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この作品「恋はいつでもハリケーン!」は「アオチリ」「アオキ(トレーナー)」等のタグがつけられた作品です。
恋はいつでもハリケーン!/沼地の小説

恋はいつでもハリケーン!

33,184文字1時間6分

元気100倍!チリチャンマンがめげない!しょげない!へこたれない!の精神でアオキさんにアタックし続ける話です。

※過去回想で捏造四天王のお爺ちゃんが出てきます

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ガタリ、と車内が大きく揺れ、程なく平衡感覚が戻ってくる心地がして、アオキは閉じていた目を開く。着きましたよ、との声に礼を述べて外へ出ると、強い風が頬をさらって過ぎ去っていく。それがあまりの強風なものだから、アオキは思わずぱしぱしと瞬きをした。

「……」

ざくざくと芝生を踏みしめ、アオキはリーグの裏手にある通用口に向かう。懐からセキュリティカードを取り出し機械に翳すと、音もなく開いた扉に慣れたように踏み込み、横で佇む警備担当に軽く会釈をしてエレベーターホールへと歩いていった。

チン、と音がして、エレベーターの扉が開く。四天王の業務につく自分の専用控え室がある階のボタンを押して、無人のエレベーター内で深い溜息をついた。

疲れている。3つも掛け持ちをしているのだから当然と言えば当然なのだが、ここ最近は特に疲労が溜まっていた。歳のせいかと考えると物悲しくなってくるが、大体の理由はあの無茶ぶりばかりしてくる美しくも恐ろしい、アオキにとっては永遠に逆らうことの出来ない上司のせいであった。

何処か遠くに旅行に行きたい。南国とか。アローラとかいいかもしれない。

暖かい場所が好きなトロピウスやチルタリスは喜ぶだろうなあ。オドリドリやネッコアラも喜ぶだろう。自身のポケモンを思い浮かべたアオキは、思わず眉間の皺を少しだけ緩める。どんなに疲れていてもアオキにとって自身の手持ちは癒しであり、思い浮かべるだけでアオキのささくれだった心を癒してくれる存在であった。

エレベーターの扉が開き、アオキは傾いていた頭を真っ直ぐに戻す。現実逃避の時間はここまでで、ここからは仕事の時間だ。重い足取りで廊下を進みながら、アオキは自身の控え室の扉を開いた。草臥れたビジネスバッグをソファの上にどさりと置き、コートを脱いでハンガーラックにかける。窓ガラスに映る自分の姿を確認して少しだけ緩んでいた空色のネクタイを締め直すと、疲れた顔の中年男が重苦しい顔でこちらを見つめていて、我ながら陰気臭い顔だな、とつい内心で罵った。

この後の業務は四天王戦の予約が入っている。開始時間から30分ほど時間があるから少しだけ休憩して、その後は待機室で打合せをしながら出番が来るのを待って──
ソファに腰掛けながら思考の海に沈んでいたアオキの耳に、耳慣れた足音が聞こえてくる。バタバタと騒がしいその音に本日一番深い溜息をついたアオキは、何回言ってもこの癖だけは治らなかったな…と何処か遠い目をするのだった。

重たい腰を上げてソファから立ち上がったアオキが、扉を開けようとドアノブの手を伸ばす。その瞬間ガチャンと勢いよくレバーが下に下がって、勝手に扉が開いたかと思うとー勢いよくアオキの胸元に翠色が飛び込んできた。

「アオキさ───ん!」
「ぐふっ」

思わずたたらを踏んで咳き込むアオキに、飛び込んできたもの、具体的には人間、さらに言えば同じ四天王である女性──チリが容赦なく抱きついてくる。

「なあなあ今日アオキさん四天王戦終わったらノー残業デーやろ!一緒にご飯行こ、なんならアオキさん家行こ!」
「ノー残業デーですしご飯は構いませんが家は行きません」
「ケチ!まあええよアオキさん疲れてるみたいやし、あっなんならチリちゃんが今から膝枕したろか?」
「しません、体を安売りするのは止めなさい」
「アオキさんにはタダやで、お得やろ!」
「止めなさい自分のこと社会的に殺したいんですか本当に止めてください」

手をホールドアップした状態で抱きついてくるチリをいなすのはいつものことで、チリがこうしてキャンキャンとアオキに抱きついてアプローチを掛けてくるのもいつものことであった。
外向きでは男装の麗人、大人の女性、顔面600族と様々な言われようをしながらも美人と称されることの多いチリが、仕事外でアオキを前にすると途端にこうしてボチのように人懐っこくまとわりついてアオキに愛情表現をするのはリーグ内では見慣れた光景で、微笑ましく見守られるのみなのだが、アオキとしてはこんな冴えない中年に若い女性が抱きついているところを見られでもしたら社会的な死を覚悟するし、何より彼女の今後に影響が出かねない。何度もそう言って引き剥がそうとするのだが、折れないチリにもうここ数年は諦めてされるがままになっていた。

はあ、と諦めて視線を下にやると、楽しそうなチリが上目遣いでこちらを見つめてくる。美しい鳶色がこちらを捉えて、構ってくれと楽しそうに輝いているものだから、思わず相棒の姿と被ってしまって頭を撫でそうになるのを咄嗟に堪えた。コンプライアンスに抵触したら職場どころかこの地に居場所が無くなる、弁えなければ。

「へへ、アオキさん今日もかっこええなあ…。今日もかっこええし昨日は可愛かったし明日もかっこええな!好きやで!」
「…どうも。そんな風に言うのは貴女くらいです」
「なんやどいつもこいつも見る目あらへんな、まあチリちゃんだけ分かってればええけどね!」
「はいはい…」

相も変わらず全力で愛情表現してくるチリを見て、アオキはささくれだった心が若干和らいでいるのを感じる。いきなり抱きつくのは心臓に悪すぎるのでやめて欲しいが、あけすけすぎる好意と大型ポケモンに寄ってこられた時のような勢いは、確かに疲れたアオキの密かな癒しとなっていた。正直、絆されている節はある。彼女ももういい年の女性なのだからもう少し落ち着くべきだとは思うが、アオキを前にするとどうしてもこうなってしまうので、仕方がないと甘く見てしまっている自覚はあった。

「…チリさん、貴女ももう大人なんですからそろそろ男に軽率に抱きつくのは」
「あっ!あかん、そろそろ面接の準備せな…アオキさん充電できたしほな行くわ!約束忘れんといてなー!」

アオキの苦言に被せるようにして喋り倒したチリは、話し終えたかと思うと風のように目の前を去っていく。わざとだな、と溜息をついたアオキは、どうしたものかと頭を悩ませながらソファへ再び沈みこんだ。
彼女が居なくなった部屋でアオキは再び思考の海に沈む。何度も繰り返してきた問答だが、やはり今日も答えは出なかった。

やっぱり有給申請しようかな。そうだ、アローラ行こう。
草臥れた表情で、アオキは現実逃避をすることにした。のだが、頭の中で小煩いハッサクが「きちんと誠実に考えなさい!いつまでなあなあにする気ですか!」と説教をかましてきやがったので、顔を顰めてソファに倒れ込む。本当に煩い人だ、人の脳内にまで出現して説教するな。

「……困ったな…」

アオキは眉を下げて頭を乱暴に掻く。結局面倒になって放り投げた思考の先には、あの燃えるように輝く瞳で、自分を好きだと弾ける笑顔のまま宣言するチリの姿があった。

──そう、アオキはチリに好かれているのだった。恋愛的な意味で。しかも、5年程前から。


□□□


二人が初めて邂逅したのは、今から大体5年程前、チリが四天王に就任した際の初めての顔合わせであった。正直なところお互いの印象はそこまで良いものとは言えず、チリからすればなんやこの冴えないオッサンといった感じで、アオキからすると随分と若い子が入ってきたな、というだけの感想だった。

その頃のチリは、はっきり言うと調子に乗っているクソガキだった。地元のジョウトでは負け知らずで、物足りなくなって15歳の時に単身飛び出して武者修行の日々。18歳の時に遥か遠いパルデアまで訪れた際、オモダカ直々に引き抜かれたのだが、若い頃特有の万能感というのは恐ろしいもので、チリは今でも思い返すと申し訳なさ過ぎて地に埋まりたくなるくらいには調子に乗っていたのだ。具体的に何をしたのかというと、顔合わせで一番弱そうだと思った男、──アオキに喧嘩を売った。


「なんやあんた、冴えへん面やな。ホンマに四天王か?」

チリの刺々しい言葉が、リーグのバトルコートに鋭く響き渡る。ぎょっとした金髪の男ーハッサクと言ったか、その男が咎めようと口を開くも、目の前で馬鹿にされたはずのアオキは眉をぴくりとも動かすことなく、はあ、と気の抜けた返事をした。
いかにも興味の無さそうなその顔に、チリは思わず眉を跳ねあげる。ここのリーグ委員長たるオモダカに引き抜かれて来てやったはいいものの、同僚となるはずの四天王は声のでかい教師、優しげな顔のおじいちゃん、そして陰気臭い顔のリーマンときた。大将を務めるハッサクとやらは確かに侮れない雰囲気を感じるが、それ以外は正直強いとは思えない。

「あの人がトップ張ってる言うから四天王とやらを引き受けたんに、パッとせえへんなァ。…特にあんた、気に食わん。如何にもやる気ありません、って顔でここに立って...こんなんが四天王か。パルデアも大したことあらへんな」
「チリ!流石に言い過ぎです」

チリの挑発に、ハッサクが鋭い声で静止をかける。しかし当のアオキは無表情のまま怒ることも無く、傷ついた顔をする訳でもなく、黙ってチリを眺めていた。打っても打ってもまるで響かないその様子に、プライドすら無いのかとチリは益々憤慨する。

「アオキ!貴方も少しは言い返しなさい、そんなだから舐められるんですよ」
「...まあ、どうでもいいので...」
「どうでもいいって貴方ね、」
「まあまあ、落ち着きなさいよハッサク。貴女もね、チリさん、あまり人を見た目で判断するものではないよ」

