2024年
溝手康史
2024年9月7日
登山道シンポジウム・・・・予定
日本山岳サーチ&レスキュー研究機構
東京
2024年7月6日
山岳遭難の法律問題・講演
三重県山岳遭難対策協議会
津市
2024年5月27日
「登山道を誰が管理するのか」 (デザインエッグ発行)
(目次)
はじめに
登山道が遭難に関係する
登山道の整備のあり方
登山道の管理
今後の課題と展望
2024年5月20日
泉房穂氏の発言
前明石市長で弁護士の泉房穂氏(60)が20日「X」(旧ツイッター)を更新。弁護士についての見解を示した。一般的に“弱者の味方”とされる弁護士だが、泉氏は「あくまでも一般論だが、庶民の味方の弁護士もいれば、サラ金業者の味方をして、庶民や子どもたちを泣かせてきた弁護士もいる」と指摘した。
正論ですな。
弁護士は、表向きは正義の味方、実態は、資産家と社会的強者の味方、が多い。それを隠蔽するのが弁護士のテクニック。社会的弱者の味方をすることを宣伝する弁護士が羽振りがよいのは、そもそもおかしい。低所得の庶民相手に稼げるはずがないからだ。
弁護士は、事務所の維持費と自分の生活費を得るために稼がなければならない。毎月150万円稼いでも、事務所経費で100万円が消え、50万円が所得になる。これで年収600万円。40~50代では、サラリーマンに較べてそれほど所得が多くはない。低所得の庶民相手に毎月150万円を稼ぐのは、かなり大変だ。毎月1件20万円の事件を7,8件こなさなければらない。それよりも、1件500万円くらいの資産家と社会的強者の事件を1年間に7,8件こなした方がよほど楽だ。
数の上では、社会的弱者の味方よりも社会的強者の味方の弁護士の方が多い。
2024年5月18日
安芸高田市長の都知事選出馬
安芸高田市長は7月の市長選に出馬しない。
これは予想通りだ。
仮に出馬しても当選は難しいかっただろう。
市長交代を惜しむ市民は多くない。
市長は、市外のネット民に人気があるが、市民の人気はあまりない。
その理由は、市長としての実績がないからだ。市長として何もしないまま、議会と喧嘩ばかりしていたというのがこの市長の印象だ。
改革の熱意は感じたが、それに伴う政治的な能力、経験、手腕がなかった。
市長は、議会と喧嘩をしてネットで目立ったが、市民に対する目立った施策はあまりない。
市は学校給食費を無償化したが、安芸高田市は祖父母と同居する世帯が多く、都会のような子供の貧困問題はない。3世代の世帯では、両親の収入と祖父母の年金収入があり、持ち家が多いので、子供のいる家庭は経済的に安定している。貧困問題が生じにくい。母子家庭などで学校給食費負担を免除すればすむ話だ。
貧困問題は高齢者の単身世帯で深刻だ。
また、子供の数が少ないので、都会よりも学校給食費の無償化をしやすい。
学校給食費の無償化よりも、もっと重要な課題がたくさんある。
安芸高田市は過疎化が著しい。加速度的に人口が減っている。
学校の統廃合、高校の廃校が進んだ。高齢者の単身世帯の貧困、介護施設不足、交通機関の不備などが喫緊の課題だ。高校生の多くが広島市内に通学するが、交通機関が不便なので、子供のいる世帯は広島市北部に住んだ方が便利だ。交通が不便なので、高齢者も安芸高田市に住みにくい。安芸高田市の主要産業は農業だが、農業も衰退している。
安芸高田市の高齢者が、今後、子供を産むことはないので、市の人口減少を食い止めるとすれば、広島市のベッドタウン化しかない。安芸高田市は広島市に隣接し、広島市への通勤が可能だが、そうなっていない。
その理由は、市の住みにくさにある。安芸高田市は、ネット回線(NTTなどのひかり回線がない)の使用料が広島市の2倍くらいし、ゴミ回収が有料で、しかも非常に高額だ(広島市は、無料)。水道、下水料金は広島市の2倍くらいする。
ネット回線の不便さは、安芸高田市で事業をしにくいことを意味する。
ある手続で申請書類に免許証のコピーを添付する必要があったが、市役所ではその場で免許証をコピーしてくれない、市はコピーをしない規定になっているからだ。市は、たかが数円程度のコピー代をケチるのだ。後日、免許証のコピーを持って、1時間かけて出直さなければならない。このサービスの悪さ! 銀行などでは窓口で免許証をコピーしてくれる。
他方で、安芸高田市は税金の無駄遣いの無駄な過剰サービスが多い。
市が実施する無料法律相談では、市は、弁護士への日当をカットして「ボランティアでしてくれ」と言い、無料法律相談の実施に消極的だ。隣接する三次市でも、弁護士に、しばしば、当たり前のように、「この仕事はボランティアでしてください」などと言う。
安芸高田市は弁護士を歓迎しない。役所は、行政の仕事をタダでしてくれる弁護士が増えるのであれば、弁護士を歓迎するが、役所に対し訴訟を起こす弁護士はいらないのかもしれない。
他方、明石市は多くの弁護士を職員として雇用して法治行政を推進している。弁護士が仕事をするのに、弁護士に適正な給料(高くない)を払うのは当たり前だが、田舎の自治体は、弁護士をタダで使おうとして苦労する。役所は、無駄なハコモノ建設などの大きな無駄遣いをするが、市民に関わる小さな支出はケチる。
安芸高田市は何件も訴訟を抱え、つまらない訴訟に多額の弁護士費用を支出している。私も、安芸高田市を被告にして訴訟中だ。この裁判は、市の窓口業務の問題性を提起する訴訟である。ひとつひとつの手続の問題性を明らかにすることが、市のサービスの質を高めることにつながる。多くの人は、ネットが騒ぐ問題に関心が向きがちだが、そうではない事柄が市民生活のうえで重要だ。
「歴史的事件のないところに本当の歴史がある」という言葉があるように、「ネットが取り上げないところに本当の市民生活がある」。歴史的事件だけを追いかけたのでは、歴史は理解できない。ネットの記事だけを追いかけたのでは、市民生活の実態は見えない。外国人が、日本の総理大臣の発言だけに注目したのでは、日本の政治の実態はわからない。それと同じだ。
市長は議会との喧嘩以外に、やりたい施策があったのだろうが、それがよくわからない。「議会が反対したので、何もできなかった」では、政治家とは言えない。これは政治的手腕の問題。
明石市の泉元市長は、議会では少数派だったが、市民の大きな支持をもとに、多くの施策を実現した。明石市の泉元市長には、市民の暮らしをよくしようという熱意があり、それが市民に伝わったからこそ、市民に大応援団ができたのだ。
政治家には、市民の悩みや訴えに共感する「感性」が必要だ。明石市の泉元市長にはそれがある。
