三上祐一の俳優としての経歴と著作 | 三上祐一のブログ

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 独自の日本大改革案を掲げる三上祐一のブログです。 なお私はこのブログの著作の一部がウィキペディアの「三上祐一」の項に投稿されることを認める。 http://yuusukeueno.blog40.fc2.com/

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 三上 祐一(みかみ ゆういち、本名:鶴見祐一、1969年12月10日-)は、日本の俳優。中学三年生のときに『台風クラブ』でデビュー。同作では兄で俳優の鶴見辰吾も出演している。東京都港区北青山出身で、原宿幼稚園、港区立青山小学校、練馬区立下石神井小学校、杉並区立井草中学校、東京都立広尾高等学校、早稲田大学商学部を経てホリプロに所属していた。

 三上祐一の父親は早稲田高等学院出身である。

 三上祐一は、父親が早稲田大学政治経済学部政治学科出身であり、父親の背中を見て、父親を非常に憧れていたために、父親に追いつくためには、まずは、早稲田大学を克服しなければならないと考え、16歳の頃、一時俳優への道を断念し、学業を優先した。東大に入りたいなどとは一度も思ったことが無い。広尾高校では、Kサクが東大に入る奴はキチガイだと言っていた、三上はそれを真に受けた。だけど、三上は大物になるためには、小学校・中学校は公立に行くべきである、とも思っていた。

 三上は台風クラブでデビューを飾ったのであるが、「台風クラブ」では、最終的には自殺し、暗い役のイメージが付いたことに悩んだ。三上本人は、自分自身は、中学三年生の段階で大人になることを否定し自殺するような、そんなつまらない人間ではない、という強い憤りの気持ちがあった。そこで三上は、次に出演したTBSのドラマ、「親にはナイショで…」では、当時の日本において、どのような若者像が人々に受けるであろうかを考え、少々生意気な役を演じている、本人は、「親にはナイショで…」で演じた人間とは、まるで別人の物分りの良い面白い人間である。

 三上祐一は、山田太一脚本、南野陽子主演のフジテレビのドラマ「時にはいっしょに」のオーディションを受けた。南野陽子の弟役ということだった。ほとんど三上に決まっていたようなものであったと思う。そのオーディションのときに、三上には今いる、都立広尾高校での皆との毎日を大切にしたい、という思いがあった。大物になるためには、俳優というある意味特異な経験をするよりも、絶対に高校時代の楽しい日常生活の経験が不可欠である、と思っていたのだ。オーディションでは、山田太一氏に「ドラマに出たいのか出たくないか」を聞かれた、三上は「あまり出たくない」と信じられないことをぬけぬけと言い放った。オーディションでは見事に落ちた。三上は内心、それでいい、と思った。三上は、朝は恵比寿から通学し、帰りは、皆で渋谷から帰り、皆で良く渋谷で遊んだ、氷川神社を通り、途中に山パンというパン屋があって、五月みどりの家があって、大きな鳥居があってそれを毎日通り抜けて帰った広尾高校での楽しかった思い出をいつまでも忘れない、それは、三上にとって、ドラマに出ることよりもかけがえの無い出来事だった。8人のグループと7人のグループがあって三上はどちらにも所属した。そして、三上が、高校二年の時の三宅島行きの人事を決めた。三上は、クラスで顔が良くて女受けが良くて強そうな連中を選んだ、その節については、K一郎・M田・T中・Y田・YS田三号・O川・KR林、選外にしてごめんな~、皆の代表として絶対に頑張るから許しておくれ!

 他にもスティーブン・スピルバーグ氏から、依頼があったとの噂もあったが、当時ホリプロで三上祐一を預かっていた、マネージャーの山田滋敏氏が学業優先を理由に断ったようだった。なんということを!スティーブン・スピルバーグ級だったら、出たい、という思いもあったのに!

