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この作品「海、きらめく」は「アオチリ」のタグがつけられた作品です。
海、きらめく/ななかまどのはなの小説

海、きらめく

14,700文字29分

単発です。夏!な話を書いてみたくなりました。アオキさんはあんまり出てないですが、終始アオチリです。

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 チリはリーグ本部正面玄関から外に出た。裕に丸一日振りの外である。パルデアの夏の盛りはとうに過ぎていた。昇る朝日は岩壁に阻まれて見えないが、頭上に広がる空は、夏の、あの濃い、手を伸ばしてみれば触れられそうなほどの、青色がわずかに色褪せていた。吹く風もまだ太陽に暖められていないからか軽やかで、チリの長い毛先を、絶えず揺らしている。
 眼前には、いや、視線の遥かその先には、朝日に輝くパルデア海が、チリの網膜に残光を鋭く残そうとしていた。チリは一度、強く瞼を閉じ、そしてもう一度目を開く。チリがリーグに入職して早数年、この場所からパルデア海を望めることを、露とも知らなかった。
 常日頃、パルデア海を背に、リーグ本部までの坂を上り、一度建物内に入れば、日が沈むまで外に出ないことが大半のチリである。数度、瞬きをして、己の余裕のなさを痛感する。握り込む手の片方には、ジャケットが皺を作っていた。チリのものではない、アオキの。
 チリの大嫌いな、アオキの。
 日は既に昇り切っていた。早朝勤務帯の職員ならば、そろそろ出社してくる頃合いだった。チリは頭を振った。そして眩しいパルデア海から目を逸らす。一歩踏み出せば、柔らかい地面が、チリを受け止めた。
 風の音だけが鳴り響く坂道を、チリはゆったりと下っていく。ここいら一帯を棲家としている小さなポケモンたちは、まだ寝ぼけているのかやけにゆったりとしていた。坂道を下りきり、閉じられているところを見たことがないゲートを潜れば、そこはパルデア一の学園都市、テーブルシティ。この時期、アカデミーの生徒たちの多くは、休暇のため、この街を離れているためか、気持ち、静かな雰囲気である。
 リーグ前の坂道とは異なる、美しく舗装された、緩やかな弧を描く坂道を、チリはゆったりと歩いた。
 チリの家は、リーグからそう遠くはない。テーブルシティを円に見立てた場合、おおよそ七時の方向に、パティオを有するマンションがあって、その一角にチリは居を構えている。マンションに入るには、大きな鉄の、門扉を開く必要があった。しかしその門扉は、開かれていた。管理人が、入口で、掃き掃除をしていた。
「おはようございます」
 チリは率先して挨拶をした。気難しいおばあさんなのである。
「おはよう。朝帰りかい……感心しないねえ」
「すみません、仕事が、立て込んでいたもので」
「……無理しちゃダメだよ」
 ちょっと待っといで、そう言って、箒を門に立てかけると、管理人は奥へと消えた。待つこと数分、手に包みを持った彼女が戻ってくる。
「作りすぎたんだよ。お食べ」
「……おおきに」
 包みを押し付けられるようにして受け取ったチリは、思わず地元の言葉で礼を述べると、管理人がにっこりと笑った。そして、何もなかったかのように、掃き掃除を再開する。
 チリは、もう一度だけお辞儀をして、ようやくマンションへと入る。パティオの中央には噴水からこんこんと水が湧き出ているからか、その音を聞くだけで、涼やかな気持ちになった。管理人の趣味で整えられた草木や、鉢植えからはまだ真っ赤な花々がこぼれ落ちていて、チリは驚いた。毎朝ここを通ってリーグに向かい、夜には控えめにライトアップされたここを通って家に帰っている。それなのに、チリは、何故だか初めて見たような気持ちだったのだ。
 何はともあれ、チリは我が家へと帰宅した。靴の土を落とし、貰った包みの中身を確認しないまま、テーブルに置いた。そこで、チリは、自分の手にはそれ以外のものも持っていたことに気付いた。アオキのジャケット……。
(朝帰り、か)
 チリは勢いよく、ジャケットをソファへと叩きつけた。これでは、勘違いされたに違いない。ここにいないのに、チリに迷惑を掛けるとは、迷惑千万な男である。