その点、安芸高田市長は市民の支持がない。政治経験の差、政治家としての未熟さ、政治家の資質の問題か。
ユーチューブで自分の考えを言うだけでは、市民に市長が見えない。ネットでの発言は、市民向けではなく、市外のネット民向けだ。
政治では「市民の受ける恩恵」が重要だが、安芸高田市民はそれを実感できない。
いくら議会と喧嘩をしても、市外のネット民が喜ぶだけで、市民は恩恵を受けない。市長の最大の功績は議会と喧嘩したこと。市長が全国で有名になり、安芸高田市の悪名が全国で高まっても、市民は何も恩恵を受けない。それが、市長を応援する市民が少ない結果になっているのだろう。
市長は、「20年後は安芸高田市はつぶれる」と言っているらしいが、つぶれるということは、「隣接する広島市と合併する」ことを意味する。自治体のない空白地帯は日本では存在しない。日本では国の直轄領はない。広島市と合併すれば、市民の生活は確実によくなる。今すぐに広島市と合併することを望む市民は多いのではないか。
「議会と闘う市長」としてネットで有名になったが、それは市長の本務ではない。市長の本務は、「市民の暮らしをよくすること」である。市民は、「自分らの暮らしがよくなかったかどうか」で、市長を判定する。この点は、総理大臣が口ではいくらいいことを言っても、国民の暮らしがよくならならなければ、総理の評価は低いのと同じだ。
市外のネット民は、安芸高田市民の暮らしに関心を持たない。ネット民は安芸高田市に住んでいないので、そんなことはどうでもよい。
「議会と闘う市長」は、議会をなくせなどと言う市外のネット民をよろこばすが、それだけでは、市長としての仕事をしていない。
職員が動かなければ、市長は何もできない。安芸高田市では、職員が市長から怒られるのを恐れて、仕事が「責任回避」に終始し、「何もしない」傾向がある。
人は、外部に現れるイメージでものごとを理解しやすい。メデイア、特にネットが形成するイメージは、間違った認識をもたらし、弊害が大きい。
市民から見て、市長のイメージは、「議会と喧嘩をする市長」であって、「市民の目線で市民に顔を向けた市長」ではなかった。市民との対話をしない市長。市民や地域社会との関わりが少ない市長。市民の生の声よりも、ネット世界の声が好きな市長・・・・というイメージがある。自分の居場所がネットしかなかったのかもしれない。
市長は、市民の方ではなく、議会と市外のネット民しか見ていない印象が強い。安芸高田市民は、市長と議会の喧嘩の蚊帳の外だった。それが市民の支持を得られなかった理由だろう。
市長はネットで目立って全国で政治家としての知名度を上げたかったのではないか。ネットを巧妙に利用して、全国で自分の知名度を上げたので、「目的達成」かな。
もし、本気で安芸高田市を変えるつもりであれば、次の選挙に出て市民の審判をあおぐべきだろう。市長選で敗れても、市議選がある。市議選で負けても、安芸高田市で政治活動は可能だ。あくまで地元への愛着があれば・・・だが。地域に根ざした政治家は、そういうものだ。
もし、本気で安芸高田市民の暮らしをよくするつもりがあれば、今後も粘り強く活動する必要があったが、そこまでの熱意がない。
地域への愛着がなければ、市長はできない。明石市の泉元市長は、小さい頃から、明石市への強い愛着があった。地域への愛着・・・・それはそこに住み続けることが前提だ。泉氏は現在テレビのコメンテーターをしているが、明石市での政治活動を継続している。
市長は、「選挙はどこでもよいから政治家になりたい」と考えているのではないか。そのために、安芸高田市を利用したということなのだろう。政治的野心家のようだ。
安芸高田市長選に出ずに東京都知事選に出る・・・・安芸高田市長は自分の政治的野心を実現するための手段だったのだろう。安芸高田市長選で落選するよりも、別の自治体選挙に出た方がよいという戦略。
おそらく、東京都知事選は知名度を上げるために利用するのだろう。
都知事選がダメなら、どの自治体の選挙でもよいのかもしれない。どこでもよいのであれば、安芸高田市でもよいはずだが・・・・・安芸高田市は、「もう懲りた」のかも。この程度で懲りるようでは、どうしようもない。諦めやすい性格なのか。もともと、地域への愛着がないのだろう。地域への愛着がなければ、市長はできない。
2024年5月15日
衆議院・超党派「山の日」議員連盟総会でのヒアリング
東京
超党派「山の日」議員連盟
会長 衛藤征士郎衆議院議員
事務局長 務台俊介衆議院議員
議題:「登山道の管理不足と利用者の要求水準の変化について」
(ヒアリング)
北海道大学大学院農学研究院 教 授 愛 甲 哲 也
みぞて法律事務所 弁護士 溝 手 康 史
一般社団法人 北杜山守隊 代表理事 花 谷 泰 広
YAMANASHI MTB 山守人 代 表 弭間亮
総務省
林野庁
環境省
私は、登山道に関する法制度の現状と登山道の管理責任について話をした。
関係者の考え方はさまざまだろう。
環境省は環境保護を考え、自治体は地域振興(経済振興)を考え、山岳団体は、経済振興ではなく、登山振興を考える。山小屋や警察などは、事故防止を重視するだろう。
私は、登山に限らず自然へのアクセスの保障や環境保護は国民の幸福追求を実現し、個人の自立と自律を支え、民主主義社会の基礎を形成すること、また、それは人間の生存にとって必要だと考えている。
2024年5月12日
富士山登山通行料
富士山の山梨県側登山道では、7月1日から通行料2000円が必要になる。
また、入山者が1日に4000人に制限されるが、山小屋宿泊者は制限されないようだ。つまり、4000人の制限は、環境保護のためではなく、山小屋に宿泊しない登山者を規制するものだ。トレランや熟練者の日帰り登山、訓練などが規制される。
規制の趣旨があいまいだ。事故防止のためであれば、山小屋宿泊者の事故者も多いので、これが問題になる。富士山では初心者登山者が多いことが、事故の最大の原因だ。山小屋の数が多すぎるのだ。山小屋の数が少なければ、初心者登山者が減り、事故も減る。
弾丸登山の制限は、事故防止ではなく(山小屋宿泊者の事故者も多い)、単に、山小屋が儲からないから制限するということのようだ。
世界の潮流は、事故防止ではなく、環境保護のための登山規制である。
登山者が多すぎることが環境破壊の原因である。弾丸登山者の数は知れており、弾丸登山が環境破壊の原因ではない。
山小屋宿泊者が無制限では、環境保護にならない。
環境保護のために登山を許可制にするのが世界の潮流だが、日本は世界の潮流から孤立している。
2024年5月12日
弁護士がストーカー規制法違反か?