好々爺然としたお爺さんにゆったりと窘められ、チリは思わず声を詰まらせる。流石にカッとなって言い過ぎたとは思うが、それでも強さを求めてきたチリにとって、こんなにやる気の無さそうな人間が自分と同じ立場にいるというのは到底許せる事ではなかった。アオキが少しは怒れば溜飲も下がったのだろうが、感情の兆しすら見せないその様子が余計にチリの神経を逆撫でする。目を釣り上げてアオキを睨みつけるチリの様子を見て、ハッサクは溜息をつき、爺と愛称で呼ばれる四天王の男は、ふむと一つ頷くと、携帯を取り出してある場所にかけ始めた。

「...おうい、オモダカちゃん、元気かい。うん、そうそう、今日が顔合わせだったんだけどねえ、ちょいとバトルコートを借りてもいいかな?...そうかい、ありがとうねえ。それじゃあまたね、忙しいだろうけど体には気をつけるんだよ」

ピ、と電話を切った爺は、くるりとこちらを振り向くと、相変わらず人好きのする笑みを浮かべて、そんなわけでバトルするかい、とこちらに声を掛けてきた。

「...え、ウチと爺ちゃんが?」
「はっは、それじゃあ意味が無いよお。アオキくんの実力が知りたいんだろう?それならアオキくんとチリさんがバトルすればいい」
「...まあ、それが一番手っ取り早いですが...嫌そうな顔をするのを止めなさい、アオキ」
「嫌です」

途端にあからさまに嫌そうな顔を浮かべて拒否する男に、チリは唇の端をひくつかせる。四天王の癖に売られた喧嘩は買わない、バトルは嫌がる、何の為にここに居るのだこの男は。ーもういい、バトルするなら好都合だ、叩きのめしてあいつをここから追い出してやる。

「...ええ度胸やな。バトルすんで、絶対いてこます」
「...はあ。仕方がない、これも仕事の一環というやつですか...。チリさん、でしたか。...折角就任したんですから、負けて辞めたりしないで下さいね」
「......ア゛?」

疲れた顔で宣うアオキに、遂にチリの堪忍袋の緒が切れた。やる気のない顔の癖して、煽りだけは一級品ときた。──この男、ブチ殺してやろうか。

ギチリとボールを握りしめ、チリは目の前の男を睨みつける。射殺さんばかりの殺気を飛ばすチリに頭を抱えながら、コートの真ん中にハッサクが審判として立ち会った。

「使用ポケモンは3体、交代はあり。テラスタルオーブの使用は禁止としますですよ、良いですね?
──それでは、バトル...開始!」

ハッサクの掛け声と同時に、チリとアオキがポケモンを繰り出す。

「いくで、ナマズン!」
「お願いします、オドリドリ」

ゆったりと髭をたなびかせて鳴き声を上げるナマズンが、目の前の相手を見据える。反面可愛らしい鳴き声でボールから飛び出してきたオドリドリは、楽しそうにステップを踏んで羽を震わせていた。

(タイプ相性は五分五分ってとこか。…ひこうタイプ遣いって言うてたからじめんわざは効かんけど、でんきわざが効かんのはこっちも同じことやし...即効で終わらせたる)

「ナマズン!ふぶ──」
「オドリドリ、フラフラダンス」

素早い動きであっという間に距離を詰めてきたオドリドリが、可憐なダンスでナマズンを翻弄する。あっという間に目を回したナマズンは、ふらふらと覚束無い動きで頭を地面にぶつけた。

「チッ、こんらんか!しっかりせえナマズン、だくりゅう!」
「飛び上がって」

即座に体勢を建て直したナマズンが、身体から泥を含んだ大波を発生させるが、地面を覆う大波を避けるように、オドリドリは空に飛び上がり泥波を回避した。いまだにこんらんで頭を揺らすナマズンの起こす波が収まると同時に、頭上から風の刃が飛んでくる。

「エアスラッシュ」
「ふぶきでかき消せ!」

フィールドにごう、と暴風が発生してわざがぶつかり合う。猛吹雪が鋭い風の刃をかき消したが、収まったとき、何故かいたはずの小さな鳥ポケモンの姿がフィールド上から消えていた。ーまるで身を潜めるかのように。

「...落ち着きナマズン、どこかにいるはず──」
「くさわけ」

ざざ、と草木をかき分けるような音がして、一瞬でその姿がナマズンの足元に現れる。しまったと指示を出そうとした瞬間、オドリドリの攻撃がナマズンを捉えてその巨体を下から跳ね上げた。

「ッ、ナマズン!」

どさりと倒れ込む音がして、チリは思わず声を上げる。その体はそのまま動くことなく地に倒れ伏して、オドリドリが勝利の舞を踊り始めた。

「ナマズン、戦闘不能。オドリドリの勝利です」

チリはナマズンを戻してお疲れさんと声を掛けると、次のボールを手に取って歯噛みした。
...一撃、たった一撃だ。いくら4倍弱点とはいえ、くさわけはそこまで威力の高い技ではない。だというのに、あの小さなオドリドリはそれなりの防御力を持つナマズンを一撃で急所に当ててのして見せた。このオドリドリ、シンプルに──わざの完成度が高すぎる。

「威力のほう、確認いただけましたでしょうか。......それで、次は?」
「ッ、上等ォ...!」

…一瞬、気圧された。相も変わらず腹の立つ無表情だが、アオキの気配が一瞬で塗り変わるのを感じて、チリの肌が粟立つ。得体の知れない恐ろしさが足元から這い上がってきて、チリは無意識にじり、と足を後ろに下げていた。似ている、この男の気配、まるで初めてオモダカとバトルをした時のようだ。

「いくで、バクーダ!」

奮い立てるようにポケモンを繰り出したチリが、火花を散らすバクーダに発破をかける。その顔に先程の余裕などとうに消えていた。ー死にものぐるいで食らいつかなければ、狩られる。

「バクーダ、ステルスロック!」
「オドリドリ、バトンタッチ」
「なっ、」

岩の破片をフィールドに撒き散らしたバクーダを見て、アオキは冷静に指示を出す。オドリドリを引っ込めたかと思うとボールを繰り出し、出てきたポケモンは甲高い鳴き声を上げると、白い翼をはためかせて美しい旋律を奏でた。

(ドラゴン複合タイプ...!)

チリは思わず、目を見開いてその優美な姿を見つめる。一般的にドラゴンタイプは気位が高く、生半可なトレーナーでは主人として認めてもらうことすら難しいと言われるポケモンだ。だからこそ各地方にはドラゴン遣いと呼ばれる人間がおり、チャンピオンクラスの人間ほどドラゴンタイプを手持ちに含めることが多い。
...その、ドラゴンタイプを、あの男は、連れている。
一目見ただけで分かる、あのチルタリスは強い。一から育て上げられたのだろう、その表情は龍としての誇りと、トレーナーへの信頼に満ちていた。
チルタリスはその羽に鋭い岩の刃が食いこもうと、余裕に満ちた表情を崩さない。

「この程度でチルタリスは怯みませんよ。...りゅうのはどう」
「だいもんじ!」

凄まじい高エネルギーの波動が飛んでくるが、最大出力の熱波がぶつかり合って相殺する。大きな爆発音が鳴って爆煙がフィールドを包み込み、チリは思わず顔を顰めた。

「...また隠れる気か...バクーダ!すなあらし!」

それならば、とフィールドを得意な状態に持ち込もうと煙を砂でかき消していく。轟々と耳鳴りがしそうなほどの嵐がフィールドを包み込み、空を飛ぶ美しい羽が風で煽られた。

「そこや、ストーンエッジ!」

スピードを落としたチルタリスに隆起した岩が次々と音を立てて迫り来る。その羽に触れるという瞬間に、静かな声がフィールドを割った。

「コットンガード」

ぶわりと綿のように広がった羽が、下から突き上げてくる岩の衝撃を吸収する。ふわりと浮き上がったチルタリスは、くるりと空中で一回転すると、ごうと音を立てて一気に上空へ伸び上がった。その余りのスピードに違和感を覚え、チリは思わず眉間に皺を寄せる。

(──バトンタッチか!)

先程オドリドリが放ったくさわけは、すばやさを上げる追加効果がある。それをバトンタッチでそのまま引き継いだチルタリスのすばやさは通常よりも速くなっており、その状態で上空へ飛び立たれてしまえば、足の遅いバクーダでは最早捉えることが出来なくなっていた。

「ッバクーダ!ふんえん!」
「チルタリス、りゅうせいぐん」

ドラゴンタイプ最強のわざが、遥か頭上から降ってくる。バクーダの背中からマグマが噴き出して迎え撃つも、雨のように降り注ぐ隕石が次々とバクーダに当たり、ついに体を支えきれなくなったバクーダはどうと横倒しになって倒れ込んだ。

「バクーダ、戦闘不能。チルタリスの勝ちです」

チルタリスの雄叫びがフィールドに響き渡る。唇を噛みながらバクーダをボールに戻したチリは、お疲れさんと声をかけると、最後の一体を取り出した。
この子はこの地に来て出会ったポケモンで、今やチリにとっての切り札でもあった。頼むで、とそっと額にボールを押し当てると、勢いよくボールを投げて一回転する。

「相手にとって不足なし、気張りやァ、ドオー!」
「...引き続き頼みますよ、チルタリス」

可愛らしい顔でやる気に満ちたドオーが、威嚇するかのように雄叫びを上げる。チルタリスは優雅に空を旋回し、静かにアオキの目の前に降りてきた。

「チルタリス、れいとうビーム」
「まもる!」

冷気を纏った光線が飛んでくるが、ガキイと音を立てて透明な壁に阻まれる。空を駆けるチルタリスを捉えることは難しいが、先程のりゅうせいぐんの影響か、チルタリスの放つわざの威力は弱まっていた。
すなあらしの効果はまだ効いている。あの純白の羽を地に落とすには、今しか無かった。

「りゅうのはどう」
「受け止めろ!」

あえてチルタリスから放たれた光線を受け止めて、照準を合わせる。飛んでいる時に狙っても意味が無い、わざを放つためにチルタリスが空中に留まる今、この一瞬で決める。

「ダストシュート!」

高威力の毒を纏った塊が、放物線を描いて空中のチルタリスに目掛けて飛んでくる。わざを放ったばかりのチルタリスは咄嗟に回避することも出来ず、悲鳴を上げて地面に激突した。

