ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年12月28日
 波状言論S改―社会学・メタゲーム・自由

 25日に、新宿の紀伊国屋ホールで行われた「ゼロ年代の批評の地平―リベラリズムとポピュリズム/ネオリベラリズム」というトーク・イベントへ、行ってきたのである。そこで東浩紀は、本書『波状言論S改』について、ある意味で、宮台真司論になっている、というようなことを言っていたのだった。いや、まあ、たしかにそういう側面はある。この本の序盤で、もっともリアリティのある発言は、じつは東の次のものであると感じられた。〈今日は、なんというか、僕が三十代になにをするべきかについて、ヒントをいただければと思って鼎談を申しこんだのです〉P69。〈たとえば僕の場合、政治的に機能の言葉を駆使できそうな分野として、情報通信系とコンテンツ産業系という二つの世界があります (略) ここの部分では、僕は政策にもけっこうからめる気はするわけですね (略) でも、そんなことやって、三十代の貴重な時間を使っていいのか、と真剣に考えてしまう〉P70。つまり、ひとりの若い人文学者がこれから壮年期を生きるにあたって感じている多少の迷いが、宮台という先行者を、その分析のうちに捉まえるのだろう。いや、しかし、だから本書の言い方を借りれば、「アイロニカルにベタ」ではなくて「ベタにアイロニカル」な、いまの宮台のスタンスは、すこし野暮ったくも見えるに違いない。が、しかし読み手である僕の関心は、あまり宮台にはなくて、『自由を考える』の続編にあたるような、大澤真幸×鈴木謙介×東浩紀による鼎談「再び「自由を考える」」の項に集約されているのであった。というのも、ここ最近、大澤が寛容というタームを使って掲げる論理、たとえば北朝鮮からの難民を無条件で引き受けたりすることで、たとえばイスラム原理主義者以上にイスラム原理主義的に振る舞うことで、相手の敵意を無効化させる、要するに、圧倒的な喜捨によって前提を共有しない他者(他国)を自然と理解のテーブルに座らせるといった提案は、たしかに夢があり、正直ワクワクさせられるのだけれども、とうてい実現可能だとは思えず、そういった意味ではついていけないところもあったのだが、〈可能性への想像力を喚起したい〉〈とにかく思い切った選択肢もありえると示せば、新しい想像力の空間が開かれるわけです〉P299といわれれば、なるほど、腑に落ちる。つまり、である。硬直したイメージのなかにあっては、人は眼前にある可能性を自由とは感じられず、具体的に想像しうる不可能な事柄からの逆算により、未来を創出していってしまうものなのかもしれなかった。さすがにそりゃあ閉塞感だろう。
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2005年12月27日
 ロックンロール七部作
 
 古川日出男に関しては、『LOVE』も乗りにくい作品であったが、この『ロックンロール七部作』もかなり乗りにくく、この路線を押し進めるかぎりでは、これ以後に出る小説については、たぶんパスしていってしまうかなあ、という気がした。読後感を、ロックン・ロール風に、一言でいうのなら、SO WHAT? ってなところである。『ロックンロール七部作』とは、つまり一部一部が、ひとつの航海であり、ひとつの大陸であり、ロックン・ロールの生誕にまつわる、ひとつひとつの物語のことを指しており、それらは作中の言葉を借りるのであれば、〈二十世紀という大きな枠の内側で行われた。その内部に限定されて〉いるがゆえに〈だから、二十世紀の七つのロックンロールの物語は、当然、二十一世紀から語られる〉というわけだ。さらに言い換えると、20世紀最大の発明であるロックン・ロールの、その正史(ノンフィクション)をベースに、ロックン・ロールの偽史(フィクション)が、コード化される以前の、断片的な物語として、配列あるいは並列されてゆく。しかしそれが、いま現在に僕たちが知ることのできる、ロックン・ロールのコンスタティヴな100年間と比べたときに、よりスリリングであったり、エンターテイメントしているかというと、いや、そんなことはなかった。どうやら犬を主語(『ベルカ、吠えないのか?』)として動かすことはできても、ロックン・ロールを主語として扱うことは難しかったようである。思案が、ところどころで読み手の感情移入をはぐらかす、もちろん、そのはぐらかすことが本質的な狙いであるなら、否定すべき点ではないのだろうけれども、総じて、調子の悪い高橋源一郎の小説みたいに感じられた。

・古川日出男その他の作品に関する文章
 『LOVE』について→こちら
 『ベルカ、吠えないのか?』について→こちら
 『gift』について→こちら
 『ボディ・アンド・ソウル』について→こちら
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2005年12月24日
 作家の読書道

 WEB本の雑誌に公開された、大勢の作家へのインタビューを1冊にまとめたものである。インタビュー内容は、タイトルどおり「作家の読書道」といったものだろう。僕はネット上で、これの元になるものを目にしたときがなかったので、けっこう、へえ、と思いながら読んだ。書いている作品からしてクレヴァーな人は、やはり読んでいる本からして、そのクレヴァーさが伺い知れるなあ、逆に、そうでない人は、ほんとうにそうでないんだなあ、と。それはともかく、吉田修一が生田紗代の『オアシス』を、森絵都が伊井直行の『草のかんむり』を褒めていたのは、なんか、ほおう、となった。北方謙三の中上健次に対する発言は、ちょっとずっしり、きた。にしても、村上春樹っぽい文章を書く人は、ほんとうに村上春樹に影響されているご様子で、大崎善生のあたりはこちらが恥ずかしくなってしまったほどである。そんなに好き好き光線を出すなよ、あんたの小説読めばわかるよ。反対に、ずいぶんと高尚な本を読んでて、あんたの作品はあんなのかよ、という人もいるにはいるが、まあ読書というのは、ある種のスノッブさを演出することがあるわけで、坊っちゃんくさく格好つけたい盛りなのだろう。あはは。そのなかでも、きっぱりとマンガばかりを挙げる長嶋有は、やっぱり好感度が高い。そういえば、大江、中上がいて、そのあとに両村上、吉本ばなながいて、そのへんを押えておけば、現代文学は語れてしまうみたいなことは、もう十数年も前から言われている気がするけれど、そういったラインは、現状ではあまり更新されていないみたいだ。あと数年したら、マンガとミステリとライトノベルの影響で変化あるのかもしれないが、大勢としては、まだだ。   
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 この恋愛小説がすごい!2006年版

 宝島の人はもう、「すごい!」っていうのは、やめないか。だいいち形容の仕方が間違っているだろう。というのも、20位中に選ばれた小説のうち、僕は15冊しか読んでないけれども、正直、そのなかに「すごい!」というのはなかったのである。どれも、褒める場合であれば「ふつうによい」恋愛小説だと思う。強いていえば姫野カオルコの『桃』あたりは「すごい!」というのにあたるかもしれない。島本理生のインタビューを読むと、どうにも一般論でしかなくて、結局のところ、恋愛をビタースウィートなものとして求める読み手というのは、「ふつうによい」ものを欲しているんだろうな、と思う。誰が書いている(まとめている)のかはわからないが、「素敵な恋のはじめ方、終わらせ方。」という、いろんな小説の引用に基づいたエッセイをみれば、まあ、それがよくわかる。人は、自分がステレオタイプであることに安心するが、それを自覚することには耐えられない、つまり、そういうことだろう。
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 ノーディスク・ミュージックガイド~iTunes Music Store ですぐ聞ける1000曲案内
 
 i Tunes Music Store、略してiTMS内にて現時点で購入できる楽曲のガイド・ブック、になるのかな。サブ・カルチャーの資料的に手に入れたのだけれども、どういう人たちが読むのか、ちょっとわからない内容である。オタクとサブカルでいったら、まちがいなく、サブカルの領域に属するのだとは思う。感覚としては、90年代によく見かけたギター・ポップ関連の本に近い。けっこう、いろんな書き手が参加しているのだが、まあ字数の関係もあるのだろうが、文章それ自体は読み応えがない。そこらへん、もったいない。それとジャンル分け(っていわないのかな)もアレな感じである。だって、もっともヘヴィ・メタルなセレクションが「ロックギター」の項の野村義男よりも「歯医者」の項のサエキけんぞうなのである。やまだないとのマンガは相変わらずナイスで、何人かのミュージシャンにあたったインタビューは短いけれども、どれも今の時代を反映した、逆をいえば、今読まないと意味がない、それ相応の発言が詰まっている。ちなみに、いちばん感心させられたのは巻末の「教科書に載らないニッポンの音楽配信の歴史年表」であった。
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2005年12月19日
 文芸時評という感想

 『文芸時評という感想』は、現代詩作家である荒川洋治が、1992年から2004年までの間、つまり12年間に渡り、産経新聞に連載していた文芸時評を、一冊にまとめたものである。読みはじめる前は、二段組みで、そこそこの厚みがある本なので、読むのに難儀するかもしれないなあ、と思ったのだけれども、これが、そんなことはなかった。ずんちゃずんちゃと読みすすめ、一気呵成に読み終えてしまった。要するに、夢中になるほどに、おもしろかったというわけだ。いや、ほんとうに、ここ最近手にした書評集のなかでは、もっとも読み甲斐のある内容であった。

 率直にいって、荒川洋治という人の読書における趣味と傾向は、僕個人とは異なるものだと思う。もちろん賛成であったりオッケーであったりするところはあるが、基本的には、ちがう。読み方が違う。しかしそれでも、ある一個の意見に対して、あーそういうこともあるのか、と考えさせられるし、だからこそ逆に、なるほどそれならばわかる、といった具合に啓蒙されたりもする。ある言い切りが、書き手のなかで、閉じられていない、読み手に向けて、開かれているのである。大げさにいうと、書評というのは、すべからくそのようにしてあるべきだし、そのようなものはもっと多く書かれ、もっと多く読まれたほうがよいに決まっている。だが、それは難しく、その難しいことが、ここでは行われている、と(繰り返すが)大げさにいうとすれば、そんな感じだ。

 荒川は、自分には批評を書く能力がないので感想を書くだけだ、といっている。これはべつに謙遜でも、ましてや批評する主体としての責任を負いたくない、ということではない。ある作品に触れた、そのときに覚える感想を何よりも重視したい、という態度である。〈人は感動ばかりを求めているのではない。感想だけでもときには、なかなかいいものである。とりとめもないので、あれこれぼんやり考えさせる〉、その広がりをもって〈感想はそのうち感動をこえていく〉、だから〈感動ではなく感想のなかに流されながら、何かを感じとる心地よさ〉を荒川は尊ぶ。しかし、ふつう、そうした見方は、どこか甘いものを連想させる。感想という語は、感動という語に比べると、どこか軽く、うすく、その重厚ではないことのなかに、曖昧さが現れ、厳しさが隠蔽されてしまうのではないか、と訝しがる。だが、しかし荒川の捉まえ方は、全編を通じて、かなりハードだ。なかには、それを言ったらおしまいだろう、と感じるぐらい、キツいものもある。

 たとえば吉本ばなな『アムリタ』を論じた項(93年)である。そこで荒川は、吉本の話の中身よりも、「本当」や「ほんとに」などを乱用する、その言葉遣いのほうが気にかかる。〈ことばが作品そのものを侵していく危険すら感じるからだ〉という。

 「本当」「一生」「恐るべきこと」「悲しい気持ち」「心の底」などの多くは、いわば究極の、感情表現・価値判断を示すことばである。若い世代がよくつかう。文章や会話を現実に支えているのは実はこうした型どおりのことばなのだからこれはこれで正直だ。でもものを書く人がそんなことを簡単にいってしまってもいいのか、とも思う。

 このような批判は、吉本の作品を対象とした際に、かつてよく見かけた類のものである。ちなみに『アムリタ』大好きっ子である僕の立場をいえば、じつはその「本当」や「ほんとに」とした言い方こそがよいのではないか、それこそが矮小にして切実な説得力をもたらしているのだと、ほんとうにそう思う。思っていた。けれども、今は、ここで、荒川がいっていることが、よおくわかる。

 吉本さんの読者は、作者が「本当」といえば「本当」、「心の底」と書けば「心の底」とみる。作者が自分のことばの「レベル」を疑わなければ、それでどこまでもついていく。吉本ばななは「レベル」を知るかしこい作家だ。そしてその「レベル」を他人には教えない作家でもある。肝心のところで、情がうすいのである (略) 読者は「ついていけない」ことをとるより、作者に「ついていく」安定をとる。そこにしか人間の関係をみられなくなっているからだ。「本当」についていってしまう。そういう読者に寄り添う「特殊技能」が作家の「一生」の仕事になりかねない。

 こうした断定は、じつは10年以上もの歳月が経った現在にも、ちゃんと届いている。いま、吉本ばななではなくて、よしもとばななが置かれている状況と、彼女の書く文章に、的確に達している。以前、吉本が使っていた「本当」や「ほんとに」は、小説が、世間に開かれるためのものであったが、今や「本当」や「ほんとに」を、よしもとが書くたびに、そのセンテンスは内輪受けの指示語として閉じられる。もはやある種の排他主義でしかない。そして、そのことに甘んじる書き手と読み手の共犯関係が、僕にはどうもむず痒いのである。またその傾向は、後発の世代の作家や読者にも継承されているように感じられて、どうも居たたまれない気持ちになる。感情移入と共感の回路が肥大化し、それによってのみ作品が成り立ち、各人の自意識が安定するというのは、やっぱりマズいよなあ、と嘆息するのであった。

 話が逸れた。が、それというのは、つまり、これを読みながら、自分の頭の中身がかき回されたということでもある。他にも興味深い箇所はたくさんあるけれども、それらをいちいち挙げていったら、キリがない。たとえば、保坂和志への辛辣な反応には、にんまりとさせられるし、金原ひとみの言葉のうちにある〈思考なし。想像力なし。責任なし。つつしみなし。表現なし。つまり文章と呼べるほどのものはなし〉であるかのような軽薄さを取り出し、それがむしろ鮮やかに映える様を滔々と語るくだりなどが、じつにいい。また90年代以降から現時点にいたる文学のシーンを振り返る際に、事細やかな記録として重宝する、そういう側面も持ち合わせている。そういえば、あのころ東浩紀は文壇で頑張ろうとしてたんだよなあ、と、すっかり忘れていたことを思い出す。
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2005年12月17日
 「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか

 『「ジャパニメーション」はなぜ破れるか』。なんでだろ、と思いつつページを開けば、どうもまたもや語り下ろしみたいなので、ズコーとなってしまうが、まあいいや、さて本題であるけれども、ここで大塚英志がいっていることを、ものすごくシンプルに取り出すのであれば、「ジャパニメーション」という国策に日本のアイデンティティや伝統、経済を仮託したところで、アニメやマンガなどといったものは、元来、ディズニーすなわちアメリカのカルチャーを母体としているのであって、西洋の視点をいったん経由した「日本」の像でしかない、そうした意味で、それすらも「グロバール」化の一部でしかないのであるから、なんだ最初から勝負になってないじゃん、といった感じだろう。要するに、巌流島の決闘で鞘を捨てた佐々木小次郎に向かって、宮本武蔵が「小次郎、敗れたり」という、あれである。違うか。

 ところで以前より僕は、そのようなことも含め、大塚が、なぜこの時代のこの国のこの状況を指して、たとえば江藤淳がいったような「占領下」ではなくて、「戦時下」と言い表すのかよくわからなかったのであるが、これを読んで、その件については、すこしだけ明るくなった気がする。どういうことか。マンガが現代のフォーマットに結びつくかたち、言い換えれば、起源として生成したのを、戦前でも戦後でもなく、戦中イコール戦時下であったと結論し、そこで行われたことと、それらを行った感性とが、今日のオタクの在り方または日本を象徴するものと相似である、と演繹していった結果、「戦時下」という言葉が選び取られているというわけだ。「占領下」は戦後と同義である、しかし、現状を省みるに、それ以前の段階、つまり戦中「戦時下」にまで、サブ・カルチャーの達成は後退している、といった指摘なのではないだろうか。また、そうした「戦時下」をサヴァイバルするだけの倫理を、いまサブ・カルチャーは持ちえていない、といっているようにも感じられる。

 では、だから、たとえば自分が属するマンガというジャンルに対しては、「イデオロギー批評」の立場を、あえて採るというのが大塚の言い分である。技術を成立させた、その背後にある思想や歴史をこそ、重視すべきだというのだ。なるほどなるほど、その点に関しては、おおいに首肯する僕なのであったが、述べられている事柄のなかに、おおまかにいえば2点ほど引っかかることがあったので、それを簡潔に書き留めておきたい。批判ではなく、ささやかな疑問である。

 ひとつには、手塚治虫から梶原一騎のラインを語る際、『あしたのジョー』におけるジョーの記号性と身体性に触れるのだが、それはすでに夏目房之介『マンガの深読み、大人読み』において行っていることで、それを踏まえると、夏目の記号的な分析と大塚がいう「イデオロギー批評」との差異は、やけに不明瞭だ。また、〈記号的身体と内面との葛藤という手塚的主題は、二十四年組と梶原の中で達成され、そして集結した気さえします〉というわけだけれども、梶原と二十四組の両者をいっしょくたに抱え込み、80年代に登場したマンガ家として、たとえば安達哲などが挙げられるとき、彼のような、現在の「萌え」に繋がる系統とはべつの、いわゆるサブカルというカテゴリーに収めてしまってもいいだろう人たちをスルーしてしまったのは、どうなんだろう。すくなくとも『戦後マンガの表現空間』(94年)の頃の大塚であったなら、無視しなかったのではないか。と思う。

・その他関連
 『「戦時下」のおたく』ササキバラ・ゴウ編について→こちら
 『COMIC新現実』vol.2について→こちら

・大塚英志その他の著作に関して
 『憲法力――いかに政治のことばを取り戻すか――』について→こちら
 『物語消滅論――キャラクター化する「私」、イデオロギー化する「物語」』について→こちら
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2005年12月16日
 『週刊新潮』12月22日号掲載の掌編。巻末のファンケルの宣伝ページっぽい「街の名は」という欄の、第33回福井篇のために書かれたものである。同じく福井にゆかりのある米谷清和という画家が挿絵を担当している。内容は、ほかの作家であるならば、エッセイに近しい、つまりテーマというかメタ・メッセージの捉まえにくい、日常と心象であるのだけれども、舞城王太郎の場合、そのプロフィールの不明確であるという匿名性を含め、文体それ自体が、良くも悪くも、素直に物語化してしまう傾向があり、そのへんは村上春樹における「僕」の使用と似ていると考えるのであれば、大塚英志がいう舞城批判の核はそのあたりになるのだろうが、しかし舞城にしてみれば、もしかするとそれは、私小説的な「私」とは切り離されたものを、テクスト上に展開するための手順なのかもしれず、じっさいにここで「俺」と書き記される人物が、何を担保にして主体として成り立っているかといえば、その誰でもない(誰でもありうる)無記名であることが、読み手の感情移入を誘う姿形によって、仮構の「俺」が特権的なキャラクターとして固有化される、リアリティを帯びるのだとしても、では、それが村上春樹の「僕」とどこがどう違うのかというのは、なかなか厄介な問題ではある。だが、そういった諸々の事情が、読み物の興を殺ぐかという話をしたら、すくなくとも僕の立場では、そんなことはなかった。悲しみは石になり、地面として足下にあるが、「喜びは鳥になる。」その鳥になることは、ここに書かれていない。友人の幸福が、象徴的に、それとして示されている。ところで32歳の「俺」というのは、それでもやはり舞城本人を想起させずにはおれない。「俺」は、山崎の二次会に、友人の藤田とともに出席するのであるが、山崎は文脈からするに女性である。要するに、新婦にとっては異性の友人であるから「俺」と藤田は、結婚式自体には出られずに、二次会から参加するのかな、と推測する。でもってビンゴをやったりする。だとしたら、あーあるある、そういうことってあるよね、と思うのであった。

・その他舞城王太郎の掌編
 『A DRAGON 少女(ドラゴンガール)』について→こちら
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2005年12月13日
 ルーガ

 もともとは詩人である小池昌代の小説を読むのは、これがはじめてだ。これまで購入した文学誌のなかに、彼女が書いたものを見かけることはあったのだけれども、どうも興味が引かれなかったためである。車谷長吉が『群像』1月号で、この『ルーガ』を評していて、それがきっかけになった。車谷は〈小説のよし悪しを決めるのは、その作品の中に作者の生魑魅がいかに息づいているか、によって決まる。生魑魅とは、人の怨霊である〉といい、小池の作品のなかに、それがちゃんと書き記されていることをもって、〈はじめから文学の神髄を衝いていた〉と褒める。それで、へえ、と思ったのだった。とはいえ、じっさいに読んでみれば、車谷の書評ほどには震えなかった。というのはあくまでも、話の筋だけを取り出せば、ということである。しかし、なるほど、たしかに生魑魅が息づいている、とは感じられた。だから、それはむしろ物語ではなくて、文体あるいは語り口のほうにこそ、宿っているのだろう。表題作である「ルーガ」において、ミシンに取り憑かれた四十代の中年女性がどのような顛末を辿るのかは、車谷の評により事前に知っていたのだが、それでも不穏な空気の満ちゆくことに、息が詰まる。「ニギヤカな岸辺」そして「旗」の、他の二編についても同様であった。それは僕の若さからみると、たぶん、年齢を重ねることと拭い切れない孤独からやってきているのではないか、と思う。それを伝える言葉は、けっして重たくはない、むしろ軽く、テンポの心地よさに、ついページをめくっているうち、いつの間にか泥沼にはまっている、そのことが、小説全体に、ぐにゃり、として居たたまれない感触を作っている。登場人物たちはみな、性急さをどこかに置き忘れている。とてもとても穏やかに過去が語られる、そのときに彼女や彼らから見える、幸福と虚無との距離は、あまりにも近いようであった。
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2005年12月12日
 『メフィスト』1月号掲載。『まよいマイマイ』は、『ひたぎクラブ』に続く、シリーズ2話目である。戦場ヶ原ひたぎの事件から一週間が経とうという、日曜の晴れた朝に〈僕〉こと阿良々木暦は、ひとり見知らぬ公園のベンチに腰掛け、ぼんやりと空を仰いでいた。妹とのちょっとした諍いのせいで、家に居づらくなったためだ。そこで大きなリュックを背負った迷子の小学生と出会う。八九寺真宵である。彼女もまた、〈僕〉や戦場ヶ原と同じく、人外の存在と関わりを持つものであった。正直なところ、これはすこしイマイチだなあ、と思いながら読み進めた。というのも、仕掛けのようなものは、かなり最初の段階から気づけてしまうし、この作品の場合、会話が物語を進行させるのであるけれども、それが軽口に過ぎる、おどろくほど中身のないように感じられたからだった。しかし、読み終えてみれば、なるほど、と説得される。つまりレトリックの連続による真相の迂回こそが、根幹と深く繋がっていることが、わかる。何でもないようなことが、何でもないとして切り捨てられる、そういった所作を否定するがために、前半のひどく無意味なやり取りは、小説内に組み込まれなければならなかったのだろう。レトリックは本質そのものではないが、本質を結果的に反映しているに違いない。とすればこれは、それを糸口にして〈僕〉が、自分のちっぽけな自意識と和解する道筋だった、と解釈することも可能なわけだ。また、そうしたネジレを相対化するために、直截な物言いをする戦場ヶ原が、登場人物のひとりとして配置されているのかもしれない。ふたりのやり取りが気の利いたものであるかどうかは、僕のセンスでは判断できないけれど、あの「戦場ヶ原、蕩れ」っていうところはソー・キュートで、ほんとうに流行るといいなと思いつつ、照れた。悪くない。にしても、さいきんの西尾維新は闇が薄れてきているな。

 『ひたぎクラブ』について→こちら

・西尾維新その他の作品に関する文章
 『ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言使い』について→こちら
 『ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種』について→こちら
 『ネコソギラジカル (上) 十三階段』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――最終回「終落」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第五回「五々」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第四回「四季」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第三回「第三」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第二回「二人」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第一回「唯一」』について→こちら
 『ニンギョウがニンギョウ』について→こちら
 「コドモは悪くないククロサ」について→こちら
 「タマシイの住むコドモ」について→こちら
 「ニンギョウのタマシイ」について→こちら
 『新本格魔法少女りすか 2』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか』について→こちら

 『総特集 西尾維新』ユリイカ9月臨時増刊号について→こちら
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2005年12月10日
 『群像』1月号掲載。よかった、これ。これ、よかった。いま、二度言ったのは、すごくとまではいかないまでも、思いのほか良い小説であったことをお知らせしたかったからである。舞城王太郎の新作『SPEEDBOY!』は、名字のない、背中に鬣を持つ、足の速い、成雄という人物の動きによって話が進められるわけで、そのことは、同作者が以前に書いた『山ん中の獅見朋成雄』の続編的なものを期待させるけれども、作品の構造は『好き好き大好き超愛してる。』に近しい、関連づけの曖昧な短編の積み重ねが、抽象的なメッセージを形作っている。あるいは、あのなかに含まれていたSF的なパートを『九十九十九』式にリセットとリピートした感じともとれる。とはいえ、そのメッセージ自体は、異なった風だといえる。相通ずるところはあるのかもしれないが、べつの装いである。総体は、ぜんぶで7つの節から成り立っている。その内部を、成雄という同じ名前と身体の特徴を持つ、べつの主人公が生きている。それぞれは、設定の上ではリンクしているが、ストーリーの点ではちょっとずつズレている。その差異に、たぶん謎解きのような要素はなく、あったとしても熱心にこだわる必要もなくて、むしろ綴られる言葉を追ううちに、自然と、ああそういうことか、と思う。そのような体でもって伝えられようとしていることは何か。シンプルに取り出せば、主体が他者により規定されることの是非、であるのだろう。是非を問うということではなくて、是と非の両面を受け入れる姿形が、最終的には、描き出されている。落としどころがやや綺麗すぎる嫌いがあるけれども、人と人とがけっして解り合えないことは、しごく当然のことでありながら、ふつう絶望の溜め息に似た物語に収まりがちである、そこのところを、確執と断念でもってイージーに結着をつけず、未来にトスされる希望として提示した、そういう態度をこそ、高く評価したい。ところで、走者が集中力によって人智を越えたレベルに達するくだりは、小山ゆうのマンガ『スプリンター』を思い出した。

 「はてなダイアリー」のほうにもうすこし詳しく書きました→こちら
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2005年12月08日
 『新潮』1月号掲載。いや、第一部が掲載されてから約半年、待った甲斐があったというに相応しい、「ザ・パインハウス・デッド」、堂々の「ディスコ探偵水曜日」第二部である。

 変な文脈読んだつもりになってアホなところに余計な顔突っ込むなよ探偵。
 水星Cに言われたあの台詞からだ。あれがショックだったんだ。どうしてショックだったかと言うと、俺の信じる運命だとか必然だとかが言ってしまえば《変な文脈》に過ぎないからだ。梢と知り合い、《未来の梢》がやってきて、《ノーマ・ブラウン的勺子》がやってきて、《島田桔梗》がやってきて、《パンダラヴァー》の事件が関わってきて、《星野真人》がやってきて、《手紙》が起ったことにして、俺は運命や必然の確かな存在を感じていたつもりだったのに、水星Cのおかげで唐突に、それを疑わなきゃいけない気持ちになったからだ。


 行方知れずになった6歳の梢(の精神)を追い、彼女が口にしたパイナップルトンネルのヒントを求め、暴力製造マシーンである柔道君こと水星Cとともに、福井県西暁町へ向かったディスコ水曜日であったが、やはりとでもいうように、そこで起っている「パインハウス殺人事件」にコミットしてしまう。

 ミステリ作家である暗病院終了の自宅(通称パインハウス)で起った殺人事件、その真相を、次々に名探偵が推理しては、殺される。誰も解答には到達できないみたいだ。事件をトレースする水星Cのあとを付いていくうちに、ディスコは、梢にまつわる驚愕の真実に辿り着く。しかし、それすらも、ほんとうには、真実ではなかった。

 前半の饒舌で思弁的な語り口は、自意識の物語化を誘発するけれども、その物語を解体してしまう、後半のストーリー・テリングは、舞城王太郎という筆力でなければ為しえなかった、そういう域だろう。
 
 世界の中心とはどこか? 情報と文脈のあいだで、主観と状況がぶれる、揺さぶられる。それに従って、正しさは、その居場所を失う。細かい部分はともかくとして、全体の構造としては、第一部を反復している面が、この第二部にあるよう感じられるのは、すべてを判定する命題が先送りされた結果、疑問だけが事細かく解説されるためなのだろう。ディスコにとって、梢の存在は、あくまでも非決定を意味し続ける、だからこそディスコという主体は、梢なる他者であるところの物語を、ひとつのテクストとして解釈し続けることが可能なのだとして、その可変であることが逆に、主体を規定しうるとき、ではお前はいったい何者なのだ。と、ふいの問いが、読み手である、この僕のほうへと投げかけられた。

 『ディスコ探偵水曜日 第一部 梢』について→こちら
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2005年12月07日
 メルトダウンする文学への九通の手紙

 この渡部直己『メルトダウンする文学への九通の手紙』が、愉快だといえば愉快だと思えるのは、さまざまな文芸批評家や小説家に向けた批判文を収めた、そういう体裁をとっている、つまり野次馬根性からなのであるけれども、反面、いささか退屈に感じられたのは、けっきょく何がいいたのかよくわからねえや、という根本的な理由による、もちろん、それというのは僕が馬鹿だからなのだといわれれば、それまでの話である。しかし、渡部がいうところのメルトダウンあるいは「メルトダウンする文学」とは、いったいどういう状態を指しているのだろうか。「面談文芸時評」(『現代文学の読み方・書かれ方』)のアップデート・ヴァージョンが『新潮』の12月号からはじまったが、そこでもゲストである青山真治に〈批評もふくめそれこそ「メルトダウン」としか呼びようのない惨状〉といっているとおり、ここ最近の渡部にとっては、なにかしら重大な関心事であり、キーターム化したいほどのものなのだろう。いや、たしかに第七信、中原昌也の項における注釈で〈その後、『群像』のあられもないメルトダウンを筆頭に、『新潮』も『文學界』も、作中にいうその「立派な邸宅」の趣を急速に変化させていることは、周知のとおりである〉といわれるまでもなく、そうした惨状は実感としてはよおくわかる、それこそ周知のとおりであるわけなのだけれども、そのように考えるのであれば、渡部が行っているのは、要するに、その事後確認にしか過ぎない感じがするのであった。やあねえ、文学が今日もメルトダウンしてるわよ、えーどれどれ、あーほんとうだわ、といった具合に、主婦の井戸端会議を思わせる程度に、である。はたして、それが読者の野次馬根性以上のものを満たすことがあるのだろうか。斎藤環にかぎらず、陣野俊史や田中和生ら、いわゆる若手批評家と称される人たちが、ろくに小説を読めないばかりか、おもしろ文章を書けないのは、それもまた周知のとおりであるとして、にもかかわらず、それら批評家の言葉を信じてしまうような読み手がいるというのであれば、彼らを罵倒するよりも先に、それ以上の鮮やかな読み書きをこそ披露すべきであった。ところで個人的には、ここで渡部がはからずも実践してしまっている、阿部和重至上主義みたいなものをまず、J文学以降のこの国の小説家ないし批評家は乗り越えるべきだろう、と思う。

 『新・それでも作家になりたい人のためのガイドブック』(スガ秀実との共著)について→こちら
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2005年12月06日
 剛くんはいいね、僕のなかではひじょうに好感度が高い。というわけで、堂本剛のエッセイ集を読んだ。『ぼくの靴音』という題名どおり、彼の19歳から25歳までの、6年間の軌跡が綴られている。これがしかし、けっこう胸の軋む内容で、こんな内面を抱えながら生きるのはしんどいだろうなあ、と真剣に気になってしまった。アイドルのエッセイというのは、まあ、どこまで真に迫っているのかどうかは不明な点があるけれども、『ぼくの靴音』の場合、堂本剛というパブリック・イメージと重なり合う言葉が詰め込まれており、むしろ、本質がどうであろうが、つくられたキャラクターであったとしても、その指向性をけっして損なうものではない。たとえば、そのことは「ここ」を「此処」と、「言う」を「云う」と書き込むような、似非文学的な記述(これは、ここでは褒め言葉です)に現れている。エッセイは、99年「物語の始まり」という項から幕を開けるのだが、そのなかにこうある。〈ありとあらゆる“旅”を紹介するにあたって、最初に申し上げておきたい事があります。堂本剛という人間は、超が付く程ネガティヴな動物です。場面によってはポジティヴだけど、基本的にはネガティヴ思考です。それを理解した上で“旅”を楽しんで下さい〉。このような、あらかじめネガティヴであることを前提とした立ち位置は、彼と同世代(堂本剛は79年生)の作家が書く小説や、Jポップ・アーティストの歌詞を見る限り、ある年代以降、ごく自然な振る舞いなのではないか、と思う。そのように捉まえれば、今のヤングな人々を、等身大な姿形として、反映したものだといえる。また、半径5メートル程度のリアリティが、すぐさま世界という概念と直結してしまういくつかの文章は、それこそセカイ系と呼ばれるものに近しい感性だろう。そうでなければ、まさに「ぼくっていったいなに」風の自分探しが、何よりもリアルで切実なものとして、提出されている。ただし、かなりポエム満載な後半に差しかかると、あきらかに他者を認識する視線が、前半部分と異なっていることに気づく。人はひとりでは生きられないとしても、ちゃんと孤独を引き受ける力強さが、泣き言とは異なった内省として、書き留められてゆく。それは、あるいは成長のしるしなのではないだろうか。もしもそうであるならば、ある種のビルドゥングス・ロマンをなぞった過程としての、そういう説得力を有している。ところでアイドルの裏話的な部分も、かなり少なめではあるけれども、含まれている。ジャニーズ内の交友録となっている「支え」と「手紙」の項などが、それにあたるだろう。ここ、岡田准一(V6)や二宮和也(嵐)に送る剛くんの言葉が、ちょっと気恥ずかしく感じられるぐらい、すごくいいですよ。あと、どうでもいいがイタリアン料理を食う機会が多いみたいだ。 

 [si:]についての文章→こちら
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2005年12月04日
 バスジャック

 『となり町戦争』の三崎亜記による短編集である。じつは、デビュー後第一作にあたる「二階扉をつけてください」は、『小説すばる』掲載時に読んであったのだが、そのときに、なるほど『となり町戦争』の現実から遊離した世界観は、批評性の現れではなくて、むしろ作者の指向に素直なものであったのか、と納得させられたのだけれども、その印象は、この『バスジャック』をもって、より強まった。厳密な定義では、ショート・ショートということにならないのかもしれないが、そういう面持ちの、たとえばテレビ・ドラマ『世にも奇妙な物語』あたりの原作として使えそうな、すこし不思議あるいは不条理なストーリーが7編収められている。しかし、ここでひとつ指摘しておきたいのは、そうした虚構と悲喜劇のなかに、それこそ「ぼく(わたし)っていったいなに」風の自意識が、反響していることである。そして、それは、物語が長くなれば、その分だけ、より顕著になるのだから、構造的に考え抜かれたものではなく、きわめて自然発生的なものなのだろう。おそらく作者は、それを意識しているし、また操作しようともしているのだけれど、そこのところはうまくいっていない。たとえば「動物園」という話に、次のような箇所がある。〈今の思いをどんなふうに言っても、「自分探し」の陳腐なコトバにしかなりそうになかったから。だから私はあえて違う言葉で表現してみた。「何だか、こうやって毎日檻に囲まれて座っていると、私はずっとこの檻から抜け出せなくなるんじゃないかって、そんなふうに思えてきてしまうんです」〉。そうやって言い換えられたとして、後者の物言いも、やはり〈「自分探し」の陳腐なコトバ〉以外の何ものでもない。もちろん、そうした部分にこそ、感情移入を催す読み手というのもいるのだろうが、その陳腐さを陳腐さとしてわきまえるがゆえに、変容させるようとする取り組みが、反対に陳腐さの切実な意味合いを強調させてしまう、と受け取るのであれば、団塊ジュニアぐらいの世代お得意の、疑似モラトリアムとの戯れに終始していることに気づく。ここではもっとも長い「送りの夏」は、ある意味で、とてもとてもいい話である。じじつ『小説すばる』12月号のクロスレビューで、青木千恵というライターが〈なくした事に対して容易に白黒に白黒つけられない大人の姿を見て、これらか起きるだろう喪失を想像して少しだけ覚悟を決める。優しいビルドゥングス・ロマンで、じわっときた〉と評している。「送りの夏」の終盤、主人公である小学生の少女は、母親に向かって〈ねえ、お母さん。お母さんはやっぱり、人騒がせで、ワガママで、自分勝手だと思う〉〈だけどね、お母さん。わかんないけど、お母さんのやろうとしていることが、今しかできない、お母さんにしかできないことだったら、がんばって〉という。たしかに、これは物語を通じて得られた成長に基づく発言で、じわっとくる向きもあるだろう。だが、大人をあくまでも一個の人間として機能させるために、子供という枠内にある存在をも一個の人間として機能させ、そのうえ、このように言わせなければならないのだとすれば、それはちっとも優しくはない。酷い話である。そうした功罪の片面だけを取り出し、アイロニーとしては見えない、体の良いきれい事にまとめてしまっているあたりが、三崎作品における、もっとも大きな瑕疵だと思う。

 『となり町戦争』についての文章は→こちら
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2005年12月02日
 そんなに読んで、どうするの? --縦横無尽のブックガイド

 一冊読み終えると、ものすごく殺風景な本だったなあ、と感じるのは、結局のところ、ただレビューが並んでいるだけ、という作りのせいだろう。豊崎由美初の書評集『そんなに読んで、どうするの?』である。書評は、一個一個で、ちゃんと、単品として、完結している。雑誌に載っている場合には、そのことに不満はないのだろうが、逆にそれが、こうやってずらり羅列されると、ものすごくオートマティカルであるというか、数式のように結果の固まった世界であるため、読み手であるこちらがどのように反応しても致し方ない、そんな風に味気なく思えてしまうのだから、せつない。ブックガイドとしての機能性は高いが、けっして文章それ自体を楽しむものではないようだった。つまり、あくまでも一回性の趣が強い、悪くいえば、読み捨て可能なテキストに終始しているということである。それはたとえば、帯に〈某大作家が激怒した伝説の辛口書評集を特別袋綴じ掲載〉と、まるで本書の目玉のように記されている箇所、いや、あのですね、じつは袋綴じ開けるのに失敗したのですよ、僕、それでちょっとこれだけは強く言っておきたいのだけれども、なんで袋綴じなんかにするわけ? といえば、たぶん、付加価値を出すためのハッタリであり、その部分だけを、それこそ立ち読みで済まされるのを拒む姿形なのだろうが、裏を返せば、一回読んだら終わりじゃんね、と、著者なのか編集者なのかが、自覚しているというわけだ。そのように考えると、なんだか悲しい気分になってくる。と、それは邪推すぎるか。いささか悪口っぽくなってしまったけれども、先に述べたようにブックガイドとしての利便性は重視されており、むしろ、ここで取り上げられた本たちを未読であればある分だけ、有り難く感じられる内容なのではないか、と思う。じっさいに僕自身も、おもに世界文学編において、まだ読んだことのないものに関しては、いくつか手をつけてみよう、という風に気分を促されたのであった。ただ以前その気にさせられた『エブリシング・イズ・イルミネイテッド』は、思いのほか引き込まれることなく、途中で挫折してしまったので、新規開拓するのにも腰が引けるのだよなあ。

 『百年の誤読』についての文章は→こちら
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2005年12月01日
 『小説すばる』12月号掲載。絲山秋子の連作シリーズ「ダーティ・ワーク」の第二話である。たぶん「sympaty for the devil」というのは、ローリング・ストーンズのトラックからとられている。しかし読みながら、なんだか舞城王太郎っぽいなあ、とくに『阿修羅ガール』みたいな語り口だ、などと考えていたのだが、じっさい作中に次のようにあるのを見て、なんだか、ああ、と思う。〈最近おもしろい本、読んだ? 麻子さんが言った。えーと。ほんとは舞城王太郎だったけど、中上健次と言った〉。事実として、絲山が舞城を読んでいるのか、あるいは、それをインスピレーションとしたのかはどうでもいいのであるけれども、この「sympaty for the devil」に限っては、あまり絲山の小説を堪能した、という感じのしなかったことが、ひどく残念ではある。とはいえ、内容自体は、けっして悪いものではない。〈四年もつきあえるってことは辰也と私は相性がいいのかもしれない。でも七割方惰性だ〉。饒舌な〈私〉の語りによって、家族を含めた周囲の人々との関係、そして日常の何気ない機微が、断片として切り出されている。〈私〉はいう。〈なんていうか、女の友情ってイコール共感だと思う。だよねー、思う思う、とか〉〈でも女って住んでる環境でがらっと世界が変わってしまう〉〈それに比べたら男友達の方がずっと楽ではあるけど〉〈全部が全部許し合えるってわけじゃない、やっぱり異性だから〉。そして〈私〉には7歳違いの兄がいるのだが、むしろ兄嫁である、ほんとうは赤の他人な麻子さんとのほうが仲が良い。そうした関わり合いを通じて、人と人、または主体と他者と言い換えてもよさそうだが、それらがどのような感情を経由して、連帯するのか、逆に切断されるのかが、具体的にではなくて、思いつきで書かれた雑記みたいに、さりげない体で述べられてゆくのだけれども、あ、なるほど、シンパシーか。

 「ダーティ・ワーク 第一話 worried about you」についての文章→こちら

・その他の絲山秋子に関する文章
 『ニート』については→こちら
 「ベル・エポック」については→こちら
 「へたれ」については→こちら
 「沖で待つ」については→こちら
 「ニート」「2+1」については→こちら
 『スモールトーク』については→こちら
 『逃亡くそわたけ』については→こちら
 「愛なんかいらねー」については→こちら
 『袋小路の男』については→こちら
 『海の仙人』については→こちら
 「アーリオ オーリオ」については→こちら
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2005年11月30日
 萌える男

 「萌える」という構造に関する、メディア論としてであるならば、しばし説得されるところもあるけれども、あくまでも恋愛論という枠組みを使っているため、思わず目を疑ってしまう、そういう杜撰な内容に仕上がっているのが、この新書『萌える男』である。かつてより僕は、本田透のニーチェ(あるいはルサンチマンという概念)の捉まえ方には曲解があると思っているのだが、ここではロマンティック・ラヴ(正確にはロマンティック・ラヴ・イデオロギーのことだろう)の理解に対して、かなりの難が見られる。また、オタク・カルチャー以外への資料読み込みもかなり表層的であり、それはたしかにアジテーションとしてはわかりやすく、有効であるのかもしれないけれど、テキストの読解を主観に寄り添わせてしまい、それに対する弁証がないのものを、広く発表してしまうのは、やはりまずい、と言わざるをえない。というか、いちばんの問題点は、岸田秀や吉本隆明を援用しながら、共同幻想を語るあたりである。そういったものや、また、それらへのフェミニズム的な抵抗を通過した段階に、いわゆるオタク的な消費行動が発生しているという思いなしが僕にはあったのだが、これを読む限りにおいては、どうもそうではないようである。要するに、現代的なオタクの在り方は80年代的かつバブル的な価値観への反動に他ならない、という風に全体の論は進行していってしまっている。本田は「萌える男」は進化だといっているが、そのような意味を踏まえると、いや、それは結局のところ退行だろう、と思う。だから、重要なのは、ではなぜ三次元(現実)ではなくて、二次元(虚構)のほうに、ある種の人々は、リアリティを感じうるようになったのか、といった、メディアを受容する姿形の変遷をめぐってなのであって、残念ながらそういった部分については、具体的なメディア論ではなく、抽象的な恋愛論に終始してしまうため、十全ではなかった。が、しかし、その素朴ともいえる、無防備なほどの事足りなさこそが、たとえば東浩紀『動物化するポストモダン』や小谷野敦『もてない男』では納得できない層を、かろうじてフォローしているのかもしれない。

・その他本田透に関する文章
 『電波大戦 ぼくたちの“護身”入門』について→こちら
 『電波男』について→こちら
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2005年11月29日
 王国 (その3)

 帯には「長編最大のクライマックス」とあるので、これはここで終わるのかな、と思う。しかしどこかで、よしもとばななのライフワーク、みたいな文句を見かけた気もするので、まだ続くのだろうか、とも疑う。個人的には、はやく終わって欲しい、という感じしかしない。もしかすると、主人公が子供を産む(宿す)までを射程に入れている、そういう可能性も読み取れる。ところで、恋愛とはいったい何だろう。よしもとの小説に出てくる登場人物たちはみな、それなりにモテるので、そういったことを真剣に考えるふりだけして、結局は、自分の思いなしにより、恋愛感情を測る、決定する。そこには弁証がなく、だから、読み手の全能感と指向性みたいなものを充足させるのではないかな。しじつ、よしもとの小説において、主人公は、執拗なほどに他人をカテゴライズする、敵だ、味方だ、狂っているだ、正常だと区別する。それはときに横暴であるほどだ。その傲慢さに関しては、かつて栗原裕一郎が指摘している。そういった人間の良くない部分が、他のものを否定することによって、逆に肯定の体に収まってしまうという、ひじょうに歪な姿形をとっているのが、この『王国』というシリーズなのであり、僕には、それがちょっと頂けない、痛ましく感じられるのであった。どうして、吉本ばななは、よしもとばななになってから、かつての繊細さを失ってしまったのだろう。もしかすると、そのことは、『重層的な非決定へ』などで吉本隆明の説いた大衆の像が、現代に至っては、以前と違ったものへ変容してしまったこととパラレルな問題なのかもしれない。そのへんは、いつかちゃんと論じてみたい気がする。

・よしもとばななその他の作品についての文章
 『なんくるない』について→こちら
 『High and dry(はつ恋)』について→こちら
 『海のふた』について→こちら
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2005年11月28日
 『すばる』12月号掲載の短編。これ、いい、すごく、いい。たぶん生田紗代という作家の価値は、これを書いたことにあるとさえ、言いたくなった。もちろん、その評価が、好みの問題なんだとすれば、まさしく僕の好みであるということだ。文中から引く。〈初めて会った男の子と、初めて来た街で、私はもう滅多に思い出すことのない友達の記憶を思い出している。ここ何年かはお墓参りにも行っていない、半分忘れかけた友達の。でもここは何もかもが見知らぬ場所で、その記憶が、私の知っているただ一つのことだった〉。これが、この小説の焦点であるといってもいいだろう。あるいは始点で、終点ではない。そこがポイントだ。日常のなかで人が亡くなる表現を、読み手である僕が嫌うのは、そのことによって発生した物語や感傷に、すべての記述が依存してゆくからなのであるが、ここではそれは、半分ほどそのような状態になったところで、いやそれは違うだろう、それはつまり嘘を書くことなんじゃないか、という否定のほうへ体勢を立て直そうとしている、言い換えれば、できうる限り真実でありたいと願う、そんな祈りであるような感じがする。人が死ぬのは悲しい、それは事実であるが、しかし、人が死ぬことで成り立つドラマを、こうして人が必要とすることもまた事実なのであり、それはそれですごく悲しい生き方だ、そのような悲しさの部分を、極大化するでもなく、かといって矮小化するのでもなくて、ただただ「なすがままに」の姿形で受け止めている。そうして、ようやく気づくのだろう。生者は何者でもなく、死者も何者でもなく、生者から見た死者こそが、他者として固有性を与えられる、しかしその死者が、生者である〈私〉を見てくれることはない、とすると、生きている〈私〉は、もしもひとりぼっちであるのならば、やはり何者でもなかった。

・生田紗代その他の作品についての文章
 「まぼろし」について→こちら
 「タイムカプセル」について→こちら
 「十八階ヴィジョン」について→こちら
 「ぬかるみに注意」について→こちら
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 意味がなければスイングはない

 村上春樹が音楽(ミュージックというよりはミュージシャン)について書いたものには『ポートレイト・イン・ジャズ』などがあるが、あれがイマイチであったように、この『意味がなければスイングはない』もイマイチであるようだった。いや、イマイチという言い方は正しくはない。さすが巧みな筆致で、読み心地のよい文章が、過不足なく並んではいる。しかし、いちばん印象深いのは、周到なエクスキューズたる優れた「ぼく語り」として成り立っている「あとがき」の段であるというあたりが、やはり駄目なのではないか、と思う。というか、まあ、これを読んで、語られている対象であるアーティストの作品を聴きたくなるか、といえば、たぶん多くの人がそうはならないだろう。ただ人々は、村上春樹の文章を読むためだけに、この本を手にとるのだろう。それはけっして悪いことではない。だが、そういう風に考えるのであれば、これが音楽評である意味はない、というわけだ。ほら、意味がなければスウィングはない、とタイトルがいっている。だが、言葉を返すみたいであるけれども、僕がこうして書いているものも含め、世のなかの大半の音楽評はクズみたいなもんなのであり、それらに比べてみると、これほど語彙とレトリックが達者に駆使されることで、サウンドの情感を型くずれすることなく切り取ったものもない、という気がする。だからこそ逆に、ほんとうに優れた音楽評にはぜんぜん追いついていない、その、なにか足りていない部分のくっきりと浮かび上がってしまうことが、残念なのであった。なら、おまえ、ほんとう優れた音楽評ってどんなんだよ、誰か例を挙げてみせろ、と言われれば、そうだね、この系でいうのであれば、たとえば松村雄策なんかはどうだろう。おそらく世代的なものかもしれないが、ここからの距離はものすごく近い。などといったところで、ほんとうは音楽のことなんてどうでもいいあなたは興味を持たないんだ。村上春樹しか好きじゃないのに、読書家のふりをする人たちのように。

 『東京奇譚集』についての文章→こちら
 『アフターダーク』についての文章→こちら
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2005年11月26日
 ぶらんでぃっしゅ?

 読みはじめは、まさか思わなかった。まさか読み終えたときに、目頭が熱くなるだなんて。深い余韻のなかで、人生を考えさせられるだなんて。まさか清涼院流水の作品に、ここまで感動させられるだなんて思ってもみなかった。いや、ジョークやアイロニーではなくて、ほんとうに心から物語に浸った。もちろん僕がそう言ったところで、君は信じないかもしれない。だけど嘘じゃない。本気である。『ぶらんでぃっしゅ?』と名付けられた、これは、ここ最近読んだ本のなかでも、間違いなく、群を抜いて、すごくいい話だ。とはいえ、べつに大幅な方向転換が行われているというのではない。どころか紛う事なき流水大説の一部であり、〈文によるSHOW〉すなわち〈文SHOW〉に他ならない内容である。だが、仕掛けやハッタリを越える内実に、思わず胸が焦げる。すばらしくエモーショナルなエンターテイメントに仕上がっている。真剣に。繰り返すが、冗談ではない。

 突如聴こえてきた「ぶらぁぁぁぁぁぁぁん……でぃぃぃぃぃぃぃっ……しゅ……」という謎の声によって、〈ぼく〉は目覚める。母親の胎内だ。そこで、それを聴いた。つまり生まれるより先に、外の世界に出る以前に、意識ははっきりとしていた。それはまるで、オトナのものであった。誕生後においても、そうした記憶が失われることはなかった。新生児になってからも、ときおり耳にする〈ぶらんでぃっしゅ〉という謎の言葉、あれはいったい何を意味しているのだろう。そして語り手であるところの〈ぼく〉は、いったい何ものなのだろう。それらの秘密が、常盤ナイトという男の人生を、大きく展開させる。

 ストーリーを進行させる基本線は、ダジャレであり、まあたしかに下らなく思えるだろう。たとえそれを、人の運命を左右するほどの言葉に対する執着ととったとしても、これまでと同様に、この作者の流儀に則ったものでしかないといえる。しかし驚くべきは、そういった遊びの類が、ラストで、たぶんこの時代であまり書かれたことのない希望へと、見事に転調することである。その間際の鮮やかさは、ほんとうにカタルシスティックだ。思えば清涼院流水ももう30歳であるわけだが、ミステリなどといったジャンルに限らず、それこそ彼と同世代の作家や後発の作家たちが、まるでモラトリアムと戯れることを有意義だと信じ込む振る舞いに終始しているのに比べると、この『ぶらんでぃっしゅ?』が果たした役割は、ひじょうに大きい。人は、一生の間に多くのものを喪い続ける、あるいは喪い続ける過程を指してこそ、生きているという。だが、生き続けることには、すくなからず意味がある、そのような言い切りをもって、未来を迎え撃ち、前進する態度だろう。また、たとえば麻耶雄嵩が、不変の因果律をもって、世界の残酷な情景を切り出してみせるのに似た、シビアな筋書きを描きながらも、それを最後の最後で、可変への逆転劇に持っていくあたり、そのポジティヴな手つきには、素直に敬意を払いたい。十分な説得力を持った光であると思う。

 森博嗣、西尾維新、飯野賢治らがゲストとして名を連ねている。が、それはちょうどヒップホップのアルバムで、他のアーティストが何気なくアイディアを提供している、あの感じを彷彿とさせる。そうした部分も、本作の充実振りにちゃんと従事している。
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2005年11月24日
 『文學界』12月号掲載。中山智幸『さりぎわの歩き方』は、第101回文學界新人賞受賞作である。29歳、フリーランスのライターである〈僕〉の仕事は、おもにネット上の情報を収集しては、加工し、ニュースサイトに送信することだった。結婚を間近に控え、「青春の終焉」なぞと考えたりもする。あるとき、本屋で「いまどき、まっとうな青春小説」という惹句の付せられた、無名新人小説家のデビュー作を見かける。作品自体に興味は沸かなかったが、しかし、そのコピーだけはいつまでも頭の片隅に引っかかっている。〈どういうのが「いまどき、まっとうな」何かになりえるのだろう? 考えてみる価値はありそうだった〉。かくして、〈僕〉にとっての最後の夏休みを中心に、いくつかの出来事が、坊ちゃんくさい口調によって語られる。と、まあそんな感じの内容である。読み終えてひとまず、けっして悪くはないけれども、ぜんぜん良くないな、と思った。要するに、団塊ジュニアぐらいの人が、いかにして終わりのないモラトリアムと折り合いをつけるかみたいな話で、5年ぐらい前なら、感想も違ったかもしれないが、すくなくとも03年にデビューした森健の充実を越えるものではなく、書く側にしてみれば、書くべき理由はあったのだろうけれども、読む側にしてみたら、読むべき理由は見つからないというところである。もうすこしいえば、批評性の足りなさみたいなものに、どうもね、と興が削がれてしまう。たとえばインターネット上の情報を、情報として受け入れることに〈僕〉は、できうるかぎり抵抗を持っていない人物として書かれている。だが、そこで提示されている情報には、あきらかに偏りがあり、その偏りは、おそらく作者のデータベースに基づくものなのだが、セルフ・アーカイヴなんてものはあくまでも狭義でしかないのだから、一般論に還元できるわけもなく、そのことに対する無自覚さが、そこかしこに見受けられるあたり、さいしょから情報社会なんて相手にしなければいんだ、という気分になってしまう。〈老いぼれる前に死んでやる、と歌っていた連中も老いぼれてしまった。そして再結成だそうだ〉。だからなに? って、シニカルな〈僕〉以上に、読み手であるところの僕が鼻白んでしまうのは、やはりまずいだろう。無気力と無関心は、さすがにもういいよ。とっくに飽きているのだ。ぼちぼち覚悟と責任の話をしよう。
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2005年11月23日
 『野性時代』12月号掲載の短編。「青春文学の現在」というシリーズの一環である。青春文学ねえ。個人的には、30や40にもなっても青春の終わらないことは、けっして褒められたもんじゃねえよ、と感じるのだが、それは本題とは関係ない。80年代生まれの、同世代の作家のなかでは、わりとコンスタンスに書き続けている島本理生は、初期の頃に比べると、やはり良くなっている。それは同じ地点に止まることを避けようとする姿形だと思う。『クローバー』である。冬治と華子は双子の大学生で、今は親元を離れ、二人暮らしをしている。外向的で派手好きな華子と、慎重で地味な冬治は、外見は似ているが、性別の違いもあるし、ちょうど正反対のベクトルにそって生きている。考えが合わず、衝突することもしばしばだ。そのふたりの、血が繋がっているからこそ、分かちがたい親密な関係が、「僕」という冬治の視線によって語られる。率直にいえば、まるで少女マンガをトレースしたかのような内容であるのだが、今時の少女マンガがせこい内面を針小棒大なドラマに表現するのとは異なって、あくまでも出来事の範囲を等身大に収めているあたり、好感度が高い。等身大とは、言い換えれば、この世界のくだらなさを、ひねず、切実なものとして受け入れることである。そして、それは「ほんとうのじぶん」などといったって、結局は、ステレオタイプであったり、予定調和であったりする自己に耐えることでもある。やさしさも、かなしみも、何もかもがぜんぶ、ありふれている、すくいがたいほどに、たわいもない。

 『一千一秒の日々』についての文章→こちら
 『ナラタージュ』についての文章→こちら
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2005年11月22日
 

 この『土曜日の実験室』は、西島大介の、マンガも載っているけれど、マンガばかりじゃない、文章もあるよ、といった感じに批評(レビュー)集も兼ねた短編集である。が、このなかで、僕がいちばん好きなのは「動物化する電子音楽 われ発見せり」と名付けられた短文なのだった。これを僕はじつは『ユリイカ』に初出のときに読んでいた。おそらく西島の音楽趣味なのだろう、エレクトロニカやテクノの、その音楽性というかジャンル自体を、いったん野田努や三田格、佐々木敦といった批評家(レビュワー)の視線に換言したのち、東浩紀『動物化するポストモダン』における90年代以降の、サブ・カルチャー消費の文脈に当てはめていく手つきは、ロジカルではなくて、とても感覚的に、時代の空気を論じていたように思う。そして、その「ロジカルではなくて、とても感覚的に」といった部分が、西島作品のなかにある批評性の、その核であり、この本の副題になっている「詩と批評とあと何か」の「何か」という言葉に表されているものなのではないだろうか。もちろん「何か」を「何か」のまま放置しておくのは、けっして批評的な行為ではない。だから、その「何か」が何であるのかを捉まえていこうとするプロセスこそが、マンガという形をとったときには、ストーリーを推進させるための軸となっている。さておき。僕にとって謎なのは、西島の、浅野いにをへの評価がけっこう甘いことである。いや、この本ではTAGROに関する項で、すこし名前が出てくるぐらいなのだが、しかし。僕なんかは浅野のマンガから、その内容の出来不出来はべつとして、それこそ批評性のまったく感じられないことにひどく苛立つのであるけれども、そこいらへん、どうやら違った読みをしているみたいである。なので、どこに感心するのか、いつかちょっと、ちゃんと言語化してもらえると、うれしい。
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2005年11月21日
 現代SF1500冊 回天編 1996‐2005

 姉妹編にあたる『現代SF1500冊乱闘編 1975-1995』は、現在はすでに評価が定まっている作品を、まだ評価の定まっていない当時の視線で捉まえる過程を追体験できるのと、あと大森望の文章がけっこう若いあたりが、興味深かったけれども、こちら『現代SF1500冊回天編 1996-2005』は、かなり現在に接近している、つまりリアルタイムの書評集として、なかなか参考になる感じだ。時流に従ってか、後半になると、ライトノベル関係のものの比率があがる。とはいえ、90年代のアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』や清涼院流水登場時の話題などは、ひどく懐かしい、なるほど、十年一昔とはこういうことをいうのかもしれない。以前にも書いたが、大森望の、小説に対して倫理を適用しない読みは、僕のスタンスと異なるものだが、それはしかし、作品をひとつのエンターテイメントとして見た場合、その醍醐味を、過渡に讃美することなく、また貶めることもなく、的確に、うまく紹介していると思う。個人的には、もうちょい毒があったほうが、にひひ、と根暗に楽しめるけれど、フェアな精神で測れば、ひじょうに紳士的だともいえる。一片のレビューは短文であるが、読んだことがないもの、とくに名前も知らなかったものは、とりあえず見かけたら手にとってみたくはなる。P184で〈最後まで読まないと帰属ジャンルがよくわからない小説が最近増えて大変です〉といっている。その言葉どおり、けっして狭義な意味でのSFではなくて、高橋源一郎や川上弘美の作品などが入っているなど、間口が広い。緻密な読解よりも、膨大な情報量とバランスのよさでもって読ませる、そういう内容である。
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 下流社会 新たな階層集団の出現

 売れているらしいというので読んでみた三浦展『下流社会――新たな階層集団の出現』である。奥付を見てみると、初版が9月20日とあって、僕が購入したものが11月5日の6刷目なのだから、じっさいに売れているのだろう。しかし読んでみれば、まあくだらねえ、というか、資料(データ)としてはまったく使えない、参考にならないといったところであり、そのあたりは同じ著者の『ファスト風土化する日本――郊外化とその病理』に通底している。それとかこれを読んである程度のリアリティを感じる人というのは、やっぱり適度にアーバンなライフを送っている方々なのではないかしら、と地方在住者の僕などは思うのであった。つうか、よくさあ、ジャスコがどうとかさあ、社会学的なフリしてブログで書いている人とかいるじゃん。ねえよ、ジャスコなんか、ジャスコがねえ田舎もあるんだよ、日本には。ばっかじゃねえの。生まれてから一回もジャスコなんて行ったときないですよ。噂には聞いたことがあるが、すごく便利らしいですね。うらやましい限りです。だから、吉幾三が85年に「俺ら東京さ行くだ」でうたったことは、05年の今も、リアルだっつうの。勝ち組だとか負け組だとか言ってるのも、都会の人だけ。だいたい田舎者の東京に対する敗北感みたいなものは、昔からちっとも変わってないんだから。そして、それがこういう本とかによって隠蔽されてしまうことこそが、団塊ジュニアであり地方生活者である僕には、ものすごく気持ち悪い。ぜんぶ都会が悪いんですよ。あとヤンキー(元ヤンキー)のことをほんとうに真剣に考慮に入れないと消費論としては駄目駄目だと思う。だって大衆向けのサービスなんてのは、ヤンキー(元ヤンキー)から金を吸い上げてナンボなんだから。自動車にしても、ポップ・ミュージックにしても、国産のものにもっとも金をかけている層はヤンキー(元ヤンキー)ですよ。彼らは都会からの情報に従順なのです。だから、こういう本を読んだら、逆に暗示にかかってしまうのです。団塊ジュニアの過半数はビー・バップ世代だしね。あ、ちゃんとした書評になってないけれど、真面目に論じる価値もないのだから、仕方がない。
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2005年11月19日
 100回泣くこと

 思いきりネタバレになるが、要するに、恋人が死んで悲しいというお話なのであった。『100回泣くこと』という題名のとおり、どうぞどうぞ泣いてください、と促されているようで、根が単純な僕なんかは読みながら、じゃあお言葉に甘えて、と鼻をずるずるとしたのであった。でも、ま、それだけである。あなたのは心には何が残りましたか、と問われれば、この本を他人に薦めるような人間だけには絶対になりたくねえし、そういう奴らはみんな死んでしまえばいいのに、という圧倒的な嫌悪感なのだった。いや、しかし、小説家という職に就いたら、やはり、こういうものを書かずにはいられないものなのか。疑問である。僕はこれまで、中村航の作品には、他人と親密になることへの拭いきれない不信感みたいなものを感じていて、それがフックとして機能していると見ていたのだが、ここでは、そういった抵抗は綺麗に除去されている。つるつるで、すべすべである。かわりに、昨今の日本人が大好きそうな、犬との交流や、自意識が世界の成り立ちと直接的に繋がってしまうことを語らう会話や、数式や工学的なエトセトラや、もちろん闘病生活などが満載にもかかわらず、腹八分目な内容に仕上がっているのは、さすが野間文芸新人賞作家ですね、ナイス・スキルといった感じで、そこらへんに、あんがい作者の嫌な性格が出ているのかもしれませんね、あはは。と、冗談はさておき、こういった小説が、ある程度の読者層に対して、エモーショナルであるとしたら、それはいったいどういうことなのか。たぶん、ミザリー・ラヴズ・カンパニー的な共感なんだろうな、と思う。結局のところ、この世のなかで自分が一番可哀相な人間である、という思いなしは、苦くて甘い優越感なのであって、おそらく、それがリアリティの担保となっている。いっけん贅沢に思えない贅沢はなんて贅沢なんだろう。かくして人々は、自殺の王やメロドラマの女王といっしょに末永く幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたし。そんな歌を、昔あるバンドが、うたってた。
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2005年11月11日
 ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言遣い

 『ネコソギラジカル』というほどには根こそぎでもラディカルでもなかった、西尾維新の戯言シリーズ完結編は、要するに、青春=モラトリアムの終焉を背景に、「ぼく」が「ぼくたち」になる過程を描きつつ、非日常が日常化することで生成した、終わりなき非日常をその大人になった「ぼくたち」が引き受けるといった体のエンディングを迎え入れたのであった。

 いや、しかし、語り部であるところの「ぼく」は、「いーちゃん」というニックネームを持つことで、当初は作者西尾維新自身をも想起させた、そういう意味で、物語のメタポジションに位置するキャラクターであり、その彼の宿敵として現れたのが、やはり物語の因果律から外れているという意味合いではメタポジションに値する男であったのは必然だといえるわけだが、そのふたりが、つまり物語内に居場所を持たない人間が、最終的に物語に組み込まれることで、ついに居場所を獲得するという落着は、すこしばかり安全すぎる気もした。

 裏を返せば、こうもいえる。キャラクター設定の強さに、物語は完全に負けていたのだけれども、その強いキャラクター設定をも取り込んでしまうほどに、物語を成り立たせるようとする力は、強い。また作品内で言及されているとおり、物語は世界とほぼ同義だと見なして良い。とすれば、ああ、だから「世界って、終わらないじゃないですか」ということである。

 あるいは、そういった事実に対する違和感こそが、「ぼく」を動かしていたものではなかったか。それこそが、この戯言シリーズの始点であったような気もする。もしもそうであるなら、世界は何も変わらないが、「ぼく」は変わった、成長した、その何も変わらない世界で、呪われ続け、戦い続けることをも厭わなくなった、なるほど、そうした姿形のとられたことで、全体が丸く収まっているようには見える。

 が、すべての読み手を満足させるものではないのだろう。「第二十三幕」からエピローグである「終幕」までに流れる4年という歳月は、おそらく小説外の時間、要するに『クビキリサイクル――青色サヴァンと戯言使い』刊行から『ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言使い』刊行までの歳月に対応している、その間をもって、「ぼく」と同程度に成長した読み手は、たぶん、ほとんどいないからである。なぜなら、たいていの場合、モラトリアムの慰みとして必要とされたがゆえに、戯言シリーズは、新青春エンタと冠されるに相応しいものでありえたといえる。

 さて。僕という読み手が、一貫して、この作者に見ているテーマ、もしも唯一無二のものがあるとしたら、それはいったいどのようにして代替不可能として判定されるのか、という部分についてはどう応えているか。シンプルにいえば、次のように受け取れた。オルタナティヴが必要とされる結果として、オリジナルはオリジナルでありうる。君の替わりがいないということは、君によく似た人を探し続けることで実証される、結局のところ君の替わりはいないがゆえに、君の替わりはいない、というわけだ。作中にトポロジーという言葉が頻出するが、じつはそれは、トートロジーの間違いなのではないだろうか。