 その後、三上は18歳のときに日本テレビの「風少女」というドラマで、後藤久美子演じる人物の兄、津川雅彦演じる人物の息子、野村宏伸演じる人物の弟役を演じるが、大学受験で、二浪であるにもかかわらず子持ちの女性にうつつを抜かす役であり、三上としては、そのような自分であったら絶対といっていいほどにありえない役を、三上が思うできる限り人間性が高い人間として演じた、そこでは純粋な分からず屋を演じるということしかなかった。そこで三上は、そのような演技に甘んじた。しかし三上は、このドラマにおいて、役者業というものは夢も希望も無いものであることを痛感する。そして早稲田進学の意志を固める、客観的に言って、早稲田に行ったからといって何がある、というわけでもないのに。 「風少女」クランク・アップ後、三上祐一は、津川雅彦氏に食事にまぬかれて、後藤久美子氏と会食をした。そのときに、三上は津川雅彦氏に「俳優をやりたいのかやりたくないのか」を聞かれて「早稲田に行きたい」と答えた。

 そのようにして、三上祐一は、ことごとく、俳優としての成功のチャンスを逃す。ただ、一つの学歴というものを手に入れるために・・・。

 その後、早稲田大学商学部に入学する。約1年3ヶ月の一日約12時間の勉強で、偏差値42を70辺りまで上げたことが三上の自慢であった、クラスメイトの一人が、予備校の模擬テストを受けるときに、三上が第一志望を早稲田大学商学部に設定したことを「受かるわけが無いと」あざ笑った。三上が第一志望を早稲田大学商学部に設定したことには訳があった、商学部には漢文が出ないからである、基本的に勉強する時間が無い三上は、漢文の勉強を放棄し、その時間を他の教科の勉強にまわさざるを得なかった。三上の早稲田大学商学部への入学には学校の誰もが驚いた。はっきり言って、奇跡に等しかった。三上は合格の掲示を見に行かなかった、その番号が無さそうで。そこで、合格通知が届くのを家で待った。郵便屋さんがチャイムを鳴らした。そして、郵便屋さんが玄関に来た。持っていた書類はA4サイズの大きなものだった!「えっ!これってもしかして・・・もしかして!合格?!」そして、大きな書類を開けた、入学手続きの書類であった!「YATTA!YATTA!」彼は当時、新宿区の落合に住んでいた、東西線で隣の隣に早稲田があった。彼は今でも覚えている、受験番号7003番、自転車で(当時は兄よりも彼の方が自転車を愛用していた)早稲田大学まで見に行った。夜、確かにその番号はあった!早稲田大学商学部の合格書類を受け取った瞬間が、三上にとって、人生で一番うれしい瞬間であった。そして三上をあざ笑ったクラスメイトは、希望の大学に入学できずに、三上の成功を見て、一通だけあった合格書類を燃やし、二浪の意志を固める。彼はその後明治大学法学部に入学しTBSに入社した。三上の早稲田大学商学部での学籍番号はF90834。

 大学に受かったことは、三上の高校時代の友達のF波に電話で伝えた、F波は早稲田大学文学部の塀の隣に住んでいたからだった、これからお世話になるし。F波が原チャリで落合の三上の家に駆けつけて、昼に2人で、近所のスカイラークでご飯食べたっけな。

 三上には大学入学には一つの思い入れがあった、三上は大学入学など無意味なものである、と考えていたが、それについて語るには、受かった者にしか資格が無いと考えていた、それについて語れない人生は、三上にとっては我慢できることではなかった。だから希望の大学に受かり、将来は馬鹿の代弁をしようと考えていた。

 大学卒業後は、ホリプロに所属していたが、ぱっとせず、三年で俳優を止める。ホリプロの津嶋敬介現プロダクション一部部長は、三上がプロダクション所属当時、彼に対して、「織田裕二になれ!」と、アドバイスするが、三上は、それは自分が目指している方向性では無い、と考え、彼の考える素晴らしい人間を演じ続ける。しかし結局、三上は、俳優としては評価を得ること無く、俳優人生を終える。