広島の弁護士がストーカー規制法違反で逮捕された。
私の知らない弁護士だ。
弁護士が逮捕されたので、マスコミ記事になったが、ストーカー事件は珍しいことではない。
弁護士の数が増えれば、その中にストーカーもいるだろう。
この弁護士は恋愛感情はなかったと言っているようだ、
ストーカー規制法の規制対象は、「特定の者に対する恋愛感情その他の好意の感情又はそれが満たされなかったことに対する怨恨の感情」に基づくつきまといなどである。
勘違いしやすいが、好意と無関係の怨恨は、規制対象ではない。
この弁護士は、それを知っているから、「恋愛感情はなかった」と言って否認したのだ。
あるいは、この弁護士は、「恋愛感情はない」という確信があるから、つきまといをしたのかもしれない。
アメリカでは、怨恨に基づくつきまといもストーカーとされているが、日本ではそうではない。
その理由は、怨恨に基づく行動をすべて規制すれば、警察の仕事が増え過ぎるという政策的な理由からだろう。
恋愛感情だけを対象にする合理的根拠はない。
仕事上の恨みや近隣紛争などは規制法の対象ではない。迷惑防止条例の対象にはなる。
この弁護士が、仕事上の恨みからつきまといをしたとすれば、規制対象にならない。
恋愛感情があったかどうかを判定するのは難しい・・・・・そんなことは他人にはわからない。それでアメリカでは、そのような判断をしなくてもよい法律にしている。
女性が80代の女性や赤ん坊であれば別だが、それ以外の男女間では、恋愛感情があったとみなされる場合が多いのだろう。
同性間でも恋愛感情がありうるが、同性間では、ストーカー規制法の規制対象にならないことが多いだろう。
ストーカー規制法違反の刑罰はそれほど重くない。
この弁護士は、恐らく弁護士資格を失うことはない。
今後、弁護士に、「我々の気持ちをわかってくれる弁護士」として、ストーカーからの依頼が殺到するのではないか。
昔、買春罪で逮捕された弁護士がいるが、その後、弁護士業が繁盛しているようだ。
2024年5月3日
野球の戦術・・・・・工夫のなさ
広島カープは、完封負けが多い。
これは、もともと打力がないチームだからだが、それ以外に戦術の「無策」も大きい。打力のないチームは、さまざまな工夫をしなければ、点を取れない。高校野球のように、セコく点を取ることがない。広島は、ノーアウトでランナーが出ても、ほとんどバントをしない。ただ、フツーに打つことが多い。ほとんどの場合、ランナーを進めることができない。広島はスクイズもほとんどしない。相手ピッチャーにプレッシャーをかけない戦術が多い。
がむしゃらにがんばるだけで、考えなければ、広島は戦力的に、なかなか勝てないだろう。
野球でこの点を感じたのは、かつて栗山氏の采配を見た時だった。
かつて、広島と日ハムが日本シリーズで戦った時に、広島と日ハムの監督の差が出た。この時、私は、栗山監督に感心した。とにかくよく考える人だ。広島の監督と対照的だった。戦力があれば、かつての広島のように、何も考えなくても勝てるが、今の広島はそうではない。
その後、栗山氏がWBCでも監督として活躍したことは、予想通りのことである。
監督に限らず、一流選手はよく考える。
考えて工夫をすることは、すべての場面で重要だ。野球以外に、登山や仕事でも大切なことだ。
フランスのバカロレア(大学入学資格試験)では、哲学の試験があるそうだ。
考えることが学問の出発点出発点になる。
しかし、考えると言っただけでは、何をどのように考えればよいのか皆目わからない。
筋道を立てて論理的に考える必要がある。
なぜ、という問いは、考える出発点になる。野球でいえば、なぜ、あの場面で点がとれなかったのか。なぜ、あの場面で打たれたかを考えることなど。
登山でいえば、なぜ、道迷い遭難が多いのか。「登山道が迷いやすかったからだ」では、何も考えていない。
事故が起きたのは、「ミスをしたからだ」では、何も考えていない。
登山道の管理者不明の登山道が多いのは、「管理者のなり手がいないから」では、何も考えていない。
富士山で事故が多いのは、「未熟な登山者が多いから」では、何も考えていない。
試合に負けたのは、「全部ダメだったから」、「実力不足」、「すべて監督の責任」、「あと1本が出なかった」、「打てなかったことが敗因」、「相手チームが強かったから」では、何も考えていない。
2024年5月2日
犬伏山(791m)・・・・・手入されない登山道の典型
広島県安芸高田市にある犬伏山に登った。
これは、ヤマップで見て、笹で登山道が見えにくい山とされていたので、調査のために登った。
登山道は、全体の3分の2が笹で覆われて見えなくなっていた。3分の1は笹に隠れているが、何とか登山道の痕跡を見分けられる。他は、登山道の痕跡が見えない。
看板は倒れて笹の下にあるか、成長した笹に隠されている。
登山道のうち1割くらいは、笹がなく、すっきりとした快適な登山道の箇所がある。笹を刈れば快適な登山道なのかもしれない。
登山道が笹に埋没しているので、地図、コンパス、GPSで確認しながら進む。ところどころに、赤いリボンがあるので、これも参考にする。リボンの数が少ないので、あくまで補助的なものでしかない。
林道は、倒木があり、車は通行できない。その先に駐車場の看板がある。
ネット情報は、令和2年~4年頃の情報でり、現在は笹がさらに成長している。腰~頭くらいの高さの笹の中を泳ぎながら進む。
笹に埋没し、展望はない。山頂も展望ゼロ。
問題は、林道入口や駐車場に、登山道の看板がある点だ。この看板を見れば、登山道があると思って初心者が入り込む可能性がある。初心者は道迷いする確率が高い。
これは登山道の看板に「騙される」のあり、日本ではよくあることだ。これに陥ると遭難する。
犬伏山が藪山として有名になるのはかまわないが、その場合は、「登山道は笹のために見えません。道迷いの危険が高いので、初心者は登らないでください」という危険表示が必要である。初心者に登らせないための管理が必要だ。
笹漕ぎとルートファインディングを楽しみたい人以外は、登らない方がよいだろう。
登山道は直進しているが、笹の下にあり、登山道が見えない。こういう箇所が続く。
2024年4月14日
ドーム球場での2塁打
巨人・広島戦で、内野フライがドーム球場の天井に入り、落下しなかった。これが規定上、2塁打の扱いになり、1点が入った。
これによれば、ファウルグラウンドに上がったフライでも、2塁打になる場合がある。内野でも外野でも、フライは落下するまでファウルかどうか判定できない。明らかに内野のファウルグラウンドに上がったフライでも、落下しなければファウルの判定ができない。キャッチャーフライも、ドーム球場の天井に入り、落下しなければ、2塁打になる???