 印象のみを簡単に書き連ねてきたが、最後に、読んでいるうちに泣けてきて困った場面が数カ所ほどあったことを付け加えておきたい。具体的にどこかは記さないけれども、素直にいいシーンだと思うし、その際に、まだまだナイーヴな自分がいることを再確認した次第である。

 『ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種』について→こちら
 『ネコソギラジカル (上) 十三階段』について→こちら

・西尾維新その他の作品に関する文章
 『ひたぎクラブ』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――最終回「終落」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第五回「五々」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第四回「四季」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第三回「第三」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第二回「二人」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第一回「唯一」』について→こちら
 『ニンギョウがニンギョウ』について→こちら
 『コドモは悪くないククロサ』について→こちら
 『タマシイの住むコドモ』について→こちら
 『ニンギョウのタマシイ』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか 2』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか』について→こちら

 『総特集 西尾維新』ユリイカ9月臨時増刊号について→こちら
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2005年11月10日
 『群像』12月号掲載の短編。「ロックと文学」っていうあれがね、あーあやっちゃったと思わず失笑してしまう、結局のところサブ・カルチャー化した『群像』がやりたいのはJ文学のリヴァイバルでしかなかったという、身も蓋もない特集のなかに収められた一編である。が、しかし、角田光代はさすがなのであった。『ロック母』、いいじゃないか。話の筋は、こんな感じだ。「望まれない妊娠」をしてしまった〈私〉は、出産のために、生まれ故郷の島へと、十年ぶりに帰る。田舎の町には、これといった大きな変化は見られない。相変わらず、地方都市の憂鬱に取り囲まれている。港に軽トラで迎えに来た父に「かわらないねえ、本当に」と言えば、父は、母の様子が「ちっとおかしゅうなっとる」と言った。しかし再会してみれば、とくに変わったところはないように思えた。だが、その次の日の朝、ものすごい爆音が家を揺らしているのに気づいて、思わず〈私〉は目を覚ます。ニルヴァーナの「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」だ。〈私〉が高校生の頃聴いていたニルヴァーナの『ネヴァーマインド』を、母が大音量でかけていたのである。デナイ、デナイ、デナイというフレーズを彼女が口ずさんでいるのを耳にして、〈私〉は驚く。いったい何がどうなっているのか。角田光代のロック小説といえば、90年代を舞台にした『あしたはうんと遠くへいこう』が思い出されるが、あそこでの空気感が、音楽と自然に分かちがたく結びついていることで成立していたように、この『ロック母』もまた、母親がニルヴァーナを聴いているという突飛な設定であるにもかかわらず、不思議と、そのことが物語の上では必要不可欠であるかのように感じられるのだった。しかし、地方都市の憂鬱がロック・ミュージックとイコールで繋がるのは、ややステレオタイプだろうか、いや、そんなことはない、ステレオタイプというのは、やはり同特集に置かれている小説『ジミさんの思い出』で、栗田有起が〈あの世に行って、ジョン・レノンのライブでも見てるんじゃないかしら。大好きなカートに説教とかさ〉と、恥ずかしげもなく、そういうのはもう百回以上目にしたよっていう、あまりにも紋切り型の言い回しを導いてしまう物語を指してこそ、使われるべきことだろう。また妊娠小説ということであれば、こういう作品を読むと、親になる主体の誕生を延々と拒み続けるよしもとばななの作風が、逆に殺伐として見えてきてしまうのが、困る。まあ、それはそれで、都会ではもう「関係の原的負荷」は成立しないという、時代性の反映だとしたら、そのうちすべての物語は田舎に回収されてゆくことになるのかもしれないぜ。
 
 『酔って言いたい夜もある』についての文章→こちら
 『いつも旅のなか』についての文章→こちら
 『人生ベストテン』についての文章→こちら
 『対岸の彼女』についての文章→こちら
 「神さまのタクシー」についての文章→こちら
 『庭の桜、隣の犬』についての文章→こちら
 『ピンク・バス』についての文章→こちら
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2005年11月01日
 ニート

 簡潔にまとめておく。お、発見と思って先日読んだばかりの「ベル・エポック」が、新刊であるこの『ニート』にも収められていたので、あら、となってしまったわけだけれども、まあそれを含めて、「ニート」「2+1」「へたれ」「愛なんかいらねー」の5編を、この機会に、あらためて読み直したかぎり、やはり、絲山秋子の小説には、次のような、ふたつのモチーフが流れているように感じられた。ひとつは、自己と他者の間にある阻隔を自覚して生きること、であり、もうひとつは、セックス(性交)が男女間の関係を保証しない、言い換えるなら、性差を補填するためにのみセックス(性交)が機能しているということである。前者に関しては、5編すべてに通底するものであるが、とりわけ顕著なのは、女同士の友情を取り扱った「ベル・エポック」になるだろう。したがって後者については、「ベル・エポック」以外のぜんぶに発見することができる。もちろん前者と後者は、密接に、関連している。要するに、断絶線を結ぶ、結び直す、そのことが目的化されているのではなくて、断絶線の綱渡りを、ひとつ手段として引き受ける姿形が、主軸となっている。また社会学や心理学などを持ち出すまでもなく、そういったモチーフは、今日を生きる、この国の人間が、その大半が、毎日を過ごすなかで、ふと覚える既視感なのであって、それが、絲山作品における、共感や感情移入のキーとなっているのではないか。じじつ「ニート」や「2+1」、「愛なんかいらねー」などに明らかであるように、社会に不適合な人間は描かれるが、それはけっして異常であることと同一ではない。むしろ彼や彼女たちは、凡庸としている。そういった意味で、絲山の筆致は、通俗的でありながらも、本質的な箇所に触れている。そこには絶望や荒廃などはないし、議論に値する形而上の悩みも見受けられない。だが、世界にあるがままの寂寥が、市井の人々の肉声として届けられている。

 収録作品単体に関する文章
 「ニート」「2+1」については→こちら
 「ベル・エポック」については→こちら
 「へたれ」については→こちら
 「愛なんかいらねー」については→こちら
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2005年10月30日
 『月刊少年シリウス』12月号掲載。これにて 完結の巻である。なるほど。これまでに語られてきたストーリーが、ある種の事後報告であり、その記述がルール違反を犯しているかどうかといったやり取りを着地点に置き、じつはそれが全体にかかっているところは、前作『ダブルダウン勘繰郎』のパターンを踏襲したものだといえるし、流水大説を意識したメタフィクショナルな構成だといえるかもしれない。が、どうだろう、西尾維新という作家に対しての興味ではなくて、いちミステリとして読んだ場合、やや肩すかしな結末のように思える。とはいえ、僕などは、そういった二通りの在り方においては、前者寄りの人間であるので、個人的に、この作者に一貫して見ている次のようなテーマ、つまり、もしも唯一無二のものがあるとしたら、それはいったいどのようにして代替不可能として判定されるのか、といった部分に関しては、それなりに納得のいく内容ではあった。たとえば、ある登場人物は、この回の冒頭で〈私はまだ、仕事をし終えていない。役目を果たしきっていない。存在を証明し切れていない〉といい、それが後ほどの段階で〈仕事をやり終えに――ゆくとしよう。役目を果たしにゆこう。存在を証明しに――ゆこう〉と反転させられる。因果律のなかで、定められた宿痾を一身に引き受けながら、それでも歩を進めようとする、あの、西尾維新式のカタルシスがまっとうされている。まあ一方で、でもそれってさあ、ただの手癖で書かれているだけじゃないの? といった疑問が、ふと思い浮かぶような、そういう物足りなさが残ることは、正直、否定しない。このままの状態で、単行本としてまとめられた際には、けっこう酷評されそうな感じではある。

 『トリプルプレイ助悪郎――第五回「五々」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第四回「四季」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第三回「第三」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第二回「二人」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第一回「唯一」』について→こちら

 西尾維新その他の作品に関する文章
 『ひたぎクラブ』について→こちら
 『ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種』について→こちら
 『ネコソギラジカル (上) 十三階段』について→こちら
 『ニンギョウがニンギョウ』について→こちら
 『コドモは悪くないククロサ』について→こちら
 『タマシイの住むコドモ』について→こちら
 『ニンギョウのタマシイ』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか 2』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか』について→こちら

 『総特集 西尾維新』ユリイカ9月臨時増刊号について→こちら
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2005年10月28日
 短篇ベストコレクション―現代の小説〈2005〉 

 絲山秋子「ベルエポック」は、徳間文庫『短編ベストコレクション 現代の小説2005』に収められている。初出は『野性時代』04年の7月号だったらしいが、見逃していたので、この際に読んだ。さびしい風がそよそよと吹く、そういう内容である。婚約者を亡くした、友人のみちかちゃんは、桜のつぼみが膨らむ頃、仕事をやめ、田舎である三重に帰るのだという。引っ越しを手伝いに行った〈私〉は、彼女との友情の、ひっそりとして儚い終わりを知るのだった。ものすごく短い作品であるが、自己と他者とのあいだにある阻隔を、さりげなく忍び込ませた話のつくりは、じつにこの作者らしいパセティックな余韻を、深く、残す。〈カーステレオからは、昔流行ったブランキー・ジェット・シティの『小さな恋のメロディ』が流れていた〉。彼女は再会の約束だけを残して車を走らせた。でも、もう二度と連絡のこないことを、〈私〉は知っている。別れの告げられないまま、遠く遠く離れてゆく、その残酷な気配が読後を包んだ。

 絲山秋子 この他の作品に関する文章
 『ダーティー・ワーク 第一話 worried about you』についての文章→こちら
 『へたれ』についての文章は→こちら
 『沖で待つ』についての文章は→こちら
 『ニート』『2+1』についての文章→こちら
 『スモールトーク』についての文章は→こちら
 『逃亡くそわたけ』についての文章は→こちら
 「愛なんかいらねー」についての文章は→こちら
 『袋小路の男』についての文章は→こちら
 『海の仙人』についての文章は→こちら
 「アーリオ オーリオ」についての文章は→こちら
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2005年10月21日
 唯幻論物語

 最初にいっておくと、僕は、岸田秀の良い読者ではないのであって、おそらく著者の代表作になるのだろう『ものぐさ精神分析』に関しては、ぴん、とこなかった。そのほかの著作もいくつか読んだが、やはり啓蒙されなかった。それでもこの新書『唯幻論物語』を手にとったのは、小谷野敦『すばらしき愚民社会』における自分(岸田)への誤解、それに対する応答というかたちで、話が進められるからである。

 じつは、両者の意見の食い違いは、「「江戸の性愛」幻想を斬る」という、往復書簡でのやりとり(『ものぐさ性愛論―岸田秀対談集』)によって、明瞭になったものであり、『すばらしき愚民社会』に収められた文章も、そこでの印象がもとになっている。岸田と小谷野の見解の相違を、もろもろの複雑な詳細は省き、シンプルに、僕なりに取り出すのであれば、岸田は、人は、動物とは違う、人であるがゆえに内的な要因によって、その指向性が左右されるといっているのに対して、小谷野の場合、人は、動物とは違う、人であるがゆえに外的な要因によって、その指向性が左右されるといっているように思える。

 じじつ、この本のなかで、岸田は〈神経症は何よりもまず、内的葛藤の産物〉だとして、母と自分との関係性の間にある(あった)対立を語り、なぜ自分が唯幻論を説くのかを語ってゆく。のだが、小谷野の発した問いは、そうした母子の対立や内的葛藤などといったものも、結局は近代という枠組みのなかに包括されるのではないか、ということだったのである。たとえば岸田は、人間は本能の壊れた動物だ、という。〈本能が壊れたため、人間は、本能に規定された発達コースはなく、幅広くさまざまな方向に (略) 発達することができる〉。では、本能のかわりを果たすものとはなにかといえば、幼児期に形成されたパターンである、と。しかし、小谷野の立場にたてば、そうしたパターン自体が、社会的あるいは文化的な状況によって、規定されているのではないか、といえる。

 恋愛論という部分においても同様である。岸田は、母子関係の再現にあたるようなものを「インチキ恋愛」として、そうではなくて、相手に幻想を貼り付けずにあるがままを受け入れるようなものを「普通の恋愛」と呼んでいる。前者については、母子関係が先述したとおりであるため、当然、関数としての環境に影響を受けるし、後者に関しても、やはり、時代背景とけっして無縁のものではない。そうでないのならば、と、その点がうまく説明されていない。そういった意味で、やはり、ここでの岸田も、小谷野に答えていない風に感じられる。

 いや、それは、どちらが正しいとか間違っているとかいうことではなくて、そもそもの問題意識が異なるのであって、ふたりともべつの方を見ているにすぎない。岸田は〈個人心理と集団心理とは同じ観念群を材料として同じ原理に基づいて構成され、同型、同構造であるから、同じ理論で説明できる〉といっている。では、その観念群は、どこからやってくるのか。そこの部分に、大きな不一致が、横たわっている。そして、それの解消されないまま、議論だけが繰り返される。つまり、いってしまえば、本書の役割は、延々と続く平行線を、すこし伸ばしただけに他ならないのであった。
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2005年10月17日
 ここに収められたほとんどの、というかササキバラ・ゴウの「六〇年目の「戦争文化」と憲法」以外、ぜんぶの論考と対談は、初出の段階ですでに読んであったので、今回は、再読ということになるのかな。いやしかし僕は、『「戦時下」のおたく』という表題にも含まれている、大塚英志や、その周辺の人たちがしばし使用する、「戦時下」というタームが、よくわからないのであった。

 もうすこし正確にいえば、頭では理解できるところではあるのだけれども、実感としては、漠として掴みづらいということである。

 そりゃあお前さんの現状認識が甘いっていうだけの話だよ、と言われれば、そうなのかもしれないが、っあ、やっぱちがう、ちがうと思うよ、だって、たとえば大塚が「はじめに」にあたる「おたく文化の戦時下起源について」のなかで、〈現在の「戦時下」とは「占領下」の継続に他ならない、というもう一つの視点が不可避になってくる。戦後の日本の言語空間が「占領下」の継続にあることは故・江藤淳が執拗に繰り返してきたことだ〉といえば、それはそのとおりだとして、深く納得できる。

 つまり、戦後、僕たち日本人の思考は、無意識のうちで、すくなからずアメリカ的な検閲を受けてしまっているという意味合いを指す、「占領下」なるタームについては、十二分理解の範疇にあるわけだが、それがなぜ「戦時下」というべつのタームに置き換えなければならないのか、その点がちょっとわからない、ということである。

 とはいえ、ここで片付けるには、なかなか面倒くさい問題なので、そのことは措いておく。

 この本のなかで、とくに僕が興味深く感じられたのは、更科修一郎による、わりと短めの評論「アニメと大人と老いたオタクたち」である。論旨は明快で、『イノセンス』や『エウレカセブン』といったアニメを支持するような、それらをビジネスとして機能させるような、成人した、あるいは高年層のオタクたちに対する、ぶっちゃけた、批判となっている。

 要するに、〈青少年向けを偽装した中年向けアニメ〉も〈「海外から評価されるジャパニメーション」という幻想〉も、〈作り手側の自己肯定への欲望をサブカルチャー的な要素で覆い隠して善しとする自堕落さ〉によって成立している、と更科は一刀のもと断じるのであった。

 そうした言い切りに関しては、異論も反論もなく、むしろ清々しい気分になるのだけれども、個人的には、大人大人などと皆口々にいうが、じつは「大人」という概念自体、すでにこの国には存在しない、有名無実な言葉なのであって、そのような枠組みの前では、おそらく更科の言い分は批判対象の側には届かない、無効化されてしまうのではないか、と思う。そのことは、もはや共通の前提=大きな物語が機能していない、近代的な価値観が有効とはならない、そういった現象とパラレルなのである。

 だから、たとえば大塚英志は、もう一度近代を立ち上げなければならない、と『物語消滅論』などでいっているが、ここまで全面的にサブ・カルチャー化の進んだ世界においては、たぶん、それは不可能に近しい。あるいは宮台真司が次々に考案するアイディア、たとえばサイファなどが、どれも駄目駄目な結果に終わるのは、基本的に、彼の考えが近代を基盤にしているからだろう。

 ならば僕は、近代的な理念や倫理がいったん死んだ、全滅したと認めた上で、「大人」という概念とはべつのレベルで、人間が成熟してゆくための、ひとつ導となるような、そういった新しい言葉は、ぜったいに発明されなければならない、と、エラそうにも考えている。そして、それを作り出すことこそが、現代を成人として生きる僕たちの役割なのである、と。では、それはいったいどのようなものなのかといえば、ごめん、まだ見つかっていないので困っているところなのであった。

 出版社の紹介ページ→こちら
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2005年10月11日
 『新潮』11月号掲載の短編。芥川賞受賞第一作ということであるが、しかし、短い、短すぎる。とはいえ、その短さのなかで、厳粛な語り口がやがて個人のショボい妄想に帰結するといった、阿部和重ならではの作法をまっとうしているあたり、さすがというべきところか。『課長 島雅彦』という題名は、見たまま、島耕作と島田雅彦をかけたものである。いってみれば、島田雅彦への揶揄になっているわけだ。そうしたモチベーションがどこからやってきているのかといえば、作中において、〈A新聞の土曜版にて連載されている、作家SのBというコラムの八月二十七日付けの回〉で、〈作家のSが、同業者である後輩に当たり仕事上や私生活の面で厄介な問題を抱えているらしいNという人に向けて書いた〉一応は激励という体裁をとっている手紙を読んだ語り手が、〈このSという作家、本人はさぞご立派な作家先生のおつもりでいらっしゃるようさますが、しかし結局のところは、俺の周りにごろごろいやがる、うだつの上がらない課長どもと少しも変わらんな〉〈たとえば係長や平の連中を居酒屋で励ましてやるときの口調と、このSの文体は、明らかに瓜二つだからな〉といっているとおりだろう。なるほど。要するに、団塊の世代ないし全共闘に対して後発の世代であるがゆえに斜に構えていた島田雅彦も、もっと若い世代からみれば、団塊の世代ないし全共闘のヒーローである島耕作と同じ程度には胡散臭いよ、ということに違いない。しかしながら、ここ最近の阿部和重は作家Nとツルみすぎである。この『課長 島雅彦』は、まるで中原昌也の短編みたいな感じになってしまっているではないか。

 参考→こちら

 『阿部和重対談集』についての文章→こちら
 『青山真治と阿部和重と中原昌也のシネコン!』についての文章→こちら
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 インストール

 綿矢りさ「You can keep it.」は、「インストール」文庫版に収められた、書き下ろしの短編小説である。短いというのもあって、内容を取り出すのは難しいが、ここでは、綿矢の作品としてははじめてのものだろう、男性の自意識を中心にして、物語が動いている。とはいえ、その人物は、じつにこの作者らしい、女の子の意地の悪い視線によって、いったん洗い直された上で、形作られている。そうして、こちら読み手の眼をとおして、クリアに見える惨めな気配は、『蹴りたい背中』におけるハツが抱え込んでいたものと、同型であるように思える。いや、しかし、この「You can keep it.」もそうなのだが、なぜ綿矢りさの小説を読むと、恥ずかしい感じがこみ上げてくるのだろう。それはたぶん、自分では深い思慮であるつもりの短絡的な思考を、明け透けに素っ気なく「短絡的ですよ」と断じられる、突き放されたような、そういう侘びしい気分になるからなのかもしれない。そして、その点が、自意識を過剰に包装した作品を提供し続ける同世代の作家たちと、綿矢とを隔てるものであるに違いなかった。
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2005年10月10日
 『文藝』05年冬号掲載。三並夏『平成マシンガンズ』とともに「第42回文藝賞」を受賞した作。青山七恵『窓の灯』は、若い女性の自意識を扱った内容の、小説である。そういうことであれば、ここ数年の『文藝』受賞者に限っただけでも、綿矢りさや生田紗代がいるのだから、もうそういうのはいいではないか、という気になってしまう。いや、しかし、文体はたしかにそんな風であったとしても、吉田修一や中村航を思わせるような、なにか不穏な空気を孕んだ状態で物語が進行するあたり、この作者の個性といえるかもしれない。話は、〈いかがわしい風俗店や居酒屋がひしめく地区の一番はずれ〉にある〈ミカド姉さん〉の店で、住み込みで働く〈私〉の語りを軸にして、展開される。彼女が住んでいる2階の部屋から、向かいのアパートの窓は近い。これまで誰もそこには住んでいなかったので、身なりを繕ったり、カーテンを引いたりなどの行為には無頓着であったのだが、あるとき若い男性が引っ越してくると、そうもいってられない。なぜならば、その部屋が〈私〉から丸見えであるように、きっと、向こうからも〈私〉の部屋が丸見えであるに違いないからだ。とすれば、ふつう、その住人と〈私〉との関係が発展することを期待しまいがちであるけれども、ふたりの間で言葉などはけっして交わされず、〈私〉が一方的に彼の生活を覗き見ることに終始する。そして、それは、〈私〉が誰からも一個の人間として認識されていない、そういった不安の感情と相関していると捉まえられる。おそらく〈私〉は、〈ミカド姉さん〉にこそ、ちゃんと自分のことを見て欲しいと願う人間なのである。しかし、もしそうだとすれば、そのへん、のちのち登場する〈先生〉という男性の存在も含め、作品のなかでうまく機能しているかどうか、あやしい。それと気になるのは、これはいったいいつの時代の話なのだろうか。もちろん、そんなことはどうでもいいじゃないか、という向きもあるだろう。けど、どの時代の誰でもいいわけではなくて、ある時代の〈私〉じゃなければいけない、そういった部分が、あるいは物語を駆動させるキーなのではなかったか、と僕は考える。つまり、ディテールにおける詰めの甘さを感じるのであった。そして、それは、異様に抽象的な冒頭部分にも現れているように思える。ところで選評で斎藤美奈子が〈女の子のピーピング・トム(覗き見常習犯)を描いた、これは本邦初の小説かもしれません〉といっているのだが、ん? 角田光代だか誰だかの短編にそういうのがなかったっけ。調べるのが面倒なので調べないが、たぶん、あった気がする。
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2005年10月09日
 「第42回文藝賞」受賞作のうちのひとつ。『文藝』05年冬号掲載。三並夏『平成マシンガンズ』は、中学一年生の少女がこの世界のどうしようもなさをいかにして引き受けていくか、その過程を捉まえた小説である。高橋源一郎が選評のなかで〈「平成マシンガンズ」の魅力は、ひとことでいうなら、言葉によって世界と対峙しようとする、その凜とした「姿勢」の美しさにある〉といっているが、おそらく、それはそのとおり、正解である。ただし高橋の、やさしいお父さんが娘を諭す風の選評はいかがなものか、と思う。正直なところ、僕は、15歳という、作者の若さに関しては、あまり気にならなかった。というのも、内容にしても、文章力にしても、ここ最近の「文藝賞」受賞者を含め、最近の新人さんと読み比べてみれば、けっして劣るものではないからである。もちろん、それは本作が突出したレベルだという意味ではない。ある種の幼さを感じないわけではないけれども、この程度の幼さを瑕疵とするのであれば、そこらへんの20代の作家だって、十二分に幼稚なのであって、批判の対象とはならないだろう。誰もが自分自分自分が大切なので絶対的な友情などありえない、親が親である以前に一個の人間を主張するため家族に親密さを持てない、などといったモチーフは、つい先日読んだ桜庭一樹『少女には向かない職業』でも見かけたものであるが、それをじっさいにその世代の若者が書いてしまうという事実は、なるほど、そういった問題のあり方は、この時代においては、やけにリアルで深刻なものなのに違いない。そのように考えていったとき、僕には、これは、やはり○であるように思えた。ひとつには、それでも物語中において人が殺されないこと、そしてもうひとつには、それでも主人公は前向きに強く生きようと足掻く態度を最後まで捨てないからである。たしかに、死神から手渡されたマシンガンで人を撃ちまくるといった夢が、何かしらかの暗示であるような書き方は、ステレオタイプに感じられるし、またラスト間近の、社会の真理を知っています風の長く長い御高説は、致命的なほどに陳腐である。しかし、そのチープさにこそ説得力が宿っている。閉塞感満ちあふれる地獄においては、蜘蛛の糸のような、頼りがいのない支えだけが、たとえそれが妄想であったとしても、もっとも逞しく見えるという、逆説を、おそらく作者は無意識のうちに、披露しているのである。

 さて、ここからは本筋とはまったく関係のないことなのだが、作中の次のような一節、〈バイクに乗りたいのも援助交際をしたいのも煙草が吸いたいのも、たいてい非行に走りたくなるのは命令を鵜呑みにすることがお仕事の子供社会から飛び出してしまいたいと思うからだ、大人になりたいと思うからだ〉というのを読んだとき、やはりヤングな子たちは文学など読まずに、ヤンキー・マンガを読むべきだと思った。反抗や非行に走ったところで、誰も報われないし、出口があるのかどうかわからないせいで、大人になどなれない。そこまでを射程に入れている、現在のヤンキー・マンガは、学校を舞台にしたモラトリアム表現において、もっとも深遠で、まちがいなく最先端をいっているのである。いま、そういう体の話ということであれば、山本隆一郎『GOLD』を強くオススメしたい。
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2005年10月06日
 『en-taxi』11号掲載。エッセイということになっているが、これは小説の類としてカウントしたい。

 ここ最近の、中原昌也の、短すぎる短編はどれも、あっという間に読み終え、その都度、すぐに内容など忘れ去られてしまうのだから、いっこも言及する気になれないのだけれども、これはひさびさに、ぐあっときた。作品の強度を記憶に刻んだ。題名である『ISHIDAIRA』とは、石田衣良のことである。今後はあらゆるすべてのものを肯定しようと心に決めた〈僕〉であったが、しかし、あなたが存在していることだけは歓迎できない。〈あなたがいるから僕があなたと比較される〉。かくしてシケモク先生のご登場を願う。シケモク先生は菱田平というペンネームで『沼袋ジュラシックパーク』というベストセラーを書いている。『沼袋ジュラシックパーク』は低脳な推理小説で、ド田舎の人間に読ませるために書かれたものである。やつらは原始人に違いない。原始人たちは言葉を知らない。凶暴だ。だから菱田平なんてのは、そいつらに殺されてしまえばいいのだった。おわり。

 ところで池田雄一は、「中原昌也と孤独な時代の叙事詩」(『群像』10月号)において、今の世のなかでは物語が猛威をふるいつづけている、〈そのような状況のなか、小説はどのような形式を選択しているのか。もはや物語を強化したところで、経験のインフレは止まることはない。そうなると、語りという行為自身を高精細化させるか、語りを否定し印刷された文字を剥きだしにし、そのことによって出来事の価値下落に対抗させるか、のいずれかが考えられる〉として、前者を採用したのが舞城王太郎であり、後者を選んだのが中原昌也なのであり、そして〈中原の小説においては、暴力は暴力以外の何物でもない。暴力によってめざすべき理想つまり物語などありはしない。あるのは暴力行為にまつわる「文」だけである〉といっている。

 なるほど。個人的には、石田衣良の作品に関しては、その若者言葉でおっさんの説教を語るという方法論をこそ、ひどく嫌うが、それ以上の批判はないので、ここで中原の書く憎悪が、はたして何を起点にしているのか、測りかねる。が、しかし、その筆力からは、なにか、圧倒されるものを、感じる。ラストの〈死ね〉というワン・フレーズには、心を脅かされる、そういうリアリティが宿っている。それというのはつまり、〈死ね〉という言葉が、そのこと以外の意味を含まない、たとえば愛情や親密さの裏返しではないばあい、文字どおり、直裁的な殺意を代弁するものとして、するどいナイフのような、魅せられるほどにまっすぐな光を放つからなのだろう。

 『ボクのブンブン分泌業』について→こちら
 『待望の短編集は忘却の彼方に』について→こちら
 『青山真治と阿部和重と中原昌也のシネコン!』について→こちら
 『キッズの未来派わんぱく宣言』について→こちら
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 電波大戦 

 本田透『電波男』には、全面的に賛成とまでいかなくとも、それでも感心するところのあった僕であるが、これはちょっと、わからなかった。「恋愛資本主義」などというのは、やはりルサンチマンを走らせるための仮想マシーンなのではないだろうか。もうすこし正確に言い換える。この本で本田がいうところの「護身」とは、ひじょうにシンプルに捉まえれば、「恋愛資本主義」に毒されない態度をキープするということである。そして、それはオタクである本田の、個人的な経験に基づいて形成された、ひとつのモデル・ケースである。それがなぜ、ある程度の共感をもって読み手に受け入れられるかといえば、今やオタクというのがレア・ケースではないといった部分にかかっている。しかし、オタクであることを恥じないオタクというのは、ここ十数年のうちになって、ようやく成立したものであり、そのような意味で、耐用年数がどれぐらいあるのかわからない以上、いま現在の段階において、一般的な問題あるいは普遍的な問題としては語りえない、と僕は思う。つまり、自分の立ち位置が、この時代のなかで、特殊な事象であるという前提を置くことにより、かろうじてカウンターとして機能しうる、そのような意味では、「社会」という枠から「社会化されえない私」を抽出するという、近代的な自我形成の方法論に似ているのだが、ちがう、すでに「社会」それ自体を自明のものとしない「私」によって提出されたのが「恋愛資本主義」というタームだったのであり、そう考えたとき、問題のすべては実証されてはおらず、あくまでも仮定の話に収まってしまうというわけだ(このあたりが小谷野敦のいう「もてない男」とは決定的に違っている)。あるいは、そうした仮定を実証するために、本田はオタクという生き方を選んでいるに他ならない。とはいえ、これ、『電波大戦』は、竹熊健太郎、岡田斗司夫、滝本竜彦、倉田英之らを招いて(彼らのもとに出向いて)の対談集なのであり、ある種のエンターテイメントとして消化されるべきなのだろう。個人的にもっともおもしろかったのは、倉田英之の箇所である。さすがスタジオオルフェの人である。恋愛云々の話よりも、〈人は同じ本が何冊買えるんだろう? みたいな〉という購買の姿勢には、はげしく共感した。倉田は最大24冊、同じマンガを買ったというが、これは尊敬に値することである。ここ最近、これほど励まされた発言もない。さて。ところで。僕のスタンスをいえば、プラトニックを重んじる恋愛至上主義者である。だから不思議に感じるのが、本田が「はじめに」で〈なにしろ、人間には肉体というものがあります。そう、人間もまた、動物にほかならない。女はそんな男の弱点である「肉体」ことに「下半身」をついてきます〉という具合に、「性欲」があたかも克服できないことであるかのように語られる点で、そもそも愛のないセックス(性交)など、いっさいの価値がないのだから、レイプとかいった不可抗力でもなければ、そんなもの相手にしなければよいだけの話である。

 『電波男』についての文章は→こちら

 関連
 小谷野敦『帰ってきたもてない男――女性嫌悪を超えて』について→こちら
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2005年10月04日
 完全演技者

 大学をスピンアウトした〈僕〉は一介のインディ・ミュージシャンだった。〈僕〉には音楽しかなかった。けれども音楽を通じて、なにを表現したいのかがわからなかった。もともとはヘヴィ・メタルだったくせに、時代にあわせてパンクをやり出したバンドは、まるで演歌のように思え、とてもとてもうんざりしていた。サラと出会ったのは、そうした葛藤の澱が溜まり、フラストレーションがピークに達しつつある頃だった。メンバーとケンカ別れした〈僕〉にとって、サラと過ごす日々は、ひとつのシェルターであるようだった。だけど、ある日、バイト先のレコード屋で見つけてしまう、出会ってしまう。クラウス・ネモという名のレコードを、クラウス・ネモというアーティストに。運命の扉が開く。やがて〈僕〉は、ニューヨークに渡り、完全演技者(トータル・パフォーマー)として、文字どおり、彼とともに生きることとなるのであった。

 本作、山之口洋『完全演技者』は、ひじょうに密な内容を持った小説であると思う。かつて『ベルベット・ゴールドマイン』という70年代を舞台にしたロック映画があったけれど、あれを80年代アメリカのシーンにヴァージョン・アップして、ポール・オースターがノベライズしたかのような趣もある。物語中にデビッド・ボウイが登場したとき、思わず「あ」となる。

 しかし物語の中核を為す、トータル・パフォーマーとは、いったい何を表しているのだろう。僕なりに言うのであれば、こういうことではないか。人間が、ある時期を境に、自分で決定した生き方に従い、それを最後まで貫き通すこと、そこまでいったときにはじめて、意思の介在を確認できる、と。ある登場人物は次のようにいう。〈人間がトータル・パフォーマーになるということは、身体から生きたままの心臓をつかみ出すのと同じだ〉。作中には、二面性というか、ふたつの対立あるいは平行する概念を暗示するモチーフが、次々に現れる。そうした二項の統合を目指して、パフォーマンスは繰り広げられる、繰り返されるみたいだった。アイデンティティという話をするのであれば、〈僕〉は、今風の言葉でいうと「自分探し」の一環として渡米するわけだが、それは誰かに背中を押されたからそうしたのであり、その後の展開においても、つねに背中を押し続けられることで、行動を起こす格好になっている。そうした場合、主体はどこに宿るのか。この小説のクライマックスは、おそらく、そのことの意味を問うている。
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2005年10月02日
 日々の泡

 宮崎誉子の小説は、要するに、ダイアローグの連続なのであるけれども、それらはけっして、なにか命題のようなものを導き出すために行われているわけではないし、また作中にある種の世界を構築するために必要とされているわけでもなくて、ただひたすら登場人物たちの気分を反映させてゆく。たとえば〈「ちょっとぉ人の話聞いてんのぉ」「聞いてますとも」「頭のよさに負ける女だっているんだから」「……わかるようニャわからないようニャ」「そうだよね。こないだの彼は元気?」「知らニャイ。バカすぎて話しになんないもん」〉といった具合に。そこにはたしかにコール・アンド・レスポンスの関係性は存在しているが、しかし、内容のレベルにおいては、お互いがお互いの話題をスルーしまくっている。深く噛み合っていない。そういった意味では、モノローグのようにも思える。それは時おり挿入されるメールのやりとりもいっしょで、彼や彼女たちは、どうでもいいことを、彼女や彼たちに向け、送信する行為へのみ、作品のなかに流れる時間を費やしている。もちろん、それが、コミュニケーションなのかディスコミュニケーションなのか、そういう風に考えることに、ちょっと興味がないわけではないが、ここでは、僕は、もうすこしべつのことを考える。大切なのは、そういった会話が、楽しいか、ファニーに感じらえるかどうかといったことである。それはべつに、会話の中身がどうとかいうのではなくて、そのテンポが充実しているかどうかという話である。宮崎の小説の場合、それこそがポイントなのだろうな、と思う。ライヴ会場などで開演前に流れるBGMのようなものである。それを心に留めておく必要もないし、それに心を動かされる必要もない。ただ退屈はしない程度の感覚で時間だけが潰れればいいのである。でもって、本作『日々の泡』なのだが、これはやや悪い選曲にあたってしまったなあ、そういう気分になった。あまりにも死にたくなる死語の連続は、登場人物たちの年齢にあわせたものなのかもしれないけれど、それこそポップ・ミュージックの世界では、うたわれるフレーズが日々更新される、そのことによってテンポも変質するわけだが、ここで催されているのは、まるで、懐メロを延々とうたうカラオケ大会みたいなものなのだった。だから、まあ、それを楽しめる人もいるのだろうことはわかる。が、どうやら僕はそういうタイプではなかった。それに、作者自身が、大いなる普遍性を目指しているつもりはなさそうなのに、それにあわせる必要もないのだろう。ところで、マンガなどを読んでいると、かなりポップ・ミュージックの歌詞における著作権には神経質なところが見受けられる、反面、小説というジャンルにおいては、けっこう大々的にやっているにもかかわらず、わざわざ許可をとっている節がなさげである。この作品でも、そう。引用の範疇ということで片付けられているのかな。あるいは相手にされない程度のマーケットだということなのかしら。どうでもいいことが気になった。

 『ガシャポン ガールズ篇』については→こちら
 『少女ロボット(A面)』については→こちら
 『セーフサイダー』については→こちら
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2005年10月01日
 覇-LORD 3 (3)

 わかった。武論尊原作のマンガがなぜどうしてこう燃えるのか、わかった。それは、9割の登場人物が噛ませ犬にしか過ぎないのに、そのほとんどに見せ場が設けられているからである。やはり池上遼一とのタッグである『サンクチュアリ』はもちろんのこと、べつのマンガ家による『北斗の拳』などもそうだっただろう。そして、本作『覇』である。この巻では、ふつう三国志の物語では、董卓と並んで、あまり良く描かれない、張角が、すごい、かっこうよい。ここにも、漢(おとこ)が、いた。階級社会を憂う革命の志である。反面、関羽と曹操がイマイチな感じになってしまっているが、結局のところ噛ませ犬の運命なのだから、仕方がない。もうひとり、噛ませ犬といえば、趙雲であるが、その趙雲の秘密が、おそらく読み手の多くが「あーやっぱりね。やっちゃった」程度の衝撃しか受けないだろう秘密が、明かされるのだけれども、まあ良いではないか、しょせん噛ませ犬なんだから。つまり、これは噛ませ犬の饗宴としての「"超"[三国志]」なのである。そのように考えるのであれば、一番燃える存在が、最強の噛ませ犬である呂布であったとしても、それはそれで、必然なのであった。武論尊の本領が発揮されている。
 
 2巻についての文章→こちら
 1巻についての文章→こちら
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2005年09月30日
 『小説すばる』10月号掲載。連作小説の第1話目ということになるらしい。「worried about you」という題名は、ローリング・ストーンズのナンバーからとられている。熊井望は、スタジオ・ミュージシャンをやっている28歳の女性である。自分のことを、男でも女でもない、ただのギタリストである、という風に考えている。ときどき思い出すのは、中学のときに知り合い、大学を卒業するまで、地元でずうっとともに過ごしたTTのことである。彼女とはバンドを組んだこともあった。これまでの人生のなかで唯一友だちと呼べる存在だった。だが、今では、あることがきっかけで、疎遠になっている。それはそれとして。どちらが長く禁煙を続けられるか、よく仕事がいっしょになるベーシストとの賭けに負けた彼女は、だいっ嫌いな健康診断を受ける羽目になってしまう。その結果、心臓の部位に再検査の必要性が発見される。と、そのように読んでいけば、どこかのポイントで、たいへんドラマチックなことが起こりそうな気がしてくるものだけれども、話は、とりとめもなく、淡々と、日常を周回しながら、普段どおりのペースとスペースに帰ってゆく。さいしょ、読みはじめは、熊井の性別が男なのか女なのか、読み手にはわからない、また熊井を含めた複数人称が、それが女性だけの集まりを指していても、「彼ら」であったりする。そのへんは作者の狙いだろう。とはいえ、それは物語から女性性を排除しようという意識の働きではなくて、もうちょっとべつのレベルの問題を孕んでいる。どういうことかといえば、人がひとりで生きてゆくこと、あるいは、人は誰しもひとりの生き物であるということ、そういった事実の前では、そこに横たわる孤独の前では、性差などといったものは、むしろ二次的なファクターに過ぎない、という言い換えであるように思う。だからこそ、かつて付き合った男が、自分を女として、そのやさしさも含め、女以外のものとして見てくれないことに対して、熊井は、気を悪くするのである。その男が、女性というパターンのなかに自分を押し込め、一個の人間として、個性として、彼女の内面を捉まえない、そうした理解と前提の不一致が、ふたりの間に、断絶線を引くのであった。もちろん恋愛という関係性が、お互いに、固有性を付与することはありうる。だが、ここでは、その反対のセンが描かれている。TTと過ごした時代への追想は、そうした逆説のため、物語中に介在しているといえる。ひとつの不安が、心臓の音によって克服される、ラストの決まり方は、じつに、うつくしい。

 絲山秋子の他の作品について
 『へたれ』についての文章は→こちら
 『沖で待つ』についての文章は→こちら
 『ニート』『2+1』についての文章→こちら
 『スモールトーク』についての文章は→こちら
 『逃亡くそわたけ』についての文章は→こちら
 「愛なんかいらねー」についての文章は→こちら
 『袋小路の男』についての文章は→こちら
 『海の仙人』についての文章は→こちら
 「アーリオ オーリオ」についての文章は→こちら
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2005年09月29日
 少女には向かない職業

 『少女には向かない職業』という題名は、コピーライトとしては秀逸だが、作者は、あきらかに「職業」という語義を取り違えている。冒頭に次のようにある。〈それであたしが思ったのは、殺人者というのはつくづく、少女には向かない職業だということだ〉。しかし、よくよく考えるまでもなく、殺し屋だとか傭兵だとか死刑執行人だとかの類でなければ、「殺人者」というのは職業として成立しないのである。だが、そうした語義の混同は、おそらく意図的に行われているのだろう。作中に、舞台となる田舎の島で女性たちが生計を立てる姿を指して、〈女たちのほうが、弱いけど、しぶとい。意地でも働く。体力も技術もなくても、むりやり物産センターとかで働き続ける〉といった記述が存在している、たぶん、そういった事情との対比になっているのだ、と思う。とはいえ、やはり、それは、とりとめもなく、幼い見立てであるように感じられる。

 ああ、またもや反動的なことを書いてしまいそうだなあ。

 語り手であるところの〈あたし〉、大西葵は、山口県下関市の沖合いにある島で暮らす、13歳、中学2年生の少女である。彼女が5歳の頃に実の父親は他界している。母親が再婚したのは3年前のことだった。相手は漁師だった。さいしょは誠実そうな男であった。しかし、去年、足を怪我してからは、働いていない。毎日を酒に浸りながら過ごしている。〈あたし〉は義父の存在を、脅威に感じ、嫌だなあと思いながらも、そんなことは世間にはよくあることで、不幸自慢は下品なことなのだ、と考える、そうして家庭外では明るく振る舞い、そのアイデンティティをキープしている。たくさんの友達もいたし、あわい恋心だってあった。そう、やがて共犯関係を結ぶことになる、図書委員で、クラスメイトで、学校では目立たないが、ふだんは黒で固めた奇抜な格好をした、漁港の網元さまの孫である、宮乃下静香と知り合いになるまでは。

 いってしまえば、『少女には向かない職業』は、そのふたりの少女が、ふたりの大人の、男性を殺害する物語である。

 さて。当然のように、小説には、倫理を取り扱う必要も、義務などもない。とはいえ、そこに含まれている内容が、倫理に抵触するものであるのならば、すくなくとも倫理を取り扱わなければ、それは表現の強度としては弱い、言い換えるなら、倫理を物語中で機能させられないというのは表現力の問題に他ならない、というのが、僕の考えである。

 先ほども書いたが、本作のなかでは、少女による殺人が行われる。その行為自体を、読み手の多くは、不快に感じることはないだろう。むしろ、その殺人者たちに、感情移入をしつつ、物語を読み進める。なぜそのようなことが可能になるのか。たぶん、こういうことだ。「子供(弱者)対大人(強者)」、または「女性(弱者)対男性(強者)」、または、それらが同時に存在する、そういった構図を、無意識のうちに、働かせているからである。おそらく、ここでは、殺される側の人間は、その態度ではなくて、腕力によって、相手をねじ伏せるといった描写が、そのためのトリガーになっている。そうして、敷衍すれば、一種の復讐譚として、その復讐する立場への共感が起こっているのである。そこでは、人を殺すことが、読み手の了解のうえで、許されている。

 だが、しかし、じつは次の点こそが、この『少女には向かない職業』という小説の秀逸な部分であり、瑕疵なのだけれども、今まさに人を殺そうとするときに、少女を咎める声がある。作品冒頭で、少女が自分は人殺しには向かない、とモノローグに語るのも、ラストで、自らのなかにある告白という欲求を遂行させるのも、その声が存在するためだといえる。では、その声は、どこからやってきているのだろうか。僕は、それを、それこそを、倫理からの訴えに他ならない、と思う。もしも少女が自分の行動に罪悪感を持っているとしたならば、罪と罰は、倫理の上にあって、はじめて成り立つものなのである。とはいえ、その倫理の所在だけが、この物語のなかにあって、ただ明らかになっていない。作者は書き込んでいない。それは書かないことによって表しているというのではない、まったくもってべつのレベルで存在していない、たぶん作者はこれを書いているときにそれを意識していない、どこにもない、ゼロの空白なのである。

 『辻斬りのように』について→こちら
 『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』について→こちら
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2005年09月28日
 禁煙ファシズムと戦う

 僕などは田舎の子なのであって、週に1回あるかないかぐらいしか、都内には出かけないのだけれども、そのたびに、ぞっとしないでもないのは、街頭からじょじょに灰皿が消えてゆくことと、それに比例して、タバコを吸っている人を見かけなくなることなのだった。僕がタバコ喫みだというのもあるからなのかもしれないが、これは、けっこうシュールな体験なのである。自分が知らぬ間に、この世界が、べつの世界と入れ替わってしまったのではないか。と、まるで不条理劇のなかにいるみたいな感じになるのであった。また、そのような環境にあって、普段の調子で、さて一服一服と、タバコに火をつけようとすると、なにか吸いづらさのようなものを覚える。そのときに、ふと、マナーやモラルなどといった、自律を司るものではなくて、同調圧力の恐怖によって、自分の行動が差し押さえられている、そういう尋常じゃない気分にもなるのだった。本書『禁煙ファシズムと戦う』の肝は、ちょうど小谷野敦と栗原裕一郎の論考に挟まれる体で存在している、斎藤貴男の「「禁煙ファシズム」の恐怖」である。初出は99年であるが、これまで僕はそれを読んだことがなかった。「禁煙ファシズム」といった語彙も、また小谷野、栗原両者の論考も、その斎藤が書いたルポルタージュを、ひとつのベースに置いている。斎藤は、20年代ソビエトの監視社会を風刺したザミャーチンの近未来SF小説『われら』の参照から、話をはじめる。健康までをも含めた、人間の自由が、公的に管理されるなんてのは、おそろしいことじゃないか、といった問題提示である。しかし人々は、自ら進んで、そのような拘束に従おうとしている、喫煙者を排斥しようとする運動は、その一環である、と斎藤は指摘する。なぜならば、そこでは個々人の権利といったものが、市民団体や行政権力の下部に属する格好になるからである。そうして斎藤は、いわゆる副流煙有害説の根拠として、世界的に有名な、平山雄博士による研究(平山疫学)の矛盾点を発見してゆくのだった。ちなみに斎藤は喫煙者ではない。自分のことを、アンチ喫煙者だといっている。つまり、広がりつつある禁煙運動の背後に隠れている、少数派を排除するような、ファシズム的な気配と、大勢の思考停止こそを、問題視しているのだ。敷衍すれば、現在さまざまな議論のなかに散見できる監視社会の二律背反、その一面として、禁煙運動をクローズ・アップしているのであった。なるほど。たしかに禁煙家にとって、喫煙者は、自己の投影とはならないのだから、他者以外の何ものでもない、だが、その他者を丸ごと消去したいという、現代的な指向性が表出した例として、禁煙運動を捉まえることは可能だというわけだ。それはこの新書全体を貫くテーゼでもある。小谷野と栗原の文章について触れる余力がなくなってしまったが、どちらもさすがの読ませる内容であると思う。ただし、小谷野の文章はかなりアグレッシヴなので、広く開かれていないというか、本人がケンカを売っているといっているのだから、それは「あえて」のだろうけれども、ある程度たしかなロジックを用いているのだから、それが文体のせいで、対面する側に矮小な議論として見なされてしまうかもしれない、という風に考えると、なんか、ちょっと勿体ない気がした。ああ、でも、相手に話が通じていないというのが、すでに前提の上で書かれているのか。

 小谷野敦の他の本に関する文章
 『帰ってきたもてない男――女性嫌悪を超えて』について→こちら
 『恋愛の昭和史』について→こちら
 『俺も女を泣かせてみたい』について→こちら
 『すばらしき愚民社会』について→こちら
 『評論家入門 清貧でもいいから物書きになりたい人』について→こちら
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2005年09月27日
 『月刊少年シリウス』11月号掲載。海藤幼志は言う。「本来の手順にのっとるならば、事件の真犯人の名は最後まで秘し、様々な伏線を回収しつつ論理を組み立て、そして最後の一行でそれを明らかにする――べきなのでしょうが、しかし今回はあえてその手順を踏み外し、逆向きに推理を披露しようかと思います」。かくして日本探偵倶楽部から派遣された俊英によって、事件の全貌が明らかにされるのだった。だが、しかし、それは、おそらく、読み手の多くを納得させるものではないだろう。理に適っていない、ということではない。物語の解説としては、腑に落ちる。推理小説のフォーマットに則るのであれば、破綻もなく、伏線も、トリックも、すべてが丸く収まっている。けれども、それで話が終わってしまっては、詰まらない、退屈だ、読んで損した、スリルに欠けらあ、というわけだ。つまり、予定調和にすぎる。もちろん、だから、秀でた作家である西尾維新は、その先に、さらなる展開を用意しておくのであった。すなわち、次の殺人と、新しい謎と、物語の反転を、である。この回に限っていえば、自分の意思で行動したはずなのに、それが、あたかも台本に沿った行動であったと感じる、そういう作為にあふれたメタ・レベルを意識する、閉塞世界における主体性の剥奪が、ひとつ、テーマとして浮上している。初回から登場した「人形」というキーワードも、ここに、帰結する。これは、この作者得意のモチーフであり、そして同時代を生きる人々が、本質的に抱えている妄想を、いつもどおりの手際で、作品の内部に組み込んだ結果である。謎解きの最中に、海藤幼志は、その自分が語る真相に、思わず、声を荒げる。「自然じゃない――自然の流れなんて、とんでもない――(略)――! 不自然至極極まりない!」。

 『トリプルプレイ助悪郎――第四回「四季」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第三回「第三」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第二回「二人」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第一回「唯一」』について→こちら

 西尾維新その他の作品に関する文章
 『ひたぎクラブ』について→こちら
 『ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種』について→こちら
 『ネコソギラジカル (上) 十三階段』について→こちら
 『ニンギョウがニンギョウ』について→こちら
 『コドモは悪くないククロサ』について→こちら
 『タマシイの住むコドモ』について→こちら
 『ニンギョウのタマシイ』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか 2』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか』について→こちら

 『総特集 西尾維新』ユリイカ9月臨時増刊号について→こちら
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2005年09月25日
 

 ここ数年、エモっ気の強いVICTORY RECORDSにあって、ビトゥイーン・ザ・バリード・アンド・ミー(BETWEEN THE BURIED AND ME)の剛健なヘヴィさは、ひじょうに頼もしい。逞しい。とはいえ、それもカオティックとメタリックのテクニカルなコンビネーションに過ぎないのだとすれば、じつに今様なものに思える。だが、しかし、けっして個性での勝負を放棄したサウンドではないのであった。本作『アラスカ(ALASKA)』は、ビトゥイーン・ザ・バリード・アンド・ミーのサード・アルバムにあたる。前作『THE SILENT CIRCUS』で、垣間見られた北欧デス・メタル風の叙情は、ここではさらに破綻のないレベルで、ハードコア・ポリシーな激情との融和を果たしている。そのことが、このバンドの固有性となっている。とくに1曲目「オール・ボディーズ」である。トリッキーなリズムと乱暴な咆哮とが編み出す混沌は、楽曲の途中にて、君たちはジャーマン・メタラーか! というぐらい、流麗なギター・フレーズと大合唱を誘うコーラス・ワークへと変節する。また9曲目「プライマー」のイントロにも、オールド・スクールな様式美メタル・フレイヴァーが漂う。そのあたりが、びっくりポイントに違いない。うひゃあ、となる。思わず握り拳というやつである。アルバム全体のラストを、突然、ボサノヴァ調のおしゃれなインストで飾るセンスも、なかなか。以前と比較すれば、1曲1曲の起伏に耐えうる強度が増した分、それらの要素は、はったりに思えないほど、内実をともなう表現のため、奉仕している。

 バンドのオフィシャル・サイト→こちら(エンターすると音出ます)
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2005年09月24日
 書評のおしごと―Book reviews 1983-2003

 本書『書評のおしごと』は、その題名のとおり、社会学者である橋爪大三郎が、83年から04年の間、さまざまな媒体に発表した書評関連の文章をまとめたものである。〈文学には不案内なので〉といったエクスキューズが見かけられる箇所があるように、あくまでも社会学の側からの読みが行われている。では、社会学としての読みとはどのようなものか。そういえば、べつの社会学者の行うそれを、つい最近、べつの場所で見かけ、へえ、そういう見方もあるのか、と感心したことがあった。『群像』10月号、「創作合評」中の大澤真幸である。大澤は、そこで、その文章の巧さまずさや物語の出来不出来から、いったん小説を切り離し、現実社会という枠組のなかに、登場人物の行動を還元し、べつのレベルでの読み替えをしていた。ここで橋爪が行っているのも、同じ体のものだ、といえる。もちろん取り扱われているのは、小説ばかりではなくて、哲学書など、思想系の人文書にまで及んでいる。いや、むしろ、そちらに置かれている力点の方が強い。なかでも、大澤真幸、吉本隆明、加藤典洋に関しての、わりと長めの文章は、僕の個人的な関心と重なる領域なので、興味深く、読んだ(まあ、そのうちの大半はすでに目にしていたものであったが)。また、仕事とはいえ、よくもこれだけの本を読んだものだと思えるほど、物量に富み、ブック・ガイドとしての機能性は高い。しかし、じつは僕がもっとも感心したのは、「あとがき」のなかで示される、橋爪が書評に臨む際のスタンスなのであった。橋爪は〈書評は、必ず褒めることにしている。さもないと、読んで楽しくないだろう。著書の言いたいことの核心を、評者が取り出して、読者のもとに送り届けるという、書評の伝達の径路も見えにくくなる〉といっている。もちろん、ただ褒めればいいというのではない。〈褒めることと、公正、公平、正確、率直であることは、矛盾しそうにみえる。よく考えてみると、必ずしも矛盾するわけではないが、微妙なバランスを要する〉と、細心の注意を払って、褒めることに徹するのである。それの何に僕が感心したのかといえば、たとえば僕がここでこうして書いているもののなかには、対象に対しての文句をただ垂れ流しているものがあって、それは自覚しているのだが、そういったセンの文章は、たしかに自分でも読み返して、詰まらないのである。中身がないとさえいえる。それを人に読ませたい心情というのは、やはり、すこし傲慢なのではないか、ひどい話じゃないか、などと省みる、いい機会になった。

 『言語/性/権力』について→こちら
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2005年09月21日
 東京奇譚集

 〈不思議な、あやしい、ありそうにない話。しかしどこか、あなたの近くで起こっているかもしれない物語。〉と帯にはある、なるほど、そうして示されるとおりの、読み手側の共感によって支えられていそうな、村上春樹の連作短編集である。単行本化に際して、書き下ろされた「品川猿」以外のものは、『新潮』掲載時に読んであるので、ひとまず、「品川猿」についての話からはじめる。

 安藤みすずは、結婚3年目の女性である。夫婦の間に子供はなく、今も自動車のディーラーで、事務仕事をやっている。彼女には、人に相談しづらい、夫にさえ言うのが憚られる、悩みがあった。ときどき、自分の名前を思い出せなくなってしまうのだ。他の物事に関する記憶については、問題がないのだが、自分の名前だけが、頭のなかから、抜け落ちてしまう。そうして物語は、彼女が、自分の名前を取り戻すまでの過程を、追う。

 途中、カウンセラーが登場したあたりで、よしもとばなな風のオカルトな様相が浮上し、すこし雰囲気が悪くなるのだけれども、着地は、さすがに、綺麗に決められており、最初に引いた惹句どおり、〈不思議な、あやしい、ありそうにない話。しかしどこか、あなたの近くで起こっているかもしれない物語。〉という印象を、おおよその読者に与えることだろう。しかし、それはつまり、漠然としたイメージに対しての感情移入は促すが、論理的な解説はどこにもなされていない、ということでもある。

 なぜ主人公は、自分の名前を忘れてしまうのか、そういったことへの回答は、ロジックでは示されない、あくまでも抽象的な物語によって、クエスチョンとアンサーが接続される。問題は、象徴的に、解決する。そのことはまた、「品川猿」に限らず、『東京奇譚集』という総体を貫くテーゼに他ならない。そのように考えるのであれば、寓話性を高めることで、解釈領域の広い、高度なテクストとして、小説を成り立たせる村上春樹の手腕が、遺憾なく発揮された、密度の濃い作品が並んでいるといえる。

 だが、しかし、べつの見方をすれば、明快な結論を欠如している、という風になる。もちろん、小説が、AはBであるなどといった命題を示す必要など、ビタ一文、ない。だから、もうちょっと、異なるレベルでの言い換えを行うと、『東京奇譚集』という小説群は、どれも曖昧な内容に終始している、読み手ばかりではなく、登場人物たちもまた、さらに、もしかすると書き手自身にも、その物語のなかで何が起こったのか、明瞭な判断は下せない。そうであれば、ふつう、だから何なのさ、と噴飯したくなるものだけれども、この場合、それこそ〈不思議な、あやしい、ありそうにない話。しかしどこか、あなたの近くで起こっているかもしれない物語。〉という了解でもって、大勢の読み手、そして登場人物たち、ことによると書き手自身さえも、その内容に関しての、懐疑を斥ける。それというのは、いったいどういうことなのだろうか。

 ある意味、ミステリと呼ばれるものの書き方、読まれ方は、そういったスタンスと、真逆に位置するものだろう。たとえば、ある犬が原因となって、とある事件が起きる。としたら、なぜその犬はそのような行動をとったのだろうか、それは習性なのか偶然なのか、それとも第三者の計画的な作為なのか、などと、そうした原因と結果とをロジックで結びつけ、その背後に隠れている物語を具現化しなければならない。そこに介在する論証の正確さが、小説にリアリティを付与する、読み手に対するリアリズムの担保になるのである。だが『東京奇譚集』で行われているのは、つまり、こういうことだ。ある犬が原因で、とある事件が起きる。どうしてそのようなことが起きなければならなかったのか。その背後に隠されている物語を、読み手は知ろうとする。さて、といったところで、じつはその犬が自我を持っていて、これこれこういうわけで、とかいう真相を話しはじめてしまうのである。これは、ほんとうは、ずっこける箇所だろう。でもなぜか、『東京奇譚集』の場合、村上春樹の場合、そうはならない。腑に落ちる。

 当然、村上春樹とミステリではジャンルが異なるといえば、それはそうに違いない。しかし一方で、まるでミステリを読み解くかのように、村上作品を、トリビアルな批評に似た位相で解釈する、そういう書評が、ネットをちらりと覗いただけでも、うんざりするほど目につくのであった。それこそが僕の気にかかっている点なのである。

 論理的に説明可能だと判断させるリアリティが、それはじっさいには物語内には含まれていないにもかかわらず、村上春樹の小説を通じて、読み手の眼前に発現するのはなぜか。加藤典洋は「換喩」の問題として、『海辺のカフカ』を読み解いたが、それを、ここでの話に用いるのであれば、なるほど、ミステリは「隠喩」的であり、村上春樹は「換喩」的だといえる。要するに、そこに書かれている物語とは、べつの空間から、リアリティは引っ張られてくるのである。としたとき、『東京奇譚集』においては、このようにいえるだろう。〈不思議な、あやしい、ありそうにない話〉が、〈しかしどこか、あなたの近くで起こっているかもしれない〉という感覚を、読み手に喚起する、というわけだ。そうした行為の過程においては、たしかに、ロジックなどといったものは必要とされないのかもしれない。

 ぜんぜん話がまとまらなかった。が、つまり、ここ最近の村上春樹の小説は、中心部が空白、ブランクだということであり、そのブランクこそが有意味として機能している、それはもちろん違う角度からみれば、無内容だと断じることもできる、と、それを言いたかったのだった。

 「日々移動する腎臓のかたちをした石」についての文章→こちら
 「どこであれそれが見つかりそうな場所で」についての文章→こちら
 「ハナレイ・ベイ」についての文章→こちら
 「偶然の旅人」についての文章→こちら
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2005年09月16日
 200X年文学の旅

 柴田元幸と沼野充義が、交互に、自分の関心を書き連ねるフォーマットで、本書『200X年 文学の旅』は続いてゆく。とはいえ、べつだん往復書簡形式というわけではないので、一部ではそれに擬したところもあるが、それぞれの文章に、お互いが反応する場面はすくなく、もともとの『新潮』の連載が、なぜこのような形になったのか、これを読む限り、その意義は、よくわからない、柴田はいつものようにアメリカ文学を中心に語り、沼野はいつもどおりロシア文学を軸に話をしているだけといえる。まあP233とP243の「少し前」という出だしの符合は、わざとだと思うけれど。そんなに深く頷くところはなかったかな。柴田の分であるならば、ポール・オースター『幻影の書』と村上春樹『海辺のカフカ』とサリンジャー『ライ麦畑』を接続して、少年や少女たちが日常生活から降りること、世界と和解することに触れたくだりが、いちばん興味深く、沼野の分であるならば、t.A.T.uの歌詞を起点に、ロシアの保守性と過激さを解析しようとした箇所を、楽しく読んだ、が、前者は02年で、後者は03年のものなので、いささか賞味期限切れの感が強いのであった。それらよりもむしろ、巻末に付せられた、ふたつのシンポジウムの方が示唆に富んでいた、というのは、ちょっと嫌な性格すぎるだろうか。レベッカ・ブラウン(と小野正嗣)を招いてのシンポジウムのなかで、「世界文学」というタームについての話題が出てくる。それはゲーテが、〈一つの民族の限界を超え、精神的な交流を通じて諸民族の間を媒介し、人類全体の精神的財産を豊かにするような文学〉として、掲げたスローガンであると説明し、しかし自分は〈二十一世紀の世界文学はゲーテが考えたものとは少し違うのではないか〉と思っている、そのように沼野は言う。そして要するに、多様化した世界では、すべてをカヴァーする普遍性は成り立ちにくい、なので、すでに確立されている体系に従うのではなくて、個人がある作品をどう読むかといった部分、その自由度の高さに力点は置かれるべきで、そうした個人個人の読みを、翻訳は、ネットワークとして繋げる、との意見を述べる。だが僕は、個人的なことをいえば、そいつはちょっと甘いぜと思う、賛成できない風である。というのも、それを受けて、柴田が〈個に集中することで逆説的に世界文学と言えるものになっていく、大きなものが生まれてくる〉といっているのだが、そうした「逆説的な」道筋が機能するためには、やはり共通の前提というものが広く伝搬していなければならない。それが無くなりつつあるのと、多様性のさらなる多様化はパラレルなのであって、そのような場合、孤絶したレベルに文学をいったん還元することは、はっきりいって、細分化の根のうちのひとつに止まる危うさを含んでおり、世界という広いパースペクティヴを捉まえる視線とは、切り離して考えるべき問題なのである。
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2005年09月14日
 誰とでも寝るような女の子の気持ちがわからないのは、僕が誰とでも寝るような女の子と寝たことがないからなのだろうか、などと考える。まあ、どうでもいいや。『野性時代』10月号掲載の短編。昭和の最後の年、〈わたし〉であるところの川村優奈は25歳だった。旭川の、わりと厳格な家庭の、一人娘だった。母親は昨年亡くなった。今は父親とふたりで暮らしている。教師の〈わたし〉は、その時代ならではの、モラルにちゃんと則って生きていた、と思う。でも、ある朝、〈わたし〉のなかに、唐突な変化が訪れる。「男たちと寝たくてしかたがないよ」。心が騒いだ。自分を変えるため、まるで辻斬りのように、いろいろな男と、次々に寝ることを、決めた。そのように話の筋を取りだし、考えてみるに、ひとつには、抑圧の問題があるのかな、という気がする。それまでは男性に対して臆病であった〈わたし〉が、なぜ突然、男遊びをしたい、そうしなければならない、といった衝動に掴まえられるのか。はじめの方で、母親の影が提示されている。〈わたし〉は、自分のことを〈いうなれば平凡な白っぽい丸のような人間〉だと思っている、その〈自分の輪郭をデザインしたのは、亡くなった母親である〉という気に、なんとなくなっている。そして、その丸っこい輪郭が濃くなっていくことに脅えている。また、そうした外見が自分自身の内面を規定しているのだ、と捉まえている節がある。〈おんなというものは、どうしたら、変わるのかしら? こころのかたちを変えるのに必要なのは、男遊びなんじゃないかとわたしはとても真面目に考えた〉。このような、セックス(性交)が、性欲の充足を目的としてではなくて、自意識を、象徴的に、洗い流すために行われる、といったモチーフは、女性作家が書くものとしては、今日とりたてて珍しいケースではない。いや、富岡多恵子『波うつ土地』(58年)などを先行する例に挙げれば、戦後以降、日本人女性にとっては、ある種の本質的なテーマであった、といえるかもしれない。そのように考えるなら、もしかすると江藤淳が「母の崩壊」などといったことの、延々と連なるその先に置かれている必然だ、ってこともありうるわけだ。この『辻斬りのように』で、桜庭一樹が、あくまでも舞台を、昭和に設定したのは、女性性への抑圧を、物語上に顕在化させるためだろう。そのことは〈独身の若い女性の飲酒には、まだまだ厳しい時代のことだった〉などといった記述から、伺い知れる。しかし逆に、そのことは現在、現代というシチュエーションでは、この物語がうまく成り立たなかったことを、暗に示している。つまり状況が違う。だが、状況が違うにもかかわらず、なぜ何かから逃れるように誰とでも寝る女の子の話は、過去から今にかけて、途切れることなく、書かれ続けるのか。僕の関心は、そういったところに、ある。たしか上野千鶴子だと思ったが、かつてどっかで、セックス(性交)なんて嗜癖でしょう、みたいなことをいっていた気がする。要するに、アディクションのようなものだということだ。だとしたら、ある女の子が誰とでも寝たりするのは、僕がタバコを止められないのに似たことなのかもしれないな、と思う。だけど、それは、ときどきシリアスに描かれすぎる。『辻斬りのように』における〈わたし〉は、7人目の男と寝終えたあとで、ぱた、と男遊びをやめる。衝動が消えたのだ。そして彼女は身ごもる。父親が誰なのかは知らない。このラスト・シーンは、けっこう鮮やかな筆致なのだが、すこし残念なことがあって、それは〈わたし〉が〈まだすこしもの狂いのままだったので〉とか〈もの狂いのなおらぬまますこし微笑んで〉などと、平常ではない自分の様子を、安易に語ってしまう点で、そのような表記における迂闊さは、それが望まれた妊娠なのか、それとも望まれえぬ妊娠だったのかを、いとも簡単に誤魔化し、未だ生まれ出ぬ子供の重みを、白々しくも、殺してしまう。
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 『野性時代』10月号掲載の短編。もしも「大人の青春」あるいは「大人の青春小説」(大人のための……ではない)などという物言いが成り立つのであれば、青春などというのは、もはや特別に限定された空間でも期間でもなく、なるほど、そのような意味において、近代の終焉とともに青春という季節の無様さと尊さは永遠に失われたのだ、といえば、たしかにそのとおりなのだろう。以上、前置き。さて、ここからが本題、有川浩の『ロールアウト』について。基本的には、自衛官の男性と民間人の女性が恋に落ちるという、有川得意のパターンに基づく内容である。ただし、パニックや災害は起こらない。航空設計士として、次世代輸送機の開発に携わる宮田絵里は、自衛隊側の要望を尋ねるため、小牧基地へと訪れる。その際、不遜そうに見える態度の幹部、高科に出会う。彼から宮田に突きつけられた要望は、ただひとつ、トイレをコンパートメント式にして欲しいということであった。予算の関係上、それは無理だ、と宮田は思う。他に重点を置くべきところが多々あるだろう、と。だが、高科は自分の意見を曲げない。かくして、ふたりは衝突を繰り返し、やがて、それぞれの考えや立場を認めるに至るのだった。ふうん、という感じで、へえ、という感じである。つうか、まあ、生きるのは難しいですよ。だからさあ、日常を戦場に見立てて、必死んなって闘ってるんだといえば、それなりの体裁は繕える。ただ僕は、それって、ものすごい閉塞感だと考える。そういう人生のなかで、ピースフルな運動って、ほんとう恋愛だけだよね。はっきりといえば、有川の描く恋愛というのは、一種のストックホルム症候群であるケースが多い。としても、それは、ある面では、この時代を見事に反映している。息詰まった環境のなかで、病んだコミュニケーションを繰り返しているのが、現代人なわけだから。で、問題は、そのとき、主体あるいは自己の主題といったものは、いったい何に左右され、どこへゆくのだろうか、ということだ。おそらく恋愛対象として選び取った相手に委託される。『ロールアウト』の場合も、顛末こそ前後するが、社会人的な主張、もしかすると自己実現に値するものだろう、それは恋愛対象の喜びとイコールで結ばれる、混同される。相手の気持ちを重んずるばかりだとしても、しかし僕は、そのことが純粋さを保証するとは思わない。ただ悲しくなるほどオートマティズムに従っているだけだろう。
 
