ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年03月24日
 ある田舎町で一人の少女が死ぬ、そこに至るまでの道筋が、少女の友人の共感と違和感によって語られる。と、まあ、大まかな流れを切り出すと、そういうことになるのではないか。『SIGHT』23号掲載の北上次郎と大森望の書評対談で取り上げられていて、気になったので、読んでみたのだが、うーん、いろいろなことを思う。そこでもそうだし、ネットまわりの感想を見てもそうなのだけれども、基本的に「救いのなさ」というのが評価のベースにはあるような感じがする。もうちょっといえば、その「救いのなさ」に読み手が感情移入することで、この作品が持つリアリティみたいなものは成立する、ということだ。が、しかし、それが良い傾向なのかどうか僕にはわからない。前述の対談のなかで、大森望は、次のように言っている。

 ライトノベルだからってメイドさんが出てきたり宇宙人が降ってきたりの明るく楽しいバカ話ばかりではなくて、文学的なテーマのもぼちぼち出はじめていて。特に中学生、高校生読者なら胸を打たれる。そういう可能性はすごく感じます。思春期ものとしてはあるレベルでリアリティがある小説ですよ。

 さて。文学的なテーマとは、いったい何だろう。読者の共感を担うこと、そして、リアリティを代替すること、それが文学的なテーマなのだろうか。たぶん大塚英志が『物語消滅論』とか、あと『小説トリッパー』2005年春号とかでいっていることというのは、そうじゃない、というようなことなのだと思う。この小説の共感あるいはリアリティは、ひとりの少女が自分の力の及ばない因果律によって死ぬ、という事実によって担われている。だからこそ少女の友人が、物語のラストで、世界との戦いを決意するくだりには、ブルーに陥った気分をすこしだけ浮上させる力強さがある。たしかにこの世界はクソで、クソに飲み込みたくなかったら、戦いは続けられなければならない。だが、それっていうのは、ここ数十年の間、延々と繰り返し提出されてきたサブ・カルチャー的なテーゼの、そのヴァリエーションなのではないだろうか。それはときに敗北の歴史のようにも見える。あるいは、その結果として、まるで大人のいないような今の時代が出来上がったのだとしたら?

 だから、もしも、と考える。いったん終わった物語は改変することができないとしても、もしも、この小説のなかで少女を死なせないためには、どのようなことが可能か。たとえば少女が自分を死に至らせる原因を逆に殺す、たとえば社会的なシステムが少女を(すくなくとも)その状況から引き離す努力をする、現実的には、そのあたりがぱっと思いつく。けれども、どちらをとってもクソであるところの世界が変わるわけではないし、少女の魂が救われるわけでもない。じゃあ、やっぱり少女は死ぬしかなかったのだろうか。だったら、それが正解で終わりである。だから、もしも、この時代に文学が抱えなければならない問題があるとしたら、そういったこととまったくべつのレベルで、少女の魂を救い、そして生かし続ける、そのための言葉を提出することなのだと思う。もちろん、サブ・カルチャーがそれをやってもいい。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(1) | 読書。
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