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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第八章 『ヴィンセント・ヴォラキア』

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第八章59 『スピンクス』



 ――スピンクスは、『強欲の魔女』の不老不死研究の失敗作だ。


『聖域』という箱庭を作り出すための核となり、その身を捧げた少女――リューズ・メイエルの肉体を基礎に、精霊と同じ仕組みでマナ体を構築した複製体。

 その複製体の虚ろな命に、すでにある魂を癒着させることができれば、魂の複製という疑似的な不老不死を達成することができると考えられた。

 しかし、この目論見は生命の器と魂、その大きさや形が個々で異なるという事実の前に脆くも崩れ去ることとなる。


『強欲の魔女』の魂は、リューズ・メイエルの複製体に収まり切らなかった。


 その至極真っ当な破綻の結果誕生したのが、『強欲の魔女』の出来損ないであり、後々まで多くの禍根を世界に色濃く残すことになる存在、スピンクスである。


『スピンクス』と、混ざり物の怪物の名を与えられたその存在は、造り出された本来の目的にそぐわないと処分されるところを、運命の悪戯によって生き延びた。

 そして、多くの造られた命がそうであるように、スピンクスもまた、己が造り出された目的を果たすための活動を開始した。


 造られた『魔女』の造物目的――『強欲の魔女』として完成するために、スピンクスは多くの災禍を積み上げていくこととなるのである。



                △▼△▼△▼△



「――馬鹿が」


 と、そう悪罵した口から血を流し、ジャマルがその場に崩れ落ちる。

 放たれた白光はスバルたちを頭を狙っていた。そのため、それを庇ったジャマルが喰らったのは子どもの頭の位置、それでも片腹を貫かれる重傷には違いなくて。


「ジャマル――!」


「想定した対象は被害を免れましたか。ですが、対応可能な範疇です」


 突き飛ばされ、とっさに庇われたスバル。その反応を余所に、それをした張本人であるスピンクスは攻撃の失敗に頓着していない。

 静かで、冷淡と言い切っていい屍人の親玉の言葉にスバルは奥歯を噛んだ。

 倒れたジャマルに戦闘の続行は困難、それどころか今すぐ治療しないと命が危うい。


「スバル! 目の前に集中するのよ!」


「――っ」


 途端、スバルの腕を引くベアトリスが鋭い声でそう呼びかける。

 その呼びかけにジャマルから視線を離し、スバルはスピンクスを見た。同じく、ベアトリスとスピカ、アベルもスピンクスを見据えている。

 厳戒態勢に入った三人は、その意識を敵であるスピンクスに集中していた。


 ジャマルの手当ては後回しにするしかない。

 それは正しい。絶対的に、正しい。

 それなのに――、


「あなたが私の計画を狂わせる異物だと思いましたが、違いましたか?」


 視線は離せても、ジャマルから意識を離せないスバルに、スピンクスが首を傾げてそう言った。その屍人の金瞳に覗き込まれ、ますますスバルの心が乱れる。


「――っ、合わせるかしら、スピカ!」

「ああう!」


 そのスバルに代わり、ベアトリスとスピカが同時に動いた。

 ベアトリスの呼びかけに、長い金髪を躍らせたスピカがスピンクスへ飛びかかる。そのスピカの跳躍に合わせ、ベアトリスは立ち尽くすスピンクスの左右と後方に紫紺の結晶矢を展開、逃げ道を塞いで援護する。

 二人の連携に四方を塞がれ、スピンクスは為す術もない――とはならなかった。


「エル・ジワルド」


 詠唱のささやかさに反し、続く破壊の効果は絶大だ。

 迫る脅威に対し、スピンクスは何も持たない両手を開くと、先ほどジャマルを攻撃したのと同じように、今度は左右の五指から白い熱線を放射する。

 ただし、今度は光線銃のような一瞬の熱線ではなく、照射し続ける光の剣だ。


 十本の指で十条の光の刃、半端な大剣よりも射程の長いそれを振り回し、スピンクスが自分を中心に全方位を切り刻む攻撃で空間を掌握した。

 その白光を浴び、ベアトリスの展開した紫矢はことごとくが切り払われ、正面から飛びかかったスピカにもその猛威が降りかかる。


「――う!」


 それがスピカの体を両断する寸前、全員の視界から彼女が消えた。

 転移だ。短距離テレポートを発動し、スピンクスの射線から逃れたスピカが、街路から外れた建物の残骸の上へと出現する。

 そして、スピカのついでのように白光の射線上にいたスバルとベアトリスは――、


「たわけ、敵の首魁の姿に呆けたか?」


 そうとっさに嫌味を欠かさないのは、スバルとベアトリスの頭を押さえつけ、その場にしゃがませたアベルだった。


「ジャマル・オーレリーが立ち上がる期待はできん。貴様らの働きが肝要だ」


「い、言われなくてもわかってるのよ! 今のお前の機転には、このあとの働きで報いてやるから見てるがいいかしら!」


 乱暴に救われたベアトリスが、頬を膨らませてアベルを押しのけ、立ち上がる。

 そのベアトリスの気丈な反論に鼻を鳴らし、同じく立ち上がったアベルは倒れたままのスバルを見下ろすと、


「どうした? 相方の威勢はいいが、貴様は――」


 立ち上がらないのか、とアベルは挑発的な言葉を発そうとしたのだろう。

 だが、彼はすぐに異変を察したように言葉を区切り、形のいい眉を寄せた。


「スバル?」


 その傍らで、ベアトリスもアベルと同じ異変に目をぱちくりとさせる。


「――――」


 ベアトリスとアベル、二人の足下でスバルはうつ伏せに倒れたままだ。その様子に、離れた位置に転移したスピカも気付き、瞳に困惑を浮かべる。

 とっさに、彼女たちには何が起こったのかわからなかったのだろう。

 故に、目の前の出来事に理解の追いつかないベアトリスたちに代わり、スバルの身に起こったことを最初に察したのは、皮肉にも敵のスピンクスだった。

 スピンクスは、その感情の表現力が著しく下がっている青白い屍人の顔で、それでもそうとわかる困惑と疑念を瞳に浮かべながら、


「……何故、服毒を? 要・説明です」


「――ッ、貴様!」


 スピンクスの疑問の直後、表情を変えたアベルがスバルの襟首を掴んで引き起こす。その乱暴な所業に、しかしスバルからの苦情はない。


 ――何故なら、すでにスバルは奥歯に仕込んだ毒の薬包を破り、『死』へと通じる地獄の苦しみを味わっている真っ最中だったからだ。


「いやあああ! スバル!? スバル!?」

「うあう――!?」


 血泡を噴いて痙攣するスバル、その姿にベアトリスとスピカが悲鳴を上げる。

 震えるスバルにベアトリスが縋り付こうとするが、その少女を押しのけ、アベルはスバルの口の中に指を入れると、薬包を引き抜き、怒りの形相になる。


「貴様、何のつもりだ!? 血迷ったか!?」


「ぶぶぶ、ぶぶぶぶ……っ」


「運命と戦うと、そう大言を口にしてこれか!?」


 激怒するアベルの声と、泣きじゃくるベアトリスの声、必死に飛んで戻ってくるスピカの悲痛な声、全身をグズグズに溶かされる喪失感の中でスバルはそれを聞く。


 その怒りの声に、泣き声に、絶望する声に、言葉で答えられない。

 それでも、ちゃんと意味はあるのだ。必要なことなのだ。――これが最善手なのだ。

 誰も、死なせない未来に、辿り着くための、一番、一番一番一番一番、いい、方法。


「ぶぶ、ぶ」


「要・説明です」


 誰にもそれを伝えられないまま、『魔女』の疑問は解消されないまま、息は尽きた。

 ナツキ・スバルは絶命する。――この最終決戦ですでに何度もやったように、また。



                △▼△▼△▼△



 ――最初の数年、探求というべきスピンクスの旅は困難を極めた。


 複製体の元となったリューズ・メイエルの体は、過酷な世界を生き抜く適性を欠き、極端な悪天候や寒暖の変化、時に魔獣や悪意ある人間に容易く命を脅かされ、それに対抗する手段も乏しいと、容れ物の選考の時点での不備があまりに多すぎた。