 『クジラの彼』について→こちら
 『海の底』について→こちら
 『空の中』について→こちら
 『塩の街』について→こちら
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2005年09月13日
 LOVE

 正直なところ、読みながら、途中で、飽きが回ってきたのであった。いや、相変わらず巧みなストーリー・テリングだ、と感心はするので、それはあくまでも、僕の読み手としての資質であると思う。『ベルカ、吠えないのか?』で冴えわたっていた、この作者、古川日出男独特の、トリッキーな二人称を軸に、話の筋は進行するのだけれども、『ベルカ、吠えないのか?』が、ある一点に向かってすべてが収束する物語であったとしたら、この『LOVE』の場合、ある一点から全方位に向かって拡散してゆく物語であるため、そういった二人称語りが、複数回繰り返されても、カタルシスは積み上がらず、むしろ漠としはじめ、じょじょにパターン化される、すると単調だと感じられるようになってしまう。また作者がどこまで意図しているのかは不明だが、「きみとぼく」風味のミニマムな関係性や、そして世界の裏側で謎の組織が暗躍しているなどといった、じつにライト・ノベル的なマテリアルが、あちこちに散りばめられており、それらもまた曰くありげに見えながら、けっして回収されない、そのせいでダイナミズムが損なわれているようにも思えた。もちろん、そのことは、世界の中心は一点ではない、無数にある、無数にある点々のうちのひとつを、誰もが、固有のものとして認知し、そして生きているのだ、そういう風に平面に拡がる物語を、眺めるのであれば、壮大で広大で感動的なアイロニーだといえる。ただ、僕はそこまで内容にのめり込むことができなかった、残念ながら。それと、どうしても気になるところが、ひとつ。とある場面(P148)で、ある女子小学生と、その親代わりの叔母が、次のようなやりとりをしている。〈それからベックだけは十代のうちから聞いておきなさい。「ベックって……これ? なにか……ヘンテコな音楽」 それがいいのよ(略)人生はヘンテコなの、だから、それがリアリズムなのよ〉と。これはいっけん格好いい、素敵だし、痺れそうだ。しかし、この10代のうちからベックを聴けと諭す叔母自身は、明示されてはいないが、10代の頃にベックを聴いていないはずなのである。作中の条件からは、どのように計算しても、彼女が10代のとき、ベックはまだデビューしていないことになる。それがたまたまロック・ミュージックだから格好はつくが、自分が経験してないことを他人に指示するのは、じっさいどうだろう。もちろん、これがジェフ・ベックであるならば、なんの問題はない。しかし、〈ヘンテコな音楽〉という感想、そして、この本の巻末に付せられているサンクス・リストにベックの「セックス・ロウズ」があるのを見つけるに、やはり、これは、あのベックなのである。つまり、どういうことか。10代の頃にベックを聴いていない人間が、べつの誰かに10代の頃にベックを聴けと薦め、そして、それを用い人生の真を説こうとする、まるで箴言のように、そうした場面の挿入される意味が、僕にはちょっとわからない、すこし胡散くさく感じられるということだ。まあ、それはそれで、こちら読み手の側の問題でしかなく、単純に、そういう大人は嫌だ、相容れねえなあ、っていうだけの話ではある。

 『ベルカ、吠えないのか?』について→こちら
 『gift』について→こちら
 『ボディ・アンド・ソウル』について→こちら
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2005年09月12日
 ニンギョウがニンギョウ

 手にとって、ぼったくりじゃねえか、と思わず声を出しそうになってしまった、そういう値段と作りの本である。内容の方も、文体のテンポとストーリー展開によってページが押し進められる、従来の西尾維新作品とは違い、抽象的かつ観念的なものなので、というか、ごめん、率直にいってしまうが、単なるイメージの垂れ流しでしかないので、読み手によっては、あらら、となってしまうかもしれない。村上龍でいえば『海の向こうで戦争が始まる』みたいなものか、しかし、あそこまでの映像喚起力は備えていないように思う。とはいえ、個人的には、こういう散文をしくじった感じの作品は、嫌いではない。書き下ろしである最終章「ククロサに足りないニンギョウ」以外のものは、『メフィスト』掲載時に読んであるので、ここでは「ククロサに足りないニンギョウ」についてのみ、触れる。熊の少女の住む山が燃えた。放火されたということだった。彼女の生存は絶望的であるようだった。それに気づいたとき、ある直感が〈私〉を襲う。〈私〉には二十三人の妹がいるが、熊の少女こそが、もしかすると二十四番目の妹だったのである。そのことの承諾を得るために〈私〉は、一番目の妹に会いにいこう、と思う。と、この作品の最重要事項は、やはり、オチの部分にあるのだろう。このところのフィクションなどで、萌えなる行為の対象とし、描かれる「妹」といった存在は、いったい何を表しているのか、僕は最近、次のように考えている。仮構上に存在する「妹」というのは、ある場合には、母性ないし保護者を代替するものなのではないか。だからこそ、彼女たちはまず、しっかり者として現れる。しかし、兄妹という年功序列的な関係性においては、彼女たちを保護しなければならないのは、兄の立場に存在する者になるわけだ。だから、タイミング次第で、彼女たちは、おっちょこちょいであったり、泣き虫であったりといった性格に変化する。そのような手順を経ることで、架空の「妹」に相対する人物の、父性ないし男性性は、回復される。つまり男の側、それもホモ・ソーシャルなサークルのなかにあっては、弱者であるような人間にとって、その自意識の脆弱さをカヴァーするために、安易に都合よくカスタマイズ可能な、そういう女性性への願望を象徴するものとして、フィクショナルな「妹」は発現するのである。そこでは「妹」のサイドの自意識は、不要なものとして切り捨てられる。それこそ人形として扱われている。ただの表現だよといったって、それはちょっとあんまりだ。としたとき、やはり、この『ニンギョウがニンギョウ』という小説の、全体を締めくくる最後の段は、まあまあな程度に気が利いている。かろうじてではあるが、リアリティが妄想に対する抗体となって機能する場面であり、そのような意味で、ある種のアイロニーだという風に評価できる。

 「コドモは悪くないククロサ」について→こちら
 「タマシイの住むコドモ」について→こちら
 「ニンギョウのタマシイ」について→こちら

 西尾維新その他の作品に関する文章
 『ひたぎクラブ』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第四回「四季」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第三回「第三」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第二回「二人」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第一回「唯一」』について→こちら
 『ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種』について→こちら
 『ネコソギラジカル (上) 十三階段』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか 2』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか』について→こちら

 『総特集 西尾維新』ユリイカ9月臨時増刊号について→こちら
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2005年09月10日
 小林秀雄対話集

 小林秀雄は、文学批評のみならず、ある意味では音楽批評においても、ひとつのメルクマールであるように思えるが、正直なところ僕は、その文章の古めかしさのせいで、著作に関しては、それほど熱心に読まないのであった。いや、しかし、このたび講談社文芸文庫より出た、この『小林秀雄対話集』については、一気呵成に読み切ってしまったな。それというのはもちろん、対談集ということで、話し言葉なのが幸いしているわけだけれども、にしても小林秀雄という人の物事の考え方が、遮蔽物のないダイレクトさでもって、提出されているようにも受け取れる。だいたい対話を交わす人々が、正宗白鳥、大岡昇平、永井龍男、三島由紀夫、江藤淳などなど、この豪華さ加減、どうよ? といった感じなのである。なかでも一番エキサイティングなのは、坂口安吾とのものである「伝統と反逆」だろう。ドストエフスキーを軸に、ふたりの間で行われる議論は、ひどく抽象的で、啓蒙されるとは言い難いのだが、けっこう容赦のないストレートさでやりあっていて、とてもとても愉快だ。小林が坂口に「バカなことを言いなさい」などと責めてたりする。おかしい。まあ、すこし真面目なことをいうのであれば、ここでは、小説(創作)と批評は、その成り立ちこそ違えど、等価であり、ともに文学として機能しているために、そのような意見の交換が可能になっているのである。とはいえ、正宗白鳥との対談「大作家論」のなかで、小林は、批評家仕事で飯は食えていけない、といっている。〈ある職業の社会性は、それで食って行けるというところで証明されるんです〉〈作家には純文学作家も職業がだんだん発達してきた傾向があるようですが、批評家はまだだめですな。文明が遅れているんです〉。そういった考えは、おそらく、ある種の深刻な危機感からやってきている。そして、そうした危機感こそが、小林の内部を、文学へと連ねていくものだったのではないか。「文学と人生」では、後発世代の批評家である福田恆存と中村光夫を前に、小説とは何かを問う、その問うことが、批評になっている気がする。そして、そこに小林のスタンスがよく表れている。中村光夫が〈言葉というものは物質でしょう〉という、すると小林は〈物質じゃないじゃないか〉〈生きている〉〈物理的なものじゃないですよ〉〈もとは精神的なものだ〉〈意識の形でしょう?〉と戒めようとする。かつて柄谷行人は、マルクス主義の問題と絡め、〈小林秀雄に対する嫌悪は、いつも自己嫌悪に似ている〉みたいなことをいった(「交通について」)。それというのは、もしかすると工学的なロジックに落とし込めない心の在り方に関してだったのかもしれない、などと、漠然として、ふいに思った。
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2005年09月09日
 本題とはぜんぜん関係のない話から入る。『群像』10月号の評論特集「小説の現在」である。そこに11の人間が書いた11本の評論が寄せられているのだが、そのうちの半数以上が読むに耐えられないシロモノで、いや、ほんの2、3本はヴィヴィッドなものもあったのだが、しかし、さすがにウンザリさせられるのだった。もしもそれらが評論と呼ばれるのであれば、評論もまた、現在たくさんの小説が書かれるのと同じような理由で、承認欲を満たすためのツールでしかないのだろう。書くべき物事がないのなら、書かなければいいのである。くっだらない。いま若い文芸評論家のなかで読むに値するものを、コンスタントに書いているのは、石川忠司と前田塁ぐらいだと思う。と、そのようなグッタリとした気分で、同号に掲載されている宮崎誉子の小説『ガシャポン ガールズ篇』を読んだ。

 気が晴れた。僕は、それほど好みではないとしても、宮崎のものに関しては、なぜかわりと読んでいて、『ガシャポン ガールズ篇』は、そのなかで、一番好きであるかもしれない。というのも、これ、ふつうに良い話ですよねえ、と感じ入ったからなのだった。

 冒頭、ある女子小学生とその担任教師との会話から、物語はスタートする。女子小学生は語り手であるところの〈わたし〉であり、新井ミキという名前を持っている。その会話において、ミキは自分の母親のことを「ママ」と呼ぶ、そのことに対して担任教師は「ママってあなた、日本人ならお母さんって呼ぶべきじゃないの?」と言うのだが、この場合は本来であるならば、「母(はは)」と呼ぶべきだろう。そのへん、この意地悪な作者は意図的にやっている節がある。つまり、正しさを主張する人間ほど多くのことを間違えている、と言外に匂わせているのではないか。そのような人を小馬鹿にした態度は、宮崎の専売特許とでもいうべきもので、これまではすこし嫌味にすぎるところがあったのだけれども、ここでは、正解のない世界でいかにサヴァイヴしてゆくか、といったひじょうにポジティヴなものとして捉まえることが可能だ。

 登場人物たちの会話によって、物語中の時間が進行してゆくスタイルは、これまでどおりである。石川忠司は『現代小説のレッスン』のなかで、そういった宮崎の手法を、内省や描写の「かったるさ」を消去する、純文学=近代文学の「エンタテイメント化」と評した。たしかに「カギ括弧」の並列によって、改行の設けられた文章は、リーダビリティは高く、視覚のレベルにおいては、躓きがないとさえいえる。しかし、今回に限っては、その合間合間に挿入される地の文こそが、強く目立つ。ポイントであるように考えられる。

 それはもちろん描写であり、内省であったりの類を含んでいるのだけれども、ぜんぜんかったるくない。明示されてはいないが、ミキはそのスカした性格から、同じクラスの女子よりハブられているみたいな感じである。その彼女の下駄箱にガシャポンのカプセルが置かれている。プラスチックのカプセルを開けてみると、中には、あまり嬉しくないプレゼントが入っている。そのようなシーンは、延々と続く会話を唐突に遮るようにして、挿入されるため、とくに印象的、効果的なものとなっている。また、そうした出来事に付随して、たかだか数十字のセンテンスで表されるミキの内省は、あまりにも簡潔であるがゆえに、その混乱と混沌ぶりがダイレクトに伝わってくるようだ。

 それにしても宮崎の小説は、先ほどもいったが、会話文を主として動くので、誰が発言したかを、たぶん読み手に判別させるがために、たとえば「ヨシオ君、おはよう」などという、名前の明言された他者への呼びかけになっている場合が多い。ことによるとウザい部分でもあるのだが、そうした呼びかけと、それに対する反応とのギャップが、会話の内容そのものよりも、ずっと大きな要因として、あるときにはリアリティなどと呼ばれる、作品の骨組みを支えていることだけは、指摘しておきたい。

 『少女ロボット(A面)』については→こちら
 『セーフサイダー』については→こちら
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2005年09月08日
 『文學界』10月号掲載。25歳でボクサーの道を挫折した〈僕〉は、しばらくの間、やさぐれた日々を送っていたが、30歳を目前にしたあるとき、昔の女の紹介で、生まれ故郷に近い街で、スポーツジムのインストラクターをやることになった。それは一目惚れだったのだろうか。ジムの入っているホテル、そこのエレベーターで〈僕〉は、ひとりの女性に目を止める。彼女は、ホテルを経営する観光会社からやってきた、派遣社員だった。そして〈僕〉よりも20も年上であったのだった。『バス通りの夏』という題名は、彼女が、昔付き合っていた男性から、彼女の生年月日が甲斐よしひろと一緒だということで薦められた、甲斐バンドのナンバー「バス通り」からとられている、そのことは、作中における会話からわかるようになっている。また、ふたりが会話を交わす場所自体が、バス亭であったりする。物語の骨格については、壮年期にある男性と熟年期にある女性との恋愛モノといってしまってもいい、と思う。川上弘美『センセイの鞄』あたりに端を発する、性愛をべつとした恋愛の物語、と捉まえられるかもしれない。ただ、年齢差でいえば、男性と女性の立場が逆になっており、また視点は、男性のサイドで動くため、村上春樹フォロワー的な、いつまで経ってもモラトリアムから脱せない、成熟しない、単なる「僕小説」のいちヴァリエーションに止まっているという風にも読める。つまり、そこいらへんで見かけがちなモチーフで、もうこういうのはいいよ、といってしまえば、まあそれまでなのだけれども、スカした表現の極力抑えられていることが、静けさをともない穏やかにフェードアウトする、爽やかな読後感へと繋がっている。ところで、作者である松野大介というのは、昔中山秀征とお笑いコンビを組んでいた、あの松野大介なのか、読み終わってから気づいた。ずいぶんと前(J文学期の頃だろう)に小説家になっていたのは知っていたが、いや文章もぜんぜん悪くなくて、こういう作風の人だったんだ、と思えば、すこしだけ、へえ、ってなった。
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2005年09月07日
 出生の秘密

 いやあ苦しかった。序盤にはけっこうわくわくさせられたのだが、中盤以降は読みながらうとうとと眠たくって仕方がなかった。そういえば『青春の終焉』も、かなり辛かった覚えがある。内容よりもむしろ、そちらの方が記憶に残っているかもしれない。まあそこらへんは、僕の読解力のせいというのもある。

 さて。『出生の秘密』とは、三浦雅士の言葉を借り、簡単にいうのであれば、こういうことである。〈自身の出生に立ち会ったものはいない。生まれ出たのは自分自身のはずだが、自分自身はその現場に立ち会ってはいない。記憶が抹消されているわけでも隠蔽されているわけでもない。生まれ出たものはまだ自分自身になっていないのだ〉。つまり、人は誰しも誕生の瞬間には自意識を持ちえない、言い換えれば、自分がどこからやってきたのか、その起源を知らない、そのような由来の不確定さ、また、じっさいに体験したはずのことが未知のように感じられる、当事者でありながら当事者として感じられない、そういった認識の間隙が、ある場合には、妄想を生み出し、そうした妄想の類こそが、ある場合には、虚構ではあるが、しかし真実に近しい、普遍的な言語空間を作り上げるというわけだ。たとえていうなら、自分は捨て子でほんとうの両親はべつにいるといった体のファミリー・ロマンスなどは、そのいちヴァリエーションである、と。そういった着想を、三浦は、丸谷才一のメタ・フィクショナルな構造を持つ小説『樹影譚』から得、それをベースにしながら、さまざまな文学作品や精神分析などを糧に、ロジックを肥大させてゆく。

 ただし、そのための論理的展開には、僕にはすこし、飛躍があるように思えるのだった。そのため全体の像がぼやけて見える。あれ? と目をこすっているうちに、いつの間にかとりとめもない話になってゆくような感じがした。

 たとえば、ひとつの文字をじーっと見つめていると、それがなぜそのような形をし、どうしてそういう意味を持っているのかわからなくなる、そこにある不安が、自分への世界への懐疑へと繋がる、と中島敦に言及しつつ、象徴界、想像界、現実界といったラカンの鏡像段階、つまり知覚と自意識のズレに、筋をスライドさせるあたりは、こう書いてみるとシンプルなのだけれども、用いるサンプルがけっこう盛り沢山なのと、持って回った言い方にすぎるところがあり、文章に対しての理解速度が遅れる。だからまあ、その点は、僕の頭の悪さがあるのだとしても、やはり、やや明快さに欠けているみたいに思う。とはいえ、二度三度と読めば、印象も変わるのかな。
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2005年09月06日
 東京19歳の物語―もうひとりの自分が、ここにいる。

 帯には〈東京・19歳をテーマにした精鋭作家10名による短編アンソロジー〉とあり、長嶋有と柴崎友香、篠原一(10年来のファンなので、そう簡単には嫌いになれないなあ、やっぱ)を目当てにして、読んだ。他には山崎マキコ、千木良悠子、狗飼恭子などが参加している。のだけれども、いや正直なところ、どれもイマイチであった、残念すぎるほどに詰まらなかった。裏テーマ的に、携帯電話というのがあるのかどうかは知らないが、ほとんどの小説で、若者が携帯電話をぱこぱこやってる、あるいは、イマドキの19歳を描くにあたり、携帯電話というの絶対に外せないモチーフなのかもしれない。としても、そこらへん、ある世代の捉まえ方としては、ちょっとステレオタイプ過ぎない? と思うのだった。あと横書きという形態が、ちょっとね。読みにくい。横書きの小説というのは、ワープロが普及して以降、それほど珍しくもないが、しかし、それほど流行っていないのは、やっぱり、その形態に欠点があるからなのであって、そのことが気にかからない編集サイドの人間は、よっぽど読書に興味のないタイプなのだろう。小説家の河野多恵子は『小説の秘密をめぐる十二章』という本のなかで〈横書きの作品を書いたり、書こうかと思っている人があれば、横書きは禁物と言いたい〉、〈どれほど、横文字の外国文学に読み親しんできた人であっても、日本語の横書きの創作に創造性を発揮することは不可能〉と書いている。それはさておき。かつて篠原一は、パソコンで小説を執筆するにあたり、縦書きだろうが、横書きだろうが、自分はそのフォーマットに合わせて、文章を書くだけだ、というようなことを、なにかのインタビューで言っていた気がする。要するに、ハードに対して、自分を適応させる、ということである。それってきっと、ワープロは基本的に横書きという時代の名残であり、ひじょうに90年代的な考えである、と僕は思う。ところで、00年代の作家陣といえる佐藤友哉や西尾維新らが参加した『ファウスト VOL4』の「文芸合宿」という特集では、彼らの創作風景が、何枚かの写真として掲載されているのだが、誰もがパソコンの画面上で、縦書きの状態で執筆を行っている。またフォントなども、ずいぶんと弄ってあるみたいだった。それというのは言い換えれば、自分に合わせて、ハードをカスタマイズしている、ということである。そのへんのスタンスの違いというのは、デジタルな環境の変化というのが大いに関係しているのだと考えられるわけだが、そういったことを踏まえた世代論込みの批評を、誰かやればおもしろいんじゃないかしら。
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2005年09月05日
 文芸評論集

 この『文芸評論集』は、富岡幸一郎が、90年代から00年代にかけて発表した、それほど長くはない文章をまとめたものであるけれども、その根底に敷かれているのは、戦後というタームをどのように扱うか、といった問題であるように思う。なかでも興味深かったのは、「江藤淳の「非在」」という項であった。

 かつてインタビューした際に、江藤は若い頃の自分に次のように語ったのだ、と富岡は書いている。それは昭和60年のことだった。敗戦後40年を経た段階で、江藤は、戦後の文化的荒廃は、おそらく60年の時間を要しないと、回復をしないだろう、といった。そうしたロジックは、関ヶ原の役後の30年間、同じように文化的荒廃が続き、そこから再び新しい文学が立ち上がるのに、60年の時間が必要とされたことを、根拠にしている。60年というのは、つまり2世代を通過しなければならない、ということである。江藤がそう言ったことに対して、富岡は〈いや、戦後の日本文学はそれでもなお見るべき作品を少なからず遺したのではないか〉と問う。それを受けて江藤は、そういった作品というのは、戦前の遺産あるいは戦前の貯金で文学をやっていたのであり、それは三島由紀夫の自殺と川端康成の自殺という、2年おいて起こったふたつの事件により、完全に枯渇した、と答えている。近代文学の終焉を意味しているのである。そこでさらに若き日の富岡は、江藤に向けて、関ヶ原の役に比べ、太平洋戦争はスケールが違うのではないか、と尋ねるのだった。

 戦後60年目というのは、いうまでもなく、2005年のいま、現在を指している。しかし、ほんとうに江藤が予言したように〈「六十年の荒廃」は終わり、新しい日本文化の躍動がはじまっていくのだろうか。その兆しは何処にあるのだろうか。いや、そもそも「戦後」はほんとうの意味で終わったのだろうか〉と富岡は書く。

 またべつの機会、昭和天皇崩御の直後に富岡がインタビューしたとき、江藤はやはり戦後の問題に触れる。昭和天皇は、結局のところ、戦後の終わりを見ることなしに、逝った。〈陛下のお元気なうちに、戦後がすっかり終わり、かつてみんなが信じていた崇高なものを、やはり崇高と認めるだけの自由さを許容する時空間を日本人が回復し、それを自他ともに納得できる状態をご覧になってからお隠れになったのなら、どんなにお幸せであったろう〉。これは現代を生きる人々には、ややわかりづらいニュアンスを含んでいる感じがするけれども、僕なりに言い換えるのであれば、日本人としてのアイデンティティを支える存在がまだ健在のうちに、国民は戦後というダメージから完全に立ち直るべきであった、ということになるのではないだろうか。寄る辺のない場所で、傷を癒すのは難しい。もちろん、僕たちは今や、太平洋戦争のダメージなど、いっさい感じない。しかし、それは、戦後2世代を通じて、文化的荒廃の困難を乗り切ったからではなくて、ただ忘却した、未経験なことは知らないことで、歴史が自分たちの体内に息づいていない、そういった事実確認の結果にしか過ぎない。大きな流れでいえば、敗戦によるダメージは、日本人のアイデンティティに歪なねじれを作っている。そういえば、やはり江藤淳を論じ、『アメリカの影』として、そのようにいったのは加藤典洋であった。

 2005年を生きる僕たちは、過去を知らず、それでも日常を機能させている。が、では、未来についてはどうだろう。この本のなかで、個人的にもうひとつ深く読み入ったのは、「村上春樹と全共闘世代」としてある項である。とはいえ、村上春樹について論じられた箇所ではなく、三島由紀夫について論じられた箇所の方が、とくに気になった。富岡は『三島由紀夫VS東大全共闘 一九六九年――二〇〇〇年』(00年)という本から引いたものを検証しながら、全共闘運動を生きた世代の人々が、過去を振り返ったとき、それが〈回顧的言説の頽廃の典型〉に陥ってしまうのはなぜか、を解き明かそうとする。『三島由紀夫VS東大全共闘 一九六九年――二〇〇〇年』は座談本であり、これは三島由紀夫と全共闘の人々との討論を収録した『討論 三島由紀夫VS東大全共闘』(69年)という本の、30年後の続編にあたる、当時三島と討論した面々、芥正彦、小阪修平、橋爪大三郎などが再び集い、対話を交わすといった趣向だ。富岡は、オリジナル『討論 三島由紀夫VS東大全共闘』にて行われた芥と三島の議論に、着目している。

 全共闘の人々は、既成の体制への「反抗」の具体的なイメージとして「空間」を志向していた。それはつまり〈既成の秩序を形成し、それを持続せしめている根本たる時間主義(それは歴史なり、伝統といったものである)を乗り越え、そこから“解放”され自由になるための「空間」を重視すること〉である。そのことに対して、三島は、過去や歴史、伝統や記憶などといった時間的な連続性を否定し、現在における行動と現在における思考を重視するというスタンス自体は認めるが、そうしたスタンスをもって未来を信じてしまうとしたならば、それは論理的矛盾である、と揶揄する。なるほど、そうだろう。現在を非連続の点として区切っておきながら、それでも現在を未来へと連続させてしまうのだとしたら、現在が過去からの連続であることを認めざるをえない、それが出来ないというのは、たしかに考えとしては、破綻している。〈「非連続」、「非歴史」のなかに「自由そのもの」を体現しようとした思想的営為は、それを「過去」として連続性のなかで把えることができない〉。そのような欠落と矛盾が、いま全共闘の世代が当時を語ろうとしたときに〈回顧的言説の頽廃の典型〉を生じさせるのだ、と富岡は断じる。

 もちろんのように、2005年を生きる僕たちもまた、そうした連続する時間の一部なのである。と、考えるのであれば、戦後60年といった問題もまた、自分たちの内側に含まれていなければならない、そういう事象なのだといえる。が、いや、しかし、もしかすると時間軸が、それを認識する能力それ自体が、すでに狂っているということだってありえるかもしれない。舞城王太郎『みんな元気。』について、富岡は次のように書いている。〈“文明の保育器”のなかで生きてきた人間が、「親」となりえず、アダルトな子どものまま「大人」の世界へと引きずり込まれる、そんな現代の光景を鮮烈に(それこそ無茶苦茶なといいたいほどに)浮かびあがらせている。それは、ジェネレーションそのもの自体の蒸発とでもいうべきものである〉、と。
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2005年09月02日
 戦後60年

 『戦後60年』という書名どおりの本である、といってしまえば身も蓋もないが、この60年の間にこの国で起こったトピックを、時系列に、上野昂志がひとつずつ解説してゆくといった構成でもって、つくられている。単著にしては、幅の広い内容で、社会的な事件からサブ・カルチャー的事象まで、わりと突っ込んで扱っているけれども、散漫な様子で、頭に入りにくいところがすくないのは、〈終戦の年には四歳で、その前の年に疎開をしたので、空襲で逃げまどったという記憶はない〉という冒頭が示すように、ある意味では、上野自身の回顧録風に読めるからだろう。時代とともに対象は移り変わるが、それを眺める視点はぶれず、固定されているためである。ちなみに略歴によると、1941年(昭和16年)生まれの上野は、現在64歳ということになる。それはさておき。こういった歴史を振り返ったものを読むと、やはり気になってしまうのは、自分がリアルタイムでメディアなどを通して経験した出来事などであったりする。しかも記憶が遠く、薄く、これまでその詳細に疎かった物事に関しての方が、興味深く感じられたりする。僕の場合は、84年の「グリコ・森永事件」がそれにあたった。犯人は「キツネ目の男」などといえば、なんとなく覚えているが、では、じっさいにどのような犯罪であったかは、おどろくほどに無知であった。つうか、ずいぶんとすげえ事件だったのだ。ちょっと寒気がした。その次の項は88年の宮崎勤事件であり、ここらへんは、大人になってからいくつか関連の本を読んだというのもあるが、記憶にしっかりと止まっている。そのため事実確認的な作業に終始することで、良くも悪くも、それほどの戦慄はもうなかった。当時のインパクトが、やはり、でかい。そうして読み終えれば、それなりに資料性のある本だと思える。ただ、付せられている年表を含め、僕の読み落としでなければ、手塚治虫に関する記述がいっさいないのには、なんとなく齟齬を覚える。まあ、そのあたりは、上野の主観(体験)が強く出ているということなのかもしれない。
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 シュレーディンガーの猫―パラドックスを生きる

 『シュレーディンガーの猫』は、小倉千加子16年ぶりのエッセイ集ということで、わりと短い文章ばかりが集められている、気軽に読み飛ばせるかなあ、と思っていたら、とくに前半部が、けっこうヘヴィだった。そこいらへんは、対象に関して、過渡に感情移入する、小倉の文体のせいであるかもしれない。

 いわゆる男性性を撃とうとする体のフェミニズムではなくて、抑圧に晒され抗う人々の姿をすくいとろうとする視線には、やはり、ぐっとくるところがある。ある種のフェミニストたちが、男性社会との共犯関係を形作っており、そのことに虐げられる人もいるとする「林真理子論」と「中村うさぎ論」は、読みながら、泣けてきて、困ったほどだ。そういった小倉のスタンスの取り方は、最初のほう、「豊かなジェンダー社会を」という文章のなかで、明示されている。

 皮肉なことに、ジェンダー(心の性別)が社会的に構築されるものであるからこそ、好戦的な女性や反戦的な男性が存在するのであって、はじめにすべてが脳でプログラミングされているなら、男女差は躾や教育の必要もなく、人類に一貫して普遍のものであるはずである。

 「○○らしさ」などといったものは、いってみれば、社会的なバイアスであり、それは人工的に生成される。そのように考えたとき、総体としてある人々の心の貧しさ(余裕のなさ)が、性的なレベルをも含め、個々人を拘束する、そういったレイシズムを機能させることになる。だからこそ小倉は〈男性的ジェンダーの良き要素(勇気・責任感)と女性的ジェンダーの良き要素(思いやり・優しさ)を個人が自由に取り入れるよう〉な、つまり、抑圧によってその生が決定されない、豊かさを目指そうとする。

 さて。そこでは新たに個人化の問題が浮かび上がってくるというものだ。「「午後四時」気分の青年へ」という文章のなかで小倉は、現代において、就職や結婚が長続きしないことに関し、〈理想の結婚や就職には、それを希望すればするほど困難になるというパラドックスが存在する。困難になるのは結婚と就職について彼らが考えすぎるからである。「主知主義」の罠である〉として、次のようにいう。

 人は自分が愛するものから愛されることを求めるが、相手から愛されれば愛されるほど自分の存在を見失う。なぜなら、彼らが求めているのは、自分のような者など愛してくれるはずがない相手からの愛であり、相手が自分を愛しているとわかった途端に、その愛の特権性、すなわち自分の存在理由は失われるからである。グルーチョ・マルクスは言う。「私は私を入れるようなクラブには入りたくない」。精神的付加価値(ブランド)の愛の帰結である。
 かくして、結婚相手に対すると同じく、就職に対する要求もどんどん高くなり、しかもそれが手に入るとわかるや仕事への愛は失われる。


 これを、人々が無制限に理想を望むようになった、という風に捉えてしまっては、おそらく駄目である。たとえば鈴木謙介が『カーニヴァル化する社会』において、「自己への嗜癖」といっているような、対人関係がアイデンティティのベースとはならない、そういう社会と個人の新たな段階とリンクさせて考えることが可能だ、と思う。が、ここではやらない。

 ラストに収められている山本文緒との対談も、話っぷりは軽いが、内容自体は、なかなかに濃く、おもしろかった。

 『17歳 モット自由ニナレルハズ』についての文章→こちら
 『結婚の条件』についての文章→こちら
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2005年09月01日
 

 もともとのテキストは、今のところまだインターネット上で読めるので、くわしく説明する必要もないと思うが、書籍化にあたって、近田春夫との対談、細野真宏との対談と、CD工場見学レポートが付せられている。興味深いのは、やはり『考えるヒット』で多数のJポップを論じた近田との対談「CDは株券になるか?」だろう。菊地成孔の切り返しは相変わらずイマイチで、どうも話が盛り上がっているようには読めないが、内容自体は、ひじょうに示唆に富んでいる。結論をいってしまえば、この国の人々は音楽に似たものを買うけれども、音楽そのものは必要としていない、ということになる。まあつまり、工学的に生産されるというか、サプリメント的に消費されるというか、菊地の言葉を借りれば〈「形式」が「安心でメンドくさくない」ということの保証にだけ〉使われ、近田の言葉を借りれば〈抽象的な喜びにひたる人が少な〉くなったというわけだ。もちろん、それ以外にも読みどころは多い。基本的に僕は、もはや音楽批評はなく、もしも現行する音楽批評がそれに値するのであれば、音楽批評なんてのはいっかい死んだほうがいい、と思っているのだけれども、それというのは、自分がこうして書いたものも含め、ある表現に対して、それが存在することの是非を洗い直すような、そういう客観性と相対性が機能していないこと、そのためすべてが愛情の浅い深いで判断される、結局のところ印象論に終始してしまう、そのような現状に苛立つからであって、ここで行われている、ひとつの楽曲を、構造のレベルにおいて、クールに分析するという行為には、それなりの説得力と魅力を感じる。

 『歌舞伎町のミッドナイト・フットボール―世界の9年間と、新宿コマ劇場裏の6日間』についての文章→こちら
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2005年08月30日
 『月刊少年シリウス』10月号掲載。まず最初の死体が発見される。『開かずの間』の奥で、つまり、密室の状況のなかで。なぜそこでどのようなわけでその人物は死んでいなければならないのか。具体的な謎が、物語の表面に、浮上する。と、ストーリーに関しては、それ以上は言えない感じである。というのも、本編のラストに、とりたてて読者参加企画というわけではなさそうなのに、唐突に、メタ・レベルから物語を眺める視線が、読み手に挑戦状を叩きつける。おそらく、そちらこそが、今回の本懐なのだろう、と思えるからなのだった。曰く、この事件の真相を解き明かせるものがいるかどうか確かめたい。曰く、とはいえ推理小説などというのは一種の詐欺的行為なのであり公正さを求めるのはじつに偽善的だ。曰く、だがすべての答えはすでに提示されている。曰く、にもかかわらずすべてを解き明かすことは不可能である。曰く、つまりすべてを解き明かすことができる者は皆無だろう、と。そして最後には、次のように綴られる。〈ところで、私が誰か? ここでいう私とは、誰のことなのか? この文章は――いったい誰が書いているのか?〉。いっけん見え透いたアイディアではあるけれども、ハッタリとしての効能はそれなりに果たされている。まるで清涼院流水を思わせるような、見得が切られている。というか、なるほど、そういえばこれはJDCトリビュート小説なのであった。おそらくは、書き手の存在と不在は読み手の存在と不在によって証明される、あるいはその逆ということもありうる、そのような意味合いのことが、そこでは問われているのではないか、という気がしないでもないが、それすらも謎のひとつとして、進む物語にかかってゆくみたいだ。

 『トリプルプレイ助悪郎――第三回「第三」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第二回「二人」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第一回「唯一」』について→こちら

 西尾維新その他の作品に関する文章
 『ひたぎクラブ』について→こちら
 『ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種』について→こちら
 『ネコソギラジカル (上) 十三階段』について→こちら
 『コドモは悪くないククロサ』について→こちら
 『タマシイの住むコドモ』について→こちら
 『ニンギョウのタマシイ』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか 2』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか』について→こちら

 『総特集 西尾維新』ユリイカ9月臨時増刊号について→こちら
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2005年08月28日
 作家は行動する

 『作家は行動する』は、江藤淳にとって初期の作品であり、ということは、ずいぶんと昔のものだという風になるわけが、このたび文庫化(講談社文芸文庫)されたので、読んだ。勿体ぶった言い回しとまではいわないけれども、すぐさまには捉まえにくいロジックが展開されるので、具体的に抽出するのはなかなか難しいが、それでもシンプルにその中枢を僕なりに切り出そうとするのであれば、おそらく次のようになる。文章とは、書き手が現実にコミットする際に用いられる手はずである、その際、書き手の現実社会に対するスタンスが「文体」を左右するのであって、「文体」は、けっして自然に出来上がるものではない、当人の与り知らぬところで授けられるものではない、あくまでも書き手自身が人間として作りあげるものなのである、としたならば、固有の「文体」を持たないということは、それこそ主体性を欠いたまま生きるというのと同義なのに違いない、そういった意味で「文体」と「行動」はイコールで結べるのだろう、すべての「行動」には責任がともなう、と、『作家は行動する』というのは、つまり、そういうことになるのではないか。そのように考えるのであれば、ここには江藤淳という批評家の、文学作品と関係を切り結ぶ、それ以前の段階における、思考の方向性を決めるベーシックな部分が、ほぼ剥き出しのまま提示されている、といえる。そういえば、ある文学作品について、作家の意識と無意識までをも読み取らなければ批評ではない、批評にならない、と、かつて吉本隆明がいっていた、それとひじょうに近しいことが書かれているみたいに、読めなくもない。いや、しかし、驚くのはこれが書かれたのは、江藤が26歳のときであったという事実で、もちろん文学を為しえるにあたって、若いということは重要なファクターではないけれども、随所において感じられる才気の迸りには、たしかに圧倒される、やがてヒトカドの人物になる人間というのは、なるほど、どこかしら若くしてすでにその頭角を現しているものなのだろうな、と思う。
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2005年08月25日
 猫泥棒と木曜日のキッチン

 この作者のものは、これまでに読んだことがなかったし、ライト・ノベル系のレーベルから出てきた作家だということも、読み終えるまで知らなかった、全体の雰囲気としては、よしもとばななの作風に近しい、ひじょうに閉じた価値観、つまり偏見ともいうのだが、それによって世界全体の貴賤が決定される、ただしこの作品の場合、不可思議な現象に基づき、物語の回収は行われない。ある日、母親が黙って家を出て行く。彼女は男癖が悪かった。もともと母子家庭だったということもあり、家に残されたのは17歳の〈わたし〉と5歳の弟コウちゃんだけであった。そして健一君、健一君は偶然に知り合った同世代の男子だ。彼は事故のせいで足を故障し、サッカー選手を諦めていた。そのように〈わたし〉の語りをガイドとして、子供たちのサイドから見た、この世の醜悪さと尊さが展開されてゆく。すべてが円満に見えるような着地点へと至る読後はよろしい。だが、しかし、いくつか難点がある。作者は「あとがき」において、「子供=絶対の弱者」という図式に囚われたくなかった、といっている。なるほど。そのためだろう、大人の醜さと同程度には、子供の醜さも書かれているみたいだ。でも、それは結局のところ〈わたし〉の主観でしかなく、フェアではないといえる。言い換えれば、無意識のうちに、子供は弱者ないし善の側に立っている、という視点が組み込まれている。それはある場合においては、欺瞞だろう。たとえば姫野カオルコなどは、エッセイなんかで、容赦なく子供の小狡さを断罪するが、ここではその小狡さが、内省によって、都合の良い風に変形され、採択されている。いくつかの場面で、語り手がチェンジするという趣向がとられているのだけれども、そこで客観性が生じるのかといえば、そうではなくて、むしろ内面が内面として、無条件のうちに、存在することが許されている、つまり、ある種の判断停止により、倫理が倫理として機能すること、あるいは個人が他者の視点により裁かれること、そういったアプローチが安易に退けられているのである。また、これもべつの作家のエッセイの話になるのだが、かつて酒見賢一は少年犯罪に対して、人を殺す能力と生殖の能力を持ったならば、それは大人として扱ってもいいのでは? と論じた。僕個人としては、そうした意見に対しては全面的に賛成というわけではないが、17歳の女子高生がすくなくとも自分の意思で判断し、セックス(性交)を行うという、そういう段を用いた時点で、作者が〈わたし〉を子供のサイドの人間として振る舞わせるのは、やはり無理がある。もちろん、子供なのだからセックス(性交)することに関して、正確な判断はできなかったのだろう、という留保はつけられるが、そういう風に描かれていないし、だいいち、それこそ作者が「あとがき」で憂慮した「子供=絶対の弱者」的な視点なのではないだろうか。
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2005年08月23日
 酔って言いたい夜もある

 女心がわからないのは、ひとえに僕が男の子であるからなのだろうが、それでもいつでも女の子の気持ちを理解したいな、って願うよ。本書『酔って言いたい夜もある』は、角田光代の対談集である。人と話すのが苦手な角田の提案により、リラックスのため、対談相手との間にアルコールを介在させ、さまざまなことを語り合っている。対談相手は、魚喃キリコ、栗田有起、石田千、長島有里枝と、マンガ家から同業者、エッセイストに写真家など、ジャンルは違えども、いずれも女性ファンが多そうな、つまり角田の表現と同傾向な人たちが選ばれている。個人的には魚喃と石田の項が、もともと僕が彼女らのファンだというのもあるのだろうけれども、興味深かったかな。石田の飲み方は汚ねえなあ、とか。とはいえ、全面的に内容は、酒の席での与太話みたいなものであって、うはーと刺激を受けるようなところはなかったが、でも、そういうところが良いのだと思う。これまでにどういう人と付き合ったかとか、どういう音楽が好きかとか、料理やお酒、結婚願望についてウダウダなどといったようなことは、そこらへんのブログでよく見かける話題程度のもので、人によってくっだらないと感じられるとしても、いや、それはそれで本質的な話ではあるわけでしょう。うん。みな一様に下北沢とか吉祥寺をテリトリーにしてるのは、僕なんかにしてみれば、すごく90年代的なのだが、それは僕個人がもうあんまりそういった土地を訪れなくなってしまったからだというのもあるのだろうな。そのあたり、ある程度年齢を重ねてしまえば、都内に住んでいないかぎりは、縁遠くなる感覚だ。
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2005年08月21日
 偏愛文学館

 倉橋由美子には『あたりまえのこと』という非常にすぐれた小説論というか小説読本がある。77年から79年の間に書かれた「小説論ノート」と、96年から98年に書かれた「小説を楽しむための小説読本」の、小説について書かれた2種類の文章をまとめたものである。文学に関心があり、読んだことがない人はすぐに読んだ方がいい。で、本作『偏愛文学館』は、そのさらなる続編に近しい印象がある。「小説を楽しむための小説読本」の冒頭で、倉橋は〈ご覧のようにこの続編からは「である」スタイルをやめて「です」スタイルにしました〉、その理由のひとつは〈もっとはっきりと読者を前において説得する調子で物を言いたい〉からだという。そして『偏愛文学館』もまた、そうした「です」スタイルによって、話が進められる。倉橋が好む小説作品が次々に評せられてゆく。偏愛というが、たしかにそこにはある種の偏りがあり、その偏りは、倉橋という作家の水準がどこにあったのかを導き出しているみたいだ。たとえば「ぼくは……」「わたしは……」などといった一人称ではじまり、口語を多用する小説に関して、倉橋は次のようにいう。〈今日では、普通の人は本を読まず、手紙その他の文章も書かず、読んだり書いたりするとしても、文章らしい文章は敬遠して、しゃべるように、あるいは携帯電話のメールのように書き、またそんなスタイルで書かれたものしか受けつけないようになっています。小説もそんなスタイルで書かれ、それが読まれるというわけです。しかし私は、メールのやりとりみたいな文章で「ぼくは……」「わたしは……」調で書かれたものなど、小説だとは思っていません。これが私の抜きがたい偏見です〉。ジュリアン・グラックの『アルゴールの城にて』について書かれた項である。では、倉橋にとって一人称とはどのようなものであったか、『偏愛文学館』を通読すれば、それはつまり、物語を捉まえる視点の角度的な問題でしかなく、けっして仮構した内面によって読み手に感情移入を誘うためのものではない、そのことがわかる。そうした事実を踏まえ、一人称で綴られるデビュー作『パルタイ』などを読み直してみれば、なるほど、と思えるところがいくつもあった。ところで本書には、読み進めているうちに、ふいに立ち止まり、どうしても感傷的にならざるをえない箇所がある。それは杉浦日向子『百物語』に関する項のラスト、〈漱石の『夢十夜』や内田ひゃっけん(原文では漢字だが文字化けするため平仮名)の『冥途・旅順入場式』なども、杉浦日向子版で読みたいものです〉と書かれている箇所で、ご存知のように、倉橋由美子は今年の6月に、杉浦日向子は今年の7月に、それぞれ亡くなっている。そのことを考えると、すごく寂しい雰囲気に包まれる。
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2005年08月20日
 思想のケミストリー

 本書『思想のケミストリー』は、社会学者である大澤真幸が、吉本隆明、柄谷行人、三島由紀夫、埴谷雄高、村上春樹などなど、日本の言論界にとって重要な思想家や作家などの著作を手がかりに、現在という時代を解読しようとするものである。それぞれは単体の論考で、文学誌などに発表された。どの論考も、いっけん大澤が批評対象の思想に寄り添っているように読めなくもないけれども、基本的には、ここ数年の著作のなかで大澤が主張しているロジックの雛形に、批評対象の思想を流し込むという体でもって、成り立っている。

 たとえば廣松渉に触れた「原罪論」の項では、地下鉄サリン事件を経、9・11の同時多発テロ以降、大澤が熱心に説く、他者の他者性あるいは第三者の審級といった問題に、多く字数を割いている。むしろ廣松自体についての箇所は少ないくらいで、廣松の使ったタームを利用しながら、いま現在を生きる僕たちが、他者として捉まえている他者というのは、ほんらいの意味での他者からは遠く離れつつあることを、次のように説明してゆく。闘争は、〈他者〉が〈他者〉としてある限りにおいては――つまり異和的な近くの担い手としてある限りにおいては――、自己と積極的な関係を持ちえないということの補償である。つまり、闘争は、関係を否定する関係であり、ラカンが性的関係について述べた言葉を借用すれば、「〈他者〉との関係は存在しない」ということの直接の表現なのである〈他者〉は、言わば、「そこにあったのに今や現れていないもの」として定位されるわけだ。そのため、やがて、自己=私が直接に対面しているこの〈他者〉とは別に、もう一人の他者が、つまり「既に私を見ていた」と見なされるような他者が、自己に対して存在しているかのような仮象が生まれることになるこの既住性を帯びて現れるもう一人の他者は、さしあたっては、まさに〈他者〉の場所に定位される

 僕なりに言い換える。じっさいに目の前にいる他者と、うまく関係性が結べないとき、僕たちはそのことの原因を頭のなかで考える、ここでこうして対話しているのとはべつのレベルで二人(以上)の関係をシミュレートする。ならば、本来、目の前にいる他者と、脳内における他者は、別個のものであり、実存と想像という段階においては、交換不可能なものであるはずだ。が、しかし、ある場合には、僕たちはそれらを恣意的に混同する。と、ここで重要なのは、脳内で捏造された他者というのは、じつは自分自身の志向でしかないわけだ。けれども、それが現実の他者とすり替えられたとしたならば、今度は逆に、そういった妄想でしかないはずの他者が、自分自身の判断を規定しようとする。外的な他者性は消失し、内的な他者性の駆動がはじまる。

 その結果、どのようなことが起こるか。こうして、既住する他者に帰属していると認定された判断=選択が、自己にとって、自己の本来とるべき選択=志向を提示しているかのように、事態が構成されるのである。この既住する他者において提示されるかのように現れた判断こそが、まさに、規範なのである。このもう一人の他者は、任意の経験に先立つ場所に、すなわち超越論的な場所に定位される。このような他者を、われわれは「第三者の審級」と呼んできた。神は第三者の審級の一つの形態であると、大澤はいう。そして自分の上位に座す神に、ああしなさいと指定されたように感じ、起こす行動も、結局のところは、自己自身による選択なのだ、と。しかし神などというのは、それこそ古代の頃から語られてきたわけだが、ポイントはそこではない。繰り返しになるけれども、それが外側からこちらを見つめる視線ではなくて、たとえそう感じられたとしても、じっさいには自己の内側に収まっている、というのが重点なのである。つまり逆をいえば、ある個人の内部に存在するはずのものが、その個人にとっては、メタ・レベルに存在するものとして変換されている。
 
 そのような在り方は、やはりここ数年の間に大澤がさまざまな文章に記している、この本でいえば、夏目漱石の『こころ』に触れた「明治の精神と心の自律性」のなかに現れる、偶有性なる概念と無縁ではない。偶有性とは、ひどくシンプルにいうと、すべてが終わったあとで、あーあ、ああすればよかったと思う、つまり「他でもありえた」とする、個人の思いなしである。それを可能にするのも、実際の(複数)他者を介在しないで行う脳内シミュレートが、その個人にとってはメタ・レベルに見えるような権力でもって、それは可能性と不可能性の双方をパラレルに統べるものとして、機能するからなのではないだろうか。

大澤真幸その他の著作に関する文章
 『現実の向こう』については→こちら
 『帝国的ナショナリズム 日本とアメリカの変容』については→こちら
 『性愛と資本主義 増補新版』については→こちら
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2005年08月17日
 会社をリストラされた父親が退職金の4分の1を持って失踪した。14歳の次男、17歳の長女、27歳の長男、42歳の母、73歳の祖父、それぞれ語り手を交代しながら、残された家族たちがいかにして、家庭内における自分たちのポジションをキープしているのかを綴ったのが、これ、『厭世フレーバー』という小説である。「厭世」というのは、おそらく家族がみな一様に、どこか冷めている、他人に対しての関心が薄いという性格にかかっている。次男は学校など大して役に立たないと思っており、長女は人付き合いなど上辺だけで十分であると考えていて、長男は失業中であるにもかかわらず危機感に乏しい、母は酒によって昭和のノスタルジーに浸り、惚けかかった祖父が戦後を回顧する、と、はっきりいえば、石田衣良とか金城一紀とか、あそこらへんのラインでもって、家族とか青春とかが、いい話に回収されている。正直なところ、僕はこの手のものが、ちょっと苦手である。それはひとえに、説教くさいところが過分に含まれていて、その説教は語り手によってされるのではなく、むしろ説教される側に語り手を置き、その説教を理解してゆくという構図が、存在しているからだ。つまり、説教って嫌だねえ、と言っておきながら、いつの間にか、それが説教になっているという、そういったズルさのようなものを感じる。もうしわけないが。しかし、こうした小説を読むと、すべての問題は結局モラトリアムが原因なのではないか、という気がしてくる。働く気があるなしにかかわらず、誰も働かないが、それでも自分の拠り所は失われない、その庇護下で、権力についての批判は言いたがる。それはそれで、もしかしたら近代以降の普遍的な心理なのかもしれないが、ちょっとね。リアリティがどうとかこうとかよりも、小説に限らず、この国の多くの表現が、大人を描けなくなった、そのことの方にこそ僕の関心はあるのだった。といえば、ねえ大人ってどういうのさ、と君は訊くかもしれない。そのぐらい自分で考えろ。
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 『野性時代』9月号掲載の短編。直木賞候補以降、絲山秋子にとっては、こういったエンターテイメント系の文学誌が主戦場になったのか、ここのところ『野性時代』にはよく顔を見せているなあ。まあ読み手の側としては、読めるのであれば掲載誌などどこでもいいのであって、どうでもいいといえば、どうでもいい話だ。ただ、この人の場合、やっぱり純文学の方が向いている気がする。生における具体性よりも抽象性が目指されている、という意味合いにおいて。それは角田光代にもいえたことなのだけれども。それもまたどうでもいい話といえば、そうか。

 さて。『へたれ』の話の筋を、シンプルに取り出すのであれば、次のとおりになる。東京駅でホテルマンをやっている〈僕〉は、ある年の大晦日、たまたまローテーションのため休暇となったので、大阪に住む恋人のもとへ、品川駅から新幹線に乗って向かう。東京駅から乗らないのは、彼女に会いにいくことが、仕事の延長線上に存在しているように、そう思えてしまうからだった。しかし新幹線のなかで、移動する距離の最中で、東京から離れ彼女に近づいていく途中で、ふいに思い浮かんできたのは、草野心平の詩と名古屋に住む叔母のことであった。母親は〈僕〉が記憶を持たないほど幼い頃に亡くなっていた。父親は出張が多く、〈僕〉の面倒をみられなかった。そうして〈僕〉は叔母に引き取られ、暮らしたのだった。叔母は教師をやっていた。草野心平の詩集は、その叔母が〈僕〉に買ってきてくれたものだった。

 ここに書かれているのは、たぶん、関係性における可変と不変の問題であるように思う。〈僕〉はこれまでに関わってきた人々との関係を根本に、他者との結びつきは、揺れ動きながら変化し、ある場合には簡単に分かたれてしまうものだと考えている。それは人の気持ちがわからないといったレベルに止まらず、自分自身でさえ今こうして抱えている気持ちをキープできないのではないかといった、自己不信へと波及している。そうした逡巡のはてに、決断を先送りにする行動を指して、〈僕〉は自分のことを「へたれ」だという。ただ、それでも不変であると信じられるものがあって、それは、叔母の〈僕〉に対する態度なのであった。〈僕〉の叔母に対する気持ちや態度には、たしかに変化があることを、〈僕〉は知っている。けれども、〈僕〉がどれだけ人々の間を移動し、そのたびに自己不信を助長させようとも、叔母は相も変わらずに名古屋で暮らしているのだろう。そこらへん、心情としては、叔母が〈僕〉を待っていると錯覚させる。そのように考える。それはなにも叔母が自分に対して一方的な愛情を向け続けていると〈僕〉が信じているからではない。距離感の捉まえ方に関している。叔母は〈僕〉にとって、生まれてから死ぬまで、母にはなりえないし、恋人にもなりえない、つねに叔母という位置のままでいる。作中において〈僕〉は、ふと、もしも自分の性別が女性であったならば、叔母ともっと話をたくさんしただろうか、叔母にとって自分がもうちょっと扱いやすくなっただろうか、と思う。それはつまり、二人の間に横たわる精神的な距離の変化を指している。しかし、そういった変化の訪れないことが、〈僕〉に整合性を与える。近からず遠からず、核心には何も触れえない、そのようなポジショニングが〈僕〉を規定する。足場となる。もうすこしいえば、叔母を絶対的な他者として感知している、その距離感の保たれていることが、〈僕〉という自己を安定させているのである。

 ところで『新潮』9月号において、絲山秋子は、松浦寿輝と「「文」の生命線」という対談を行っている。そのなかで、詩を小説のなかに引用することについて、いくつかの質問を絲山は松浦に向ける。たとえば〈自分の詩を取り入れるっていうのは面白いですね。私がやろうとしても他の詩人の作品の引用しかできませんが、松浦さんは……〉といった具合に。その後、詩(散文)における言葉と小説における言葉は機能が違う、といった話になってゆくのだが、そのあたりの話題は、草野心平の詩を引用した本作『へたれ』の執筆時期と前後して行われた対談であるがゆえに、出てきたのだろうかなどと考えると、すこし興味深い。
 
 『沖で待つ』についての文章は→こちら
 『ニート』『2+1』についての文章→こちら
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 『逃亡くそわたけ』についての文章は→こちら
 「愛なんかいらねー」についての文章は→こちら
 『袋小路の男』についての文章は→こちら
 『海の仙人』についての文章は→こちら
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2005年08月16日
 『メフィスト』9月号掲載。西尾維新的伝奇小説の世界、開幕。〈戦場ヶ原ひたぎは、クラスにおいて、いわゆる病的な女の子という立ち位置を与えられている〉。〈僕〉であるところの阿良々木暦は、彼女と、高校三年間クラスメイトだった。彼女には友達がひとりもいない。彼女には秘密がある。そして彼女は自分以外の人間をすべて敵だと見なす。まさか、そのとき〈僕〉は、〈僕〉が彼女にとって救いの糸を垂らすことになるだなんて思ってもみない。いや、ちがう、そうじゃなくて。誰も彼女を助けられない。結局のところ彼女は〈勝手に一人で助かるだけ〉なのだった。

 これまでの作品とは、設定そして登場人物を、いっさい重複しない世界観とキャラクターたちを提出した、おそらくは、西尾維新の新しいシリーズ、その第1作目としてカウントされることになるのが『ひたぎクラブ』である。吸血鬼や化け猫、そういった妖気放つ人外のものたちとの対峙が、物語の中枢になっている。高橋葉介の名前が本編中に登場するが、なるほど、作品のトーンとしてはマンガ『学校怪談』の中盤以降に、近しい。たぶん意識されている。とすれば、この小説の骨格は次のようにして出来上がっているのではないか。伝統的な妖怪変化の挿話の類を直接的に扱うのではなくて、いったんサブ・カルチャーによって回収されたそれを、西尾維新に独特な自意識の語り口へと流し込んでいる。

 クライマックスの照準は夜に合わせられており、サブ・カルチャー的なネタを用いながら、澤井啓夫のマンガ『ボボボーボ』あたりに顕著な、じつに今様なボケとツッコミを繰り返す会話が、小説内の時間を進行させている。積み上げられた軽口が、重く暗い苦悩を迂回しつつ、遠巻きに核心へと近づいていく。そのあたりの手腕は、この作者ならではのものである。他愛もない言葉尻が、感情に鍵をかけたアパシーをこじ開けるヒントになっている。

 そのようにして、本来であるならば、説話の構造として教訓的かつ教義めいた響きを孕むのだろう、伝奇風のエピソードは、ぜんぶがぜんぶ言葉のパターン、レトリックの問題に転化される。「思い」は「重い」のであるが、「思い」の失われることは「軽い」とはならない。そういった認識の違いは、神様みたいなものに対しても同じで、神様みたいなものが人間の上位に存在するか否かというのは、それこそ人間次第なのである。だいたいのところ、神様みたいなものが、もしも実存するにしたって、それらは人間の営みになど干渉しないのだろう。むしろ人間の営みが、それらの領域を侵犯する。つまり、罪と罰というものがあるのならば、それは自業自得の意味合いをつねに孕んでいる。だが、それも所詮はレトリック、表現の捉まえ方の違いでしかない。自分を許すことができるのは自分だけであるような場合に、他の考えを受け入れるのは、よっぽどシンどい。

 さて。題名である『ひたぎクラブ』だが、これはふつう読みはじめ、戦場ヶ原ひたぎが美しく、残忍で、ある意味カリスマティックであるために、彼女を中心とするクラブのことなんだろうか、と思う。けれども、読み終えたときには、ああそうか、戦場ヶ原ひたぎとクラブの話だったのだなあ、と思う。レトリック。

西尾維新その他の作品に関する文章
 『トリプルプレイ助悪郎――第三回「第三」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第二回「二人」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第一回「唯一」』について→こちら
 『ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種』について→こちら
 『ネコソギラジカル (上) 十三階段』について→こちら
 『コドモは悪くないククロサ』について→こちら
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 『総特集 西尾維新』ユリイカ9月臨時増刊号について→こちら
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2005年08月10日
 『文學界』9月号掲載の短編。〈私〉と同期入社だった牧原太、太ちゃんは、三ヶ月前に死んだ。一度たりとも恋愛関係になったことはないが、十年来の付き合いだった。来月の初めには埼玉から浜松に転勤になってしまう〈私〉は、ふと名残を覚えて、彼が住んでいた五反田のマンションへと向かう。「しゃっくりが止まら、ないんだ」。空っぽの彼の部屋で〈私〉を待っていたのは、死んだはずの太ちゃん本人だった。そうして『沖で待つ』の話は、〈私〉による「ですます」調で進む。社会人になってから、30代までの道筋を、こちら読み手は知らされる。それは、なにか報告であるかのようなニュアンスを含んでいる。だから最後まで読み終えたときに、もしかすると、これは〈私〉のハードディスクに残された記録なのかもしれない、と思う。残って欲しい記録だけが残ること、残って欲しくない記録だけが消えること、死者はそれを操作することができない。生者の場合はどうだろう。たぶん、似たようなものだろう、自分のことに関しては。だけど、しかし、他者に関しては、たとえそれが死者であったとしても、一方的な働きかけだけはできるのかもしれない。僕はいつも絲山秋子の小説を、寝る(性交する)小説と寝ない(性交しない)小説に分けて考えるのだけれども、これは後者の方であると捉まえられる。〈私〉は、わりと頻繁に「俺とお前は同期の桜」的な調子で、太ちゃんとの関係を語る。同期というのは、いったいどういうものだろうか。たとえば、家族や恋人や友達に対して、次のように問うたとしても、時と場合によるが、それほど日本語として変に響かない。「ねえ私たちって家族(恋人、友達)だよね?」。だが同期の人間に対して「ねえ私たちって同期だよね?」と尋ねたとしたら、その裏に含意がないかぎり、やっぱりどこか変だ。つまり素朴な疑問形としては現れない。それというのは、同期なんていえば、つねに「情」という概念を意識した上で成り立つ関係だからなのではないか。僕たちはふつう、よっぽどのことがなければ、家族や恋人や友達には、無意識のうちに「情」というものを向けている。そして「情」は、意識したところで、当事者同士いちいち口に出すものではないし、第三者に対して言明するものでもない。〈私〉は生前の太ちゃんと、あるひとつの約束をする。そのために、恋人でもないのに、自分の部屋の合い鍵を相手に渡す。いや、その役割はむしろ恋人では果たせない類のものなのである。ある種の親密さが遂行の邪魔となるような、そういう崇高な使命を負う。それは寂しさや悲しみを救ってはくれないが、自分が生きていた証のようなものとして、ときどき輝く。

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2005年08月08日
 阿部和重対談集

 阿部和重、ファースト対談集は、個人的に収められているものは過去にすでに読んだことがあるものばかりなのだけれども、それでもやはり興味深い内容なのであった。そういえば、中原昌也との対談が載ってねえや、と思ったが、あれは『映画覚書』のほうに収録されていたか。かつては「J文学」という括りでもって、ニアな存在であったけれども、今やほとんど接点のない、赤坂真理との対談などは、時の流れを感じさせる、けっこうレアなブツである。しかし、いちばんの読み応えを感じさせるのは、御大蓮實重彦との、『シンセミア』芥川賞受賞直後に行われた対談だろう。このふたりの相性の良さは、たとえば蓮實の近著である『魅せられて』収録の阿部和重論からも伺えることであるが、相手に対するストレートな賞賛が、まるで世間一般の事象に関するアイロニーとして機能しうるという点において、抜群であるし、読み手を巧みにエンターテインさせる。その味わいは、ユーモラスな発言が相次ぎながらも、それらのほとんどが不発に終わる高橋源一郎との対談と、じつに対照的である。それというのは、もしかすると阿部が蓮實について語ることが、蓮實が阿部について語ることのように、その相関性を今さら述べるまでもなく、それぞれ自己言及的な傾向を孕んでいるからなのだろう。この本でいえば、阿部と東浩紀そして法月綸太郎との鼎談、その鼎談も90年代以降を考えるにかなりエキサイティングな内容なのだが、そのなかおいて、東は蓮實について次のようにいっている。〈こう考えていくと、物語とは何か、物語と小説はどう違うのか、という問題なんですね。ご存知のように、これは蓮實重彦がこだわった問題です。蓮實さんはそれをある種の過剰さに求めたわけだけど〉。ここで『魅せられて』の『シンセミア』論「パン屋はなぜパンを焼く以外の多くのことに手を染めざるをえず……」において、蓮實が、阿部の文体には叙情が排せられているとして、次のようにいっているのを思い出す。〈……という何気ない一行がそうであるように、抑制ではなくちょっとした過剰が『シンセミア』の文体にぶっきらぼうな口語調をまとわせることになるからだ〉、そして、それこそが一世代上の作家たちには到底真似できない阿部の特性である、と。つまり、こういう風にいえないか。なるほど蓮實が求めた過剰さを体現する小説家として今や阿部和重がいるわけだ。とすれば、その小説は小説から遠く離れたテクストの原野で小説として成り立っているのかもしれない。
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2005年08月05日
 コールドプレイが6位にダウン。でも、すでにダブル・プラチナなのか。モンスターだな。アラニス・モリセットの『ジャグド・リトル・ピル』のアコースティック録り直し盤は50位、って、これはなんか気の毒すぎる。前のヴァージョンでは、個人的には「アイロニック」と「ユー・ラーン」が好きで、聴くと、泣いてしまう。いや、そんなことよりもアーチ・エネミーが87位ですよ。アークではなくて、あえてアーチといってみましたが、そのへんのこだわりはとくにありません。
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2005年08月02日
 犬はどこだ

 『犬はどこだ』は、もしかすると作者である米澤穂信が、はじめて大人を書こうとした作品になるのではないだろうか。もうちょっと正確にいえば、学生ではない、社会人が扱われている。しかし結果からいえば、それでも大人など、どこにもいない。〈私〉であるところの紺屋は25歳の青年である、いったんは東京にて就職したが、とある精神的な疾患のため、会社を辞め、いまは田舎に引き返している。そこで犬捜し専門の私立探偵を起業しようと思う。しかし事務所を開いて、はじめて訪れた依頼は、失踪した女性を見つけるという、ひどく厄介なものだった。と、ふつうの探偵小説あるいは職業家としての探偵が動くミステリ小説であるならば、紺屋には、すこしハードボイルドなケがあってもよさそうなものであるけれども、それはない、むしろ成熟を拒む、そういう無意識を抱えているかのような人物造形が為されている。もしかしたら、会社を辞めざるをえなかったという事情が、ある種の挫折として機能しているからなのかもしれないが、社会への積極的なコミットを果たさない人物として、当初の彼は現れている。また登場人物のほとんどが、彼と同世代か、あるいは老人ばかりであるということ、つまり壮年期に値する人物が出てこないという意味で、物語中には大人が不在している。そのように考えるのであれば、これまでの米澤作品と類似した、モラトリアムにおけるコミュニケーションの桎梏が、全体の像を形作っているともいえる。なるほど。探偵や犯人が、社会の側から負わされる責務を放棄する体で、社会へと復帰し、やがて組み込まれてゆく結末が、アイロニーではなく、感情を左右するリアリティとして、多くの読み手に映るのだとすれば、それはたぶん、大人と呼ぶべき人間などどこにもいない、この国の現在を見事なまでに反映した結果だろう。
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2005年08月01日
 SOFT&HARD