 手持ちたちを一斉にボールから出す。ボディチェックに朝ごはんを出す。その後に、チリはシャワーを浴びて、濡れた髪のまま、管理人から貰った包みを開けた。サンドウィッチだった。チーズとハムと、トマトと……とにかく女性なら好きな具がたっぷりと挟まったサンドウィッチ。チリは思わず笑顔になった。そして、ウキウキとコーヒーを入れ始める。今日は休暇だった。朝寝をするつもりだったが、予定変更だ。
 元気なチリのポケモンたちを眺め、視野の片隅にアオキのジャケットを映しながら、チリはサンドウィッチを頬張る。チリは多忙な生活を送っているので、仕事着関係は全て、クリーニングに出していた。アオキのジャケットも、合わせて出すつもりだった。チリは、いつもクリーニングに出す際に使用しているバッグに、ぞんざいに自身の衣類を詰め込んだ後、少しだけ悩んで、アオキのジャケットを丁寧に畳んだ。手遅れなような気もした。だって、さっき、あれだけ握り込んだ箇所に、皺がすっかり刻み込まれてしまっているようだったから。まあ、気にしない、と言い聞かせて、やはり躊躇いがあったので、家を見渡し見付けたビニール袋に仕舞ってから、他の衣類と同様に、クリーニングバックに詰め込んだ。
 ポケモンたちはお留守番する、と主張するので、ドオーだけは付いて来てもらうことにした。ドオーはチリの手持ちの中で一番の古株で、チリのナイト気取りなのである。そんな可愛い、ドオーのまあるい額に、チリはコツン、とボールを当てた。ボールにすんなりと収まったドオーに礼を言って、チリは衣類の入ったバッグを肩にかけ、家を出た。
 チリはさらりと、白いワンピースを身に付けていた。髪は結んでいなかったが、洗い立てだったので、心持ち水分を含んでいるようだった。それも、行きつけのクリーニング店に着く頃には、すっかりと乾き切っていた。盛りを過ぎたとて夏、まだまだこれから暑くなる。
 先週に預けた衣類を受け取って、代わりにチリは、新しく衣類を店に預けた。仕事は丁寧だが、客に深入りすることのない店員が、アオキのジャケットを取り出して見分をしていた。無表情で、チリに問う。
「肩の部分が、若干、ほつれていますね。修理しておきましょうか?」
「あー……っと」
 十中八九、彼の手持ちの仕業だろう。チリが直しておく必要はないはずだったが、同じ業務を担う同僚だ、付き合いはこの先も長いのだし、義理立てしておくのも悪くはなさそうだった。チリにはわかる、鉤爪に引っ掻かれた跡を指先でなぞり、場所、程度を店員と確認する。
「せっかくですし、お願いしますわ」
 チリが言うと、店員は無言で頷いて、奥へとジャケットを持って行った。その背を見届けて、チリも、店を後にした。
 店の滞在時間は十分間にも満たなかったはずだが、外はすっかり夏のそれへと様変わりをしていた。日傘を持ってくるべきだった。それか、せめて、帽子を。
 『四天王・チリ』の偶像を、パルデアの多くの住民は抱いていることをチリは知っていたので、仕事の際には人避けを兼ねて、顔を隠すことが多かったが、殊、プライベートに於いて、如何にも女性らしい格好をしていれば、認識されないことに気付いてからは、今日のような服装をするのが常になっていた。さて、チリ自身、預かり知らぬことではあったが、絹のような碧の長髪を背に垂らし、顔を半分覆うように掛かる前髪のその向こうに見える鋭い真紅の瞳、その眼を持つ顔が怖いほど整っているのであれば、よほどの阿呆でない限り、声をかけることを躊躇うものである。それも、こんな、太陽が燦然と輝いている、真昼間に、フィルムカメラをただの一度押してしまえば、それで絵になってしまうような人間に。……もしも、チリがこのことを知れば、腹を捩って爆笑するのだが、幸か不幸か、チリは知らないので、今日ものんびり、街を歩いていた。
 チリは自炊を一切しないので、昼夜を兼ねた惣菜を買う。コーヒーだけはこだわっているので、コーヒー豆専門店に立ち寄る。アローラ特産の豆がお買い得になっていたので、チリはそれを手に取った。記憶が、脳裏を過ぎる。