 津嶋は優香をスカウトしたホリプロの敏腕プロデューサーとして名が通っているタレントのマネージャーであるが、三上にとっては知れたもの、という思いがある。三上は津嶋には言いたいことがあった、俳優としての価値は、「馬鹿なのに早稲田大学に行った」ということだと、津嶋は三上が元々頭のいい奴だと勝手に決め付けていた。彼が広尾高校でどれだけ勉強せずに、週の半分ぐらいを小林大吾の家に泊まりに行って、どれだけ渋谷のディスコ“Lスカーラ”と“Pディアム”と“O将”・“SZめのお宿”などの居酒屋に行きまくったかを津嶋は知らない。広尾高校では、高校1年のときに、渋谷でクラスの飲み会が普通にあった、当時はそういうご時勢だった。

 三上の首はホリプロにおける会議で決まった。そのときに、斉藤由貴の実弟である斉藤隆治も辞めさせられることに決まった。三上と斉藤隆治は二人とも前プロダクション一部部長で左遷された山田滋敏氏が育てたタレントであるが、左遷されたことをキッカケに、二人を斬ることに決定した様である。山田滋敏氏は顔のつくりは二の次で内面性を重視していた(斉藤隆治の顔は良いが)、一方で津嶋は顔のつくりばかりを重視し、内面性では織田裕二を最高の俳優であると考えていた。三上は自分と織田裕二を客観的にとらえて、自分の方が“世の役に立つ発案や意見を創出できる”というところで人間的には勝っていると考えていた、織田裕二の陸上中継での情熱的なレポートは記憶に新しいが、しかし一般的には、俳優としては三上よりも織田裕二の方が評価されるのであろう。三上はホリプロ近くの叙々苑でそれを鈴木基之氏・津嶋に伝えられる。三上の担当であったY幡も会社を首になる。三上の首を言い出したのが、Y幡か津嶋かN村かは知らない。会社がY幡に三上の首の罪を着せ、辞めさせたのかどうかもわからない。三上はそこで何としてでも、首にならずに乗り切る工作を行った。話し合いで3時間ぐらいねばった、津嶋は断固切るという姿勢を一向に変えなかったが、三上は津嶋の気持ちも充分に理解できる、三上の復帰大一作で津嶋は、関西テレビで“切り裂きジャックを待ちながら(有栖川有栖 原作)”というテレビドラマで今思えば、決め台詞連呼の、名探偵役というおいしい役を準備してくれたのに、彼はセリフが長すぎてセリフをうる覚えという、大失態をおかしてしまったからである、当時の三上は、有栖川有栖氏の脚本のセリフを見て、こんなことを言う奴、現実的にいたら、超かっこ悪いと内心思い、こんな現実的にはまるでありえないであろうセリフのやり取りが続く作品に、力を入れて演じる必要は無いと判断し、セリフを覚えるのをそぞろに済ませてしまったのである。

 有栖川有栖氏の作品における人物の推理の様子は、現実の人間の推理の様子とはまるでかけ離れている、そこにおける主人公の推理におけるセリフは、作品におけるストーリー展開のために作られた虚構であり、現実の推理ができる人間性の機微を逸脱している、と三上は思っていた。