ルールの限定解釈もありえたのではないか。この規定の趣旨は、ホームラン性のあるフライの場合の規定であり、明らかにそれに該当しない場合には、このルールを適用しないという限定解釈をするということである。キャッチャーフライなどにはこのルールを適用しない。ホームラン性のあるフライかどうか判断できないという意見がありうるが、今回の場合は、その判断ができない人はいないだろう。判断が難しい場合は2塁打にすることになるだろう。「明らかな場合」だけの扱いである。
このような限定解釈は、法律の世界では多い。
高校受験の願書出願が中学校のミスで期限を過ぎた場合に救済措置をとったことなどがその例である。「本人のミスによらない徒過」の場合には、期限に関する規定を適用しない扱いをするのである。
東北大震災時に、津波から逃げるために、車でスピード違反や信号無視をしても処罰しない扱いなども、法律の限定解釈である。
このような適正なルールの解釈をすれば、上記のケースでは、2塁打とする規定を適用せず、「規定がない場合」であり、審判の裁量判断でバッターに打ち直しを命じればよい。
あらゆる規定を形式的に適用すると、おかしな場面がいくらでも出てくる。いくらでも笑えるいおうなケースが出てくる。内野フライが2塁打になるのは、十分笑える。
自然公園での幕営禁止・・・キャンプ場のない山域はどうすればよいのか。ビバーク禁止か? 遭難時にどうすればよいのか? チンネや北鎌尾根は登れなくいのか?
ルールについて
日本では、ルールを杓子定規に考える人が多い一方で、行政指導などのあいまいなルールが多用される。
ルールは拘束力があることが前提だが、日本では、拘束力のないルールが多い・・・・・マスク着用、富士山の冬山登山禁止、富士山のドローン禁止など。これを世論の同調圧力で強制しようとする。
あいまいなルールが多い。・・・・努力義務、犬連れ登山禁止、自然公園での幕営禁止などなど
あいまいなルールは、管理する側に都合がよい。どうにでも運用でき、便利なので多用される。しかし、それは利用者に不利益だ。
あいまいなルールをを杓子定規に適用したら、笑い話が増えるが、時には悲劇になる。内野フライが2塁打になるルールは笑えるが、自然公園でのテント禁止で遭難するルールは、悲劇だ。
適切に解釈することの重要性・・・・・野球の審判も同じだ。
2024年4月13日
大谷の事件…雑感
大谷氏の事件に関して、当初、事実関係が不
明だったが、私は、最初から、大谷氏が刑事責任を問われることはないだろうと思っていた。
日本とアメリカで法律が異なるが、刑事責任が生じるかどうかは、弁護士には何となくわかる。メディアにさまざまな弁護士が登場したが、ずいぶんいい加減なコメントをすると思っていた。
大谷氏のような被害に遭わないにはどうすればよいか。
パスワードなどが盗まれることがある。フィッシング詐欺、ウィルスなど。あるいは、日本人と交際中の外国人女性が、日本人男性のパスワードを盗み、カードから預金を盗むケースがある。その外国人女性は偽名で、住所不明、所在不明、顔しかわからない。
パスワードなどを絶対に盗まれない方法、絶対に詐欺に遭わない方法はない。しかし、被害を最小限にとどめる方法はある。
大谷氏のケースでいえば、通帳残額をこまめにチェックするという方法だ。
しかし、一度に大金を盗まれたら、お手上げだ。
この点は、銀行側のチェック体制を厳格にするほかない。大谷氏のケースでいえば、銀行のチェックの甘さは明らかだ。電話での本人確認・・・・・・日本でも多い・・・・・これは甘い。
日本であれば、銀行の過失を問う損害賠償請求訴訟が可能ではないか。大谷氏は有名人であり、日本人であることを銀行員もそれを知っているはず、オオタニという預金名義、本人確認を流暢な英語で行ったこと、送金額が大きいこと、送金を繰り返していることから、銀行に過失があるのではないか。
ただし、銀行に落ち度があることになれば、今の決済システム全体が破綻するのではないか。
誰もが水原氏のやり方を真似て簡単に銀行詐欺ができてしまい、それを銀行が弁償することになれば、大変なことだ。
連邦警察の銀行詐欺での立件が早かったこと・・・・異常に早い・・・・・早急に銀行被害を世論に訴えることで、銀行を守ろうという政治的な意図があるのではないか。私は、銀行を守るための政治的意図を感じた。
それで検察が異例の記者会見を行ったのだ。
水原氏の足枷をされた身柄拘束の光景をマスコミに公開したことも、検察の政治的な意図があるだろう。
トランプの身柄拘束の場面は絶対にマスコミに公開しない。トランプも身柄拘束されたから保釈されたのである。保釈は、身柄拘束からの解放である。
日本でも、電話での本人確認は問題だ。例えば、妻の不倫相手が夫になりすまして、クレジットカードの紛失届を出し、妻が郵送されたカードを受け取ることが可能だ。
日本であれば、胴元に対する損害賠償請求も可能だろう。日本であれば、裁判官は大谷氏に同情するが、アメリカでは、陪審員(民事陪審)が判断する。
2024年4月4日
落雷事故
4月3日に、宮崎県でサッカー中の落雷事故が起きた。
雷鳴や雷雲などの落雷の予兆がある場合には、管理者に損害賠償責任が生じるというのが判例だ。
今回は、その予兆がなかったが、落雷が予見できたかどうかが争点になる。落雷注意報は出ていたようだ。
予見できたかという議論は、禅問答に近い。
数年後に民事裁判になるだろう。なぜ数年後かといえば、日本では、すぐに裁判することはしないからだ。アメリカでは、事故の数週間後に裁判を起こすことがあるが、日本では、事故の検証や第三者委員会などが先行する。消滅時効が迫って訴訟提起する。山では、夏はたいてい落雷注意報が出ており、たいてい午後は積乱雲がある。それだけで落雷の予見可能性があるかどうか。山ではほとんどの場合に、落雷の予見可能性が認められ、限りになく無過失責任に近づくだろう。