 マナ体には成長や鍛錬といった概念も意味がないため、改善にも期待ができない。

 肉体依存ではない知識や技術の習得は可能だが、それらを学ぶための道のりで命を危うくする機会も多く、常に危険と隣り合わせの日々だった。

 その上、素体となったリューズ・メイエルはハーフエルフであり、スピンクスもその外見的特徴を引き継いだことで、迫害や奇異の目に晒されることが多々あったのだ。


 しかし、外見の特徴を元の容姿から大きく改変することは躊躇われた。

 それらは最初にスピンクスに与えられたものであり、前提条件を大きく変えてしまえば、自身の造物目的を果たせなくなる恐れがあったためだ。

 故にスピンクスは装うことを良しとせず、違う方法で生き残る術を模索した。


 命さえ奪われなければと、見世物や奴隷に身を落としたこともある。リューズ・メイエルは見目が整っていたので、気前のいい主の使用人になったこともあった。

 知ること、学ぶことに貪欲だったスピンクスは、どこでも能力を重宝された。

 覚えの良さが理解されると、様々な局面で利用価値が生まれる。そうしていくうちに、スピンクスは自らの身を守る方法がそれだとも気付いた。


 貧弱で生きる力に乏しい体で世界を渡り歩くためには、自分の利用価値を作り、それを求める輩に提供し、その庇護に入ることが最善だ。

 そうやって、自分の身を自分で守れるようになるまで、スピンクスは他者の傘の下に入って生き続ける手段を選んだ。


 そんな日々は、実に百五十年ほど続いた。



                △▼△▼△▼△



 ――異世界召喚されて以来、ナツキ・スバルの最多の死因はなんだろうか。


 そう問われたとき、スバルは確信を持って『服毒自殺』と答えられる。

『魔都』カオスフレームの紅瑠璃城で、オルバルトとの地獄の鬼ごっこでも相当数の『死』を味わったが、あれは死因『オルバルト』とでもしない限り、死に方は多様だった。

 あの絶望的な十一秒を例外とすれば、間違いなく最多記録は毒だ。

 ひどく不名誉な話だが、異世界で一番スバルを殺したのは、その毒の調合を行ったヌル爺さんと言うこともできるのかもしれない。


 ともあれ、『剣奴孤島』ギヌンハイブを犠牲者なしで脱出するための孤軍奮闘――『プレアデス戦団』を結成するために高頻度で使われた毒は、今もなお、スバルの口内に仕込まれたままになっていた。


「――全員、無事に連れ帰る」


 それが、この帝都の最終決戦に挑むスバルが譲らぬ絶対条件に定めたものだ。

 元々、そうした姿勢と心構えは体が縮む前、帝国まで飛ばされてくる以前から持ち合わせていたが、帝国でのこれまでの日々の中、覚悟はより強くなっている。

 それは、あの手この手で『死』という決着を押し付けてこようとするヴォラキア帝国への、スバルなりの反骨心が理由として大きい。


 ――帝国が『死』を押し付けてくるなら、何がなんでもそれを撥ね除ける。


 そのためにできることは全部やる。

 それが何回、何十回、何百回と、地獄の苦しみを味わうことになるとも、だ。



「――が、ぎぅッ!」


 真っ赤に明滅する視界が開け、全身の血と肉と骨、血管の一本一本、細胞の一片に至るまでまとめてミキサーされたような苦しみに、スバルの喉が悲鳴を上げる。

 が、本当に直前まで味わっていた致死性の痛苦と、その痛苦以上の苦しみをスバルに与える怒声と泣き声が彼方に消えた。――『死に戻り』だ。


 服毒自殺によって『死に戻り』が発動し、ナツキ・スバルは時を遡った。

 その瞬間、スバルは自分が帝都へ乗り込む前の、最後に立ち寄った帝国兵の陣で顔を洗った直後、その場面に舞い戻ったはずと意識を切り替えようとして――、


「――馬鹿が」

「――――」


 胸を突き飛ばされた感触と、絞り出すような悪罵が聞こえて、スバルは『死に戻り』のリスタート地点が更新されたことをまざまざと見せつけられた。


「想定した対象は被害を免れましたか。ですが、対応可能な範疇です」


 悪罵と共に血をこぼし、手にした剣の刀身を丸く抉られたジャマルが崩れ落ちる。その様子を尻目に、冷めた声で下手人たるスピンクスが淡々と分析する。

 この光景もその言葉も、どちらもほんの数十秒前に見聞きしたもので。


「スバル! 目の前に集中するのよ!」


「――っ」


 現実の理解と把握に思考を乱されるスバルを、ベアトリスが鋭く呼んだ。

 彼女の声に頭の中身を打ち壊され、直前の服毒の苦しみとリスタート地点の変更に対する衝撃を息を吐き切って逃がす。目の前の、新たな状況に適応だ。

 呆けている暇は、ない。

 そうする間に、失われるかもしれないものが多すぎる。


 ――『死に戻り』地点の更新。


 それが意味するのは、すでに始まってしまった帝都での最終決戦において、各頂点に振り分けた『滅亡から救い隊』の入れ替えはもうできなくなったということだ。


「――――」


 現状、ベストな人員をベストの戦場に配置できたとは考えている。

 だが、最も被害が少ない条件を確かめ切れたわけでないことが悔やまれた。特に、エミリアとタンザを組ませた場合の成果が未検証なのが、心理的な痛手として大きい。

 無論、他のメンバーの安否にも不安と心配の種は尽きないが――、


「あなたが私の計画を狂わせる異物だと思いましたが、違いましたか?」


 首を傾げたスピンクスの問いかけに、スバルは目の前の屍人を見た。

 ここまでの、頭の中に組み上がっていた積み木が音を立てて崩れていく。

 形作った思考を試行錯誤した積み木は、様々な角度から眺めてよりよい完成形を目指したものだった。それが跡形もなく崩れ去る。――違う、崩すのだ。


 頭の中で組み上がった積み木の傍に、頭の中のナツキ・スバルが現れ、乱暴にそれを叩き壊して完膚なきまでにぶっ壊す。

 積み木の元の形がわからなくなるまで、気にしてもどうしようもなくなるまで、崩して崩して崩して、崩しまくる。

 そうやって、もう手の施しようがなくなるまで崩して、積み木のことは一度忘れる。

 それからようやく、ナツキ・スバルは新しい試行錯誤に取り掛かれるのだ。


「――違わなくねぇよ」


 長く感じる一拍ののち、スバルはベアトリスとスピカに両手を握られながら、黒瞳を細めているアベルと同じく、スピンクスを見据えてそう答えた。

 まだ、この状況の打開策は見つかっていない。仲間たちの安否もわからない。現在進行形でジャマルは血を流している真っ最中だ。

 その全部に対処するという意気込みは、一切変わらない。


『魔女』スピンクスを倒し、この『大災』を終わらせる。

 そのために――、


「俺が、お前の計画を狂わせる、災いの天敵だ」



                △▼△▼△▼△



 ――今でこそ『魔女』と呼ばれるスピンクスだが、誕生してからの数百年は、その呼ばれ方に相応しい力をまるで備えていなかった。


 これも、スピンクスという存在が誕生して初めてわかったことだが、『魂』と『容れ物』には相関性があり、その不一致は生きる上で大きな欠陥となって立ちはだかる。

 本来、容れ物とはその魂に合わせて最適化されているのだ。

 早い話、『強欲の魔女』の技術や才能は、『強欲の魔女』の体でなければ満足に扱うことはできない。リューズ・メイエルの容れ物に、『強欲の魔女』の魂を中途半端に入れた存在であるスピンクスは、またしても誕生時点から造物目的を妨害されていた。