 そして三上の復帰二作品目の、元暴走族で予備校教師になった吉野敬介氏の体験談であり、錦織一清氏主演のVシネマ「だから、お前は落ちるんだ、やれ」では、錦織一清氏演じる人物の親友という、これまたおいしい役をもらったのであるが、高校時代の最低の男、Y田に左眼をおもいっきり殴られ、眼帯をして出演という、これまた大失態を演じてしまったのである。三上は、Y田を最低の男と思っている。はっきり言えば怨んでいる。三上は、服装をまるで気にかけず、─当時広尾高校は私服で、三上の仲間であるためには最低限、オシャレに決めていることが必須条件であった─そこでK一郎やM田やT中やY田は三上の第二派閥であった。第二派閥であるということは、要するに、三上は気分によって、授業中に─その時間は、音楽タイムであり、雑談の時間であり、席は勝手に好き勝手に移動していた─F沢・ENK・K林D吾・F波・A蘇・N本・Hろし達と一緒にいるか、K一郎やM田やT中やY田達と一緒にいるかを決めていたが、二番目に一緒にいる仲間ということである。─母親が多慶屋で買ってきた安売りのシャツに甘んじていたY田の服装を見て、「いい服着てんじゃん」と褒めた。その言葉にプライドを逆撫でされて、内心腹を立てていたのであろう、Y田は酔っ払うと、「いいよな、つるちゃんは(本名:鶴見)、かっこ良くて」みたいなことを執拗に言い始めて、それが三上の我慢の限界に達した。三上とY田は二子玉川のにんにく屋で一次会を行い、その後二人で、カラオケBOXに行った。三上はおもむろに演奏曲の載っているメニューをY田の顔に放りつけた、それでいざこざが始まった、三上はY田と言い合いながらも、勘定を済ませ、勢い余って店を出た、するとY田は路上で「さあ!殴れ殴れ殴れ!」と三上に迫った。三上は手加減して微力でY田の顔を一発軽く殴った。するとY田は三上に更に強く殴ることを要求した。そこで三上は言われる通りに、さらに軽くではあるが前よりも少しだけ強く彼の頬をパンチした、すると、Y田はさらに強く殴ることを要求した、そこで今までよりも少し強めにではあるがもちろん手加減して、Y田の頬をパンチした。するとY田から思いっきり本気のパンチが繰り出され、三上は左目を殴られ負傷したのである、三上は『殴り返してくるならば、殴らなかったのに』と思った、その後三上は本気で怒り、Y田に路上で三度背負い投げを食らわせた。Y田の戦意は消沈していた。

 ちなみに三上はK一郎を猿扱いしていて、K一郎の膝に足の裏を乗せるだのしていた、もちろん冗談半分でであるが。

 三上は思いっきり、目を内出血させた、それが、その作品での三上の最初の出演日の一週間前であった、そして、撮影日がやってきた、左目の内出血は一向に直らなかった。当時三上は三上の担当マネージャーである津嶋に、自転車に乗っていて電柱から出ている足場ボルトにぶつけた、と苦しい嘘をつかねばならなかった。そこで、眼帯をしてVシネマに登場しているから、興味のある人はそれを見て欲しい。三上は撮影スタッフへの、済まなかった、という気持ちで、遠慮せざるをえなくなり、そこで意気消沈し、思いっきり彼らしい演技は行えない状況に陥らされてしまった。