学校事故でも、裁判所の考え方は、実態としては無過失責任に近づいている。防ぎようのない事故でも、過失があったとみなされる。これは、学校は安全でなければならないという社会的価値観を裁判所が重視するからであり、ある種の価値判断だ。日本はそういう社会であり、裁判所は逆らえない。
学校では無過失の補償制度が必要ではないか。労災補償のような制度だが、それでも学校の責任を追及する裁判がなくなることはないだろう。
2024年3月28日
アメリカでの橋梁事故・・・・救助活動打ち切り
3月26日に事故が起き、その夜、警備隊が救助活動を打ち切った。・・・・日本人から見ると、救助活動の打ち切りが早すぎると思うのではなかろうか。
一般に、公的な救助活動は、生存の可能性がなければ打ち切られる。
日本でも同じであり、冬山遭難では、警察、消防の捜索、救助活動は数日で打ち切られる。遭難対策協議会も警察に連動する。あとは、遭難者の家族や友人らが捜索を行うほかない。
救急車は、事故直後であれば搬送するが、死亡を確認した場合は、被害者(遺体)を搬送しない。遺体搬送は家族がマイカーか霊柩車で搬送する。タクシーも遺体搬送を拒否する。病院も遺体を病院者車で搬送してくれない。多くの場合、救助隊員が死亡を確認していないことにして救急車で搬送し、病院で死亡を確認する。
ただし、日本では、警察、消防は政治で動くので、御嶽山の噴火事故、自衛隊関係の海難事故などでは、政治的な判断から1年以上も捜索活動が続けられた。これは特別扱いである。1年後も生存の可能性があったということではない。
山岳事故でのこのような特別扱いは、ほとんどない。雪崩事故の場合は、警察が生存の可能性があることにして、長時間、捜索することがあるが、不公平感は否めない。
冷たい海水に落下すれば、数十分で死亡するので、アメリカの公的救助機関は法律に忠実に生存の可能性がなくなれば、あっさりと捜索を打ち切るようだ。
日本であれば、公的機関が数日間は捜索して「救助」し(救助活動なので、遺体発見とは発表できない)、病院に搬送して死亡を確認するだろう。
2024年3月20日
登山リーダーの責任・・・・オンライン講義
日本山岳スポーツクライミング協会・夏山上級リーダー講習会(関東地区)
実施日 2024年3月20,23,24日
2024年3月18日
北海道新聞の記事
3月12日の北海道新聞の羊蹄山雪崩事故に関する記事に、僕のコメントが掲載されている。
記事では、「事故防止を目的とした冬山の規制は国内外でほとんど例がない」というコメントに
なっているが、僕が述べたのは、法的な規制についてである。
法的規制ではなく、行政指導による規制は日本では多い。富士山の冬山登山の禁止などが、行政指導による冬山登山の禁止の例だ。しかし、冬山登山の法的な規制は、群馬県と富山県の登山条例くらいのものだろう。バクカントリースキーの法的な規制はほとんどないが、法行政指導による規制は多いかもしれない。
法的規制と行政指導を区別することが重要だが、これを混同する人が多い。
2024年3月13日
バックカントリースキーの規制
事故防止のためにバックカントリースキーを規制すべきだという声が一部にある。世界では、エリアを定めて環境保護のために許可制にする場合がある。
アメリカの富士山ことホイットニー山では1日の登山者が100人程度に制限されている。しかし、欧米では、環境保護のために登山を許可制にすることは多いが、事故防止のために規制することはほとんどない。バックカントリースキーの規制はほとんどない。
夏の富士山で事故防止のために登山を規制すべきだろうか。
富士山では環境保護のためび登山を規制する必要がある。
事故防止のために登山を規制できない理由
・規制するのは危険な行為である。包括的にすべて禁止することは過剰な規制であり、憲法に違反する。バックカントリースキーでは危険性の程度が地形や雪の状況、時期次第で変化する。固定的なものではない。降雪直後は危険でも、数日すれば雪が安定して危険でなくなる。2月は危険でも、3月は安全なコースがある。危険かどうかを誰が判定するのか。役所が判定するとすれば、役所に専門家を置かなければならない。事故防止のノウハウは役所にはない。アウトドア活動の素人の公務員では判断できない。
・役所が危険かどうかの判断をすることは危険である。これは、中国が危険な行為を取り締まることをイメージすればわかる。国家にとって不都合な行為を規制することになる。
・事故防止のために登山を規制しても、事故は減らない。富士山がその例だ。富士山では事故が増えている。
・効果のないことをするのは税金の無駄だ。規制をするには、役所の人件費がかかる。公務員のサービス残業で扱えば別だが。
・規制は、違反者に刑罰を課さなければ効果がない。危険な行為を処罰する国家は「危険国家」である。中国、ロシア、北朝鮮、戦前の日本がその例だ。
・日本では、行政指導としての禁止が多いが、これは、法的拘束力がなく無意味だ。アウトドア活動を禁止すると先進国と言えないので、それはできず、拘束力のない「禁止」をする。この禁止は国民には効果を持つが、対外的には、「日本は法的には国民のアウトドア活動を制限していません」と弁解できる代物であり、悪質である。日本の政治にはこのようなゴマカシ、いい加減さが多い。