「...毒か。チルタリス、まだいけますか」

立ち上がろうとしたチルタリスが、苦しそうにえづきだす。どく状態になったと判断したアオキが声を掛けると、頷いたチルタリスは奮い立たせるように雄叫びを上げた。

「折角地面に落としたんや、逃がしてたまるかァ!ストーンエッジ!」
「地面に向かってりゅうのはどう!」

地面から岩が突出してチルタリスを襲い、波動を地面にぶつけたチルタリスが推進力で無理やり空中に飛び上がる。いくつか避けきれずに羽に刺さったものの、何とか体勢を立て直し、こちらを睨みつけてきた。

「...やりますね。ーチルタリス、れいとうビーム」
「ドオー、まもる!」

効果抜群のわざを再び防ぎ、チリは続けて指示を出そうと口を開く。しかしその瞬間、ぐらりとチルタリスが傾いて、どしゃりと音を立てて地に倒れ伏した。

「...チルタリス、戦闘不能。ドオーの勝利です!」
「...お疲れ様でした、チルタリス」

すなあらしの効果が切れ、フィールドを覆っていた砂埃が収まり視界が開けた。
静かに労いの言葉をかけてボールに戻したアオキが、凪いだ瞳でこちらを見ている。──その瞬間、チリは地面に突っ伏しそうになるほどの威圧感を感じて、冷や汗がぶわりと吹き出した。

「...強いですね。流石、あの人が引き抜いただけのことはある」

チルタリスが突破されたのは久しぶりです、と抑揚の無い声で話すアオキに、チリは言葉を返すことも出来ずに口をはくはくとさせていた。
──何だ、これは。この男は何なのだ、今にも押し潰されそうな、指先すら動かすのが億劫になるほどの、この威圧感は。
その時、眼前の黒曜石のような感情の見えない瞳と目が合って、チリは自分がとてつもない勘違いをしていた事に漸く気がついた。感情が見えないなんて、なんて、馬鹿なことを。

──アオキは目の奥で嗤っていた。瞳に映るのは強者と相見えた際の高揚感、征服欲、殺気にも似た闘争心。

心臓が鷲掴みにされたように痛い。息を吸うのも苦しくて、ひゅうひゅうと呼吸が唇から漏れる。獰猛な瞳は今も静かにこちらを見つめて、チリの首元を食いちぎらんと狙ってきている。嗚呼、なんて、なんて──

面白い!

チリの顔に獰猛な笑みが浮かぶ。湧き上がる高揚感が心臓をドクドクと早めて、まるで恋でもしているかのように紅潮した頬で目の前の男を見つめた。

「絶対、撃ち落とす、」
「出来るものなら、どうぞ」

一瞬の静寂の後、アオキが動く。スローで投げたボールから飛び出したムクホークが鋭い声を上げ、眼前の敵を睨みつけた。ドオーが少しだけ怯む素振りを見せるが、立て直すかのように背中から棘を突出させる。

「ムクホーク、ーインファイト」
「ドオー、まもる!」

一瞬で接近してきたムクホークが、鋭い鉤爪からわざを繰り出す。咄嗟に盾で防いだが、その威力の高さにみしり、と透明なはずの盾に罅が入った。

「ストーンエッジ!」
「アクロバットで上空へ」

一転攻勢に出たドオーが地面から岩を突出させてムクホークを追い詰めるが、軽やかな動きで次々と躱されていく。遥か上空に飛び上がったムクホークは、悠々と翼をはためかせると、主人と同じ鋭い眼光でこちらを睨みつけてきた。
ぞくり、とチリの背筋が粟立つ。何か仕掛けてくる、そう確信して上空を睨みつけた途端、ムクホークは弾丸のような勢いでドオーに向かって飛び込んできた。

「ブレイブバード」

自らの身を削って放つ高火力のわざが目前に迫り、チリの顔に不敵な笑みが浮かべられる。この時を待っていた、とばかりに声を張り上げたチリは、ドオーに向かって指示を飛ばした。

「ドオー!真っ向勝負や、受け止めえ!ダストシュート!」

真正面からムクホークを受け止めたドオーが、勢いで後ろに押し込められる。尻尾を地面に叩きつけて衝撃に耐えきったドオーは、続けて毒の塊を発射し、見事に命中したムクホークが距離を取ろうと後ろに下がった。

「今や、ストーンエッジ!」

ムクホークはよろめき、青ざめた顔でえづいている。毒状態になったと察したチリは止めとばかりに声を張り上げ、ムクホークの目の前に鋭い岩の切っ先が迫っていた。

(──落とせる!)

そう確信したチリが、アオキに目をやった瞬間、ぞっとするような怖気が足元から這い上がり、チリの顔から一気に血の気が引いた。──この感覚は知っている、これは、選択肢を間違えた時の、

「躱して接近。──からげんき」
「ーッドオー!まも、」

状態異常になっているとは思えないほどの動きで岩の間を縫って接近してきたムクホークが、凶悪な鉤爪で大きな体を捉える。咄嗟にチリが指示を出そうとするが、獲物を捉えんとする鉤爪の方が早く、ドオーの体に強烈な一撃が入って大きな体が横倒しになった。
──その体は、動かない。

「ドオー、戦闘不能。ムクホークの勝利。ーよってこの勝負、四天王アオキの勝利です」

ぐ、と唇を噛み締めたチリが、相棒をボールに戻してありがとな、と声をかける。ムクホークを労ってボールに戻したアオキは、変わらぬ表情でネクタイを締め直すと、何事も無かったかのように歩き出した。

その様子を見て、チリは両手を握りしめる。完敗だ、手も足も出なかった。エースで漸く一体持っていけたが、体力の削られていたドオーで残り二体を相手できたかというと難しい。
チリは俯いたまま、つかつかとまた茫洋とした雰囲気に戻ってしまった男に歩み寄る。すわや一触即発かと慌てて駆け寄ろうとしたハッサクを無視して、ぼんやりとこちらを見つめるアオキの目の前で立ち止まりーガバリと頭を下げた。

「すみませんでした!」
「え」

きょとん、と驚いたように瞬きをするアオキを見て、この人意外とこんな表情もするのか、と頭の片隅で考えながら、チリは言葉を続ける。

「ウチが間違ってた。アオキさんはやる気がない訳でもあらへんし、適当やっとる訳でもない。お爺ちゃんの言う通りや、勝手に判断して失礼なこと言ってもうてすみませんでした。
...悔しいけど、ものごっつ、強かった!」
「─いえ、気にしていないので...」

本当に気にしていなさそうなアオキに、チリはそこはもう少し気にした方が良いのではないかと呆れた顔で詰った。

「自分で言うのもあれやけどもう少し怒った方がええと思うで、感情の起伏どないなってんねん」
「...どうせバトルする事になったら分かるのだから、良いかなと」

チリの言葉に、小さな声で、しかしはっきり、アオキは堂々と告げる。

「上司からは嫌味を言われますが、自分はシンプルな方が好きなんです。四天王だからと目立ったり特別である必要は無い。──実力は、バトルで示せばいい。ここはそういう場所でしょう」

アオキの黒曜石の瞳が、真っ直ぐにチリを射抜く。その瞬間、チリの心臓が鷲掴みにされたようにぎゅうと縮まって、ドクドクと音を立てた。そうして漸く、チリは先程のバトルで感じた高揚感の正体に気がつく。

──あかん、ホンマに完敗や。

いきなり俯いて震え出したチリに、アオキとハッサクは何事かと顔を見合わせる。恐る恐るといった様子で、あの、とアオキが声をかけると、勢い良く顔を上げたチリが一歩、アオキに向かって詰め寄った。

「アオキさん!」
「は、はい」
「ご結婚はされてはりますか!」
「は?いえ、していませんが...」
「ほな恋人は!」
「え、い、いません」
「ならチリちゃんが立候補してもええですか!」
「はあ、.........え?」

眉を下げて戸惑った様子のアオキが、ぽかんと口を開ける。あ、その顔可愛い、と暢気なことを考えながら、チリは大きな声でアオキに向かって、人生初の愛の告白を告げたのだった。

「チリちゃん、アオキさんに惚れてもうたわ。──好きです!付き合うてください!」
「丁重にお断りさせて頂きます」

思わず反射的に返した言葉に、あ、やべ、といった表情でアオキが顔を顰める。秒でお断りされたチリは、思わず俯...くこともなく、更にもう一歩と詰め寄った。

「速攻で断るやんおもろいなアオキさん、でも諦めへんよ!今は考えられんでもそのうち好きになるかもしれんやろ」
「いえ無いです、そもそも年の差がありすぎるので...子供はちょっと...」
「18歳は子供やあらへんやろ!...まってアオキさんいくつ?」
「自分からしたら子供です。あと一応30歳ですが」
「対しておっさんでもあらへんやん、可能性あるな」
「可能性無いので諦めてください」
「分かった、まずはお互いのこと知らんとな。好きなタイプとかあります?チリちゃんはアオキさんがタイプです」
「凄いぐいぐい来る...好きになった人がタイプです」
「なんやお揃いやん、相性ええな!」
「ポジティブすぎませんか」

やいのやいのと言い合う二人を見て、ハッサクと爺は顔を見合わせる。これから同僚として働くのだから仲は良い方が良いのだが、まさかこんな展開になるとは。

「いやあ、若いっていいねえ」
「バトルで育まれる愛...!なんと素晴らしい!」
「...止めてもらっていいですか?」

傍観者達の勝手な感想に顔を顰めているアオキに、チリがにこにことした笑顔を向けながらこれからよろしくお願いします、と手を差し出す。きらきらとした目で自分を見つめるその顔に、アオキは一瞬息を詰めてから、盛大な溜息をついて握手に応じた。

「よろしくお願いします、...同僚として」
「今のところはな!」


こうしてチリからアタックされる日々が続いたアオキは、毎日毎日愛を伝え続けるチリに困惑しながらも対応し続けた結果、チリの告白劇はアオキに振られるまでがリーグ名物と言われるようになり、爺が引退して新たな四天王が就任してからも変わらず、幼女のポピーにすら「いつおじちゃんはチリちゃんをお姫様にしてあげるんですの?」と心配されるようになり。そうして、気がついたら5年の年月が経っていたのだった。