 三上が37歳ぐらいのとき、Y田と二人で飲んだとき、三上がY田を駅まで送る途中でY田が三上に切り出した話題は「SEXってどうしてる」ということだった。そこで三上はSEXについては我慢できる理由の素晴らしい思い出を教えてやった、Y田はその特別な話を聞いてうんともすんとも言わなかった、Y田は更にそこいら辺の親父風情に成り下がっていた。三上はたまにY田を思い出しては「Yコウがよぅ!」と怒りでつい口走ってしまう。Y田の父親は東大出身である。Y田は高校時代、サッカー部のゴールキーパーをやっていたが、プレイに実直すぎて、コミニュケーション能力が足りなかったのであろう、そこで多分、先輩に乗りが悪い部分が嫌悪されて、実は能力としてはE組のH林よりも上であったのに、レギュラーをはずされたのであろうと思う、Y田は本気でサッカーに打ち込んでいたから、そのショックは相当に重かったのであろう、その先輩の方針もどうかとも思うが、Y田はその後YAMAHA音楽学校に通い出し、ドラムの練習を必死にやっていた。高校三年のときにF組で、当時クラス内で全ての人事権を握っていた三上は、学園祭でバンドをやった、そのときに演奏したバンドの名前が「AREX」であり、それを名々したのは、三上の永遠の親友でありライバルでもあり、三上の早稲田大学商学部入学に影響され、二浪を決定し、明治大学法学部に入学し、後々にTBSに就職する、ラグビー部のフルバックで、体育教師K澤を尊敬していたA蘇であった、A蘇は色が黒かったので、クラス内で、F沢やENKやD吾やN本やF波に、黒人と言われていた、多分「AREX」というバンド名はバン・ヘーレンのドラマーの名前であるアレックス・バンヘーレンから取ったのであろう、三上のバンドにはドラマーがいなく、元1年A組で三上と同じクラスで、3年時に隣のクラスであった、わりと乗りがおとなしめの女子M下さんに頼んだことから由来しているのであろう。三上は、ブルース・スプリング・スティーンの「BORN IN THE USA」とブルースのもう一曲を最初の二曲で演奏し、三上はブルースよろしく吼えまくる、という、かなり自己中なことを行っていた。それとバン・ヘーレンの曲をやった、A蘇はブルース・スプリング・スティーンの「BORN IN THE USA」は許せないが、バン・ヘーレンの曲が4曲入っている、ということで納得したのであろうと思う。三上とA蘇は洋楽好きという共通点があった、クラスでは邦楽好きと洋楽好きに分かれていて、邦楽好きの奴らはBOOWYを聞いていた。A蘇がベースで、B組のN宮がギターで、キーボードがYS田(女子)で、M下さんがドラムだった。ちなみにN宮は学園内で一番ギターの演奏がうまい男で、その後スタジオ・ミュージシャンになっている。当時の学内における三上は狂っていたと言っていい、学校には校則違反であるバイクで乗り付け、いつも何かを絶叫するなり異常行動ばかりを繰り返していた。そんな乗りの中で、三上は高校一年時に「親にはナイショで…」というTBSドラマに出演していたのであるが、そのテレビドラマに影響され、学内で目立っていた三上に、三上達がY田の家に集まった際に乗りで「つきあっちゃおうよ」と告白した元1年A組で三上と同じクラスでありその後2・3年はB組のYS田は、三上の理解しがたい行動と自己中に嫌気がさしたのであろう、阿蘇に、「バンド辞めない?」と手紙を送っていた。ちなみに三上の大親友であったK林D吾はYS田に告白するが振られるが、三上の夜遊びに年中付き合わされる羽目に会う。三上は、なんとかバンド解散の危機を乗り越えバンドを存続させるが、そのときにY田は、もしかしたら、「AREX」のドラマーになりたかった、という欲求があって、YAMAHA音楽学校でドラムを習い、アピールを続けていたのかもしれない、Y田のアピールに気付かなかった三上は当時を振り返り、もしそうだったとしたならばY田に悪いことしたなあ、と思っている。Y田はその後、二浪し、父親の出身校である東大を目指すが挫折する。そんなY田は、「大学って、就職するときは必要だけど、それ過ぎちゃえば、どうでもいいことだよね」と、自分の挫折を擁護するような論理を展開してたっけ。

 ~叙々苑での三上と鈴木基之氏と津嶋とのやりとりの続き~そして三上が最終的に言ったのが、「母が悲しむから、辞めたくない」ということだった、そこで三上は必死に涙を流した、自然と流れた、ということもあった。そこで津嶋さんが彼に用意してくれていたのが、ホリプロの一員としてこれから一緒に働く道であった。しかし、大物になる野望を抱いていた三上は、その後ホリプロの一マネージャーとして働くことは、まるで考えられないことであった、三上は即座に拒絶した。そこで三上は粘ったものの、三上をホリプロでは俳優として扱うことはできず、最終的には首ということだった。ちなみにこのときに三上は、「じゃあなんで兄はいいんだ」という内容のことを聞くが、津嶋は「あの人はすごい」ということだった、三上は津嶋には言いたいことがあった、すごいと言うならばもっと兄のことをもっと重視してやれ、と、三上は今の兄の扱いはあまりに軽すぎるだろう、と思っていた。津嶋はこのときに三上に対して「顔が普通だ」ということもはっきりと伝えた。

