年恒例であるアカデミーの宝探しの諸連絡の為訪れたその場所で、リップがふと思い出したように呟いた。
「去年はチリちゃんも大変だったわね。あの時は遠くてよく聞こえてなかったんだけど、後で聞いて呆れちゃった」
流石リップ。普通なら腫れ物のように扱いそうなものを臆面もなく掻き回してくるものだ。
時の流れとはひどく早いものである。あのチリを色々とぐちゃぐちゃにするきっかけとなったあの騒動から早一年。今期も色々な事があった。
前年チャンピオンランクとなったアオイに続けと今年はリーグに力を注ぐ生徒達が急増した。真摯に打ち込み、実力を付けた生徒が多く実技通過者も増加した為チリ達四天王はおおわらわだった。
残念ながらチャンピオンランク到達者は出なかったものの、去年よりは確実にパルデア全体のレベルが上がった実りある年だった。
それだけに、今までにも増して活気があり、これならスポンサー達も大満足の結果だろう。体裁を保つ為だけの出資者とはいえ、彼らも真剣にパルデアの未来を案じている人達なのだ。
「なはは。ほんま、あの時は参ったわ〜。トップが来てくれんかったらチリちゃん暴力沙汰で捕まってたかもしれん」
「物騒ね」
今年はオモダカの審査基準も厳しくなっているのであの男のような非常識な相手は参加しないだろうが。口の中に広がる苦いものを飲み下して冗談めかせば、リップは鈴を転がすような声で笑った。
綺麗な人だ。女を包んだ己と違い、女性である事を磨き上げ、高い塔の上で優雅に脚を組む強い女性。羨ましいとは思わないが、リップのその在り方を時々チリは眩しく思う。
アオイやオモダカなど、ジムリーダーのみならず強い女性の多いパルデアはチリにとって好ましい。ジョウトが悪いと言いたい訳ではなかったけれど、如何せん古臭い自分の故郷が悪すぎた。
「今年はチリちゃんもドレス着るのよね?」
「は?なんでやねん。チリちゃんはいつものスーツやで」
「どうして?勿体無いわ」
いやいや、そう言われましてもというかなんでそうなる。
確かに去年あの場では適当に相槌を打ったけれど、本当にドレスを着る気は毛頭なく、家にはクリーニング済みの去年のスーツが出番を待っている。
「リップ、前々からずっと見たいと思っていたの」
「な、何を」
「チリちゃんのドレス。きっと良く似合うわ」
楽しみにしてたのに、と不満げに唇を尖らせるリップは誰の目に見ても魅力的だ。
彼女の言葉は疑う余地もなく本心で。酸いも甘いも多分に知るこの人が、世辞を言う人間でない事は分かっている。
だからこそ余計チリは居心地悪く、答えあぐねて口をつぐんだ。普段なら『せやろ?チリちゃん美人やからな〜』と軽く返せるような賛辞でも、彼女を前にしては万が一にも言ってられない。
だって、言えば本気でドレス姿で出されかねない。
「…悪いけどそんな気は全然ないわ」
女であることを捨てたつもりはない。髪は伸ばしたし、性別も男性と偽る事はしていない。
けれど、女性らしさを全面に出すのは、かの日の幻影がちらついて未だ恐ろしかったのだ。
女だから。女なのに。誰も自分を見下さない。縛り付けない。分かっているのに、ウパーを取り上げられたあの日の疵がまだ痛む。
「本当?チリちゃん、本当にドレス着る気はないの?」
「…っんと、しつこいであんた、」
「見せたい相手は誰もいない?チリちゃん、見てもらいたい相手がいるんじゃないの?」
「―――リップ、なんで」
「見てたら何となく分かるわよ。リップ、そういうの聡いもの」
チリちゃんがドレスを着たいのなら、今しかチャンスはないと思うわ。
リップの彩られた鮮やかな唇から落とされた言葉は、チリに大きな衝撃を与えていた。いつ、どこで。リップがチリの想いに気付く機会は少なく、あからさまな態度も特段見せた事は無かったはずだ。
この一年間、細やかな恋を続けてきた。児戯に等しい恋をして、焦がれ、そしてもどかしくも答えを探して彷徨ってきた。
誰に見せたつもりのないそれを、けれど彼女は知っていたという。見せないのか。相手が誰か分かった上で、リップは背中を押していた。
『今しかチャンスはないと思うわ』
そうだろう。それはそう思う。常にスーツで参加していた己がそれを変えるのは、あれが起こった今しかない。