 あれは、チリが四天王になって、半年が過ぎようとしていた頃だった。アカデミーの宝探し期間が終了したことで、比例してデスクワークが多くなっていた。四天王、という肩書きを取れば、リーグにおけるチリの立ち位置は、所謂、中間管理職である。ひっきりなしに届くメール、自身にしかできない業務の他に、部下のフォロー、何よりも最優先事項として、オモダカのサポートをしなければならなかった。朝からてんやわんやで、お昼頃にようやっと一息つけそうで、コーヒーを淹れようと、インスタントコーヒーの瓶に手を伸ばすと、まさかの空。いや、知っていたじゃないか。最後の一杯を飲んだのは、他でもないチリ自身なのだから。チリは身悶えて頭を抱えた。リーグのカフェに行ってもコーヒーは飲めるし、なんなら自販機でも構わない。けれど、忙しすぎる身の上だったので、好きなタイミングですぐに飲みたいものなのだ。そんなときに、コトリ、と間近で音がした。チリはショックのあまり頭を抱えながら伏せていたので、頭を上げて、まず目に入ったのは、ネッコアラのイラストが描かれた可愛いマグカップ、そしてその中を揺蕩っている、今、チリが最も欲する飲み物、コーヒーであった。
「……は?」
 チリが視線を上げれば、アオキが涼しい顔で、オドリドリの描かれたマグカップに口を付けていた。おそらく、それもコーヒーであろう。
「出張土産です。よろしければ、どうぞ」
 コーヒー豆は挽いたものを、湯沸かし器のところに置いてあるので、お好きなときに。
 アオキはそう言って、自身のデスクに座った。といっても、アオキのデスクは、チリの隣なのだが。てっきり、先週のアオキの出張は、営業部関係なのだと思い込んでいたが、ここでパソコンと向かい合っているのを見るに、それは四天王がらみの出張だったのだろう。チリは、何も知らなかったという訳だが、このときはコーヒーを飲める有り難さで頭がいっぱいだった。
 そのときに飲んだコーヒー豆のロゴ、それが今、チリが手にする細長い紙袋にも印字されている。店員が試飲を勧めてきたが、チリは首を振る。美味しいことは、もう知っているのである。チリはコーヒーは好きだが、コーヒー豆をのんびりとミルで挽くほど、おっとりとした気質ではなかったので、代わりに豆挽きをお願いした。店員は笑顔で了承し、すぐに豆を挽いたものをチリに渡した。おまけで、クッキーを貰った。チリはこういうことが多くある……胸に挽き立てのコーヒーの香りを抱いて、微笑んで退店した。
 家に着いたのは正午前だったが、チリはすっかり疲れ切っていた。暑さのためでもあるし、何より昨日……そして今日にかけて、チリはずっと、仕事をしていたのである。この職業に就いてから早数年、すっかり業務に慣れていたはずなのに、どうしても今日、オモダカが使用する資料の作成が終わらなくて、残業をして、日付を超えて、確か短針が二時を超えて、それでようやく作り終えたような気がして、そこから記憶がない。気が付いたらチリは、執務室のソファで横になっていて、バネブーのように飛び起きた。自身のデスクまで飛んでいき、スリープモードのパソコンを文字通り叩き起こして、メールソフトを開くと、そこには新着メールが一通、表示されていた。
 
 遅くまでお疲れ様です。
 大変よくできた資料ですね。
 私も、チリの頑張りに、応えなくてはね。
 今日はゆっくりと休むこと。
 お土産、期待していてください。
                            オモダカ
 
 受信時刻は早朝五時半、どちらが仕事人間か分かったものではない。そして、チリは、はっとした。チリからの送信時刻、それが早朝三時半過ぎを記録していた。チリはオモダカに、メールを送った記憶がない。なんなら、資料の最終チェックをした記憶もない。冷や汗と共に、チリは自身が送ったらしい資料を開いて、内容を確認した。バージョンを一つ前に戻す。編集履歴を確認する。修正した記憶のない、誤字の訂正が入っていた。
 ここでようやく、チリはワークチェアに腰を落とした。脱力したのだ。誰が、なんて考えるまでもなかった。アオキだ。アオキがやったのだ……。
 チリはソファで、身ひとつで寝ていたわけではなかった。男物のジャケットが掛けられていた。意識がはっきりと覚醒するまで、チリはそのジャケットからふんわりと漂う香りに、ゆらゆらと眠りを預けていたのを思い出す。顔から火が出る思いだった。アオキの香りを、いつの間にか覚えてしまっていた自分に、羞恥を覚えた。チリは勢いよく立ち上がり、そして床に落ちていたアオキのジャケットを、むんず、と掴んだ。そして職場を後にして、パルデア海の輝きに驚いた、というのが、今日の始まりだったのだ。
 チリの瞼が、ゆっくりと落ちてくる。
「寝る前に……何か、食べんと」