□□□


──チリには、大好きで大好きでたまらない人がいる。

撫で付けた灰髪混じりの黒髪、眉間の皺、太い眉に生気のない瞳、歳の割にスタイルは良いのにいつだって丸まっている背。悪口ですか?と幻聴が聞こえてきそうな気がしたが、チリにとっては大好きな人の大好きなチャームポイントなので何も問題は無い。
初めて会ったのは5年前、チリが四天王に就任した際の顔合わせ。当時若気の至りで尖りに尖っていた自分はアオキに舐めてかかった結果バトルでボッコボコにされた訳だが、それにより運命に出会えたのだから結果としては良しとする。
…まあ、正直なところ、過去については今でもオモダカやハッサクからからかわれるので、毎回顔から火が出そうになるほど恥ずかしい黒歴史ではあるが。当のアオキは全く気にしていない様子なので、チリは益々彼への愛を深めるのであった。

勿論性格も好きだ。むしろ好きなところしかない。
大人しそうな見た目なのに存外図太いところも、食事の最中にだけ見せる満面の笑みも、他人に興味が無いような素振りで実は良く見ているところも、誰にも気付かれないようなさりげない優しさも。
本業のはずの営業に不向きすぎる声の小ささも、都合が悪くなるとそっぽを向くところも可愛らしい。

──何よりも、バトルになった途端に鋭くなるその眼光。相手の隙をつく素早い指示、フィールド全体を利用する柔軟な思考。今だって鮮明に思い出せる、初めてバトルをした時の、あの圧倒的な、恐ろしいほどの威圧感。あの目に射抜かれた瞬間、チリは心を鷲掴みにされたのだ。

という話を、以前ナンジャモやリップを含めたジムリーグの女子会で語ったことがあるのだが。余りの熱量に全員引いたような表情で見ていたので、チリの愛は大分重たいのかもしれない。
勿論アオキが本当に迷惑そうにしていたら止めるが、今のところ困ってはいても迷惑そうにはしていないから、その優しさに甘えさせてもらっている。
そんなわけで、チリは今日もアオキにエリアゼロよりも深く、パルデア海よりも広い愛を全力で伝えるのだった。

「アオキさ───ん!」
「うぐっ」

後ろ姿が視界に入った途端、チリは即座にその広い背中に飛びつくようにして走りよる。衝撃に思わず声を詰まらせたアオキはつんのめるが、バトルのせいか案外体幹の良い男はよろめくことも無くチリの勢いをいつも通り受け止めた。

「...いつも言っていますが、いきなり抱きつくのは止めてください」
「けどアオキさん、いつもチリちゃんの足音に気づいて立ち止まってくれるやん。そういう優しいところ大好きや!」
「...それは、どうも」

チリの告白に困ったように、しかし存外優しい、緩やかな声色でアオキは返答する。その時の声がチリは一等好きで、会う度に愛を伝えてしまうものだから、最近はオモダカにすら「返事を貰わなくても良いのですか?」と心配される始末だった。
顔が見えないのをいい事に、チリはその硬い背中に頬を擦り寄せる。アオキの控えめな柔軟剤の香りがふわりと鼻孔を漂って、チリはゆるゆると頬を緩めて目を閉じた。

──アオキに応えて欲しいかと言われれば、それは勿論、と答える。でも別に、応えてくれなくてもいいとも思っているのだ。
アオキは誠実だから、きっとチリとの関係に答えを出せていないのだろう。本当に駄目なら、今頃きっと、チリはとっくに迷惑だと振られているだろうから。とはいえ勿論最初はお断りされ続けていたけれど、ここ数年は諦めたのか、少しは絆されてくれたのか、困ったように眉を下げて礼を言われるようになった。
…彼の優しさに漬け込んで狡いことをしているのは分かっている。出会った当初は猪突猛進に想いを伝え続けていたけれど、5年も経てば、チリだって流石に大人になる。子供の戯言だとあしらわれるうちが華だったのだと、忙しい彼を困らせてはいけないのだと、本当は分かっていた。

(...でも、堪忍なあ、アオキさん)

でも、チリは、困って欲しかった。チリのことで頭を悩ませて、その癖チリのことを突き放すことが出来なくて、仕方がないなあという風に笑うアオキに、優しいアオキに、困って、考えてほしかった。

アオキさん、チリちゃんのこと、好きになって。

心の中で、そう呟くけれど。チリの口から、その言葉だけは出てくることが無かった。大好きで、大切で、世界で一番愛している人だから。
...その言葉だけは、伝えることが出来ずにいた。

「...さ、ご飯食べに行きましょ!場所何処がええですか?宝食堂?」
「貴女を連れていくと、食堂の客と自分の話をし始めるでしょう...別の場所にします」
「ええ〜、ええやないですか!チリちゃんチャンプルタウンの人達好きやで、アオキさん大好き同好会の仲間やし!」
「...何ですかその会は...。え、本当にあるんですか?嘘ですよね?」

慌てたような声色で話しかけるアオキの手を取って、チリはにこにこと笑顔で歩き出す。この自分の人望に無頓着な人に、チリは今日も愛情を伝えねばならないのだから、立ち止まっている暇はなかった。

「チリちゃん久しぶりに宝食堂の焼きおにぎり食べたいわあ。な、アオキさん、ええやろ?」
「...はあ。仕方ないな...」

ぽり、と頬をかいたアオキは、腕を引っ張るチリに小走りで歩幅を合わせる。結局今日も根負けしたアオキは、弾けるような笑顔を向ける彼女に目を細めると、ゆったりとした足取りでタクシーへと並んで歩いていったのだった。


□□□


──その日、パルデア地方に激震が走った。

『四天王チリ、熱愛発覚!お相手は新進気鋭の俳優、〇〇!ポケモンリーグからは具体的な回答は得られていないが、俳優〇〇の所属事務所に確認したところ、「本人達に任せている」との返答がありー』

どん、と大きく一面に載っているのは、しゃがみこむチリと、手を添えるように屈んでいる男。しかし次の瞬間、その顔がチリの握力でぐしゃりと潰れて、端正なはずの顔は見るも無惨な姿に形を変えた。
下世話で有名な雑誌の表紙も一緒に変形するほどに握りしめ、わなわなと震えるチリはこれでもかと顔を歪めて叫ぶ。

「──いや、誰やねんそいつ!」

チリの怒りの咆哮にさっと耳を塞いで鼓膜が破れるのを回避したオモダカは、そうだろうな、と溜息を付く。彼女がアオキに惚れに惚れ抜いているのはリーグ内では周知の事実である。今さらちょっと顔が良いだけの男に靡くような軽い気持ちなら、あの打っても響かない朴念仁相手に5年もアタックし続ける事など出来るはずが無いのだ、といった感じで、身内の人間からはガセネタだろうと全く信じられていなかった。

「もしかして、会食か何かの帰りに撮られたのかと思いましたが、そもそも面識が無いとなると...図られましたね、チリ」
「一回でも会うたら顔覚えとるわ、どうせ落し物拾ったところ撮られたとかやろ。なんやこの男全然知らん、会ったことも無い、アオキさんの方が100億倍かっこええ」
「最近ドラマに出ることが多い方ですね。何度かリーグにもコラボの交渉が来ていましたが、貴女をご指名との事でしたのでお断りしていたんです。うちはあくまで最高峰のバトル施設ですから、貴女の容姿を道具にするつもりは無い、と。それがまさか、こんな力技を使ってくるとは...」
「トップ…」

頭が痛い、と言うように額に指を当てるオモダカに、チリは思わずじんと心が暖かくなる。この上司は確かに厳しい人ではあるが、こういった所があるから皆、彼女を慕うのだ。

「すんません、なんや手間かけさせてしもうて...」
「...何故貴女が謝るのですか、チリ」

ピリ、と空気が震えて、チリは瞬時に背筋を伸ばす。自分の発言が彼女の怒りの琴線に触れたのだと気がついて、途端に冷や汗が頬を伝った。

「いやあ、ほら、チリちゃんが美人さんなばっかりにこんな事になってもうたし?なんて〜、アハハ...」
「貴女が美しい容姿をお持ちだからと絡まれるのは貴女のせいではありませんよ。皆が惹き付けられる魅力を宿しているのも、全ては貴女が取り組んできた弛まぬ努力の結果です。こんな輩に搾取される為では断じてありません」

ぴしゃりと跳ね除けるように否定したオモダカは、微笑を浮かべたまま、夜空のように煌めく瞳に怒りを滲ませてチリを睨めつける。

「良いですか、チリ。この記者も、若手俳優の事務所も、恐らくグルです。貴女の人気を逆手にとって利用しようとするその魂胆、非常に気に入りません。
──私の部下に手を出そうなどと、いい度胸をお持ちですこと」

あ、この会社、潰されるな。そう確信したチリは、青ざめた顔で、ただ赤べこのように頷く仕事に就く。折角売れだしたというのに、こんな事に手を出したせいでその俳優も諸共消し炭にされるのだろう。可哀想に、とチリは内心で憐れんだが、この上司に喧嘩を売った奴を庇う程の慈悲は生憎持ち合わせていなかったので、数秒で顔ごと忘れることにした。

「あー、そんで...チリちゃんはどうすればええんやろ」
「貴女にしてもらう事は、とにかく一人にならない事です。リーグ内ではこれが誤報だと皆分かっていますから通常通りで構いませんが、外では今頃SNSを通じてこの報道が回ってしまっています。貴女の人気度から考えて既に炎上しているでしょうし、記者も押し寄せてくるでしょう。心無い言葉や、貴女に危害を加えようとする輩が出てきても可笑しくはありません」
「まあ、ポケモンおるからそない心配せんでも...」

頬を掻きながら軽く話すチリに、オモダカはもう少し危機感を持てと説教したくなる。18歳の時からアオキに一直線なせいか、彼女は時々自身の身の危険に無頓着な時がある。世の中アオキのような男ばかりでは無いのだと頭を抱えたくなる気持ちで、恨みますよアオキ、とオモダカは心の中でかの部下を毒づいた。

「...はあ。チリ、貴女は確かに強いです。それでも世の中には、貴女の想像もつかないような手を使ってくるような輩がいるのですよ。アオキのような男性は珍しいのです」
「そらあんなかっこええ人がごろごろおったら困るわ......。
……ああ!?どないしよ、アオキさんもうこれ見てもうた?折角最近はチリちゃんの愛情諦めて受け入れてくれるようになったんに、これで振り出しに戻ってもうたら...!」

想い人を思い出して途端におろおろとしだしたチリに、オモダカは遠い目をする。もうこれは何を言っても止まらないな。そう判断したオモダカは、ある意味こんな純粋培養に育てきってしまった男に責任を取らせようと、チリのことはアオキに全部丸投げすることにした。パワハラだのなんだのごねられようと知ったことか、何時までもうだうだと考えあぐねているのが悪い。