―――チリさんは、どんな姿になろうと素敵ですよ。

「……リップ」
「なぁに?チリちゃん」
「オススメのショップ…あったらちょっと教えて欲しいんやけど」
「まあ!!」
最終的に己を一歩踏み出させたのは、他でもない記憶に残るアオキのあの一言だった。

暗い夜、満天の星空、街灯煌めく明るい庭と、それを背景にこちらを射抜くあの視線。

チリを恋に落とした、あれが全ての始まりだ。
男性的でもいい、女性的でもいい。
全てを肯定してくれたその人へ、一度でいいから自分という女を全部見せたかった。

多分、この恋はその夜にきっと終わる。

深い、天啓のような予感があった。
リップのスマホロトムから送られたショップの地図を眺めつつ、どのような衣装にしようかとチリは思考を巡らせた。



****



「わ、わーっ!!チリさん!!素敵!!綺麗!!とってもお似合いです!!」
「せやろ〜?流石チリちゃん。なんでも似合うてしもうて困ってまうなあ」
恒例のホールを貸し切り開催される立食パーティー。内心不安に駆られながらもその場に足を踏み入れたチリはすぐさまアオイとネモに囲まれた。
きらきらと大きな瞳を煌めかせ、うっとりと褒め言葉を寄越してくれたのはネモだ。チャンピオンランクといえどまだ在学中の身である彼女達はいつものように制服を着ている。
ネモは大企業のご令嬢と伺っているが、まだあまりそのような場に出る機会がないのだろう。快活な彼女の女の子らしい一面を見て、小さく笑いが溢れてしまった。
「いいなぁ、いいなぁ。私もそんなドレスが着たい!!ねえ、アオイ!!」
「うん。チリちゃん、すっごく綺麗!!」
「アオイも褒めてくれてありがとうな〜!気が向いて着てみた甲斐があったわ!」
本当は、悩んで悩んで、葛藤しながら着たものだけれど。そんな本音を押し隠し、笑顔で彼女らに対応する。
自身の姿を見下ろせば、身体に添って流れる白いドレスが目に入る。今までショーウィンドウで眺めるだけだったようなドレスをこの角度で見る機会があろうとは、今まで夢にも思わなかった。
「それにしてもチリちゃん珍しいね」
「ん?何がや?」
「白いの。いつも黒い感じの服なのに」
アオイは目敏い。自身にドレスという違和感に隠されてくれることを願ったそれとて看破された。
気分や気分。と軽く流しながらも込み上げそうになる羞恥に蓋をして降ろした髪を後ろに流す。
…本当は、最初は自分も黒いドレスにしようと思っていたのだ。着慣れた色だし、明るい色は恥ずかしい。自身の振る舞い的にもシックなそれが似合うと思ったし、実際店員も褒めてくれたので。買おうと思って、それからふとこのドレスに目を留めてしまった。
白いドレス。普段は着ない色。だけどその色は、彼が愛するノーマルタイプの色だから。
「白は似合わん?」
「そんな事ないです!とても良くお似合いで!」
「私も、良く似合っていると思いますよ」
「げぇっ!?トップ!!」
「げえ、とはなんですか」
全力で褒めてくれるネモに満足する間もなく、後ろから聞こえてきた声に自然身構え飛び退る。何時ものようにスーツ姿のオモダカは、ドレスに合わぬ格好を取るこちらに呆れた顔をした。
ちょい、ちょい、と手招きされ、渋々近付けば手を翳して耳打ちをされる。
「チリ、貴方その格好…去年の事を気に病んでのそれではありませんよね?」
「関係ない関係ない。ただの気紛れですよ、そんなん気にするタマに見えます?」
「見えません。それなら良いのです安心しました。貴女はドレスも良く映えますね」
大胆に開いた背中もとても素敵ですよ。
他の誰かが口にしたら歯の浮いてしまうような誉め言葉も、この人が言うなら様になるのだからとても不思議だ。
ネモ、アオイ。貴方達も楽しんで。懸念事項を確認するなり、そう言い置いてオモダカはその場を去っていく。
まるで突風のようなそれに三人揃って呆然として、彼女らしいと顔を見合わせ笑い合った。
その後は、色々と暫く大変だった。リップに褒められナンジャモに配信を望まれ断り、ハッサクに泣かれポピーの為に写真を撮って、次々と物珍しさから来る知人達に挨拶をする。
誰もがチリの事を誉めそやした。誰も蔑みなどせず、女性的なチリを受け入れた。
呼吸がしやすい。身体が軽い。いつしか不安は消え失せて、かの日の痛みが薄くなった。
鎧など着ずともチリはチリだと受け入れて貰えるのだ。だからといって、染み付いたあの格好も気に入っているのでやめないけれど。
履き慣れないヒールを鳴らす。ホールを歩く。多くの人が会いに来てくれたが、目当ては未だ来ていない。