 結果、スピンクスが『魔女』と呼ばれるのに相応しい力を得るのに百五十年かかった。


 容れ物と魂の不一致という欠陥を抱えたスピンクスは、歩き方や呼吸の仕方、心臓の鼓動の打ち方に至るまで新しく覚え直すに等しい努力が必要だったのだ。

 これは、一般的な才能の持ち主が魔法使いになるまでの百倍近い時間がかかっている。

 さらに言えばこの時代、スピンクスが造物目的を叶えるために活動するには、様々な要素が障害として立ちはだかりすぎていた。


 その身体的特徴からハーフエルフとして扱われ、『魔女』の代名詞である『嫉妬の魔女』への恨みつらみの捌け口とされたこと。

『強欲の魔女』の研究成果であるスピンクスの存在を疑い、その弟子を標榜する人物の執拗な追跡を受けたこと。


 他にもあるが、主にこの二つが理由で一所に留まれず、スピンクスの造物目的を果たすための探求は幾度もの足踏みを余儀なくされた。

 そうした日々の果てに、初めて自力で魔法の発動に成功したとき、スピンクスは指先に灯った小さな火を見て、大きく失望したことを覚えている。


 ――『強欲の魔女』を継ぐはずのモノが、この程度の魔法しか使えないものなのかと。



                △▼△▼△▼△



「――馬鹿が」


 と、そう悪罵する口から血をこぼし、またしてもジャマルが崩れ落ちる。

 そのジャマルに突き飛ばされ、手を繋いだベアトリスとスピカの二人と一緒に踏みとどまった瞬間、スバルは『死に戻り』の再発動を確認する。


「想定した対象は被害を免れましたか。ですが、対応可能な範疇です」


 狙いを外しながら、スピンクスは期待と異なる戦果に拘泥しない。

『魔女』の目的はこの場のスバルたちの一掃だ。そういう意味では、真っ当な戦力に数えられたジャマルを初撃で落とせて、戦果としては十分という判断。

 だが――、


「スバル! 目の前に集中……」


「ベアトリス! ジャマルを治してくれ!」


「――っ、わかったのよ!」


 声を上げかけたベアトリスに先んじ、スバルは彼女にジャマルの治療を指示した。それを聞いたベアトリスは目を見張り、すぐにジャマルの下へ駆け寄る。

 そのベアトリスの機敏な反応を受け、スバルは反対の手を繋ぐスピカに目配せし、


「スピカ、頼む!」


「あー、う!」


 勢いよく、ゴム毬のように弾むスピカがスピンクスに飛びかかる。

 そのスピカを迎え撃つべく、スピンクスが両手の指から十本の光を放つ。――だから、その前にスバルはジャマルの落とした剣を拾い、投げつける。


「エル・ジワルド」


 縦回転するジャマルの剣が、振るわれるスピンクスの熱線に切り払われた。

 光の剣になぞられ、剣は空中で六等分にされたが、スピカの転移する時間を稼ぐのには成功する。この援護なしでは、スピカの転移も間に合わないのだ。


「――う!」


 短く吠えるスピカの姿が、街路の脇の瓦礫の上に転移。

 そして、本来はスピカと、その背後にいるスバルをまとめて狙った熱線は、後ろから伸びてくる腕が乱暴に押し倒し、躱させてくれていた。

 飛びついたアベルの手に後頭部を押さえられ、強引に押し潰される。


「たわけ、敵の首魁を侮ったか?」


「どのパターンでも煽るのに余念のねぇ皇帝だな……!」


 地面に手をついて、べしゃっと潰されるのを避けたスバルが素早く立ち上がり、アベルの憎まれ口に文句を付ける。

 そのスバルの反論には何も言わず、アベルはスピンクスを警戒しながら、


「ジャマル・オーレリーが立ち上がる期待はできん。捨て置くべきであろう」


「俺はそうは思わねぇ。あいつには帰りを待ってる妹がいるんだ」


「遺族には十分な恩賞を与える」


「家族が死んで、胸に空いた穴は埋まらねぇよ」


 負傷したジャマルに手をかざし、ベアトリスがその傷に治癒魔法をかけている。

 悔しいが、アベルの言う通りだ。賢いベアトリスの治癒魔法が最大限の効果を発揮しても、ジャマルがこの戦いに復帰する可能性はゼロに近いだろう。

 だが、ここでジャマルを瀕死から救えれば、スバルの憂いは一個消せる。

 それはスピンクスとの戦いを進めるにあたり、大きな大きな心理的意味を持つのだ。

 だから――、


「スピンクス! お前を殺せるのは俺だ!」


「――――」


 視線を巡らせ、状況を確かめていたスピンクスがその直球的な発言にスバルを見る。

 その意識がベアトリスたちから離れ、スバルの方を向くなら成功だ。


「屍人のお前は『死』を克服した気でいるのかもしれないけどな、そんなのは嘘っぱちの大間違いだ。誰も永遠には生きられねぇ。例外は、ないぜ」


「……説得力はあります。事実として、あなたたちは私の『不死王の秘蹟』を塗り替え、死者の魂に干渉していますから。私だけ例外ということはないでしょう。ただ」


「ただ?」


「――。いえ、あえて口にする必要はありません。要・検証です」


 スバルのあえての挑発に、スピンクスはゆるゆると首を横に振った。しかし、そう返答するスピンクスに、スバルは微かに頬を硬くする。

 それはスピンクスの返答の内容に不都合があったなどの理由ではなかった。

 そう返答するスピンクスは、ほんのりと唇を緩め、笑ったからだった。


「……リューズさんも、表情豊かな方じゃなかったけど」


 屍人として蘇ったことも手伝い、そのリューズに輪をかけて感情表現に乏しい印象のあったスピンクスの微笑――それに底冷えするような怖気をスバルは覚える。

 その怖気には、愛らしい見た目の存在が屍人化したことへの嫌悪感より、もっと大きくて根源的な理由があるように感じられて。

 そしてそれは、次なるスピンクスの一言で、より明瞭なものとなる。


「一つ、要・確認したいことがありました。――そちらのあなたは、ヴィンセント・ヴォラキア皇帝で間違いありませんか?」


 次いで、スピンクスの言葉の矛先が向いたのは傍らのアベルだった。

 思いがけず、対話の照準がアベルを捉えたことにスバルは眉を上げる。立場上、アベルが注目されるのは当然だが、ここでスピンクスが彼を気にするとは思わなかった。

 戦闘力がなく、状況的に最も警戒する理由のないはずのアベルを。


「いかがです? 要・返答です」


「貴様の如き卑しい賊に、名や立場を偽るつもりはない。――正しく、俺がヴィンセント・ヴォラキア、この帝国の皇帝だ」


「回答、感謝します。重ねて、要・確認したいことが」


 鋭い眼差しで自分を睨むアベルに、スピンクスは恐れ知らずにも言葉を続けた。

 帝国を滅ぼす『大災』を自覚しているからか、ヴォラキア皇帝であるアベルと対峙するスピンクスに、スバルはその後の対応を考えあぐねる。

 少しでも対話が長引けば、ベアトリスがジャマルの治療に使える時間が増える。

 この場はその利点を有効活用すべきと、スバルは二人の話に口を挟まなかった。

 そこへ――、


「回答は約束せぬ。だが、言ってみるがいい」


「――プリシラ・バーリエル、あるいはプリスカ・ベネディクト」


「……え?」


 思いがけず、突然に話題に挙がったプリシラの名前にスバルは動揺した。

 帝都決戦に参加し、『大災』の出現を理由に始まった撤退戦の最中、行方のわからなくなったはずのプリシラ。安否のわからない彼女の安全確認は、同じく行方知れずとなったヨルナ共々、何故か彼女が使える『魂婚術』の継続で確かめていたことだった。

 ヨルナがタンザとカオスフレームの住人に、そしてプリシラがシュルトにかけた『魂婚術』が、彼女たちが生きていることの証であると。


『九神将』であるヨルナはもちろん、あのプリシラのことだ。

 救出のために帝都がアルに残った経緯もあって、当然しぶとく生き残ってくれているとは思っていたが、ここでスピンクスの口から、ましてやアベルへの質問の形で名前が出されるのは予想外だった。


 確かに、プリシラは城郭都市グァラルの時点から参戦し、ヴォラキア帝国にもアベルに対しても、何らかの関わりがあることを示唆していた。やたらと意味深な雰囲気に、プリシラの過去いた夫たち絡みのいざこざかと、そう推測したこともあったか。

 それが――、


「――――」


 スバルが確かめてこなかったアベルとプリシラの関係、そこに言及されたアベルの方をちらと見やり、スバルは彼が黒瞳を細めているのを横目にする。

 その極小の反応が、実はアベルの少なくない動揺の証拠だとスバルは知っている。

 それを見抜いたかは定かではないが、スピンクスは黙した皇帝に対し――、


「――あなたは彼女の兄で間違いありませんか? 要・確信です」


 そう、スバルの予想を裏切る爆弾発言を続けたのだった。



                △▼△▼△▼△



 ――自分で魔法を使えるようになっても、スピンクスの生き方は激変はしなかった。


 一度魔法の発動に成功したことで、リューズ・メイエルのマナ体でのゲートの使い方は安定し、『強欲の魔女』の魂が把握している大半の魔法の再現には成功した。

 しかし、それでスピンクスの置かれた危険な立場が変わることはなく、相変わらず人目を忍び、脅威を避けるために一所に留まらない日々は続いた。

 ただ、以前と比べて人目を忍びやすく、脅威から逃れやすくはなった。

 そのおかげで、スピンクスは誕生してから百五十年経って、ようやく自分の造物目的である『強欲の魔女』の再現という研究に着手できた。


 ――最初の百年は、『強欲の魔女』を知ることに時を費やした。


『強欲の魔女』と同じ魂を起源にしているにも拘らず、スピンクスは『強欲の魔女』の魂から取りこぼしたものが多すぎて、目指す最終目標がぼやけすぎていた。

 そこで、すでに失われて久しい『強欲の魔女』を知るため、各地の伝承や文献を辿る旅から始めたが、『魔女』を歴史から消し去ろうとする魔女教――本来の設立目的はそうではなかったようだが、彼らの活動の邪魔もあり、成果は遅々として上がらなかった。