叙々苑から出て、三上は鈴木基之氏と津嶋と、三上が目黒駅に向かう道と鈴木基之氏と津嶋がホリプロに向かう道の分岐点で別れることになった。

「それでは・・・」

すると鈴木基之氏は別れ際に三上に言った。

「母親を思う気持ちがあるというのはいい、今後又やりたくなったら私のところに来なさい」と。

 三上の作戦は奏功した様であった。鈴木基之氏は今でも、そう言ったことを覚えているであろうか?そしてその発言は期限付きのことであったのであろうか?三上には今ならば言えることがあった、味のある演技ができる自信がある、ということを、しかし、彼にはその資格は一切無かった、なぜならば、俳優業を本気でやりたい、という気持ちはさらさら無く、執筆家として頑張る所存であったからである。

 そして、三上は、その後に鈴木基之氏のところへは行かずに、安易にフロムAで見つけた恵比寿にあるSE会社に勤めることにした。そしてその後に彼は最悪の人生の日々を送ることになる。

 三上祐一は元々執筆家を目指していた。三上は初志を貫徹し、現在は執筆業に勤しむ。「優彩(ユウサイ)式魔法の話術 思考法 (TRM出版)」の著者名は“本間勇介”であるが、それは三上祐一本人が執筆したものである。 俳優をやっていた頃に、神立高原スキー場でパトロールを4年やっていた。又、多くのアルバイト経験を持つ。小中学生の頃の夏休みは親戚の家のある石川県金沢市に一ヶ月泊まりに行ったりしていた。都会と郊外と地方都市をよく知る。

 三上は他に、音楽と特許事業とプログラミングにも精通している。作曲は60曲程のストックがあり、現在特許出願中で使える物権は4件である。プログラミングでは、“e-BANK銀行”を使い、ネット上で現金のやりとりをその場で行うことができる“店長代理”というシステムを開発している。特技はピアノ。

 三上祐一は現在は主に執筆とコメンテーターを行っている。
== 執筆作品 ==
* 世界で一番雪が降り積もる場所で2 (2004年)
* 高校時代連想記 (2005年)
* 極東文明日本分派における正義の哲学 ニーチェ『善悪の彼岸』に対する連想と解答(哲学書)(2006年)
* Ζψ・21世紀生活革命事典 (2007年)
* 優彩(ユウサイ)式魔法の話術 思考法(哲学書)(2008年)
* 5ロッカーズ(小説)(2008年)
* 裕次かく語りき(哲学的小説)(2009年)
* 6ロッカーズ(鎮魂歌は歌わない)
* リベラル・クイーン(小説)(2010年)
* 腐った太陽
* 言えたなら…
* 世界で一番雪が降り積もる場所で1
* 世界大改革~AFRICAの真の独立を願い(歴史小説)(2004年~2007年)
* 三上祐一流大改訂版ブッダのことば(2010年)
* 優亨(ユウリョウ)~ニーチェ「人間的、あまりに人間的(自由精神のための書)Ⅰ」から 日本発斬新有益オリジナル思想(利己主義と道徳の合体の完成)
* 日本大改革案
* 美女執筆家エリカと万年貧乏作家勇介
* 論語革命
* 地方中学校の実情(1985年杉並区立井口中学校辺りに起きた、内部抗争など)、我々の地方分権体制は正確に守られている
* 「Πφ」

 2011年現在、「世界の戦争は思想に始まり思想に終わる」、「世界大改革Ⅱ~アフリカにおける日本の立場は、郷にいらずんば郷に従え~売国奴成敗~アラブの民主化・アラブは反米を求めている~文化において、決して欧米の二の轍は踏まじ~日本は猿真似国家で終わる無かれ、そして日本が世界で真に一流国として認められる日まで~2005年から2011年を振り返りつつ未来予想」を執筆中。