 古谷実のキャラクターを使った自著の装丁を、さいごにクエスチョン・マークつきではあるけれども、「サンプリング」と記してしまうセンスは、なんだか気恥ずかしくて受け入れられないが、しかし佐々木敦は、けっこう好きなほうの書き手なのであった。でもって、これはわりと短めの文章を集めた評論集である。書き手の言葉を借りるのであれば、ジャンルを限定していない評論集ということになる。半分以上は、初出の段階で目にしてたかもしれない。収められた仲俣暁生との対談(初出は99年)で、佐々木は、90年代を振り返り〈八〇年代の反復的な部分が色濃く出ているような気がする〉といっている。受けて仲俣が、いう。〈つまり、そうやって九〇年代ってのは、ある意味では八〇年代を反復するっていうか、一般化していった気がする〉。そういった認識は、たしかにそうだよな、と思える部分もあり、似たようなことは宮台真司あたりもいっていたような気がするのだが、ここでひとつ、佐々木敦という書き手に関しても、次のように考えることができるのではないだろうか。佐々木は90年代に80年代の反復の部分を熱心に語ることで、時代に対してのアクチュアリティを獲得していた、と。この本でいえば、西尾維新と舞城王太郎について書かれた文章(初出は04年)にとくに顕著なように、00年代に入ってから、すくなくとも僕がいま現在、佐々木のロジックからあまり有効性を感じ取れないときがあるのは、もはや80年代の反復について熱心に語ることだけでは、この国のこの時代性を捉まえることができないからなのだ、と思う。同じことは、『ユリイカ』8月号「いま、雑誌編集者はどこにいる?」という文章を読む限りでは、仲俣暁生にも言えて、もしかすると「自分語り」的なライティングというのは、彼らぐらいの世代の発明なのかもしれず、それは年齢的な臨界を過ぎると、けっきょく退屈な思い出話以上のものにはならないんだなあ、と溜め息が出たりもした。まあ、ふたりとも『文藝』以外の文芸誌に顔を出すようになってから、どうもズレたことを言い出してる気がするので、それはそれでサブ・カルチャーと文学の問題だといえば、ある程度の格好はつくわけだ。
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2005年07月30日
 たしか小谷野敦がどの本だかで、まるで作文だみたいな一言で切りすてていた長嶋有の小説であるけれども、好意的な読者にすれば、いやいやそこがいいんじゃないか、といったところではないだろうか。すくなくとも僕はそのクチである。文体も内容も、深遠さとは無縁な軟性をまとっており、それが穏和な読後感に結びついている。まあヌルいといったらヌルいのかもしれないけれども、そのヌルさがピースといった感じである。でもって、これは長嶋初のエッセイ集であって、さまざまな場所に発表された雑文がひとまとまりにされている。それこそ作文的な度数は、小説作品の何割か増しであり、やっぱりそこがよろしいのではないか、と思う。どうでもいいようなことを真面目に書く、その不真面目さが明るく、あはははは、ピースといった感じなのだった。ことによるとエッセイの類というのは、楽しく読むためには、小説よりもスムーズな感情移入を必要とするのであって、書き手の考えや気分に共感できないと、おそろしく退屈に思え、「へえ」という物珍しさすらなければ、そっぽを向きたくなってしまうものだが、ここで披露されている話の大半は、僕などは70年代生まれという同世代ゆえの理解がある分だけ承伏しかねる箇所があったりもするのだけれども、しかし、どれもくっだらないおもしろエピソードとしての訴求力を持っていて、読み心地それ自体はたいへん楽しい。また、芥川賞受賞前後に触れた箇所は、長嶋有という作家のサイド・ストーリーとして、興味深くもあった。

 『泣かない女はいない』についての文章→こちら
 ブルボン小林『ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ』についての文章→こちら
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2005年07月27日
 『月刊少年シリウス』9月号掲載。西尾維新によるJDCトリビュート『トリプルプレイ助悪郎』の第3話目である。〈小説ごときが、人間の人生にそこまで影響を与えるものなんだろうか――と二葉は本気で首を捻った〉〈少なくとも二葉自身は、自分の書いた小説に、自分自身が証明されているとは思っていない〉〈あんなもので自分を判断されては――たまらない〉〈――お姉さまはどうなのかしら?〉。と、登場人物のひとりである作家、髑髏畑二葉の小説観を表すような箇所を、ランダムに抜き出してみた。これはそのまま彼女の人生観みたいなものと符合する。彼女は、自分のことを、父親によるひとつの作為であると考えている節があり、その彼女にとっては小説などというものもまた、ひとつの作為でしかないのだろう。これまでの2回、どちらかといえば、彼女の姉である、やはり作家の髑髏畑一葉に寄った視点で話は語られていたが、この3話目において、場面の中心は、二葉にスイッチしている。彼女たちの父であり、偉大なる作家である髑髏畑百足の書斎、そこで二葉は、日本探偵倶楽部から派遣されてきた海藤幼志と対面している。百足はおもに推理小説を書いており、海藤は百足の熱心なファンでもある。海藤はいう、百足の全作品にはいっさいの誤植がない、と。もしも作品それ自体が、作家の素養を何かしらか代弁しているのであれば、つまり百足は、極度なほどの完璧主義者なのであった。推理小説のルールについて、メタ本格、本格、論理パズル、人間が書けていない云々など、と会話に興じる二葉と海藤、フェア精神に則るのであれば叙述トリックというのは文体にどうしても迂回を設けなければならない。そして百足は叙述トリックを嫌っていた。それっていったいどういうことだろうか。翌日、ついに最初の死者が発見される。

 第二回「二人」についての文章→こちら
 第一回「唯一」についての文章→こちら
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2005年07月26日
 憲法力―いかに政治のことばを取り戻すか

 柳田国男への傾倒なのか、吉本隆明からの影響なのか、ここ最近の大塚英志は、語り下ろしという形で本を出すことが多い、でもって、これも口述をまとめた新書なのだけれども、トートロジーめいたところが多数あり、そこらへん、使われる断定と繰り返しによる洗脳の技法にうっとりとしてしまえば、なるほど、と啓蒙されなくもないのだが、これまでに大塚がいってきた主張などと照らし合わせてみれば、ん? とした疑問が浮かぶ場面もすくなくはなく、ふいに、つまずいてしまうのだった。そのあたりを中心にして、僕なりに、まとめてみる。

 全体的な枠組みとしては、大塚の著作でいえば、『物語消滅論』と『「伝統」とは何か』といった2冊の新書で組み立てたロジックを、『憲法前文』シリーズを通じて得た若年層の自意識の在り方をサンプルとして援用しながら、日本という国とそこに住む人々への提言にしようとしているみたいだ。

 「憲法力」とはなにかといえば、パブリックな場において個人が振る舞う、その能力を指す、かつてならば「公民力」として表されたものの、言い換えである。しかし「公民」ないし「公」という言葉は、現代では、個人の上位に存在する概念として認知されている。かつて柳田国男は〈「公」という概念を「群」という個を喪失した集団性と対立する概念として〉使ったが、いま公共性といわれるものは、「群」れる際に生じる一体感を代替する言葉でしかない。それはマズいだろう、という区別のため、あえて大塚は「憲法力」という言い換えをするのであった。このあたりはわかりやすいけれども、僕がつまずいてしまうのは、では、さて「憲法力」を養うためにはどうすればいいのか、「憲法力」を行使する「私」とはいったい何なのか、そういったことの問題提起にあたる「第二章 憲法を書く子供たちに学んだこと」に突き当たってすぐの箇所である。ずいぶんと序盤であるし、読みようによっては本筋ではないのかもしれないが、そこでいわれていることは、全体の結びとなる第七章以降になって反復される、といった意味においても、重要だと思う。

 大塚は、これまでに出ている3冊の『憲法前文』シリーズにおいて、中高生たちに、日本国憲法の前文を書かせるといった試みをやっている。そうした作業のなかで、若い世代が前文を書きはじめるにあたって、「私は」といった一人称を冒頭に置くケースの、そのあまりの多さに、驚く。そのような文章の書かれ方について、さいしょは、ネット的な「私語り」の延長線上かよ、と訝しげであるのだが、しかし、よくよく読んでみると新しい驚きがやってくる。〈ここで彼らが言いたかったのは「私」とは「固有の私」だってことなんですね〉〈そういう「固有の私」としての「私」から彼らは大胆に憲法を立ち上げようとしたのです〉。この部分、なぜ大塚が、中高生たちの書く「私」のなかに「固有の私」を見いだしてしまうのか、それがどうも僕にはわからない。

 というのも、大塚は、これまでに発表したいくつもの文章のなかで、いまの若い世代が書く「私」には固有性なんてないよ、だいたい「私」と書けば主体が立ち上がるというのはオカシイだろう、マンガ『多重人格探偵サイコ』におけるバーコードは君たちに対するマス・プロダクトされてますよっていう皮肉などと、さんざん書き散らかしてきたにもかかわらず(そのことについては強く説得されるし、支持するのだけど)、それが憲法について用いられたとたん、いきなり固有性を宿らせてしまうというのは、ポスト・モダン的な他者やハンナ・アレントがいうような公共性なんてのはまあべつにどうでもいいとしたって、やっぱちょっと不思議論法ではないだろうか。

 いや、しかし。たとえば第七章に入り、P164からあとで、大塚は、中高生が投稿してきた憲法前文を引き、そこで「差別」や「平等」といった言葉が使われていることに対して、〈「差別」や「平等」ということばが「私」を出発点とすることで、自分と違う誰か、を意識する手続きになっていることが改めてわかっていただけると思います。「私」を出発点として、自分と違う誰かを発見し、そして彼らは「自分とは違う誰か」の一人、つまり「固有の私」として自分を発見し、その上に「違う誰か」と共有する社会を語る主語として「みんな」という「公共性」を発見します〉という。これをまとめ直せば、たしかに次のようにはなり、いっけん破綻はないように感じられる。

 1〈「私」を出発点として〉
  →この時点では「私」に固有性はない
 2〈自分と違う誰かを発見し〉
  →他者の発見
 3〈そして彼らは「自分とは違う誰か」の一人、つまり「固有の私」として自分を発見し〉
  →固有性の発露
 4〈その上に「違う誰か」と共有する社会を語る主語として「みんな」という「公共性」を発見〉
  →公共性の誕生

 のだが、そもそもの出発点である「私」っていったい何ものなのか? もちろん、ほんとうは自明ではないのに自明であると信じられている「公」から「私」を算出する、そのような図式へのカウンターとして、そうではない、「私」の側から「公」を構築してゆくべきという主張に関しては、そのとおりだと思う。だからこそ同様に、ほんとうは自明ではない「私」がまるで自明であるかのように語られてしまう部分については、違和感を抱かざるをえないのであった。
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2005年07月25日
 「ニート」は、紀伊国屋書店で販売されている『i feel』という冊子掲載の掌編で、現在ネット上でも読める(→こちら)。その続きにあたるのが「2+1」という短編である、『野性時代』8月号に掲載されている。通して読む、全体のトーンとしては、『イッツ・オンリー・トーク』と『袋小路の男』のコンビネーションみたいなところがあり、一昔前の角田光代がルームシェアリングを用い、人と人との新しい関係性を捉まえようとしていたのに近しい、男と女がどうしても共同体になれないことの新鮮さとアパシーが綴られている。90年代「J文学」期にはフリーター文学として、そこで扱われていたモラトリアムの段階は、00年代にはニートという形へと変容している。そういえば「ニート」のなかに、次のようにある。〈私は無職で、懸賞小説を書いていた〉〈その頃そんな言葉はなかったが、私もニートだったのだ〉〈せめて夢でもあれば世間は大目に見てくれたかもしれない。少なくとも、私は物書きになりたいという夢だけで、世間にはずいぶん許してもらっていた〉〈けれど夢なんて言おうものならキミはせせら笑うに違いない〉。いま現在、30代になり作家として暮らす、つまり10年前にはフリーターだった、語り手である女性の言葉だ。

 彼女と、2年前に付き合いのあった男性との再会が「ニート」と「2+1」における、話の中核になっている。昔の馴染みである〈キミ〉のサイトをひさびさに見た〈私〉は、そこで〈キミ〉が働かず、引きこもり、貧しさに喘いでいることを知る。本も出せるようになり、それなりに余裕のできた〈私〉は、〈キミ〉に金銭的な援助をしたいと思う。それを〈キミ〉が素直に受け取ったり、喜んでくれないのはわかっている。けれども、どうしても、そうしたい。だから〈私〉は〈キミ〉を食事に呼び出すのだった(「ニート」)。〈私〉の援助は、結果として、よけいに〈キミ〉を行き詰まらせてしまったのだろうか。働き出したはずの〈キミ〉は、わずか半年で、元の飢えと貧困の生活に戻ってしまう。金がなく、次々にライフラインの断たれてゆく〈キミ〉は、今まさに死へと向かっているみたいだ。ふたたび〈私〉は〈キミ〉に対して手を差し伸べたいと思う。一時的な救済措置として〈私〉は〈キミ〉を自分の部屋に避難させる。が、〈私〉は一人暮らしというわけではなくて、女友達とルームシェアをしていた。しかし最近の〈私〉たちは、お互いにお互いを避け、もう口をきくこともなくなっていた(「2+1」)。

 「2+1」において、けっきょく〈私〉と〈キミ〉は寝る(性交する)ことになるのだけれども、〈私〉は〈キミ〉とのことを、恋愛だとは考えない、考えないけれども、〈キミ〉のことを好きだと思う。結ばれ、ずっと一緒にいたいとは願わないのだが、〈キミ〉がいなくなることを想像すると、泣ける。それはいったいどのような感情だろう。僕なりに、シンプルにいえば、こういうことではないだろうか。人はひとりでは生きていけない、そんなことはなくて、じつは人はひとりでも生きていける、けれども、ひとりで生きてゆくという事実は、どこか暗い。その暗闇のなかに拡がる、絶えず拡がり続ける静寂は、悲しみに似た感情を深く、表からは見えないような、そういう心の奥深いところに、喚起する。

 『スモールトーク』についての文章は→こちら
 『逃亡くそわたけ』についての文章は→こちら
 「愛なんかいらねー」についての文章は→こちら
 『袋小路の男』についての文章は→こちら
 『海の仙人』についての文章は→こちら
 「アーリオ オーリオ」についての文章は→こちら
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2005年07月21日
 文芸漫談―笑うブンガク入門

 末期『早稲田文学』のなかにあっては、なかなか愉快な企画であり、じっさいに講演を観に行きたくなるほどであったのだけれども、こうしてそれのみを抽出したものを、まとめて読んでみると、あんまし愉快ではなかった、というか、なんだろう、アイロニーだと思っていたものが、じつは大真面目だったっていう、そんな感じだろうか。いちばんイケないのは、初出時にはなかった、ひじょうに下卑た悪意としての渡部直巳による脚注じゃないかしら、これ、いったい誰が必要としたんだ。そして蛇足のようにして付せられたエピローグにおいて、奥泉光はいう、〈イロニーの根本には「世界を二重化して見る」ことがある〉。なるほど。でもね、いや、だから、アイロニーなんて、たかだかムジュンとブンレツですよ。その矛盾と分裂の追求が、全体性を獲得しようとするとき、そこからはアイロニーが消え、ユーモアは笑えるものではなくなる。うまくは言えないけれども、そのことの逆説的な表現として、この本は存在しているみたいだった。
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2005年07月19日
 

 『スモールトーク』という表題は、スクリッティ・ポリッティのナンバーからとられている。〈私〉が運転するアルファロメオ145のカーステレオから、それが流れている。昔付き合っていた男から借りたままになっているCDである。15年前の話だ。カマキリに似たその男は、ある日突然〈私〉の部屋から去っていったのだった。〈あんなに眩しかった朝は二度とない〉。その後、男は音楽プロデューサーとして成功した。〈私〉は売れない画家のまま、日々を漂流している。あるとき昔の男から「ドライヴに行かねえか?」と電話がかかってくる。それがこの物語のはじまりなのであった。

 1エピソードにつき、1台の外車がテーマになっている、自動車小説である。羽振りのよくなった昔の男が、次々に自動車を買い換える、そのたびに〈私〉を連れ立って出かける、じょじょにふたりの間の微妙な距離感が伸び縮みする、そういう趣向になっている。僕はそれほど自動車に強い人間ではないが、それとは無関係に、描写されるエンジンの体感と走行の速度が、心の移動を捉まえてゆくような感じがした。

 絲山秋子の作品には、大きくわけて、ふたつのパターンがあるように思う。寝る(性交する)小説と、寝ない(性交しない)小説である。これはどちらかといえば、前者寄りのものだろう。題名が似ているというのもあるが、デビュー作である『イッツ・オンリー・トーク』に近しい雰囲気もある。

 「こころ」だとか「からだ」だとかいう風に、一個の人間を、区切って考えるのであれば、「からだ」というのは要するに感覚である、しかし感覚というのは「こころ」でもある、ということは、その間には、厳密な意味でいえば、区別はない。とはいえ、自意識それ自体は「からだ」ではないのであって、もちろん脳の働きを身体器官の一部として考えるのであれば、「こころ」ではなくて、「からだ」だということになるわけだが、だとすれば「こころ」はどこにもなくなってしまう。ならば「こころ」への執着も要らないということだ。でも、そんな風にはいかないのだろう。「こころ」に「からだ」が付き従うのか、それとも「からだ」に「こころ」が付き従うのか。などと、いや、ちがう、そうではない。「こころ」と「からだ」は、けっきょく引き離すことができないのだ。分かちがたく結びついている。両者が無理のなく共存することを、ある意味では、平穏と呼ぶ。

 べつにそこに深い愛情が見受けられるわけでもないのに、体を寄せ、交わるごとに、心に変化が訪れるとして、〈男と一緒にいることが、だんだん居心地よくなって来ている〉というのは、つまり、そういうことなのではないだろうか。

 縦書きではなくて、横書きというつくりは、いまどき珍しいものではないが、この小説にそれが似合っている感じがするのは、たとえば〈oh,I need your love〉というロバート・プラントの歌声がそうであるように、片仮名やアルファベットに含まれる間抜けさがうつくしく映えるからというのもあるのだろうけれど、それよりも登場人物たちの壮年期ととれる年齢が、垂直に落下するような重たさではなくて、滑るみたいに流れてゆくような軽はずみさをもって書かれている、その文体のためなのである。

 自動車に関するエッセイと、徳大寺有恒との対談も併録されている。

 『逃亡くそわたけ』についての文章は→こちら
 「愛なんかいらねー」についての文章は→こちら
 『袋小路の男』についての文章は→こちら
 『海の仙人』についての文章は→こちら
 「アーリオ オーリオ」についての文章は→こちら
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2005年07月18日
 

 たぶんアレルギーかなんかのせいだと思うのだけれども、僕の体は古本屋に向いていない、体が痒くなるのだ。長時間店内に止まると、皮膚が膨れあがることもある。なので、ほとんどの場合、本は新刊で購入せざるをえない。中古CDに限っては体にそういう反応が出ないので、紙とか、それと紙についてる虫みたいなものとの相性の問題なのだろう。しかし、古本屋に通えないというのは、人生の大きな部分で損をしているのではないか。と、これを読んでいると考え込んでしまう、坪内祐三の古本本である。古本屋に足繁く通ったりして、そこで出会った本たちの、そのなかに含まれているサプライズが、ある種の薀蓄として、深く教養と結びつくかのように、語られている。たとえば高山辰三(高井辰三とも書かれているのだけれど、どちらかは誤植かしら)という人物の、著作に収められた夏目漱石に関するエピソード、漱石の家の電話いつも受話器が外してある、ある人が、それをどうしてか? と尋ねると、漱石が『電話はこつちからかける時にだけ必要なんだ!』と言った、などというのを読むと、なんとなく笑えてくる。ここで重要なのは、そういった本を、坪内がちゃんと手に入れていて、そこから文章を引いてこれるほどには、ちゃんと読んでいる、という事実なのである。前半はそうした古本にまつわるあれこれが綴られているのだが、後半はミステリ嫌いの坪内がミステリについて書くといった内容のものが収められている。どちらも、もともとは雑誌掲載のエッセイである。重たい読み物としてではなくて、軽い読み物として、シンプルに、おもしろい。

 『『別れる理由』が気になって』についての文章→こちら
 『私の体を通り過ぎていった雑誌たち』についての文章→こちら
 『文庫本福袋』についての文章→こちら
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2005年07月16日
 

 正直なところ小谷野敦は、『もてない男』よりも『恋愛の超克』のほうがおもしろいのだけれども、『恋愛の超克』はあまり売れていないと、この本の「まえがき」の段に書いてある。で、これ、『帰ってきたもてない男』は、その『恋愛の超克』とかなり内容の重複するところがあって、ということはつまり、もしかすると本家『もてない男』よりも興味深い内容であったりするわけだ。僕という人間もまた、死ぬほどに絶望的なぐらいモテないタイプであるけれども、ことによると年齢的なことなのかもしれないが、恋愛とセックス(性交)に対するスタンスに関しては、小谷野の考えに全面的に同意できるものではない、というのも僕はプラトニックを重んじる理想恋愛至上主義者であり、ある意味ではロマンティック・ラヴ・イデオロギーに拘泥するところがあるからなのだが、しかしフェミニズムうんぬんはべつとして、平等を盾に個人の能力差や環境の偏差が巧みに隠蔽されることについてのノーといった部分には、深く共感する。また、ここでの論の新規性としては、とくに本田透の『電波男』への違和が綴られている点だろう。大まかにいってしまうと、恋愛というのは誰にでもできるものではない、なので恋愛を諦めることこそが心安らかに生きるための、ひとつの手段なのだとするのが、小谷野の主張であり、言い換えるのであれば、それは近代的なバイアスの解除を志すものであるのだけれども、本田の場合は、舞台が現実から虚構へと移行しただけで、結局は「純愛」や「純潔」や「永遠の愛」などという近代に拠った観念は残る(残す)、といった風になる。だが、いずれにしても、最終的には孤独の問題になるんじゃないかしら、と僕は思う。この本のなかでも、孤独について書かれている箇所(P134あたり)がある。また孤独というか寂しさに関しては、たしか『退屈論』だったと思うのだが、そこでも触れられていた。でもって、そのあたりの話が、たぶん根幹の問題であるような気がするので、それを発展させた本格的な孤独論というものを、いつの日か小谷野には書いて欲しい感じがするのだった。

 『恋愛の昭和史』についての文章→こちら
 『俺も女を泣かせてみたい』についての文章→こちら
 『すばらしき愚民社会』についての文章→こちら
 『評論家入門 清貧でもいいから物書きになりたい人』についての文章→こちら
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2005年07月15日
 

 現代においては、どうもコミュニケーションがうまくとれない、会話が噛み合っていない、どうやら自分の言わんとしていることは相手に通じていないようだ、という機会に遭遇することが多い。なぜ「話」は通じないのか、それはつまり、大勢が「人の話を聴けなくなった」からなのだと、筆者である仲正昌樹は結論する。

 「人の話を聴けなくなった」というのはどういうことか。シンプルに、自分の話はしたいが、他人の話は聞きたくないということなのだが、掘り下げて考えるのであれば、近代が終わり、ポスト・モダンを通じ、不特定多数が共有しうる「大きな物語」の消失をともなう現代に至った結果、人々は自己完結的な「小さな物語」に充足するようになった、ということである。要するに、大局が見られなくなった、細部を大雑把なまま重要視するようになった、他人を外部という意味合いでの他者として認識するのではなくて、脳内で恣意的に捏造された他者ならざる他者として捉まえるようになった、まあだから、コミュニケーションという形態が、ダイアローグじゃない、モノローグとしての機能を優先させるようになった、というわけだ。そこには、客観や弁証といったものは、存在しない。

 そのようなことはもちろん、ここ最近になって様々な場面で指摘されている、自意識の変容のヴァリエーションのひとつであるけれども、それを仲正は、身近な事例を出発点に、ひじょうにわかりやすく説明してゆく。のだが、自分が経験した嫌な出来事を基盤にロジックが進められるため、文章にやや感情的なドライヴがかかっており、ともすれば近頃の若い者は的な一般論に落ちそうな危ういところもあって、そこらへん、読み手を選ぶ(読み手を選んでいるの)かもしれない。

 と、読み進めていて、困ってしまうのは、こうしてインターネット上で文章を発表することに対しての批判めいた箇所もあるからで、自分はそうではないと信じたいが〈“ネット評論家”たちが陥りやすい落とし穴は、稚拙であまり面白くない文章でも、ほとんど推敲しないままでアップしてしまう癖がつきやすいこと、及びその稚拙さを見破られていることに気付きにくいことにある〉といわれれば、あ、や、まあ、そのう、と苦い顔になってしまうのであった。

 さて。締めの部分で、仲正は、すでにこのようになってしまった現状を打破することは不可能だ、という断定を持ってくる。たしかに、改めて「大きな物語」を復権しようとし、たとえばイデオロギーや宗教を用いたとしても、それは結局のところカルト的なものとしてしか機能しないのだろう。そこで、複数の「小さな物語」をつねに相対化する〈非常にもどかしい〉〈やたらに疲れる〉手続きを踏むような〈面倒くささに耐えるしかないのだ〉といった案が提出される。

 たしかに、前提それ自体が共有されない世界では、絶対的な見方よりも相対的な見方を用いるやり方でしか、人と人はコンセンサスをとれないのであり、そのような部分においては、しごく納得な話ではあるのだけれども、そうした面倒くささに耐えられない人間の暴走に立腹したというのが、この本の出発点だったことを思い出せば、では対人関係におけるフラストレーションはどうやってやり過ごせばいいのか、建設的に処理するためにはどうしたらいいのか、といった新しい問題を抱え込んでしまう。なかなか世界はうまく回ってくれない。
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2005年07月13日
 

 この本『I LOVE YOU』は、伊坂幸太郎、石田衣良、市川拓司、中田永一、中村航、本多孝好といった、なんともウケのよさそうな作家ばかりを集めた恋愛小説集である。とはいっても、中田永一という人の作品は、僕はこれではじめて読んだのだけれども。こうしたアンソロジーは、女性作家ばかりを集めたものはよく見かけるが、男性作家のみというのは珍しいのではないだろうか。どうだろう。そんなこともないのかな。とにかくである、僕の場合は、伊坂と本多の作品を目当てに購入した。のだが、いちばん良かったのは、もちろん個人的な好みかもしれないが、中村のものであった。ちなみに、いちばん泣けてきたのは伊坂のものだが、物語のなかで人が亡くなるのも、唯一伊坂のものだけであった。まあ、どうでもいいことだ。

 そのようなわけで、中村の短編「突き抜けろ」についてのみ、触れる。大学生の〈僕〉とその恋人は、お互いに想いが深すぎるばかりに、日常生活に支障をきたす、そのことを回避するために、きっちりと立てた予定に則って、愛情を育んでいこうと取り決める。週末には彼女に会えるが、それはつまり、週末にしか彼女に会えないってことだ。けれども、そんな生活も悪くはないかな、と思う。ある日、友人の坂本から、木戸さんという坂本の地元の先輩を紹介される。彼はすごく気の難しい人であったけれども、たしかに悪い人でもなかった。恋人との生活のサイクルがあって、そして坂本や木戸さんとの生活のサイクルがある、その噛み合ったところに〈僕〉はいて、そのなかで微かに訪れる変化が、〈僕〉に生きていることの実感を教えてくれるようだった。

 いつぐらいに書かれたのかはわからないが、同作者の『夏休み』や『ぐるぐるまわるすべり台』よりもずいぶんとわかりやすく、モラトリアムが終焉する予感について述べられた小説であるように思う。おそらくクライマックスだろう場面で、木戸さんが次のように言う。〈俺はな、もう全盛期を過ぎたんだよ〉〈お前らは今、そういう全盛期にいるんだぜ。だからな、俺からアドバイスしといてやる。そういうのはな、いつか終わるんだぜ〉。この言葉の重要性は、それがモラトリアムが終わった場所からではなくて、あくまでもモラトリアムの最中であるような、そういう場所から発せられているところにある。終わりとは、変化のべつの名前でもある。はっきりといえば、小説のなかで交わされる会話のほとんどは、酔っぱらいの戯言にしか過ぎない。酒の席における発言とは、いったいどのような種類のものだろう。それは、ときにほんとうのことである、が、ときに他愛もないことであり、ほんとうであるならば口にされる必要のないものなのではないか。自分は変わった(変わるのだ)、って堂々と宣告するのは、照れる。あるいは、わざわざ言うことでもないのだろう。が、しかし秘せられず、発せられることによって、それは定型化し、やがて身についてゆくということだってありうるのだ。
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2005年07月11日
 

 前回の事件を通じて松浦純菜と知り合った、奇っ怪な運命の持ち主である八木剛士の周辺が、再び騒がしくなる。同級生の自殺、そして連続する放火事件、両者の間に関係性はあるのだろうか。雨の降らない街に雨が降るとき、また誰か人が死ぬのであった。と、この『火事と密室と、雨男のものがたり』は、『松浦純菜の静かな世界』の続編にあたるわけだが、『松浦純菜の静かな世界』で主役級の活躍をみせた八木の、そのルサンチマン野郎ぶりが、とにかくすばらしく、自虐的な妄想が暴走するchapter6には、大笑いした。ばっかじゃねえの。いや、しかし反面、八木の屈折しまくった内面に感情移入しながら、読み進める自分というのもいるわけで、まあそこいらへんは、なんて厄介な、アンビバレンツなんだろう。とはいえ、作者である浦賀和宏はべつだん、根暗な人間や弱者を特権的な立場に持ち上げ、それに対する読み手の共感をもって、リーダビリティを確保しようとしているのではない。むしろ、そういった人間が持ちえる八方塞がりな自意識と、そういった人間を踏みにじる側における人間の自意識とを、ほぼ等価に捉まえることによって、世界そのものが持つ無情(無常)さを、くっきりと際立たせる。つまり、どのような人間もクソであり、生きる価値などない。しかしそれは、どのような人間にも希望が宿り、生きる価値が訪れる、ということの言い換えになりうるわけだ。が、それっていうのは結局、生きる価値や救済なんてのは、たかだかその程度のことでしょう、という残念な感じの言い切りでもあるのだった。ニヒリズムに近い冷酷さと、痺れるほどの青臭さは、そういった逡巡からやって来ている。

 『松浦純菜の静かな世界』についての文章→こちら
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2005年07月10日
 

 あはは。いやだ。こんな少年時代は嫌すぎる。笑いごとじゃない。すばらしく、具合の悪くなるラストである。目次を開くと、それぞれの章に付せられたタイトルが、始まりと終わりとでシンメトリーになっており、そのあたりからして、じつに麻耶雄嵩らしさを思わせるのだが、やっぱり最後の最後で物語が地盤沈下を起こしてしまう、そのクライマックスぶりに圧倒される。10歳の誕生日を迎えたばかりの〈ぼく〉は、学校の友人たちといっしょに探偵団を気取ったりしている。目下の関心は、市内で起っている連続猫殺害事件である。犯人の名前を、転校生の鈴木君が教えてくれた。根拠はない。でも、それは絶対に正しい。なぜならば〈ぼく〉たちがやっているのは「神様ゲーム」で、鈴木君こそは、この世のすべてを統べる、そういう存在だったのだ。読後の感覚としては、同作者による『夏と冬の奏鳴曲』に近しい。唐突なほどの運命の流転によって、それまで拠り所としていたアイデンティティが、引っぺがされる。望みがすべて叶うことによって、すべての望みが断たれてしまう。そうして人生が終わったあとの人生を歩まされることを強要される。ある意味において、死ぬことよりも生きることの方が地獄に寄っているのかもしれない、という思いなしに読み手は身悶える。麻耶雄嵩の小説の多くには、神という概念が登場するが、それはこれまでと同様にここでも、人間の不完全さを暴露するものとして現れている。神を信じてしまった者は、その神が作ったルールに束縛される。暴走する世界は、しかし神が定めた理の上を回転する調和に過ぎない。とてつもない無力感とともに再生し、祝福された少年にできるのは、ただその目を閉じることだけなのである。
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 もともと興味が薄いというか、ほとんどないというのもあるのだが、『すばる』8月号の「中国文学の現在」という特集を読むと、へえ、と新鮮に感じられるところがけっこうあった。この『アタラシイ死』という短編は、その特集のなかに収められていた1編で、作者の春樹(チュンシュー)は、83年生まれの女性作家である。故郷を離れ、北京に住む〈私〉は、ある日従妹からの電話によって、仲良しだったすこし年上の男性である偉波(ウェイボー)が、ケンカに巻き込まれ、ナイフを刺され、亡くなったことを知る。「これって、初めて私の友達が死んだってことだ!」。偉波は〈私〉がタバコを吸うことを咎めなかった。実の兄よりもずっとやさしく接してくれた。〈私〉と偉波の間にあった親密さを知る者は、この世にはもう、〈私〉しかいなくなってしまった。たとえば〈私たちの故郷ではタバコを吸う女は売春婦に見られる〉という一節に如実であるように、読み手であるところの僕とは、周辺を包囲する文化的状況や、世代そして性別までもがまったく違うことを強く意識させる作品であるけれども、しかし胸に落ちてくるエモーションに違和感はなく、それは綺麗な波紋を作る。そのような読後感はいったいどこからやってくるのだろう。〈私〉が偉波の死を悼むとき、動機となるのは、恋愛感情ではない、それ以前にふたりは恋愛関係ではないようだ。〈私〉と偉波を結ぶものは、たとえばセックス(性交)や血の繋がりといった、いわば身体を経由するものではなくて、記憶を美化するような精神的な担保、つまりプラトニックと言い換えることが可能かもしれない、そういうものである。それが〈私〉の意識のなかにある、旧く体制的な、共同体による同調圧力と、ぶつかり合う。要するに、偉波の死は、ある種の閉塞感に抗うため快活であろうとする〈私〉の、そのアイデンティティを為す一角の喪失と、ほぼ同義だという風に受け取れる。それは、一個の人間の死を、ただ一個の人間の死として受け入れるのとは、違ったレベルの悲しみを生み出すのだろう。そして、その悲しみの誰とも共有されないことが、重すぎず軽すぎず書かれることによって、普遍に届きそうな切実さが形作られているのだと思う。
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2005年07月08日
 『群像』8月号掲載の中篇。寡聞にして、作者である前田司郎という人のことは存じ上げなかったのだけれども、巻末にある執筆者一覧を眺めると、劇作家とあった。それで演劇のシーンに疎い僕は、ちょうど小劇場特集であった『ユリイカ』7月号を見てみることにしたのだった。すると、あった、あった。「五反田団」として紹介されている。その紹介のなかで〈フリーター世代、パラサイト・シングル、ひきこもり、NEETのみならず、ポストバブル世代の若者が潜在的に抱える無気力、あきらめ、失望といったナイーブな心情にシンクロして、絶妙に今を捉えている〉と書かれていて、なるほど、この『愛でもない青春でもない旅立たない』という小説も、そういったニュアンスを多分に含んでいる。そういえば、小説の舞台のひとつは五反田であった。

 話の筋を簡単に切り出せば、大学生の〈僕〉がそれまで親密だった女の子にフラれ喪失感を味わう、といったひじょうにショボいものである。が、しかし、そのショボさのなかには、ある一定の重さをもった、悲しみがちゃんと存在している。もしかすると、その重みを指して、リアルだということができるかもしれない。そして、そのリアル、リアリティは、モラトリアムであることを前提にして生じている。モラトリアムとは何かといえば、決定がつねに先送りされる、そういう状態のことである。決定がつねに先送りされているということは、つまり本来であるならば、何も決定されないという風になるはずなのだけれども、しかし、そうはならない。タイムアップは、自分の手によってではなくて、他者の手によって決められる。言い換えれば、自分の思惑とはべつのレベルで、決定が手渡される。そこに自分の意思が入り込む余地はない。もちろん、そのことをただ単に、受け身(待ちの姿勢)なだけじゃん、と矮小な話にオチつけて片付けることも可能だ、が、誰だってときどきは、自分がすべてに積極的である立派な人間ではないことに、気づいたりもするのだろう。

 連続する「、(句読点)」の使い方は、どういう狙いがあるのか不明だが、演劇系の人たちが書く小説のほとんどがそうであるように、レトリック重視な口語体を中心にして進む文章は、とても読みやすい。しかし。ペニス、ペニス、ペニス。描写にウェイトの置かれたペニスは、物語のなかで、いったいどのような役割を果たしているのだろうか。ひとつには、僕たちの持っている固有性なんて、ペニスの形の違い程度のことだよ、という言い切りが考えられる。もうひとつには逆に、ペニスの形が人それぞれ違うように、僕たちには必ずや固有性がある、とか。あとは、怠惰や惰性は男根主義的な横暴さと同義であり、それに対するアイロニーとかうんぬん。意味付けなんて意味ないよ、と言われれば、まあそうなのかなあ。夢のなかで少女が〈僕〉に釘を寄越す、それは〈冷たく硬かったが、そういうものだと思って大して気にもならな〉かった。
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2005年07月06日
 新創刊されたカルチャー誌『Papyrus[パピルス]』掲載の短編。この小説『愛すべき猿の日記』は、読みはじめ、作者が乙一だと知らなければ、作者が乙一だと思えない風ではあるのだが、一気呵成に読み終えると、やはり作者は乙一だったと感心するような、そういうムードを持っている。暇を持て余した大学生たちがクスリでラリって、へらへらと人類の真実に達してしまう、まるで90年代半ば頃のサブカル調かつスノッブ的モラトリアム(今の若い世代もこういう感じなのかしら)の描写が鼻につくが、母親から送られてきたあるモノを契機に、日記を書きはじめ、本を読むようになり、やがて、一個の大人として成長してゆく、そうしたくだりによって、全体はちゃんと良い話として落ちている。そのあたりは、さすがに巧い。とはいえ、ライトノベル・マナーで書かれた、これまでの乙一の作品とは、やや違った気配をもっており、こういう見立てが正確かどうかはわからないが、佐藤友哉と西尾維新のちょうど中間ぐらいにぴったり置けてしまいそうな出来である。良い意味で、すばらしく、青臭い。
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 大まかな感想をまず最初にいっちゃえば、前の2作よりも、ぜんぜん良いと思う。後半は完全に払拭されるけれども、前半部における、海外の小説家、誰だろう、たとえばバタイユかセリーヌか誰かの、あくまでも翻訳(生田耕作になるのか)を模倣したかのような文体も悪くはない。が、この『AMEBIC』という作品のポイントは、他者と妄想、の描かれ方にある。その点についてのみ、前の2作よりも前に進んでいる。僕は、『蛇にピアス』も『アッシュベイビー』も基本線は、主人公が自分の自意識を許すために他者を妄想するところにあった、と考えている。もうすこし言い方を変えると、他者の自意識は許さないが、自分の自意識は許す、結果、他者は消える、しかし主体というものはそれだけでは、けっして自立できないのであって、だから他者を妄想せざるをえない、『蛇にピアス』と『アッシュベイビー』における、あの主人公にとっての都合の良さは、そこからやってきている。とはいえ妄想は、進行すれば自家中毒に陥り、息苦しさを生み出す、そのような息苦しさ、そこに横たわる共感こそが、金原ひとみという作家と読み手を繋ぐラインだったのである。ここでは、そうした一面がさらに(すこしだけ)掘り下げられている。どういう風にかといえば、自分の自意識の強度を高めることによって、かろうじて他者の自意識を許すような、そういう所作がとられている。しかし、自意識の存在することを許された他者は、反対に、主人公の自意識のなかに棲むことが許されない。たとえば、セックス(性交)が具体的に書かれないことなどは、その現れだろう。作中に登場する「アミービック」という「錯文」(さくぶんと読むのだろう、たぶん)は、マスターベーションの描写を思わせる。主人公は自分の自意識だけの完結を求めているわけではないのだが、自分の内側に他者を感じとることができないので、自分の自意識それ自体を分裂させてゆく。錯乱状態に陥った昨夜の自分と、平静であるような今日の自分とが、まるで切断されてしまっているのは、そのためだ。いや、しかし、根本の問題として、本来であるならば他者は、自己の外側に位置する限りにおいて、他者たりうるわけで、自己の外側にいる他者は承認できず、自己の内側にいる他者しか承認できないというのは、ある種の転倒になるわけだ、が、そうした転倒そのものが、この国のこの時代の反映であり、この小説のリアリティを担う、そういう前提になっているのである。と、そのことが、幸か不幸かなのかを、僕は知らない。それはともかく。作品内容、作風のいずれも、赤坂真理の諸作に似たところがあるけれども、あれよりもずいぶんと鈍くさいというかイモ臭くあり、ちょっと白けるのだが、そのへんを今後どう処理してゆくのか、つまり、このスタイルに拘泥するのか、それとも洗練させるのかという、そういった部分を、90年代以降世間一般的な自意識の捉まえ方がどのように変遷したか、に照らし合わせるのであれば、ひとつの見方として、この作家には興味を持てなくもない。
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2005年07月04日
 

〈なんとなくこう言いたくなる。御苦労さん作者さん。御苦労さん読者さん。まず衆目のみるところ、もっとも希望をつなげる意欲的な若い世代のホープたる作者が、精いっぱい物哀しく、明るく軽い叙情をみなぎらせて、知的なたわむれの世界を繰ひろげてみせてくれた〉と、これは吉本隆明が村上春樹『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』について書いた文章の一部である(『新・書物の解体学』)が、僕は、この伊坂幸太郎『呼吸』という小説に対して、なんとなく、ほんとうになんとなくなのだけれども、その一文を引きたくなってしまった。村上における知的さは、伊坂においては青臭い人生訓やステレオタイプな社会的見解にスライドしているが、それは時代にともなう知的水準や感性の変遷に比例しているのだろう。

 さて。『呼吸』は、『エソラ』第二号に掲載されており、同誌創刊号にて発表された『魔王』の続編である、つまり、その後の物語である以上『魔王』の結末に抵触するため、その詳しい内容についてはスルーさせていただくが、『魔王』の主人公であった安藤の、その弟の、「消灯ですよ」というフレーズが印象的であった恋人(妻)が、語り手をつとめている。

 彼女もまた、安藤がそうであったように、市井の自意識のいちヴァリエーションでしかない。彼女が見る世界は、彼女からしか見えない世界であり、彼女が目を閉じれば、その世界が抱えている騒がしさは消える。『魔王』で安藤は、「考えろ考えろ」と唱えることによって、その視野を拡大しようとしたが、ここでは「考えない考えない」という言葉がこだまする。そういった意味において、『魔王』と『呼吸』は、掲載誌の帯にあるとおり対になっている。だが、それは終盤になって、ゆるやかに変調するので、たぶん今度は、安藤の弟を主人公にした続きが書かれるのではないかな。いや、これはこれでちゃんと完結しているのか。だとしたら、ずいぶん釈然としない気持ちが残る。

 『魔王』についての文章→こちら
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 『死神の精度』という表題は秀逸であるけれども、ページを繰ってみれば、ぜんぶで6編収められており、なかには「恋愛で死神」や「旅路を死神」という、英題が先にあって、それを日本語に訳しただけなのかもしれないけれども、意味が通らず、ちょっとあんまりなものもあって、どひゃあとなってしまうが、もちろん題名のセンスと内容の面白みは、必ずしも比例するものではない。どれも良く出来ているし、楽しい。個人的には、ややハードボイルドに進行する「死神と藤田」が、いちばんの好みであった。

 人の突発的な死は、それが老衰や病死、自殺ではないとき、死神によって決定されている。死神はミュージックを愛でる。人間界においては千葉と呼ばれる〈私〉の仕事は、対象が死に適した人物であるかどうかを、調査することであった。結果が「可」であった場合、対象は調査を開始してから1週間後に、死ぬ。もちろん「見送り」の場合もあるが、それは非常にすくない、例外のようなものである。

 伊坂幸太郎の小説は、感じの良さがすべてなのではないか、と思う。この小説群でも、これまでの作品と同様、ミステリ的な構築の妙が活きているけれども、こちらの予測を大きくオーヴァーするものではない。が、しかし、その着地の姿形はとてもとてもキレイに決まっていて、へへえと感心する。度肝を抜くのではなくて、やさしいサプライズである。言い換えれば、その感心の色合いが、読後の余韻に繋がっているのだ。

 そういえば、つい先ごろ創刊された『papyrus[パピルス]』という雑誌のなかで、伊坂は黒沢清の映画『アカルイミライ』についての文章を書いている。そこでは意味の汲み取りや物語への感情移入は語られず、ただ作品が抱える雰囲気への言及のみが行われている。〈正直なところ僕にとっては、この映画に出てくるクラゲの意味合いとか、「君たちを許す」というテーマ(なのかな)はどうでも良くて〉といった具合に。この作家の本質は、そういった雰囲気のほうを、全体のバランスとして、調整する部分にあるのだろう。

 とはいえ、もうちょっと突っ込んでいうのであれば、この『死神の精度』では、死神という存在が、完全なアパシーを体現しているというのが重要である。たとえば、ある1編のなかに、人を殺しても反省をしない若者が出てくる。となれば、ふつう、その若者のアパシーが、内容の磁場を、重く暗たいものへと落としそうなものだが、死神の無関心から物語は語られるため、そうはならない。逆に、その若者の感情的というか人間味がクローズ・アップされる。殺伐さだとかトラウマだとかが、重石のようには機能しない。ふわっと軽い。そうした雰囲気作りの巧さが、結果として、現代的な病巣のネガティヴさを拡張して捉まえるような後ろ向きの見方を、否定している風にはなっている。
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2005年07月01日
 

『一千一秒の日々』は、島本理生はじめての連作短編集である。恋愛を扱っていながらも、初期の頃ほどライトでもなく、『ナラタージュ』のようにヘヴィでもなく、ちょうどその間ぐらいのウェイトでもって、恋人未満の恋人たちの姿が描かれている。

 真琴は哲のことが忘れられず、真琴への好意を持て余した瑛子に遠山は想いを寄せる、針谷も密かに真琴を想うのだが、じつは針谷は一紗に想われている。針谷と一紗の友人である長月は、操との関係のなかに不穏な影を見つけ、真琴のかつての彼氏である加納は、自分に衝動的な部分が欠けているのを知っていた。

 話の転がり方は、まるでよくある少女マンガのようだけれども、しかし、言葉によってでしか表せない感情の機微みたいなものは、それなりに捉えられているように思える。言葉を発する側の内面しか読み手には見えない、読み手に見えるのは発せられた側のリアクションであるのだけれども、その内側にある感情の重たさは、言葉で表されないことにより、行間にすべり落ちてゆくようにして、さらなる重みを増す。また、登場人物たちの関係性でいえば、基本的に、他の誰かから想いを寄せられる、想うほうではなくて想われるほう、そっち側の人間が語り手をつとめる形になっている。

 この想われる人間からは、想う側の気持ちが見えないという構図は、なぜ自分が相手に好かれるのかわからない、といった不安定な磁場を物語に発生させ、ひいては語り手自身が絶対を確信できない、そういう偶有性を導き入れる。要するに、「きみとぼく」は可変的であるという外せない前提のもと、所在のなさが転じた結果として、恋愛が成り立ったり、成り立たなかったりするのだ。そこいらへんが、じつに今様であり、この小説群のフックになっている。

 しかし、どの物語も、キャラクターが立っていないという言い方が正しいのかどうかはわからないが、語り手の口調とその外見がイメージとして結びつかないのが惜しい。たとえば、太っている人物の、その太り方がうまく想像できないので彼の自信のなさが掴みづらいというのもあるし、リンキン・パークやエヴァネッセンスを聴いていることが、性格のなかの意外な一面を強調するのにうまく作用しているかといえば、そんなこともなかった。

 『ナラタージュ』についての文章→こちら
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2005年06月29日
 

 他人の論争が気にかかるのは、基本的に野次馬根性の働きなんだろうけれども、この『徹底抗戦! 文士の森 実録純文学闘争十四年史』ぐらいの勢いでもってやられると、自分のなかにいる下世話な野次馬さんはしゅんとしてしまう、そのかわりに、文学が文学でありうることの理由が、小説や批評とはまた違った形で提出されているようで、笙野頼子という作家の、真摯さであったり切実さであったり誠実さであったり危機感であったり、そういった態度の有り様に、素直に素直に感服してしまうのだった。

 訴えの中心である、大塚英志がサブ・カルチャー化する某文学誌に取り入り、モラルの欠いた行動によって、そこから笙野を追い出したという言い分は、必ずしも真実と完全合致するものではないのかもしれないが、しかし、そこに含まれている様々なトラブルの因子は、文学という手段がある種の時代性によって桎梏されることと密接に繋がっており、それに対し、見て見ぬふりをしたり、冷静を装ったりというデタラメだけは、きっちりと避けられている点が、論旨の強度となっているのだろう。

 個人的には、大塚の前提である商業的な数の倫理としてのサブ・カルチャーと、笙野の弱者の側に立つ文学という名のレジスタンスとが、対話として噛み合わないのは当然のような気もするのだけれども、たとえば規制的(支配的)なコードを破る力について考えるのであれば、笙野のほうにこそ強く感情移入したくなる。あるいは、サブ・カルチャーが、もはやサブ・カルチャーとしては機能しないこの時代において、核心に置かれるべき重要な問題が、ここには表明されている。入り口である。出口がどこかはわからない。が、しかし、だから多くの方に是非とも読んでいただきたい。いや、これ、すごい、悩まされる。

 この本に収められている「女、SF、神話、純文学~新しい女性文学を戦い取るために~」は
 ネット上でも読めます→こちら 「女性の著作権を考える会」(Articlesのところ)
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2005年06月28日
 いよいよ話が動き出してきた、という感じのJDCトリビュート小説『トリプルプレイ助悪郎』第二回は、『月刊少年シリウス』8月号(創刊第2号)掲載で、前回は小冊子付録という形態だったのだけれども、今回は他のマンガと並んで誌面にべたーっと印刷されている。だからといって、マンガと同じ扱いというわけではないのは、巻末のコメント欄に、マンガ家陣のものはあるのに、小説家陣のものは載っていないことから、容易に想像できる。なんだか微妙な線引きだ。

 現在は行方不明中の高名な小説家である髑髏畑百足の、その長女髑髏畑一葉もまた小説家として生きているが、それほど知られた作家ではない。その彼女のもとに、5年ほど前「一回の盗みにつき三人殺す」というセンセーショナルな手口でもって世間を騒がせた大泥棒刑部山茶花(通称スケアクロウ)から、一通の犯罪予告が届く。今は百足のかわりに、こちらもまた小説家であるが一葉よりも認知度の高い次女の二葉が暮らす、裏腹亭のどこかに隠された百足の最後の作品を盗みにやってくる、というのだ。かくして裏原亭に集う関係者たち。彼女たちの前に姿を現したのは、警察の要請によって日本探偵倶楽部から派遣された、スケアクロウとは因縁浅からぬ探偵、海藤幼志であった。

 まだ犯罪は起きていない。が、しかし、すでにここの段階で(第一回のときにも書いたが)これがじつに西尾維新的なテーマ、つまり主体の固有性(オリジナリティ、絶対性の有無、入れ替え不可能性の有無)を扱ったものであることは、たとえば一葉と海藤幼志の、屈折した内面から伺うことができる。また、その表記のされ方である。一葉は、あくまでも髑髏畑という所属から自らを切り離そうとする、そういう彼女の意思が働いているみたいに「一葉」という名の部分だけで表される。反面、海藤幼志は、規定の概念に縛られることのない個の存在であることを主張するかのように、「海藤幼志」というフルネームにこだわる。そうしたふたりの屈折が、おそらく「一回の盗みにつき三人殺す」三重殺(トリプルプレイ)の悲劇を、物語に誘い入れることになるのだろう。

 第一回「唯一」についての文章→こちら
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2005年06月26日
 

 石川忠司の文章は、その言い回しのせいか、論旨が掴みづらいところがある。けれども、言われていることは、十分に納得できる、かつ明解なものである。この『現代小説のレッスン』では、純文学の「エンタテイメント化」ということについて、すべて字数が割かれている。では、純文学の「エンタテイメント化」とは、それっていったいどういうことだろうか。僕なりに、シンプルに、まとめ直してみたい。

 石川によると、話し言葉から書き言葉に移行した日本語、つまり活字の類は、どのようにしても圧倒的に「ペラい」、言い換えれば、おそろしく表層的である。そのペラい言語が、〈話し言葉と同等の力でもって物語を語るためには「内言」「描写」「思弁的考察」などの位相をどうしても必要とする〉。そして、それらの要素を〈バランスよく配置して、最終的にひとつのスタイルにまで洗練・昇華させたジャンルがいわゆる純文学=近代文学にほかならない〉。活字による物語が、物語としての強度を保つためには、どうしても「内言」や「描写」や「思弁的考察」などが必要となるわけだけれども、しかし一方で「内言」や「描写」や「思弁的考察」は、物語のなかにあっては肥大化する傾向があり、そのせいで物語を読むことには、ときおり「かったるさ」が含まれる。そこで、近代文学を継承した現代文学では、そういった「内言」や「描写」や「思弁的考察」自体を、エンタテイメント化させる。要するに、話し言葉で物語を語るのと同じ要領でもって、「内言」や「描写」や「思弁的考察」を、ストーリーのレベルにまで持ち上げた書き言葉に託させる、それこそが現代文学の果たしている役割なのである、ということだ。

 そのための考察の俎上に載せられるのは、村上龍や村上春樹や高橋源一郎など80年代からすでに活躍している作家も含まれているが、基本的には、90年代半ば(つまり「J文学」期)以降から現在にかけて、小説というフィールドに強い影響力を持った作家たちばかりである。

 随所に鋭い指摘が散見できる。たとえば村上龍の〈小説に見てとるべきはアップ・トゥ・デイトな題材自体(およびそれと文学との関係)ではなく、あくまでもそんな題材への関心をそもそも可能にさせた文体レベル、そしてこの「文体」を形象化したストーリーの枠組みレベルでの、実にありふれて開放的な「健康さ」の方なのだ〉と石川がいうとき、それは、社会的な関心を扱っていてどうこうという、よくある村上龍評価と真っ向から対峙することで、彼の小説をステレオタイプな見方から離脱させ、テクストとしての幅を広げさせている。

 個人的には、生田紗代に触れている点がうれしいけれども、反面、なぜ綿矢りさに触れた箇所がすくない(300字に満たない)のかは、すこし疑問である。彼女を見いだしたひとりとして、また取材経験からいって、他の批評家よりもずいぶんとソースを持っているはずなのに。だから逆に書きにくいのかな。まあ戦略的にいろいろとあるのかもしれない。
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2005年06月24日
 

 04年9月が初版の本であるが、ヒップホップの熱心なファンでもなく、ECDのハードコアなリスナーでもない僕は、『失点イン・ザ・パーク』(本)からの流れで、これを読んだ。今年出たもののあとで、昨年のものを読むのは、ある意味、時間を遡るようなものだけれども、内容の部分では、自伝的であった『失点イン・ザ・パーク』が90年代の終わりから00年までを扱ったものなのに対して、この『ECDIARY』は、その題名どおり日記であり、日付としては04年3月から5月までを追ったものなので、むしろこういう順番、つまり前者のエピローグ(とういか続き)である風に受け入れるのが可能である分、逆に取っ付きやすかった。この日記がつけられている間にあった大きなトピックは、サウンドデモやイラクの人質問題、輸入盤規制問題などである。関連して、2ちゃんねるの話題もわりと多く出てくる。が、しかし、そういった部分で述べられる政治的な見解よりも、音楽を交えた日々のどこか哀愁漂う細々とした呟きのほうに、リアリティは傾いている。もちろん、それは僕という読み手が、ECDという人の考えに全面的に賛成できるわけではない、ということなのかもしれない。巻末近くに、幼年期の記憶であるような「迷信」という短編小説が収められているけれども、まあ内容的には、習作といったところだろう。ただ、それを読み、『失点イン・ザ・パーク』を思い返し、再びこの日記のことを考えると、00年代以前をモラトリアムとして過ごした人間が、いかに00年代以降を壮年期として生きるか、と、そういったテーマみたいなものが浮上してくるような感じがした。
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2005年06月20日
 

 朗読会のためのものや、ウェブ上など、その発表形態によるのかもしれないが、それほど重圧があるわけではなく、どちらかといえばエッセイに近しい、気軽さや手軽さによってページをめくるのが相応しい、そういう短編小説の集まりが、この『この本が、世界に存在するということに』という本である。

 表題にあるとおり、本にまつわるエピソードが9編並んでいる。が、それらは縦の糸であり、横の糸は、もはや角田光代固有ともいえる「いまここ」と「ここではないどこか」の往復運動となっている。

 じっさいに冒頭の「旅する本」では、旅先の海外にいるはずの「私」は、1冊の本をポイントに日本での記憶との間を行き来する。日本にいるときには海外は「ここではないどこか」だけれども、海外にいるときには日本が「ここではないどこか」になる。そして「私」が存在しているのはつねに「いまここ」である。日本と海外の2項は、現在と過去でも、現実と妄想であったりしてもいい。とにかく、まるでドッペルゲンガーのようにふたつの時間を同時に生きる、あるいは、そのように自分の内側に流れている時間と外側に流れている時間とをひとりで所有することこそ、生きる、というのかもしれない。いや、誰だって無意識のうちに、そうしているのではないだろうか。そしてその途中で気づくいくつかのズレを、変化と呼ぶこともできる。

 このなかで、もしも好みの1編を選ぶとしたならば「引き出しの奥」になる。

 友人の言葉を借りるのであれば「すさんだ生活」を送る、誰とでも寝るような女の子が、未だ巡り会わない1冊の本の噂を通じて、それまでの生き方から方向転換するという、じつに他愛ない物語であるけれども、その他愛もなさのなかに、判断の停止を実行しているモラトリアムとの訣別が含まれている。なにか重要なことが、ドラマティックに訪れるのではなくて、ドラマティックではないことが、なにか重要なこととして、突如光り出す。このあたりの自然な成り行きに、角田光代の手腕が発揮されているのだった。

 『いつも旅のなか』についての文章→こちら
 『人生ベストテン』についての文章→こちら
 『対岸の彼女』についての文章→こちら
 「神さまのタクシー」についての文章→こちら
 『庭の桜、隣の犬』についての文章→こちら
 『ピンク・バス』についての文章→こちら
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2005年06月18日
 

 私小説という言葉は、「私小説」とはいったい何だろう、といったセンテンスのなかで扱われるのが、もっとも適切である。なぜならば、そのことは同時に、「私」とはいったい何だろう、という実存への問いかけを生じさせることになるからだ。

 これは、ラップの人であるECDによるECDの自伝的小説として編まれている。舞台は99年から00年にかけての東京。ヒップホップのシーンが日本で隆盛を迎えるそのとき、ECDは、止めどなく押し寄せる不安とともに生きている。彼が、自分自身を「私」であるという、そのための根拠を見失ってしまっているがゆえに、である。

 いや、なにも僕は、この作品を私小説的だなんて言いたいわけではない。そうじゃなくて、ただ、「ぼくっていったいなんだろう」という90年代的かつステレオタイプな表現とは違った形で、不確定な「私」が提出されているという点において、なにか呼吸の新鮮さを見る。

 いま現在、文学誌に掲載される若い世代の作家が書く小説の多くは、僕には、90年代「J文学」の(駄目だった部分の)アップデート・ヴァージョンにしか過ぎないように思える。そもそも社会化する気のないモラトリアムのなかで、「ぼくっていったいなんだろう」という問いを繰り返す。誰に? その誰かすらもわかっていないことが苦しいという。あるいは、単なる自己完結がしたいみたいに。それは、はたしてほんとうに、実存に関わる問題なのだろうか。

 ここでの「僕」は、就職もせず、ただ好きなことをやり続けてきた結果として、表れている。ある意味では、モラトリアムを延長することに成功した人物である。が、しかし、40という年齢を間近に、ふと、社会という制限のなかで、自分が不自由になっていることに気づく。それまでの「僕」が社会を必要としなかったのと同程度に、社会もまた「僕」を必要としていないのだ。「僕」の実存を辛うじて支えるものは、11万円で借りているアパートの一室だけである。が、しかし、その11万円を保証してくれる人間は、自分を含め、誰もいない。

 物語を覆うダウナーなムードは、「僕」がアルコール依存症である(であった)ことに、端を発している。中毒、躁鬱、狂気、そして精神病院への入院。タイミングが良いというか悪いというか、その内訳は、つい最近話題になった吾妻ひでおのマンガ『失踪日記』後半を思い出させる。そういえば、あちらも自伝であった。ただ、吾妻はホームレスになり、肉体労働もこなしたが、ECDの場合は、ホームレスになることを怖れ、ハローワークに通うけれども、自分に合った働き口を見つけられずにいる。その分だけ、悲しい。

 帯で坪内祐三が〈猫のプーちゃんの出産を見てECDは言う。「プーちゃんの性器を中心にして、世界が裏返しになってしまう」、と。何てリアルな表現だ〉といった具合に評している。そこで言われているリアリティとはいったいなんだろうか。たぶん、地上という平面に自分を認識させるための他者が存在していない、そういう悲哀であり孤独のことなのだ、と僕は思う。

 他の誰もその上に立っていないからこそ、自意識だけで出来た世界は、ひっくり返ることができる。
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2005年06月16日
 『野性時代』7月号掲載の短編。『海の底』のサイド・ストーリーという体をとっている。『海の底』で活躍した自衛官冬原と、その恋人の物語で、本編とオーヴァーラップする箇所もあるが、荒唐無稽さをともなわない、ひじょうに真っ直ぐな恋愛小説となっている。こういう形で提出されると、この作家の文章のどこがフックとなっているのか、それがわかりやすい。会話や状況の説明に特筆すべき点はない。が、登場人物の内面が、メタ的なポジションにいる語り手(作者)によって、モノローグというのともポリフォニーというのとも違った、口語のなめらかさで綴られてゆくところが、読み手の感情移入を誘うのだ。それはたぶん、ライトノベル的な感性からやってきているのだろうが、現実をフィクションのほうへ引き寄せるのではなくて、フィクションを現実の側へ近づけようとする、そういった仮構性に頼りきらない素養の働きが、有川浩の場合、物語の磁場を強くしているのである。

 『海の底』についての文章→こちら

 『塩の街』についての文章→こちら
 『空の中』についての文章→こちら
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2005年06月15日
 SFパニックものとしてというよりは、ある種のビルドゥングス・ロマンとして読んだ。というのも冒頭、やがて中心人物となる海上自衛官2人の造形があまりにも幼く、ああこりゃあまずいな、と思ったのだが、しかし読み終えたときの印象がまったく違っていたのは、物語を経ることによって、彼らに成長がもたらされたのだと理解したからで、そういった部分にこそ、つよく読み応えを感じた。またビルドゥングス・ロマンをまっとうするのは、なにも彼ら2人に限ったことではない。有事に遭遇した登場人物のほとんどが、成長を強いられる中盤以降、作品の強度はぐんと増す。

 その日、米軍横須賀基地は賑わっていた。春のイベントのため、市民に開放され、たくさんの行楽客が訪れていた。しかし、突然の非常事態が発生する。人体よりも大きなザリガニに似た甲殻生物の群れが、海から沸き、陸に上がり、人々を襲い、そして食いはじめたのだ。惨劇のなか、逃げまどう少年と少女の集団がった。あわやという場面で、彼らを救ったのは、基地に停泊中であった海上自衛隊潜水艦『きりしお』の若き乗組員たちである。だが、巨大ザリガニの包囲を突破することは叶わず、結果として、動きの止まった『きりしお』艦内に立てこもることとなる。はたして救助はやってくるのか。そのようにして、2人の自衛官と13人の未成年たちとの、奇妙な共同生活がはじまった。

 ポイントとなるのは、保護者的な人物が、早々に退場することだろう。そのため、『きりしお』艦内には、成人している2名も含め、イノセントではないけれども大人にはなれないモラトリアムとほぼ同義のライトノベル的なキャラクターたちだけが、残される。

 6日間という期間がそうさせるのかもしれないが、『きりしま』艦内で起るトラブルは、閉塞的な環境によって追い詰められたというよりは、むしろ、それまでに経験したことのない出来事(基本的には他者との接触)によって、登場人物たちが戸惑うといった部分に起因している。そして、それは万遍なくブレイクスルーされる。つまり年齢こそ一定ではないが、しかしみな一様にそこにある状況によって、通過儀礼的なイニシエーションを得ることになるというわけだ。その構図は、自衛隊出動をめぐる警察内部の動きという『きりしお』外部での展開にも適用されている。

 成長のための痛みは、ときに人の死という形で現れるが、そこのところで描かれる情緒には、ぐっと来るものがあった。

 『塩の街』についての文章→こちら
 『空の中』についての文章→こちら
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2005年06月11日
 『文學界』7月号掲載の中篇小説。じつに松尾スズキらしい感じの内容だった。バッド・ラックが連鎖して積み上がってゆく、本来であるあるならばそれが絶望へと臨界する地点が、突如バニシング・ポイントとして発動し、最後には滑稽さに似た希望が提出される。精神病棟を舞台にしているけれども、正常と異常の境目を問うような読み方をするのは、すこし退屈だ。そうではなくて、すでに正常も異常もクロスオーヴァーしている、そういうのが現実なのである、という言い切りとして、この小説は存在している。また、フックとなっているのは、口語による進行じゃないだろう。饒舌すぎる文体に関しては、とりたてて目を瞠るところがない。重要なのは、読みながら口のなかに沸くイメージ、言葉が味覚を刺激することである。物語は、嘔吐物によってはじまり、紅茶の味のするタバコによって終わる。吐瀉や拒食や過食が用いられることにより、負のイメージを含有した味覚は、途切れることなく持続するのだが、それが最後にふっと抜ける。というわけで、読み手の個人差はあるだろうが、抜けた場合にこの小説を楽しんだことになるし、抜けなかった場合にはこの小説を楽しめなかったことになるのではないかな。それと、自分の身の上話はしたいが、他人の身の上話は聞きたくない、といった部分に、現代的なリアリティが宿っているように感じた。そうなのだ、他人のことはどうでもいいのだ、でも、そのようにしてある自分とはいったい何だろう。つまり他者の他者性に関わる問題である。が、しかし、その点については、いささかなし崩し的な勢いに任せすぎな気がする。ラストで、主人公が捨て去ったものの抽象性は、イメージ以上のものとはならずに、風に吹かれると、すぐさま消えた。
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2005年06月10日
 

 02年に出た鼎談集。僕は演劇関係には明るくないタイプの人間なので、蜷川幸雄にはさして関心はないのだけれども、鼎談に招かれた人たちがけっこう興味の範疇だったので、むしろそちらのほうに引かれて読んだ。大きな目当ては、蜷川×渋谷陽一×押井守、蜷川×安藤忠雄×村上龍といったあたり。だが、しかし、それら以外のものも、かなり刺激的で、啓蒙されるところがあり、なかなか満足がいったのであった。

 とくに蜷川×真田広之×熊川哲也の鼎談は、交わされる会話のクレヴァーさに、それぞれに対する認識を改めたくなるほどだった。その冒頭で、熊川がタバコを吸う、それについて蜷川が、ダンスに影響はないのか、と尋ねる、すると熊川は〈影響があるかないかはぼくが決めることですから〉と答えるのだが、そのへんは(もちろん実力が裏付けとなっているわけだが)素直にかっこよく感じられ、真似したくなった。