 結果、百年かけて進展の見られない方針を変え、スピンクスは別の方法を模索する。


 ――次の百年は、己の中の『強欲の魔女』の不足を補うことを目的とした。


 百年かけて世界を巡り、ほとんど成果が上がらなかった事実から、スピンクスは『強欲の魔女』を知る最大の手掛かりは、同じ魂を持つ自分自身と考えた。

『強欲の魔女』の再現に失敗し、足りない出来損ないとして誕生したスピンクス。

 もしもその魂の足りない部分を埋め、本来の形を取り戻せれば、それは『強欲の魔女』を再現するという造物目的を果たすことになるのではないかと。


 ――しかし、この試みも百年かけて困難であることが発覚し、頓挫する。


 方針転換はしても、放棄はしていなかった『強欲の魔女』を知るための資料の捜索に動きがあり、これがスピンクスに目指すべき山の頂を見失わせたのだ。


 どうやら、『強欲の魔女』はひどく複雑な人間性の持ち主であったらしい。

 見つかった資料によれば、『強欲の魔女』は多くのものと言葉を交わし、彼らの欲する知識や知恵を与えては、善かれ悪しかれ、たびたび歴史に干渉したとされている。

 一方で、スピンクスの曖昧な記憶の中には人との接触を可能な限り避け、滅多なことでは他者の人生と関わるまいとした『強欲の魔女』の姿もあったのだ。


 その相反する『強欲の魔女』像が、スピンクスの研究に迷いを生んだ。

 すでにこの時点でスピンクスが誕生してから三百年以上が経過しており、造物目的を果たすための研究を前進させたい考えはあり、スピンクスは再び決断を迫られた。


 そして、スピンクスは決めたのだ。――これまでと、大きくやり方を変更すると。



                △▼△▼△▼△



 ――アベルとプリシラの二人が兄妹。


 スピンクスからもたらされた衝撃の事実は、しかし、スバルの中である種の納得と結び付いて、これまでの数々の疑問点と符合され、解きほぐされていった。

 プリシラが帝国の内乱に介入したことや、セリーナを始め、帝国に交友関係を持っていたこと。時々、帝国関係者と意味深な過去を匂わせる会話をし、アベルとも只ならぬ関係がありそうな素振りをたびたび見せていたこと。


 そして、アベルと同じで異様なまでに傲岸とした偉そうな性格だ。


 アベルが偉そうなのは、皇帝だからで解決できた。

 では、プリシラが偉そうなのはどうしてなのか。その答えも、皇族だからで解決だ。

 ――違う。正しくは皇族だったから、だ。


「皇帝の決め方って、兄弟姉妹で殺し合うって頭おかしいルールじゃなかったか?」


「『選帝の儀』の仕組みの是非について、貴様と議論するつもりはない」


「議論も何も、お前が皇帝やっててプリシラが生きてるって時点で、お前ら兄妹がそのルールをどう思ってるかは大体わかるだろ」


 聞けば聞くほど納得しかないアベルとプリシラの血縁関係だが、知れば知るほど現在の状況が帝国にとってはありえないものであるということもわかる。

 本来、ヴォラキア帝国では帝位継承権を持つもの同士が殺し合い、最後の一人にならなければ皇帝は決まらないルールだ。――アベルは、これに違反している。

 つまり、アベルとプリシラは共謀し、『選帝の儀』に背いた立場ということだ。


「共謀はしていない。俺が決め、俺が実行した。プリスカは死に、プリシラが残った。ただそれだけの話だ」


「それだけって……あ!? それだともしかして、プリシラって絶対帝国に戻ってきちゃいけない立場だったんじゃねぇか!?」


「城郭都市で、俺がどれほど心労を味わったか貴様に想像がつくか? そもそも、それを言い出すなら王国の王選と、その候補者について聞いたときからそうだ」


「珍しく、それはお前に同情するわ……」


 外野のスバルには想像もつかないが、妹であるプリシラを逃げ延びさせるため、アベルは相当に危ない橋を渡ったはずだ。きっと今でも、この情報が外部にしれれば、アベルの皇帝としての地位が危うくなるほどの爆弾。


 それだけ苦労して逃がした妹が、ちょっと目を離した隙に隣国の次の王様候補にノミネートされていたり、帝国の内乱の窮地に助っ人参戦してくるなんてされ、アベルもあの悪ふざけみたいな鬼面の裏で地獄の胃痛と戦っていたのかもしれない。

 ともあれ――、


「お前らが兄妹って話はともかく、スピンクスがプリシラに興味を持ってる的な情報は悪くない。プリシラが水晶宮で生かされてるって、『魂婚術』の裏付けにもなる」


「――。察するに、プリシラと『魔女』めの関係は良好とは言えぬようだがな」


「自覚ないのかもしれないけど、お前ら、兄妹揃って取っつきづらいから直した方がいいよ。味方でもそうなんだから、敵なら余計にそうなんじゃね?」


「その不敬、仮に俺が目こぼししても、プリシラはせぬぞ」


 兄妹という情報を明かした途端、躊躇なく血縁絡みの話を飛ばしてくるアベル。

 実際のところ、無礼者をしばく実行力を持たないアベルよりも、不愉快とみなした相手を容赦なく叩っ斬るプリシラの方が怒らせるのが怖いのはそう。


「叩っ斬るって言えば、プリシラがブンブン振り回してるあの剣も――」


「――『陽剣』ヴォラキア」


 近くでまじまじと見せてもらったことはないが、プリシラがよくいきなり空中から抜いているものがとんでもない力を秘めた宝剣であることはわかっていた。

 それを話題にしたスバルに、アベルがこれ以上ないぐらいの答えをくれる。


「……もしかしてだけど、あの『陽剣』って帝国に代々伝わる的なやつ?」


「そうだ」


「じゃあ、正体隠すとか隠さないとか以前にあいつが持ってちゃダメじゃん!」


「――。そうだ」


 硬い声で答えたアベル、スバルもプリシラの傍若無人さに頭が痛くなってくる。

 それはそうだろう。――ヴォラキア帝国の元皇族であり、生きていると知られれば皇帝の治世を脅かしかねない爆弾で、なのに王国の王選候補者として堂々と表舞台に立ち、挙句にたびたび自重せずに帝国由来の宝剣をブンブン振り回す。