 アオキに怒られる。けれども眠気が優って、チリはソファに身を預けるようにして、意識を手放した。ボールから、ドオーが飛び出した。バクーダが静かにチリに近づいて、チリの長い髪を巻き込まないように気をつけながら、真白い背をぐいぐいと押す。そして、ソファの高さに合わせて伏せたドンファンの上に、チリが乗ると、ドンファンはのそのそと、チリの寝室へと向かった。彼女の手持ちたちは手慣れていた。ご主人様が頑張り屋さんで、家に帰った途端に、電池が切れたように動かなくなることなど、しょっちゅうなのである。
 
 一週間後、チリは例のクリーニング店に足を運んで、衣類を受け取った。アオキのジャケットも、元々どこがほつれていたのかがわからないくらい、綺麗に直っていた。ビニールにかけられたそれを受け取って、この日は家に直帰した。
 この一週間、チリはアオキに会わなかった。連絡も取っていない。礼くらい言っておくべきだろうし、自分でも薄情な気がしたが、なんとなく気が進まなかった。それに、アオキの本業は営業職なので、宝探し期間外のこの時期ならば、一、二ヶ月、会わないのは普通のことだった。そこまで考えて、流石に二ヶ月も先に返されても困るだろう、と思い至り、チリはアオキにメールをすることにした。チリは、アオキの私用の連絡先を、知らないのだった。
 チリは、出社してすぐに、アオキにメールを送った。簡単なお礼と、ジャケットを返却する旨を。今更な気もしたが、メールを送ってみれば、すっきりとした。几帳面なアオキのことだ、返信は遅くてもお昼には来るだろう、と思ってみたものの、お昼を過ぎても、一日、二日が過ぎても、返ってこない。
 おかしい、と、チリは思った。
 あのアオキが、電話ならいざ知らず、メールを無視するなんてこと、あるはずがない。
 チリはその日、オモダカの付き人をしていた。オモダカ付きの秘書が、遅めのサマーバケーションを取得したためだった。ベイクタウン、昼下がりの午後、夏の日差しを遮るパラソルの下で、休憩を兼ねた昼食を摂っていた。ロンググラスにはたっぷりの氷、注がれたコーヒーは薄まる前に飲み干されて、溶けつつある氷の動きがよく見える。
「最近、アオキさんと連絡がつかんねん。トップ、何か知らん?」
 チリの胸は、いやに鼓動を早めていた。対するオモダカは、涼しげな表情を崩さなかった。
「ああ……チリには伝えても良いかもしれませんね」
 けれどもオモダカはすぐにはチリに答えず、ウエイターを呼びつけて、アイスコーヒーを再度注文した。まだ汗のかいていないロンググラスがテーブルに置かれると、人払いを言い付けた。ここは、そういった場でもある……どこからかゴチルゼルが出てきて、空気がゆらゆらと揺れた。遮音膜を張ったのだろう。
 周りに人もいなかったので、オモダカはジャケットを椅子に掛け、ノースリーブの出立ちだった。テーブルに肘を付き、見える肩の動きが、同性のチリの目にも艶かしい。オモダカはようやく、口を開いた。
「アオキは今、エリアゼロにいます」
「エリア……ゼロ……?」
 エリアゼロ。パルデアの中央に位置する、危険領域。日常生活に於いては、岩壁が高くそびえ立ち、巨山があるようにしか見えないが、パルデアの大穴とも呼ばれる通り、地底空間が無限に広がるという。無限の未知、不思議、危険……先だってパルデアの誇る博士が一名、行方不明になってから、何人たりとも踏み入れていない土地のはず。そこに、何故、アオキが?
 オモダカが、自身のスマホロトムに触れ、感情のない声で読み上げた。
「○月××日午前二時四十八分、エリアゼロのアラート発報、アオキから私へと緊急通話、アオキにエリアゼロへの偵察を命じました。午前三時二十五分時点で、アオキがリーグに入館した記録が残ってますね。午前三時五十二分、屋上ゲートにて退館記録が残されています。屋上からエリアゼロに向かったのでしょうね。……リーグに寄らず、チャンプルタウンから直接向かっても良かったのに……それに、リーグ滞在時間も妙に長いですね。何か必要なものでもあったのかしら?」
 アオキは営業部、ジムリーダー、四天王業務に加えて、エリアゼロで何かしらの異常が起きた場合に、先んじて対応する役目を負っていたことを、チリはこのとき、初めて知った。エリアゼロは、高レベルのポケモンばかりが生息し、危険地帯であることに変わりはないが、実力のあるアカデミー生四人組が無傷で帰ってきたように、実力さえあれば、なんら心配をする必要のない業務だと、オモダカは述べた。殊、アオキに至っては、ひこうタイプのエキスパートで、いざとなれば、飛んで大穴を抜けることができるのだ。