・行政指導は欧米では稀であり、欧米人は行政指導としての禁止を理解できない。行政指導は、それに違反しても違法ではない。欧米人は、「できるのか、できないのかどちらなのか」と考える。行政指導は、法的には「できる」が世論から「禁止」だとして叩かれることを意味する。
・山岳スキーがオリンピック種目になったが、バックカントリースキー人口が増えれば、山岳スキー競技が強くなる。クライミング人口が増えれば、オリンピックのクライミング種目が強くなるのと同じだ。オリンピックでやたらとメダルをとりたがる日本人は、バックカントリースキーの規制ができないのではないか。
・バックカントリースキー事故で亡くなる人は多くない。年間、20人もいないのではないか。マスコミが大きく報道するので、j事故が多いと感じる人が多い。海難事故で年間700人くらい亡くなっているが、「海水浴を禁止しろ」と言う人は少ない。役所が努力しても海難事故がなくならない。事故防止のノウハウは役所にはない。
事故防止のためにできること
・行政ができることは、アウトドア活動の規制ではなく、警告表示、登山道の管理などである。アメリカやカナダでは、自然公園をフロントカントリーとバックカントリーに分け、前者はトレイル、標識などを整備し、後者は整備ではなく危険表示をする。カナダには、橋や標識が一切ない国立公園があり、危険だが、禁止しない。その代わり入山料100ドルを徴収し、入山者に約1時間の危険性の講義を行う。
・危険が生じれば、役所はトレイルをクローズするが、これは通行禁止ではない。欧米では、日本的な法的拘束力のない「禁止」はない。役所は危険情報を提供する。
・アウトドア団体や研究機関が、講習会、事故防止のノウハウ、研究活動、啓蒙活動を行っている。
2024年3月1日
ペットを食べたらどうなるか
神奈川県で、ウサギ30羽を捨てたことについて、動物愛護法違反が問題になっている。ペットを捨てることは犯罪である。ペットの虐待も犯罪である。
しかし、愛護動物を食べるために殺すことは、違法ではない。人間は家畜を殺して食べているからだ。
ペットは牛や羊とは違うと思うかもしれないが、韓国では犬を食用にしている。日本の韓国料理店で犬料理を出す店がある。
牛や馬、山羊をペットにする人もいる。
法的には、ペットと家畜の区別ができない。家畜でも愛着がわけばペットである。どちらも愛護動物と呼ばれる。ペットと家畜で差をつけることは、不公平である。家畜を愛護動物と呼ぶのはギマンではないか。
愛護動物は、殺すまでの間は愛護しなければならない。これもギマンだ。
食べるためには殺すほかない。虐待は違法だが、保健所でペットの殺処分している。殺処分は残虐ではないのか。
飼えなくなったペットは保健所で殺処分してもうか(ほとんどの保護犬が殺処分されている)、自分で食べるほかない。新たな飼い主を見つけるのはかなり難しい。
ペットを保健所に持っていくことを残酷だと感じる人が(殺処分されるので)、捨てるのではないか。しかし、これは生態系を壊したりするので、違法とするのだ。新たな飼い主を見つけることができなければ、殺処分して生態系を維持する。
イギリスでは役所がペットを殺処分することはないらしい。
人間はわがまなで残酷な生物だ。動物を殺して平気で食べるのだから。
法律はこのような人間の都合(文化とも呼ばれる)に基づいて作られる。
20240年3月1日
那須雪崩事故刑事裁判、求刑
2017年の那須雪崩事故の刑事裁判で、検察官から禁錮4年の求刑がなされた。
これを受けて判決が出される。
求刑3年は、執行猶予をつけてもよいという検察官の意思表示であり、求刑4年は検察官が実刑を求めることを意味する。
被告人らは無罪を主張している。
無罪判決は必ずマスコミ報道され、有罪判決の大半は報道されないので、しばしば、無罪判決が出るイメージがあるが、現実には無罪判決は数パーセントしかなく、稀である。
一般に、裁判官は、世論の動向に敏感であり、最近は、過失事故の厳罰化、処罰範囲拡大の傾向がある。
人間のミスをどこまで処罰するかという価値判断になる。
どのような判決が出ても、控訴がなされるだろう。
2024年2月27日
カスハラ・・・・何が問題
東京都がカスハラ条例を制定するようだ。
この問題は、クレーマーの客に対し、店員や店長がきちんと対応することが、まず、重要だ。
客のクーレムに店員が毅然と対処できるように経営者は店員教育をすべきだが、逆に経営者は、「お客様は神様」扱いとお辞儀の仕方などを教育する。これは経営者の管理責任の問題だ。
欧米であれば、客がクレームを言えば、店員が反論するだろう。そこで議論をすればよい。
客が暴言を言えば、店員は、「店から出て行ってください」と言えばよい。それで退去しなければ、不退去罪で現行犯逮捕できる。
それでおそらく9割のクレームに対処できるのではないか。
あとの1割は、客による暴力であり、これは110番通報するしかない。カウンターに防犯用のプラスチック板を設置してもよい。
日本では、客の脅迫行為があっても、110番通報しない。店の経営者がのように教育しているのだろう
「そこまではとれもできない」と言う人が多い。そこが問題であり、それができるように店は訓練を実施する必要がある。
根底に経済優先の日本の社会の体質の問題がある。「お客様は神様」扱いをしなければ、儲からないという考え方だ。
現実は、客はさまざまであり、当然、クレーマーや変質者がいる。それに対処するのがリスクマネジメントである。
「お客様は神様」扱いをして、店員が客から被害を受ければ、経営者は法的責任を問われる。
店員を守るのは、条例ではなく、まず、経営者でなければならない。
今後、グローバル化すれば、外国人客が増え、「お客様は神様」ではないことが、もっと明瞭になるだろう。
2024年2月25日