「...それなら、暫く外向きの用事の際はアオキの傍にいなさい。私の方からも彼には伝えて仕事を調整しておきます、今さら貴女からの愛情を疑う程馬鹿な男ではないでしょうが」
「ええの!?おおきにトップ!」
「貴女に何かあっては事ですから。リーグからは交際否定と、異議申立てのコメントを出しておきます。後はこちらで対処しますから、くれぐれも記者に突撃して喧嘩を売ったりしないように」
「嫌やわトップ、チリちゃんもういい大人やで?そんなことせえへんよ。ほなアオキさんの所行ってくる!今日まだ告白できてへんし!」

弾ける笑顔で風のように去っていったチリを眺めて、ふう、とオモダカは溜息をつく。ふわふわと横で浮いているキラフロルを一撫ですると、柔らかな笑みで楽しそうにぽつりと言葉を零した。

「全く、いい大人は廊下を走ったりしないんですけどね。...チリには笑っていてほしいですから、これで少しは進展すると良いのですけれど」

にこ、とよく分からないなりに主人に撫でられて嬉しそうに笑うキラフロルを眺めて、オモダカは仕事に戻る。嬉しいことに仕事は山ほどあるのだ、このパルデアをより良くする為に今日も心血を注がなくては。


□□□


「あの記事嘘やからなアオキさん!」
「はあ。知ってますが」

──夕方。リーグに着いた途端、突然横からスライディングしてきて唐突に叫んだチリにアオキは淡々と返す。10代の頃であれば一悶着あったのかもしれないが、流石にこの歳になってあんな記事ひとつで騒ぐほど幼くはない。ぜえはあと息を整えているチリを眺めて、アオキは未開封のペットボトルを差し出した。

「どうぞ。...そんなに焦って来なくても、今さら疑ったりしませんよ」
「お、おおきに...。そんなら良かった!チリちゃんの愛の勝利ってやつやな、このまま入籍する?」
「飛躍しすぎです、お付き合いもしてないでしょう」
「お、お付き合いから始めましょうってやつやな…!チリちゃんはバッチコイやで、記念に指輪買いに行きたいくらいや!」
「重いな……」

ペットボトルを受け取って一気に飲み干したチリが、マシンガントークで畳みかける。変わらぬ表情でいなすアオキに、チリは今日も頬を上気させながら愛の言葉を告げるのであった。

「好きやでアオキさん、チリちゃんのこと信じてくれておおきに!」
「...どうも」

どうにも居心地が悪くて、アオキはふいと目を逸らす。理解しているのに返事を返さないなんて、と詰ればいいのに、チリはいつだって好意を告げるだけで、アオキを急かす事はない。

「…先程トップから連絡がありました。今日はこのまま家まで送りますから、家で大人しくしていてください。くれぐれも記者に突撃してバトルを仕掛けたりしないように」
「なんでトップと同じ事言うねん、チリちゃんそんなに信用ないんか?」
「貴女が毎日自分にケンタロスのように突撃して来るからじゃないですか」
「誰がケンタロスやねん、このまま押し倒したろか」

不満げな顔をするチリに、アオキはそういうところだと溜息をつく。どうにも危機感の無い彼女を危惧してオモダカから連絡が来たのは午前中のことで、責任持って面倒を見ろと嫌味と共に押し付けられたアオキは、自業自得という言葉が重く頭にのしかかってもう一度深い溜息を吐きそうになった。

「別にわざわざ送らんでもええよ、アオキさん忙しいのにそこまで面倒見てもらうわけにはいかんし…」
「貴女に何かあったら自分が困ります。…心配しているんですよ、トップも、自分も」
「…うん、おおきに。へへ、やっぱりアオキさんは優しいなあ」

嬉しそうに頬を染めるチリに、どろりとした感情が首をもたげる。それが庇護欲と呼べるものに収まらないと分かっていて、アオキはそこから目を逸らした。

「…優しくなんて、ないですよ」
「アオキさん…?」

あんな記事一つで彼女を疑うほど幼くはないし、チリからの想いを否定するほど、重ねた年月は安くはない。それでも彼女の持つ美しさやひたむきさを利用しようとする輩には確かに怒りを覚えていたし、真っ先に否定しに来てくれるチリの一途さに何処か安心感を覚えている自分がいて、アオキは吐き気がする程の罪悪感に見舞われていた。
想いに応えてもいないくせに、なんて馬鹿なことを。そう心の中で吐き捨てて、アオキは行きましょう、と踵を返した。

──今日だけは、彼女の瞳を真っ直ぐに見れる自信が無かった。

□□□


「お邪魔しますよ、アオキ」

ハッサクから声を掛けられたアオキは、げ、という顔を隠しもせずに傾けていたグラスを机に置いた。どうにもこのまま家に帰るには落ち着かなくて、チリを送った後に結局宝食堂で一人飲んでいたのだが、こういう時ほどこの男は勘がいいのか、必ずアオキを見つけるのだ。

「…なんでいるんですか」
「チャンプルタウンに用事がありましてね、どうせならアオキと飲もうかと。チリの様子はどうです?」
「…本人は全く気にしていませんでしたよ」
「まあ、アオキから勘違いされてさえいなければチリは気にしないでしょうね。むしろあれを書いた記者に喧嘩を吹っかけないかが心配です」
「…オモダカからも釘は刺されていたようなので、流石に大人しくするのではないかと、……多分」

アオキの煮え切らない返事に、ハッサクも溜息をつく。彼女も昔に比べれば落ち着いたのだが、アオキに関することとなると途端に血の気が多くなるので手に負えない。

「チリは相変わらずですね。最初に貴方達が顔を合わせた時はどうなる事かと思いましたが、仲良くやっているようで何よりですよ」
「…まあ、それなりには」
「おや、随分と歯にものが挟まったような言い方ですね。何かあったのですか?」
「分かって聞いているでしょう…」

アオキの苦々しい返事に、ハッサクはにこりと笑顔で返す。仕方がないな、という風に笑うその様子は、自身が学生の頃より変わらない教師の姿であった。

「返事をしない事が心苦しいのですか?」
「不誠実、でしょう」
「律儀ですねえ。小生はチリの想いに適当に返すよりも余程誠実だとは思いますが。それに、チリはアオキが考えて答えを出すまで待ち続けると思いますよ」

ハッサクの言葉に余計に重々しい雰囲気を醸し出すアオキの肩をぱしりと叩いて、もう分かっているのでしょう、と存外優しい声で彼は話し出した。

「確かに出会った頃は幼い側面があったでしょうが、今の彼女はもう立派な大人ですよ、アオキ。貴方だって、年の差だとか、若い頃の一過性の熱だとか、そんな風に思っているから返事をしない訳では無いのでしょう?」
「…」
「難しく考えすぎるから煮詰まるんですよ。いつも貴方が言っているではないですか、シンプルが一番強いのだと。
…アオキ、貴方はチリとどうなりたいのです?結局のところ、それが一番大切なのではないですか」

ハッサクの的確な言葉に、アオキは溜息をついて視線を床に落とす。この御仁の言葉は、時に何よりも重い力を持って自分に語りかけてくる。そういう所が少しだけ嫌いで、それ以上に有難かった。

「...分かっています」

本当は分かっているのだ。チリとのことをどうしたら良いのか、ではなく。自分がチリとどう在りたいのか、を考えなくてはいけないこと。
それでもアオキには、一歩踏み込む勇気が無かった。その感情を認めてしまったら、彼女への執着心に目を向けてしまったら、きっともう、アオキはチリの事を子供として扱えなくなる。「優しいアオキ」の仮面を被ってはいられなくなる。そうなったらチリはもう二度とあの笑顔を向けてくれなくなるのではないかと、それが恐ろしくて仕方が無かった。

考え込むアオキを見て、ハッサクは苦笑を浮かべる。苦労人に見えてマイペースなこの男をこんなにも振り回せるのは彼女くらいしかいないというのに、恋というものは時に酷く人を盲目にさせる。ままならないものだと笑って、長考し始めたアオキを他所に酒を傾けた。

「女将さん!焼きおにぎり、火加減はだいもんじ、レモン添えをお願いしますですよ!」
「はーい!」
「バトルはしませんからね」
「おや残念」


□□□


翌日。チリは自室で目を覚ますと、のんびりと起き上がってからカーテンをちらりと覗き、嫌そうに顔を顰めた。

「なんやまだ居るんか…トップの圧受けて残っとるってことはあれが件の記者って奴かもなあ」

一人うろうろと早朝から彷徨く男を見て、チリは溜息をつく。思い返せば、昨日のアオキは少し様子がおかしかった。あの記事については説明せずともガセネタだと理解していてくれたことはほっとしたが、昨日は会ってからチリを送ってくれる最後まで、目が一度も合わなかったのだ。
いつもは、チリが好きだと言えば、目を合わせて礼を言ってくれるのに。

「…やっぱり、振られてしまうんかな…」

いつもの猛攻に相応しくない、弱気な言葉がチリの口から漏れる。らしくない、と頭を振って気を取り直すように窓から目を離すが、もやもやとした感情はチリの心をじわじわと覆い隠していた。

スマホロトムの通知が鳴り、チリはぱっと目を向ける。その特別な通知音はアオキからのもので、珍しく落ち込んでいた気持ちを浮上させるには十分な効果を持っていた。

「アオキさんからや…そろそろ迎えに出るって言うてはる!考えてみたら朝からアオキさんに会えるなんて悪いことばっかでもない、いや、むしろ今日は最高の日やな!な、ドオー!」

床でごろごろとしていたドオーに話しかけると、よく分かっていないのかのんびりとした鳴き声で返事が返ってくる。紅潮した頬で嬉しそうに笑うチリはパタパタと音を立てながら準備をし始め、先程の悩みはあっという間に頭からすっぽ抜けたのか、いつも通りの楽しそうな雰囲気に戻っていた。

ここで一つ説明をさせて頂くと、チリはアオキが初恋である。幼少期より泥だらけになって男の子と混ざって遊び、少女時代は恋よりもポケモンバトル一辺倒で生きてきた女、それがチリだった。そのせいかアオキに惚れ抜いてからはアオキ以外の男は皆じゃがいも、そこら辺の雑草、言い寄ってくる男は塵芥と、まあ全く眼中に無く、その結果何が起きたかというと──恋愛経験ゼロの純粋培養な23歳が爆誕してしまった。生産者はアオキなので文句は本人にどうぞ、とはオモダカの談である。