 ただし、エリアゼロが未知の領域であることに変わりはない。いつ、アオキが状況確認を終えて戻ってくるかは、オモダカにもわからない。
「つい昨日……エリアゼロ内部にあるユニットから、定期連絡が来ていますよ。アオキは無事です」
 オモダカが微笑んだとき、チリのグラスの氷が、ゴトリ、と崩れる音がした。
 
 コサジタウンはパルデアの最南端に位置する小さな街で、密かに人気なリゾート地でもある。チリの住むテーブルシティは、ややも秋が見え始めていたが、コサジタウンは南に位置するだけあって、まだまだ太陽は夏の現役そのもので、降り注ぐ日差しは痛いほどだった。コサジタウンに程近い浜辺は、オモダカの所有するプライベートビーチで、そこに、チリは遊びに来ていた。取得必須の夏季休暇を、ギリギリに滑り込ませた形になる。それに付き合ってくれているのは、ナンジャモにカエデに、リップだった。要は、気心知れた、年頃の女性たちの、気楽な夏休みである。
「ちゃんと日焼け止めを塗らないと、ダメよ」
 浜辺に突き刺した、パラソルの影で涼むチリに、リップは念押しした。リップは、チリの肌が、日に当たりすぎると、焼けるのではなく、火傷状態になることを、知っているのだ。チリの肌は生まれながらに白くて、こういった、強い日差しに当たり続けると、赤くなって、熱を持って、ヒリヒリするようになって、とにかく、散々なことになる。だからいつも、夏に、肌を露出することがあるときは、念入りに日焼け止めを塗る必要がある。
「ひとりで塗れる?」
 ふふふ、とリップはうっとりとする微笑みを、チリに向けた。黒く縁取られた目、風を起こせそうな長い睫毛、真っ赤な唇。頬は陶器のように滑らかで、それが全身くまなくそうなのだから、モデルという職業は恐ろしい。健康的な肌色を持つリップは、リキキリンと同じ色をしたビキニを身につけていた。確かに細いのに、細すぎるとは思わせない、しなやかな筋肉を持つ身体をしている。再度チリは思う、モデルは、恐ろしい……。
「も〜、子供やないんやから、ひとりで塗れるって」
「はいはい」
 じゃあ、リップは先に行ってるからね。そう言って、リップはナンジャモとカエデのいる、海へと向かった。
 海は青かった。空も青い。波は煌めいているし、リップたちのはしゃぐ声も、煌めいていた。チリは、空を飛ぶキャモメを、ぼんやりと眺める。せっかくの休暇なのに、ほんのちょっぴりだけ、体調が良くなかったのだ。けれど、楽しそうに遊ぶリップたちを見ていると、チリも少しずつ、元気が出てきた。リップがプロデュースしたという日焼け止めを手にし、肌に丁寧に塗り込んだ。
「痛い、痛い〜!」
 丁寧に塗り込んだはずなのに、日が暮れる頃にチリの背は、見事に火傷を負っていた。事前に真っ白な背中を見ていたカエデは、心底痛ましそうな表情を浮かべて、チリの背に冷たい濡れタオルを押し付けてくれている。ナンジャモは、チリのために薬局に出かけてくれており、リップは、チリに怖い顔を向けた。
「ちゃんチリ〜? リップ、言ったわよね? ちゃんと日焼け止めを塗らないと、ダメって。ひとりで塗れる? って」
「まあまあ、リップさん、その辺で。チリさんも、わざと塗らなかったわけでは、ないのですし……」
 こういったとき、いつだってフォローしてくれるのは、カエデである。
「全くもう、アオキさんがいないと、こうなんだから……リップ、困っちゃうわ」
 リップなりに心配してくれているのはわかるが、余計なお世話である。チリは思わず、ぶすくれた。
 そう、去年も、ここに遊びにきたのだ。そのときは女性だけでなく、グルーシャと、アオキも一緒だった。グルーシャはカエデの笑顔の圧に逆らえず、アオキは有休消化の名目で、オモダカに同行を押し付けられていた。グループ最年少のグルーシャは、年上のお姉様方に構われ過ぎたことに加えて、夏であっても夜は冷えるナッペ山から突然、真夏の海に来たものだから、到着早々にダウンしてしまい、ベッドとお友達になっていた。対してアオキは荷物持ちよろしく、ボディーガードよろしく、律儀に女性陣について行き、今にも両目がひん剥くのではないのかと思われる悲壮な面持ちで、パラソルの下で腰を下ろしていた。そんなアオキの隣で、チリはせっせと日焼け止めを塗っていた。コテージで塗ってきていたものの、ここに来るまでに、汗をかいてしまったので、念のために、と思ったのだ。