 道理で、以前のプリシラを知るものが出てくるたびに、彼女の過去を知っていそうな意味深ムーブをするわけである。本人がこれだけ何も隠していなかったのだから。


「エミリーって名乗るだけでいけると思ってるエミリアたんかよ……」


 それも、エミリアは天然で可愛い絶世の美少女だが、プリシラの場合は自分の置かれた立場がわかっているだろうにやっているから性質が悪い。

 いずれにせよ――、


「本当なら、『陽剣』はお前が持ってなくちゃいけないんじゃないのか?」


「――――」


 そのスバルからの問いかけに、アベルは沈黙を守った。

 違うなら違うと、それこそ雄弁に理屈をこねくり回して答えるのがアベルのはずだ。その彼がそうしないということは、そういうことだと考えるべきだろう。

 だから――、



                △▼△▼△▼△



「――馬鹿が」


 考えてみれば、その悪罵は誰に向けられているものなのか。

 とっさに突き飛ばしてまで庇ったスバルたちか、あるいは容赦なく子どもを狙ったスピンクスか。――あるいは、その後の選択肢を狭めたジャマル自身か。


 もちろん、前者のどちらかであって、最後の可能性であるはずもない。

 確かに、ジャマルがスバルたちを庇った行為は、『死に戻り』をして状況を打開するスバルからすれば何の意味もないお節介だった。


 もしもジャマルが庇わなければ、スピンクスの奇襲でスバルの頭は蒸発し、そこで『死に戻り』が発動して、それより前の状況から対応が開始する。

 それが今と同じで、スピンクスとの接触後か、その前になるかはわからない。

 ただその場合、ジャマルが傷を負わなくて済むため、スピンクスとの戦いが回避できない状況で戦略の幅は広がったはずだ。


 結果的に、ジャマルが魔法に倒れたことで、スバルたちはジャマルという戦力を一人失い、さらに瀕死の彼を救うためにベアトリスも治癒魔法に行動を縛られた。

 起きた出来事だけを見れば、ジャマルの行動はかえってスバルたちを苦しめたのだ。

 しかし――、


「――――」


 剣狼の一人であることを誇りに思い、その剣で妹の未来を切り開こうと意気込んだジャマルが、スバルたちを庇って倒れることになった献身を、無意味にはさせない。

 命とか本能とか心とか、そういうものはそういうモノではないのだから。


「想定した対象は被害を免れましたか。ですが――」


「お前には靴を食わされた! でも、今のでチャラだ!」


「――――」


 倒れるジャマルに狙いを外され、何事か言いかけたスピンクス。その『魔女』の言葉を塗り潰すように、スバルは大声でジャマルにそう言った。

 そのスバルの大声が、今のジャマルに届いたかどうかはわからない。

 だが、ヴォラキア帝国に飛ばされてすぐの野営地で、スバルはジャマルからひどい仕打ちを受けた。それを今、許した。――ジャマルも、紛れもなく仲間の一人だと。


「ベアトリス! ジャマルを治してくれ!」


「――っ、わかったのよ!」


 続くスバルの指示に、ベアトリスが素早くジャマルへ駆け寄る。彼女の細い指の感触が離れていく中、次いでスバルは反対の手を繋いだスピカを引き寄せながら、


「スピカ、頼む!」


「あー、う!」


 意気込む表情のスピカが地を蹴り、弾むゴム毬のような勢いでスピンクスへ飛ぶ。

 長い金髪を躍らせるスピカの跳躍、それを目前にしながら、自分の発言をキャンセルされた事実も余所に、スピンクスがその両手を持ち上げる。

 生み出される十条の光の剣――そこへ、スバルはジャマルの剣を投げ込んだ。


「エル・ジワルド」

「――う!」


 白光が回転するジャマルの剣を溶かし、その向こうにいたスピカをも狙う。だが、それが届くより早く、スピカの姿は街路の脇へ転移。同時にスバルも後ろから伸びたアベルの手に頭を下げさせられ、スピンクスの反撃の回避に成功する。