『強風が酷いので今日はそらをとぶで迎えに行くのが難しそうです。タクシーを中庭に着けて貰いますから、自分がインターホンを鳴らすまで部屋から出ないように』

そんな状態なものだから、チリには今回の件で周りが危惧する理由が、全く伝わっていなかったのであった。そう、うっかり浮かれてアオキからのメッセージを見落とすくらいには。


──アオキがチリのマンションに到着した頃、もう既に事は起こってしまっていた。

マンションのロビーで仁王立ちして塵を見る目で冷たく男を見下すチリに、冷や汗を掻きながらたじたじと後ずさりする男。受付のコンシェルジュはおろおろとその様子を見守っており、アオキの姿を認めると助けを求めるかのようにこちらに駆け寄ってきた。

いつかやると思ってました。そう変声機を使って答える脳内の自分に、何故止められなかったのです無能なんですか?と脳内のオモダカが罵る。死んだ目で様子を伺うアオキに、コンシェルジュが縋りついて何とかしてくれと訴えてきた。

「…地獄絵図ですか?」


──時は、数十分前に遡る。

アオキからのメッセージを見落としたチリは、部屋から出てマンションのロビーでアオキを待っていた。一応言い訳をしておくと、チリの住むマンションは所謂高級マンションと呼ばれる類のもので、セキュリティは常に万全、ライド用ポケモンに乗って出勤する居住者の為に屋上への昇降機まで用意されているのである。
チリも昨日はアオキのポケモンで送って貰った際にロビーまで来れていたから、ここは大丈夫だろうと判断して部屋から出たのだが、件の記者とやらは不法侵入も厭わない人間だったらしい。

「あの〜、四天王のチリさんですよね?私月間パルデア誌の記者ですが、俳優〇〇さんとの交際報道についてお話聞かせて頂けませんか」
「…なに、あんた。ここは居住者以外立入禁止やけど」

ロビーの備え付けのソファにスラリと伸びた長い足を投げ出して座るチリに、にやにやと下卑た顔で近づく男が誤魔化すように言葉を重ねる。しくった、と舌打ちをしたくなる気持ちを抑えながら、チリはイライラとした顔で記者をいなしながらコンシェルジュと目を合わせて警備員を呼べと指示して、時間稼ぎの為に敢えて会話に乗ってやった。

「〇〇さんとはいつ頃お知り合いに?リーグは否定しているようですが、もしかして反対されているのでしょうか?」
「誰やねんそいつ。反対も何も顔も覚えとらんわ」
「またまた、あんなに仲睦まじそうにされていたじゃないですか!きっかけは何でしょう、やはりポケモンバトルですか?彼は中々バトルも強いと評判ですし、バッジも4個集めたとかー」
「4個ォ?大したことあらへんやん、そんなんで強いとか言いふらしとんのか?随分ちっさい男やなァ」

思わず鼻で嗤うチリに、記者は憤慨したような顔で反論する。バトルの強さはバッジに比例しないだとか、彼は今人気上昇中の俳優なのだとか、どうでもいい事をべらべらと話し続ける様子に、チリはぴしゃりと跳ね除けるようにして両断した。

「リーグ舐めとんのかあんた。ジムチャレンジは5つ目が峠や、本当に強くなりたいと思ってる奴はそこで絶対に諦めたりせえへん。大体全部のジムリーダーも倒せへんような男にこのチリちゃんが惚れると思うてんのか」

チリを利用する為に、この男はリーグすらコケにしている。そう理解したチリは煮えたぎる怒りを押さえつけながら、燃えるような瞳で目の前の記者を睨みつけた。
チリは四天王の先鋒としての自分に誇りを持っている。時折バッジが足りないのに面接を受けに来るうっかりさんはいるが、皆真剣にバトルに取り組みたくて来ているのだ。何よりも、バッジを8つ集めてきた人間は皆面構えが違う。少なくとも、有名になる為にチリを罠に嵌めたり、ジムチャレンジを制覇せずに自分の実力を誇示するような馬鹿は、面接してきた中で一人も居なかった。

「そいつ、チャンプルタウンのジムリーダーに勝てへんくて諦めたんやろ?途中で諦める奴は大体そうやねん、アオキさん強いからなあ。……そいつよりアオキさんの方が100億倍かっこええわ」

罵りながら本音を混ぜたチリに、記者は顔を歪めた。チャンプルタウンジムリーダーのアオキといえば、リーグの情報では後姿しか分からない、話題に上ることも少ない地味で謎な男である。地元では人気なようだが、はっきり言ってナンジャモ等と比べれば話題性に欠けていて、謎を暴いたところで需要もない、こちらにとってはなんの旨味もない存在だった。
そんな男とこちらが話題にしたい俳優を比較され、挙句の果てにはコケにされている。歪な笑みを浮かべた男は、思わず吐き捨てるようにしてあんな地味で冴えない奴のどこが、と呟いた。


──それがチリの逆鱗に触れるとも知らずに。


「...今、何て言うた?」
「はい?ですからね、チリさん、いくらジムリーダーとはいえ、あんな地味で冴えない人と比べてアオキさんの方がかっこいいなんて、冗談にしても面白くなー」
「じゃかあしいねん黙れカス」
「...へ?」

ゆらり、とチリが立ち上がり、恐ろしい程の美貌を怒りに歪ませて見下ろしてくる。その迫力に思わず息を詰まらせると、畳み掛けるようにしてその鋭い舌鋒が記者を襲い、男は目を白黒させた。

「さっきからこっちが黙ってやってれば好き放題言いおって、何やねんあんた。そんな顔もバトルも大したことないミソッカスになんでチリちゃんが惚れなあかんねや、ええ加減にせえよクソボケが」
「いや、あの」
「誰やねん俳優〇〇て。大体チリちゃんの方がイケメンやし美人さんやし可愛ええやろ、あの程度隣に並んでも霞む霞む」
「なっ、」

ハン、と嗤って罵るチリに記者は思わず怒りで顔を赤くするが、それを傲慢だと言えない美貌がチリには備わっていた。パルデアを抱いた女、付き合いたい有名人3年連続No.1、歩く顔面国宝、様々な異名をこの地に轟かせてきた女の魅力は伊達では無い。この顔を前にしてビジュアルの良さで勝負出来るならやってみろ、そんな副音声が聞こえてくるくらいには負け戦が確定していて、男は結局口をつぐむ。そうしてじりじりと後ずさりしているところに漸くアオキが到着し、今に至るのだった。


──アオキは頭を抱えたい気持ちで目の前の光景を眺めていた。チリは明らかに激怒していて、恐らく記者であろう男は今にも逃げ出しそうな顔をしている。あの顔面に睨みつけられたら尻尾を巻いて逃げ出したくなる気持ちは分からないでもないが、自分で蒔いた種なのだから後始末はしっかりしてほしい。

今の彼女は怒れるパルデアケンタロス、はっきり言うともう誰も止められない。こうなったら思う存分暴れてもらって満足してもらおうとアオキは始末書の算段を立てながら、チリを止めることを放棄した。

「大っ体なんやねん地味で冴えへんて!あんなにかっこええ人パルデア中のどこ探しても居らんわこのボケ!バトルしたこと無いんか、無いんやろなァ!その程度の実力やからそんなこと言えんねん、実力ある奴は皆アオキさんのファンやからな!」
「えっ」

チリの言葉に、遠い目をしていたアオキは思わずぎょっと目を見開く。彼女の激怒の理由がまさかの自分だった事に気がついたアオキが流石に止めなければと焦ってチリに近づくが、彼女の舌鋒の方が早かった。

「チリさんちょっと止まっ」
「チリちゃんはなァ!もう5年前からとっくにあの人に心臓鷲掴みにされてんねや、今さら他の男なんて目に入るか!ええか、耳かっぽじってよお聞いとけ!

──チリちゃんが大好きで愛してるのは未来永劫アオキさんだけや!そのスッカスカの脳みそに叩き込んで帰れ、この、ボケナスが!」

彼女の美しい翠の髪が翻り、窓から射し込む光に反射してキラキラと輝く。怒りで歪んだ顔すら美しいその姿に、アオキの中で必死に保っていた壁が遂にガラガラと音を立てて瓦解した。

「──チリさん」
「あっ、アオキさん…ええと、その、へへ、…やってもうた」

アオキの声に漸く我に帰ったチリが、誤魔化すようにして笑みを浮かべる。溜息をついたアオキは、ぽかんとこちらを見る記者の男を無感情な目で見つめると、淡々と言葉を発した。

「…そういう事ですので、諦めて帰った方がよろしいかと。まあ、もう警備員の方が来ているので、帰る先は警察でしょうが」

バタバタと後ろから警備員がやってくる音がして、男は漸く我に返る。ちょっと待ってくれと喚く声がしたが、アオキはもうそちらに目を向けることもなく、警備員とコンシェルジュに引き摺られていく男を無視してチリに向き合った。

「…それで、言い訳は?」
「ちゃうねん、突撃はしてへんねん!あっちが来たからつい、ちょーっと腹たって言い返してもうただけやん!」
「自分は迎えが来るまで部屋から出ないようにと連絡したはずなんですが」
「えっ嘘。…あ、見てへんかったわ…アオキさん、堪忍な?」
「………」
「す、すみませんでしたァ!」

アオキの無言の圧に、チリは直角で頭を下げる。先程までの迫力は何処に行ったのか、急に小さくなり始めたチリにアオキは溜息をついて顔を上げてください、と呟いた。

「…あんな風に啖呵を切って、外に漏れたらどうするんです。大体自分が何を言われても気にしないと知っているでしょうに」
「知っとる。せやからアオキさんの為やない、あれはチリちゃんが腹立ってしゃあないから言うたっただけや。それにチリちゃんはアオキさんが好きなこと広まっても何も問題あらへんもん」

むすり、と頬を膨らませて不満げに宣言するチリに、アオキは益々眉を下げて困った顔をする。彼女も昔よりは落ち着いたと思っていたのだが、血の気が多いのはどうやら性格らしい。

「散々振り回されたんですから、自分の為に怒れば良いものを...」
「せやから自分の為に怒っとるやろ。チリちゃんはな、世界一大好きな人コケにされて黙ってられるほどイイ女やあらへんねん」
「チリさん、」