 さて。どの鼎談も、デジタルに対してアナログ、身体あるいは視覚に対して言語、海外に対して日本、といった具合に、二項対立の関係性をめぐって、ある程度の話が進められている。それはそれで一般論に近しい印象でもあったりするのだが、そのなかで、ぽんっ、と、いくつか重要な発言が飛び出す場面があり、そのたびに、へへえー、と唸らされる。また、批評というものに関して考えさせられる箇所も多い。たとえば蜷川×渡辺保×浅田彰鼎談における、浅田の次のような発言。

 最近ぼくもとみに啓蒙的になっているんですけど、日本は、映画批評でも演劇批評でも、とにかくどういう映画か、どういう演劇かってことがきちんと分析的に記述できていないものが多過ぎると思うんです。「この批評家、筋もわかってないんじゃないの?」というのが結構ある(笑)。だから、構造とかいう以前に、演出家はまず、わかる部分はすっきり明快にわからせるという努力が必要だし、批評家もそれはちゃんと読み解いて明解に書かないと駄目だと思うんですね。今さらそんなこと言うのも嫌ですけど。 P138

 これは、蜷川×渋谷×押井鼎談における押井の発言とリンクしてくる。

 本当のオタクはモノを作れないよね。だって構造がないんだもの。ディテールしかないもの。でも、そういうオタッキーな資質は絶対必要なんだ。 P40

 映画って、どんなおじさんが見ても、おばさんが見てもひとこと言えるじゃないですか。でも演劇とか舞踏とか前衛絵画とか彫刻って何か語るには積み重ねてきた教養が必要なわけで、みんな何も言えない。 P44

 映画だって本当の訓練が必要で、特にアニメーションなんか訓練なしでは見られないジャンルです。子供の頃からテレビで見てるから違和感がないのであって、見たことのない人が突然見たって、映画に見えないはずなんですよ。複雑な記号の組み合わせで作ってるわけだから。 P44


 要は、現在の批評には、創作者がそうである以上に、批評という行為へ向けるディシプリンの量が絶対的に足りていないという話なのだが、ここいらへん、(僕も含めて)ネット上で好き勝手に書いている人たちには、ちょっと耳の痛い話、というか、真剣に考えるだけの価値がある話だと思った。それにしても、渋谷陽一といい、後藤繁雄といい、編集を生業とする人たちは、こういう鼎談になると、ホストでもないのに、なぜかホスト役に回ってしまうというのは、読む方にしてみれば、もったいないというか、なんというか。
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2005年06月08日
 

 たとえば、この世には悪意というものが、確実に存在しているし、それは絶対になくならないとして、そのなかで、か弱き人たちに対して、出来ることなんてあるのだろうか。ある。自分の力がどれほど小さなものであっても、支えようとしたり、庇うように守ろうとすることぐらいは出来る。誰にだってそれぐらいのことは出来る。たぶん、この小説は、そういう場所を出発点にしている。というか、この作家は、これまでの作品から明らかなように、子供の自立と大人の責任に関して、かなり自覚的な取り組みをしているのだが、それがうまい具合に結実しているといった感じか。アメリカで6年もの間、失踪状態であった原之井は、10年前の高校時代に交わした約束のために、日本へ帰還する。同じ頃、まったくべつの場所。裕理少年の家では、死んだはずの母が、幽霊となって、祖父の前に現れるという事件が発生する。本来であるならば、交わることのないふたつの点が、線となって物語の輪郭を描くとき、悲しむべき出来事が語られ、やがて前へ進むための勇気が生まれるのであった。題名にあるとおり、心音が重要な役割を果たしている。それは暗闇のなかにあっても、生きている者を指し示す、明るい導だろう。いくつもの視点が切り替わる構造は、効果的であるかないかといえば、微妙な線だが、おそらくテンポを崩さないためには必要であったのだと思う。これまでの作品ではどうも、後半になって駆け足になってしまうところがあったけれども、その点が改善されている。結果、ピンポイントで胸に迫ってくるドラマの盛り上がりが生まれた。ただし余韻が弱く、ちょっとあっさり風味すぎる感じがしないでもないが、そこは好みの問題かな。うん。一回性の感動としての強度は高い。

 『そこへ届くのは僕たちの声』についての文章→こちら
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2005年06月06日
 

 世界と運命と物語を弄ぶ狐面の男、彼との対決に臨んだ戯言使いである「ぼく」たちを阻むようにして現れた小さな影、それは橙なる種と呼ばれる人類の最終存在であった。放心する「ぼく」の目の前で、誰も救われない最悪の宴がはじまった。いやいや、とりあえずサブ・タイトルはダウトだろう。おそらく読み手の多くが、クライマックスとして捉えていただろう瞬間は、そっけなく訪れ、あっけなく終わる。上巻のラストでギリギリにまで高められた緊張が、ページをめくるごとに引き下げられていく感じだ。裏表紙に登場の予告された人物が介入してくるまで、ストーリーはわりと冗長に進む。これまでに姿を見せていなかった登場人物が次々と舞台に昇る、または何人かの登場人物が次々と舞台から降りるが、劇的な場面はすくなく、あくまでも下巻で果たされる決着に奉仕するため、細部が動いているような印象を受けた。

 さて。西尾維新の小説を読むとき、いつも考えさせられるのは、もしも唯一無二のものがあるとしたら、それはいったいどのようにして代替不可能として判定されるのか、ということだ。ミステリとして捉えた場合、入れ替えによるトリックが多く使われるのも、同様の理由に根差していると思われる。自由意思というものが実際に存在するのかどうかはわからないけれども、ここでは、因果律に抗うためなのか、それとも結局は決定論に呑み込まれるためなのか、誰かに強要されない自覚的な裏切りが実行されてゆく。そうした行為が、模倣ではない、オリジナルと認識される。結果、敵が味方になり、味方が敵になり、そして敵は敵のままなのであった。

 もしも唯一無二のものがあるとしたら、それはいったいどのようにして代替不可能として判定されるのか。そのような青臭い議論をフォローすることのできる公理をひとつ用意するのであれば、それは「きみとぼく」という絶対的な相対関係となるのだろう。君の代わりに君はなく、僕の代わりに僕はいない。けれども、しかし。僕が変わることがあったとして、それでも僕は、君にとって唯一無二であり続けるのだろうか。あるいは逆に、君が変わることがあったとしたならば。かくしてストーリーは、「きみとぼく」を指し示す記号であり、すべてのはじまりでもあったサブ・タイトル「青色サヴァンと戯言使い」を冠したすべてのおわり、下巻へと続いてゆくのである。

 『ネコソギラジカル (上) 十三階段』についての文章→こちら
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2005年06月04日
 

 さまざまな識者によって、××化している、と、のべつまくなしに指摘されてしまう現代社会は、もうそれだけ生きづらいことこの上なしといった感じであるが、さて、若き社会学者である鈴木謙介がいっているところの「カーニヴァル化する」とは、いったいどのような意味なのだろうか、それを僕なりにシンプルにまとめれば、おそらく次のようになる。

 いま現在、若年層を支える生へのモチベーションとは=ハイ・テンションをキープすることである。躁鬱状態(ハイとロー)の躁(ハイ)の部分のみを引き受けようとする姿形はどこからやってくるか。といえば、連続的かつ恒常的に鬱(ロー)の気分が目の前に置かれている、そのような状態を起点にしている。つまり「できること」がない鬱な現実を、まるで踏み台のようにして、ハイな状態へと跳躍するために、「やりたいこと」を夢想し続けるのだ。ここでいう「やりたいこと」は、「ほんとうのじぶん」や「ここではないどこか」という言葉に置換可能だろう。もちろん躁状態というのは、永続的なものではない。すこし経てば、沈静や停滞が待ち構えている。そうした事実を事前に知っているがゆえに、沈静や停滞を回避すべく、つねに流動に流動の運動を重ねる。結果、形式に沿うから形式が生じるのではなくて、一時の盛り上がりそれ自体が形式を作ってゆくのである。

 大雑把にいえば、そのような状況を指して「カーニヴァル化」という風になるのではないだろうか。ニートや労働、セキュリティの問題、ケータイやネット上でのコミュニケーション、02年サッカー・ワールドカップなどを事例に用いながら、固められるロジックは、文章量のわりには守備範囲が広すぎるためか、やや不鮮明なところを残すが、しかし、ここで筆者が掘り起こそうとしている根本の問題は、つまり、そうしたことに思える。

 では、そういう社会のなかで、今日を生きる我々はいかにあるべきか。この本はそれを問わない、〈「いかにしてあるべきか」の前に、「いかにしてあるのか」を徹底して問う〉ことを第一義に据えている、その事実が結論部で明かされる。そのあたり僕には、佐藤友哉の小説「慾望」でいえば〈僕たちはそうなんだから、これはもう仕方ないじゃんか〉というのと、落とし方としては、ほぼ同型であるように感じられる。ここいらへんもまた、ある時代や世代(たぶん90年代)以降、共通した認識として目の前に横たわっている現実、その片鱗をはからずも表明しているみたいだった。
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2005年06月01日
 

 表題作でキーアイテムとして登場するキャラメルのパッケージを模した装丁は、見え透いたアイディアな感じがしないでもないけれど、しかし、とてもとてもキュートだ。6つの短編を含んでいるが、どれもそのキュートさにくるまるのが相応なように、それほどヘヴィではない、でも、ずっしりとした重みはちゃんとあって、スウィートではあるけれども、それと同じぐらいビターな味わいを湛えている。全体のムードでいえば『ぼくは勉強ができない』よりも暗い、が、『姫君』よりもぜんぜん明るいといった感じか。例外はあるけれど、ほとんどの小説において、男性は肉体労働系の仕事に就き、女性は家でその帰りを待っている。だからといって、男女の立場がどうということではない、そこは重要ではなくて、たとえば作者は帯で〈職人の域に踏み込もうとする人々から滲む風味を、私だけの言葉で小説世界に埋め込みたいと願った〉といっているけれども、〈職人〉の前提を意味しているのは、たぶん、生きてゆくためのスキルを持ちえる人々ってな風に言い換えられるのだと思う。誰だって、どんな場所でだって、どんなことをやっていたって、生きている。そこで獲得された、プラスのベクトルで充実に繋がるものを、言葉により、抽出しようとしているのである。クスクスと笑えるし、どっか寂しさが翳ってる。家族とか、恋人とか、兄妹とか、なんだろう、出会うすべての人とか。もちろん、ぜんぶに意味があるとは思わないけど、ぜんぶが無意味ってわけじゃないだろう。そんなシンプルなことに、ついに気づき、思わず深く頷いてしまうのだった。
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2005年05月30日
 ぜんぶで6編収められている。書き下ろし以外のものは、すでに読んだことがあるのだけれども、そのなかで改めて好みだなと思ったのは「慾望」であった。しかし「慾望」は発表された当初から、文学誌の文芸時評などで評価が低かった覚えがある(もしかするとネット上でもそうだったかもしれない。ここでは『文學界』の「新人小説月評」を引こうと思ったのだが当該号が見つからなかった。たぶん04年2月号かな。見つかったら追記するかもです)。それらの評が言わんとすることはわからないでもないのだけれども、しかし、である。僕のようなヘボ読者にしてみると、やっぱりよろしいではないか「慾望」は、という気がしてくる。

 武装した4人の少年少女が、高校を占拠し、同級生たちを無差別に殺戮してゆく「慾望」における主題は、ラスト近くで登場人物のひとりが口にする次のような台詞にすべて、集約されているといってもいい。〈僕たちはそうなんだから、これはもう仕方ないじゃんか〉。このような言葉は、場合によると「僕たち? それはいったい誰と誰と誰のことだよ?」とか「そうなんだから? それはいったいどのようなこと?」とか「これはもう仕方ない? なぜそれは仕方がないのか?」とかいった問いかけを召還してしまう、が、しかし、ここで少年や少女たちを駆動させているものとは、そういった反証を彼らの側から提出すること自体の拒否なのである。作中、ひとりの女教師が彼らに対して執拗な説得を試みる、彼女の言い分をひとまとめにするのであれば、次のようになるだろう。私は人を殺してはいけないと言っている、けれども、あなたたちは聞き入れない、もしも、あなたたちが自分たちを正しいと思うのであれば、私の主張に対して反証(理由もなく人を殺す理由を提出)しなさい。と、しかし、それは見当違いの大暴投であり、当然のように、両者のギャップを埋めはしない。むしろ浮き彫りにしかしない。なぜならば完全な認識の違いは、ディスコミュニケーションすらも成立させないからである。つまり、「慾望」に映し出されているのは、理由もなく人を殺す人間の内面(内面のなさ)ではなくて、そうした認識の違いがどうしてもこの世には存在してしまう、という事実のほうであり悲哀なのだ。そのへんは、たとえば先行する世代の作家であり、やはり少年たちの「死」へ向けられるアパシーを扱った篠原一の『アウト・トゥ・ランチ』や黒田晶の『メイド・イン・ジャパン』あたりと読み比べてみると、わかりやすい。

 ところで。僕は先に「僕たち? それはいったい誰と誰と誰のことだよ?」と書いたが、そういえば佐藤友哉の小説には、この「僕たち(ぼくたち)」といった単位が頻出する。この本でいえば、「大洪水の小さな家」「慾望」「子供たち怒る怒る怒る」の3作品、そのハイライトにおいて、まったくの主語として機能している。もちろん物語の筋だけをみると、その「僕たち」がどの登場人物とどの登場人物とどの登場人物とを指しているのかは、容易に特定できるのだけれども、そういった指示を代替するためにのみ、現れているわけではないのだろう。それが作者の意図によるものであるかどうかはわからないが、ひとつには、読み手自身を「僕たち」という語に含ませることによって感情移入をもたらす装置として働いている。もうひとつには、もしかすると同じことなのかもしれないけれど、こっちとあっち的な対局の位置に、立つべきサイドを割り振る、そういう役割を果たしている。ある意味では、他者(世界)と主体(僕)の関係性をシンプルな二項対立の様式へと還元するのである。要するに、敵と味方の構図だ。が、しかし重要なのは、なぜ「僕」という個体ではなくて、「僕たち」という複数人を表す語になるのかといった点で、そこいらへんは、「僕たち」という匿名性のなかに隠れてしまう(溶け込んでしまう)「僕」という主体の弱さが、はからずもダイレクトに反映されているのではないか、という風に考えられる。

 「リカちゃん人間」では、そのことが、あるいは逆の事実として、裏返っている。書き下ろしである「生まれてきてくれてありがとう!」と「リカちゃん人間」は、両方の作品ともに、佐藤友哉得意の、いわれのない不遇に主体が曝されてしまう、といった内容をとっている。が、女の子の人形を雪に埋もれさせ遊んでいた6歳児が突発的な事故により人形と同じ境遇に置かれてしまう「生まれてきてくれてありがとう!」のほうは、文字どおり「いわれのない」状況でそうなってしまったのに対して、ありとあらゆる種類の凌辱が中学生の少女に襲いかかる「リカちゃん人間」のほうでは、さまざまな場所に人間の善意や悪意が介在している。しかし、誰ひとりとして名前を持っていないという意味で、じつに匿名的である。けれども、そうした匿名の人々が連鎖反応のように次々と死んでゆくなか、ワンマン・アーミーとして戦いを決意する少女だけが、ただひとり、他の者からは名前で呼ばれていたのだった。

 わ、だめだ。うまく書けてねえ。これ、いつか「はてなダイアリー」のほうでまとめ直す予定です。

 小説「子供たち怒る怒る怒る」単体についての文章は→こちら
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2005年05月27日
  新創刊されたマンガ誌『月刊少年シリウス』7月号スタート、『ダブルダウン勘繰郎』に続く西尾維新発のJDCトリビュート小説である。

 えっと、内容的なことはひとまず措いておいて、フォーマットに関してちょっと。本誌に印刷されているわけではなくて、別冊付録だというのは、ありがたい。とても読みやすい。イラストがジョージ朝倉でなくなってしまったのは、残念な感じだがまあ、よろしい。ただ、あれだ、文量が少なすぎるだろう。これで一ヶ月分かあ。NHKの連続テレビ小説が毎日じゃなく、月一で放映されるようなもんである。だいたい物語がまったくもって動いていないではないか。マンガ原作とかならば、これでオーケーかもしれないけれども、小説として見た場合、やっぱマズいよな、という感じがする。マンガでいえば、単行本派とか連載派みたいな、読み方が分かれることもないだろう。よっぽどのファンでなければ、単行本化されるのを待つのが、吉である。

 さて。内容であるが、先ほどもいったように、物語自体は、まったく動いていない。ほとんどの登場人物が、舞台に登場しないままで、(続く)となっている。なので、西尾維新の小説におけるパターンでいえば、冒頭に置かれるモノローグ(青臭い自問自答)が、短いページの大部分を占めていることになる。そして、そのモノローグだけれども、そこだけを読むと(ほぼ、そこだけしか読めないため)、西尾はすこし自家中毒を起こしはじめているのではないか、という猜疑ばかりが思い浮かんでしまうのだった。たとえば、主体として語りはじめる人物の職業は、作家である。小説と、作文、文章と、物語について、いろいろと思いを巡らす。画家や芸術が引き合いに出される。純文学かエンターテイメントか、ジャンル、金になるかならないかが滔々と問われる。このあたり、ずいぶんと既視感を覚えた。

 ただし、それは裏を返せば、西尾が一貫して描き続けるテーマのようなものを孕んでいる、という風にも思える。もしも唯一無二のものがあるとしたら、それはいったいどのようにして代替不可能として判定されるのか、と、つまり、そういうことなのではないだろうか。そして物語が進んでいけば、〈髑髏畑一葉は小説を書いているのだ〉、(太字部分は、原文では点により強調されている)このようなセンテンスが、ことによると、清涼院流水がいうような大説云々と結びついてゆくのかもしれない。
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2005年05月26日
 『S-Fマガジン』7月号掲載の短編小説。少女が14歳のとき、叔父の後妻が亡くなった。彼女は、人間のようでありながらも人間と扱われることのない「野天人」として存在し続け、やがて尽きたのだった。その死が掘り起こす過去の記憶、そして夢想の数々によって翻弄される運命は、いったいどこへ落ち着くのか。デビュー作にあたる『ラス・マンチャス通信』が、ある種の純粋さをもって禍々しくも鬱々とした世界をいかにしてサヴァイヴするかという意味で、青春小説的でありえたように、この作品もまた同様の傾向を為している。クラスメート、叔父、叔父の後妻、母親、父親、忌むべき対象がじょじょにスライドしてゆく手法は、不安定な自意識を描写しているみたいだ。そのような展開を印象深くしているのは、瓦解しているわけではないけれども、すでに形骸化してしまった共同体が、それでも抑圧として動く姿を捉まえているからなのだろう。抗おうとすれば、たちまち異端と化す。あるいは、現実を支えるバックボーンなどどこにもないため、抗う自分以外のものすべてのほうが異端なのではないか、といった倒錯が生じる。いずれにせよ違和感を信じて、足を一歩踏み出してしまえばもう二度と、元いた場所へ戻ることはできないのだ。葬儀の次の日、朝焼けの街を透かして見つけたもの、それはたぶん、チャイルド・フッドの終わりである。

 『ラス・マンチャス通信』についての文章→こちら
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2005年05月24日
 

 読みはじめは、J文学の流れを汲むスカしたサブカル小説かな、ぐらいに思っていた。セックス、クスリ、ロッキング・オン系のポップ・ミュージック、また作中に登場するアイテムなどを列挙すれば、まあそりゃあその線ではあるのだけれども、いやいや、読み終えてみれば、90年代的な閉塞感や虚無感、倦怠感のなかに停滞するのではなくて、その先へと突き抜けようとする、微かな希望のようなものを、確かな手応えとして含んでいたのだった。

 舞台は、東京で桜の見える場所。登場人物は、基本的に6人の男女で、彼や彼女らが過ごす、とある日の早朝から深夜までを、多少の時差を設けながら、饒舌に語ってゆく。とはいえ、6人はまったくの他人であり、その生活は、すれ違う程度に、挨拶程度に、交差するだけである。そこいらへんは、映画『マグノリア』における物語進行を思い出させる。じっさいに『マグノリア』の名前が出てくる箇所もあるので、作者は、そこから着想を得ているのかもしれない。しかし、この小説には『マグノリア』のラストにはあったサプライズなどは、ない。平凡な一日は平凡な一日に終始するだけである。昨日の続きであるような今日が過ぎ去り、今日の続きであるような明日がすぐに待ち構えている。そのなかで生まれてくる呟きこそが「終わりまであとどれくらいだろう」というわけだ。

 だが、しかし読後には、カタルシスが、ちゃんとやって来る。それはいったいどのようなものか。救いのない一日が、救いのないままで完結する、それでも死なず、生き延びたという、その事実が翻り、錯覚かもしれないけれども、救いがあったものとして、まるで事後承諾のように反映されるのである。それというのは、世界の中心にはけっして存在しえない人々の、叫びというほどにはならない程度の嗚咽を、丁寧にすくい取っていった成果に違いなく、そういう意味では、今日におけるライトノベル的なマテリアルと、真っ向からぶつかり合う作品だろう。
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2005年05月23日
 これって児童向け小説なのかな。ひらがな多いし。基本的に僕はこの作者が苦手なので、本来ならばパスなのだけれども、帯に「どや、ガンズ・アンド・ローゼス、ええやろ?」と書かれていて、表紙イラストがゴツボ×リュウジとくれば、ロックじゃん、そりゃあ読んでみようという気にもなる。うん。なるほど。おもしろかった。ただ、そのおもしろいというのは、半分以上がノスタルジーで占めている、という意味で。昭和の終わり、14歳の少年たちはガンズを目指してバンドを組む、目指すは学園祭でピッキング・ハーモニクスを高らかに響かせることだ。そうして進む物語は、ステレオタイプでありながらも、いや、ステレオタイプだからこそ、ある世代(俗にいう団塊ジュニアあたり)には、やはり郷愁を誘うものだろう。作中で、登場人物たちが食べるお菓子やジュースにも、懐かしの固有名が使われている。で、そこいらへん、とはいえディテールは厳密すぎなく、わりと曖昧なので、それが共感の幅を広げようとする手法だとすれば、じつはあざといのかもしれない。だから僕の関心は、じゃあ、これ、いったい誰に向けて書かれているのだろう、ということで、いちばん最初にいったが、児童向けなんだと思うあたりで、ちょっと頭を抱える。現実に目を向ければ、この物語のなかで、青春を謳歌している少年や少女たちが、17年後、今のこのクソみたいな国に与しているのだという、そういう事実に突き当たる。フィクションやファンタジーだから、というエクスキューズは、たぶん希望を描いたときに、はじめて成り立つ。とした場合、未来に希望はなく、過去に希望を輝かせてしまう、というのは、絶望のべつの言い方にしか過ぎず、それを子供たちに読ませようというのは、ものすごく残酷だ。あーもちろん、これは穿った見方すぎるけれども、ね。
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2005年05月21日
 

 ひと通り読んだので、全体の感想を書き出してみる。

 上遠野浩平の良い読者ではない僕には、第一特集は、いまいちヒットするものではなかった。90年代以降の青春あるいは日本の空気を体現しているという点でいえば、同時期にデビューしたといってもいい浦賀和宏のほうが相応しいような気もするが、そこいらへんは影響力や支持の大きさの問題なのかもしれない。まあ、やがて浦賀の特集が組まれないとも限らないわけだが。とはいえ、上遠野の小説は、それほど悪くはなかった。

 『ブギーポップ』シリーズを2、3作読んだことがあるだけなので、言い換えれば、その時点で自分にはフィットしないと思ってしまった人間なので、あまりエラそうなことは言えないのだけれども、少年や少女ではなくて、成人した男女が主人公であるわけだが、しかし、彼や彼女の内面は、けっして成熟していない、ある種のアパシーに浸されている、という部分が、なるほど、90年代以降というタームを担っているのだろうとは思わされた。が、ウエダハジメのイラストとのマッチングは、あまり良くない感じがした。それはやはり、少年や少女が主人公ではないからだろう。いやいや、でもね、P131からP133における小説の内容とイラストのコンビネーションは素晴らしく、その箇所だけは絶対的な成功を収めている、ちょっと感動した。

 ところで、アパシーといえば、浦賀和宏の小説もまた、アパシーズ・ラスト・キスな内容だといえる。アパシーから、エモーションを回復するのではなく、エモーション自体はもともとない地点から、それを獲得してゆく物語の体は、上遠野のものと符合しているといえるが、僕はといえば、やはり、こちらのほうに感情移入する。ストーリーというか設定は、前号に掲載されたものの続きであるわけだが、前回のラストで明かされたその世界の秘密を踏まえて読み進めると、おそろしいほどの絶望によって物語が支配されていることがわかる。「ここではないどこか」などどこにもないのだ。登場人物たちだけがそれを知らず、あるいは薄々感づいていながらも、生きてゆくために希望を捏造するという構図は、浦賀作品の特徴であり、それは今日を生きる我々の自意識を反映していると思う。また、正確には把握できない枠に支配されているという感覚は、やはり上遠野と通じるものを持っている。浦賀と上遠野の違いは、大きくいえば、身体の捉まえ方だろう。それは、あるいは女性の描き方の違いにも現れているのだった。

 赤田圭一(元『クイック・ジャパン』編集長)と太田克史(『ファウスト』編集長)との対談で、清涼院流水や西島大介をヒップホップと結びつけた話が出たり、また赤田は舞城王太郎について〈ナイン・インチ・ネイルズの世界観に近い〉といったりしているけれども、テクノ・ミュージックを培養液とし、断絶と結合の物語を執拗に繰り返す浦賀の特性こそ、もうちょい注目されてもいい。

 佐藤友哉の短編3つは、2つ目のものが良かった。1つ目のものと3つ目のものは、もしかしたら佐藤以外の人間にも書けるような内容だと思うけれども、2つ目の「対ロボット戦争の前夜」における、自分対世界の見取り図の描き方、世界は皮肉に満ちているのだという言い切りのようなものに、佐藤ならではの筆力を感じる。西尾維新の『りすか』は、さて、どうだろう。前半の文体にやや変化が見られるのは意識的になのかどうか、といった点に、目がいった。後半はいつも通りの文体に回帰するので、無意識的なのだろうな、というのが僕の読みである。それはそれとして。舞城王太郎は、どうかマンガやイラストを描く時間を、小説に回してください。まあ、もしかしたらマンガやイラストを描くことによって、なにか創作意欲のバランスを保っているのかもしれないが、それでは文楽云々とかいえなくなってしまう。や、マンガは巧い下手はべつとして、それなりにおもしろかった。けれども、このようなものであるならば、マンガの世界では、真鍋昌平あたりが、すでに先に、もっと巧く、やってしまっているような気がしたのだった。その他、掲載された2つの批評に関しては、すこし笠井潔バイアスがかかってしまっているような感じがする。対談やインタビュー、コラム等については、割愛。

 これ、あとで書き直す(書き足す)かもしれません。しないかもしれません。
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2005年05月19日
 

 いわゆるカルチュアル・スタディーズもしくはクラブ・カルチャーもしくは上野俊哉本人に興味がないと、読むのがけっこう辛い内容ではあった。その読みづらさは、あまりにも個人的なロマンティシズムに終始している「あとがき」(正確には「あとがきにかえて」)の項に集約されているし、〈この逸話は単なる「私語り」や「エゴ・トリップ」ではなく〉というエキスキューズのあとで、どうしても「私語り」にしか読めない文章が続くP214のあたりなどは、ちょっとお腹いっぱいすぎる。また、P207〈二〇世紀のポピュラー音楽の歴史は、端的に言い切ってしまえば、白人が黒人あるいは有色人種の音楽を流用、盗用、使い回してきた歴史である〉という、さすがに聞き飽きた感のあるフレーズによってステレオタイプな音楽批評をしてしまう点など、テキストとしても、読み物としても、ところどころに欠点を見つけられる。

 が、しかし、それでもいくつか興味深い指摘もあった。とくに、それは序盤に固まっているように思う。サブ・カルチャーとトライブの話である。

 上野は、他の学者の見解を引きながら、現代を生きる人々におけるサブ・カルチャー的な振る舞いを、トライブという概念を用いて語る。本の題名である「アーバン・トライバル・スタディーズ」という造語は、そこからやってきている。

 つまり、ある種の若者文化、サブカルチャー、都市の文化のなかに様々なかたちで存在する趣味やスタイル、身ぶりはそれぞれ小さな集団性、共同性を形成し、互いに影響しあったり、また文化的に、時には物理的に争ったりしている。このような感覚の共同性と、場合によってはある種の敵対関係(antagonism)によって成り立つ集団を、ちょうどアルカイックな社会において儀礼や信仰を共有する集団のカテゴリーになぞらえて、「部族」という言葉で呼ぼうということである。 P016


 このあとに展開される、そのような感覚とアイデンティティとが、いかなる緊張関係を作り上げているのか、そして、その関係性はつねに変容し続けるものである云々の話は、たとえばクラブ・カルチャー(テクノ・ミュージックやハウス・ミュージック)の界隈に止まらず、それこそサブ・カルチャーの全領域へと適用することのできる、なかなかに秀逸なものである。上野は、東欧の社会学者バウマンの論を取り出し、次のようにいう。

 あるトライブに帰属することは、共通の利害=関心にしたがうことではなくて、むしろそれを創り出すことである。ある行為世界を共有する体験こそが、共有しうる何かを生み出すのであって、先験的に共有された起源や利害=関心によってトライブは機能していない。感覚や情動によって成り立つ共同性がトライブだが、情動の内容もまたトライブの形式と表現によって変化していくからである。 P030

 こういった箇所などは、たとえばインターネットの世界で、「オタク」や「サブカル」などが最近の顕著な例だが、またそれに限らず、なぜ次々と対立が生じるのか、あるいは、なぜ人々は好んで対立を生じさせている(ように見える)のかについて、もしも説明しようとするのであれば、それなりのヒントになるような気がするのだった。とはいえ、この本に関していえば、第1章をまるごと、あと、第3章を部分部分で押さえておけば良いかなという感じがした。
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2005年05月16日
  

 たとえばアダルト・ヴィデオは、そこでの行為が嘘偽り、まったくの虚構だとしても、映し出される身体(性器)はリアリティであるがゆえに、もしかしたら本当のことなんじゃないか、すくなからず真実が紛れ込んでいる節がある。そのような倒錯は、ことによると寓話的であり、ある時期以降の高橋源一郎作品に、よくよく見かけられるものだった。

 それはともかく。高橋の長編小説は、まるでキマイラである。いくつもの自作短編(ばかりでなくて、エッセイや詩、ときには他人のものまで)をもサンプリングまたはリミックス加工したかのような風情がある。それらはたしかに一体に繋がっているのだけれども、分断されていた過去の記憶を併せ持っているため、あたかも異形の複合生物であるような、そういうヘンテコさに満ちているのだ。ときにはワンダーのように輝いている。しかし書きすぎる高橋が、その質をキープしているかどうかは、ちょっと怪しい。

 と、さて、この短編小説集には、文字どおり、短編が短編のままで収められている。というと、ふつう一個の短い物語が次々に展開される、『君が代は千代に八千代に』なんかはわりとそういう趣向であったように思うが、この場合は、その一個一個がそれぞれ小型のキマイラのようであり、ひとまずは含有される情報量に、圧倒される。というか、これは『すばる』に連載されていたものなんだけれど、ほぼ同時期に『群像』に連載されていた『メイキングオブ同時多発エロ』や、『小説トリッパー』での『唯物論者の恋』(現在『性交と恋愛にまつわるいくつかの物語』として刊行中)と、被るところがあったりなかったりなのも、影響しているのかもしれない。

 ベースは、いつもどおり生と死と性と文学についてである。だが、すこしばかり老いに対する目配せが強くなってきている感じもする。まあ、だから要するに、実存ってやつへの意識なのだろう。『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』という題名が付せられているが、宮澤賢治ではなくて、あくまでもミヤザワケンジなのであって、作中に登場するキムラタクヤが、じっさいの木村某とは(たぶん)無関係なように、(たぶん)宮澤賢治とは関係ない。

 じじつ収められた一編を取り出すと、「春と修羅」は、宮澤のもののような、けっしてうつくしくも激しい心象などではく、痴呆がかった父親の世話をする主婦が、家族に幻滅し、孤独を覚え、母親との思い出に浸り、ジョージ・ワシントンについて考えるといった、どうしようもない内容である。が、これがなかなか良い話なのであって、びっくりする。ちょっとばかしホームドラマしすぎだよな、という印象を寄越す読後なんだけれども、作者はきっと意図的にそうしたのだ。そう、つまり。ある種のヒット曲がそうであるように、軽やかさのなかに真実として大勢が共感できる何かを染み込ませた、という意味で、この本は、じつにグレーテストヒッツ的なのだった。

 『性交と恋愛にまつわるいくつかの物語』についての文章は→こちら
 『読むそばから忘れていっても 1983-2004 マンガ、ゲーム、ときどき小説』について→こちら
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2005年05月14日
 

 結局のところ僕は、まず『群像』掲載時に1回、この本になってから2回、つまり計3回、ここに収められた文章を読んだのだった。けれども、はっきりといって、何が言いたいのか、よくわからなかった。それは、けっして書かれていることが難解だということではなくて、むしろロジックの立てられ方があまり上手ではないからなのだった。まあ反対に、僕がバカだってこともあるのだろうが。というわけで、ここから先はたぶん批判的なことを書くことになるのだろうな、と思う。

 田中和生は固有名詞という言葉を使う。その言葉をキーワードに論を展開してゆく。この固有名詞という単語は、たとえば柄谷行人が使うような固有名とはべつのものを指す。あきらかな区別の上に乗っている。そのへんのことについては、P159のあたり、あまりにも複合的すぎてトートロジーに見えるような文章のなかで、なんとなく曖昧に述べられている。今、なんとなく曖昧に、と僕がいったのは、基本的に、この本は、わからないということがわからないと書かれずに、わからないことがまるでわかっているみたいに書かれていることに、由来している。と、固有名詞の話に戻す。たとえば田中は、柄谷『探求Ⅱ』の固有名に関する議論に対して、次のように書く。

 つまり「固有名」とは「他者」に向けられた「外部」の現れであるという議論が展開されるのだが、当然のことながら、そこからはあらゆる固有名詞はその「外部性」において等価であるという結論しか引き出すことができない。現実において、なぜある種の固有名詞が価値あるものとして振舞い、そうでないものが存在するのか柄谷行人の「固有名」は答えることができない。 P159

 では、田中が固有名詞というとき、それは、田中自身が投げかけた問いに対して答えることができるのか、という疑問が当然のごとく思い浮かぶ。もしも答えているとしたならば、それはどんな風に書かれているのか。ぶっちゃけて、資本主義って知ってる? ということになる。〈ある種の固有名詞が価値あるものとして振舞い、そうでないものが存在する〉のは、それらが万遍なく資本主義というパワー・ゲームに仕えているからなのである。もちろん、田中はそれだけのことを書いているのではない。まさか、それはありえない。そのことを前提になにかもっと大きなものを掴まえようとしている。たとえばそれは、現代と近代の問題であったり、私小説における「私」の問題であったり、女性の女性性に関する問題であったり、と。だが、それらと先に述べた固有名詞の問題は深く関わっているように書かれながらも、しかし、有機的に結びついているようにはどうしても読めない、そのため何が言いたいのかわからない、グダグダとした体になってしまった、というのが僕の印象である。そう、各章の冒頭に引かれるポップ・ミュージックの歌詞の引用が、本編のどこと繋がっているのか、さっぱり意味不明なのと同様に、だ。

 第二章で、田中は、吉田修一の「パパが電車をおりるころ」(現在『春、バーニーズで』所収)という小説について、そこでマクドナルドという固有名詞が出てくることに躓いた、といっている。

 これは「ファーストフード」ではないけないのか。いけないのなら「モスバーガー」や「ファーストキッチン」、「ロッテリア」でないのはなぜか。
 些細なことかもしれない。けれども私企業とは私利を追求する存在である。だからこそあらゆる表現は特定の企業に奉仕することに慎重でなければならない。わたしにはこの作品の意図が「マクドナルド」という固有名詞を抜きにして成り立たないものであるとは思えない。しかし作品は「ファーストフードと言えば『マクドナルド』」という「マクドナルド」の利益にのみ奉仕する広告を無意識に反復してしまっている。わたしはここに「無自覚な『偏見』」となっている広告の文章意識を感じ取らないわけにはいかない。 P61


 さて、しかし、僕は同じような意味で、この本について、躓いてしまっている。この本のなかで、「かぎかっこ」により使われている単語、それらはすべて、じつはコピーライトの言葉としての固有名詞なのではないか。資本制の発達にともない全面的なサブ・カルチャー化が進んでしまったこの世界では、「いま」や「私」、「生」、「作者の死」、「現在」、「自然」、「私小説」、「近代」、「近代文学」、「現代文学」、「真夏の夜の夢」、「三島由紀夫」、「柳美里」、「モダン」、「十九世紀文学」、「二十世紀文学」、「テーマ」、「日本」、「アメリカ」、「柄谷行人」、「単独性」、「他者」、「父親殺し」、「テクスト」、「テクスト論」などなどといった単語は、それこそ文学業界の〈利益にのみ奉仕する広告〉にしか過ぎないという意味で、私企業の〈利益にのみ奉仕する広告〉であるところの「マクドナルド」や「モスバーガー」、「ファーストキッチン」、「ロッテリア」などといった単語と、そう大差ないのではないか。

 いいや、ちがうよ、と、もしかしたら田中は言うのかもしれない。しかし何がどうちがうのか、この本のなかでは、なんとなく曖昧程度にしか書かれていない。そのことこそが、もっとも重要であるはずにもかかわらず。なぜか?

 つまり消費にかかわる固有名詞に対する「文学」の戦いは一九七〇年代にはじまって現在も継続中である。 P158

 ねえ、ところで文学とはいったい何だろう。
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2005年05月13日
 

 インターネットのシーンに一日の長がある人たちの間で話題になっている本であるが、では、はたしてインターネットにそれほど精通していない僕のような人間にも、なにか訴えてくるものがあるのか、身が多いのかどうか、当初は訝しげであった。が、しかし結論からいえば、楽しく読めた。驚いた。90年代初頭を始点に、個人サイトの話から、ウェブ日記、テキストサイト、ニュースサイト、アングラ掲示板、FLASHなどのコンテンツやコミュニティに関する豊富なヴァリエーションを用い、大まかな見取り図を描いてみせた成果は、なるほど、資料価値の高そうな内容で、勉強になりますといえば、『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』というタイトルに嘘偽りはないのだろう。けれども、ほんとうの読みどころ(書き手の意図)はもうちょいべつにあるような感じがした。そのことを僕なりにいえば、書き手はインターネットをよくある特権的な空間として語るのではなくて、あくまでもサブ・カルチャーの一部へと還元しようとしているのではないか、という風になる。サブ・カルチャーというものは、その習うより慣れろ的な性質上、どうしても歴史化しにくいところがある。けれども、ここでは、そういう「慣れ」の部分をクローズ・アップし、ひとつ体系化することで、ヒストリーとなるようなサブ・カルチャーの流れを認識させるのだった。たとえば、それは最初のほう、ページでいえば、P52の次のような文章から推測できる。〈もし貴方がウェブログで表現する愉しさを覚えてしまった人なら、紙という流通も読者数も非常に限定されたメディアにも興味を持ってほしいと思う。なぜなら、それがインターネット初期の個人サイトを支えた力の源なのだから〉、と。また注釈の部分で、インターネット関連の用語や出来事と、サブ・カルチャーのキーワードとを並列するといった仕草も、動機を同じくしていると思われる。インターネットという手段と目的を兼ね揃えた何かを、ノスタルジーや知識で囲い込むのとは違う、より開けた、リアルタイムでこそ激しくうねる磁場として、再度捉まえ直す。その姿形が、いわゆるインターネット入門書的なものとは、決定的に異なる価値を、この本に付与しているのである。ところで。本題とはぜんぜん関係なく、個人的に「わっ」と思ったのは、P472のコラムで、ネットでライヴ生中継をはじめて行ったバンドとしてスカイ・クライズ・マリー(スカイ・クライズ・メアリー、女性ヴォーカルのシアトル・グランジ / アメリカン・オルタナティヴ系バンド)の名が書かれている箇所で、超ひさびさに聴き直そうと思い、CDを探したんだけれども、どこにいったのか見つからなかった。
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2005年05月10日
 『新潮』6月号掲載。この作家のものはほとんど読んでいて(全部読んでいると思うが、抜けがあるかもしれない)、過去にはけっこうぶーぶーと言ったが、しかし、ここ数作の出来にはちょっと注目気味である。『群像』5月号に掲載された短編「浮いたり沈んだり」は、眼鏡を失くしてしまい、メガネメガネといっているうちに、思わぬところから眼鏡が現れ、メガネ最高というオチがつくだけの小説だったけれども、じつはかなりのお気に入りなのだった。そして、この小説もよかったのである。生田紗代は、書き続けることで、つねに上昇の線を描くようにして、成長し続けている作家であると思う。

 物語は、25歳の女性である「私」=「亜紀」が、郊外のシネコンに映画を観に行った際、そこで不意に、子供の頃に迷子になった感覚を思い出す、そのようなところから幕を開ける。亜紀には父と兄がいる。父親が実家に一人で生活を送っているのは、亜紀と兄が一人暮らしをはじめたからというのもあるが、母親が、亜紀が高校三年のときに家を出て行ったというのもあるのだった。現在、亜紀の記憶のなかで、母親の存在は、けっして良いものではない。懐かしさは嫌悪感によって除去されている。その母親が父と寄りを戻したがっているという話を聞く。それをきっかけにして起る混乱を軸にして、話は進んでゆく。

 基本的には、血が通っていながらも、同性であることによって軋轢を生じさせる、そういう母娘の関係性を描いているようだ。が、読み手の共感をやさしく誘い込むのは、亜紀と亜紀の恋人である浩美とのやりとりや、兄の前ではどうも子供じみてしまう亜紀の振る舞いであったりするのだろう。ここらへん、つまり枝葉の部分がしっかりと整えられているため、作品の中枢が、ちょうど木の幹のようなずっしりとした重さを備えるに至っている。亜紀は揺れるバスのなかで死にたいと思う。そうした夢想は、日常の他愛もない軽やかさが存在していることによって、一段階沈んだところに、自然とリアルな情景として映えているのだ。
 
 以前、友達がこの英国のバンドのことを、「ナイーブな絶叫系」と命名していたことを思い出す。何だそれ、とみんなで笑った。ナイーブなのに、絶叫しちゃってるんだ? いや、ナイーブだからこそ絶叫してるんだよ。そういや最近多いよね。そういうバンド。僕たちはこんなに苦しんだっていう。

 ポップ・ミュージックに関する、こういう書かれ方、そこに横たわる手触りも以前にはなかったものじゃないだろうか。たぶん、それは、対象との距離のとり方における上達と、なによりも深く結びついている。生田には、ぼちぼち本格的な恋愛小説を書いて欲しいな、それはきっと、とてもとても良いものになりそうな感じがする。

 新潮社のページで冒頭読めます→こちら

 『タイムカプセル』についての文章→こちら
 『十八階ヴィジョン』についての文章→こちら
 『ぬかるみに注意』についての文章は→こちら
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2005年05月09日
 『新潮』6月号掲載。この連作では、要するに、言語化されえないものを、言語化しないままに、どのようにして物語として造形できるか、ということが目指されているのだ、と思う。とすれば、これまでの村上春樹作品となんら変わるところがないわけだけれども、たとえばこの「日々移動する腎臓のかたちをした石」は、『海辺のカフカ』で少年が父親の言葉により呪いをかけられるのと似たシチュエーションを軸として進行する、が、しかし、それは「しるし」としてはポジティヴなもののように見える。つまり、これまでは象徴的にネガティヴであったものが、反対の側へと翻っているのである。「キリエ」という名前の女性が登場する。そこからとったのかどうかは知らないが、これはカトリックでは「主よ、憐れみたまえ」を意味している。そして、じっさいに彼女はある種の救いのようであった。そのように考えるのであれば、以前の連作『神の子どもたちはみな踊る』では、やや否定的に捉えられていた神的な何かを、逆の方向から捉まえ直したシリーズであったともいえるのではないか。どうだろう。書き下ろしを加え、今秋単行本化されるらしいので、その際にまとめて読み返してみることにする。

 追記:というか、さっき『神の子どもたち』をちらっと読み返して気づいたのだけれど、これ、「蜂蜜パイ」と登場人物が被ってるのか。ことによると僕というやつは、いろいろと読み違えているのかもしれないな。再読するときの宿題にしておく。 

 『東京奇譚集1 偶然の旅人』については→こちら
 『東京奇譚集2 ハナレイ・ベイ』について→こちら
 『東京奇譚集3 どこであれそれが見つかりそうな場所で』については→こちら 
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2005年05月03日
 

 ほら、またココロの問題だ、偶然にも、と、読み手であるところの僕は思う。ココロの問題とは、もしかしたらリアリティの問題なのかもしれない、とも。十一歳の少年が、生まれてはじめて一人で遠出をした夜、世界はすこし表情を変えた。「くさったような」「へんなにおいがする」と〈ぼく〉が言う。母親はその臭いに気づかない。やがて生まれる違和感は、国家機密の奥深くへと幽閉される。自己と他者あるいは意識と無意識をメタ的な視点から捉える、そういう振る舞いがある種のスタンダードになったこの時代からすれば、とりたてて驚くべき結末ではないけれども、それでもストーリーの作り方は巧く、見事にハマる。けれども、僕が気にかけるのは、どうして人間はこのような物語を必要としなければならないのか、ということで、それはやはり、リアリティというものを大きなイデオロギーが保証するような局面は終わってしまい、人々は各々サブ・カルチャーをイデオロギーの替わりに機能させなくてはならない、次の局面が到来しているからなのだろう。心とはなんだ? 愛とはなんだ? 悲しみとはなんだ? 喜びとはなんだ? 生きるとはなんだ? 死ぬとはなんだ? といった問いかけは、もはや文学にも哲学にもなりえず、ただサブ・カルチャーとして消費されてゆくのみなのである。や、作品自体はおもしろかったのです。この作家のものは『裸者と裸者』と、先日文庫化された『苦い娘』しか読んだときがないけれども、今度は有名な『ハルビン・カフェ』あたりを読んでみようかしら。

 『裸者と裸者(上) 孤児部隊の世界永久戦争』についての文章は→こちら
 『裸者と裸者(下) 邪悪な許しがたい異端の』についての文章は→こちら
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2005年05月02日
 

 犬だ。犬たちだ。犬が疾走する。北へ北へ、やがて南へ南へ。戦争の犬たちだ。日本、アメリカ、中国、ソ連、世界大戦。犬は死に、犬は生まれる。壮大なるファミリー・ツリーが奇妙な交錯を繰り返す。混血と純血。そして最初の犬はベルカと呼ばれる。ベルカは最後の犬でもある。寒いのが大嫌いなストレルカはベルカとともにロシアの冬が終わるのを夢想する。マフィアの銃弾が市街地を飛び交う。二匹は、いや、二人は、あるいは、ただの犬たちは世界の崩壊を夢想する。やっぱ、この人の力量は圧倒的だわ。なるほど、これは、古川日出男がその想像力と情報量をフルに動かし、20世紀というセンチュリーを、犬のサイドから描き直した力作エンターテイメントである。エンターテイメントではあるが、そのなかにはおそらく、いくつかの真実に近しいものが託されている。そのうちのひとつは、生キロ、というメッセージであったりするのだろう。生きるとはどういうことか。走ることである。走り続けることである。システマティックな制度に抗するシステム、それは身体のなかにこそ存在している、を駆動させることである。そのように考えれば、たぶん同作者の長編『サウンドトラック』と近しいヴィジョンが内包されている。きっと、小説というジャンルでロックがやりたいんだろう、そういう筆力だ。ただ書き下ろしということもあり、全体の流れが異様にスムーズなので、そこらへんに物足りなさを覚える向きもあるかもしれない。主体はつねに中空を彷徨っているのに、なぜか読み手の感情移入を誘う文体と構成は、あいかわらず、よく練られている(と思う)。どどどどど、という勢いでもって熱中したよ。
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2005年04月27日
 

 好みをいえば、『きょうのできごと』はいまいちぴんとこなくて、その他の作品はぼちぼちで、『青空感傷ツアー』がベストなのだけれど、これもけっこう良かった。たぶん、終わりのない生活のなかで変化を否定しない、そういう姿形が好きなんだ、と思う。

 五月、仕事にもすこしずつ慣れてきた頃、だけど私生活では見事に失恋してしまう。八月、新しい出会いに、すこしだけ恋の予感がした。基本的な流れは、社会人になったばかりの「わたし」の五月から翌年二月までを、一月につき一章区切りで展開しつつ、勤務中とプライヴェートの両の側面に起る様々ではあるが、しかし、ありふれた出来事を、ほぼ同時進行で綴ってゆく、といったものである。比重は仕事にだけじゃなく私生活にだけじゃなく、おそらくそのような意味で、フルタイムライフという題名がつけられている。

 この作家の登場人物は、もしも明言化するのであれば、無気力で無関心ということになるけれども、それが、けっしてネガティヴなものとして作品に反映されず、読み手の感情移入を誘い込む、まるで自然体で発せられる口語のような親しみ易さを持っているのは、もちろんセリフの多くが関西弁だというのもあるのかもしれないが、それだけじゃない、ときどきは泣いたり、ときどきは怒ったり、ときどきは笑ったり、そうしたシンプルな感情のリアクションを、虚無感や閉塞感に対するささやかな抵抗として、うまい具合に働かせているからなのだ。

 この小説で、それがよく現れているのは、もちろんそこが全体のクライマックスだという部分もあるけれど、やはり一月の章だろう。ゆるやかに訪れた変化が、いろんなものの角度を動かす。だけどそれっていうのはけっきょく、ぐるぐる回るミラーボールみたいなもので、いつだってちいさな光が、あちこちを跳ねている
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2005年04月25日
 ある朝、駅で見ず知らずの少女に声をかけられた青年は、あまりにも唐突な出来事に、さいしょ警戒していたけれども、毎日顔を合わせるうちに、なにか親密なものを覚えはじめる。そうこうしながら二人は付き合い出すようになるが、しかし、あるとき少女の家を訪れた青年はそこで、なぜ自分が声をかけられたのか、その理由を知ってしまう。彼女の亡くなった兄に面影が似ていたのだ。それを契機に二人の間に確執が生まれるけれども、やがて仲直り、彼女の両親といっしょに「ティアーズ・イン・ヘヴン」を演奏するのでした。めでたしめでたし。

 以上が表題作の大まかなプロットである。なんだ。これ。作者は正気なのか? 正気だとしたら、ちょっと、読み手をバカにしてらあ。とくに何の伏線もないのに、ラストで唐突に演奏される「ティアーズ・イン・ヘヴン」は、その選曲のセンスもあわせて、さすがに無神経すぎるだろう。呆れた。他にも2編収められているが、それらもこれと同じぐらい、なんていうか、もうちょいこう。『図書館の神様』がフィットしたので、追っかけていた作家ではあったけれども、いや、まいった、この人の目指すものと僕の読みたいものは根本的に違うのだろうな。ごめん。僕が悪い。完全に見込み違いだった。

 『幸福な食卓』についての文章→こちら
 『天国はまだ遠く』についての文章→こちら
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2005年04月23日
 

 上野千鶴子は、江藤淳『成熟と喪失』の解説で、『成熟と喪失』を通じて小島信夫『抱擁家族』に触れた、と書いている。坪内祐三もまた本書のなかで〈『成熟と喪失』を読んで、『抱擁家族』に興味を持ち、その作品に目を通した〉といっている。そうした事実はもしかしたら、『成熟と喪失』という批評が、批評対象であるはずの『抱擁家族』と並列されるような、同じ重量、あるいはそれ以上の重きがある作品として仕上がっていることを、言い表している。

 さて。どうやら、ここで坪内がやろうとしているのは、江藤が『成熟と喪失』で『抱擁家族』により試みたのと同じように、小島信夫『別れる理由』を用い、この国のある時代、空気を目に見える形で切り出すことである。が、しかし同時に、江藤がフォニーとして批判したものを抽出し、それを肯定の向きから捉え直すことでもあるようだ。じっさいに江藤が『自由と禁忌』のなかで行った、『別れる理由』の読みと、真っ向から対決する箇所がいくつかある。おもしろいのは、そのために坪内は〈現実に私が生きている時間〉と〈『別れる理由』の作品世界を流れる時間〉それから〈『別れる理由』という作品が『群像』に発表されていったその時間〉を同時進行で検証するという、ややアクロバティックな読解を行っていることである。また、そうすることで本来『別れる理由』という小説が含み込んでいる奥深さ、それはつまり、小説というジャンルが持っている優位性と、坪内の文学へ対する愛着とを、これでもかという具合に、こちら読み手に味わわせようとする、そういう体をとっている。

 ところで僕は、これを『群像』掲載時に(やや斜めにだが)リアルタイムで読んでいた。だから坪内的にいえば、僕が生きていた時間と、「『別れる理由』が気になって」のなかで流れる時間イコール坪内がある時代を検証する時間と、この「『別れる理由』が気になって」が『群像』に掲載されていった時間を、この本によって再確認したことになる。もうちょいいえば、坪内が『en-taxi』に発表していた『アメリカ』と、この「『別れる理由』が気になって」あるいは坪内が近い時期に書いたいくつかの文章との間に存在している、ある共鳴を、あらためて見て取ることができた、ということだ。そしてそれは、江藤がいったフォニーあるいはアメリカあるいはサブ・カルチャーを、べつのベクトルからべつの視線で見るべつの世代の人間が、変容し続けるこの国で、いかにして生きてきたかという事実証明に近しいものである。

 最後に、どうでもいいかもしれないことをひとつ。高橋源一郎が『文学なんかこわくない』に収められたある文章のなかで、小島信夫の『漱石を読む――日本文学の未来』について、次のようにいっている。

 小島信夫という人は、『明暗』を最初からどんどん引用した。それから、それについて、どんどん論じた。しかし、いくら論じても止まらなくなっちゃった。そりゃそうだ。いい小説については、ああもいいたいこうもいいたい。しかし、それだけならば、ただの評論家と変わらない。小島信夫という人はあまいにも真剣なので、自分の意見もいい、それからそれが絶対に正しいとはいいきれぬので、その反対意見を捜し、それからまた自分の意見と反対意見の中間を捜し、そういう意見がなかった場合には自力で、可能な限り意見やら感想やらを考え出してみさえした。それを、『明暗』という小説のあらゆるところでやってみた。 (中略) その結果として、それは元の『明暗』より遙かに長い評論に、まるで弁当箱みたいにでっかい本になっちゃったのである。

 高橋源一郎「『恋愛太平記』はバカでも読めるか?」(『文学なんかこわくない』)


 おそらく坪内が、この連載で達成したかったのは、じつはそれと同じようなことなのでなかったか、と、僕は思う。正直、ひとつの長めの評論として見た場合、読み苦しい部分は多々あるけれども、しかし、それでもぜんぜん短いのだ。言いたいことが言い切れていないような読後を覚える。結びの言葉などは、まるで打ち切られたマンガのような尻切れ感を残している。とはいえ、まあ、ここで言い残されたいくつものことは、べつの仕事へとフィードバックされていくのだろう。それはたぶん、初期の村上春樹を本格的に論じたものになるはずだ(願望)。
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2005年04月22日
 『メフィスト』05年5月号掲載。『タマシイの住むコドモ』が『ニンギョウのタマシイ』の続きであるように、どうやらこれ、『コドモは悪くないククロサ』は『タマシイの住むコドモ』の続きであるようだ。しかし、このシリーズ、雰囲気は悪くないのだけれども、実験をしているのか、それとも素なのかは知らないが、いずれにせよマスターベーションぎりぎりの中身というか、そういう意味では、西尾維新の本質に寄ったものなのかもしれない。たとえば、それは「まさか」を「真逆」と、「なるほど」を「成程」と、「レベル」を「レヴェル」と、「そこ」を「其処」と、「ここ」を「此処」と記述するようなセンスにも現れている。サブ・カルチャーを経由した、フェイクとしての文学性。いや、けっしてくさしてるわけではない。そのような現れ方をしなければならないリアリティというのが、この時代にはある、と僕は思っている。今朝〈私〉が食した私の脳髄のスープ、あれが〈私〉の喪失感そのものだったのか。十一番目の妹が、5年振りに眠りから目覚めた〈私〉に、来客があることを告げる。十一番目の妹が言うには、来客者は玄関口で待っているということだったが、十四番目の妹によれば、来客者は勝手口にいるらしい。はたして扉の外で〈私〉を待っていたのは、あの熊の少女だった。基本的には、青臭いレトリックの羅列によってストーリーは進行してゆく。〈でも失ったことを自覚している時点で、それは本来、失ってすらいないのですよ〉と熊の少女が言えば、〈私〉はなるほど〈喪失感を失うという感覚、その重言は、言葉が重なっていなかったところで矛盾なのだ〉と思う、といった具合に。そうして、すべて言葉は空疎である。しかし、その空疎な言葉の集積として、なにか、達成されなければならないものがある、という意思が、ここには宿っている感じがした。ただし、それは作品の出来を保証するものではないけど。

 『ニンギョウのタマシイ』についての文章→こちら
 『タマシイの住むコドモ』についての文章→こちら
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2005年04月21日
 

 角田光代というのはつねに「ここではないどこか」を探し続ける運動である。そして、それはとても90年代的なものであると思う。じっさいに00年代以降の作家(表現と言い換えてもいい)になると、「ここではないどこか」という存在自体をナシにした地盤の上に立っているような感じがする。ゆえに、ものすごいアパシーが吹き荒れていたりもするのだ。角田の小説に登場する人物たちの多くが、旅に出たり、旅に出たがったりするのは、そういったことと関係している。「ここではないどこか」というのは、もちろん、「自分探し」とほぼ同義である。しかし角田のエラいのは、最終的には「ここではないどこか」になどは行けない、そういうところまで書いてしまうところだろう。すべてが日常と繋がっている。けれども夢想することはやめない。そして間断のない運動が続けられてゆく。これは小説ではなくて、海外旅行をテーマにしたエッセイをまとめたものであるけれども、基本線はいっしょである。過剰なほどに異国を楽しんでいる風ではないのに、ふいに日本的なものを見つけてしまったときのゲンナリ感こそが、この作家の本質だ。旅に誘われるというよりは、彼女の内側で起った感情のウェーヴを追体験するようにして、読んだ。個人的に好きなエピソードは「旅と年齢」、それか「いのちの光」かな。

 『人生ベストテン』についての文章→こちら
 『対岸の彼女』についての文章→こちら
 「神さまのタクシー」についての文章→こちら
 『庭の桜、隣の犬』についての文章→こちら
 『ピンク・バス』についての文章→こちら
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2005年04月19日
 

 だいぶ前、正確には2年前(03年)の、『群像』5月号掲載の中編。なんで今さらという感じだが、なぜかずっと引っかかっていた作品で、単行本化されていない上に、検索をしてみると作者はどうやらこのあと文学誌の類には登場していないようであり、忘れないうちに読み返してみることにしたのだった。

 ちなみに巻末の執筆者一覧によれば、正木としかは、65年生まれである。つまり、よしもとばななあたりと同世代にあたる。そういう世代的なものだと思うが、作中にロック・ミュージシャンの名前が出てくるのだけれども、それらはイギー・ポップであったり、ラモーンズであったり、セックス・ピストルズであったりする。一回り下の世代になると、グランジやヒップホップ、渋谷系以降の邦楽などを通過しているため、たとえばパンク系の固有名が出てきても多少意味合いが変わってくるのだが、ここでは素直に作品内容に反映されている感じがする。作者がどれだけ意識しているのかわからないけれども、日常生活のなかに現れるのはイギー・ポップやラモーンズで、墓場で聴こえるのはピストルズであったり、と、それらはつまり不変と刹那の対照になるわけだ。まあ、そういった枝葉的な部分は、さて措いておく。

 ライターをやっている「わたし」のもとに、ある日、一通の手紙が届く。どうやらラブレターのようだった。けれども、〈僕は死にました。〉ではじまるその手紙の差出人住所は霊園で、「わたし」は、その手紙が死者から送られてきたものだと思い至る。いたずらなんかじゃない。その手紙を書いた石田和哉という人物のことを考えると、「わたし」はとてもとても幸せな気分になれた。あるとき思い立った「わたし」は、差出人住所にあった霊園に行ってみることにした。そこにはちゃんと石田和哉の墓がある。墓参りを終え、帰る途中で、なぜか無性に、しょうゆラーメンを食べたくなった。それまでの食生活は、とても簡素で、まるで拘りなどなかったのだが、そのとき口にしたしょうゆラーメンは生まれてはじめて食べたおいしいもののように、心のなかを満たしてゆく。やがて彼女は、それが石田和哉からの合図であったことに気づく。それ以来、朝起きると部屋のどこかに石田和哉の気配が漂うようになり、「わたし」は自然と彼に好かれたいと振る舞うようになった。二度目の墓参りのとき、石田和哉の幼なじみだという空男という青年に出会う。彼は、彼の抱えている事情によって、生前の石田和哉に囚われていた。ふと石田和哉が毎晩会いに来ることを口にしてしまった「わたし」の部屋を、空男は頻繁に訪れるようになり、そして、いつの間にか住み着くようになってしまった。そうしてはじまった奇妙な共同生活を中心にしてストーリーは進んでゆく。

 「わたし」と空男の間に、明確な恋愛感情は芽生えないし、また性的な関係も結ばれない、なので一種のルームシェアリングものとして読むことが可能であるかもしれない。しかし、一方で、生者と死者との距離の問題があり、それらが絡み合うようにして、この小説は成り立っている。正直なところ、話の流れとしては、作者と同世代の女性マンガ家(だからまあ岡崎京子と同じコーナーに並ぶような人たち。ちなみに僕は、正木が女性であるかどうかは知らない)がすでに描いてしまっているようなところがあり、特筆すべき点はないけれども、中盤、それまで素敵なものとして扱われていた石田和哉の存在が、ぐにゃりと質感を変え、「わたし」の部屋の雰囲気をなにか薄暗いものへ変化させるあたりに、引きつけられるような磁場が発生している。

 基本的に「わたし」はアパシーの人である。生きているものに対する執着のなさが、翻って石田和哉という死者への執着となっている。「わたし」自身からとりたてて生きたいとか死にたいとかの主張が出てこないのは、彼女にとっては、生きていることも死んでいることも、ほぼ等価であるからだろう。そこに介入してくるのが空男である。彼は「わたし」とは逆で、生と死の境界をものすごく重要なポイントとして考えている。空男の石田和哉に対する執着は、ホモセクシャル的なものでもなければ、友情というレベルのものではない。あくまでも生者の側に立ち、そこから死者であるところの石田和哉を見るからこそ、成り立つものである。

 そうした部分も含めて、根本的にスタンスの違う「わたし」と空男は相容れることがない。だから恋愛という関係性に発展することもないわけだが、そうした「他者と他者」というよりは、「異者と異者」とでもいうべき構図は、たとえば綿矢りさの『蹴りたい背中』における「ハツ」と「にな川」に近しいものがあり、作者間の年齢差を考えれば、けっして世代的な素因ではなくて、いってみれば時代性と関わり合う問題だといえる。エモーション・シックネスやディスコミュニケーションから回復するのではなくて、それを軸にして改めて立ち上がる、新式のエモーションやコミュニケーションといったところか。

 ストーリーの着地は、わりと鮮やかである。けっきょく、すべてが元あったところに還っていくのだが、〈前に戻っただけだよ、とわたしは思う。死んだひとから手紙が来て、そのひとはわたしのことが好きで、わたしも彼のことが好きで、どこかでつながっているような気がして、なんだかとてもつもなく幸せな感じがして。ね、前に戻っただけなんだよ。自分に言い聞かせても、やっぱり違う〉と述懐するように、それはけっして振り出しに戻ることを意味しないし、登場人物や読み手を納得させるものでもない。が、しかし最後の最後、「わたし」と空男と石田和哉は再び一瞬の邂逅を果たす。そこで起る不思議な出来事が、いま「わたし」が居続ける場所を再定義する、そののちで見る窓の外の景色は、いつもと同じ様子ではあるけれども、しかし確実に、新しい空気を含んでいるのであった。
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2005年04月16日
 

 正直なところ『死霊』はまだ読み終えていない。未完の作なのだから読み終えることは不可能なわけだけれども、当然のように、そういうことではなくて、この間文庫化された際に、1巻の最後までは行ったのだが、どうもこの手が続きに伸びていかないという、つまり僕の側の問題である。ある程度の難解さはあるが、詰まらなくはない。むしろ〈最近の記録には嘗て存在しなかったといわれるほどの激しい、不気味な景気がつづき、そのため、自然的にも社会的にも不吉な事件が相次いで起った或る夏も終わりの或る曇った、蒸暑い日の午前、××風癲病院の古風な正門を、一人の痩せぎすな長身の青年が通り過ぎた〉という出だし文章から、何かゾクゾクしてくるものがあり、最後の一行まで、それなりに愉しんだのだった。1巻のラスト、つまり三章の終わり、主人公であるところの三輪与志の眼前には厚ぼったい霧がある。彼はそれに包まれると、やがて薄暗い輪郭となり、消える。そして白々とした厚い霧だけが残る。どこに? こちら読み手の眼前に、である。そこで僕は立ち止まり、しばらく立ち止まったまま、自分の体に白い霧粒がまとわりつくのを見ていた。見ているうちに疲れ果ててしまい、だから、それから先には目を通していないのだった。

 そのような状態で、これを読んだ。もちろん埴谷雄高は『死霊』だけの人ではないのだろうけれども、いま現在、現代を生きている僕からすれば、どうしても『死霊』の印象が強い、強いというか、そうしたイメージを多くの作家や批評家たちの文章によって植え付けられたといったほうが正確かもしれない。あとは、吉本隆明との「コム・デ・ギャルソン」論争だろうか、じつは僕はこっちのほうから埴谷のことを知ったのだが。それはともかく。ここでもまた、埴谷の精神がいかに『死霊』という小説と結びついているか、という事実を咀嚼することに多くを費やしているようだ。そして結果からいえば、僕は再び『死霊』をさいしょから読んでみようという気にさせられたのだった。

 興味深いのは、やはり、埴谷という個人(思想家)が抱えていたモチーフである。埴谷と同時代を生きた鶴見俊輔は、本書冒頭に収められた、いわゆるバイオグラフィ的な意味合いを持つ、「虚無主義の形成――埴谷雄高」(59年)のなかで、次のように書いている。〈この国の文化の先人にも同時代人にもむすぶつくことなしに、十数年間も一つの点として自分をおいておくということは、文学者としても市民としても、稀有の難事業である。これは、埴谷の精神分裂的気質をよそにしては考えられない。健康であり正常であるものがことごとく翼賛体制の状況に衛生的に適応して行った時代に、適応せずにおしとおしたのである〉。このような評価が、鶴見の埴谷に対する共感と違和感からやってきることは、「埴谷雄高の政治観」(71年)や「晩年の埴谷雄高――観念の培養地」(02年)など他の論考から伺い知れるし、巻末の解説「六文銭のゆくえ――埴谷雄高と鶴見俊輔」で加藤典洋が書いているとおりだろう。では、もしも〈この国の文化の先人にも同時代人にもむすぶつくこと〉がなかったとしても、その代わりに、べつの何かへのコミットメントが埴谷にはあったのだとしたら、それにあたるのはいったい何だろうか。