「よくぞ即座に切り替えた。だが、あとが続かねば意味がないぞ」


「わかってる! 言っとくが、ジャマルは見捨てねぇ!」


「――。遺族には十分な恩賞を与える」


「それじゃ救われねぇもんを救いたいんだよ、俺は!」


 合理に徹するアベルにそう言い返し、スバルは倒れかけた体で踏みとどまる。その姿勢のまま、攻撃を避け切られたスピンクスを睨み、


「スピンクス! お前を殺せるのは俺だ!」


「――――」


「俺は屍人のお前を殺せる。蘇りの魔法だって万能じゃない。嘘だと思うか?」


「……説得力はあります。事実として、あなたたちは私の『不死王の秘蹟』を塗り替え、死者の魂に干渉していますから。私だけ例外ということはないでしょう。ただ」


 自分に注意を引きつけるため、そう挑発するスバルにスピンクスは首を横に振った。彼女はスバルの主張の説得力を認めた上で、


「――いえ、あえて口にする必要はありません。要・検証です」


 自分の天敵であるスバル――正確には、スピカの『星食』を警戒しているにも拘らず、その心象と真逆に思える微笑を浮かべるのだ。

『魔女』の微笑、その正体だけはわからない。知る必要も、究極的には、ない。


「お前はビビるなよ」


 そう小声でスバルに言われ、一瞬、隣に並んだアベルが眉を顰める。その黒瞳に意図の説明を求められ、スバルはその説明を流れに任せた。

 微笑の余韻を残したまま、スピンクスがアベルの方を見て、


「一つ、要・確認したいことがありました。そちらのあなたは――」


「――こいつはヴィンセント・ヴォラキアで、この国の皇帝だ。それと、プリシラの兄貴で間違いねぇよ」


「――――」


 その、スピンクスの問いかけにスバルの回答が先回りした。

 それをされた瞬間、スピンクスが初めてレベルではっきりした驚きに眉を動かす。事前に忠告したアベルも同じくらい驚いているが、必要経費だ。


「うー、あう!」


 ――その諸経費に見合った働きを、スピンクスに飛びかかるスピカがする。


 猫の狩りを思わせるしなやかな俊敏さで『魔女』へ迫るスピカだが、その振るわれる腕は猫の爪よりも、虎や獅子、あるいは熊の一振りの威力だった。

 屍人の戦士でさえ、まともに喰らえば一発でお陀仏になるような打撃、それをスピカが容赦なく、スピンクスの細身に叩き込む――、


「驚きました。あなたの特異性は、魂への干渉以外にありそうです」


「あーう!?」


 静かなスピンクスの分析は、スピカの驚く甲高い声と重なっていた。

 スピカが驚くのも無理はない。彼女の渾身の一発はスピンクスに届いている。ただし、スピンクスは掲げた腕の一本で、それを巧みに受け流していた。

 青い目を見張ったスピカ、その少女を『魔女』の金瞳がじろりと見やり、


「驚かれましたか? 『亜人戦争』での私の敗北には体技の未熟もありました。それを踏まえ、私も一から学ぶことにしたのです。もっとも――」


「うう!?」


「この複製体では『流法』による性能の向上にも限界がありますが」


 言いながら、スピンクスが受け流しの勢いを利用し、スピカを頭から投げ落とす。

 その流麗な身のこなしと技は、生中な修練で身につくものではない。『魔女』は自分で告白した通り、かつての敗北を糧に学んだのだ。

 昔、『魔女』に殴り勝った相手というのが余計なことを、と思わされる。


「スピカぁ!」


「――うー、あう!」


 張り上げたスバルの声に、スピカが強く歯を噛んだ。

 瞬間、頭から地面に落ちる寸前で身をひねり、スピカが再び猫の如く体を使う。膝を柔らかく着地し、スピカは素早くスピンクスから距離を取ろうとした。


「あう!?」


 しかし、下がろうとしたスピカの動きが止まる。

 スピンクスが、スピカの右手の袖を掴んで離脱を封じ込めたのだ。――直後、少女と『魔女』の視線が交錯し、手の届く距離での超至近戦が始まる。


「う! あう! あーあう! ああう!」


 片手を掴み合ったまま、スピカとスピンクスが最小限の動きでハイレベルな攻防。

 スピカの一撃必殺のぶん回しに、スピンクスは柔よく剛を制すと言わんばかりの滑らかな技と、時折、指先から放つ魔法を織り交ぜて対抗する。


「ベア子!」

「もうちょっとかしら!」


 激しい戦いを目の当たりに、叫ぶように呼んだスバルにベアトリスが応じる。手元を光らせるベアトリスは、倒れたジャマルの治癒魔法に全力だ。

 それでもまだ、戻ってこられないベアトリスを待ち、援護を見送るべきか。


「そんなわけにいくか!」


 立ち尽くす選択を消して、スバルはとっさに腰の裏のギルティウィップを取る。と、その判断を下すスバルの肩を、アベルが乱暴に引き止める。


「待て、ナツキ・スバル。迂闊に動けば――」


「馬鹿野郎! 言ってる場合か!」


 鋭いアベルの訴えにこれでもかと大声で言い返し、彼を振り切って走り出す。

 背後でアベルの舌打ちが聞こえたが、スバルは立ち止まらずに、スピンクスの体術と魔法を織り交ぜた戦法に翻弄されるスピカの援護に鞭を振り上げた。


「し――!」


 振るわれる鞭の先端が、子どもの腕力と侮れない速度で飛ぶ。

 正確性は元の体のサイズだったときより劣るが、極限状態での集中力がうまく働いた。縮んだ体が鞭を使いこなすまでの訓練の日々を忘れても、気力が奇跡を起こす。

 空気を切り裂いた鞭が、蛇の牙のようにスピンクスの背中に吸い込まれ――、


「――な」


「庇護心や焦燥感は判断を誤らせる毒にもなり得る。感情とは何たるか、些少でも理解したからこそその恐ろしさがわかります」


 淡々と、そう応じたスピンクス、その右手はギルティウィップに搦め捕られていた。

 だがそれは、スピンクスがあえて差し出した右手だ。スピンクスは左手でスピカの右袖を掴み、右手をスバルの鞭に縛られ、両手を封じられたことになる。

 しかし――、


「あ、う……っ」


 痛々しい苦鳴をこぼし、左足の太腿を白光に貫かれたスピカが膝をつく。――両手の使えないスピンクスが、その屍人の金色の右目から発した一撃によって。


「魔法の発動には手指や道具の補助がいる。魔法を知らないものがしがちな勘違いです」


「スピカ――うおぁっ!?」


 痛みに呻くスピカ、彼女の代わりに叫んだスバルが、スピンクスの強引な動きで鞭を引かれ、思い切り『魔女』の足下へ投げ落とされる。

 歯を食いしばって痛みに耐えたスバル。すぐ傍らに片膝をついて痛がるスピカの顔と、頭上にはこちらを見下ろすスピンクスの顔がはっきり見えた。

 その、熱の感じられない金瞳と目が合い――、


「――何故、笑うのですか?」


「ここまで組み立てた通りだからだよ」


 地べたに仰向けのスバルの表情に、スピンクスが疑問を口にする。

 その疑問に答え、スバルはわざと手放さなかった鞭を手放し、空いた手で作った指鉄砲をスピンクスに向けた。

 そして――、


「――ミーニャ!」


 スバルの指先がわずかに光り、直後、形成された紫紺の結晶矢が放たれる。

 意表、至近距離、油断、アカデミー賞ものの演技――様々な要素が絡み合い、スピンクスにスバルの仕込みを回避する術はなかった。


「――要・反省、です」


 とっさに顔を傾けたスピンクスが、わずかにひび割れた声で呟いた。

 そのスピンクスの右目に、スバルの放った紫矢が着弾し、貫いている。紫矢の当たった位置から結晶化が始まり、スピンクスの青白い肌を侵食していく。

 元々、陰魔法は屍人特攻というべき効果を発揮したが、覿面だ。


「俺をただの利発そうなガキだと思ったか。みんなやりがちな勘違いだぜ」


 ――スバルは、可愛くて有能なベアトリスと契約した精霊術師だ。


 たとえ体が縮んでいようと、ベアトリスとの繋がりが断たれることはない。ベアトリスとスバルはゲートで繋がり、スバルのマナを利用してベアトリスは魔法を行使する。

 その逆も、また然りだ。スバルも、ベアトリスの力を借りて魔法を使える。それこそ、ベアトリスと契約した初陣では、大兎相手に魔法で無双したものだ。

 もっとも、四百年間溜めに溜めたベアトリスのマナは初陣で使い切って、今のスバルにできるのは、ベアトリスの見える距離で使える一発限りの切り札だけ。

 でも、重要なのは切り札があることと、使いどころを間違えずに使えること。


「スピカ、もうひと頑張りだ!」

「う!」


 魔法の衝撃にスピンクスがのけ反り、そこでスバルは一気に畳みかける。

 足を撃たれ、痛みに強張った表情を負けん気で覆って、スピカが跳ね起きるスバルの手を取り、ぐっとその場に立ち上がった。


 傷は痛々しい。だが、何度やってもこれ以上の軽傷にはしてやれなかった。

 だからこれが、全員が生き残って先へゆくためのベストな展開――スバルがスピカの左足の代わりを引き受け、スピンクスへ向かう。

 スピカの『星食』を届かせ、スピンクスを打ち倒そうと――、


「バルガの策を見抜くだけありました。要・称賛です」


 結晶化の範囲を右目から広げながら、スピンクスがスバルをそう称賛する。

 そのまま『魔女』は固まり始める顔で笑みを象り、自分の顎下に左手の人差し指をピタリと当てた。その指は、スバルへの意趣返しのように指鉄砲を作っていて。


「――っ」


 瞬間、それが『死に逃げ』の予備動作だとスバルは直感する。

 自ら頭を吹き飛ばして自害し、状況をリセットする目算だ。――ここで自殺され、スバルたちの知識を持ち帰られれば、二度とスピンクスは目の前に現れない。

『星食』を届かせるためのチャンスが、下りてこなくなる。

 それを止めようと動くより早く、スピンクスの指先に微かな光が灯り――、


「――馬鹿がぁ!!」


 血を吐くような罵声を伴う斬撃が、スピンクスの左手を肘で切り飛ばした。


「――――」


 くるくると回転し、飛んでいく腕にスピンクスが目を見張る。

 スピンクスの目論んだ『死に逃げ』、それを阻止したのは刀身を抉られた剣を投げ、その腕を断った血走った目をしたジャマルだった。

 重傷を負ったジャマルの攻撃、起き上がった彼の体をベアトリスが支えている。その傷に治癒魔法を発動させながら、ジャマルの投擲をフォローしたベアトリスが。

 一瞬、驚嘆するスピンクスと、治療に時間がかかると返事をしたはずのベアトリスとの視線が交錯し、


「嘘っぱちなのよ」


 舌を出したベアトリスが、ジャマルの奇跡の復活劇が奇跡ではなかったと種明かし。

 とはいえ、左手を一本落とされても、残った右手でスピンクスには同じことができる。――否、ベアトリスとの一瞬の間がなければできた。


「肝を冷やしたぞ」


 言葉の内容と裏腹に、紡がれた声はいつも通りに冷然としていた。

 ただ、実際に危うさはあったかもしれない。――投げ渡すというには、ジャマルの剣には勢いがつきすぎていたから。


「要・称賛です」


「不要だ」


 起きた出来事に無事な左目を見張ったスピンクスに、アベルが冷たく応じる。そのまま黒髪の皇帝は、受け取った剣を振るい、スピンクスの右腕を肩から断った。


「あぁ……」


 左手を失い、右手を断たれ、逃れようとした体のバランスを崩し、スピンクスが帝都の街路に背中から受け身も取れずに豪快に倒れ込む。

 入れ違いに地べたに仰向けの『魔女』を、スバルは深々と息を吐いて見下ろす。

 ここまで詰めるのに十重二十重の駆け引きと、それどころでない試行錯誤があった。その全部で辿り着いた域に、スバルはスピンクスの前に立つ。


「俺たちの勝ちだ」


「……そうですね。認めましょう。私の、負けです」


 ジャマルの重傷と、スピカとスバルの負傷、ベアトリスとアベルの無事は結果論でしかない領域、それをわかった上でのスバルの宣告に、スピンクスは頷いた。

 両腕はなくても、スピカを攻撃したように目から何か飛ばしてきかねない。すでに顔の右半分は結晶化していたが、何もやらせないのが最優先だ。


「スピンクス」


 それが、呼びかけではないことをスピンクス本人も理解していた。

 今のはスピカへの働きかけであり、彼女の権能である『星食』の道筋を整えただけ。スバルの肩を借りて、スピカの手がスピンクスへと伸びる。

 屍人となった『魔女』の魂に干渉し、この『大災』を終わらせようと――、


「――ジワルド」


 次の瞬間、スピカの指が届く寸前で、結晶化の進んだスピンクスの顔が消滅――放たれた白光が、『魔女』の頭部を吹き飛ばし、こちらの目論見を打ち砕いた。


「――――」


 横合いからまんまとスピンクスを殺され、スバルたちが息を呑む。目の前のスピンクスはバラバラと砕け散り、すぐさま塵と化していた。

 そして、それをしたのは――、


「見たところ、非常に危険な場面だったと判断しました。要・対応です」


「『不死王の秘蹟』の効果は有用ですが、その有用性を体感すると、その場ですぐに情報を共有できないことがもどかしく感じます。要・改良です」


「その前に、彼らの排除を優先すべきでしょう。要・対処です」


 わらわらと、立て続けに聞こえてきた声に、スバルは肩を貸しているスピカの体が強張ったのをはっきりと感じた。おそらく、スピカも同じように感じたはずだ。

 それぐらい、衝撃を味わって当然だろう。


「「「――要・戦闘です」」」


 追い詰めたスピンクスを始末したのは、ぞろぞろと集まってきた無傷で複数の『魔女』スピンクスたちだったのだから。



                △▼△▼△▼△



 ――『亜人戦争』への介入は、スピンクスにとって非常に都合がよかった。


 親竜王国ルグニカの国内で高まっていた人間と亜人との対立感情は、ほんの些細な火種を原因に大火へ燃え上がり、長くあった仮初の平和を打ち壊した。

 内戦への関与の有無に拘らず、亜人というだけで迫害の対象とされる環境は、スピンクスが亜人連合に接触する不自然さを綺麗に消してくれた。ハーフエルフと名乗れば、連合に参加するそれ以上の大義名分は必要ないのだから。

 そこで、亜人連合の主要な指導者であるバルガ・クロムウェルと、リブレ・フエルミの二人と出会えたことも、スピンクスにとって僥倖だった。


 特に巨人族のバルガは、その猛々しい外見と裏腹に優れた知恵者であり、スピンクスの有する知識や魔法の実力の有用性に気付くと、それを大胆に作戦に組み込み、多くの戦場で亜人連合の勝利を量産した。