 白いクリームを手のひらに取り、肌に丹念に塗り込んでいくチリを、アオキは目を逸らしつつも、じっとその場を離れずにいた。このとき、チリは布面積はそこそこあったものの、所謂、紐ビキニを着ていた。首後ろ、紐が結かれている箇所に、手を突っ込んでクリームを塗り、腰回りにも手を伸ばし、背にも塗ろうと試みた。しかし、どうにもうまく塗れていない気がする。コテージにいるときには、カエデに塗ってもらったが、今カエデは、波と一緒に戯れている。そこでチリは、ピン、と思い付いた。
「ア・オ・キ・さ・ん?」
「はい……?」
 ニンマリと笑みを浮かべるチリに、アオキは怪訝そうな表情を向けた。チリは、手に持つ日焼け止めクリームのボトルを、アオキに向けて揺らした。
「塗って?」
「嫌です」
 即答だった。
「なんでやねん」
「セクハラだからです」
「チリちゃんがお願いしてるんやから、違うやろ」
「コンプラ違反です」
「意味違うやろ」
「犯罪です」
「意気地無し!」
 頑なに拒否するアオキだったが、チリのその一言で、目の色が変わった。アオキは、チリからボトルを取り上げた。
「わかりました。塗れば良いんですよね?」
 アオキの剣幕に押されて、チリは思わず背を向けた。背に垂れる髪を前に持って来て、「背中だけでええで」と言うと、「わかりました」と返事が返ってくる。
 波の音が絶えず聞こえた。キャモメの鳴き声は、夏の海にふさわしかった。遠くに揺れる白い影は、ウミディグダだろう。ボトルのキャップが開けられる音がした。微かに、かこん、かこん、と音がして、そうして、チリの背に、大きくて、熱い手のひらが触れた。
 チリの身体は震えたが、アオキは何も言わなかった。背筋を撫で、肩甲骨を撫で、肩に触れ、紐の隙間から首元を撫でられた。太い指先が、紐を引くようにして首筋を伝っていく。思わずチリは、胸元を押さえた。紐を解かれたかと思ったのだ。だが実際にはそんなことはなくて、アオキは続けて、胸紐を引っ張って、その隙間にクリームを塗り始めた。
「……〜〜ッ、もう、アカンッ! あだッ!」
 耐えられず、チリはアオキから距離を取った。アオキに引っ張られていた紐が、その張力のままに、チリの背を弾く。痛くないけど痛い。驚いて片手を背に伸ばしてそのまま、敷かれたビニールシートの外に、上体が倒れる。尻をアオキに向けた体勢になる。非常に気まずい。チリの顔は、熟れに熟れたマトマの実と同じ色をしていた。頬には、細やかな砂が付着していた。チリは若干涙目で、それなのにアオキは珍しく、肩を震わせて笑っていた。
「ふ、ふ、ふ……ッ」
「な、なんやねん……!」
「いやあ、貴方、可愛いところ、あるんですね?」
「何、小っ恥ずかしいこと言うてんねん!」
 チリは立ち上がって、海へと駆け出した。この年、チリの肌が焼けることはなかった。
「チリ氏〜戻ってきたぞぅ」
 ナンジャモの声に、チリは我に返った。ナンジャモが、チューブ状のものをチリに手渡す。
「うわあ、痛そう……」
「痛そう、やなくて、痛いんねん」
「そりゃ、そーか。かわいそうだから、このナンジャモが、お薬塗ったげる」
「おーきに」
 一度はチリに渡したチューブをナンジャモは受け取って、優しくチリの背に塗り始めた。
「来年は、ちゃーんと、誰かに日焼け止め塗ってもらうんだよ?」
「おん、そうする……」
 ナンジャモの手は、小さくて、どこかひんやりとしていた。全然違う、と、チリは目を閉じて、思った。
 
 目を開けた。夜だった。窓を開けて寝ていたが、涼しいを通り越して肌寒かった。チリは、ぼうっとしながら身体を起こした。窓を閉めなければ、風邪を引いてしまう。
 風にカーテンが揺れていた。揺れるたびに、月明かりが部屋に差し込んでくる。それがやけに明るいので、今夜は満月なのかも知れなかった。差し込む光の先には、アオキのジャケットがある。チリの寝室の壁に、密やかに掛けられた、ビニールも外されないままの、ジャケット……チリは、自分の使ったものをそのままアオキに返すのが嫌で、だから早々にクリーニングに出したはず、だったのに、壁に掛けてから、裕に一ヶ月は経過している。もうすぐ二ヶ月を迎え、このままでは、チリの家の匂いが、移ってしまう……家の匂いが移ってはいけないのか? とも思う。そもそも、チリにはチリの家の匂いはわからない。それならば、アオキにだって、わかるはずがないのではないか……?