 つまり、いままでなかったものをつくれるものこそが一冊の本であって、これにいちばん似ているのは夢ですね。夢はいま一応科学的に分析されているけれども、フロイト式の、夢に出てくるものは無意識的にいつかどこかで見たものの再現だ、という説にぼくは反対なんです。そうではなくて、実際に未知のものが出てくる。それが夢で、小説はそれをこそ無限の果てまで追って書かなければならない。文字どおり、創造、です。
 わが国の小説は自分が経験したことを書いているけれども、ぼくから言えばそれは歴史の隣の小説の始まりにすぎない。それは歴史認識の内面化ですが、それをうまく語るために「そこまでは事実ですけれども、ここだけはフィクションです」と作家は言う。何をくだらないことを言うんだと言いたい(笑)。未知に読者は接するばかりでなく、作者もまた常に未知に向かっていなければならないんです。
 われわれの文学というのはだれが読んでくれるのか。いまの人ではないんです。十九世紀のドストエフスキーは二十世紀の私たちに読まれる。これを人類史的に拡大してみると、こうならざるを得ない。
 地球が死滅した後、太陽系が死滅した後、宇宙人が来たときに、かつて人間というものがいて、何かやっていたということを知る。ビルディングがあった。人間は何か書いていた。哲学もやっていた。哲学は宇宙とか人間についてもよく論じていて、それを見たら、人間もだいたいわかった。けれども、小説をみたら、わからなくなった。こんなものが宇宙にあるのかしらと驚く。
 そういうものが書かれていないとだめでしょう。宇宙人が初めて会ったというようなもの。それがぼくの小説論。


 鶴見そして河合隼雄との座談会『未完の大作『死霊』は宇宙人へのメッセージ』(90年)のなかで、埴谷はこのように言っている。これはある意味妄想のように見える。本来であるなら、個人の内側に属する妄想あるいは観念が、ひろく無限に拡がり、歴史を無視し、時代を超え、宇宙へと届く、そこまで到達してようやく人間の真実ないし好悪または可能性が見えてくる。埴谷が抱えていたモチーフ、そして『死霊』により目指された方向性を、ひどくシンプルに捉えれば、そのように言えるのではないだろうか。もちろん僕は『死霊』を読み終えていないので、断言できないけれども、おそらく鶴見が「『死霊』再読」(98年)で書いているのは、そういうことである。もうひとつ「『死霊』再読」にはおもしろい指摘がある。戦後、埴谷は〈多くの文学者についてすいせん文をよせた〉という。対談「『死霊』のあたらしさ」(03年)で、高橋源一郎が鶴見に同様のことを言っている。〈埴谷さんはいろんなものを書いているけれども、帯と推薦文が異常に多いでしょう〉。ここらへんからはじまって、要するに、国に奉仕するタイプの近代とはべつの近代を埴谷は作ろうとしていた、という話はちょっと引っかかった。ほんとうの意味で、オルタナティヴな人であったのだろうか、と思う。

 ところで、たしか西尾維新の小説『きみとぼくの壊れた世界』には埴谷の名前が登場する箇所があったような気がする、もしかしたら講談社から文庫版をもらったのかもしれないが、西尾は『死霊』を最後まで読んだのだろうか。
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2005年04月12日
 

 今月の『群像』の「新鋭14人競作短編」というのを読んでると、まあ半分ぐらいは、90年代に「J文学」として一山いくらで消費されていたものと、どこがどう違うんだろう、といったような内容でしかなくて、あの頃は『文藝』が旗頭であったから、『文藝』を叩いてりゃいい、っていう風潮がシーンにはあったと思うのだが、その役回りを今しているのは『群像』で、なるほど、サブカルくさいビジュアルに力を入れたり、他ジャンル(音楽とか映画とか)の人たちに小説を書かせたりするところなどは、まさに『文藝』的方法論をパクっているわけだが、それをやっている当人たちが無自覚であるらしい感じが誌面に現れてしまっているのは、ちょっと頂けない。というか、『en-taxi』新しい号の匿名コラムで、スバルという人がものすごい勢いで揶揄しているが、うんうん、と頷けてしまうほどに今の『群像』の凋落ぶりはすさまじく、逆に、おもしろトピックとして感じられてしまう。

 さて。第46回「群像新人文学賞」を受賞した表題作を含む、村田沙耶香初の単行本であるこれを読んで、まず思い出してしまうのも、「J文学」という懐かしワードで、90年代はまだ死んでませんよ、と、嘆きの声か、はたまた歓喜の声か、とにかく奇声を発したくなってしまう僕なのであった。とはいえ、くさしたいわけではなくて、むしろ興味深い内容だと思い、一息に読んだ。

 収められているのは三編である。「授乳」は、母子間(家庭内)に存在する捻れを起因に、アパシーを発症した少女が、家庭教師である根暗な男性を自らの支配下に置く、という話。で、つづく「コイビト」は、「授乳」で見かけたヌイグルミにまつわる挿話を抽出している。人間には関心のない分だけ、ヌイグルミに感情移入をする女性が、同類であるようなべつの少女に出会うという話である。すべての人間関係が架空であるような、そういった日々を生きる女性を描いた最後の「御伽の部屋」までいくと、ぜんぶの作品に、いくつかの共通したモチーフが横たわっていることが、わかる。それは、性(女性性)への嫌悪と、それを含めて成り立つ関係性の否定、結果として他者は妄想のなかにしかいないというオブセッションである。そのようなことを軸とした不自由さを、村田沙耶香はつかんでいるのだと思う。しかし、それらはけっして新しい問題ではない。その新しくはない問題を、この作家は、新しくないものだという風に半分ほどは理解している気がする。だが、残りの半分程度には、新しいもののように扱ってしまっている。
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2005年04月09日
 『新潮』5月号掲載。この小説には、『スプートニクの恋人』を、すこし継承したようなところがある。あるいは、ここでの語り手は、『スプートニクの恋人』の語り手の、その後の姿であるという夢想もできなくない。「こちら側」と「あちら側」という構図があって、語り手はつねに「こちら側」に属している、「あちら側」を知れない、といったあたりが似ているのだ。ある日、探偵のような役割をしている「私」のもとへ、ひとつ依頼が舞い込んでくる。それを持ってきたのは、とがったハイヒールを履いた女性だった。彼女は義父の死を語りはじめる。その言葉をメモしている「私」は、そこに含まれている興味深い事象に、気づくのだった。読めばわかるのだが、「私」の関心は、「あちら側」へと通じる、何かドアのようなものの存在にある。だが読んでもわからないのは、そのモチベーションがどこからやって来ているのか、という点だ。だから、もしも『スプートニクの恋人』で、ほんとうは「すみれ」が「こちら側」に帰還しなかったと仮定するのであれば、あそこでの語り手は、何年かののちで、この小説のような行動を起こしているかもしれない、と考えることを可能とさせる。もちろん、それはちょっとありえないとしても、だ。しかし「あちら側」とは、いったい何なのだろうか。それはたぶん、けっして記述できない空間ないし時間ないし出来事に、違いない。「私」は、自分の手にフィットした鉛筆でもって、丁寧に情報を書き留める。けれど、そこからは、こぼれ落ちているものがある。それは記述できなかったがゆえに、具体的な像を結ぶことはない。確定しえない。その不確定な何か、何かとしか言い当てられないものを探し求めて、「私」はまた、「どこであれ、それが見つかりそうな場所」へと、赴いてゆくのだろう。

 『東京奇譚集1 偶然の旅人』についての文章→こちら
 『東京奇譚集2 ハナレイ・ベイ』についての文章は→こちら
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2005年04月08日
 『新潮』5月号掲載。ウィリアム・イーディーになりすまそうとしている「俺」であるところの探偵ディスコ・ウェンズデイは、ある事件を通じて知り合った6歳の少女梢と、いっしょに調布のマンションで暮らす。梢が、タイムスリップしてきた十七歳の梢になってしまったある日を境に、さまざまな混乱が、ときどきは踊場水太郎であるところの「俺」の身の上に降りかかる。梢のなかの島田桔梗が語る残酷な真実に駆り立てられて、「俺」はノーマ・ブラウンの精神的コスプレを楽しむ室井勺子とともに、パンダラヴァーの謎を追うのだった。『暗闇の中で子供』、『九十九十九』の流れを汲むような、メタ構造を軸に、コピーとオリジナルに関する問題、アイデンティティとはいったい何か、そしてそれはどこからやってくるのか、を推理しながら地獄を巡り巡る長編の、その第一部である。細かいことについては、いずれ「はてなダイアリー」のほうに書くつもりなので、とりあえず一点だけ。主人公が外国人に設定されているのは、おそらく、彼だけがこの作品世界においては他者だからである。本来他者であるはずの人物が、主体となるというのはどういうことか、それはつまり、ストレンジャーとして小説内部を生きるということでもある。そのような逆転が、諸々の疑問符を、引き寄せている。それは後半、彼以外の人物たちには周知であることが、彼には知られておらず、また、それが真実であるかどうかを、彼だけが知ることができないという、そういう場面から見て取れるのだった。

 冒頭部分、新潮社のページで立ち読みできます→こちら
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 『群像』5月号掲載の短編。森健に対する僕の評価は高い。もちろん、ぜんぶの作品が良いというわけではないが、そのなかにはちゃんと良い作品がある。これはどっちだろう、すこし微妙かな、と、途中まで思いながら読み進めた。まず、主語の働きかけが弱い、これは2作目であった『鳥のようにドライ』でも見受けられた傾向だが、森はどうも「おれ」以外の人物についてを語るのが上手くない。それでも物語は進む。大まかにまとめれば、「前田」というロクでなしっぽい男が車椅子の女性とセックス(性交)をする、そのときの感触によって、孤独を自覚する、という風な内容になる。他愛もない話だ。しかし、その他愛もなさが、なぜか重たい、だが、その重たさは、やはり同時に、吹けば飛ぶような軽いものでもある、という、奇妙な感覚を残す。ここらへんに森ならではの筆力が出ている。ラストで本当の語り手が現れるような、そういう突き放しがあって、それが感情移入の装置となり働く。最後の最後になって、小説のバランスをとっている。トータルでみれば、これはどっちかな、良いほうに入れてもいいかな、いやちょっと待てよ、と迷い続ける読後である。
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2005年04月07日
 

 宮台真司の発言には、わかるわかるという部分と、ええ? と思うものが混在していて、話半分(正確には半分も信じていないけれど)というスタンスなのだが、そのインタビューを集めたこれは、シンプルに、90年代を見通すひとつの材料としてなかなかだった。逆をいえば、それ以上ではないという風にもなるわけだけれど、もちろん、新しい発見もあった。特にひとつ挙げるとすれば、巻末に、その当時のことを振り返った新規のインタビューが掲載されているのだが、そこで『SIGHT』に初めて登場したときのこと、というか渋谷陽一についてすこし触れている箇所である。以前、ある本のなかに「宮台真司は“貧乏な渋谷陽一”」という指摘を見かけたが、宮台の渋谷に対する微妙な距離感というのも、おそらく両者が兼ね揃えている近しい要因が関係しているのだろう。個人的には、渋谷陽一は、現代サブ・カルチャーを語る上でのキーパーソンのひとりだと思っているにもかかわらず、彼個人について書かれたものはすくないので、ものすごく本題からは外れた読み方だけど、そういう部分に着目した。
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 サブ・カルチャーが本来の意味でサブ・カルチャーでありえた時代の幸福な記憶、といったところか。基本的には、坪内祐三の個人史を辿る体であるけれども、65年から83年、つまり、サブ・カルチャーが未だメイン・ストリームではなく、またサブ・カルチャーのなかに、メイン・ストリームと、オルタナティヴなものとが生まれる以前の段階についての、詳細な記録として捉えることもできる。編集業界に関するスキャンダリズムな面において興味深い箇所がいくつもある。が、しかし。いま現在もしも、サブ・カルチャーがほんとうに教養として機能するのだとしたならば、これなどは、そこいらへんの80年代論なんかよりもよっぽど、ある種の啓蒙書として読まれてしかるべきなのだけれども、まあ、体系なんてどうでもいいよ、というのが、現代的にサブ・カルチャーを受容する層の本音なわけで、要するに、誰も彼も無自覚なシステムの奴隷でしかないわけだから、やはり、時代へのカウンターとしてサブ・カルチャーが生きていた頃というのは、とてもとても幸福だったのではないか、と思う。
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2005年04月05日
   

 2011年、日本は経済状況の悪化により、アメリカを含む世界各国から無視される立場にあった。国民はヒステリックになり、やがて無気力に囚われた。ホームレスと暴力の増加が国中至るところで認められ、無能な政府を誰もが信用していない。4月のある日、海の向こう、北朝鮮からやってきた9人の反乱兵が、福岡ドームを占拠する。放たれるロケット弾。対策の遅延によって、大規模な北朝鮮軍の上陸が許されてしまう。福岡郊外、その光景をテレビで見る少年たちがいた。カリスマ的な詩人イシハラのもとで共同生活を営む彼らはみな、ディスコミュニケーションが原因で、社会からドロップ・アウトしていた。事実上、占領下に置かれた福岡は、国から見捨てられる。そのことが結果として、少年たちのマジョリティに対する憎しみを加速させる、マイノリティを排除しようとする兵士たちを明確な敵として認識するのだった。

 以上が、大まかなプロットである。なので、当然のように、ポリティカルな問題や経済的な知識がふんだんに盛り込まれているのだが、そういったことはどうでもよろしい。社会的なアクチュアルさがあるかどうか、といった点において、今後、批判的な書評が出回るとも思うが、まあ、それもそれでどうでもいい。また、荒唐無稽な物語が兼ね揃えているエンターテイメント性が、一線級のものだとしても、これより面白い小説は他にきっと見つけられるだろう。だから何? 基本的には、先駆だとか適者生存だとか、つまり、弱者は死ね、っていういつもの村上作品であり、いやいや、だとしたら、どっからどう読んでも、これ、いいじゃないですか。以下、その理由を(できれば)簡潔に述べたい。

 あまり論じられることはないが、村上龍のバイオグラフィにおいて『音楽の海岸』こそが、もっとも重要な作品であると、僕は思っている。そこで行われていることは、『コインロッカー・ベイビーズ』の登場人物でいえば、キクとハシそしてアネモネ、彼らが為しえていたパワー・バランスの決壊である。もちろん、キクとハシとアネモネは、『愛と幻想のファシズム』でのトウジとゼロ、フルーツに置き換えてもいい。要するに、自己の妄想と他者の他者性、それらの不均衡を表していたのが『音楽の海岸』なのである。おそらくはハシ(ゼロ)とアネモネ(フルーツ)の役割を代替するはずだった石岡とソフィという登場人物が、驚くほどあっけなく物語から退場する、そのとき、キク(トウジ)的な主人公であるケンジが見つけたのは、本当の自分などどこにもいない、と、そういう事実であったわけだが、それはちょうど『コインロッカー・ベイビーズ』のラストで、心臓の音イコール本当の自分を発見するのと、正反対の意味合いを持っている。なんと残念ながら、人には生きる意味がなかったのだ。そして、それは90年代以降、延々と自分探しを続ける、この国の人々の自意識を見事に反映したものであった。

 事実、それ以降の村上作品は、自己の妄想と他者の他者性の狂ったバランスによって、良くも悪くも、その中核が担われていたように思う。だが、しかし、この小説でそれは、うつくしいエピローグに結ばれるまでの過程へと昇華されている。つまり再編成され、物語化されたのである。『音楽の海岸』よりあとの作品はどれも、大きな枠組の一部分を切り出したような作りであり、ある意味では着地点がなかったといえたけれども、ここにはちゃんと着地点が用意されていることからも、そのことはわかる。

 北朝鮮軍に反旗を翻す少年たちは、登場の時点からして、アウトサイドに立っている。彼らのほとんどは幼少の頃に、猟奇的な行動に駆り立てられている。もしも彼らの脳髄を覗き、そこを満たす要素を解明することができたとしたら、暴走する自己の妄想と他者の他者性が無いこと、そうしたふたつの事実を突き止められるだろう。彼らは、死線のなかで、自意識をチューニングするための術を身につけてゆく。それは、誰かに伝授されたり、自分の意思だけで、習得できるものではなかった。妄想を妄想として認め、他者を他者として認める、そのときにはじめて、妄想と他者との境界線上に位置している何か、けっして妄想そのものではない、けっして他者には成りえない、そういった存在に気づく、それこそが自己なのである。少年たちはただ、そのことをありのままに受け入れる、そして、ある者は死に、ある者は生きる。生と死に善も悪もない。それはつまり、生きることにも死ぬことにも意味がない、ということでもある。それでも、生きたいならば息を吸えばいい、死にたいならば息を止めればいい。しかし、それではあまりにも寂しすぎるではないか。だからこそ、妄想があり、他者がいる。自分の生に意味をもたらすのが妄想なのであり、他者だけが死後の自分に意味を与えることができるのである。もうちょい言えば、だから自意識はつねに、両の存在に、ちょうどサンドイッチのような形で挟み込まれている格好になるのだ。

 ごめん。変な方向に話しがいった。ぜんぜんまとまってないが、長くなったので、ここらへんで切り上げるけれども、最後に一点指摘しておくと、少年たちから一目置かれているノブエとイシハラ、ふたりの大人たちをそれぞれ、キク(トウジ)とハシ(ゼロ)に見立てることも可能だ。『コインロッカー・ベイビーズ』が出版されてから25年、長い年月のなかでサブ・カルチャー的な自意識が陥った混乱を、いま我々はどのようにしてブレイク・スルーしなければならないのか、この小説がシミュレートしているのは、たぶん、そういうことである。
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2005年04月04日
 

 この連載はほんとうに好きで、これ目当てに『SIGHT』は買ってるってところはある。僕の読書傾向は、わりと純文学(?)寄りっぽく、エンターテイメントの方面はちょっと疎いので、ものすごく参考になる。そして参考にして購入して、えー、って時々は思ったりもする。ナイス・ブック・ガイドで、ここに収められている対談は、ぜんぶ雑誌掲載時に読んでたや。ただ読み返してみて気づいたところもあって、大森望が、小説には倫理を求めていないとか、リアリティについてみたいなことを言っていて、そこいらへんが、あーそうかそうか、と、この間の桜庭一樹を読んだとき感じた違和みたいなものに繋がった。あと、これも読み返してわかったんだけれども、全体のトーンとしては、なぜか渋谷陽一が司会をやってた頃のほうがおもしろいな、というのがあった。
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2005年04月02日
 

  『文學界』連載時にも、ちらちらと追ってはいたが、こうしてまとめて読むと、けっこうなヴォリュームである。しかも、取り上げている作家あるいは作品が、かつてはメジャーであったけれども、今やマイナーなものばかりなので、正直なところ、読みはじめる前はあまりモチベーションが高まらなかった。いやいや、だが、しかし、第二章での久米正雄の恋に関するエピソードのあまりの悲喜劇ぶりに感情移入し出すと、途端に、これがいつもの小谷野敦と同じく、モテない男はいかにしたら救われるか(救われないか)を取り扱っていることがわかる。

 ひとつおさらいをしておく。と、小谷野が一貫していっているのは、僕には、次のようなことに思える。世間一般にごく当たり前のように流布されている、人はなぜ恋愛をしなければならないのか、という問いの前提に立つ、「恋愛」というタームに虚偽があるのだとすれば、「しなければならないのか」という疑問は当然のように成り立たない、それ以前に人は「しなければならない」というバイアスに苦しめられることはないのではないか、ということである。

 誤解がないようにいえば、それは、恋や愛などと無縁でも生きていける、という言い切りとはちょっと違っている。いま現在、我々が「恋」や「愛」そして「恋愛」と呼ぶものに、はたして規則として機能しうるだけの内実が備わっているのかどうかの真相を、小谷野は解明しようとしているのだ。つまりモテない云々は二次的な要素であり、それよりも理不尽(不自然)な状況を甘んじて受け入れる、そういう愚鈍さへの批判のほうが強い。

 この本は基本的に、明治中期以降から平成初期までの小説家(文学作品)と風俗(大衆文化)の変遷を追いながら、恋愛が西洋から輸入されたものであるという説に意義を唱える、そういう流れになっている。もちろん、恋愛という事象と深く結びつきのある、結婚やセックス(性と性交)の問題に対して、日本人の意識がどのように移り変わってきたか、といった点にも目配せがきいている。たぶん、その件に関して、小谷野個人の現在の見解がもっともよく現れているのは、昭和40年代の瀬戸内晴美(瀬戸内寂聴)に触れながら書かれた、次の箇所だろう。

 明治以降、人々は恋愛結婚に憧れてきたが、たとえ恋愛結婚をしても、その情熱はいずれ冷めてゆく。だが、だから不義の関係こそが純粋なのだと考えるのも、強がりであって、女は強く、男は弱く、そうした関係に不安を感じる。結局のところ、この時期以降、ただこうした認識が広まることだけが恋愛思想史なのであって、後はせいぜい、愛情があれば結婚を予定していなくてもセックスをしてもいいのか、とか、愛情がなくても「一杯の水」で渇きを満たすようにセックスしてもいいのか、とかいった問題が残るだけなのである。 P276

 これは『片思いの発見』のなかに収められた「恋、倫理、文学」で〈果たして人間が絶対者のごときものを措定せずに生きていけるのか〉〈ひとは無意味な世界に耐えられずに絶対者を措定しようとするものなのである。それが、ひとによっては「恋」として、つまり恋の対象の絶対化として現れるのである。三島由紀夫のような人間にとっては、その対象は天皇であり、その心意は「恋闕」と呼ばれた〉として、恋愛が、宗教や政治的なイデオロギーと同様に、ある種の傾向でしかないこと(だからこそ重要でもありうること)を指摘したことの、さらなる延長線上にあるものである。そして、それは多少おおげさにいえば、現代を生きる我々の寄る辺なさ、生きる上での困難さをも射程に捉えているような感じがするのだ。

 話がずれたが、全編を通して、(恋愛のみならず大衆文学史的にも)とても実りの多い内容だと思う。終盤、90年代以降については、やや物足りないような気がしないでもないが、そこいらへんは、小谷野のべつの著書にあたれば十分に読めるので、不満とするのは贅沢というものだろう(個人的には『恋愛の超克』がお薦めである)。

 『俺も女を泣かせてみたい』についての文章→こちら
 『すばらしき愚民社会』についての文章→こちら
 『評論家入門 清貧でもいいから物書きになりたい人』についての文章→こちら
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2005年03月28日
 

 文庫版『猛スピードで母は』の解説で、井坂洋子が〈私は何も知らず、この長嶋有というのは女性だろうと思った〉といっている。その感覚はわからなくもない。女性の内面がよく書けているということではなくて、文体のやわらかさや、登場人物の持っている間が、なんとなく、それらしいのだ。ふつうに捉えるのであれば、短所であってもおかしくないような、ユルさやズルさやダラしなさが、長嶋有の場合、どこかチャーミングな印象となって現れている。男性視点のものはそうでもないのだが、女性や子供が主人公のものからは、とくにそう感じられる。ここには、表題作を含めた三編が収められている。シークレット・トラック的な「二人のデート」はともかく、「泣かない女はいない」と「センスなし」のふたつは、人間関係のうまくない状況に置かれた女性を扱っている。話の筋だけみれば、どちらも他愛ない、劇的なドラマがあるわけでもなく、とりたてて過剰なアレンジも施されていない、ふつうの日々の描写である。それなのに、なぜか、ふつふつと湧くエモーションがある。心変わりという、誰にでも起こりうるが、しかし仕組みのよくわからない曖昧な出来事を、厳密に定義するのではなくて、まるで無造作なパス・ボールみたいに放る、そういう気安さが、心のどっかに引っかかるのだと思う。
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2005年03月26日
 

 さいきんの永江朗はどうもね、と感じられるのだけれども、これはおもしろかった。というか、93年から04年に渡る仕事をまとめたものなのだから、それも当然か。もともとは『噂の真相』に連載されていた著名人へのインタビュー記事である。いま読むと、このなかのいくつかが『批評の事情』に発展していったことがわかるし、インタビューイのラインナップからして、90年代のサブ・カルチャー・クロニクルとしても役立つ。インタビュー記事とはいっても、「カギ括弧」の応酬といったものではなくて、基本的に、書き原稿形式である。文章の組み立て方に、ライター永江朗の手腕のほどが伺える。とくにロマンポルシェ。の回などに、それは顕著だろう。ふたりのキャラクターをうまくすくい上げ、かつサブ・カルチャー史への位置づけがちゃんと行われている。永江でなかったらこうはいかなかった、という感じだ。当時は勢いがあったが今はちょっと……な人とか、すでに亡くなってしまった人たちへのインタビューも収められているあたりに、ここ十年の移り変わりが見て取れる。そこらへんの人選も結果としてナイスだったじゃないかな、と思う。しかし惜しむらくは、いくつかの原稿がオミットされていることだ。そのことの事情は、「あとがき」ですこし触れられているが、掲載を同意しなかった顔ぶれのなかに、小林よしのり、岡田斗司夫、大塚英志、小谷野敦などといった名前を見つけると、さもありなん、というか、なんだかニヤニヤしてしまう僕は、文壇オタクである。
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2005年03月25日
 

 結びのあたりで〈本書では (中略) 私なりの診断(症歴分析)を示したつもりだ〉とあって、そのしばらくあとに〈いや、本当に処方箋を必要としているのは、じつは、医師(のつもりでいる人びと)のほうなのかもしれない……〉とあるので、思わず吹き出してしまった。おいおいおい、ここまで講釈をぶっといて、そんなオチはないだろう、という感じである。それというのは、もしかしたら著者なりのアイロニーなのであって、対して読み手は笑うのではなくて、嗤わなければならないのかもしれないけれど、ちょっとばかり高度すぎるのか、ふつうに大爆笑してしまった。申し訳ない。

 それはそれとして。北田暁大の文章は、わかりづらい、というか、読み難い、というのが、僕の印象であるが、これはまあ、そのなかでも読み易いほうなのではないだろうか。論旨を大雑把に切り出すのであれば、人々は基本的に形式あるいはシステムに放り込まれている、そして、その形式あるいはシステムを駆動させているものは何かといえば、じつは人々の欲望自体なのであり、そのような営みにおいては、60年代に起こった「反省」という出来事と、いま現在、つまり00年代における「アイロニー」とは、無縁ではない、じつは深く関連している、という風になるだろう。が、しかし、「あとがき」にあるように、ある種の80年代論として見てしまっても、べつだん不都合はない。

 全体の流れにおいて、第一章が60年代、第二章が70年代、第三章が80年代、そして第四章がポスト80年代(90年代というディケイドではけっしてない)ということからも、本書を占める80年代のウェイトの大きさは、伺える。で、まあ、80年代に育まれたものとは何かといえば、ここでは「純粋テレビ」と呼ばれている、テレビ(メディア)のなかにツッコミが存在するのではなくて、外側に位置する視聴者がツッコミを入れる、そのことによってテレビ(メディア)の内部に視聴者が取り込まれる、つまり、テレビ(メディア)の外部が消去される、ということである。そこには「世界と自己とのあいだに距離を置き続けるというポジショニング」であるところの「アイロニー」が横たわっている、そして「アイロニー」は、「世界と自己の関係の問い直し」である「反省」のサブ・カテゴリーなのだ、と北田はいう。

 なぜ「アイロニー」が「反省」のサブ・カテゴリーになるのか。それは、はじめ60年代の「反省」への抵抗として現れたからである。あくまでも「アイロニー」は、「反省」に関する二次的なものなのだ。そうした「アイロニー」は、やがて、つねに前ディケイドを乗り越えるための手段として機能しはじめることになる。70年代以降は、そのような構造の上に成り立っている。そうして数度繰り返された反復のなかで、もちろん「純粋テレビ」を経たことも含めて、「アイロニー」の質は変容し、手段ではなく、目的にまでなってしまったのがポスト80年代なのだ。では、「アイロニー」が目的化されると、どのようなことが起こるか。本来であるならば相反するようなふたつの素養、シニシズムとロマン主義の共存した、嗤いが起きるのだ。というのが、たぶん本書で言わんとしていることである。けれど、そこらへんがじつに入り組んでいてややこしい。

 それはどうしてか、個人的にちょっとだけ考えてみたんだけれど、やっぱり90年代と00年代をポスト80年代として一緒くたにしちゃったのがマズかったんじゃないかな。というのも、これを読む限りでは、絶対に80年代はそのまま、プレ・ポスト80年代にはならないわけで、だったらプレ・ポスト80年代として90年代は、00年代とは区別され、ちゃんと紹介されてしかるべきだった、と思うのだ。
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2005年03月24日
 ある田舎町で一人の少女が死ぬ、そこに至るまでの道筋が、少女の友人の共感と違和感によって語られる。と、まあ、大まかな流れを切り出すと、そういうことになるのではないか。『SIGHT』23号掲載の北上次郎と大森望の書評対談で取り上げられていて、気になったので、読んでみたのだが、うーん、いろいろなことを思う。そこでもそうだし、ネットまわりの感想を見てもそうなのだけれども、基本的に「救いのなさ」というのが評価のベースにはあるような感じがする。もうちょっといえば、その「救いのなさ」に読み手が感情移入することで、この作品が持つリアリティみたいなものは成立する、ということだ。が、しかし、それが良い傾向なのかどうか僕にはわからない。前述の対談のなかで、大森望は、次のように言っている。

 ライトノベルだからってメイドさんが出てきたり宇宙人が降ってきたりの明るく楽しいバカ話ばかりではなくて、文学的なテーマのもぼちぼち出はじめていて。特に中学生、高校生読者なら胸を打たれる。そういう可能性はすごく感じます。思春期ものとしてはあるレベルでリアリティがある小説ですよ。

 さて。文学的なテーマとは、いったい何だろう。読者の共感を担うこと、そして、リアリティを代替すること、それが文学的なテーマなのだろうか。たぶん大塚英志が『物語消滅論』とか、あと『小説トリッパー』2005年春号とかでいっていることというのは、そうじゃない、というようなことなのだと思う。この小説の共感あるいはリアリティは、ひとりの少女が自分の力の及ばない因果律によって死ぬ、という事実によって担われている。だからこそ少女の友人が、物語のラストで、世界との戦いを決意するくだりには、ブルーに陥った気分をすこしだけ浮上させる力強さがある。たしかにこの世界はクソで、クソに飲み込みたくなかったら、戦いは続けられなければならない。だが、それっていうのは、ここ数十年の間、延々と繰り返し提出されてきたサブ・カルチャー的なテーゼの、そのヴァリエーションなのではないだろうか。それはときに敗北の歴史のようにも見える。あるいは、その結果として、まるで大人のいないような今の時代が出来上がったのだとしたら?

 だから、もしも、と考える。いったん終わった物語は改変することができないとしても、もしも、この小説のなかで少女を死なせないためには、どのようなことが可能か。たとえば少女が自分を死に至らせる原因を逆に殺す、たとえば社会的なシステムが少女を(すくなくとも)その状況から引き離す努力をする、現実的には、そのあたりがぱっと思いつく。けれども、どちらをとってもクソであるところの世界が変わるわけではないし、少女の魂が救われるわけでもない。じゃあ、やっぱり少女は死ぬしかなかったのだろうか。だったら、それが正解で終わりである。だから、もしも、この時代に文学が抱えなければならない問題があるとしたら、そういったこととまったくべつのレベルで、少女の魂を救い、そして生かし続ける、そのための言葉を提出することなのだと思う。もちろん、サブ・カルチャーがそれをやってもいい。
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2005年03月21日
 

 基本的には、西尾維新は支持というスタンスなのだけれども、これはすこし微妙、というか、なんだか自己模倣っぽいよなあ、という印象を免れないのだった。これまでの西尾作品の反復に過ぎないのではないか、引き出しはぜんぶ開かれてしまったのだろうか、と。や、前巻はとてもおもしろく感じられたのだ。が、この巻については、やや淡泊な反応をせざるをえない。その原因は、おもに第六話目「出征!」(ここに収められているのは第四話から第六話までである、つまり、この巻の最終話)にある。そこでは、西尾の作品には珍しく、父親という存在が登場する。主人公である供犠創貴=「ぼく」と、その父親とのやりとりは、たしかに親子の対話としては、どこか殺伐としているが、しかし、よくよく読めばわかるように、父権はちゃんと発動しており、そのような制度との無関係さにおいて、これまでの創貴は、小学生でありながらも際だって自意識の強いキャラクターとして生きることが可能であったわけだが、そのパターンが、ここにきて倒壊してしまっている。また、ラストに近い場面で、トランプを用いた勝負が行われるのだけれども、その魅せる展開は、同じ作者による『ダブルダウン勘繰郎』のクライマックスを彷彿とさせる、がゆえに、どうしても比較せざるをえないのだが、「出征!」における父親に試されるという顛末は、『ダブルダウン勘繰郎』で達成された、何者にも従属しない完全な個を主張する、そういうダイナミズムに及んでいない。もちろん、抱えるテーマのようなものは別物であるのだろうから、その点だけをもって、あれこれ言うのはフェアじゃないかもしれないが、エンターテイメントとしての弱さが、この作品を、ありふれた物語の枠組へと着地させてしまっている。ただ、続き(次巻以降)があるのであれば、その話の進み具合によると、こうした不満は、もちろん解消される可能性もある。
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2005年03月20日
 

 著者である本田透は、この本を通じて、現実世界はセックス上位の「恋愛資本主義」という差別制度に毒されており、そこでは男女のピュアな関係性は死んでいる、真実の恋愛に近しいものはもはや二次元(妄想)にしか存在しない、そのことを自覚し、実践しているのがオタクなのであり、そういった意味において、オタクは卑下の対象として扱われるべきではない、むしろ先駆として認識されるべきだ、といっているように思える。そのための「モテない論」と「オタク論」が平行して進められる。ポイントは、そこで立てられるロジックがユーモアや笑い話で終わらず、なにか真に迫ったものとしての説得力を持つとすれば、それはルサンチマンを担保にすることで可能となっている、ということである。ニーチェ論を展開する余裕はないので、さーっと話を進めてゆくが、この本には奇妙な捻れがある。簡単にいえばそれは、「恋愛資本主義」というシステムないしヒエラルキーへの否定が、それよりも上位にあるメタ的なシステムやヒエラルキーによって保証されている、ということだ。本田は、相対するテーゼに対して「恋愛資本主義」という明確な名付けを行うが、しかし、自分が属するオタク文化に関しては、明確な名付けを行うことができないでいる。オタク本位主義であったり、萌え至上主義であったり、妄想至上主義であったり、という風に決定されない、揺らぐ。その理由は難しいところにはないだろう。おそらく、名付けることによってオタク文化さえも支えるメタ的なシステムやヒエラルキーが顕在化してしまう、そのことを回避しているのである。では、頭上に横たわるメタ的なシステムないしヒエラルキーとは何かといえば、それはもちろん、資本制そして恋愛に他ならない。なるほど。そこからはけっして自由になれない。ならば、芽生えたルサンチマンは、やがて二次元やデジタルの世界へも、持ち越されることになるのだろう。それはもしかしたら、残念な結果なのではないかな。
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2005年03月15日
 

 柱は大きくふたつで、題名にあるとおり「長谷川裕一」と「SFまんが」なわけであるけれども、前半の長谷川と稲葉振一郎の対談おいても、後半の「長谷川裕一」論(試論)においても、『機動戦士ガンダム』に登場するニュータイプの存在に関する箇所に熱が入っている。そして、その熱は、長谷川というよりも、稲葉の側のつよい拘りであるようだ。ニュータイプが持ちうる可能性への語り口は、同じ著者による『ナウシカ読解 ユートピアの臨界』でのナウシカに対するものに近しい。ニュータイプもナウシカも、言ってしまえば、ある種のトリックスターを指している。つまり、具体的には書かれていないが、宮崎駿におけるナウシカと富野由悠季におけるニュータイプはパラレルなのだ、というのが稲葉の念頭にはあるのではないだろうか。トリックスターとは何か。現世と異界を行き来するものである。その構図は、そのまま現実世界と虚構世界あるいはSFへと置き換えられる。稲葉は、ニュータイプの有り様として、『機動戦士ガンダム』のアムロ・レイの描かれ方は肯定するが、しかし『機動戦士Zガンダム』でのカミーユ・ビダンの描かれ方は否定する、その後の『逆襲のシャア』におけるアムロ・レイに対しても否定的である。どういうことかといえば、『ガンダム』でアムロはニュータイプであることによって戦場から生還する、未来へと繋がってゆく。逆に『Z』のカミーユや『逆襲のシャア』のアムロは、ニュータイプであることによって戦場の亡霊に捕われる、異界に取り込まれてしまうのだ。そのような両義性を持つ力をどのようにして扱うか。それはまた、現実世界が虚構世界に対してどのように作用するか、虚構世界が現実世界に対しどのように作用するか、ということでもある。本書の焦点はやがてそこに当てられてゆく。と、そこまできてようやく、なぜ稲葉が、長谷川裕一を「世界の複数性」を体現しているSFマンガ家として、ここでクローズ・アップしたのか、その意味が見えてくる。つまり稲葉にとって、長谷川の作品群は、〈人工物と虚構で埋め尽くされた〉〈一見不毛の荒野に見える〉オタクの楽園と、その外側とを連携させられるような、ポジティヴかつ創造力を含んだものなのだということである。
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2005年03月14日
 

  あ、失敗したなと思ったのは、これを「他者と死者」について書かれているとして読みはじめたことで、じつはそうじゃない、レヴィナスのモノの見方に関する本であったため、僕は、途中で意識を切り替えなければならなかったのである。問題の立て方は、こうだ。主体と他者は非対称である、主体はつねに他者からビハインドの状態に置かれている、それはどういうことか。ここで他者と呼ばれているのは、世間一般的な意味での他者というよりもむしろ、こちら読み手にとってのレヴィナスのことであり、レヴィナスにとっての他者のことに他ならない。つまり、だ。これを読むのであるならば、他者の問題と向き合う以前に、どうしてもレヴィナス固有の問題と向き合わなければならないのである。もちろん内田樹の平易な文章とわかり易いロジックは、それを、汎用性の高いものに変えてはいる。けれども中盤以降、他者ばかりではなく死者の問題に関わり出すと、同じ論調で話が進められているにもかかわらず、あくまでもレヴィナスの置かれた立場を考慮に入れなければ、それらは理解しがたい。要するに、その段階で意識を切り替えなければならないのである。さて。主体はつねに他者からビハインドの状態に置かれているとは、どういうことかといえば、自分にはルールのわからないゲームをはじめるのが他者であり、そのゲームに知らずの間に参加させられることで主体は成り立ち、そして、どういうルールでそれが行われているのかを知ろうとすることが欲望なのだ、ということである。もちろん、それは他者の欲望を欲望するというのと同じなのだが、時間的に考えれば、他者は主体よりも事前に存在しているという風になる。そういった意味で、主体は他者よりも遅れている、ビハインドの状態に置かれているというわけだ。なるほど。こうした物言いは、ものすごく汎用性が高い。
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2005年03月11日
 『新潮』4月号掲載。で、『文學界』4月号のインタビューにおいて村上春樹は〈今回は「東京奇譚集」という通しタイトルどおり、奇妙な話、ちょっと不思議な話ばっかりを集めて書きました〉といっているけれど、これもたしかに、そのとおりの内容だと思う。ハワイのハナレイ・ベイで、ひとりのサーファーが鮫に襲われて亡くなる、その亡くなったものであるところの息子と、彼の母親がどのようにして関係性を保つかというのが、大まかなモチーフである。ここで母親と息子の仲介者として現れる「自然」、それというのは「偶然の旅人」になぞらえていえば「偶然」に値する。話の冒頭で、ある登場人物が、戦争によって人が死ぬことと、自然(災害)によって人が死ぬことの違いを、述べる。戦争には人の意志が介在するが、自然(災害)には人の意志は介在しない。それは、ただそのようにして存在している。もちろんそのことに対して、人間が、何か意味づけすることは可能であるし、同様に意味づけしないことも可能である。そういった意味では、「自然」という存在を、形而上学的なこととして見なすこともできる。ならばそれは、神様などといったものをどのように捉えるか、というのと同じレベルのことなのかもしれない。話の終わりのほうで、母親は、不公平さをあるがままに受け入れようと思う。それはけっして、見えない超越者に身を委ねようとする宗教的な振る舞いではなくて、自分の人生を、意味や無意味さで判断するのとは異なったパースペクティヴを用いることで、認めようとする姿形なのである。
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2005年03月09日
 『群像』4月号掲載の中篇。ああ、そうか、今月の『群像』は若手作家が新作を披露する場なのか。どおりで……。それはそれとして。これは簡単にいうと、ルームシェアもの。かつては恋人同士で性的な関係もあった男女が、今は性的な関係もない、ある種の新しい共同体として、ひとつ屋根の下暮らす、というのが大まかな設定である。「僕」が、千代子(同居者)のノート・パソコンの中身を盗み見ると、そこには日記とも小説ともつかない文章があって、という流れが、「僕」の日常生活と交差するような仕組みになっているのだが、そういったのは今や、それほどトリッキーではないので、ポイントは、そこで何が語られているか、ということのなるわけだが、さて、なんだろう。極論すると、「ほんとうの自分なんてどこにもいない」という言い切りと、「僕っていったいなに」というような疑問しか、もうこの国には存在しない、ってなことなのかもしれない。いやいや、だからさあ、どちらに転んだとしても、結局は、自分探しでしかないのだから、そこに希望はないよ、という言葉が思わず口をついて出てしまう。それにしても。ほんとうに男の子のほうが女の子よりもウダウダしたことを書く時代なんだねえ、と、いくつかの小説を読んで思う僕なのだった。ぐったりする。
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 『群像』4月号掲載の短編。ああ、うん、わかるわかる、というか、ある種の共感はあるのだけれども、あまり感心はしない、というか、オーケーではない。文体なんかはかなり違うが、宮崎誉子や金原ひとみなんかと近しい、もしかしたら同系統っていっちゃってもいいような、意地の悪い女の子小説であるが、しかし、これはちょっとニヒリズムに寄り過ぎている。個人的には、こういう自意識の在り方というのは、いろんな意味で、いったんどこかで終わったほうがいい、と思うのだ。けれども無くならないというのは、ことによったら永遠に解消されないエモーション・シックネスなのかもしれない。ラストで「私」が〈世界が自分と無関係なのは祝福すべき事だ〉と思うあたりは、すばらしく好ましい、が。だったら山奥で一人きり暮らせ、と西尾維新のキャラクターあたりに言われたら、はい、おしまいである。それはちょっとつらい、ならば、どうすればいいのか。というのが、まあ、スタートラインであって欲しいところではある。
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2005年03月08日
 『新潮』4月号掲載の短編。最近ちょっと思ったのは、90年代(「J文学」期と言い換えていいけど)の作家、たとえば阿部和重にしろ星野智幸にしろ角田光代しろ、が描く人物にはどっかダルさのようなものがあった。けれども、00年以降に登場した作家が描く人物には、それがないような感じがする。この本谷有希子の、過去の作品でいえば「生垣の女」など、そのサイコさんぶりや突飛なシチュエーションなんかは、初期の角田光代とそう変わりはないのに、もっとずっとテキパキとしていて、その分だけ殺伐としている。それはたぶん、自意識の問題と関わっている。でもって、世代的なもんじゃなくて、時代的なもんなんじゃないかな、と思う。90年代が殺伐の時代と呼ばれたときもあったが、00年代のほうがきっと殺伐とした時代なのだ。だんだんエスカレートしてる。未来に希望はないよ、という心情は、そういったところから生まれるのかもしれない。さて。「被害者の国」である。ある中学生が同級生を殺害する、「少年A」と呼ばれるその少年の動機がいったい何だったのか、あるいは動機なんてなかったのか、数年後、元「少年A」と知り合いになった「俺」は、それを知ろうとして彼に接近するのだった。これなんかも、昔だったら篠原一が書いてそうだな、という気がしないでもない。しかし篠原の描く少年たちもけっこう殺伐としていたが、それっていうのはナイーヴさの裏返しみたいなものであったのに対して、ここでの「俺」の行動理念は、かなり深刻なアパシーによって支えられている。内面の拒否というか、個人的な感情で人を殺すのはダサい、というところまでいってしまっているのだ。もちろん作者は意図的にそれをやっていて、物語中には「理由なき殺人」というイメージを巡るアイロニーが出来上がっているのである。相変わらず意地が悪い。とはいっても、まあ、本谷の小説としては、わりと普通の内容かな。ただ、これまでの作品と比べると、ずいぶん読み易くもある。

 『新潮社』のページにて冒頭立ち読みできるようです→こちら
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2005年03月07日
 

 角田光代の十八番ともいえる、だらしない人々のたゆたう日々を綴った短編集である。6篇の作品が収められているが、ほぼすべての登場人物たちが、ある保留期間のなかに置かれている。それはモラトリアムの戯れというのとは違う。執行猶予の期限切れが差し迫る、そういう切迫感のようなものに囲まれている。そんなときに彼や彼女たちは、何を考えるのだろう。おそらくは、ただ他の誰かに自分の話を聞いて欲しい、と思うのだろう。それはもしかしたらみっともないことかもしれない。あとで後悔することになるのかもしれない。それでも胸の内に溜め込んだ鬱屈を、ひとりきりでやり過ごすのは、すこしばかり寂しい感じがするのだ。ここでは、ほとんど見ず知らずの人々が、限定空間のなかで、相手に対し、自分の言い分だけを口にする。それはいったい何を現しているのだろうか、と。おそらくは寂しさの一時預かりである。永続的な関係を目指したものではなくて、たとえば坂道の途中で、靴紐が解けていることに気づいたので、それを結び直そうとするけれど、荷物が邪魔でうまくいかない、そのとき、近くに人がいるのを見つけると、荷物をちょっとばかり預かってもらい、そうして靴紐を結び終えたら「ありがとう」や「さようなら」だけを言って(あるいは何も言わずに)、坂道を再びひとりで登りだす。そんな風にして歩き続ける旅人たちのささやかな一幕が、6個、披露されている。
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2005年03月05日
 

 直球だった。島本理生の最高傑作は、とてもまっすぐな恋愛小説だったのである。互いに想い合っているのに結ばれない、という古風な作りでありながらも、随所に生々しい感触があって、それが新鮮な驚きとなり、こちらの胸へと渡ってくる。いや、ほんとうに話の筋は、メロドラマ的というかスタンダードかつオーソドックスなのだ。が、ひどく訴えかけてくるエモーションがある。それにやられてしまう。高校時代、「私」は演劇部の顧問だった教師に恋をしていた、だけど、その恋は叶わず、卒業の日が過ぎ去ってゆく。そうして眠りについた「私」の恋心は、大学二年目の春、かつて通った高校に出向いたことを契機にして、再び静かに目覚めるのだった。周囲の人たちはわりとあれこれ動き、さまざまなエピソードが次々に現れるけれども、それらはまるで中心を指し示す矢印であり、「私」の想いはその矢印たちに後押しされるかのようにして、やがて「彼」へと向かう。ここにあるのはたぶん、それぞれの身勝手さだけで、相手の気持ちを推し量ろうとする、そのときに自分であったり他人であったりに、思わずつけてしまう傷なのだと思う。全編を覆っている感覚は、痛みである。そこには死の雰囲気が含まれている。けれども死なず、生きているがゆえに、痛みは芽生えるものなのであり、そのような痛みを否定しないことが、翻って、生きることのリアリティへと結びついている、ここに宿っているのだ。
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2005年02月28日
 

 川上弘美、小池真理子、篠田節子、乃南アサ、よしもとばななら5人の実力派女性作家(ものすごく紋切り型な表現だ)の短編を集めた作品集である。もともとはウィスキーの宣伝か何かの企画用だったらしく、どの小説も重要なアイテムとして、アルコールを組み込んでいて、また小品ながら、それぞれちゃんと作家のカラーが出ている。個人的な目当ては、よしもとばなな「アンティチョーク」であったので、それについてちょっと。どうやら「別れ」が全体のテーマとして(あるいは偶然の符合として?)あるみたいで、どの作家も「別れ」を扱っている。よしもとも、当然のように、それに倣っている。ところで、よしもとの小説で「別れ」が主題に置かれているものは、すくない。や、「別れ」という出来事自体は、これまでにも多く書かれているけれども、それはほとんどの場合、「再会」や「新しい出会い」によって回収される伏線でしかなかったりする。つまり、通り過ぎ去ってゆく。やがて過去になる。けれども「アンティチョーク」では、まるで人工衛星が地球を周回するように、恋人たちは「別れ」を中心にして、運動し、思考する。言い換えれば、「別れ」こそが現在地であるような、そういう成り立ちをしているということだ。が、しかし正直なところ、こういう物語は、よしもと向きではないようだった。「アンティチョーク」の恋人たちがいる現在は、過去や未来からの逆算によってのみ成り立っている。彼らがいる現在が、過去や未来になっていくのではない。そもそもの現在は、どこにもないのだ。だからこそ最後に「別れ」が喪失する。それは登場人物たちの決断によって起こるわけではない、あくまでも構造上の問題なのである。なんだろう。あいかわらず読後のあたたかく、良い話ではあるけれども、あまり良くない方向性を持った自閉みたいなものが、うまい具合に誤魔化されてしまっている、そんな感じがした。
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2005年02月27日
 

 ロード・ムーヴィーのような。一言でいってしまえば、そういう小説である。精神病を患いながらも、なんとか普通の人として生きていた「あたし」は、自殺未遂がきっかけとなって、プリズンと呼ぶのが似つかわしい不自由な病院に入れられてしまう。そうして大学に行けなくなり、恋人も離れていった。「亜麻布二十エレは上衣一着に値する」。うるさい幻聴が頭のなかを満たしている。なにかに急かされているような感じがする。夏が終わってしまう。21歳の夏に「あたし」は病院からの脱走を試みるのだった。

 おおまかな流れとしては、「あたし」が逃走中に出遭うてんやわんやを追っている。ただ「あたし」はひとりで病院を出たのではない。道連れは、同じ病棟で暮らす、茶髪の元サラリーマン「なごやん」である。「なごやん」は男で、「あたし」は女だ。そうした男女がふたりきりで、ボロい車に乗って、九州中を転々とする。ふつうであるならば、ふたりの間に恋愛感情やら肉体関係が生じても良さそうなものだけれども、従来の絲山秋子作品がそうであるように、ここでもセックス(性交)は行われることはない。けっしてセックス(性差)が無視されているのではなくて、むしろ「あたし」が女であることは執拗に描写されている、だからおそらくはセックス(性)によって「あたし」の生が誤魔化されてしまう、そのことが避けられているのだ、と思う。

 読みようによっては、赤坂真理の『ヴァイブレータ』と似通った内容であるけれども、両者を大きく隔てているものがあって、それは、やはりセックス(性交)への関わりと、そして「ここではないどこか」みたいなものの捉え方である。他者の他者性と、ある種の不可能性といってしまってもいいかもしれない。『ヴァイブレータ』の主人公は性急な変化を望むがゆえに他者を欲する、つまり「ここではないどこか」を目指す運動のなかに自分を置くわけだが、この『逃亡くそたわけ』の「あたし」には、そういった運動自体が常に「ここ」であり続けているように感じられているみたいなのだ。だからこそ、「あたし」と「なごやん」の旅は、九州という円環(最後に付せられた地図を参照)をぐるりと一回りするようにして、進む。
 
 「あたし」が服用する薬の類は、具体的な名称でもって示されているけれど、そういったサブ・カルチャー的な知識が、ハッタリとして通じた90年代の小説とは違う、ナチュラルな質感がこの小説にはある。「あたし」たちは、病んでいることがエキセントリックではなく見えるくらい、ごく普通に病んでいる。それでも生きているし、たぶん生きなければならない。絶対に、というわけじゃないんだろうけれど。絲山の小説の特徴のひとつとして、ポップ・ミュージックの引用が挙げられる。今回はTheピーズである。カーステレオにあわせて「あたし」は、「日が暮れても彼女と歩いていた」を、「気が触れても彼女と歩いていた」っていう風に、ライヴのヴァージョンでうたった。

 「愛なんかいらねー」についての文章は→こちら
 『袋小路の男』についての文章は→こちら
 『海の仙人』についての文章は→こちら
 「アーリオ オーリオ」についての文章は→こちら
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2005年02月26日
 

 副題には「ゲーム」と「ときどき小説」とあるけれど、主にマンガに関するエッセイを集めたものである。とはいえ、前半の部分はけっこう他のエッセイ集(書評集)と重複しているし、中盤はインタビューであったり対談であったりするので、内容としてはかなり散漫なのだけれども、まあ、全部がぜんぶ文学に回収される問題なのだとしたら、いつもの高橋源一郎として一貫しているといえる。というか、これを読んで思ったのは、ほんとうに高橋は、いわゆる『週間少年ジャンプ』的なマンガが嫌いなのだなあ、ということだった。たぶんルーティン化された物語みたいなもの、あるいはステレオタイプな形式が好みではないのだろう。それが結果として、メタ・フィクション的な思考や嗜好や志向を生むわけか。ある意味ではその実践が、この本に収められた80年代時の未発表短編小説「無名の…たちがたどる冒険、愛、日常等に関する報告書」(正式なタイトルは、おそらくドット絵を模した記号が使われているため表記できない)である。「あとがき」で述べられているとおり、『優雅で感傷的な日本野球』に一部は取り込まれたが、しかし一部はオミットされてしまったものの原型となっている。『優雅で感傷的な日本野球』で読めるところ以外がどのような内容であるか、じつはそれについては、この本に収められた「「たけのくん」のゲーム」というエッセイの2節目がうまく説明してしまっている。要するに〈メタ・フィクションの作家の強い虚構意識に負けないほどテンションの高い虚構意識の持ち主が小説とは関係のないところに発生しだしたんだ。そういうニュータイプの連中は、虚構意識の強さという点ではメタ・フィクションの作家と共通しながら、実は「合致点が見出せない」んじゃないかと思う。虚構に対しての接し方が違うんだ〉という風なことが小説として書かれているのである。でもって、それは現代からみれば、大塚英志が「物語消費」や大きな物語の消滅、そしてサブ・カルチャーと文学云々いっていることと、どこかで通じているようにも思えるのだった。
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2005年02月21日
 帯に「天才高校生デビュー!」と謳われている第4回「新風舎文庫大賞」受賞作、なのだけれど、まあ話半分にしたって、その半分にも中身が達していないのが、とても残念だ。「僕」の幼馴染のちーちゃんは、オカルト好きで、幽霊を目撃することに憧れている。でも、高校生活のある日、その願いが、まさか悠久の向こうへの扉を開く鍵になるだなんて、そのときの「僕」は予想だにしていなかった。けっして日常的ではない光景を日常と称し、そこに準ずる無感情や失望を、屈託なく語ってしまう自意識は、読みようによっては、アヴァンギャルドかつキュートな感じではあるのだけれども、「若さ」を差し引いたら、やっぱりちょっと苦しい仕上がりだ。とはいえ、この世界も人間も、そう簡単には壊れたりしない、だから生きるのは苦しんだ、っていう自分の考えは、もはやオールド・スクールなのかもしれないねえ、と思わせられる新しさはある、かな。
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 第28回『すばる文学賞』受賞作。ちょっとこれは僕向きではなかった。北陸地方ではじまり、やがて、この国を飲み込むほどのムーヴメントとなった〈土踊り〉、それに背を向けて生きる人々は〈発起人〉のもとに集い、入植地に暮らしている。ライターの「わたし」は、さいしょ〈土踊り〉に魅了されながらも、その全体化の思想と相容れず、そうして入植地に属することとなったのだが。大枠は、その「わたし」による、マイノリティとマジョリティの攻防に関した記録である、まあ、そういった感じか。うーん。硬質な文体は、星野智幸っぽくもあり、それなりに技量は認めるのだが、少々頭でっかちに構図を取りすぎる、言い換えれば、技量以外のものはあまり認められなかったりもする。抽象的な語りでもって話は進むのだが、そこに読み手の想像力が差し込まれる隙があるかというと、そういうわけではなくて、結局のところ作者は一本道のルートしか提示していない、道を外してしまえば、すっかり物語からは置いてかれてしまう。なんとなく魅力的なことをやっているのはわかるのだけれども、その魅力がどのようなものかわからない場合、自分とは無関係だなと思うしかないのだった。
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2005年02月19日
 

 WEB連載時に、前のブログや「はてなダイアリー」のほうで、ちょこちょこっとまとめてたりしたので、ここでは触れなくてもいいかな、と思ったのだけれども、思うところがあったので、すこし書いておくことにした。あまり内容とは関係ないかもしれない。

 『文學界』3月号に「文学のフロントラインで今何が起きているか――「新人小説月評」担当者座談会」というのが掲載されており、佐藤友哉に触れた箇所(まあそこで関連している作品は『大洪水の小さな家』なのだけれども)で、再生的想像力と創造的想像力という話が出てくる。文章から映像化する想像力(再生的想像力)を、書き手と読み手が共有している(データベース化している)ため、たとえば書き手が、「大洪水」という設定を物語のなかに置くだけで、それについての細かい描写を必要とせずに、読み手はその状況を想定できる、という指摘である。これはたしかに、そのとおりなところがあって、それなりに説得される。この『鏡姉妹の飛ぶ教室』にそっていえば、P111下段。

 一年生。
 両手には逆さまに握ったエレキギター。
 女の子は突進を緩めず園部君に向かって突っこみ、容赦のない動作と勢いでエレキギターを叩き込みました。
 ギターのボディが直撃して、バイイィイイィインという六本の弦が震える音と眼鏡が割れる音と園部君の鼻が砕ける音が混ざったものが、廊下に響き渡りました。


 この部分など、言葉による説明としては、不親切である。「エレキギターを逆さまに握る」とはどういうことか、あとのところで「ギターのボディが直撃」とあるので、ネックを握ることでボディが上向きになった状態かな。しかし「叩き込」むっていうのは、どういう風にだ? どこにだ? 「眼鏡が割れ」「鼻が砕ける」とあるので、顔面にかな。それにしても「ギターのボディ」のどの部分が直撃したんだろう。裏側かなサイドかな、弦の張ってある表じゃないよな。それよりも「容赦のない動作と勢い」というのはいかなるものか、などなど。だけども、そのような読み方をするほうが、おそらくは稀で、たぶん読み手の多くが、この文章からはすみやかに、ひとりの少女がギターを振りかざす、躍動感があって、カタルシスティックなシーンを思い浮かべるはずである。

 そして、そのことが良いか悪いかといえば、佐藤作品を否定する人たちにとっては悪しということになるのかもしれないけれども、僕にはそう悪くはないことのように思える。なぜならば、そのようにして書かれなければ伝わらないことを、伝えるために、そのような書き方がされている、と考えられるからだ。
 
 たしかに、想像力のスムーズなリンクが、佐藤友哉の小説を、読み手が書き手あるいは作品のほうへと、つよく共感(感情移入)するようにして成り立たせている、というのはある。それを強度の低い、内輪受けの言葉、外へ向けられていないものとして批判するのは容易い。が、しかし、ここでポイントとなるのは、いっけん内輪でしか通じない、コード化された記号を使い交信している風であるのに、それが連帯には繋がってゆかないような、そういう感覚を、佐藤の作品が内包しているということだ。

 たとえば本作のなかで、少年少女たちがいがみ合い行ういくつかの問答、それは彼や彼女の世界の外側、それこそ大人に視点に立ってみれば、どれも青臭いという意味において、五十歩百歩には違いない。大差ないよ、と。だが、その五十歩と百歩のささいな違いをせせら笑うアパシーや欺瞞だけは避けようとする、切実な態度(に見える部分)こそを、読み手であるところの僕は、良しとするのである。

 そうなのだ。物語のラスト、少年と少女たちは協力してひとつのことをやり遂げようとする、けれども、それはけっして和解であったり連帯であったりを意味しない。自分たちの手には負えない大きな流れが押し寄せてくる、そこから逃げおおせるための、いわば妥協的な行為である。だからこそ、息苦しさのない地上に到達したとき、彼や彼女たちは、なにか言葉を交わしたり振り返ることもなく、それぞれべつべつのほうへと歩いていってしまうのだった。

 まあ、とはいえ。それと、この小説がおもしろいかどうかというのは、また違った話ではある。
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2005年02月17日
 

 これには、04年に行われた3度の講演のうち、2本をまとめたものと、残りの1本を参照とした短文が、収められている。基本的に、現代における国際社会なり日本社会なりが抱える問題は同時代を生きる我々の自意識と相似である、という線でもって話は進められる。

 第1章において、ポイントとなるのは他者の存在、そこに含まれる「不確実性」について、である。どういうことか。どれだけ他者を理解しよう、あるいは理解したとしても、「不確実性」は絶対に消去できない。最終的には残ってしまう。たとえば、僕が君のことを深く愛して、四六時中生活を共にしたとしても、君が僕のことを同じように愛しているかどうか、というのを完璧に証明することは、僕の側からはできない。それはもちろん不安であると同時に脅威である。としたときに、じゃあ君がいなければ僕は苦しまなくて済むのだ、という風に考える。ああ、そうか、君が死ねばいい。でも、そうした「不確実性」を排除しようとする心の動きを、もしかしたら君も持っているかもしれない。君は心のなかで、ほんとうは僕に死んで欲しい、って思っているんだろう。というような具合に、他者の他者性そのものに耐えられない感受性こそが、それこそアメリカのイラク攻撃や、日本の北朝鮮忌避の根本にあるのではないか、と大澤は推測する。

 なるほど。「不確実性」とは、ある種のネガティヴィティである。では、これに対してどのような解決策を提出できるのか。大澤は「偶有性」を徹底させる必要があるという。「不確実性」も「偶有性」も、どちらも「必然性」を否定する言葉、じつは同じことをいっているのであるけれども、「偶有性」というのは、あくまでもポジティヴな意味合いを持っていることを主張し、その「偶有性」の引き受け方を説明する。その内容は、わりとアクロバティックであり、どれほどの説得力を持つかはわからないが、しかし世界の見え方としては、あかるい。か弱い光かもしれないけれど、トーチとして掲げるのに悪くはない気もしてくるのだった。

 さて。1945年から70年代までを「理想の時代」、そこから95年、オウム事件までを「虚構の時代」とする、大澤の著作『虚構の時代の果て』のおさらいとして、あるいは第2章は機能しているかもしれない。では、「虚構の時代」が終わったあと我々が生きているこの時代とは、どのようなものか。東浩紀ならば『動物化するポストモダン』のなかで「動物の時代」というわけだが、いや違う、大澤は「不可能性の時代」という呼び方こそが相応しいのではないか、という。

 「不可能性の時代」とは、理想から虚構へと反-現実的な要素が高まった、それよりもさらに反-現実的な世界を指している。反-現実というのは、シンプルにいえば、逃避先のことである。つまり、70年代までは理想こそが自意識の逃避先であった、95年までは虚構が逃避先としてあった、そして現代は、現実そのものを現実として体験しない、言い換えると、多重人格(解離性同一障害)のように、自分が体験したにもかかわらず、その記憶を失ってしまっている、または体験していないことを実感として持ち合わせてしまう状態、現実からの逃避が一回転した現実になってしまうような、そういう時代なのだということだ。ここらへんの議論は、「第三者の審級」というファクターの、それはおそらく加藤典洋が『敗戦後論』に書いたことにも絡んでいる、問題が大きく関与しているのだが、その点については、たぶん大澤の、次あるいはその次の著書によって、より詳しく述べられることとなるだろう感じがする。

 要するに。『現実の向こう』、00年代にそれはどこまで行っても現実でしかないところに行き着くことだった、と、そこまでの話がここでは語られているのである。

 『帝国的ナショナリズム 日本とアメリカの変容』についての文章は→こちら
 『性愛と資本主義 増補新版』についての文章は→こちら
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2005年02月16日
 昔から佐々木マキのイラストの良さっていうのは、ちょっとよくわからない。ので、それは置いておく。けれども、ポップというのは、つまり、残酷であることをいっけん残酷ではないように見せる、そういう技法なんだ、と思う。閉館後の図書館、妖しい老人によって地下に閉じ込められた「ぼく」は、そこで羊男と新月の少女に出会うのだった、という小説自体は、抑圧と束縛から解放されたエンディングが待っているにもかかわらず、あまりにも寂しげな読後感を寄越す。既発表作品(もともとは『カンガルー日和』に収められた短編)ではあるが、これを現在の時点から読み返すと、なるほど、『海辺のカフカ』に通じるモチーフ(あるいは『海辺のカフカ』の原型であるような感じ)を内包している。としたときに、なぜ今になって改めてこの小説が提出されなければならなかったのか、っていうのがわかってくるわけだ。
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2005年02月14日
 仕掛けや謎解き、構造云々のことはあまり気にかけない読み手である僕にとって、北山猛邦は、デビュー作である『『クロック城』殺人事件』がベストなのであった。北山の小説は、つねに限定された空間を舞台にしている。それは「世界の終わり」という、本来であるならば大規模であるはずの出来事を扱った『クロック城』の頃から一貫している。そして限定された空間のなかで、アイデンティティ(固有性)にまつわる惨劇が繰り返されるのも、同様だ。本作では「人形と人間の違いは何か」というような問いかけを軸に、登場人物たちが自分の負った役割を全うする、あるいは回避するために、密室状態となった城のなかを奔走する。のだが、なんだろう、それぞれのキャラの立ち方が弱い(感情移入し難い)感じがするためかもしれないけれど、物語としてみたときに、ひじょうに薄口な気がした。人間ではなくて、物理的なトリックによるダイナミズムを楽しむのが正しい読み方ですよ、といわれたら、まあ、そうなんだろうけど。
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2005年02月12日
 

 中学の頃、悲惨な事故に遭い身体に障害を負った松浦純菜が、治療を終え、かつての同級生たちの前に姿を現すとき、街では連続女子高生殺人事件が起こっていた。誰もが心のなかに抱える闇、自分を拒絶する者を殺したいという欲望を、具現化してゆくように進行するストーリーの渦中で、人々はけっして他人からは理解されない孤独へと身を落としてゆくのだった。きた。暗黒大使、浦賀和宏の世界。『彼女は存在しない』よりあとの作品は、個人的にはいまいちどうも、だったのだけれども、これはひさびさに深く感情移入した。や、感情移入しちゃまずいのか。作家本人はテクノ系ミュージックのリスナーっぽいが、僕には、彼のやっていることは、まるでミニストリーやナイン・インチ・ネイルズのようなインダストリアル・メタルのように思える。冷酷さと狂気の駆動が、なぜか心の奥のほうに強く当たる。たぶん、全体の像をシンプルに捉えれば、人はひとりでは生きてはいけない的なポジティヴなメッセージが掴めるのだが、それを反対の軸で否定する、他者との交わりこそ苦しみであり摩擦なのだという素直なまでのネガティヴィティが、浦賀作品独特のダブル・バインドを成り立たせているのである。さて。恒例であるミュージシャンからの引用は、坂本龍一なんだけれど、歌詞とかからではなくて、著作からの社会的なメッセージだというのが、浦賀の新しい局面を示しているのではないか。うそ。グフパーンチ!
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2005年02月10日
 