 スピンクスも、それまで決して開帳しなかった『強欲の魔女』の知識をいくつも開示し、バルガの企てに協力、あるいは逆に助力を得たものだ。


 ――『不死王の秘蹟』も、亜人連合のおかげで再現に成功した禁術だった。


 術式そのものの知識はありつつも、実現するための細部を埋める研究と、実際に術式を使用した作戦の立案と、そのためにバルガは『亜人戦争』をうまく誘導してくれた。

 スピンクスは亜人連合の勝利には興味がなく、あくまでその環境を利用しただけだったが、当時のバルガたちの存在には大いに助けられた。もっとも、バルガと並んで指導者の立場にあった蛇人のリブレは、そうしたスピンクスの取り組みを危ぶんでもいて、あまり良好な関係は築けていなかったのだが。


 ともあれ、『亜人戦争』ではスピンクスの欲したものの多くが手に入った。

 中でも、最も観察したいと考えていた『愛』――造物目的を果たす上で、不完全なスピンクスに最も足りないらしいモノ。『愛』と一般的に定義されるらしい執着を、間近にする機会をたびたび得られたのは大きな収穫だった。


 バルガにも、リブレにも、多くの亜人にも人間たちにも、それはあった。

 その実在と、確かに自分に欠けているという確信が、スピンクスの最大の収穫だ。


 ただ、三百五十年以上も動きのなかった状況を動かせたことで、スピンクスも欲を掻いたというべきなのだろう。――忘れていた脅威と、彼女は再会した。

 それは、スピンクスが『強欲の魔女』の魂を複製する目的で造られたと知っていて、その存在を消したくてたまらない執念深さを持つ、『強欲の魔女』の弟子。


 ――最終的に、スピンクスはその『強欲の魔女』の弟子に敗れることになる。



                △▼△▼△▼△



 恐れていた事態は、恐れていた瞬間にこそ訪れる。

 それをスバルは、口の中にねじ込まれる冷たい指の感触と、そこにあることに慣れ過ぎた薬包を引き抜かれる感覚に思い出させられていた。


「自害用の毒薬でしょうか? 不可解な備えです」


「不可解というわけでもないのでは? 戦場へ赴くならば、一般的に死を覚悟します。また、敵対者に捕縛され、情報を聞き出される余地をなくすことも有効です」


「その一般的という表現に不適切な戦場では? ここで命を落とすことが、必ずしも確実に口を閉ざすことにならないと彼らも知っているはずです」


 同じ声、同じ口調、同じ調子の検討が重ねられ、最後に複数の目がスバルを見る。

 同じ顔をした『魔女』たちは、そのスバルの黒瞳を同時に覗き込み――、


「「「要・回答です」」」


 と、羽交い絞めにしたスバルから自害の手段を奪い、そう尋ねてきた。


 ――新たに現れた複数のスピンクスたちは、たった一人のスピンクスを追い詰めるのに苦戦したスバルたちを、ものの一分とかからずに制圧した。


「うあ、う……」


 地面に組み伏せられたスピカが、囚われのスバルを助けようと必死にもがく。

 だが、手当てもまだの足の傷は深く、自分を押さえ込むスピンクスを振りほどけない。スピカだけではない。ベアトリスとジャマルも、ボロボロで街路に倒れている。

 特にジャマルは完全に意識をなくすまで、ひたすらにスピンクスたちに罵声を浴びせ続けたため、その分入念に痛めつけられる羽目になった。

 そして――、


「次から次へと、よくも飽きずに迷い出るものだ」


「これほど追い込まれて、なおも屈服しない精神性には感心します。妹の……プリシラ・バーリエルとの血縁を感じさせますね」


「ふん、プリシラの名を出せば俺が揺らぐとでも? ラミアの真似事だけでなく、ずいぶんと『魔女』というものは小癪なことをするのだな」


 敵意の眼差しでスピンクスを見据え、アベルが口の中の血と共に吐き捨てる。

 今、スピンクスたちと対峙し、二本の足で立てているのはその彼と、羽交い絞めにされているスバルの二人だけ。それも、スバルが跪かされてアベル一人になった。


 この場にいるのは三体のスピンクス。

 一体はスバルを拘束し、一体はスピカを組み伏せ、最後の一人が自由な状態だ。

 対するアベルは、短い抵抗の中で少なくない傷を負っている。服は汚れ、破れ、頬を伝った血を袖で拭い、足下には刀身のなくなった剣が放り捨てられていた。

 だが、これだけ痛めつけられても、アベルは致命傷を負わされていない。

 それはこの土壇場で開花した、アベルの非凡な剣才のおかげ――などではなく、スピンクスたちが意図して、アベルを生かしているためだ。


「ラミア・ゴドウィン、彼女に学んだのは事実です。彼女の本質を視る眼力は確かなものでした。彼女は、私よりもよほど『魂』の真理に近かった」


「彼女のおかげで、『不死王の秘蹟』の並列再現には成功しました。望んだ結果とはやや違いますが、一段階、先へ進めたことは事実です」


「それがなければ、こうしてあなたの前に姿を見せることも困難だったでしょう」


 言葉を連ねるスピンクス、同一の屍人が複数出現する芸当は、連環竜車を襲ったアベルの妹――ラミア・ゴドウィンが使った、『不死王の秘蹟』の悪用だ。

 正直、スピカの『星食』が万全なら、屍人の増殖は的を増やす行為に他ならない。それがわかっているから、スピンクスはスバルとスピカを引き離し、拘束した。

 そして、スピンクスたちがただ一人、アベルを生かしておくのは――、


「――ヴォラキア皇族である、あなたの『陽剣』は脅威でした。要・警戒です」


「――――」


 無手のスピンクスの言葉に、アベルがわずかに黒瞳を細める。

 スピンクスの警戒する『陽剣』ヴォラキア――それは絶大な力を秘めた帝国の至宝だ。スバルも、その『陽剣』の非凡な力を実際に目にしたことがある。

 ただし、そのときの『陽剣』の所有者はアベルではなく――、


「――プリシラ・バーリエル。あるいはプリスカ・ベネディクト」


「ぐ、アベル……!」


「彼はヴォラキア皇帝、ヴィンセント・ヴォラキアのはずです。あなたの、アベルという呼び方は愛称や異名に不適切では? 要・訂正です」


 些細な発言の不備を指摘し、スバルの顔が強く地面に押し付けられる。地べたに頬を擦られて呻くスバル、それを余所にスピンクスはアベルに首を傾げ、


「どうやら本当に、『陽剣』をお持ちではないようですね」


 そう、はっきりと、アベルに対して――ヴィンセント・ヴォラキアに対して、皇帝の証である『陽剣』の所有権がないと、断定的に言った。


「――っ」


 そのスピンクスの断言に、アベルは無言を守ったが、スバルは喉を鳴らした。

 それがどれほどヴォラキア皇帝として屈辱的なことか、スバルにはわからない。

 だが、それは『選帝の儀』で殺したはずの妹を生かしていた事実と同じか、それ以上に皇帝の資質を問われる許されざることなのはわかる。

 そして、それを確かめることこそが、スピンクスがアベルを生かした目的だった。


「ご同行いただけますか、ヴィンセント・ヴォラキア皇帝。よろしければ、妹御であるプリシラ・バーリエルとお会いいただけます。要・検討です」


「プリシラと会わせるだと? 何を企む?」


「回答を拒否します。要・熟考です」


 抵抗するための決定打を持たないアベルに、スピンクスは奇妙な提案をした。その提案の真意は語られない。ただ、従えばアベルは多少なり生き長らえると。

 だからといって、そんな申し出にのうのうと従う可愛げは帝国の頂点にはない。


「戯言を弄するな、『魔女』よ。プリシラと話す必要があるなら、貴様の許しなどなくとも自らそうする。俺を――余を、誰と心得る」


「――――」


 堂々と、そう応じるアベルが腕を組み、『魔女』の申し出を払いのける。

 汚れ、血を流し、命さえ相手の掌の上に乗せられながら、しかし揺るがぬ姿勢を貫くアベルの姿は、紛れもなくヴォラキア帝国が尊ぶ剣狼そのもの。


「――要・反省です」


 表情にも口調にも変化はないが、そのスピンクスの声には明らかな失望があった。

 それがどんな理由でかは伏せられたからわからない。だが、スピンクスはプリシラの下にアベルを連れていけないことを残念がった。

 そして、スピンクスは失望させられた事実を拒むように振り返り、