「アオキさん」
「……チリさん」

ホールの隅。隠れるようにして、料理を突くその人の前で立ち止まった。
いつもより少しだけ近い、顔を見上げて静かに問う。
ちょっと付き合うてくれませんか。
夜風に当たりたかったんで。言えばアオキは目を見開く。
去年と同じ学舎のホール。去年と同じ誘い文句。

こくり、と頷く静かな男を伴って、チリはホールを抜け出した。




今日が快晴で良かったと思う。
僅かに風が吹く晴天の庭。そこを、記憶と同じように歩いていく。
去年はコツコツと鈍く鳴った靴音も、今年は高いヒールの音が混じっている。
風が吹くたびに降ろした髪が浮き上がり、乱れ遊ぼうとするのを手で押さえた。髪は結った方が良かったかもしれない。これでは少々鬱陶しい。
「ドオーくんは」
「はい?」
「ドオーくん達は、一体どちらに行かれたのですか」
納める場所など無いように見受けられますが。
徐に言葉を紡がれ、しぱしぱと目を瞬いた。最初の一言がそれかい。想像していたどれとも違う言葉に笑いながら、チリはアオキへと向き直って浮かべた笑みを深くした。
「…気になるん?」
「……はい。我々とってポケモン達は護身の意味も兼ねていますので、それが無いまま無防備に外に出るのは…」
「足首にドオーだけや。本当は、太腿タイプのホルスターにしたかったんやけどドレスがタイト過ぎて無理やってん。人によっては谷間に仕込んだりもするらしいけど、流石にチリちゃんの胸では無理やった」
「………は、」
おお、固まっとる固まっとる。
女性のドレス事情を明けっぴろげにする自身に身を固くするアオキを、チリは楽しく眺める。
「心配せんでも問題ないで。この格好で外に出る気はないさかい」
「今現在外に出ているじゃないですか」
「アオキさんが一緒におるやろ?いざとなったら助けてくれるやん。それとも、二人でおって問題ある?」
「……大人を揶揄うのはやめてください、チリさん」
「何いうとん。チリちゃんも立派な成人女性やで」
一体急にどうしたのか。
戸惑う目にも臆さない。自分は、何者でもないただの『チリ』は。覚悟を決めたら、衝動的に異国に飛ぶほど思い切りがいいのだ。
「なあ、アオキさん。このドレス、どう思う?」
「品の良いドレスかと。布地の光沢が美しく、一目で上等なのが良くわかります」
「褒めるところはドレスだけなん?」
「………よく、お似合いで。チリさんの華奢な体躯が、一層映えてお美しいです」
「前も細身やみたいなこと言うてくれてましたね。アオキさん、チリちゃんの体型気に入ってくれてるん?」
「すみませんそう言うつもりで言ったわけでは」
「なはは、急に早口になるやん」
事案だとかハラスメントだとか、きっと彼の頭の中を駆け巡っているだろう数々を予想してからから笑う。
変わらない。動かない。普通が一番、と流れることのないこの人らしい一貫した態度。
穏やかな気持ちだった。きっと、このような人だから自分はあの時惹かれたのだ。

揺るがない人。何を曝け出しても、チリをチリと認めてくれるこの人が好きだ。

「チリちゃんね。実は、アオキさんのこと好きなんですよ」

だからこそ多くは望まない。
目を見開き固まる、アオキを背にして月を見上げた。

「好きです。多分、去年の今日に一目惚れした。どんな姿やって素敵やって言ってくれたアオキさんの顔が真剣で格好良くて、うっかり転げるように惚れてしもうた」

ほんまに、苦しいけど楽しいきらきらした恋やった。
燃えるような、どうしたらええんか分からんくらいぐちゃぐちゃになる激しい初恋。一緒に居たい。話がしたい。そう思い、理由を必死にいくつも考えた。

