2022/12/21
1967年、NHKがラジオ受信料の廃止を決定した年の8月15日に立花孝志は大阪府泉大津市に生まれた。
孝志が幼い頃、父は愛人を作って不倫をしていた。それを知って母は近所のパチンコ屋のマネージャーと浮気に走った。
孝志が5歳になる頃、両親は互いの不倫が原因で婚姻関係を解消した。孝志と3歳年上の姉は父親に引き取られた。
孝志が幼稚園の年長の頃、父と姉と3人での生活が始まった。しかし、大きな会社で営業の仕事をしていた父は就業時間終了後も付き合いの麻雀などで孝志と姉が起きている時間に帰宅することはなかった。
育児放棄の状態に置かれた孝志には、入浴や歯磨きの習慣は身につかなかった。
当時、片親家庭は珍しかったため、孝志は両親が離婚していることを周囲に隠した。
両親不在の状況で孝志は3歳年上の姉から虐待を受けていた。馬乗りにされたり木刀で殴られたりしていた。
姉すらも頼れなかった孝志は、自立した人間に育った。早くから大人社会を覗き、人の顔色を窺い空気を読む力が育った。
父は毎日1000円ずつ孝志にお金を置いて仕事に出かけた。お金があればなんとかなると思っていたのだ。
しかし、孝志はそのお金でゲームセンターに入り浸り、ゲームをしたりおもちゃやお菓子を買ったりしていた。まともな食事は学校給食だけだった。
そんな生活が5年ほどつづいたある日、孝志は倒れて病院に運ばれた。栄養失調と診断された。小学校5年生の時だった。孝志の歯は虫歯だらけになっていた。
孝志の入院をきっかけに父と母が再び結婚をし、母が家に戻ってきた。しかし、子どもを理由にした再婚であり、父と母の関係が改善されたわけではなかった。孝志には父と母が会話をしているところを見た記憶がない。
孝志は家庭のぬくもりをほとんど感じることのない幼少期を過ごした。しかし、両親以外の大人たちは孝志のことをとても気に掛けてくれた。その一人が淡路島の祖父だ。小中学生の頃、孝志は終業式が終わると直ぐに淡路島に向かった。祖父は大阪淡路島間の連絡船の所長をしていた。春休み、夏休み、冬休みに孝志は連絡船にのって祖父の仕事を手伝った。孝志は働くことが好きだった。
祖父は孝志にこう教えた。「自分の為に生きるな。公の為に尽くせ。人の為に働くことは美しいことである。嘘はつくな。曲がったことはするな」
長年無給で民生委員をしていた祖父は天皇陛下から勲章を授与されている。そんな祖父を孝志は誇りに思っている。
孝志は幼い頃「タイガーマスク」「デビルマン」「宇宙戦艦ヤマト」などのアニメを夢中になってみていた。正義のために自分の人生を掛ける、そんな価値観をあれらのアニメから影響され培ったと孝志は語っている。
「約11000人の守りに入っている人間よりも、守るものがない1人の方が強い事を証明する」と後に孝志は語っている。その感覚は幼い頃にみたアニメの影響だろう。
学校の勉強は大嫌いだったが、学校には通い続けた。当時孝志は心配性であり、学校に行かないことに対する不安から学校に通っていた。また当時、不登校は今ほど社会的に認知されていなかった。
小学校の社会科授業で『ミッドウェイ海戦で日本軍大勝利』とNHKラジオが嘘の放送したことを孝志は教わった。勉強は嫌いだったが、このことは孝志の人生に影響を与えた。それ以来、孝志はNHKについて考えるようになった。
小学校五年生からアルバイトを始めた。5年生になると新聞の夕刊の配達の仕事が出来たからだ。学校の勉強は嫌いだったが働いてお金を稼ぐことは大好きだった。
姉は激しい性格だったが、孝志は大人しくて優しい子だったと母は回想している。後に孝志がNHKを相手に激しくやり合い、世間的に「恐ろしい人物」と思われていたことを耳にして母は信じられなかった。
しかし、孝志が生まれた大阪の泉州地区は気性の激しい地域であり、子どもの頃は毎日喧嘩に明け暮れていた。本来の性格は大人しく優しい孝志だったが喧嘩はめっぽう強かった。
中学に進学する頃、孝志は不安でいっぱいだった。「近隣の小学校から中学で一緒になる子はどんな子たちだろう。喧嘩を売られないだろうか」そんな不安は見事に的中した。
喧嘩を売られて、顔面を殴られ孝志は前歯を折られてしまった。孝志は喧嘩に負けたのだ。その日から孝志はいじめられる日々を過ごした。教科書にコーラーを掛けられたり、後ろから跳び蹴りをされたりした。
隣町との喧嘩には駆り出された。当時の少年法では刑事処分の可能年齢が16歳以上だった。彼らはそれを理解して暴れ回っていた。
孝志は身の危険を感じて中学校に行くことが苦痛だった。でも、学校には行くものだという固定観念に縛られていた。そして、大人に助けを求める術を知らなかった。
中学校は必ずしも安全な場所ではない。学校から子どもを守るのは親の責任だと、現在の孝志は訴えている。
学校の勉強は嫌いだったが、将来は会社員となって安定した生活を送ることを目標にしていた孝志は高校に進学した。
経済的に恵まれていなかったために、交通費のかからない地元の公立高校に進学した。孝志はその高校に一期生として入学したが、その高校は平均偏差値38の学生が集まった学校だった。入学試験の結果は校内1位だった。
高校進学後、孝志は実家を出て一人ぐらいを始めた。家賃や生活費はバイトやパチンコで稼いだ。パチンコで大当たりしたときは、クラス全員を誘ってファミレスでご馳走したりしていた。
高校3年生の時、孝志は進路指導の先生に勧められてNHKの面接を受けた。1985年10月1日のことだった。他の受験者の面接時間は5分程度だったが、孝志の面接は約1時間に及んだ。
孝志は受信料を払っていないことを自己申告した。面接官は「受信料を支払っていない家の子を採用するわけにはいかない」と言った。それにひるまず孝志は、「受信料不払いの家庭に育ったから不払い者の気持ちが分かる」と訴え、自分だったら如何にして受信料を徴収してくるのかを説明した。孝志が提案した方法が否定されたため、面接官と孝志の間で議論になった。
孝志は小学校の頃からNHKに関心があり、考え続けてきた。公共放送とは何なのか。先の大戦はどういうメカニズムで発生していったのか。戦争をあおったNHKラジオ、朝日新聞などのメディアが国民を洗脳して戦争へ向かわせていった。メディアというものが如何に恐ろしいものなのか。メディアが正しい情報を国民に伝えなければ、また大きな戦争が起こり多くの国民の命が戦争によって失われていく。孝志はそう考えていた。
NHKが無ければ再び戦争に突入する恐れがある。仮に戦争を開始するにしてもそれは国民の同意がなければいけない。多くの国民の同意があって戦争を始めるのであればまだしも、一部の権力者によって国民が望まない戦争に突入していくことは間違っているのだ。
国民の受信料によって運営されるNHKは、政府や大企業から影響を受けることなく正しい情報を国民に伝えることが出来る唯一の報道機関である。
そのことをしっかりと理解して貰えば、必ず契約してもらうことができ、2度と解約されることはない。孝志はそのように主張した。
1週間後「内定」の通知が届いた。
つづく 立花孝志物語 3 NHK和歌山放送局、大阪放送局時代
参考にした主な史料
筆者あとがき
「NHKが反日放送している理由は【電通】に乗っ取られているから」を久しぶりに見ましたが、これは本当に名作ですね。
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モリヤマ ヒデキ/歳/男
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