 損なわれたものは回復しうる、あるいは、壊れたものは修復しうるとしても、しかし、カタチのあるものはどうしても傷つくことから逃れられないのであれば、それは、またしても損なわれることがあるのだろうし、やがて壊れることもあるのだろう。そののちで同じように再生したりすることだってある。おそらくは、その繰り返しこそが物語と呼ばれる。ならば、そういった煩わしさを持たない完璧に幸福な人間には物語は存在しない。だから、ある人たちは自分が悲劇の主人公であることを望み、そのように振舞う。なぜならば、物語とはイコール世界なのだとした場合、幸福な人間はすべて死者と同じだからだ。言い換えれば、世界や物語の外側にいるものだけが幸福でありうる。世界や物語の内側に存在するものはみんな不幸になりうる。もしも、あなたが永遠に続くような幸福を望むのならば、誰の心のなかにも生き残らないようにして消え去らなければならない、と僕は思う。

 西尾維新を象徴する「戯言シリーズ」も、いよいよクライマックスである。最終章三部作の、まずはさいしょの物語が、ここに展開している。世界と物語を終わらせようとする狐面の男と戯言使いである「ぼく」との最終決戦が、いま幕開こうとしている。その中途で、これまでのシリーズで張られた伏線が、じょじょに回収されてゆく部分は、なかなか爽快であるけれども、それ以外の本筋、狐面の男と対峙するまでの過程は、まるでドラクエ3におけるラーミア復活のオーブ探しと同じような単調さがあって、ややダレてしまい、ひとつの読み物としては一長一短といった感じである。ただ、終盤はかなりハッタリが利いているので、続きがものすごく気になる、そのように仕上がっているのは、さすがだ。たぶん、ネットを回れば、いろんな人がいろんな意見(疑問)を提出していると思うんだけれども、僕がいちばん気になるのは、登場人物たちの会話のなかで「使用人」の存在が徹底的にシカトされているところなのだが、もちろんミスリードの可能性が大なのであった。
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2005年02月09日
 

 『新潮』3月号掲載の長編。伊井直行のものはどれも良いが、これもかなりのもんだった。どれも良いって、お前、そりゃあファンの贔屓目だろう、と言われてしまうかもしれないが、それは逆で、どれも良いから僕はファンなのである。

 「僕」は五十歳で、二十年間連れ添った妻と、十七歳の長女、そして〇歳、まだ生まれたばかりの次女を、家族として抱えている。基本的には、その五十代である「僕」の〈〇歳の子供を持つに至った顛末〉となる一年間を追った、そういう小説である。そこに、若くして死んだ「僕」の叔父のエピソードと、70年代から80年代、80年代から90年代、90年代から00年代という移り変わりのなかで、いかに「僕」が日本社会の変容に適応していったか(または適応しなかったか)という回想が絡んでくる。

 いろいろなファクターが細かく切り刻まれ、トッピングされているけれども、核心で語られているのは、たとえば舞城王太郎が『みんな元気。』などで書いたことと近しい、要するに、ある時期まで日本を支えたシステムやルールが、いま生きていく上での寄る辺にならないとき、では、我々は何を胸に置いて生きていけばいいのだろう、と、そのような問題を、非凡なるものとして身近から除外するのではなくて、日常という枠のなかへと回帰させることである。

 この小説は冒頭で、五十歳にもなって「僕」と称しながら物語を進めることに対しての自己弁護を置いている。それは、おそらくヤングアダルト的な「僕」語りによって発生するナイーヴさの自覚である。ここらへんは、伊井と同世代である金原瑞人が『大人になれないまま成熟するために』のなかでいっているようなことと関連してくるかもしれない。そのように考えるのであれば、つまり、戦後以降の日本人男性における、新しい責任の引き受け方が模索されている、という風にも見える。

 とはいえ、そういった小難しいことは抜きにしても、これは、とてもとても良いお話であると思う。人の愚かさがあり、孤独があり、悲しみにならない悲しみがあり、そして、なにより頑なさとやさしさと、それらが結ぶ心地よい読後感があるのだった。
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2005年02月08日
 『群像』3月号掲載の短編。いやいや、僕はこれまで生田紗代のことを良く思っていなかったのだけれども、ごめん、これはなかなかだった。まず、だいいちに料理や音楽の書かれ方が、これまでと違う。自分のフィーリングを誇示するために使われるのではなくて、ちゃんとディテールに止まる程度に抑えられている。物語を読むのに邪魔にならない。そのため、読み手が感情移入できる幅が、ぐっと広がった。さらに、主人公の造形(自意識)が、以前までの作品とほぼ同型でありながらも、みょうに生々しくなっており、かつてなら鼻についた嘘臭さが消えている。すると、ちゃんとしたキャラが立ち、性格の良し悪しはともかく、惹きつけられるようになるので、不思議だ。話の筋を簡単に取り出すと、妊娠とは無関係に生理の来なくなってしまった「私」は、思い当たる節もないせいで、いつもそのことを気にかけてしまう、気に病んでしまう、そんなとき親しい友人が、今にも別れそうな恋人の家からペットの亀を持ち出してきて欲しい、と頼みを持ちかけてくるのだった、ってな具合。小説の最後で、ゆっくりと歩く亀の姿に〈昔から私は、余計なことを考えすぎる〉という自分の想いを重ねるあたり、テーマみたいなものとしては、自分は自分のスピードでしか生きられない、と終盤で気づく『十八階ヴィジョン』と重なるところがあるわけだが、しかし、こちらのほうが、ずいぶんと説得力が強い。だから、もっとなにか大事なことが行間に書かれているのでは、という気がしてくる。余韻がいい。

 『十八階ヴィジョン』についての文章→こちら
 『タイムカプセル』については→こちら
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 『新潮』3月号掲載。ここからはじまる連作のひとつである。冒頭、「僕」という存在がイコール「村上春樹」であることがアナウンスされるので、ぎょっとするが、あくまでも人称の問題、これが「僕」の物語ではなくて、「僕」のかつての知り合いである「彼」の物語であるという、そのことを強調する手段として用いられているに過ぎず、そこだけを押さえておけば、それほど注視するポイントではないかな、という気がする。そうして「彼」が経験した、ほんのすこしの不思議な出来事が、「僕」であるところの「村上春樹」を経由して、こちら読み手へと提出される。村上の作品を語るさいに、よく持ち出される(というか、作家本人がよくいっている)「コミット」と「デタッチメント」という問題があるのだが、ここでそれらは、対となる二極として現われてはいない。おそらく、同一のもののべつの側面として、書かれている。「偶然」という名でもって登場している。そして、それは通りすぎる。通りすぎるさいに変化をもたらすこともあるし、通りすぎたずっとあとになって変化だったことに気づくこともある。あるいは、通りすぎたすぐそばから忘れ去られてしまうかもしれない。つまり、なにかの「きっかけ」になりうることもあれば、「とるに足りない」こととして終わる場合もあるのだ。そういったテーマや全体の雰囲気からして、ポール・オースターのエッセイ(自伝)『トゥルー・ストーリーズ』との符号を感じなくもないが。さて。ここからこれをどう転がしてゆくのかは、ちょいと気になるところではある。
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2005年02月05日
 

 第16回『日本ファンタジーノベル大賞』大賞受賞作。良い。帯によると、カフカやマルケスが引き合いに出されているが、個人的には、安部公房あたりの世界を思った。不条理であることが、なぜかリアリティをもって感じられ、集中すればするほどに、気もそぞろになる。どこか他人事ではないのだ。もしかしたら西尾維新が『タマシイの住むコドモ』などでやりたかったのは、ほんとうは、こういうのかもしれない、と考えたりもした。

 「僕」の家には「アレ」と呼ばれる、不快で、正体不明の同居者がいる。父も母もいないある日、敬愛する姉の体の上にのしかかる「アレ」の我儘さに、いよいよ耐えられなくなった「僕」は、ついに罪を犯してしまう。そのことをひとつのきっかけとして、帰る場所を失い、あてどなく行く先々で、奇妙な経験を強いられることとなるのだった。

 強いられる、というのが、やはり正しいよな、と思う。自分の意思で行ったことが、最終的には、他人の手の平で踊らされているという思いに囚われている。あるいは、自分が正しいと思った行為が、どのようにしても失敗、そして大失敗に帰結してしまうことを、予め先取りしてしまう。家族や社会など、場によって生じる権力の構造や因果律を過視してしまうがゆえに、気力さえも奪われていく。そういった閉塞感や虚無感、倦怠感に苛まれた「僕」には、安楽な夢を見ることすらも許さていない。すべての現実は悪夢のようであり、すべての悪夢が現実のようである。解放はどこかにあるのだろうか。たぶん、どこかにある。すくなくとも、そう信じることはできる。だから、この小説の最後に見られる夢が、あまりにもスウィートに感じられるのだ。

 醒めた、どちらかといえばクールな文体であるけれども、ところどころにある生々しい感触が、憂いを帯びた表情を喚起する。会話のほとんどは「かぎカッコ」で括られていない、そのことは、おそらく「僕」と他者との境界の曖昧さを表している、にもかかわらず、他者から成る世界とは疎遠になってしまった「僕」の存在が、きっちりと見えてくるとき、こちら読み手は、いつの間にか物語に感情移入している自分に、気づくのである。
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2005年02月03日
 

 各地で報告される不可解な誘拐事件、そして植物状態になった人々との交信を果たす謎の人物、いっけん関わりのないふたつの事象を繋げる、「ハヤブサ」というキーワード。それらすべてが、遠い宇宙を覗く天文台で、ひとつに結ばれる。渦中にあった「僕たち」は、やがて、絶対に忘れられない体験をすることとなるのだった。小路幸也の小説を読み終えると、いつも、なにか、食い足りない感じを覚える。それは伊坂幸太郎や本多孝好の読後感に近しいが、彼らよりも、一回りほど大きい食い足りなさのような気がする。なんなんだろう、と考えると、結局のところ、物語の強度なんじゃないかな、と気づくのだ。が、しかし、これはけっこう満足がいった。デビュー作と通じるところのあるファンタジックなミステリーで、前半のゆったりとしたテンポを挽回するように後半で駆け足になってしまうあたりは、前作『Q.O.L.』にもあった瑕疵なのだけれど、これまでと比べると、ずいぶんと着地点がしっかりしている。そのため、クライマックスのところで、ぐっときた心証のまま、最後まで読み進めることができた。ああ、って思って、もう一度、冒頭を読み返してしまった。ただ、この作品では、震災やテロが、ある種の負を代替する磁場として存在しているのだが、それをもうちょっと人間の業と接続できれば、もっとずっと深い余韻が生まれたのでは、と思ったりもした。すこし綺麗事で収まりすぎる嫌いがあるのだ。けど、いやいや、この人は、だんだん良くなっている。たぶん、これ、今までのなかでいちばんいいんじゃないかな。
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2005年02月02日
 もともとは『秋人の不在』という題名であり、じっさいに、牟礼秋人という作中には登場しない人物をめぐりながら物語は進行する。要するに、中心が存在しないことによって、中心として成立しているということで、時系列に並ぶことのない複数の視点を転移しながら事の経緯が語られてゆくのだけれど、正直、読みづらいというのが先に立ち、おそらく構造的に何かしらかの仕掛けがあるのだろうが、そういったことはどうでもいいように思えてしまった。つまり、関心が払えなかったということだ。それと、宮沢章夫って、こんな金井美恵子みたいな言い回しを多用する人だったっけ、って、躓いてしまったのもある。視点による抑圧みたいな部分だけを考えれば、小さな町の騒動を、複数の人物が共有するという設定も手伝って、ぷち『シンセミア』のような様相もあるのだが、どの登場人物も濃淡のないフラットな描かれ方をしているため、まあそれは「あえて」なのかもしれないけれど、彼や彼女らを動かす欲望のようなものが明確ではないように感じられる、そのせいで「だからなに?」という気分のまま、読了へと至ってしまうのだった。あるいは、そういう核心を、こちらが確信できないことが『不在』という題名に表されているのだとしたら、そのとおりかもしれない。が、それはちょっと。これ、舞台と連動してるらしいので、そっちも観てみないとわからないのかな。うーん。そんなことはないのか。
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2005年02月01日
 なにはともあれ、施川ユウキがスルーされすぎ。全体のなかで、彼に触れているのは、50字ぐらいである。ファー泣けるなあ、ラムニー君ばりに泣けるなあ。それはそれとして。ギャグ・マンガについて書くことは、やはり、かなり困難であるらしく、自分史とマンガ史をごっちゃにしてる書き手が多いのは気になった。そのなかでも、マンガ史をさいしょにプレゼンして、そののちで自分史を披露する栗原裕一郎と、あえて自分史で押し通す小谷野敦は、さすがだと思った。

     
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2005年01月31日
 200X年。兆しは、ふたつの航空機事故だった。開発中の国産ジェット機が、試験運転の最中、高度2万メートルの空で爆発する。その約1ヵ月後、今度は航空自衛隊の演習機が、やはり同じ空域で、謎の爆発を遂げる。ふたつ目の事故により唯一の肉親である父を失った少年は、ある日、海岸で拾ったクラゲによく似た知的生命体を「フェイク」と名付け、まるで寂しさを埋めるかのように、熱心に飼育する。一方、ひとつ目の事故の真相解明を任された調査員は、その過程で、のちに「白鯨」と呼ばれることになる巨大な飛行物体と遭遇するのだった。

 Amazonさんからやあっと届いたので、ようやく読んだ。かなり厚い本だが、奥付を見ると3刷目なので、どうやら大勢に読まれてるっぽい。なるほど、それなりにおもしろい。

 けど。状況を提出する序盤は、かなり読みづらかった。それは、物語が動いていないからというのではない、むしろ物語はちゃんと動いている、なんていうか、文章がギコちない、おそらく多くの登場人物たちがいきなり現れるため、主語の扱いに作者の戸惑いがあり、そのせいで「てにをは」や形容詞がおかしくなっている、と感じられるのだ。ただ、そのことは第2章以降の、いかにもライトノベル的に、地の文が口語体に支配されるようになってくると改善されるので、さいしょを乗り越えてしまえば、あとは物語の進行を妨げるほどのものではない。ところどころにクライマックスがあり、そのたびに、ぐわっと引きつけられるので、500ページに近い内容だけれども、ほとんど退屈することはなかった(改行が多いというのもある)。

 それはそれとして。これだけ政府なり研究者なり企業なり民間団体なり他国なりが介入しながらも、性根まで腐った極悪人あるいは利己的すぎる人間が、まったく出てこないというのはどうなんだろう。物事を悪化させる、そういう複雑に絡んだ感情の線を解き解すのも、純朴そうな老人がかける言葉だったりするのは、いささか人が善すぎるような気もする。が、そんなところに引っかかってしまうのは、たぶん僕が、この小説中の言葉でいえば〈間違ったほうへどんどん押し進〉むような心無い人間だからかもしれない。なんてことだ。

 『塩の街』についての文章→こちら
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2005年01月30日
 

 なんだか、あまり鮮やかではないなあ。要するに、「近代」批判を踏まえた上で、「近代」を再検討し、「近代」の可能性を引き出そうということなのだが、そういったアウトラインを取り出すために読めばいいのは、柄谷行人のカント読解『トランスクリティーク』の欠陥を指摘する第1章と、第3章のさいごのほう(正確にはP434「9 「自由の相互承認」の社会学的転移」)以降だけでいいかな、という気がした。もちろん、単純にバック・トゥ「近代」といっているわけじゃない、あくまでも不可逆的なものとして「近代」を捉えるが、その理念を放棄するのではなくて、現代に適応させられるか否かを問う、ということである。しかし、まあ、それはそれとして。竹田青嗣がいうような、多様化した「欲望」を受け入れる器としての「近代」あるいは「自由」が、いま現在、超越的な他者のいない世界で「きみとぼく」が苦しんだりする、その不自由さを解決できるかどうかというと、僕はちょっと訝しげである。
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2005年01月25日
 この人の本は、はじめて読んだ。ぬううん。難しい話を抜きにして、シンプルにアウトラインだけを取り出せば、ダブル・バインドから逃れよう(乗り越えよう)としていた人たちの言っていることが、もはやダブル・バインドとして機能している、あるいはダブル・バインドがあったのを忘却したものになっている、というようなことがいわれているのかな。ポスト・モダンの存在そのものや、マルクスに関する柄谷行人や浅田彰の仕事は認めた上で、それに対して懐疑を提出する、そういうやり方は、竹田青嗣あたりに近しいのかもしれない、が、こっちのほうがずいぶんと判りやすい気もする。けれども、なんで最終的には「心」の問題になっちゃうんだろう。そこいらへんが、すごく残念な感じだ。とくにP289あたりの話は、ちょっと恥ずかしくて読めない。とかいうと、それはニヒリズムだ、ってことになるのか。でも、「心の痛み」は誰のなかにもある、っていう主張が、ニヒリズムに陥っていないことの証左になるわけでもないよ、と僕は思う。それと、人と人は解りあえないとしても対話は繰り返されるべきだ、みたいな落ち所は大いに賛同、というか共感なのだが、しかし、どうして急にハンナ・アレントの名前とロジックが出てきたのかが、わからない。唐突すぎる。結論を急いだのでなければ、そこいら辺は、どっかべつの本と繋がってる箇所なのかしら。
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2005年01月23日
 赤坂真理の小説が、好きで、たぶん全部読んでる。けれども、赤坂真理という個人に対しては、あまり興味がないなあ、と、これを読んで思った。彼女の初のコラム集であり、日々の思考みたいなものが、わりとダイレクトに反映されているみたいだ。タイトルには『肉体と読書』とある、が、しかし、たしかに「肉体」のことは、おもにボンテージを通じた解釈の上で書かれているけれど、「読書」について書かれているところは、ないんじゃないか。とりあえず僕には見つけられなかった。もしかしたら「読書」という行為自体を指しているのではない、何かの言い換えなのかもしれない。そのかわり多く書かれているのがモーニング娘。や海外の映画俳優、女性雑誌に関することで、ここらへんは、むしろ「肉体」と関わりのあるような見方がなされている。とりあえず強く感じたのは、この人には、どこかファンタジーを強く志向する(自分に関わる出来事を物語化させる)ところがある、ということだ。おそらく、そのような素養が、小説における、あの夢想のなかを生きるかのような感覚を作り出しているのだろう。あと、赤坂の友人であるらしい斎藤環は、赤坂のことを「オタク」だというけれど、これを読む限りでは、どうあっても「サブカル」の人である。以前、どっかの雑誌でふたりが行った対談でも、赤坂は『エヴァンゲリオン』までアニメとは切れていた、って言ってたし、それって、やはり典型的な「サブカル」の在り方だと思うのだ。
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2005年01月21日
 高橋源一郎の新しい小説(小説集)である。ということは、以前の小説とは違う内容が書かれているはずに違い。しかし、じっさいに読んでみると、奇妙な感じがしてくるのだった。前に同じ、あるいは似たものを読んだことがあるよう気がしてくるのだ。

 おや、これは『日本文学盛衰史』じゃないか。いや、ちがう。『官能小説家』だ。ちがう、そうじゃない。『あ・だ・る・と』だろう。いやいや、『君が代は千代に八千代に』だ。あるいは、小説じゃなくて、いま『文學界』に連載している評論『ニッポンの小説』かもしれない、という具合に、である。

 とはいえ、それは高橋源一郎の小説では、珍しいことではない。よくあることである。もしかしたら、それは、こういうことではないか。つまり高橋源一郎は、一貫して、同じことを言い続けているのだ。何についてか? 文学についてである。

 と、タカハシさんの文章をちょっとだけ真似て書いてみたのだけれど、似てないね、うん、やめよう。

 文学といえば、このなかでは一番長い「キムラサクヤの「秘かな欲望」、マツシマナナヨの「秘かな願望」」のなかに、不良債権だなんて言葉が出てくるから、思わず、キムラサクヤを大塚英志に、マツシマナナヨを笙野頼子に、脳内変換したのち、そのイメージで読み進めていたのだけれど、どっかやっぱりミスリードのような気がするのは、もう一枚、あるいは二枚か三枚、フィルターのようなものを噛ませなければならないからだろう。それはもちろん『性交と恋愛にまつわるいくつかの物語』というタイトルが示すように、セックス(性交)と恋愛に関する、いくつかの事象である。読めば、たしかにセックス(性交)についてはたくさんの文量が費やされている。だが、しかし、恋愛については、まるでほとんど書かれていない、みたいに読める。どうしてだろう。たぶん、恋愛をするためには、どうしても他者が必要となるからだ。が、しかし、このなかに登場する人物たちは、他者を他者としては、見ない。だから、セックス(性交)とオナニーの違いがわからない、といい、やがて絶望に至る。ヘーゲルがいうように、欲望とは、「他者の欲望を欲望する」ことなのだ。とした場合、欲望もまた、恋愛と同じように、他者を必要としなければならない。そして高橋が、『文学なんかこわくない』に収められている「文学の向こう側」で書いているように、文学もしくは言葉もやはり、他者を意識したところから発せられなければならない。とするのであれば、ここには、成立しえなかった恋愛=欲望=文学という風に、それらが、たしかに存在していることになるのだった。
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2005年01月19日
 第28回『すばる文学賞』受賞作。昔付き合っていた男が結婚することを知った、それをきっけにして、体の調子を崩してしまう「私」は30代の女性だ。胃がドキドキするという症状は、いくつかの病院で診察を受けても、直ることがない。やがて辿りついたのは、幼い頃に通っていた漢方診療所だった。

 ただひたすら「私」の愚痴が続くので、それに感情移入できるか否か、という部分がキモとなるのだろう。はっきりといえば、成熟しない大人が癒しを獲得する、という体の内容である。物語のなかで行われる、西洋医学から漢方治療への移行は、急いだり焦ったりしないで、ゆっくりやりましょう、と、その程度のことが表されているに過ぎない。

 年齢のことを抜きにすれば、生田紗代あたりに近い作風で、それよりも文章は読みやすい、それなりにスキルがあるのがわかる、「何よりも読める文章」という藤沢周の選評をみると、その点がやっぱ評価されたんだろうが、しかし、これが芥川賞を獲らなくて本当に良かったなあ、と思う僕であった。90年代にサブカルぶってた奴らは、みんな駄目人間になったんだよ、ということの裏づけでしかない。
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2005年01月17日
 第17回『小説すばる新人賞』受賞作。平穏無事な日常のある日、「僕」は、町内広報誌によって「となり町との戦争」の開戦を知らされる。公共業務として遂行される「となり町との戦争」には、役所を通すいくつかの手続きを踏んでからでしか、「僕」は関与することがない。目の前で人が死ぬわけではなく、毎日の生活が壊されるわけでもない、むしろ保障されている。だから戦争の実感が沸くこともない。が、しかし、たしかにどこかで誰かが死んでいて、そして、べつの誰かはその死を悲しんでいるみたいだった。戦時下という状況が背景に置かれてはいるけれども、じつは伊坂幸太郎や本多孝好の作風に近い、アパシーから喪失感を経由してエモーションが回復されるような、そういう道筋のストーリーだと思う。程よい明るさを持った、ファンタジックかつポップな作品である。ただ、ぐいぐいと引きつけられる設定の妙が前半にはあるのだけど、結局のところ「僕」語りへと着地していってしまう後半が、やっぱりちょっと、ナイーヴすぎるという瑕疵かな。
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2005年01月12日
 いわゆるネグリ、ハート的な〈帝国〉に関する議論を扱っているのは、最後の書き下ろしの部分だけで、それ以外は、基本的に、90年代の大澤真幸の仕事の総集編みたいな趣であり、おそらく「まえがき」で予告されている次の著書『ナショナリズムの由来』のための、布石みたいなものなのだろう。クリプキがいうような固有名の在り方を出発点に、偶有性あるいは他者との関係性について論じるあたりは『恋愛の不可能性について』を押し進めたものであるし、アメリカ社会の変容について書かれたものは『性愛と資本主義』、『電子メディア論』、日本社会の変容については『虚構の時代の果て』を多く参照したものであったりする。逆をいえば、大澤の著書としては、非常にコンパクトにまとまり、わかりやすいほうのものである。

 個人的にもっとも興味深かったのは「マルチストーリー・マルチエンディング」という、ノベルゲームを中心に、大塚英志『物語消費論』と東浩紀『動物化するポストモダン』を扱った箇所で、大澤は、「データベース」消費とは、物語の否定や無関心を表しているのではなくて、「大きな物語」を包括する「より大きな物語」を志向するものではないか、と推論する。「より大きな物語」とは、これも偶有性の問題と関連してくるのだが、「他でありうる」可能性の、そのすべてを想定する、つまり、バッド・エンディングもハッピー・エンディングもぜんぶ網羅した、超越論的であるがゆえに、普遍的でありうる物語を指している。もちろん、それがまったくもって正しいかどうかは知れないけれども、ああ、なるほどな、と、こちらが納得できるだけのロジックを、大澤は提出しているように感じられた。

 『性愛と資本主義 増補新版』についての文章は→こちら
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2005年01月11日
 さいしょのほうに、難しい本なんて読まなくもいい、という意見への批判があって、おお、これはもしかしたら暗に小谷野敦『バカのための読書術』のことをいっているのか、と、なんとなくワクワクしながら読んだのだけれど、正直、それほどエキサイトメントな内容ではなかった。本の扱い方にしても、『不良のための読書術』の焼き直しとまでは言わないが、『不良のための読書術』を大幅に越えるほどのことは書かれてはいない。永江のものでおもしろいのは、甘くみても『批評の事情』までで、それ以降のものは、彼のキャリアの縮小再生産気味なところがある。個人的には、もうしばらくは永江朗は読まないだろうな、という気がしている。
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 エッセイっぽい文章の読み心地という点において、坪内祐三と比べると、永江朗は今一歩という感じがする(坪内の『新書百冊』と読み比べてもいい)。要約などは巧いのだけれども、堅苦しい(説教くさい)ことを言いたい心情が見え隠れして、そういったところに読み難さを感じる。というか、このごろの永江の本はどれもあまりおもしろく感じられない。それというのは、彼が大人になってしまったからなのかもしれない。いや、以前から大人ではあったが。なんていうか、やっぱり永江は、J文学について仕事してた頃(90年代)がよかったなあ、と、じっと遠くを見る僕であった。
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2005年01月10日
 『シブい本』『文庫本を狙え!』のつづき。要は、文庫本の紹介集である。まあとにかく、うまいなあ、という印象。ほんとうに坪内祐三は、長いものよりも、短いものを書く能力に秀でている。いっけん自分のこと(記憶)をライトな感じで書いている風でありながら、的確に、その文庫(著者)のキモを抜き出している。この本でいえば、それがわかりやすいのは、たとえばコラムニストとしては同業にあたるナンシー関について書かれている項や、文学批評家としては同業にあたる加藤典洋について書かれている項、ポップ・ミュージックのファンとして音楽評論家の中山康樹について書いてある項などだろう。こういうの、はまとめて読まないで、時間があるときにパラパラと読むのが楽しい。年末から今にかけて、ゆっくりと読んだ。
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2005年01月09日
 いや、これはおもしろかった。フェミニズム云々というよりは、80年代を語ったものとして読んだ。最近の80年代論のなかでは、いちばん納得がいった。荷宮和子の、自分の属する世代イコール「くびれの世代」を異様に特権的に語るところは煩わしいけれども、80年代を語る人たちの多くがなぜか自分語りに終始するなかにあっては、ある種のセオリーを踏襲しているといえるので、その点については、ことさら何かを言う気も起こらない。要するに「私」の80年代回顧録のひとつであるが、基本線は、上野千鶴子への批判(とはいっても、具体的な著作を取り上げるのではなくて、雑誌掲載文や対談などのパフォーマティヴな言動への批判)と、林真理子への同意(こちらも著作のテクスト的な部分への着目ではなくて、あくまでもパフォーマティヴな言動への同意)となっている。ところで、これを読んで思ったのは、70年代後半以降の吉本隆明がいっていたことを地で生きているようなところが荷宮にはあるからこそ、その頃の吉本に影響を受けている渋谷陽一や大塚英志は、自分たちの雑誌で彼女を使うのかもしれないねえ、ということだった。

 さて。僕がこの本で、とくに興味深かったのは、P209からP221ぐらいまでの文章である。荷宮は、80年代以降、セックスとは「見るものではなく、するもの」であるという前提が、日本人男性のなかで崩れている、そのため女性は「見られた」だけで「ヤラれた」と同様の不快感を味合わされるようになった、という。また大塚英志が、アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』劇場版のラスト、碇シンジに首を絞められたアスカが「気持ち悪い」と口にするシーンを、殺される女性の側からオタク(男性)に向けられた批評であると高く評価することに対して、結局のところ女性は「殺される側」でしかなく、「殺す側」にはなりえないのだ、と揶揄する。さらにポルノなどに見られる女性が恥ずかしいところを晒しているポーズは、現実のセックスで、女性が本気で快楽を求めたらとってしまう格好とは、根本的に異なる、それはつまり、女性の快楽すらも男性側の視線によってカスタマイズされているということだ、みたいな風に結論する。
 転じて。女性が自分のセックスしている姿を醜いと感じる視線、だからセックスに没頭できない(セックスを忌避する、あるいは逆にセックスに価値を見出せないのでたくさんの男と寝る)という自意識は、90年代のJ文学期に登場(活躍)した女性小説家あるいは女性マンガ家の作品に、多く見られるモチーフである。僕の拙い記憶に頼っただけでも、角田光代、篠原一、赤坂真理、安彦麻理絵、魚喃キリコなどの作品に、そういった場面(思考)は存在していたはずだ。なるほど、そこにはたしかに男性の視線による去勢や抑圧のようなものが働いているのかもしれない(とするのであれば、仲俣暁生が『ポスト・ムラカミの日本文学』のなかで「オンナコドモの共闘は可能か?」として、黒田晶の『メイド・イン・ジャパン』を「やられる」方から「やっちまう」方へと、女性の側からシフトさせようとした小説として挙げたことには、やはり意味があったといえる。だが仲俣は『極西文学論』では、「視線」の問題を扱いながらも、こうした男女間にある齟齬としての「視線」は、どこかへとやってしまうのだが)。ただまあ、こうした話になってくると、金原ひとみや、今の若い少女マンガ家とかぐらいの世代は、セックスに関して、まったく屈託がないように感じられるので、もうちょいじっくり考えてみることが必要か。
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2005年01月08日
 『新潮』2月号掲載。短編。絲山秋子の小説には、特定の個人とセックス(性交)をすることを、用意周到に避ける傾向がある。この小説でも、ある男がある女に変態的なプレイを強いている場面があるにもかかわらず、しかし互いの性器と性器を擦り合わせる式のセックス(性交)は行われてはいない、勃起した男性器は女性の肛門に挿入され、射精は膣の外へと向けられる。射精のあとで男は、寄生虫と自分の違いをいうと自分は子孫を残さない、寄生虫と自分の共通点はといえば宿主を殺さないことだ、と女に告げる。またべつの場面で、男と女は、次のように話す。〈因果関係が嫌なんだよ〉〈それで愛なんかいらねーって言ったの?〉〈自分にないもんはいらねー、そんだけ〉。

 この小説では会話に「かぎカッコ」が使われていない。会話文と地の文がいっしょくたになっている。とはいえ『新潮』2月号という雑誌全体でみれば、この小説の前に掲載されている鹿島田真希『六〇〇〇度の愛』も、この小説のうしろに掲載されている長野まゆみ『昼さがり』もまた、会話文と地の文の区別のないつくりなので、そのことを特筆するよりは、そのような共通項を持つ、つまり登場人物同士の境界の曖昧さをムードにした異なる小説が、はからずも(もしかしたら編集者の意図によってかもしれないけれど)並んでいることのほうこそが特筆されるべきだろう。そういう時代なのだ。ひとりぼっちでは生きていけないけれども、はたして誰とどのようにして関係をつくればいいのかがわからない。性交(セックス)によってキープされる恋愛は、そのための保証とはならない。そうした不安のなかで自分の存在感も薄れてゆく。

 それにしても絲山は相変わらずポップ・ミュージックの扱い方が上手い。パリで聴かれるスチャダラパーのラップは、たぶん、意味のない言葉ばかりだとしても共通言語の気楽さでもって、ずうっと自分のほうに語りかけてきてくれる(歩み寄ってきてくれる)、やさしい他者の声なのだ。


 『袋小路の男』についての文章→こちら
 『海の仙人』についての文章→こちら
 「アーリオ オーリオ」についての文章→こちら
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2005年01月07日
 女性の性をテーマにした小説を扱う「R-18文学賞」の第3回から登場した作者のデビュー作品集。というわけで、大賞&読者賞受賞である「ねむりひめ」を含む4つの小説が収められているわけだが、どれも主題として置かれているのは、女の子が測るセックスとの距離のようなものである。表題作である「しゃぼん」は、女としての責務(結婚や妊娠)を放棄するためにセックス(性交)やうつくしくあることを避けようとする女性の話で、2話目「いろとりどり」と3話目「もうすぐ春が」は初潮を軸にして思春期の少女の感情の揺らぎを描いている。個人的には、恋愛とセックス(性交)の切り離しを執拗に行う4話目の「ねむりひめ」が、いちばん興味深かった。「しゃぼん」に他の小説の登場人物がちょこっと顔を出す構成は、オムニバス形式の少女マンガのアイディアを真似たものだろうけれども、読後感もまた、少女マンガに近しいものがある。ただ、吉川よりも先行する同世代の女性作家である篠原一や黒田晶が、「僕」という立場から主体を立ち上げなければならなかったのに比べると、ここでの「私」はちょっと脆弱的で、「やる」「やられる」の関係性でいえば、「やられる」ことを受動的にではなくて、能動的に選ぶ「私」たちの生き方は、僕が男性だからそう感じるのかもしれないが、自閉のほうへと寄り過ぎているみたいだ。ちなみに、レッチリやティーンエイジ・ファンクラブ、ジョンスペなどの名前が登場するが、それほどポップ・ミュージックからの影響(造詣の深さ)は感じられず、そのことがそれぞれの固有名をものすごくださいものにしている、もったいない。
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2005年01月06日
 ブルボン小林イコール長嶋有によるゲームに関するエッセイ集で、これはおもしろかった。僕はテレビ・ゲームの類はもうほとんどやらない人なので、ここで取り上げられているゲームのうち、とくに最近のものは動いてる画面すら見たこともないのだが、ぐいぐいと引き込まれた。それはなぜかといえば、ブルボン小林のゲームに対する愛情が文章全体から滲み出ているからである、というような詰まらないことは言わない。では、どういうことなのかといえば、ワンセンテンスにおける情報量の扱いがものすごく巧みなのである。なぜ『フロッガー』というゲームの主人公が蛙でなければならなかったか、なぜ『クルクルランド』というゲームは真上からの視点によって成り立っているのか、そういうほとんどどうもいいようなことを、しかし本当はどうでよくない、まるで人間というものの、そしてゲームというものの存在理由に関わる問題であるかのように、ゲームの画面と背景にある歴史と当人の感覚的経験などから得た膨大な情報を的確に取捨し、それでもって、たった100字ほどで説明してしまうのである。これはかなりすごいことだ。と、やたら大袈裟になってしまったけれども、要は、ゲーム機の持っている情報処理速度ではなくて、あくまでもゲームをプレイしている側の人間の情報処理速度で、話が綴られているということだ。たとえば、容量にすれば大きな違いのあるPS2のゲームとMSXパソコンのゲームを、同じ情報量でもって語ることができるということである。そうした書き手としてのバランスのよさは、もちろん長嶋有の小説にも生かされている。そのことは本書に収められた『ジャージの二人』の続編、『ジャージの一人』によって確認できる。ちなみに、この本に載っている文章の大半は今現在まだネット上でも読めるので、検索してみるといいです。
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2005年01月05日
 意図的にこの国のテレビ・ドラマを奇形化させたような『東京湾景』が、じっさいにテレビ・ドラマの原作に選ばれるような時代において、吉田修一の描く恋愛とはどのような意味を持つのか。この本の帯には〈間違ってもいいから、この恋を選ぶ。そう思ったことはありませんか?〉とある。話は変わるのだが、石川忠司は吉本隆明についての文章『“大衆”の位相について』のなかで、スーパーカーの楽曲「Easy Way Out」中の〈実際、「正しい」を前に間違いをわかって選ぶのさ〉という歌詞を引き、吉本の「語相論」(『ハイ・イメージ論』)を読み解こうとする。

 吉本自身は、例えば「日本における革命の可能性」なんかでは「政府に対して国民がより自由になり、政府をコントロールできるようになる」とか思っていたにもかかわらず、「語相論」の“大衆”、強いては吉本隆明本来の“大衆”概念とは、むしろまったく反対に、まさに「大衆が力をつけてきた」とか「大衆や民衆の立場からこそ出発せねばならない」とかの言辞やイデオロギー、さらにはそうした言葉に支えられたすべての現実的行動を死滅させる威張った「位相」にほかならない。といっても、大衆的なスタンスを保持しよう式の主題に別の「正しい」主張を対峙させ、そうやって前者を否定するのでは決してなく、スーパーカーの「Easy Way Out」の歌詞を借りるなら、「「正しい」を前に間違いをわかって選ぶ」ことによって、いわゆる大衆賛美や民主主義やその他何やらの、公然かつ堂々と表明されてしまうあらゆる「正しさ」とか「正義」を死滅へと導くわけである。

 石川忠司『“大衆”の位相について』


 正直、トートロジカルっぽいところもあり、なかなか理解しづらい文章ではあるけれども、たぶん石川が言いたかったのは、その何センテンスものあとで出てくる〈たとえ「正しさ」につながらなかったとしても、命懸けの狂った行為は常に素晴らしい〉というものなのだろう。そのこと自体の是非はともかく、この小説のなかで主人公の女性もまた同様に「「正しい」を前に間違いをわかって選ぶ」ことになる。読めばわかるように、この物語のどこにも相思相愛は存在していない。片想いの熱はあるのかもしれないが、それも他者との交流へ結びつくよりは、ただのマスターベーションとして完結している。それでも、これが恋愛小説として成り立つのであれば、それは、ラストで主人公の女性が自分の置かれた窮屈さから逃れるきっかけとして起こす行動が、いま現在を生きる多くの人には恋愛のように見えるからなんだろう。あるいは、もはや虚無感や閉塞感から脱するためのツールとしてしか恋愛感情というものは必要とされていない、と、そういうことなのかもしれない。
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 僕はもう荷宮和子のことが嫌いすぎて、逆に好きになってしまったのかもしれない。読むととてもムカムカするのだが、新しい本が出ればチェックせずにはいられない、この感情はなんだろう。さて。荷宮はこの本の冒頭で女子供文化はあくまでもカウンター・カルチャーなのであり、サブ・カルチャー(「サブカルチャー」)とは異なるものである、と強くいう。だが正直なところ、何に対してのカウンターなのか、というのは明記されておらず、おそらくは社会的な「なにか」に対してのカウンターなんだろうな、というのは読んでいてなんとなくわかるのだけれども、そういった「なんとなくカウンター」のムードだけでアジテーションを繰り返しているので、やっぱりちょっとこれはフェアじゃないな、と思ってしまうのが僕である。

 はい。で、細かいところはどうでもいいのだが、しかし、個人的にはどうしても看過できない箇所が一点あって、そのことについてだけは書いておかねばなるまい。それはP153から5~6ページにわたり書かれている部分である。ここでの荷宮の主張の大枠、「戦争」と「強姦」はワンセットとして考えなければならない、つまり、「戦争」を肯定するような発言をする際には自分がまた「強姦」を肯定する発言をしているかもしれないという責任を負わなければならない、というのに関しては、とくに反対はない。
 僕が、かっ、となるのは、そのロジックの立て方なんである。
 荷宮は、渋谷陽一が行った藤原帰一のインタビューを引き、そこでの発言をからめならが彼らがレイプをしないタイプの人間だとしたら、それは彼らがモテるからなのだといい、しかし世の大半の男はモテないのであり、戦争が起こればレイプをする人間のほうが多いのだ、と決めつけるのである。
 おい、ちょっと待ってよ。
 もちろん「モテる」「モテない」というのの定義は人によってさまざまだろうが、この文章を読む限りにおいては、渋谷や藤原のような(成功者あるいは余裕のある)タイプとして考えればいい。としたとき、そうではないタイプ、それこそ僕などはもう潜在的なレイプマンだということになってしまう。これはちょっと酷いよ。あんまりだ。そりゃあたしかにモテやしないし、女の子とも縁遠いけれど、それだけで強姦魔予備軍呼ばわりは、さすがに傷つく。
 いや、なんつうか、欲望とかよりもずっと大切なものって絶対にあるはずなのだ。そういうのを僕はサブ・カルチャーから教わり、そうして生きているつもりだし、これからも生きるつもりだし、時と場合によっては命を賭けてもいいし、どんな極限状態におかれてもガッツと思い遣りだけは忘れたくはないんだ。

 「自分の身を守るために仕方なく」といった状況での実行も有り得る「殺人」とは異なり、「強姦」の場合、それを実行するか否かについては、最終的にはあくまでも個々人の人間性に則った結果になるはずである。 P158

 しかし荷宮のロジックをそのまま使えば、「個々人の人間性の則った結果」とは「モテる」「モテない」という、ふたつの極にカテゴライズされた末での選択肢のない選択でしかなくなってしまう。そんなところで人間性云々といったところでどうにもならない。こういうのを僕は、「なんとなくカウンター」のムードだけでアジテーションを繰り返している、といっているのであり、そうした「なんとなく」のムードだけでマジョリティとマイノリティを分け、自分はあくまでもマイノリティの側に属していると主張する荷宮は、やっぱり卑怯じゃないかと感じられるのだった。

 私自身は、「二択で結論を出したがる」ものの見方自体に問題があると感じているわけだが、「二極思考」の方が論を有利に運ぶことが有利であるため、この種の価値観の持ち主に対処することは難しいという現実がある。というわけで、この私も、ここでは彼の思考法に乗じてみようと思う。 P156

 いや、だからそれ、あなたもそうだから。あえてここからはそう書きます、みたいな前置きをしてしまうってことは、その前からしてすでに(あるいは全編)そうなっていることに気づいていないんだろうなあ。
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2004年12月28日
 続き物だったのか。『メフィスト』9月号に掲載された『ニンギョウのタマシイ』の続編である。『メフィスト』05年1月号掲載。十七番目の妹が死んだとき、「私」は人生で4度目の映画鑑賞を行う。ニンギョウのタマシイという映画を観た1週間後、「私」の右足が腐りはじめる。そして「私」は五番目の妹に連れられて、人体交換屋のもとへと向かうのだった。
 『ニンギョウのタマシイ』に比べると、ずいぶんと筋のようなものが見える、キャラが立っている、そうした分だけ読みやすくなっているのだけれども、なにが言われているのかはよくわからない。ただ、ぼんやりとしたイメージのようなものだけを読まされているような印象である。それが悪いというのではなくて、従来の西尾維新の小説とは確実に一線を画す内容なので、僕は好きだけど他の人の反応はどうなんだろうな、と思うのだった。

 『ニンギョウのタマシイ』についての文章→こちら
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2004年12月24日
 いっかい読んで、そのあとでいろいろと考えて、それからもういっかい読んだのだけれども、うまく考えがまとまらなかったので、さくっと書いておく。僕が考えていたのは、要するに、ロック批評(ロック・ジャーナリズム)というものを教養として欲する人がどれだけいるだろうか、とかそういうことなんだけれども、それはわきに置いておく。

 これは『クイック・ジャパン』誌での連載をまとめたもので、内容はといえば、ほぼ題名が示すとおりのものだと思う。ただ全体を通して、あくまでも日本のロック(邦楽)と日本のロック雑誌との関係性を中心にして物事が語られているので、僕のようなほとんど洋楽しか聴かない読み手には、それほど得るところがなかった、というのが正直なところ。もうちょっといえば、洋楽に対して日本のロック雑誌(ロック批評、ロック・ジャーナリズム)がどのように向き合ったかというのが、たとえば『ミュージック・ライフ』におけるミーハー的立場の提示で終わってしまっているのが、残念な感じなのである。とはいえ、70年代ぐらいの時代、日本のロック(邦楽)やロック雑誌(ロック批評、ロック・ジャーナリズム)がどのような状況のなかにあったかという、そのことに関する資料としては、それなりのヴォリュームがあるんだろうな、とは思った。
 
 栗原裕一郎「ロックにまつわる「言説」と「ブンガク」」(別冊宝島『腐っても「文学」!?』所収)や、北田暁大「ポピュラー音楽にとって歌詞とは何か」(『ユリイカ』03年6月号所収)あたりと併せて読むといいかもしれない。
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2004年12月23日
 けっきょくは「死」の存在なんじゃないかな。『群像』連載時には、海外(おもにアメリカ)と日本の文化的時差のなさ、ポップ(ロック)・ミュージックと文学の歴史的価値の同等化、それら2点を軸にして、つまり、時間というパースペクティヴではなくて、距離というパースペクティヴでもって、我々が生きている場所を改めて捉え直すためのものとして、僕はこれを読んでいたために、気づかなかったことがあって、それが何かといえば、「死」という存在の欠如なのではないか、と思ったのだった。

 「恐怖」という曖昧な感情、村上春樹の小説に共感しつつ、しかし、その共感があることによって、村上が提示した「恐怖」の解除の仕方に対して、仲俣暁生は違和を抱く。しかし仲俣は、その「恐怖」がどこからやってきているのかを突き詰めていかない。あるいは、ただ、そのイメージや象徴的な在り方こそが、我々を苦しめているかのように語るだけで、それこそ「熊の場所」(舞城王太郎)に立ち返ることを、無意識的にか、あるいは意図的にか、ずっと先送りしている。そのため読み手であるこちらは着地点をうまくつかむことができない、そういう印象がある。

 この本のなかで、主に取り上げられている村上春樹、吉田修一、舞城王太郎、保坂和志、阿部和重、星野智幸、あるいは補足的に用いられるチャールズ・マンソン、スティーヴン・キング、ヴィム・ヴェンダースの作品のなかに「恐怖」があるとしたら、それはたしかに「暴力」に依ってはいるけれども、そうした「暴力」を「恐怖」として感じるのは、その向こう側に「死」が待ち構えているからではないだろうか。だが、ここで重要なのは、そうした「死」を孕んだ表現として現われているそれらが、たとえば吉本隆明がいうところの「ハイ・イメージ」とは異なっているという点である。「ハイ・イメージ」もまた臨死体験という、ある意味では「死」を契機とした発想であるにもかかわらずに、だ。『極西文学論』は、そうして「死」(原因)のほうではなくて、見え方=視線(結果)の違いのほうを論じてゆくことになる。

 「見る/見られる」関係における弱者はふつう、「見られる側」であるとされる。なぜなら、見られる側はつねに、「撮られる/撃たれる」側であるからだ。恐怖とは、その可能性に気づいた時に「見られる側」に発生する生理的・心理的感覚である。しかし量子論が教えるように、「見る(撮影する)」という行為自体が、観察者(撮影者)と観察対象(被写体)の関係に予測不可能な不確定性を持ち込むのだとすると、そこでの権力構造は必ずしも固定的なものではありえず、両者はたえず逆の立場へと転倒する可能性を孕むことになる。 P205-206


 もちろん、この「見る/見られる」という関係性における「見られる」という主体は、「撮られる」という主体と同一であるように「撃たれる」という主体と同一であるのだから、それは「殺される」という側に立つ主体にも置き換えることができる。

 一九九〇年代以降に登場した一連の作家――保坂和志、阿部和重、吉田修一、星野智幸、舞城王太郎――は、小説のなかに「自分自身を見る眼差し」を意識的に組み込んでいるという共通点を持つ。彼ら(そう、私が問題としているのは一貫して男の問題である)が小説内に導入している「自分自身を見る眼差し」は、「見る/見られる」という関係が固定化した場合に必然に生じる権力構造を解体するための対抗的な装置だと考えられる。
 (中略)
 とはいえ、この対抗的な装置を獲得したからといって、それを「新しい視覚」であるなどと無邪気に語ることはできない。自分たちが「高高度」からの視線や偏在する監視網に晒された弱気客体でもあることをすでに知っている私たちは、小説の語り手が特権的な視線を持った主体だという幻想を最早もち得ないのであり、だからこそ、このような視覚への強い意識が生まれたのだから。 P225-226


 ところで仲俣は、前著にあたる『ポスト・ムラカミの日本文学』のなかで、「犯やれる側の倫理」として、90年代に登場した女性作家である黒田晶の『メイド・イン・ジャパン』について次のように書いている。

 女性の作家がここまで赤裸々に暴力を描いたことに、ぼくは興味があります。描くということは、そのことによって暴力について考え、批評するということだし、そのことで乗り越えるということです。言葉を換えれば、「やっちまう方なんだぜ、やられる方じゃなくて」という立場を想像してみることです。


 こうして比べてみると、あえて男性作家しか扱わなかった『極西文学論』は、「暴力」や「死」に対して延々と躊躇い続ける、男性性のなかにある脆弱性、あるいはモラトリアムのようなものを肯定するだけに止まってしまっている、僕にはそう読めるのだけれども(ミスリードかもしれないが)、しかし、そういった問題の乗り越えこそが、仲俣にとっての次の課題となってゆくのだとすれば、結びに近いあたりで書かれている次のような言葉は、とてもとても強く頼もしいものとして響く。

 私たちの足元には土地があるのだが、植えられる言葉だけがまだ足りない。私たちがいちばん必要としているのは、どんな土壌でも葉を伸ばしてゆけるような、強い強い言葉なのだ。 P229


 ここで行われているのは、次の場所へ旅立つ前にまず、いま自分の立っている足場を確認する、そういう作業であるのだと思う。
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2004年12月21日
 やべえ。これ、すげえ馬鹿だ。いや良い意味で、いやいや良い意味で馬鹿というのは、よく意味がわからないけれど、そういう意味不明なハイウェイをものすごい速度で突っ走ってゆくかのような、文体であると思う。どんな感じかといえば、手っ取り早く、さいしょのほうの一文を引っ張っておきたい。

 だから本質的に善人だろうが悪人だろうが、性欲は平等にそのルーレットを回しておれたちを毎秒破滅に追い込むために、ジャックポットを狙ってるわけだ。ぐるぐるぐるぐる~。シュート!BANG!BANG!ビンゴ!性欲ってやつは分別がない、従って恥じることもない、だから人を操るのに犯行予告もしない。いつもいきなりだ。大陸じゃあチンコ切ったら性欲が収まると思ったやつがいたらしくて宦官なんつーチンコを切り取られたカマどもが結局、国を腐敗させた。いい教訓だ。わかるかい?じゃあここで一句詠もう。 P7-8

 こんな感じ。こんな感じで全編いく。『ライトノベル★めった斬り!』で紹介されていたので読んだわけだが、これがけっこうすごかった。サンプリングやリミックス、データベースをフルに使ったかのような引用が多々用いられ、そのことによって読み手の意識を煙に巻いてゆく。

 とはいえ、ストーリーにとくに際立ったところがあるわけでもなく、内容を簡単に説明すると以下のようになる。目を覚ますと「僕」は記憶を失くしていた。「僕」を保護したのは12人の女子生徒だけで構成されている学校の理事長だった。「僕」は彼女の依頼を受け、校内を徘徊する強姦魔の捜索をはじめる。捜索の途中で「僕」が出会う女子生徒たちは、なぜかブルマー姿だったり、魔女っ子だったり、悪魔だったり、軍服を着ていたりする。そして彼女たちは「僕」を使ってレイプされたときの様子を再現するのだった。という身も蓋もないエロ小説である。

 はっきりといえば、そこで行われている行為に、ほとんどモラルは存在しない。暴力的な描写が苦手な人は読むに耐えられないだろう。けれども作中で強姦魔がいうように、その世界はモラルからは除外された場所であるので、そういったことを追求しても仕方がなく、だからこそ、あーものすごい馬鹿だ、と読みながら思うだけなのであった。

 エロゲーだかなんだかを再構成した小説であるらしいが、僕はそこらへんのことはよくわからないのでなんともいえないのだけれども、そういったエロゲーとの親和性よりはむしろ、菊地秀行原作のマンガ『魔界学園』(細馬信一)に近しい雰囲気を覚えた。細切れになった世界が、その細切れのなかで、ひとつひとつ完結している感じ。うまく言えないけれど。
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2004年12月20日
 下巻に入ると主人公は海人から、上巻にも出てきたアナーキーな双子の姉妹、桜子と椿子へとスイッチする。上巻は中盤ぐらいから、男=抑圧=戦争VS女子供=解放=秩序みたいな、二項対立のシンプルな構図で動いていたが、もちろん、この世の理はそれほどシンプルではない。下巻では、女の子だけの武装集団パンプキン・ガールズを中心にして、二項対立のシステムを超乗することと、そのことの挫折が描かれている。あるいはシンプルに、桜子と椿子のふたりの成り上がりの物語としても読める。としたときに、これは、いわば海人の成り上がりを追った上巻と対を成していることがわかる。上巻では、海人は母親の仇を殺そうとする、下巻で、双子の姉妹はじつの父親を殺そうとする。そういった部分においても、見事な対となっている。そのことと関連して、タイトルに置かれた「裸者と裸者」とは何を指しているか。といえば、たとえば裸になったとき男と女は、その姿形が違うがゆえにひとつに交わることができる、が一方で、その姿形が異なるため互いを組み敷こうとしたりもする、そういう風に続いてゆく「永久戦争」のような相克だろう。しかしそのようなことであれば、姿形のまったく同じ双子だけが「邪悪な許しがたい異端の」存在として、この世の理の裏側を駆け抜けることができるといえるのであった。
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 あ、なるほど。これはおもしろいや。とにかく展開がアップ・テンポなので、いっきに読んだ。「応化」という年号で語られる近未来の日本は内戦状態だった。6歳のときに爆撃で両親を失った佐々木海人は、幼い妹と弟を連れ、貧困の街をサヴァイブする。略奪だけが生きる術であるし、人はばんばん殺されるし、女の人はレイプされるし、子供たちは攫われ少年兵として戦場に駆り出されるし、そこでの待遇は散々なものであるが、暗さや重たさはあまり感じない。凄惨な世界を見せつけられているはずなのに、読後感は明るい。それは死者のほうではなくて、あくまでも生者のほうへと、読み手の視線が固定されるためである。そして生者は、混沌からじょじょに秩序を立ち上げてゆく。その秩序の立ち上がる部分こそが、この作品を、くるおしいほどのエンターテイメントとして仕立て上げているのだと思う。
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2004年12月19日
 文庫。こういうわけで読みたかったのは『空の中』だったのだけれど、近所のどこの本屋にも売ってなく、アマゾンさんに注文したら今年中には届きそうもなかったので、同じ作者のデビュー作を先に読むことにした。

 ある日、危機的な状況が人類を襲う。人が突如として塩の塊に変質してしまう、塩害という現象の発生である。世界中の人口がじょじょに減少してゆくなか、ある平凡な女子高生真奈は、偶然出会った秋庭という年上の男の世話のもと、日常をなんとか守りながら生きている。だがその生活は、ふたりの静かな関係は、やがて世界の存亡に関わる激しい流転のなかへと放り込まれる運命にあった。

 正直なところ、なぜ秋庭と真奈がそれまで塩害の被害に遭わなかったのか、その説明に、僕なんかは説得されきれないところがあるけれども、そのことを差し引いても、おもしろく読めた。

 作品のテーマは、作者があまりにも解説しすぎる「あとがき」のなかでいっているとおり、世界が大事か自分と自分の愛する人が大事か、というようなことである。ただそれは同時に、愛する人のために死ねるか、という問題を内包している。それに対しては、ギリギリのところで答えているけれども、では愛する人のために死ぬのはほんとうは誰のためか、というところまでは踏み込んでいけてない感じがして、そこだけが勿体ない。

 「あとがき」を読む限りでは、それも自分のため、というのが作者の答えであるようだが、作中では、男と女の考え方の違いみたいなところでボカされている。まあそれで良しとするかどうかは、読み手の好みの問題か。あとイラストがどうも内容とマッチしていない気がする。が、それも好みの問題かもしれない。
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2004年12月15日
 ほぼ同時に読んだので一緒くたにしてしまったけれども、それぞれの趣旨はけっこう違っている。『めった斬り!』のほうはライトノベルの古典を主に扱っていて、『このライトノベルがすごい!』のほうはリアルタイムの作品を中心にしたガイド、というのが大まかな印象かな。ただ『このライトノベルがすごい!』の読者アンケートみたいなのをみると、30代や40代の人が多くいたりするので、古典を読んでいる=中高年、新作を読んでいる=若年層、といった見方は安易にできないのかもしれない。それはともかく。ライトノベルに関するこういったガイドブック的なものが、ここ最近になって成立するようになったというのも、要するに、現在ではサブ・カルチャーの類が大勢にとっての「教養」として機能しているということの現われなのだろう。

 さて。これらを読んでいて思ったのが、僕なんかがリアルタイムできっちり押さえているのは90年代前半ぐらいまでだな、ということであった。作品でいえば、『ロードス島戦記』の最後までと『スレイヤーズ!』や『フォーチュン・クエスト』のさいしょのほうまでといった感じである。それ以降は、菊地秀行や夢枕獏の、ちょいとハード目なほうへ行ってしまったわけだが、それというのは、ファンタジーのコミカルな路線というのが駄目だったというのが大きな理由としてあるのだけれど、それ以外にも、『このライトノベルがすごい!』の年表にあるようなファンタジーバブルというのが90年代の前半にはたしかにあって、僕はといえば、活字よりもゲームやマンガのなかで構築されるファンタジーの世界へと流れていってしまったのだと思う。
 
 ここらへんには、おそらく当時流行のメディアミックスというやつが大きく作用していて、メディアミックスというと、コングロマリットとしての大きなまとまりのような印象を受けるが、しかし結果としては、ひとつのジャンルがさまざまなメディアへと分岐してゆくことで、現在でいうところの二次創作へと繋がる、核(オリジナル)自体が細胞分裂するような、そういう細分化を引き起こしていた、と推論したい。のだが、ものすごく思いつきで書いているので、嘘かもしれない。
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2004年12月13日
 本来ならば『SIGHT』本誌のなかの企画のひとつだが、今年はなぜか一冊の本にまとめられた。今月の『invitation』の仲俣暁生と豊崎由美の対談あたりと併せながら読むといいかもしれない。個人的には、よしもとばななだけじゃなくて、島田雅彦と伊坂幸太郎も渋谷陽一にインタビューして欲しかった。というか、伊坂幸太郎のいうパンクっていうのが、いったいどういうものを指しているのかが突っ込みきれていないんだよな、それが残念。北上次郎と大森望の対談を読んで、打海文三『裸者と裸者』と有川浩『空の中』は読もうと思った。あと絲山秋子とかはもうちょい取り上げられてもいい感じがするけれど。来年以降の人なのかな。舞城王太郎が今年の人だったように。

 読まなくてもいい続きを読む
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2004年12月10日
 『新潮』05年1月号掲載。最近のもののなかでは、いちばん良かった。ただ僕は『慾望』を素晴らしいと思っているタイプの人間なので、あてにはならないかもしれない。

 ここで子供たちが怒るというのは、アパシーから、とっさの衝動を経て、切実な感情を回復する、そういう行為なのだと思う。話の筋は、取り出すのも馬鹿らしいほどに支離滅裂、整合性がない。積み重ねた状況や、張られた伏線は、最後にはほとんど無視されてしまう。たとえば妹との関係なんかも、いっけん重要に見えるのに、どこにも着地していかない。そのことに唖然としてしまう向きもあるかもしれないが、しかし、そこがいいと思うのが僕である。重要なのは、関係性などではない、血の繋がりなどは単なる設定でしかない、そういった設定の束縛からの解放として、物語のなかに現われているのが、破壊への欲望に似た初期衝動なのだ、といえる。

 もちろん、暴力や性に対する表現の仕方があまりにも稚拙だという批判はできるけれども、金原ひとみの小説がうけるのが現代であるのならば、そうした稚拙さこそがリアリティであるという弁護が可能だろう。という意味で、佐藤友哉の持つ資質が見事に開花している。旧くからのファンにしてみれば、やや自己模倣気味のような感じがしないでもないが、ここまで徹底してネガティヴであることをネガティヴだとわかりつつネガティヴに書き続けるネガティヴさは、やはり貴重だ。それに、先に書いたこととも関連して、かつてならば粘着的に綴られた妹との関係が、ここでは、ばっさりと切り捨てられてしまっているあたりに、佐藤という作家が新しいフェーズに突入したという読みもできる。参照項をいちいち列挙できるぐらいに、いくつも借り物のマテリアルが用いられているのは相変わらずだ、が、けっしてフェイクではない。そのことは読み終えたあとに感じる、清々しいほどの気分の悪さからして、間違えようがないのだった。

 「はてなダイアリー」のほうにも、この作品について、すこし書きました→こちら
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2004年12月08日
 「漫画も、小説も。物語をどこまでも楽しむ、新しいかたち」として講談社から創刊された『エソラ』Vol.1に掲載された新作。『エソラ』自体の印象は、吉田修一、氷川透、渡部球といった小説家や、五十嵐大介、真鍋昌平、安彦麻理絵、杉村藤太などのマンガ家が創刊号の他のラインナップとして揃っており、青年向け『ファウスト』といった感じか(や、ちょっと違うけど)。まあそれはともかく。なかでも伊坂幸太郎の小説が、抜群におもしろかったので、それについて書いておきたいと思う。

 話の筋を簡単にとれば、特殊な能力を持った主人公が未来の独裁者に対して孤独な戦いを挑む、という伊坂版『デッドゾーン』である。しかし重要なのは、そこではない。犬養という『魔王』における未来の独裁者は、理屈としては正しすぎるあまり何かを間違えているという意味で、村上龍『愛と幻想のファシズム』であれば鈴原トウジに、村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』であれば綿谷ノボルという人物へと置換することが可能だということだ。しかし『魔王』の主人公安藤は、『愛と幻想のファシズム』のゼロや『ねじまき鳥クロニクル』の「僕」のような、独裁者と対峙しうる特権的な場所には立っていない。あくまでも市井の自意識のいちヴァージョンでしかない。その姿はちょうどマンガ『寄生獣』の主人公であるシンイチを思わせる。なにか大義のためにラスボスとの対決を行うのではなくて、なにも大義がないがゆえに対決を強いられるという図式である。そうして『寄生獣』には、シンイチの行動がじっさいに人類を救ったかどうかというのとはべつのレベルで読み手のほうへと訴えてくるエモーションがあったわけだが、それと同じような構造からくる感動が、この『魔王』にも宿っているのだった。

 ところで。安藤は、十年以上も前のアメリカ製のテレビ・ドラマ『冒険野郎マクガイバー』を自分のロール・モデルに置いていて、「考えろ」という台詞を度々口にするのだが、この「考えろ」の使い方は、ちょっとマクガイバーのものとは違う気がする。たとえばマクガイバーは切羽詰ったときに自分をリラックスさせるように「よーし、考えろ、マクガイバー」というのだが、安藤は逆に「考えろ考えろ」ということで自分を追い込んでいるようなところがある。僕は今でもビデオに12時間分ぐらい録画した『冒険野郎マクガイバー』を所有している人間なので、宮沢賢治の引用とかよりも、そういった点のほうが気にかかった。いや内容とぜんぜん関係なくて、すまない。
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2004年12月07日
 日本の消費文化の独自性とは、海外(アメリカ)から輸入された文化をそのまま取り込むのではなくて、かといって日本古来の文化にベースを置くのでもなく、それら両者のブレンド(アレンジ)によって成り立っている。それはどういうことかといえば、非日常/日常、ハレ/ケ、虚構/現実、アメリカ/日本、他者/自己といった二項対立の間に引かれた境界線(/)が曖昧となって存在する、ポストモダン的な在り方のことである。たとえば、それはクリスマスやバレンタインといったイベント、百貨店の屋上、ホテルなどが60年代以降から現在にかけて、どのように変化したかに現われていたり、東京ディズニーランドという空間にダイレクトに反映されている。と、内容をものすごくシンプルに取り出せば、そういう風な感じになるかな。ただ、この本てさ、完全に90年代を無視した形で書かれているわけですよ。80年代のあとに、いきなり現代=00年代に繋がってしまう感覚というのは、僕にはちっともわからない。まあ本書になぞらえていえば、90年代っていうのは要するにポケベルに代表されるような、そういう忘却の時代なのかもしれない、ある人たちにとっては。
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2004年12月04日
  結局のところ、僕がよしもとばななの小説の良し悪しを判断する基準っていうのは、世界を対象化する視線、世界に内在する視線、世界を超越する視線、の3つのバランスなのかな。この世界っていう言葉は、家族という言葉に置き換えてしまってもいいかもしれない。家族を対象化するとき、家族は他者になる。自分がその家族に内在しているとき、彼らは他者ではない。しかし、その外部に立つときには、再び他者に戻る。

 ここには、沖縄を舞台にした小説が4編収められている。いちばん長いのは表題にもなっている「なんくるない」である。が、僕はこの作品がいちばん駄目だった。それ以外は、とても良いもののように読んだ。とくに「ちんぬくじゅうしい」は、書かれた時期というのも関係していると思われるが、『High and dry(はつ恋)』に通じる内容になっていて、ひとつのブレイク・スルーのようにも感じられる。だけれども、繰り返すが「なんくるない」は最後まで読むのが、けっこうきつかった。よしもと自身が「あとがき」のなかで「なんくるない」を失敗作だといっているが、僕がこの小説を駄目だと思った理由は、たぶん、それとは違っている。要するに、さいしょに書いた3つのバランスがひじょうに悪いのである。

 たとえば次のような場面に、それは如実に現われている。離婚を経験した「私」は本屋へ旅行関係の雑誌を買い求めにいく、そこで偶々、とても苛々した風な店員にあたってしまう、店員は「私」からはほとんど見えない理由によって、突然「私」を怒鳴りたてる、そのことで「私」はこれまで夫によって守られていたことに、「私」という人間はひとりでは何もできないことに気づく。このときの「私」の心中は、ちょっと僕には尋常でないように見える。

 「私」は思う。〈人があんなふうになってしまうなんて、考えられない。あれはちょっと線を踏みこえすぎている。あんなふうになることがあるなんて、ほんとうはすごく異常なことだと思う〉。ここで「私」が異常だと考えているのは、突然怒り出した店員のことではない、店員をそのように後押ししてしまうこの世の見えざる力みたいなものに対してである。いっけん、そういう風に読める。しかし、それはただのレトリックに過ぎない。「私」はじつは店員を赦せないのである、が、そのことの責任を世界の側に押し付けることによって、けっして自分は他人を責めるような悪人ではない、そういう態度をとる、悪いのは自分である式の自己憐憫に浸るのである。そのような態度は、元夫に対しても行われている。こういう自分と世界の関係、自分と他者との関係、それらのバランスが狂ってしまっているのが「なんくるない」なのだ。

 もちろん、そうしたバランスの狂いを直すという物語が紡がれているのであれば、批判はないのだけれど、ちがう、物語は、従来のよしもとの小説がそうであるように、不意に見る夢によって自己解決するのみである。「私」はただ自分の自意識をめぐっているだけなのだが、本人だけが、そのことに気づいていない。そういった意味合いで、彼女のなかには、じつは他者がいない。ただ自意識だけが存在している、ただ自意識だけで彼女は存在している。それはとてもとても寂しいことだと思う。
 