「アオキさんのこと大好きやから、許せんの。...分かってよ」


何処か泣き出しそうな顔で呟くチリに、アオキは遂に白旗を上げた。昨日のハッサクの言葉が頭を過ぎって、今までさんざん悩んできた自分が馬鹿らしく思えてくる。自分がチリとどうなりたいか、なんて、もうとっくに分かっていたのだ。
──完敗だ。こんな風に言われて、ただひたすらに想われて、今さら他の誰かに手渡すことなど、出来るものか。

「...完敗です」
「へ?」

アオキの聞いた事のない声色に、思わずチリは顔を上げる。飛び込んできた光景に、チリはぱちくりと目を見開いて凝視した。
アオキが笑っている。宝食堂のご飯を前にしか笑わない、あのアオキが、チリに向かって、笑いかけている。

「ひえ」
「本当に、趣味が悪い。…貴女の粘り勝ちです、撃ち落とされてしまいました」
「へあ」

アオキが穏やかな顔で、チリに手を伸ばす。暴れたせいで跳ね返っている髪をそっと直して、チリの頬にかさついた無骨な指が触れた途端、チリの思考は見事に停止した。

「…チリさん、自分もー」
「あかん、しぬ……」
「えっ」

ここにきてまさかの供給過多に、チリの脳は停止し、優秀なはずの思考回路はエラーを吐き、体は湯沸かし器のように真っ赤に染まる。最終的に限界を迎えたチリは後ろにふっと倒れこむと、いい夢やったな……と現実逃避をしながらぶつりと意識を閉ざした。


18歳の時に一目惚れしてから早5年。好きになったら一直線、一途に愛を伝え続けてきたチリであったが、一つだけ弱点があった。
純粋培養23歳のチリには、恋愛経験というものが微塵も無く、初恋がアオキだったせいで耐性というものがまるで無かった。

──そう、チリは自分から好意を伝えるのは何も問題は無いが、相手からの好意には滅法弱かったのである。


□□□


数ヶ月後。パルデアリーグ内名物チリの告白劇は形を変えていた。

「アオキさ───ん!」
「うぐ、……おはようございます、チリさん」

チリは相も変わらずアオキを見かけると突撃する。そこは特に変わりないのだが、アオキの側に変化が起きていた。チリが一方的に抱きついて喋り倒しては去っていくのが常であったというのに、最近のアオキはチリを抱き留めるように腕を回したり、頭を撫でたりと、前では考えられないようなスキンシップを取るようになっていたのだ。
最初に見た時はまさか遂にくっついたのか、と職員達は全員で手元にクラッカーを準備していたのだが、チリの顔がオクタンのように真っ赤になっているのを見て、察した職員達はそっとクラッカーをデスクにしまった。
そんな訳で、パルデアリーグ内恒例の告白劇は形を変えつつも、今日も皆に見守られている。

一方、ここ最近のチリは混乱状態だった。件の熱愛報道偽造事件がオモダカの手によって解決(物理的に潰したとも言う)したのはいいものの、そこからアオキの様子がおかしくなったのだ。
まず、チリはアオキが笑いかけてくれる幻覚と、チリに愛おしそうに触れてくれる幻を度々見るようになった。そこで彼女は好きすぎて遂にイナジマリーアオキを脳内に生み出したのではないかと自分の頭を心配して脳外科に行ったのだが、結果はオールクリアの健康体。オモダカ達からも現実を受け入れろと諭され、そこまでして漸く、これが現実世界で起こっているのだと受け入れたのだが。

チリはアオキが好きである。世界一好きで毎日愛を叫んでも足りないくらいに好きであるが、正直伝えるだけで満足していた。──そう、チリのほぼ無いといっていい恋愛経験の中に、奇跡的にアオキに想いを返して貰えた場合の対処方法は、搭載されていなかったのだった。


抱きついたチリの体にアオキの腕が回る。真正面から彼女を受け止めたアオキは以前のように言い聞かせるような忠告をすることも無く、穏やかな笑みをチリに向けてどうかしましたか、と話しかけてきた。

「あ、アオキさん、あんな、その、」
「はい」
「手、手ぇが、抱きしめてるみたいになっとるん、やけど…」
「…抱きしめてるので」
「ヒェ」
「チリさん、今日は言って下さらないんですか」
「な、なにを?」
「好きって、言って下さらないんですか?…いつも言ってくれていたでしょう」
「ハワ……」

アオキの両腕がチリの小さな体を包むように囲い込む。アオキの体温と、仄かに香る柔軟剤の匂いを感じ取った瞬間、心臓が跳ねるようにして音を立て始めた。ぶわりと顔に熱が集中して、途端に恥ずかしくなって体を離そうとぐいぐいとアオキの胸元を押す。案外あっさりと離してくれたアオキはいつもの表情のままで、しかし何処か楽しそうに目を細めてこちらを見ていた。

「うう、ア、アオキさんの、」
「何でしょう」
「アオキさんのッ、意地悪──ッ!好きやアホ──ッ!」

びゅん、と言い捨てて風のように去っていったチリを見て、くつくつと笑いを堪えたアオキは、可愛い人だと心の中で呟いた。律儀に好意を伝えて去るところが彼女らしくて、あの真っ赤な顔はつい意地悪したくなる。
チリの去っていった方向を見つめるアオキの目は、猛禽類のように鋭く細められていた。


「無理無理無理、無理やこんなん、チリちゃん死ぬんと違うか?なんやねん本当に、なんでこんないきなり、しぬ、ころされる、」

アオキから逃亡したチリはというと、ぜえはあと息をつきながら人の少ない廊下でしゃがみこんでいた。頬は熟れた林檎のように赤らんでいて、ばくばくと鳴り止まない心臓は口から飛び出そうな程に五月蝿い。チリが啖呵を切ったあの日から毎日この攻防は続いていて、毎日ときめきと戸惑いで死にそうになるのが日課になっており、チリの心臓は正直もう限界だった。

「…具合でも悪いんですか、チリ」

後ろから声がかかり、チリが振り向くと、怪訝そうな顔をしたハッサクとオモダカが歩いてこちらに向かってきていた。チリの真っ赤な顔を見てああ、と納得した二人は、どこか憐れむような視線でチリを見遣るとまだ慣れないんですか?と話しかけてくる。

「慣れるワケあらへんやん!?今まで何してもはいはいそうですか〜って流されて何も反応あらへんかったのに、急にこんなされたらチリちゃんときめき死してまう!」
「良かったじゃないですか、5年越しの念願が叶って」
「結婚式の日取りが決まったら教えてくださいね」

他人事感満載で訴えを流す二人に、もうちょい親身になってくれてもええやろ!とチリは吠えるが、呆れた顔のオモダカは諦めろと非情な言葉を告げた。

「常々思っていましたが、チリは男性の趣味が本当に悪いですね。長年の友人として一言言っておきますが、アオキはああいう男ですよ」
「元担任としても、まあ、アオキは…昔から懐に入れたものを頑として手放さないというか、執着する節があるというか。思えば貴女と事あるごとに反発していたのも性質が似通っていたからでしょうね」
「嫌だわ先生。私はあそこまで頑固ではなかったでしょう」

うふふ、と楽しそうに会話をするオモダカとハッサクに、味方がいないと察したチリは呻きながら頭を抱える。

分かっているのだ、もう逃げられないことは。さっさと腹を括ってアオキの答えを受け入れれば見事ハッピーエンド、チリの5年越しの片想いが成就するのだと分かっている。いるのだが、如何せんチリには長年の片思いによる弊害が残ってしまっていた。おかげさまでアオキに微笑みかけられただけで意識は遠のくし、触れられようものなら心臓がだいばくはつを起こすし、抱きしめ返されたらでろでろに溶けそうになる。その内人間の形を保てなくなりそうな気がしてきて、チリはぶるりと身震いをした。

「世の女の子はどうやってこんなん乗り越えてきてんねや…」
「チリほど拗らせてる子は中々いないと思いますがね…」
「さっさと腹を括りなさい、チリ。アオキは獲物と認識したら速攻で狩りに来ますよ。
…さ、分かったらいつまでも逃げ回っていないで、これを今日中にチャンプルタウンまで届けて来てくださいね」
「げえっ」

本当に何処が良いのかしら、と溜息をついたオモダカが恐ろしい事を口にして、笑顔でチリの手に持っていた書類を押し付ける。いい報告を期待していますよ、と告げたオモダカはそのまま楽しそうに踵を返し、ハッサクもそれでは、と苦笑して続いていった。

「う、嘘やん…」

チリは書類を思わずくしゃりと握り、呆然と立ち尽くす。死刑宣告を受けて絶望したチリは、今日が命日かと覚悟して──ドオーをボールから出し、弾力のある背中に縋りついた。

「ドオー、堪忍な…チリちゃんはここまでや……」

主人の打ちひしがれた様子に、分かっているのか分かっていないのか。ドオーはいつもの気の抜けた表情で鳴き声を上げると、背中にへばりつく主人を乗せたまま廊下を歩き出し、面接室まで運ぶとぺいっと雑に床に転がしたのだった。


さてそうして訪れたチャンプルタウン、アオキがいるはずのジム目前でチリは二の足を踏んでいた。きゃあきゃあと周囲で騒ぐ可愛い女の子達ににこりと手を振りながら、必死に手汗を隠して平静を保っていたのだが、チリの心臓は既に爆発寸前であった。

(あかん無理や、もう帰りたい、あれや、受付に書類だけ渡して帰ればええんと違う?……これアオキさんから直接判子貰わなアカンやつやん!トップー!)