伊吹山での事故
伊吹山で落石による死亡事故が起きた。
これに関して、伊吹山は、「登山禁止」、「入山禁止」、「伊吹山は登山自粛」などの報道がなされた。
「登山禁止」、「入山禁止」、「登山自粛」、「登山道の通行禁止」、「登山道の閉鎖」は、意味が異なる。
「登山禁止」は、登山はダメだが、観光などは認められる。
「入山禁止」は、観光で進入するのもダメ
「登山自粛」は、あくまでお願い、行政指導であり、拘束力がなく、登山をしても違法ではない。
「登山道の通行禁止」は、登山道以外の場所であれば、登山が可能。冬は登山が可能。
「登山道の閉鎖」は、禁止ではない。
これらを区別しなければ、法治国家とは言えない。
法律的には、おそらく、登山道の通行の自粛、もしくは登山道の閉鎖ではないか。これは、行政指導。
また、雪が積もれば、登山道が埋没するので、閉鎖は無意味になる。
管理する側からすれば、やたらと禁止を使いたがる。禁止すれば、許可された行為だけができる。これは、人は生まれながらにして不自由であり、国民は、国家から、許可された行為だけができるという考え方であり、江戸時代はこのような支配体制だった。明治以降も、似たようなものであり、現在でも、実態はこれに近い。学校や、会社はこの考え方だ。長谷川恒男が、「学校は刑務所のようだった」と述べたのは、このような意味だろう。
2024年2月23日
外国人登山者の遭難
外国人登山者の遭難の報道が多い。
外国人登山者の遭難件数の正確な報道はないが、おそらく増えているのだろう。富士山登山や北海道でのバックカントリースキーで外国人の遭難事例が多いようだ。
このような遭難がある度に、日本的な非難がなされるが、それでは遭難は減らない。
外国人の観光客が急増しているが、外国人の観光客が増えれば登山者も増える。「外国人の観光客を増やしたいが、登山者は増えてほしくない」が自治体のホンネかもしれないが、それは無理である。富士山などでは観光客と登山者を区別できない。ニセコでも、外国人スキーヤーがコース外滑降をするのだ。コース外滑降を禁止しても、バックカントリースキーを法的に禁止できない。
バックカントリースキーを禁止することは登山を禁止することを意味し、登山を禁止すれば日本は先進国の仲間入りができなくなる。中国やロシアですら、登山を禁止していない。北朝鮮であれば、登山を簡単に禁止できる。
登山を禁止すれば、観光を禁止することになる。登山と観光は区別できない。これは、観光登山や、高尾山、富士山、尾瀬、阿蘇山、上高地などのハイカーを考えれば、理解できるだろう。高尾山を歩く人は観光客なのかハイカーなのか。ハイキングは登山の一形態である。
外国人の観光客が増えれば登山者も増える。登山者が増えれば、事故も増える。これは避けられない。
欧米では、山岳事故の救助活動は役所が行っても、、山岳事故の防止は役所の仕事ではなく、もっぱら民間団体が行う国が多いようだ。役所が登山届を受理しない国が多い。欧米では、登山届は家族や山岳会などに出すべきであり、役所に出すことはないようだ。なんで、役所が個人の行動のことまでいちいち心配してやらなければならないのか?余計なお節介だ、という考え方。 日本とは発想が違うのだろう。
2024年2月22日
被災地でのボランティア活動
能登地震被災地で、重機によるボランティア活動が重宝している。ただし、重機での操作には資格が必要であり、事故が起きると業務上過失致死傷罪になるので、注意がいる。ボランティア活動でも重機の操作は「業務」である。これは、ボランティアで自動車を運転するのと同じだ。自動車の運転もボランティア活動であっても「業務」である。
また、ボランティア活動であっても民事上の注意義務がある。重機での操作は危険であり、相応の注意義務が生じる。医師などのボランティア活動も同じ。詳細は、拙著、「ボランティア活動の責任」(共栄書房)参照。
ボランティア活動は、労災などの保障はないが、責任を伴うということだ。被災地でのボランティア活動を労災などの保障の対象とするという政策もありうるが、日本はそうしていない。
被災地での重機使用は、無償であっても、ボランティアではなく、公的団体等がオペレーターを雇用して使用すべきだ。オペレーターは専門職の危険作業であり、給料の支払いがなされ。雇用保険が適用される。公的団体等は無報酬。
2024年2月21日
安芸高田市「恫喝訴訟」・・・市長の専決処分を議会が承認せず
これについて、市長を支持するネットの書き込みが多い。それらのほとんどは安芸高田市民ではなく、市外居住者の書き込みである。この裁判で市長を応援する安芸高田市民はあまりいない。
この裁判では、一審で安芸高田市が33万円の支払を命じられた。この33万円は市長が払うのではなく、市が払う。この裁判でおそらく33万円以上の弁護士費用がかかっており、控訴すればさらに弁護士費用がかかる。弁護士用だけでなく、裁判するためには公務員が多くの時間をかけて裁判の準備をする。その労力を人件費に換算する必要がある(残業をすれば人件費がわかりやすい)。
それらはすべて税金から払う。市長がポケットマネーで払うわけではない。
税金をどう使うかは議会が決める。
市長を応援する市外居住者は、「もっと市の税金を使って裁判を続けろ」と主張するが、市外に住んでいるからいい加減なことが言える。
たった33万円を争う裁判で、市長のメンツのために、これ以上無駄な税金を使うべきではない・・・・これが安芸高田市民である私の意見だ。
2024年2月18日
司法改革で必要なこと
国民の8割が利用できる弁護士費用の分割払制度。日本では弁護士費用にクレジットすら使えない。これは日弁連の策略か?