 ようやく身体を起こして、チリは窓を閉めた。起きたついでにお手洗いに寄り、手持ちたちの寝顔をしばらく眺めて、部屋に戻る。そして、なんとなく、ビニール越しに、アオキのジャケットに触れた。ビニールが、ひんやりとしていた。鼻を寄せる。もちろん、アオキの匂いはしない。アオキの匂い……? アオキの匂いって、どんなんだったっけ。
 チリは、ジャケットに頬を寄せた。アオキの香りを思い出すまで、じっと、そうしていた。
 次に目を覚ましたのは、スマホロトムの目覚ましが鳴ったからだった。週の中日で、業務もまだまだこれからだった。宝探しがもうすぐ再開されると言うのに、チャンプルタウンジムリーダーが戻って来ない。パルデア中、とまではいかなくても、チャンプルタウンの住民間では噂が持ちきりで、パルデアリーグトップたるオモダカの、近頃の悩みのタネといえばこれだった。代打を立てようにも、パルデアではそう簡単に、実力者を見つけることは難しいのが現実だった。仕方なく、四天王を前任していた御仁に声をかけ、調整と言う名のポケモンバトルをチリが担当したところ、チリがボロ負けした。……というのも、チリ自身が、チャンプルジムに挑戦するであろう、アカデミー生の、平均的なレベルでもって、バトルに挑んだからである。
「いやあ、腕が鈍ってしまったわい」
 その御仁は、ワハハ、と悪びれる素振りもなかった。挑戦者のレベルに応じて相手をするのは、これまた別次元の能力なのだ。バトルを観戦していた、オモダカの眉間には青筋が立っていたし、ハッサクは目を覆っていた。ひとまず、その御仁には、四天王・アオキの代打を務めてもらうとしても、依然として、チャンプルタウンのジムリーダーを、補完することができていない。
 季節はすっかり秋めいていて、チリの住まうマンションのパティオからは、花々がいつの間にかいなくなっていた。四角く切り取られた空を見上げれば、空はどこまでも澄んでいて、高かった。チリは手を伸ばしてみたが、到底届くはずがない。チリには飛ぶための翼がない……息を吐くと、なんと白かった。あまりにも早い、冬の到来である。
 出社して、いつものデスクに腰を下ろしたところで、秘匿回線からコールがかかってきた。チリはすかさず出た。相手は尋ねるまでもない、オモダカだ。
『至急、私のところまで』
 何があったと言うのだろう。チリは座ったばかりのワークチェアから立ち上がった。四天王専用執務室に、当然、アオキはいない。ポピーはアカデミーだし、ハッサクとてそうだった。チリは廊下をいつも通り歩いた。すれ違う職員、職員に朝の挨拶をされれば、笑顔で返す余裕を見せる。
 オモダカの執務室に辿り着く。軽く、ノックをする。返答は聞こえなかったが、チリはそのまま入室した。
「おはよう、チリ」
「おはようございます、トップ」
 秘匿回線を使用したにしては、オモダカは朗らかな雰囲気を纏わせていた。にこり、と笑みを向けられる。
「今から、エリアゼロゲートまで、行ってくださいな」
「……へ?」
 間抜けな返答をしてからすぐに、チリは、アオキが帰って来るのだと、気が付いた。
「え、チリちゃんでええの?」
「ええ、ええ、良いのですよ。アオキに伝えてくださいね。宝探しが始まるまで、リーグに顔を出すな、と。それから、そうですね、チリは……今日含めて三日間くらいが、妥当かしらね。また、週明けにね」
 オモダカが、優雅に手を振るのを見るや否や、チリは部屋を飛び出した。先ほどとは打って変わって、余裕など、一切ない。廊下を駆けながら、スマホロトムでそらとぶタクシーを呼び出す。幸いにも、リーグに来たばかりのタクシーを捕まえることができ、イキリンコたちに申し訳ない気持ちを抱きつつも、チャンプルタウンへと直行した。
 いくらなんでも、民間のタクシーを、ゲート前に着けることはできなかった。運転手にマップを見せ、ゲートのある場所から少し離れた崖下に、チリは下ろしてもらった。
 チリは走った。息が白かった。チャンプルタウンの方が、テーブルシティより北にあるし、ここら辺は風を遮るものがないので、気温がぐっと下がりやすい。晴れていたはずの空は次第に曇り、より一層、頬に触れる空気が冷たい。けれどもチリは全速力で走っていたので、体が燃えるように暑かった。
 ゲート入り口に辿り着く。鉄製の門扉は閉じられていたが、チリのIDをかざすと、扉が開いた。岩が剥き出しになったままのトンネルに一歩、足を踏み入れる。明るい場所から、暗い場所に入ったので、軽い目眩がした。そして……
「チリさん……?」