「このものたちの命と引き換えでは? 要・再検討です」


 組み伏せられたスバルとスピカ、二人に指を向けながらの問いかけだった。

 その問いにさらに説得力を持たせるように、スバルを拘束したスピンクスの圧力が増す。


「あうう! うー、うあう!」


「スピカ……っ!」


 おそらく、同じようにスピカもプレッシャーをかけられている。ジタバタと、スバルよりも拘束を逃れる目があるスピカが、背中のスピンクスに抵抗しようとした。

 その抵抗が身を結ぶ前に――、


「が、ぎ、ぎああああ……ッ」


「――要・反省です」


 ミシミシと鈍い音に続いて響き渡ったのは、骨がへし折られる痛々しい破壊音。それはスピカではなく、スバルの右腕の肘が逆向きに折られた結果だった。

 激痛が脳を突き刺し、瞬間的に他の打ち身や擦過傷の痛みが吹っ飛ぶ。噛みしめた口の端から血泡がこぼれ、耐え切れない涙がボタボタと流れる。


 その見せしめに、スバルの腕を折ったスピンクスも、スピカの腕を折る寸前までいったスピンクスも、それを指示したスピンクスも、欠片も感情の揺らぎを見せない。

 ただ、自分の望みを叶えるため、見せしめに効果があるか観察者の眼差しだ。

 しかし――、


「――くどい」


 アベルの返答は、スバルの腕が折られようと、一切の感情を譲らなかった。

 それを受け、スピンクスはいよいよ、小さく吐息をつくと、


「できれば、あなたは生かしたまま連れていきたかったのですが」


「戯れるな。どうしてもそれを果たしたくば、俺を屍人に仕立てて連れゆくがいい」


「それは難しいというのが、ここまでの検討材料の結論です」


 そのスピンクスの返答に、アベルは思案するように片目をつむった。だが、その思案に進展が見られる前に、スピンクスたちが行動する。

 スバルとスピカ、二人を組み伏せたスピンクスたちが指を一本立てた。――その立てた指を、引き起こしたスバルたちの後頭部に当てて。


「あ、アベル……」


 折られた腕の痛みに、脂汗を浮かべたスバルが息も絶え絶えにアベルを呼ぶ。隣でもがくスピカも同じ状況で、スピンクスの狙いは明らかだ。

 だが、無意味だ。見せしめが通用しなかったのだから。


「人質にも意味はない。それとも、『魔女』はその程度のこともわからぬか?」


「そうでしょうか?」


「なに?」


「庇護心や情といったものは扱いの難しいものです。それは帝国の頂点であるあなたにとっても例外ではありません。――要・奮励です」


 そう、唯一自由なスピンクスがアベルに告げて、その手をゆっくり持ち上げる。

 そして、上げた手の指を一本立てると、それをアベルの胸に照準して、


「動かないでください。彼らの命が惜しいなら」


「――下郎」


 短く、歯噛みするようなアベルの言葉が、スピンクスの口元に歪んだ微笑を生んだ。

 その瞬間、スピンクスの指先に光が灯る。――アベルを狙った一人だけではなく、スバルとスピカ、二人の後頭部に突き付けられていた指にも。


 ――その『魔女』の、悪辣な選択を待っていた。


「跳べ、スピカ!!」


「え?」


 致死の光が放たれる寸前、スバルは痛みを忘れてそう叫んだ。それを受け、困惑したスピンクスの一人がその場から消える。――スピカの転移の、道連れだ。

 そうしてスピカが跳んだのを合図に、スバルの方にも動きがある。それは、スバル自身が動くのではなく――、


「いくら何でも無理しすぎかしら!」


 そう声を怒らせたのは、倒れたままスバルの合図をじっと待っていたベアトリスだ。

 辛抱強く我慢した彼女は、スバルの腕が折られた瞬間も堪えていた飛び出したい気持ちを紫紺の結晶矢へと込め、それをしたスピンクスへと叩き込む。


「――――」


 状況は、めまぐるしく入れ替わるように動いた。

 スバルとスピカ、二人を拘束していたスピンクスの攻撃は未遂に終わる。

 それも、スバルの側はベアトリスが阻止したが、スピカの側を阻止したのは他ならぬスピンクスだ。


 ――転移したスピカは、アベルを狙って魔法を放ったスピンクスの射線上に割り込み、その光の熱線で自分を拘束するスピンクスを撃ち抜かせたのだ。


「これは――」


 その望まぬ同士討ちを誘発され、ただ一人残ったスピンクスが目を見張る。

 一人は自分の魔法に射抜かれて消滅し、一人は魔法の矢を浴びて紫紺の彫像と化した。

 それでも、不意打ちでどうにかできるのはここまでだ。


「まさか、最後の一人まで立ち上がってくることはないようですね」


 腕を折られたスバルも、身動きを封じたスピカも、意識がないと思われたベアトリスも反撃を試みた。だが、残念ながら念入りに叩かれたジャマルは立ち上がってこない。

 それを見届けて、最後に残ったスピンクスは素早く両手を構え、その左右の五指から十条の光の剣を生み、今度こそスバルたちを切り刻もうとした。


 そのせいで、一番、目を離してはいけない相手から、目を離したとも気付かずに。



「――抜剣、『陽剣』ヴォラキア」


 静かで厳かな声が、腹の立つぐらいに頼もしく、スバルの鼓膜を叩いていった。

 どんな喧騒でも、どれだけ大勢の人間がいる場所でも、どれほど過酷な戦いの繰り広げられる戦場でも、その男の声は届かせたい相手に正しく届く。

 それはすなわち、人の上に立ち、人を導く宿命を背負ったものの、王器。

 そしてそれを証するように、その場にいた全員の目を眩く、赤く照らし出すのは――、


「――あなたは、それを持たないはずでは」


「たわけ。――俺が一度でも、『陽剣』を手放したなどと口にしたものか」


 ただ一度、その瞬間の勝機を引き寄せるためだけに、どれだけの苦難が立ち塞がろうと抜かれなかった真紅の宝剣が、空の鞘より引き抜かれる。

 そして――、


「化かし合いは、俺たちの勝ちだ」

「見くびったな。――俺の、二人の軍師の策謀を」


 痛みを堪えてスバルは勝ち誇り、アベルは切り札を失ったと『魔女』にさえ信じ込ませる策を仕込んだ、この場にいない軍師の力量を勝ち誇る。


 ――次の瞬間、『陽剣』を手にしたアベルが地を蹴り、飛んだ。


 それは、これまでのアベルとは比べるべくもなく、確かな力あるものの疾駆。『陽剣』が自らの選んだ所有者を、それに相応しき次元へと引き上げる。

 まさしく、世界が陽光に照らされるかの如く、アベルは力強く宝剣を振り上げ――、


「――『陽剣』は、俺が斬ると定めたものを斬り、俺が焼くと定めたものを焼く」


「――――」


 真紅の一閃が斜めに奔り、それはとっさにアベルを迎撃しようとしたスピンクスの十条の白光を一切の抵抗なく焼き払った。

 光が燃え上がるという不条理、それが起きて当然と信じ込ませる超常的な力が『陽剣』の輝きにはあり、それ故に次の結末も必然的なものだった。


「――ぁ」


 と、掠れた吐息を漏らし、大きく飛びずさったスピンクスが自分を見下ろす。

 素早い身のこなしで下がった『魔女』は、しかし、その桃色の髪をひと房、『陽剣』の瞬きに斬られていて――刹那、スピンクスの全身が発火する。

 そしてそれは、斬られたスピンクスだけでなく、自らに撃たれて塵となりつつあったスピンクスと、紫紺の結晶と化していたスピンクスにも延焼していた。


 ――『陽剣』ヴォラキアは、『魔女』スピンクスを焼き尽くすと定められた。

 その結果が、ああして燃え上がるスピンクスたちの姿だ。


「――――」


 炎に包まれたスピンクス、それが燃え尽きる前の悪足掻きをするのを警戒するが――、


「無用だ。『陽剣』の焔に焼かれるということは、そういうことだ」


「……そうかよ。つくづく、土壇場までそれを隠しとくお前の神経を疑うぜ」


 片手に『陽剣』を下げたまま、スバルの警戒を杞憂だと指摘するアベル。そのアベルに悪態じみた言葉を返すと、彼はそれには答えない。

 ただ、立ち上る炎に焼かれ、その魂までも届く焔の中にあるスピンクスを見据える。

 見据えながら、アベル――否、ヴィンセント・ヴォラキアは言った。


「此度の献策。――大儀であった、チシャ・ゴールド」


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