所得の少ない人は返還免除の司法支援制度が必要だ。
2024年2月17日
スポーツ推薦入学は不公平か
佐々木麟太郎がアメリカの大学にスポーツ推薦で入学する。約5000万円の学費もタダになるらしい。アメリカの大学には、規定に基づくコネ入学は当たり前であり、著名人の子弟もこれで入学する。
日本では、コネ入学は裏口入学と呼ばれるが、アメリカでは正面からコネ入学する。
不合理な基準で不合格にすることは平等原則に反するが、不合理な基準でコネ入学させても違法ではない。コネで入学できない人は、もともと試験で合格していなければ、不利益を受けたとは言えないからだ。日本で多いコネ入学は違法ではない。天皇の親族を特別に入学させても違法ではない。
しかし、違法ではなくても、コネ入学は不公平である。ただし、不公平であれば違法だという法律になっていないので、世の中に不公平なことはいくらでもある。もとも市場経済や競争社会は不公平だ。
公平とは何かは難しい問題だ。大リーグの選手の高額な年俸は公平か。会社や役所の人事は公平か。今の税率は公平か。美人がモテるのは公平か。体重150キロの力士と力士の対戦は公平か。優秀な人とそうではない人が、同じテストを受けることが公平か。健常者と知的障害者が同じ授業を受けることが公平か。
公平かどうかを決めるのは価値観による。
柔道やレスリングなどでは、体重別にするのが公平だとされ、相撲はそうではない。
芸能人の入学は不公平ではないが、受験生の美醜で合否を判定するのは不公平とされる。
会社経営者の子弟の採用は不公平ではないが、一般人のコネ採用は不公平と考える人が多い。しかし、中小企業ではコネ採用が多い。
格差社会で落ちこぼれると生きていけない社会は不公平だろう。
不公平かどうかを議論しても、違法でなければ意味がない。違法でなければ、それを行うことが可能だからだ。
それでアメリカでは、不公平かどうかではなく、違法かどうかが議論される。
天皇の親族を東大に特別に入学させても違法ではないので、不公平かどうかを議論しても仕方ない。
佐々木麟太郎が大学に推薦で入学することが不公平かどうかを議論しても仕方ない。
しかし、日本の世論は、違法かどうかではなく、不公平かどうかを議論する。これは、おそらく、日本の社会が、法律ではなく、世論で動く社会からだろう。
競争社会では格差が生じるのは当たり前だ。差が生じない競争は、ない。競争社会では格差は違法ではない。貧富の差も違法ではない。
しかし、社会的格差の是正を法律で規定すれば、格差は違法になる。格差是正のためにどのような法律を作るかを議論する必要がある。例えば、最低賃金の引き上げ、社会保障、税制、返還不要の奨学金、返還不要の司法支援制度など。
2024年2月5日
ロシア、中国の侵略的体質
ロシアと中国には侵略国家としての体質がある。
この点を、両国が社会主義国だったからだという意見があるが、そうではない。
ロシアと中国は、社会主義国になる、はるか以前から、侵略的な体質があった。
中国は漢や唐の時代から、西域や南海を支配しようとしてきた。
ロシアも同じである。第一次世界大戦前のロシアの侵略国家としての様子は、「チボー家の人々」などに描かれている。当時のロシアは、ロシア革命以前であり、皇帝が支配していた。
ロシアと中国の歴史は、侵略の歴史だ。両国とも遅れた国だったので、国民の不満が大きく、それが社会主革命につながった。社会主義革命により生産手段を国有化し、国家が大きな力を持った。マルクスが考えた「国家の消滅」どころか、ロシアや中国では国家の力がむしろ強化された。
欧米の市民革命の歴史は、国家の力を制限することをめざしたが、国外での侵略的行動を抑えることはない。この点は、市民革命後の欧米が、国外では、こぞって植民地を拡大してきた歴史を見れば明らかだ。
現在のロシアは資本主義国である。
中国は社会主義国であり、土地が私有化されていないが、生産手段の多くが私有化されている。資本主義と社会主義の違いは、生産手段の私有化を認めるかどうかである。社会主義=生産手段の国有化ではない。
中国はかなり市場経済化しているが、政治的民主主義がない。
ロシアは資本主義国であるが、政治的民主主義がない。
資本主義、市場経済=民主主義ではない。
政治的民主主義は、経済体制とは別の問題である。
対外的な覇権主義も経済体制と別である。
自由主義経済は、しばしば、新たな市場を求めて対外的な侵略行動をもたらす。
国際的な場面で侵略行動(戦争)を阻止するには、カントが述べたように、国際的な平和機関が必要だ。
2024年2月2日
「登山道の管理や法的責任」講演
福島県、郡山市
環境省ロシアと中国のロシアと中国のロシアと中国
郡山市は遠方なので、2泊3日の旅行になった。
この日の郡山は非常に寒かったが、参加者は約130人。
参加者は、国、市町村、県、観光協会、山小屋などの関係者、山岳ガイドなど。
登山道の管理の問題に対する関心の高さがよくわかる。
2024年1月28日
派閥解消は茶番
自民党に派閥解消の動きがあるが、これは無意味だ。
憲法上、結社の自由があるので、派閥を解消しても、それに代わるものを作ることができる。
2人集まれば、グループを結成できる。それを勉強会、政策集団、グループ、派閥、党内政党と呼ぶかどうかは、言葉の問題でしかない。
グループ結成を禁止できない。
政党結成を禁止できない。党内政党(派閥のこと)を禁止できない。
政治資金の使途の公開とすべての団体献金の禁止・・・・これが必要だ。
2024年1月
キリマンジャロ登山
年末年始、キリマンジャロ(5895m)に登った。
18年前頃から、高校の同級生でキリマンジャロに登る計画があった。
当初、60歳になって行く計画だったが、雇用延長などで実現しなかった。
次に、65歳になれば、ヒマになるのではないかと思われたが、コロナの影響で実現しなかった。
そして、68歳の今、実現した。
外国の高山に登りたいという人は多いが、たいてい願望だけで終わる。願望を実現するには、意欲が必要だ。
11日間の休暇をとることは、要職にあるサラリーマンには難しい。ようやく仕事から解放されると、年齢的に、体力、気力が衰えていることが多い。
しかし、今回、これが実現したのは、意欲が勝ったからだろう。
キリマンジャロは歩いて登ることができる山であり、特別な技術はいらない。日本国内で15キロくらいの荷物を背負って数日間の縦走登山をしている人には、キリマンジャロは難しい山ではない。ダイアモックスを飲めば、高度障害もほとんど出ないだろう。この日は、キリマンジャロの稜線にけっこう雪があったが、通常はキリマンジャロの稜線に雪はない。
この日の行動時間は、午後11時出発で、約17時間だった。夜中、降雪の中を行動した。