 アオキが自身を呼ぶ声の方に、チリは走り出した。駆け寄って、その胸に飛び込んだ。突然のことだったのに、アオキの体はぶれることなく、チリの体を受け止めた。
 チリは、アオキの胸に、顔を埋めた。チリは今、アオキの香りに包まれていた。チリの知っている、アオキの匂いだった。
「……失礼」
 アオキは断りを入れてから、チリをそっと抱きしめた。チリがアオキの胸元を、強く握ると、それに応じて、より強く、チリを抱きしめる。
 困惑気味に、アオキは口を開いた。
「自分の記憶が正しければ……貴方は、自分を嫌っていたように、思うのですが」
「チリちゃんかて、そう思ててんけど……違ったみたい」
「はあ……なるほど?」
 チリは顔を上げた。
「トップから伝言。宝探しが始まるまでお休みすること。大体二週間くらいの休暇やね」
「そんなに?」
「アオキさん、気付いてへんのかも知らんけど、アオキさん、二ヶ月間くらい、エリアゼロにおったんねんで」
「自分の体感としては、一週間程度でしたが……」
「戻ってきてくれて、良かった。……もう、会えないかと……思った……」
 震えるチリを、アオキは強く、抱きしめた。「戻って来れて、良かったです」と、アオキも言った。
 エリアゼロには、どういう訳か、昼夜の概念がない。時計は全く役に立たない。単独行動だったので、ユニットに辿り着くまでは不眠不休の行動が原則だった。体もキツかったが、本来寝ている時間に活動しなければならないストレスは、想像以上だった。それにも関わらず、ユニットに辿り着いて、いざ休息を取ろうとしても、興奮しているためか、寝付けない。アオキは常日頃、マイペースを自負しているが、この時ばかりは、焦るものがあった。そんなとき……そんなとき。アオキは、最後に見たチリの寝顔を、思い出していた。
 アラートを受け取って、即座にオモダカに連絡を入れた後、ふと立ち上げたメールソフトが、チリの在籍を伝えてきた。すでに深夜三時を超えていた。アオキは少し悩んで、リーグ本部へと飛んだ。チリの顔を、見ておきたかった。
 リーグ本部は、深夜であっても、屋外バトルコートがライトで照らされているので、夜空からでも見つけやすい。そのまま、玄関に降りる。ここまでアオキを運んできてくれた、ムクホークを撫でてからボールに戻す。暗い建物の中で、一角、四天王の執務室のある窓だけが、煌々と明かりを放っていた。おそらくそこに、チリがいる。
 足早にアオキが執務室へ向かうと、チリは、デスクに突っ伏すようにして眠っていた。近づいて、顔を覗き込んでみれば、顰めっ面で、いかにも寝苦しそうだった。アオキは少し、おかしくて、チリの肩に触れた。チリに触れるのは、二度目だった。一度目は、去年の夏、素肌のチリに……アオキは頭を軽く振ると、チリを抱え上げた。チリは目を覚まさなかった。ソファまで運び、横たえると、チリは寝返りをうって、まんまるくなる。寒いのだろうか、とアオキは思って、羽織ってきていたジャケットを、チリに掛けた。心なしか、チリの表情が和らいだような気がした。しばらくそうして、チリの寝顔を眺めて、いよいよアオキは、エリアゼロへと向かう決心をした。と、チリのデスクトップが、一段、暗くなった。サブモニターには何かしらの資料が、メインモニターには、メールソフトが立ち上がっていた。宛先は……オモダカ。さっと目についた誤字を修正して、アオキはオモダカへとメールを出した。チリは怒るかもしれない、けれどもこの程度の手助けなら、良いだろう……そうして、アオキは、エリアゼロへと飛び立った。
「二週間の休み、ですか……」
「せやで! 目一杯、休まんと」
「ひとまず、飯が食いたいです」
「そう言うと思って、宝食堂の店長に、声掛けといたで。ご飯、準備してくれとる」
「それはありがたい。……あと、純粋に、自分のベッドで寝たいですね」
「せやね、せやね。……あ!」
 チリは肯定して、背伸びして、アオキの首に、腕を回した。
「チリちゃん、アオキさんの、抱き枕になったろか?」
「……抱き枕じゃ、済みませんよ」
「ん〜ええよ? ジャケットのアオキさんも、飽きてきた頃やし」
「はあ、なに言って……ッ」
 兎にも角にも、チリはアオキにキスをした。アオキの休暇中に、チリはアオキのジャケットの話をするだろう。肩のほつれを直しておいたこと、チリの部屋にずっと掛けられていたこと、チリの家の匂いは、どんな匂いなのか……きっと話をするだろう。
 あの日見た、海のきらめきも、きっと、チリはアオキに話すだろう。

コメント

  • ゆずす
    2023年8月16日
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