諦めなさい、と脳内のオモダカがにっこりと笑みを浮かべてチリを追い詰めてきて、思わず人目も気にせず頭を抱える。ぐしゃぐしゃと美しい髪を掻き乱して溜息をつくチリは、終わった……と情けない声で呟き、地面に視線を落とした。──その瞬間見慣れた黒い革靴が視界に入って、固まったチリは恐る恐る顔を上げる。

「…何が終わったんです?」

怪訝そうな顔をしたアオキがチリの目の前に立っており、思わず反射で後ずさる。アオキは帰ろうとしていたのかいつもより少しだけネクタイを緩めており、余り見ることの出来ないラフな姿に素直な心臓はキュンと音を立て、今日もかっこええ…と脳内のチリの乙女メーターは急上昇していた。

「あ、あー、あの、トップから書類渡してこい言われてん、帰るところ悪いけど、判子貰ってもええやろか…」
「……ああ、この書類…明日までのですね、ありがとうございます。判子、すみませんがジムにあるので着いてきてもらっていいですか?」
「あ、うん……」

あっさりと踵を返したアオキに反射的に着いていくと、ジム裏口の扉を開けてどうぞ、と先にチリを促す。こういう紳士なところは変わらないと少しだけほっとして、チリは礼を言って中に入る。
ぱたりと閉まるドアの音がやけに大きく聞こえて、チリの心臓がどくりと音を立てた。
アオキの広い背中を追いかけるようにして事務室に入る。簡素なデスクとソファがあるだけのその場所は、どうやらアオキが事務作業をする為だけの部屋のようだった。引き出しを開け判子を取り出しながら、淡々と書類を見つめる彼の少し伏し目がちな顔を眺めて、目元の皺すらかっこいいと思ってしまうのだから我ながら重症だとチリは頭を振る。

「…お待たせしました。明日自分は午後からリーグに出向きますので、すみませんがトップに届けておいて頂いてもよろしいでしょうか?」
「あ、うん、ええよ」

トントン、と四隅を整えた書類を丁寧に封筒に詰めて手渡してきたアオキから書類を受け取り、チリはほっと息をつく。2人きりになったら一体どうなってしまうのかと思ったが、案外いつも通りで拍子抜けしたような、ほっとしたような気持ちでチリは何気なくデスクを眺めた。

「……あ、これ」

ふと目に付いたものが見覚えのあるものだったから、チリは思わず声を上げる。可愛らしいネッコアラのペン立ては去年チリがアローラ旅行に行った際のお土産に買ってきたもので、渡してから一度も見かけなかったものだから、てっきりタンスの肥やしにでもなっているのかと思っていたのに。
チリの驚いた顔に気がついたのか、アオキはああ、と頷くと、折角だからチャンプルジムの方で使わせてもらっているのだと話して、ふと笑みを零した。

「…なんや、使うてくれてたん?」
「……勿論。大切にしていますよ、今まで貴女から貰ったものも、貰った言葉も、全て」

そうやって愛おしそうな顔でチリを見つめるアオキに、ばくりと治まったはずの心臓が音を立て始める。──どうしよう、好きだなあ。ぎゅうぎゅうと締め付けられる胸が切なくて、チリは思わずアオキに抱きついた。

「ありがと、アオキさん…チリちゃんめっちゃ嬉しい」

アオキの胸に顔を擦り付けるようにして、チリは思いの丈をぶつける。耳を当てると聴こえてくる少し疾い心音が心地好くて、甘えるようにして目を閉じると、溜息をついたアオキが少しだけ低い声で忠告するように話しかけてきた。

「…逃げたり近づいたり、忙しい人ですね。今の状況分かってますか?」

頭から喰われても文句言えませんよ。呆れた顔でそう言うアオキの手が、飛び込んできたチリを抱き返す。慌てて腕の中から抜け出そうとした目の前の獲物を捕らえるように拘束する力強い腕が、チリの細い腰を抱き寄せてきて、わたわたと顔を赤くして戸惑うチリの耳元で低いテノールの声が響いた。

「…可愛らしいのはいいんですが、いい加減逃げてばかりは困ります」
「ひゃ、」
「俺は、貴女が思うような『優しいアオキさん』ではないんですよ。逃げられれば捕まえたくなるし、手に入れたら手放したくなくなる」
「…ア、オキさ、」
「貴女のことをどろどろに甘やかしてやりたいし、頭から喰ってやりたいとも思ってしまう。…幻滅しましたか?貴女が好きになったのは、こういう男ですよ」

煮詰めてぐずぐずに溶かしたような声色がチリの耳を打って、思わず全身の力が抜ける。本当に頭から喰われるのではないかと思うくらいに視線は鋭いのに、自嘲するような声は優しさを帯びていて。
ああ、結局この人は優しさを捨てられないままなのだと理解したチリは、涙を浮かべたまま顔を上げて、アオキに噛み付くようにして吠えた。

「幻滅、なんて、するわけない!だってずっと、ずっと好きやった、毎日言っても足りんくらい!」

アオキが好きだ。この鋭い目に射抜かれた瞬間からチリの心臓を鷲掴んで離さないこの男の、アオキの、アオキを形作る全てが好きで、好きで堪らなくて、溢れ出した想いの丈をぶつけたって全然足りなくて、いつか溺れ死んでしまいそうだと恐ろしくて。
──そうだ、チリには、たった一つだけ、告げることの出来なかった言葉があった。アオキに否定されることが怖くて、どうしても伝えることの出来なかった言葉が、今、漸くチリの喉を通って、涙と一緒に零れ落ちる。

「アオキさん、好き、大好きや、お願いやから、──チリちゃんのこと、好きになって……ッ」

はらはらと白磁の頬を滑り落ちる涙は宝石のように美しくて、思わずアオキはそっと頬に触れる。潤むガーネットの瞳はゆらゆらと揺れながらアオキだけをその目に映していて、いじらしい想いを必死に告げるその姿が愛おしくて堪らなくて、アオキはこつりと額を合わせると、漸く身のうちに溢れかえる想いをそっと告げた。

「…はい。自分もチリさんのこと、好きですよ。今まで沢山、沢山想いを告げてくれて、本当に嬉しかった。長く待たせてしまって、本当に申し訳ありません」
「う、ほんまに、待たせすぎや…ッ」
「これから沢山、時間をかけて、貴女に返していきますから。…どうかその権利を、俺にくれませんか」
「…ん、うん、うんっ……!」

こくこくと泣きじゃくりながら頷くチリを腕の中に閉じ込めながら、アオキはチリの額に口付ける。嗚咽を零していたチリは長いまつ毛を瞬かせると、アオキの手に縋り付くように頬を擦り付けて、漸く安心したように、へにゃりと笑った。

「アオキさん、ほんまやんな、夢とちゃうもんな」
「本当ですよ。信じられないなら幾らでも言って差し上げます」
「…うん、嬉しい、いっぱい言うて!」

舞い上がりそうなほど嬉しくて、チリはぎゅうぎゅうとアオキを抱き返す。にこにこと泣き腫らした顔で嬉しそうに笑うチリに、アオキは愛おしげに目を細めると、片手でくいと顎を掴んで自分の方へ引き寄せた。そうして、驚いたように目を見開くチリを他所に、アオキは微笑を浮かべると、過去最大級の爆弾を投下する。

「…やっぱり、さっきの言葉、訂正して良いですか?」
「へ、──アオキさ、」
「──愛してます、チリ」

がちりと固まったチリの口を塞ぐように、アオキの唇が重なる。ファーストキスを奪われたと気がついて呆然とするチリを他所に、アオキは意地悪げな顔で笑うと、その耐性の無さも克服していきましょうね、と嘯いてチリの桜色の唇をなぞった。

「………し」
「し?」
「──しぬ……」
「えっ」

限界値を迎えたチリは、やはり今日が命日だったのだと理解して意識を手放す。ときめき死なんて斬新な死因やな、なんてふざけた事を考えながら目を回すチリは、意地悪なアオキさんもかっこええと素っ頓狂な感想を抱きながら、大人しく思考回路を放棄するのだった。

チリを慌てて抱き留めたアオキは溜息をつくと、彼女の小さな体を抱えてそっとソファに横たえる。想いが通じあった途端にぶっ倒れた彼女は未だに起きる気配がなく、これはまだまだ時間がかかりそうだと苦笑した。

「…慣れてくださいね、少しずつ。貴女から貰った分、まだまだ返し足りていないので」

さらりと彼女の前髪を手櫛で流して、アオキはうっそりと微笑む。このやり取りすら日常になって、そのうち普通になるのだろう。その時は今よりも慣れてくれると良いと期待を込めて、アオキはチリの頭をそっと撫でた。


□□□

「アオキさ───ん!」
「ぐふっ」

今日も今日とて弾丸のように飛び込んでくるチリを抱きとめて、アオキは危ないから飛びつくのはやめなさいと呆れたように声をかける。それを聞いているのかいないのか、チリは畳み掛けるようにアオキに話しかけてきた。

「なあなあ今日アオキさん四天王戦終わったらノー残業デーやろ!一緒にご飯行こ、なんならアオキさん家行こ!」
「ノー残業デーですしご飯は構いませんが、どうせなら家で食べましょう」
「あっ、せやな!帰りにスーパー寄ろ、チリちゃんが腕に寄りをかけて作ったるわ!」
「…いえ、自分が作るので無理はしなくて大丈夫です。本当に大丈夫なのでむしろ手を出さないで下さい良いですね」
「なんやねん、この間電子レンジ爆発させたんまだ引きずっとるんか。流石にもうあんな事起こさんて、作るのカレーやし!」
「いえ止めておきましょう、他所の地方では爆発するカレーがあるそうですし、自分もまだ死にたくないので」
「失礼やな!」

やいのやいのとやり取りするチリとアオキを見て、リーグ職員達はほっこりと顔を綻ばせながら傍を通り過ぎる。この二人の漫才はリーグ内恒例の出来事で、最近は夫婦漫才などと揶揄われるようになっていた。
未だに不満げなチリを宥めながら、アオキはどうにかして死亡フラグを回避しようと頭を回す。

「…ご飯を作るのは任せて頂いて、別のことを頼みたいのですが」
「何!?何でも言うて!」

途端にきらきらとした目を向けてこちらを見つめるチリに、アオキはすっと目を細めて彼女の耳元に顔を寄せる。

「そろそろ、貴女の事も頂きたいので。──心の準備をしておいてください」
「……へ」
「良いですね?」
「…え、あ、…ハイ…」

アオキの言葉の意味を理解して、チリはぼん、と顔を赤くする。そんな彼女の様子を眺めて、アオキは目を細めると楽しそうに笑った。
──そうして二人の関係は少しずつ形を変えて、そうしていつしか日常に溶け込んでいく。

アオキのポケットに潜ませた銀色のリングが彼女の左手薬指に納まる日が来るのは、案外、近いのかもしれない。

シリーズ
#2 -----

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コメント

  • げん
    2023年10月16日
  • ゆずす
    2023年5月13日
  • ほうほう
    2023年4月6日
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