 2004年から執筆を始め2011年までに、現在執筆中の2作品を含め、全21タイトルを執筆している。

 三上の文章の一つ一つは三上が編み出した多岐に渡る新しい哲学・理念・法則に則って生み出されていて、およそ間違っている偏っているということからはかけ離れている、と自ら語っている。しかし三上は、常に省みる作業を怠っていない、その作業を実行すること自体が、およそ間違っている、という状況からかけはなれていることを可能にするからである。三上は気付いた時点で、自身の考えに過ちがあった場合は、常に更新していくことを心がけている、それは一貫性の欠如である、という批判もあるであろうが、彼はその状況を受け入れることは、一貫性を保持することばかりに心血をそそぎ、無謬性の害悪に陥っている状況よりもましとした。

 三上は常識は持ち合わせている、しかし多くの場において、常識を用いることをできる限り避け、あらゆる例外を考え付く限り、考慮したものとなっており、三上の執筆作品は、一つ一つの文章は、時代が変遷してもブレることがない、という水準に達している、と三上は豪語する。しかし必要なときには常識を用いることは、絶対に忘れてはならないことのひとつであると三上は踏まえている。三上は三上が執筆したことに、異論反論がある人が存在する場合は、それら全ての意見を受け入れて、それらの人々に納得が行く説明を行うことにしている、そしてそれらの意見を参考にして、自分が間違っている考えがあれば常に改めていくことにしている。そしてどんなことも言葉で解決可能であるというスタイルを常に維持し続けている。しかし言葉は万能ではない、ということも常に意識している。

 三上は、生後から28歳までの駆け抜けた、三上いわく誰にでも自慢できる、いくつもの大切な経験の事実を元に、それにある程度の想像上の話を盛り込み小説を作る、であるから、ある程度までは、私小説である性格から抜け切れず、ある程度は創作が加えられたものである。三上は、ジャンルでくくれば私小説家に分類されるであろう。それと、世界を代表する有名な思想書を元に、それら(例えば“ブッダのことば”やニーチェの“善悪の彼岸”や“人間的、あまりに人間的”や最近では、勝間和代氏の“やればできる”などを元ねたにして)に対して、いわば自分の考えの批判的要素を入れた、大きく分ければ批判書に分類される思想書の作成を行っている。

 現在は他に、YOUTUBEにおいて、主に政治に対するコメントを行っている。
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== 外部リンク ==
* [http://yuusukeueno.blog40.fc2.com/blog-entry-6.html 三上祐一執筆コレクション]
* [http://ameblo.jp/trm7/ アメーバブログ]
* [http://www.youtube.com/user/trm0593#p/a YouTube 三上祐一チャンネル]

== 過去に出演した作品 ==
* [[台風クラブ]]([[1985年]][[8月31日]])…三上恭一役
* [[親にはナイショで…]]([[1986年]][[1月]])…木田晶役
* [[パパーミントエイジ]]
* [[風少女]]([[1988年]])…後藤久美子の兄役
* [[櫻の園]]([[1990年]][[11月3日]])…島田祐介役
* [[くれないものがたり]]([[1991年]])
* [[だからおまえは落ちるんだ、やれ!]]([[1994年]][[12月22日]])
* [[切り裂きジャックを待ちながら]](有栖川有栖 原作)
* [[時よとまれ]](矢沢永吉 主演)
* XX ダブルエックス 美しき獲物
* [[対極の天]]
* [[お日柄もよくご愁傷さまで]]
* [[ドーベルマン刑事]]([[1996年]][[9月13日]])[http://www.jmdb.ne.jp/person/p0138700.htm 三上祐一]
== 脚注 ==
{{actor-stub}}{{デフォルトソート:みかみ ゆういち}}[[Category:日本の俳優]][[Category:1969年生]]
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