「アオキさんがね、チリちゃんのこと、気に掛けてくれたりすると嬉しかったんです。心配して様子見にきてくれたり、お夜食くれたり。あのあと一緒にご飯も何度か行きましたよね。アオキさんが旅してた頃の話、聞いてたんもめっちゃ楽しかったわ。…アオキさんの側に居ると、胸が熱うなってドキドキして。ああこれ、気のせいやないんやなってその度ずっと思っとった」

多分、アオキからすれば何事もない日常のカケラ。それでもチリには、拾い集めてガラスケースにしまうほど大切な想い出だった。

「今日もね、ドレスを着よう思ったんも、アオキさんに素敵やねって褒めて欲しかったからなんよ。似合ってますって言ってくれて嬉しかった。…なあ、お願いや。もう一回だけ言ってくれん?」

良くお似合いやって。綺麗やって。
あなたの色を纏う自分の姿を褒めてくれたら、それだけで自分は充分なので。

「アオキさんとどうこうなりたいとは思っとらんよ。アオキさん世間体気にしはるし、困らせたい訳やない」
「チリさん、」
「言うてや。なあ、それだけで…わたしはもう、充分やから」

チリの育ち切っていない幼い恋心では、ガラスケースに詰められるのはあとひとつだけ。

最後のひとかけらを、その素敵な想い出で埋めたかった。
月をずっと見上げていた。そうでなければ、涙が溢れてしまうと思った。
いとしいわたしのはつこい。暖かいばかりのそれに、冷たい雫は混ぜたくなかったのだ。

「チリさん。こっちを向いて頂けますか」

低く重く、チリを呼ぶ、大好きな人の声。
逆らえるはずもなく、涙を堪えて相手を振り向く。
草臥れたそれではない、上等なスーツに身を包んだアオキが、真っ直ぐに、力強く、チリの事を射抜いている。
――ああ、そう。そうやった。

これや。これはあの時と同じ、自分を恋に落としたそれ。

「――お似合いですよ。貴女は…チリさんは。私が知る誰よりも、強くお美しい方です」
「ッッ……!!はは、なんなん、それ」

そこまでの、身に余るものは望んでいない。
それなら愛してくれたっていいじゃないか。誰よりも強く美しいと思うのなら、世間体など放り捨ててなりふり構わず求めてくれても良いものを。
「時にチリさん。貴女はムクホークの習性をご存知でしょうか」
「へ?」
「ムクホークは非常に獰猛な性格でして、自分より身体の大きい相手にも挑み掛かると言います」
「……はあ、」
「進化前のムクバードは、自身の弱さを弁え群れで行動し、身を守るよう慎重に行動します。それなのに、独り立ちをした途端、強大な相手にも臆さず立ち向かい、傷付こうと攻撃をやめず果敢に戦うんです」
急に、何を言いだすのだろうか。込み上げかけていた涙も思わず引っ込んだ。
戸惑うチリの視線にも、アオキは一切動じない。
先程と真逆になった立場に困り立ち尽くす。それが、どうしたん?間の抜けた、支えを失ったような小さな声で返したチリに、アオキは深く息を吸う。
「いえ。内心叶うことのないものと思いつつ、それでも痛みを抱え告白してくれた貴女を見ていたら、唐突にそれを思い出したもので」

だから、私も今一度、進化してみるべきかと決心しました。

言われた言葉に理解がまるで追いつかない。
暗い瞳。普段覇気のないそれが爛々と輝く。
とっぷり暮れた空の下、闇夜に溶けるようなその瞳が、チリを逃がさない、と訴えていて。
「―――え?」
「チリさん。貴女が好きです。本当は、ずっとチリさんの事が好きでした。私は貴女の言う通り、世間体を気にして諦めていました。挑む前から、諦めていた。例え貴女が私の事を好きでいてくれても、私のような中年が若く美しい貴女となど釣り合わないと、ムクバードのように身の程を弁えて」
「え?え?」


「ですが、貴女が諦めようとするその姿勢を見て目が覚めました。人は逃げられたら追いたくなるもの。向けられた背があまりにも美しいので、どうしても追いかけてしまいたくなりました。強大な相手に立ち向かうのも、ムクホークであればまた一興。覚悟しておいて下さいチリさん。年甲斐もなく、私は今から貴女を落としに掛かります」



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コメント

  • ゆずす
    4月16日
  • もこ

    落としにかかるってセリフ最高...

    2023年1月16日
  • 2022年12月27日
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