 ↑何度か書き直したんだけど、だめだ、満足いかねえな、これ。問題は、現実で起こる変化(他者の到来)が、夢に作用しているのは間違いないんだけれど、夢で起こっている変化が現実にフィードバックされていない。つまり「私」自身は、現実においては、セックスをする以外に、他者に関与していないということになる、かな。

 アイデンティティとは、じぶんがどういう状況に置かれても、この時この場所でも、あの時あの場所でも、じぶんを同一人物だと感じることのできる、その根拠となるもののことであると、さしあたりいうことができる。しかしそのばあいには、他者とは異なるところ、他者から切り離されたところにこそじぶんに固有なものがあるというのは、ひとつの幻想ではないだろうか。それどころか、そういう、他者との関係を削除したうえでの「わたし探し」のエスカレーションが、わたしたちのアイデンティティをめぐる不安を逆に煽っているという面があるということはないだろうか。

 鷲田清一「所有と固有」(大庭健/鷲田清一編『所有のエチカ』所収)


 たぶん、ここいらへんなんだよな。
 
 『High and dry(はつ恋)』についての文章は→こちら
 『海のふた』についての文章は→こちら
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2004年12月03日
 第一特集は、みなもと太郎で、第二特集として『「戦時下」のアニメ』というのがある。この「戦時下」というのは、最近の大塚英志がよく使うキーワードで、江藤淳の『成熟と喪失』に由来していることはあきらかだが、僕は、それがどのような意味合いで用いられているかが、本当のところ、よくわかってなかった。けれど、ここに収められているササキバラ・ゴウ、更科修一郎、そして大塚の三者の文章を読み比べることによって、ようやくつかめた気がする。僕なりにまとめると、つまり、こういうことだ。「戦時下」あるいは「占領下」というのは、江藤が『成熟と喪失』で書き、加藤典洋が『アメリカの影』といったものと、ほぼ同義である。日本国憲法によって、日本という国は、アメリカの支配に無意識のうちに下っているみたいな、そういうことだ。が、しかし、それは長らく表層には現われていないものであった。だから加藤は『敗戦後論』などの仕事をしなければならなかったわけだ。けれども、9・11以降、そうしたアメリカの影としてしか存在しなかったものが、アニメやマンガなどの、いわゆるオタク文化(大塚表記ではオタクは「おたく」でなければならないが)のなかで、直裁的に浮上しきたのだ、と大塚はいう。このへんの因果関係は、じつはくわしく説明されていないけれども、たぶんオタクというのが、日本の閉塞した自意識の典型であるという見方と関連していると思われる。戦後よりずっと、日本は「占領下」に置かれていた、そうした状況が、海外で起こったテロによって顕になる、その占領に対しての抗いを指して、現在の日本は「戦時下」にある、と、おそらく大塚はいっている。この問題は、江藤の『成熟と喪失』のなかに現われている、母性の問題にも深く関わっている。そのことは更科の『忘却の旋律』論のなかに見て取れる。「男の子」という自意識の形態だ。で、ぶっちゃけちゃうと、ここでいわれているのは、要するに、モラトリアムをどうやって生き抜くか、ってことでしかないんだよね。「戦時下」というのは、なんだかエラそうだけれど、ぜんぶ「モラトリアム」という言葉と入れ替え可能である。すると、ササキバラや更科がいっていることは、無期限化されたモラトリアムにおいて主体をどのように獲得するか、という風になる。もちろん、モラトリアムを天国としてではなくて、まるで地獄のように生きる、というのは、なにもオタク特有の問題ではない。それをオタクの問題に特化してしまっていること、大塚がいうところのサブ・カルチャーとはオタク的表現でしかないということ、それはやっぱり偏ってるぜ、と僕なんかは思う。

 ざっと書いたので、これ、あとでまとめ直すかもしれません。

 『COMIC新現実』vol.1についての文章は→こちら
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2004年12月01日
 ひととおり読んだ。乙一、北山猛邦、佐藤友哉、滝本竜彦、西尾維新の競作、リレー小説を読むと、やはり乙一の実力が頭ひとつ抜けていることがわかる。あと思ったんだけど、彼らの書く小説が、総じて東浩紀の「読み」(メタリアル・フィクション?)の範疇に収まっているのは、じつはあまり良くない気がする。それはそうとして。西尾維新の小説『携帯リスナー』のなかにある〈スレイヤーの『エンジェル・オブ・デス』。 これを聴き逃したら、ぼくじゃない〉ってところが、かっこいいな。なんでスレイヤーなのかはわからないけれど、固有名が持っている情報量みたいなものを、うまく扱っている感じがする。萌えキャラっぽいDJがかけるスレイヤー、っていうのは、たぶん狙いなんだろう。舞城王太郎『夜中に井戸がやってくる。』は独特なフォントが非常に見づらいんだけれど、僕だけだろうか。とにかく「と」という字が目障りだ。ぜんぜん関係ないけど、僕は田舎の子なので、ふつうに背戸っていう言葉は使うし、感覚としては馴染み深いのだけれど、そうじゃない人たちには、ちょっと違う雰囲気で読まれるのかもしれない。ただ内容としては、入れ替わりと家族、小説が書かれることなど、これまでの舞城の作品が持っていたテーマが反復されている反面、どことなく初期の作品を思わせるところもある。
 余力がないので、ここまで。

 浦賀和宏、北山猛邦の小説、東浩紀の評論に関しては、いずれ「はてな」のほうに書きます。
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2004年11月29日
 文庫。これはよい。たしか『百年の誤読』のなかで紹介されていて(記憶違いだったら、すいません)、気になっていたので、読んだ。収められているのは、ぜんぶ短編で、どれも話に明確な筋はない。唐突な文章が唐突に、しかし一定の流れをもって続いてゆく。解説で柴田元幸は、巧みに制御された妄想、みたいなことをいっているが、まさしくそのとおりだと思う。イメージを読むような、そういう感覚である。個人的には、死んでしまった「僕」が名前の思い出せない誰かにあてて覚えてる限りの記憶を送り続ける、冒頭の「カーネーション、リリー、リリー、ローズ」なんかが、非常に好みだ。
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2004年11月26日
 生活の重たさというものがある。生活の重たさというのは、ある一定の関係の重たさでもある。この小説は、小夜子と葵、ふたりの三十代半ばの女性を中心にして、進む。小夜子は主婦で一児の母である。葵は自分で会社を興し、それを経営している。あまり人付き合いのうまくない小夜子は、他の主婦との関わり合いに疲労を覚えている、そこから逃れるように、働き口を探しはじめる。勤め先は、なかなか見つからない。ようやく現われた雇い主が葵であった。葵は、高校のときに、ある悲しい別れを体験している。そのことの結果として、人と関わることに疲れてしまっている。小夜子と葵はお互い、立場や生きている環境こそ違うが、なにか共感しうる部分がある、そういう風に漠然と感じとっている。しかし、そういった共感は、最後の最後まで、口にされない。言われるのは、立場や環境の違いのほうである。そうすることで、彼女たちの生活の重たさは測られている。角田光代が書くのはいつも、ここではないどこかへ行こうとする、あるいは、どこにも行けない、というような感覚だ。この小説でも、それは反復されている。「ここ」とはどこかといえば、生活の重たさのある場所を指している。家族であれ、恋人であれ、友達であれ、制度化された関係は、抑圧のシステムとほぼ同義なのだ。この小説では、だから制度化される以前の、友愛とでもいうべきものが書かれようとしている。葵は、ここではないどこかへ行こうとする。小夜子は、どこにも行けない、と思う。そうしたふたりを繋ぐラインは、けっして目には見えない、言葉にはされない、目に見えるカタチになってしまってはいけないし、ありものの言葉でできた器のなかに入れられてしまってもいけない、ただただ漠然と感じとられるべきものなのである。

 角田光代『庭の桜、隣の犬』についての文章は→こちら
 角田光代『ピンク・バス』についての文章は→こちら
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2004年11月25日
 最初は『新潮』8月号に載った『メロウ1983』を読んだ。正直なところ僕は、そこに書かれていることがよくわからなかった。『新潮』12月号に掲載された椹木野衣の評論を読むと、なんとなく判りそうな感じがしたので、今度は単行本化された『メロウ』を読んだ。しかし、やはり、よくわからなかった。要するにマイケル・ジャクソンあるいはエルヴィス・プレスリー=アメリカン・ポップ・カルチャー=資本制への崇拝を、いかにして抽象的に殺すか、ということなのだろうか。よくわからない。わからないのは、もしかしたら参照項が被らないせいかもしれない。椹木は、『メロウ』のなかに記される「いま(NOW)」を現在、ゼロゼロ年代だといい、「きのうの夜。」は80年代なのだという。ゼロゼロ年代に、80年代の死を語ることで、80年代はゼロゼロ年代を、ゾンビのように生きる。じゃあ90年代はどこにあるのだろうか。「いま(NOW)」と「きのうの夜。」の間のどこか。それはどこだ?僕には、やはり、わからない。
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2004年11月24日
 吉田修一の小説は、いつもシチュエーションが、変だ。が、しかし躓くような違和はない。たとえば、この「春、バーニーズで」では、主人公であるところの筒井が、新宿のバーニーズで、昔いっしょに暮らしていたことのあるオカマと偶然にも再会する。筒井は幼い息子を連れている。その子供は、筒井の血は引いていない、妻の連れ子である。オカマのほうはといえば、新しいツバメに、服を選んでやっているところであった。筒井は、オカマに自分の子を紹介する、息子には「ほら、このおばちゃんに挨拶しなさい」という。このやりとりは、どこか変わっている。けれども、そのことに気づけるのは、読み手が彼らの実情を説明されているからで、おそらく傍目からは、ただの知り合いの挨拶程度にしか見えない。ここでいわれているのは、つまり、筒井を取り巻く関係性というのが、本来ならば見えざる彼の内面に属しているという事実に他ならない。当たり前のことが、ごくごく当たり前のように述べられている。だからこそ、躓いてしまうような違和がないのである。しかし一方で、やはりシチュエーションとしては変だ、と思うのは、彼の内面の外側に、関係を定型化させる、そういう視点が存在しているからで、なるほど、これはそうした二つの関係性をめぐる連作となっているのだった。最後に収められた「楽園」のその最後「……なんていうのかな、二つの時間を同時に過ごしているみたいなんだ」といわれているのは、おそらく、そのような意味においてである。

 吉田修一『ランドマーク』についての文章は→こちら
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2004年11月23日
 物語はひとつだけれども、全体は4つの章に分かれている。「父さんは今日で父さんを辞めようと思う」という、あまりにも退屈な出だしではじまる第1章は、まるごと詰まらない。第2章で小林ヨシコという人物が登場すると、まるでそのキャラクター自体がストーリーに魅力をもたらしたかのように、ぐっと引きつけられる。けれども、最後の章の5節目、190ページで、再びあまりにも退屈な出来事が起こると、途端にすべては詰まらなくなる。それでも読み終えると泣けてしまっている僕は、自分のことを、ああなんて駄目な人間なんだろう、と思う。
 致命的なほどの欠点は、やはり悪意を持った人物が誰ひとりとして現れないことだろう。いや「私」のクラスメイトたち、あれは悪意のカタマリではないか、だから、そこで感じる「私」の憂鬱にはリアリティがある、とはいえる。けれども、それは無邪気さの裏返しでしかなく、結局のところ、「私」はそれらといったんは敵対しながらも、けっして自分自身を損なうことなく、また他人の手を借りるという安易なやり方でもって素通りしてしまう、成長がないのである。「私」に成長をもたらすのは、ただひとり、「私」が中途まで明確な悪意を抱いていた小林ヨシコだけだ。言い換えれば、この小説においては「私」だけが悪意を宿している、「私」は他人には善意を求めるくせに、おそろしいほどに他人には善意を分け与えない。そして、その身勝手さは、いわゆる他者であるところの小林ヨシコによってのみ改善されるのである。この部分が肝であるはずなのに、物語は、安易に登場人物を殺し、そこにフォーカスを当ててゆく。その瞬間に、全部が全部、定型的なメロドラマに成り下がる。そのことに素直に反応して泣いてしまう僕という人間が、くだらない。
 たしかに吉本ばななの系譜に連なるような、小説における食べ物の効用という点においては、ほかの作家、たとえば生田紗代なんかよりもぜんぜん上手な書かれ方がされている(ここら辺は年齢の問題もあるのかもしれない)が、作品は凡庸なレベルに止まっている。
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2004年11月22日
 新書。題名に入門とあるが、けっしてハウ・トゥ本などではない。むしろ逆である。これを読んでなお評論家になりたいという人は、よほど読解能力がないか、それとも多くを犠牲にしても志すほどに強い意志があるのだろう。小谷野敦が、ここでいっている評論とは〈あくまで、カネになる文章のこと〉であるが、しかし、いわゆるライターではなくて、評論家というのは、おそらく単著を出せるだけの知名度または実力を持った者を指している。要するに、そこへ辿り着くまでの過酷な道程が、小谷野の個人的な体験を踏まえ、延々と綴られているのである。

 いや、しかし、これはおもしろい。内容的には『恋愛の超克』のコンパクトなヴァージョンのように感じられた。ひじょうに攻撃的であり、スリリングであり、歯に衣着せない小谷野節が、ここ最近のもののなかでは、いちばん冴えている。ただし全体的には薄口であるので、僕がそう思えるのは、小谷野のものはほとんど読んでいるというのと、ここで取り上げられている対象のものもある程度は読んでいるというのがあるかもしれない。しつこく「命題」の使い方を説いているのを読んで、うひゃあまだ言ってるよ、という部分が楽しいし、売春否定肯定の件で、松沢呉一とのことはまだ小谷野のなかで決着がついてないんだな、っていうのが問題の根の深さを感じさせるし、柄谷行人『日本近代文学の起源』への言及は、柄谷のキャリア(あるいはポスト・モダンというもの)を知らなければ、その醍醐味は半減してしまうだろう。
 
 それと、これは個人的に思うのだが、小谷野の論争はやっぱりリアル・タイムで読むに限る。この本のなかでは、岸田秀や宮崎哲弥はあまり良く書かれていないが、ずっと以前の小谷野は、岸田の説を援用することがあったし、宮崎についてはたしか同世代のなかではもっとも理解できる論客だ、みたいなことを言っていたはずである。そこら辺の評価が翻った経緯も軽く書かれてはいるのだが、じつはそうした経緯の最中でみせる執拗さこそが、小谷野敦という評論家の真骨頂なのである。

 『俺も女を泣かせてみたい』についての文章は→こちら
 『すばらしき愚民社会』についての文章は→こちら 
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 『週間SPA!』誌上で行われた対談連載をまとめたもの。まあこういう本は、そんなに真剣に書いても仕方がないので、適当に。いちばん興味深かった発言は、本文中ではないけれども、(たぶん)福田和也の「宮台真司は“貧乏な渋谷陽一”」というもの、あーこれは良くわかる。あと村上春樹や大江健三郎のゴシップみたいな、そういう話はおもしろかった。で、どうにかして欲しいと思ったのは、構成を担当した石丸元章か編集部か、どっちの仕事か知らないけれど、ナイン・インチ・ネイルズをナインチネールズと表記しちゃうところ。福田和也は学生に、エディ&ホットロッズも知らないのか、とか偉そうに言っている場合じゃないと思う。あとエディ&ホットロッズじゃなくて、エディ&ザ・ホット・ロッズじゃないかしら。まあ、どうでもいいといえば、どうでもいいけれど。
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2004年11月21日
 角田光代と瀬尾まいこの新刊は置いておいて、こちらを先に読んだ。気鋭の女性作家たちが十代(の主に少女)を題材にして書いた小説を集めた、オムニバス。とはいえ椰月美智子と野中ともその作品は、はじめて読んだ。正直、瀬尾のはイマイチだった。このなかでは、角田と島本理生、そして川上弘美のものが大変おもしろく感じられた。しかし僕はどうしてこう女性作家の書く小説が好きなんだろうか。

 他愛のない悪口や根拠のない悪意はわたしたちを興奮させはするけれど、この場所からどこかへ連れていってくれることはない。かえって閉じこめてしまうだけだ。

 角田光代「神さまのタクシー」


 たぶん、こういう文章が好きなのだ、と思う。こういう文章は、なかなか男性作家のものには見つけられない。僕はわりと素で、こういったことを考えていたりするので、そこいら辺に感情移入するのかもしれない。スケールはちいさいけれど、だけど切実な閉塞感だ。
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 文庫。上巻は読んでいないのだけれども、理由は単純に、僕の関心は90年代にあるからなのだった。というわけで、この下巻も途中まではあまり身を乗り出さなかった。歴史の捉え方があまりにも恣意的で(まあ、もちろんそれは意図的になんだろうけれど)、というのもある。が、1979年からがおもしろい。
 
 既成の秩序はそのままで、しかし、人間だけが疲れている――だから、末梢的なものがブームになる。「空疎にして豊で、各人はバラバラ、金だけがその空洞を埋める」という日本のあり方は、この一九七九年の臆病さから始まる。 P206

 あくまでも、この本に則って話を進めるが、80年代は海外(主にアメリカ)の動きとリンクして、日本という国は変動する。しかし90年代に入ると、海外の出来事とはほぼ無縁に国内でさまざまな事件が起きる。89年に天皇は亡くなっている。ここら辺の因果関係には、外部からの抑圧としての資本制がある種の思考停止装置として働いていたことと、内部からの欲望として資本制を行うようになった(自主的になった、大人になった)結果もたらされた「こころ」の問題が深く関与している。
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2004年11月20日
 新書。文章などで自分のことを「私」ではなくて「ぼく」として記さないと据わりが悪いというとこからはじまって、それはいつからか大人と子供という間に明確な区切りがなくなったことなのではないかという点を経て、50年代以降のアメリカン・カルチャー、それが輸入されてからの日本のユース・カルチャーを語り、現在ヤングアダルト(ほぼライト・ノベルと同義)と呼ばれる小説群が、なぜ多くに読まれているのかについて言及されている。語り書きのせいだろう、ロジックとしては、ところどころに難所はあるが、全体の流れとしては、おもしろい。ただ、あくまでも、ここに書かれていることは金原瑞人の主観あるいは彼の世代の見方であるということだけは踏まえなければならない。

 この本の説得力がどこからやってきているか、を考えると以前も引いた気がするが、栗原裕一郎が『腐っても「文学」!?』というムックのなかで、上遠野浩平『ブギーポップ』シリーズについて書いた文章を持ち出すと、わかりやすい。

 しかし、送り手と受け手の共有しているバックボーン、ゲームやアニメ、マンガといった文化が「教養」扱いされはじめ、それらを養分に育った第一世代が四〇を越えた現在、一般向けのエンターテイメントを正道に据え、ヤングアダルトをガキ向けと退ける態度を正当化していた根拠は薄くなりつつある。

 栗原裕一郎「『ブギーポップは笑わない』にみる、子供にとっての“リアルな物語”」


 栗原がいう第一世代よりも年齢的には若干上になるのかもしれないが、金原自身が、そういった世代に対して共感を抱き、どちらかといえば肯定している旨は本書の大部分で表明されている。それが金原も含めて自分のことを「ぼく」という大人たちである。その彼(彼ら)が、どのようにアメリカを起源とするサブ・カルチャーに触れてきたかが、大きな流れの核となっている。

 そこで出てくるのがサブ・カルチャー=ユース・カルチャー=カウンター・カルチャーという見方であり、話の多くを占めるのがアメリカのポップ・ミュージック=ロック・ミュージックについてである。正直なところ、ここいら辺は林洋子『ロック・ミュージックとアメリカ』という本のほうが詳しいので、(もしかしたら絶版かもしれないけれど絶版ですが)そちらを参考に読んでおくことを薦めたい。

 さて。個人的にはこれを読んで、90年代は抜きで(ナシにして)現代が語られている、そういう感じがした。この本のなかで、金原は、スーザン・ヒントンの『アウトサイダーズ』をヤングアダルトの原典として挙げる。そして日本の80年代半ばを、アメリカの60年代末になぞらえることで、新井素子や吉本ばななの出現が、日本にとっての『アウトサイダーズ』の登場にあたり、乙一などの後のヤングアダルト作家へと繋がってゆくという感じにまとめるのだけれども、金原がいうように現在ではアメリカと日本でヤングアダルトなるジャンルが差異なく存在していることを考えると、その辺りの実情には、やはり90年代が大きく関与しているということになる。90年代はアメリカにとっても日本にとっても、おそらくは同じように90年代だったのである。
 金原は、90年代にはなにもなかった、のほぼ一言で済ませている。その「なにもないこと」こそが重要なのに、というのが僕の見方だ。
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2004年11月19日
 精神分析というのは、じつに現代的な手法である。という意味合いにおいて、加藤典洋よりもずっと、斉藤環は今日を捉えているといえる。が、しかし斎藤の優位性は、たかだかその程度のことで、文章は読みにくいし、最終的には心理学用語で乗り切られるロジックはわかりづらい、批評としての完成度というのは、それほど高くはない。今日的であるが、新しいか古いかといえば、それほどの新しさもない。たとえば、町田康について書かれた文章のなかの、次のような一節。

 ロックの政治性なるものは、それがあったほうが盛り上がるからこそ重要なのであって、それ以上でもそれ以下でもないのだ(中略)ロック本来の機能は、そこに内在する批評性によって自らを乗り越えようとする契機にこそ極まるのであって、その批評性は政治に限らず全方位に向けられている。 P98

 これはまったくそのとおりだと思うけれども、なぜ今さら、こんなロッキング・オン的というか、渋谷陽一の理論みたいなものを読まされなければならないのだ、という気分にはなる。これはもともと『文學界』に連載された、文学批評を集めた本だが、斎藤がやっているのは、サブ・カルチャーにおけるロジックと精神分析における固有名を文学作品の批評に流用しただけのことで、正直なところ、新しいことは、なにも言われていない。その方法論が新しいのだ、といわれれば、なにも言えないけど。作品に対する評価も、どちらかといえば、通り一遍なものばかりだ。

 とはいえ、この本のなかには、たったひとつ重要な指摘がある。それは「あとがき」(「あとがきに代えて」)のなかにある。「ヤンキー文学」は可能か、という箇所である。
 「ひきこもり系」「じぶん探し系」云々を言い出す後半部分はどうでもいいが、〈主体的な選択によるのではなく、主として同調圧力と、世間から突出しない程度に微調整された差異化志向との間から発生した嗜好なき嗜好〉をヤンキー文化とし、そうした嗜好への〈徹底した嫌悪と反発〉がサブカル志向をもたらし、そうした嗜好による〈抑圧からの逃避〉をオタク志向とする考えは、どこかに参照項があるのかもしれないけれど、もはや戦後などどこにもない、言い換えれば、日本という国自体が外からの抑圧にさらされてはいない、80年代以降の自意識をつかまえる上で、ひじょうに見通しのいいものである。
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2004年11月18日
 加藤典洋には『みじかい文章』という本があるが、これは、それに近い、それほど長くがっちりとしているわけではない批評の集まりである。主に近代を扱った「耳を澄ませば」、主に現代にとりくんだ「21世紀的な考え方」、ここ最近の書評「新刊本を読む」、回想的かつエッセイ調の「意中の人びと」と「日々の愉しみ」の、5つの節に分かれていて、そのなかで、おもしろく読めたのは「耳を澄ませば」と「意中の人びと」であった。それ以外は、正直なところ、あまり乗れなかった(例外的に「21世紀的な考え方」中の吉本ばななに関する文章は良いと思うが)。つまり、多く現代に向き合ったものが詰まらなかった、ということである。そこにはつまり、加藤典洋の射程みたいなものが現われていると思う。近代文学から現代文学にかけて、加藤の感性が素直に反応するのは、おそらく戦後というタームで語ることのできる村上春樹や吉本ばななぐらいまでで、それ以降、テクノロジーの問題を意識的あるいは無意識的に汲んで成り立つ小説、たとえば阿部和重や舞城王太郎などに関しての理解には、距離の隔たりがある旨を中心にして文章が書かれている。や、それが良いとか悪いとかではなくて、この世の事象なんてのは結局、世代的な認識の違いに落ち着いちゃうのかなと、そんな風に僕は思うのであった。
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2004年11月07日
 『新潮』12月号掲載の新作。生田紗代の小説には、たくさんの食べ物が出てくる。しかし、それらは味わわれない。「美味しい」と「まずい」の基準で選別されてゆくだけだ。なぜ「美味しい」のか、なぜ「まずい」のかも問われない。ただ好きだから「美味しい」のであって、嫌いだから「まずい」のである。そして「美味しい」ものを食べるのは、他にすることがないからで、それ以上の意味も理由もない。僕はそれを、ものすげえアパシーだと思う。マンションの18階から見える郊外の風景は死んでいる、そういう描写が冒頭にあるが、当然のように、そこに住んでいる人間も死人といっしょである。問題は、登場人物あるいは作者が、自分もそこに含まれいることに気づいているかいないかということで、自分の感情を大切にする「私」のあり方や、自分は自分のスピードでしか生きられないと断言されるラストなどを見ていると、もしかしたら気づいていないんじゃないかと思わせるところがあって、僕なんかは、あなたの世界はとても平和でそのなかで苦しめるだけの余裕があっていいですね、と、やっぱり引いてしまう。文章の上達もあまり見られないし、物語も相変わらず作れていない。デビュー作からずっと読んでいると、見切るタイミングがとりづらいのだけれども、もうこの人は読まなくてもいいか、いやもうちょい。……と思わせる何かはある、若さ?そうなのかな(あーだから、こういうのが香山リカがいうところの「生きづらい〈私〉たち」なのかもしれんね、そういった意味ではリアリティか)。

 →生田紗代『タイムカプセル』についての文章はこちら
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2004年11月06日
 古川日出男の掌編集。19個の短いお話。「波動が噛みあわない」とかいう、ものすごい理由で去っていった彼女は妖精の足跡を捕まえることができて、「ぼく」は“うしなわれた愛”の証として、その妖精の姿をビデオのカメラに収めようとする。という、いちばん最初に収められた「ラブ1からラブ3」でまず、ぐいぐい引き込まれる。文体や構造に関しては野心的な作者だけあって、すべての物語に、それぞれ工夫が凝らされている。趣向の違ったものをひとまとめにした、ひじょうにヴァラエティに富んだ内容である。が、しかし、主体と世界との距離のとり方、みたいなものが全部に一貫して存在している。世界との距離を測るために、まず世界そのものを対象化する、そののち主体は自らをもオブジェクトのレベルにまで持っていく、それら両者を遠景から眺める視線がある、では、視線の持ち主は誰か?といえば、語り手を作り出した作者、そして読み手である。作者や読み手の側に、語り手=主体が寄るとき、その世界に内在していたはずの彼や彼女たちは、いつの間にか、そこには含まれていないものへと変容する。見る目を変えれば、喜劇は悲劇のようで、悲劇は喜劇のようだ。帯には「神さまに触れるたくさんの方法」とあるが、神様の名前は、アイロニーでありユーモアであると思う。
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2004年11月03日
 おもしろい。ここ百年の間に発表され、ある程度評価の定まっている、有名な作品をべつの視点(現代)から読み直そうというものである。一見、ひねくれた見方がされているように思えるが、ツッコミとしてはどれもストレートで、言い換えれば、逆に真っ直ぐな読みがされているともいえる。同じく豊崎由美が参加している『文学賞メッタ斬り!』とあわせて読むといいかもしれない。いや、むしろ、そのなかで一部『文学賞メッタ斬り!』への批判を行っている『新・それでも作家になりたい人のためのガイドブック』といっしょに読みながら、エンターテイメントと純文学の両方を含んだ文学の流れというものを、相対的に眺めてみるのがいいんじゃないかしら。それにしても『世界の中心で愛を叫ぶ』のタイトルの元ネタがわからなかった人って、この本のタイトルの元ネタもきっとわかんないのであって、そういう層に対して有効であるかどうかは知らない。結局、文学に限らずなんだけれど、ある表現についてのあれやこれやなんてのは、批評云々ではなくて、もはやトリビアルな知識として消費されてゆくだけのものなのかな。
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 二十歳の頃、「僕」は恋人を喪った。そのときのダメージによって、僕は愛するという行為が何を意味するのかわからなくなってしまう。それから数年後、「僕」はあることをきっかけに、ひとりの女性と出会う。彼女は一卵性双生児の片割れで、姉妹が並ぶと、その婚約者ですらも区別をつけられなくなるほどだった。あるいは彼女たち自身も、自分たちを区別するものは、ただ名前でしかないと感じている。というのが『SIDE-A』で述べられた設定である。

 『SIDE-B』は、そこからさらに2年の月日を経た場所からはじまる。かいつまんでいえば、これは、固有名と単独性にまつわる物語であると思う。あるいは、シニフィエとシニフィアンでもいいんだけど。『SIDE-A』が、愛するという行為に名前が与えられるまでの話であるならば、『SIDE-B』は、その愛する主体、愛される主体がそれぞれの名前を回復しようとする話である。

 ストーリーテリングが巧みで、それなりの構成力に支えられた小説だと思う。が、2点ほど、難点を。ひとつは、やっぱり物語をはじめるに当たって、いちいち恋人を殺すのは如何なもんかと思う。もうひとつは、なぜ2冊に分けてあるのか、その理由が、いまいちわからない。いや、わかる。要するに、ふたつの物語の間に横たわる2年というタイムラグの問題なんだけれど、ならば同時刊行ではなくて、ある程度の間を設けたほうがよかった。つうか、その2年というタイムラグを一冊にまとめられなかったのは、作者の力量不足とみるべきか。ただ単に村上春樹が初期3部作とかでやったことをまとめてやりたかっただけなんじゃないか、と訝しがる僕がいる。
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2004年11月02日
 大崎善生と並び、村上春樹の優れたフォロワーのひとり、本多孝好の新刊。当然のように愛する女性は死ぬ、「僕」はその喪失感とともに生きている。やさしい回想があり、アパシーな現在がある。ミステリというフィールドの出身者であるけれども、そういった要素は今回はとりあえず少なく、恋愛小説として読むのが正しいと思う。

 さて。では、どのようにして、こうした作品が現在という時代とリンクするかを、考えてみよう。喪失感は、やがてやってくるものとしてではなくて、あらかじめ存在するものとして、ある。だから物語がはじまったとき、恋人はすでに死人として現われている。「僕」は、なにも失くしたものはないと思う、なぜならば、それはさいしょから無かったものなのだからだ。この喪失感の捉え方は、じつは西尾維新なんかの描く「僕」と近似のカタチをしている。ここいら辺が、時代性(現代性)の在り処だろう。

 恋人を失くして以来、「僕」がセックスをしないのは、おそらく、それをシステムやルールでしかないと思うからで、そういったことを資本制の在り方になぞらえて書くのは、あきらかに村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』や『国境の南、太陽の西』からの影響だといえる。だが、恋愛はシステムやルールによって規定されるものではない。「僕」が、最後に、ある女性との関係を恣意的に「愛」と名指すところは、結局すべてがセックスに回収されてしまっているだけじゃんってな具合で僕なんか苦手なんだけれども、キレイに収まっている。それなりの余韻がある。

 続く『SIDE-B』では、たぶん双子の女性がキーとなるのかな。
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 うーん。だめだ。いろいろと考えていたのだけれど、またグダグダになってしまいそうなので、やめよう。ここに書かれていることを、ものすごくコンパクトにまとめるのであれば、次のようなことだと思う。心の問題というのがある。心の問題とは、つまり、自意識の問題である。10年前の香山リカだったら、自意識が傷つくのは当たり前、みたいなことをいっていたと思うのだ。だが現在では、そういった言い切り自体が通じない、そのことの困惑を、香山は書いている。それはおそらく、今を生きる人たちには想像力が欠如している、の一言で済ませられる問題かもしれない。けれども、ちがう、と、たとえばリストカットする当人たちは感じている。では、なにが違うのか、香山はそれを追っていくのだけれど、やはり追いつけない。

 これなんかも、結局のところは、「生きていく」根拠が損なわれているのに、「生きていく」ためのネットワーク自体が残されていることの問題なんだと思う。主体に規律や秩序をもたらすシステムやルールがあるとして、しかし主体自体があやふやであるとき、システムやルールはただの束縛でありバイアスでしかない。たとえば「がんばれ」っていう言葉が、あんまり良い意味でなくなっちゃったのも、主体をキープさせる働きよりも、束縛やバイアスのほうを強く感じさせるからだろう。
 またべつの面では、愛されたいという欲望の肯定が、90年代以降、恥ずかしいものではなくなったというのもある。「愛したい」ではなくて主体が「愛されたい」へと傾くとき、それは受身である。言い換えれば、受身であることが肯定されている。そういった人たちに「生きろ」という言葉は、もちろん通じない。なぜならば「生きる」というのは、主体的な行為だからである。選びとりたいのではない、選ばれたいのである。この愛されたいという欲望の肯定は、おそらく東浩紀がいうところの「動物化」の問題と結びつけることができる。
 要するに、愛されたいという欲望は、対象(他者)がいない場でもちゃんと成立しうるということだ。もちろん万人にではなくて、「誰か」特定の人に愛されたいと願うのは、他者を必要としている証として考えることができるけれども、その「誰か」が目の前にいなくとも、愛されたいという欲望は、正常に機能するのである。その正常に機能していることが、ちょっと前の時代でいえば、異常だったのかもしれないけれど。
 
 う、やっぱグダグダした。
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2004年11月01日
 「袋小路の男」はやっぱり良い。袋小路とは行き止まりのことであり、行き止まりとはデッド・エンドのことである。だから「あなた」は一度だけ死のうとする。袋小路を作り出すものは何だろう。それはたぶん、ある関係が定型化されることで生じる抑圧である。「私」は、「あなた」を袋小路に追い詰めないために、ただ何もせず、その傍らに存在している。
 同時収録されている「小田切孝の言い分」は、「袋小路の男」の続編、オルタナティヴなヴァージョンとしてある。そこでは引き続き、「私」と「あなた」の関係が、語り口を変えて綴られている。「私」=大谷日向子は、「あなた」=小田切孝とのセックスや結婚を望まない、なぜならば、それはやはり、ふたりの関係を定型化させることだからである。「袋小路の男」では、男に振り回される女みたいな構図があったが、ここではその立場が微妙に逆転しているのが、おかしい。
 要するに、「わたし」と「あなた」は、口にこそしないけれども、きっと同じことを思っている。そのはっきりと明文化されていないことが、残酷さとやさしさを繋ぎ合わせた静かな混乱として、読み手であるこちらの心へ深々と響いてくるのだった。

 →もう一編の収録作「アーリオ オーリオ」についての文章
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2004年10月31日
 舞城王太郎の短編集になるのかな。ほとんどが以前に読んだことがあって、あらためて読んだ感じとしては、「みんな元気。」がまあ良い、「我が家のトトロ」がまあまあ、「矢を止める五羽の梔鳥」がいまいち、「スクール・アタック・シンドローム」がけっこう良い、といった感じ。で、ここでは書き下ろしである「Dead for Good」について、書き留めておく。

 主人公の「俺」の友人は、いま海外にいる。彼はテロリスト狩りを行うサディストで、「俺」に死ぬべきだと思われている。過去に、友人は、ただ関係性のためだけに「俺」を痛めつけたことがある、現在の「俺」はそのときの後遺症とともに生きている、しかし、そのようにして生き残っていることは、もしかしたらただの妄想なのではないかとも感じているのだった。

 いろいろとあるが、大きなところで3点ほど、気づいたことを。

 ひとつは〈物語って、物語たくさん読んでないと、物語って何だっけ?ってところから始まってしまってにっちもさっちもいかなくなる〉と「俺」が考えるのは、つまり舞城の、自分の参照項に対するスタンスを表している、ということ。これはもしかしたら、最後まで読まなくても参照項がわかればそれがどのようなものかわかる、といってしまう大塚英志に対する遠まわしな批判(言い訳)なのかもしれない。

 もうひとつは、知り合いが飼っている犬がいなくなって、「俺」がそれを探す場面があるのだが、そこで「俺」は自分が犬ならば、3時間ぐらい探して見つからなかったぐらいで諦めて欲しくない、と思い、夜中の3時まで探し続ける。ここでの「俺」の感情は「待つ」「待たれる」でいったならば「待つ」ほうに傾いているということ。「待つ」という行為は、なにも(何かが)やって来ていない、そういう時点でしか行われない。つまり、「俺」が生きているのは、結局のところ、プラスもマイナスもない、ゼロの場所なのである。

 あとひとつ、村上春樹は『ねじまき鳥クロニクル』で暴力を、「僕」が謎の男に振るうバット、そしてノモンハンでの皮剥ぎ、そのふたつに象徴的に表している。これは参照項の話とも繋がるのだけれど、「Dead for Good」は、どことなくそれをトレースしているように思われる。「俺」は包丁を握り、バスタブのなかに座り、ドアを叩く男を刺し殺すことを夢想する、「俺」の友人は南米で犯罪組織への見せしめのために子供の体を切り刻む。ただ『ねじまき鳥クロニクル』には、やがて発動するものとして暴力が現れるのだけれど、舞城の場合は、あらかじめ暴力が発動している世界から、物語がはじまっているのだった。


 んーなんかグダグダだな。こういうことは「はてな」のほうでやろう。明日からはもうちょいサクッとしたレビューを心がけるように。
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 ここでいわれていることは、若い作家または作家志望の若い人たちには、ディシプリン(規律/訓練)が足りない、あるいは存在していない、ということである。他方、そういったディシプリンのないことが、今日の小説を成り立たせていることも視野に入れられている。ディシプリンが欠如していることが、今日性である主な作家として、清涼院流水、綿矢りさ、金谷ひとみ、といった人たちが挙げられているが、彼ら彼女らが70年代生まれ以降、つまり、スガや渡部が固執する68年の世界革命以後の人間だというのが、興味深い。

 が、正直、この本、ぜんぜん面白くねえのである。旧版『それでも作家になりたい人のためのガイドブック』を読んだときにも思ったんだけど、ひじょうに大雑把にまとめると、文章的にテクニカルであることは持っている教養に由来する、という点に落ち着く。でもって、そこでいう教養とは、ずばり、どれだけ本を読んだかということに他ならない。

 もちろん、ミュージシャンを目指す人間が音楽をあまり聴いたことがないのは可笑しいし、映画監督を目指す人間が映画を観るのが嫌いというのは可笑しい、マンガ家を目指す人間がマンガをたくさん読まないのも可笑しい、それらと同様、小説家を目指すのであれば、本をたくさん読まなければならない。これはごくごく当たり前のことである。異存があるわけもない。

 ただ、70年代以降、カット・アップやサンプリング、コラージュ、なんでもいいんだけど、そういった手法の基軸となるのは、教養ではなくて、参照項の多さ、そして、それを使うセンスになってくる。で、そのセンスっていうやつは、教養やディシプリンを担保として成り立つものなのかという問題というのがあると思うのだ。たとえば清涼院流水や西尾維新や舞城王太郎や佐藤友哉などが、「天才」というか、あらかじめ才能の埋め込まれた人間を、物語に登場させるのは、そうしたことと、じつは因果関係を結んでいる。

 おそらくスガは、そのことに自覚的であり、だから〈実践編〉という対談のなかで、『ファウスト』系の作家について多く触れるわけだが、受ける渡部は参照項=教養だという風に信じている節がある。としてしまうと、小説における参照項=教養は、もはや小説自体ではなくて、サブ・カルチャーだという事実を逆説的に肯定してしまうことになるのではないか。で、それを小説として下手だ、本を読め、というのは、ちょっと自作自演ぽい批判ではないかな。まあ、これはテクニカルであることをどう捉えるかということでもあるのだが、モブ・ノリオの話のところで、浅田彰がこれはパンクじゃない云々って言ってた、みたいなのが出てくるんだけど、うーん、中途まで精神性とテクニックは同一だといっていたはずなのに、サブ・カルチャーの記号を都合よく利用して、それらを二極化させたりしているところは、ずるい。

 それとぜんぜん関係ないのだけれど、渡部は、舞城や佐藤の小説には労働が出てこない、というのだが、佐藤の小説には工場で働く「僕」が労働を憎む、というのがあって、そのことを知らないのか、それとも佐藤の小説に書かれる労働は労働ではないのか、どちらの意味でいっているのかというのは重要な問題だろう。たぶん前者だろうけど。総じて、スガがある程度の鋭さをみせているのに対して、渡部がおそろしいくらいに鈍いというのが、全体の印象。

 結局のところ、いちばんの問題は、書き手ではなくて、読み手を啓蒙する文章、批評が存在しない、必要とされていないことだ。
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2004年10月30日
 宮台真司と宮崎哲弥の対談集の第3弾で、連載も長く続くと、馴れ合いみたいなものばっかが目に付く、ところどころでは納得させられる部分もあるんだけど、全体を見通すと、ずいぶんととっ散らかった印象だなあ。正直、この人たちの問題意識がどこにあるのかが掴みづらい。もちろん僕が頭が悪いというのもある。

 僕の印象だけを適当に書き散らす。

 ものすごくシンプルに考えるならば、ネットワークの問題なんだと思う。家族や社会、政治や経済、恋愛やサブ・カルチャー、すべてがある種のネットワークだといえる。ネットワークは、ある根拠と近しい根拠、あるいは、ある根拠とまったく違った根拠を繋げる。だけど、根拠自体がほぼ失われている場合にあっては、ネットワークはどのように機能するのか、または、機能しないのか。
 
 それと、こういった人たちが、サブ・カルチャーについて何か話す必要ってほんとうにあるのかなあ。問題意識を持たせる、わかりやすい入り口として利用するのは、わかるんだけど、間違ったサブ・カルチャーの知識は、ただ混乱しか呼ばないと思う。

 で、なにが間違ってるかというと、要するに、この人たちのサブ・カルチャーって、90年代抜きのサブ・カルチャーでしかない。青山真治がゲストで出てくるところがあって、青山が、90年代をいつまでも引きずっていてもしょうがない、ということを言っていて、これはたぶん、よしもとよしともが90年代に、閉塞感みたいなことをずっと言ってても仕方ない、と言ったことと同じような意味なんだと思うんだけど、どうもそのあとの話の展開が90年代はナシにしようみたいな感じになってて、いや、90年代は前提として置いておいて前に進んでかなくちゃいけねえんじゃねえか、と思う。

 それはつまり、こういうことでもある。宮崎が「まえがき」で、川で子供が溺れていたら損得は抜きで助ける、という例え話を出してるんだけど、じゃあさ、もしかしたら助けようとする最中に命を落とすかもしれない、さらに、その川で溺れている子供と同じ年齢の子供が自分の家族にいたとしたら、ほんとうに、川に飛び込まなければならないのか、という問題があって、それなんかも要するに、小林よしのりが「個」と「公」とかって90年代にやっていたことだと思う。それもナシになってる。

 僕が90年代に関心を持つのは、90年代に提出されたいくつかの問題って、ぜんぜん解決されていなくて、00年代っていうのは、なんだかその繰り返しのように感じるからなのだった。

 最後にもうひとつ。宮台と宮崎は、天皇だけは入れ替え不可能という前提で話を進めているんだけど、最近の風潮では、たぶん天皇も入れ替え可能だと思ってる向きも増えてきてるんではないか。そこで入れ替わる際に、根拠になってくるのは、皇室という名のネットワークなのではないだろうか。つまり、ネットワーク自体が根拠化してるという反転みたいなものが、どっかにある。

 と、ものすごくグダグダで、申し訳ない。
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2004年10月26日
 「ロッキング・オン」創立者 橘川幸夫が描く'69青春小説――と、帯にはある。僕は橘川がいた頃の『ロッキング・オン』は読んだことががないのだけれど、まあそういったことは関係なく、これはあまりおもしろくなかった。まず第一に小説の体を為していない、というのがある。人称の扱いがあんまりである。
 あと、橘川は「あとがき」のなかで、「最初、「戦後サブカルチャー史」を書きたいと思っていました」といっているが、しかし、うーん、それはつまりサブ・カルチャー=ユース・カルチャーのことで、要するに、69年頃の学生運動下にある大学生の生活が、なんの装飾もなしに書かれているだけなのであった。
 で、たぶん固有名が持っている情報、たとえば(その筋では知られているんだろう)飲食店の名前、思想家、文学者の名前、唐十郎、寺山修司などの演劇(アングラ)などの名前が含む有効性を、すごく信じきっているところがあって、そこいら辺にうまくコミットできるかどうかというのが、この本を楽しめるかどうかなんだろう、と思う。ものすごく好意的に読めば、物事を体系的に捉えるためのヒントとし、それら情報は用いられているのだが、小説としてのマズさがそこまで踏み込んでいかせない。
 個人的には、P170-171あたりに書かれていることに、ちょっとした引っかかりを覚えた。

 そして、異質なものの交流がなくなった分だけ、同質なものの交流の深まりが加速していったのである。それのシンボリックな現象がオタクでありオウムであるだろう。

 うーん、なんか、ここいら辺がな。現在というポイントから俯瞰したとき、過去の時代(近代)においては、さまざまな文化の交流が、ある種の解放を表していた。だが、おそらく90年代以降においては、閉塞感などといわれる言葉が表すような、自己と他者との断絶がある。みたいな感じなんだろうけど、なんかな。うまく言えないけど、なんか引っかかる。
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2004年10月24日
 はじめて大崎善生の小説を読んだとき、村上春樹の『ノルウェイの森』の、ヴァリアントのようだと思った。だからといって、悪い印象を持ったわけではなくて、そういった小説を読みたかったその頃の僕は、それなりに楽しむことができたのだった。いま現在、大崎善生は、自分の小説のヴァリエーションを次々に編んでいるだけのように思える。そのことが僕を詰まらなくさせる。この短編集のなかでいちばん良いのは、本自体の題名にもなっている「別れの後の静かな午後」なのだけれど、それだって『アジアンタムブルー』をすでに読んでいれば読む必要がない、そういう感じがする。別れた恋人、死の影、そして胸に空いた喪失という名の穴。それを掘っては埋め、そして埋めては、また掘る。この人は、このまま一定のパターンをずっと反復し続けるのだろうか。その変わりのないことを楽しみにしている人たちもいるんだろうけど、だとしたら僕はきっと、いつかどこかで読むのを止めることになってしまう。
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2004年10月23日
 新書。小説家、車谷長吉の対談を集めたもので、彼と対話を交わすラインナップは、江藤淳、白州正子、水上勉、中村うさぎ、河野多恵子、奥本大三郎とヴァラエティに富んでいるが、しかし全体には、昭和を振り返りつつまったり裏話的なものに収まっている印象。江藤淳の文学トークなんかは、ところどころに興味深い箇所があったりする。けれども、文学の話よりも金銭にまつわる話のほうが、読んでいておもしろい、エキサイティングだというのが、車谷という作家の業なんだろうな、と思った。
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 『制コレISM 03』とかいうグラビア本に寄せられた舞城王太郎の掌編。
 内容を簡単にいえば、これまでの舞城作品にあった、多神教と一神教の対比=入れ替え可能性と入れ替え不可能性の対比が、ものすごく圧縮されて書かれている。確固とした物語はなくて、龍が、千と千尋的に、少女になり、少女はべつの少女になり、「俺」は猫になって、君の指でゴロニャーゴとさせられるけれど、君はもういなくて、そのことが君が君でしかないことを思い出させる、という連想が綴られている。
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2004年10月22日
 2人の幼女を犯し殺害した男の命に10億円の懸賞金がかけられる。彼は誰が見ても人間の屑であった。不況下の日本、職にあぶれた中年、ヤクザ、ドロップ・アウトした少年たち、警察内部の人間、大勢の人々が熱にうなされたように、護送中の彼を襲う。護衛を命じられた5人の警官は、はたして彼を守ることができるのだろうか。彼には守るだけの価値があるのだろうか。というプロットはおもしろい。設定の粗に対するツッコミを未然に防ぐ工夫も随所に設けられている。ただ、やっぱり、これなあ、マンガの原作に止まる感じなんである。
 じつは作者の木内一裕は、マンガ『BE-BOP HIGHSCHOOL』のきうちかずひろのことだ。彼が監督として手掛けた映画は、わりとハードボイルド路線のものなので、これもそういった系統に入るといえば入る。わりあいスリルもあるし、緊張感もあると思う。けれども基本的に場面の展開で物語が進んでゆくため、追い詰められてゆく者の心理描写が乏しい、そのせいで終盤の見せ場、ほんとうに一番の盛り上がりが、すんなりと過ぎ去ってしまう。改行の多さも関係しているのだろうけれど、やはり銃撃戦が多すぎる。マンガならば、それでもいいんだけど、小説だとちょっとツラい気がした。あるいは銃撃戦の描写がイマイチなのかな。
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2004年10月21日
 僕がわりと熱心にSF小説の類を読んでいたのは、高校の頃までで、それ以降はあまり読まなくなってしまったのは、子供騙しだとか現実逃避だとか、そういう風に思ったのとはむしろ逆で、SFとして書かれていることを真剣に受け止めてしまうというか、SF小説に書かれているのは、この世界という足場の不安定さであったり、自我の虚偽性であったりするように感じられるからなのだった。要するに、読んでいるうちにおっかなくなってしまうのだ。
 しかし、この本を読んで、肩の力が抜けた。そうか。もしかしたら僕は純粋にSF小説というものを楽しんで読んでなかったのかもしれない。とはいえ、べつにふざけた内容というわけではなくて、ひじょうに熱意と誠意のあるブックレビュー、ガイドブックとなっている。正直な話、僕は、ここに紹介されているもののうち、三分の一ぐらいしか読んだことがないのだが、ぐいぐいと引き込まれたし、いくつかは新しく読んでみよう、いくつかはあらためて読み直してみようという気になった。
 インターミッションとして書かれているタイムトラベルに関しての部分が、個人的には、とくに興味深かったので、とりあえずケン・グリムウッドの『リプレイ』を高校1年の時以来、ひさびさに本棚から引き出してみようと思った。見つかるかな。
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2004年10月20日
 講談社文芸文庫。小島信夫は『抱擁家族』しか読んだことがなかったけれど、村上春樹の『若い読者のための短編小説案内』が文庫化されたので、それを読んでいたら、短編も読んでみたくなったのだった。とはいえ、ここには村上が取り上げた「馬」は収録されていない。芥川賞を獲った「アメリカン・スクール」などが入っている。
 こういう昔の(っていっていいのかどうかはしらない)小説を読んで、僕が感じるのは、僕という人間は時代背景みたいなものをも含めて、物語に感情移入するのかな、ということだった。ほとんどの短編が、戦後日本を舞台としている。ある種の秩序の乱れみたいなものを扱っている感じがする。秩序の乱れは、既存の価値観に、べつの価値観が入り込んでくるようなところに由来している。ただ、そういった細部よりは、やはり登場人物の自意識のほうが気になってしまうので、その自意識を形成する社会がどのようなものか、前提を共有していないため、考えるのがすこし読書の邪魔をするというのはあった。とはいえ、そのことを差し引いても、非常に読みやすく感じられたし、すらすらと読み終えてしまった。それが作家の実力であり、作品に内在する本質的な魅力なんだろうな、とは思う。
 一般的な評価は知らないが、個人的には、「愛の完結」みたいのが好みである。ここにある、自己完結が他者の排除へと結びつくような自意識と、佐藤友哉の小説や綿矢りさの『蹴りたい背中』における自意識とを比較してみたりすると、おもしろいかもしれない、そういう気がした。
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2004年10月19日
 本編自体は、前の版のときに読んであったので、ひとまずパスして、増補分「サッカーと資本主義」だけ読んだ。
 そのなかで大澤真幸がいっていることを、簡単にまとめてみる。

 フットボール(サッカー)は、世界中でもっとも人気のあるスポーツである。だが、スポーツ大国であるはずのアメリカでは、それほど関心が持たれていない感じがする。それはなぜか?
 ポイントはオフサイドというルールの存在である。サッカーにおける快楽とは、ゴール=「終わり」へと到達することと、大澤は推測し、オフサイドとは、いわば「終わり」を遅延させるものだという。「終わり」へと至る過程を引き延ばすことによって、「終わり」に到達したときの興奮を倍増させる。
 しかしアメリカで好まれているフットボール型のスポーツ、たとえばアメリカン・フットボールやバスケットボールには、オフサイドに類するものが、ない。言い換えれば、アメリカ人は「終わり」を遅延することを好まない。
 それはちょうど資本主義の有り様と近似している。大澤は、資本主義の本質は「終わり」の反復にあるとする。ここでいう、資本主義においての「終わり」とは、投資の回収を指している。「終わり」を数多く反復することが膨大な利益を生み出す、とするならば「終わり」への過程をゼロにすることこそが好まれるのであり、目的化されなければならない。そのような考え方に基づけば、オフサイドのような「終わり」を遅延するためのルールは、むしろ邪魔とされる。そこでは偶然性は拒否され、ただ実力だけが重視される。わかりやすい力の差が勝利を収めるのである。
 フットボールで大量得点と呼ばれるもの(一桁から二桁)とバスケットボールで大量得点と呼ばれるもの(三桁)の間にある得点差に、それは現われており、後者に起こっていることは、つまり「終わりの事実上の無限化」である。無限化された「終わり」は、「終わり」としての意味を失っているともいえる。
 ヨーロッパなどにおけるフットボールへの支持は、「終わり」を受け入れる近代的な態度と同型であり、そこには神の奇跡(偶然)が入り込む余地がある。が、しかし、アメリカン・フットボールやバスケットボールにおいては、ただ結果が求められ、「終わり」を放棄することだけが目指されている。そこでは、アメリカ=〈帝国〉の権力がすべてなのである。

 わ、これでも長いが、突き詰めれば、こんな感じであると思う。正直、それほど新しい論ではないが、しかし、中盤に書かれた、手書き原稿とワープロ原稿の違いを軸とした部分が興味深く、全体もおもしろく読んだ。
 本編のほうも時間があったら、読み返してみることにします。
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2004年10月18日
 うーん。どうも、ここ最近の大塚英志は、ぱっとしないなあ。その理由を、たとえばこの本のなかに探ってみると、おそらく、このようなことだと思う。大塚は、舞城王太郎がなぜ匿名性をまとうのかわからない、という。この「わからない」は、理解を超えているということではなくて、ある方向性を理解した上での、それは違うぜという批判である。しかし僕なんかは、舞城が匿名であることは、わりとどうでもよくて、彼の書く小説(物語)自体に感情移入する体で、舞城王太郎を捉えるわけだ。つまり、テキストに対する評価なのだけれど、大塚は舞城のテキストを評価できないことを、どうも舞城の匿名性の問題とすり変えている節がある。もちろん、それらは密接に関わっていることなのかもしれない。とするのが、ここでいう「私」の問題である。では、「私」の問題とはなにかといえば、あるキャラクターを演じることでまっとうされる生の問題だといえる。そのことに対して大塚は、ひとつの答えを提出しているのだが、僕などは舞城が『みんな元気。』で書いたことのほうに説得される。大塚の提出した答えを、ものすごく簡単にいえば、それは体系的に物事を考えるというのになるのだと思う。それはそれで圧倒的に正しい。だがそこでは、今日において体系的に物事を考えることの困難さが、棚上げされてしまっている。そういった困難さのほうと向き合うようにして、舞城の小説はあるのではないか、というのが僕の考えだ。
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2004年10月16日


 いま、これを読んでいる。ぜんぶ英語なので、ぼちぼち読んでいる。元スマッシング・パンプキンズ、元ズワンのビリー・コーガン初の詩集である。機会があったら、僕による超訳(誤訳ともいう)を披露したい。いちおうカテゴリーは[読書]ということで。
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2004年10月13日
 夏目房之介の分析というのは、わりとマンガ家のテクニカルな部分や、そのマンガが持っている構造自体に、目が向けられているように思う。のだけれど、けっして高尚な薀蓄垂れになっていないのは、それだけではマンガという全体像は出来上がらないことをわかっているからだろう。たとえば、この本のなかでいえば『あしたのジョー』に関する評論で、登場人物たちの描き分けについてが、主に述べられているのだが、これなどはそれほど難解なことが言われているわけでもないのに、ものすごく納得させられる。同じく収められている作者へのインタビューなどを読むと、作者自身も、夏目のロジックに説得させられている節がある。ただ『ドラゴンボール』に関しては、字数の問題と、もともと販促用の原稿だったからだろうが、あまりにも安易というか、一般論的すぎるというか、突き詰め方が温い感じがした。
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2004年10月10日
 第41回文藝賞受賞作。『文藝』冬号掲載。なんかタイトルで損してる気がするので、単行本化の際には、改題して欲しいというのがある。色ものっぽいのかと思ったら、ずいぶんと穏やかで落ち着いた内容だった。勿体ないと感じるのは、センスの違いなのかな。
 で、タイトルも含めて、その内容に表されていることを、簡単にいえば、ある人の営みはべつの人からみれば矮小であったり凡庸であったりするけれども、当事者にとっては他のなによりも重たい、という風なものだろう。最初のほうで主人公の「オレ」は、自分のことを中心に物事を考える人間はくだらない、みたいな発想を持っているのだけれど、失恋によって彼が傷つくのは、結局のところ、世界は自分を中心にして回っていないという事実によって与えられるダメージなのだ。
 アパシーとやさしさが共存する作風は、じつに『文藝』らしい、まさにJ文学の後継といえる。恋愛はセックス(性交)を軸として成り立つが、生活(共同体)は恋愛を軸としてはいない、という言い切りが、希望と失望のちょうど中間に位置するように書かれている。
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 文庫。『ハイ・フィデリティ』の作者による、ポップ・ミュージックにまつわるエッセイ。サリンジャー的というか、野崎孝風というか、村上春樹ちっくというか、な文体が、けっすかしてらあ、と思わせるし、主にカバーされている領域が、いわゆるギター・ポップばかりで、気取りやがって、と思わせるものの、なかなかの内容となっている。これは『ハイ・フィデリティ』にあったのと同じような感覚だ。過ぎ去ってゆく日々、変わりゆく自分、かけがえのない青春、そして音楽への真っ直ぐな愛情。
 
 十四歳のぼくは、ヘビー・メタルのリフにつつまれていないメロディなど絶対に信じようとしなかった。そして二十一歳のぼくは、悲しみを表現したソフト・ロックと、妻や犬やレコード会社の契約金にかこまれてほくそ笑みながらハイになっている男の自己満足的ソフト・ロックとを区別できずにいた。 P192

 僕なんかは、こういう表現にぐっと来たりするんだけど、それは、作者が自分について語る言葉がそのまま、音楽を語る普遍的な言葉として機能しているからなんだと思う。音楽=対象を自分に近づけるというのではなくて、対象がすでに自分の血肉のなかに分かち難く混じっている、そのことが言語化されているのだ。個人的には、ポール・ウェスターバーグのことについてが一項割いて書かれてあるのが、うれしい。そうだ。彼はもうちょっと評価されてもいい人である。
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2004年10月09日
 『新潮』11月号掲載。しかし、こういうのを読むと、佐藤弘とかの80年代生まれに比べて、70年代生まれの世代というのは、志が低いというかなんというか、アイ・ヘイト・マイ・ジェネレーションっていう気分になる。タイトルからわかるように、ともさかりえの『少女ロボット』EPが参照項にある。『少女ロボット』EPに収められた楽曲は、ぜんぶ椎名林檎(シーナ・リンゴ)が作詞作曲している。この小説には、なぜか作者のコメントというか言い訳のようなものが付せられていて、そこには椎名林檎にインスピレーションを受けた旨が書かれている。というわけで、ある種の二次創作ともいえるわけだが、本質的なところで、なにか大きな間違いがあるように思える。「少女ロボット」でうたわれているのは、ともさかりえという偶像のさらに架空の内面であり、関心の反転の反転である、それがすなわち歌詞で「佞言は忠に似たり」といわれていることなのだ。しかし、この小説のなかにあるのは関心からの直線的な逃避でしかない。そして、それは相変わらずの袋小路に到達する。90年代からの進歩なんて、何も、ない

 宮崎誉子『セーフサイダー』についての文章はこちら
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2004年10月08日
 第36回新潮新人賞受賞作品。『新潮』11月号掲載。作者は80年生まれと若い。世代でいえば、佐藤友哉や西尾維新、綿矢りさや島本理生、金原ひとみなどと同じということになる。それら先行する作家たちと比べると、若干個性が弱い気がするが、力量としてはまあまあのものだろう。とはいえ、随所に保坂和志からの影響が顕著なので、個人的には苦手な部類の文体ではある。話は、友人の自殺を中心にして進む。友人の死は、ある意味、公開自殺であり、語り手であるところの「僕」が、その様子をビデオに収めている。そのビデオの編集作業を、物語は、追ってゆく。あれ?と思ったのが、自殺の仕方で、なんとピストルで頭を撃ち抜くというものなんだけれど、登場人物たちの設定が現代の高校生であるというのと、そういった死に方が、どうにも僕のなかではうまく接続できなかった。ほんとうに今って、拳銃なんかインターネットとかで簡単に手に入るのかな。いや、ちがう。浩輝という登場人物がいるから、たぶんこれは遠藤浩輝のマンガが参照項にあって、友人が撮影したビデオを自分の親に見せて欲しいというのは、つまり『プラットホーム』のような家庭環境に置かれていることを示唆しているんだ。とか、余計なことを考えた。まあそういうのもあって、ここに書かれているのは、たぶん、ある種のアパシーなんだと思うんだけれど、僕にはそれが、とてもとても作り物のように、まるでリアリティのないものに感じられた。あと、セロニアス・モンクや、はっぴいえんど、東京スカパラダイス・オーケストラの名前などが出てくるので、たぶんポップ・ミュージックの影響下にある小説だと思うが、たとえば〈兄の部屋からビースティ・ボーイズを取ってきて気合を入れるために爆音で聞いた〉みたいな一節が、あまりにも紋切り型なので、やはり引いてしまう。まあ個人的な好みの問題。
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2004年10月06日
 匿名コラムである「名前のない馬の飼い主をめざして」のなかで、小谷野敦は福田和也のことを書いているが、なんで坪内祐三のことは書かないのかとあるが、これがどういう文脈で発せられているのかよくわからないんだけど、どの本かに収めれている『靖国』についての文章で小谷野は坪内のことを書いているんだけど、そういう意味じゃないのかな。匿名コラムなので推測になるのだが、たぶんこれを書いているのは福田和也自身なんだと思う、とはいえ、小谷野敦批判の文章というわけではなく、若手の批評家は小谷野を見習ったほうがいいよ、ということが皮肉を込めて述べられているのだった。たしかに田中和生とか永江朗とかは、どこかの文藝誌に毎号のように顔を出しているけれど、それほどおもしろいことは書いてないように思う。
 ところで、表紙は大江慎也である。福田和也と青山真治と松浦理英子が、大江あるいはルースターズについての文章を寄せているのだが、これがなかなかおもしろかった。おもしろいというか、僕がルースターズに関してはほとんど興味がないタイプの人間だというのもあるんだろうが、どれだけ優れた書き手であっても批評をしないこと、言い換えれば、自分語りや感想文のようなものでしかロックというものは言語化することができないのかもしれない、とふと思った。
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2004年10月04日
 角田光代の小説には、不気味さのようなものが、含まれている。角田は、わりと売れているほうの作家だと思うが、大勢がその不気味さのようなものを共有していると考えると、おっかないものがある。
 この小説では、最初それは、和田レミというパラノイアちっくでストーカー気質の女性として現われる。そして、やがて物語中に拡散してゆくこととなる。というと、まるでホラーのようだが、そうではなくて、登場人物のほとんどは世間一般の普通な人々であり、和田レミがキーパーソンというわけでもない。
 話は、田所房子と宗二の一組の夫婦を中心にして、進む。幼い頃に、テレビ番組に出演するほどに記憶力のよかった房子は、自分のことをまるで記憶装置だという風に思う。今まで見聞きしてきた情報の蓄積された、ただの身体。彼女が自分のなかにある感情を口にした途端、それは借り物の言葉へと変質する。宗二は、人生を決定するのはビジョンだと考えている。ビジョンとはなにか、べつの登場人物の言葉によって、テーゼや仮定として言い換えられる。ビジョンやテーゼや仮定のないままに生きるとは、どのようなことかといえば、他者との関係性のなかで役割を演じるためだけの生を指している。房子と宗二の暮らしのなかには、アパシーとエンプティネスがある。それは触れられぬ秘密のせいとかではなくて、ただ、お互いにお互いの内面はけっして理解しえないという理解から発せられている。
 不気味さのようなものは、そこに宿る。共同体のなかに判り合えない他者がいる、そのことへの気づきは、日々の生活に亀裂を入れる。その亀裂がまるで他人事のように思えるとき、そこでは何かが死んでいる、あるいは、その何かはそもそものはじめから生きてさえいなかったとしたら、と考えることの重みが書かれている。
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2004年10月03日
 『コミック新現実』は大塚英志が創刊したマンガ誌であるが、カテゴリーは「読書」ということにした。理由は、マンガ誌としての体を成していないように思えるからだった。じっさいに掲載されているマンガの本数は少なく、活字(小説、対談、鼎談、エッセイ、コラム)が半分を占めている。マンガにしたって、ゼロからはじまっているものは2本で、それ以外は、中途のものと資料価値があるという程度のものであり、純粋な意味で、マンガを楽しむことはできない。
 いちばんはじめに「創刊の辞」があって、そのなかで大塚は〈読書対象がどうだとか、メディアミックスの事情とか雑誌の統一性がどうだとか、そういうことは考えていない〉として、このマンガ誌の立ち位置に関して〈そんなの知らねーよ、と言われても、知ったことではない〉といっているが、はたして、そのとおりの内容にはなっている。じつに不親切な設計である。
 基本的には、冒頭のかがみあきらの特集もそうだが、80年代に大塚がカバーしていた領域を再分析、再検討しようという目論みで成り立っているが〈感傷やノスタルジーではない〉と言い切れるほど、身のあることが行われているとは思えない。というのが、(『魍魎戦記MADARA』なども含め)大塚英志は参照項にあるけれど、80年代自体には何の思い入れもない僕の感想となる。
 このなかで、もっとも読み応えがあったのは、安彦良和と大塚英志の対談なのだけれども、それだってサブ・カルチャーの送り手がどのように政治を捉えているかが語られているだけで、どのようにして創作にフィードバックされているかという点にまでは踏み込んでおらず、読み手がある程度の前提を共有していなければならないという意味では、大勢に開けてはいない。どこに向けられているのだろうか、と考えると、もしかしたら酷く狭いタコツボのうちのひとつなのかもしれない。
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2004年10月02日
 大道珠貴の小説に出てくる女の子が苦手である。なので、正直なところ、大道の小説も好みではなかったりする。だったら読むな、って感じだけれど、読んじゃったんだから、仕方がない。これは、それなりにタイプの違う若い世代の女の子たちの日常を追った短編集。タイプは違うといっても、基本的な造形は、角田光代の初期の小説に出てくる女の子たちのキャラクターに近しい、あまりにもアパシーで、不良で、自堕落で、我儘という印象なのだけれど、角田のものが、あくまでも他人との繋がりを確認しようとする切実さを抱えているのに対して、どうも大道のものは、私は一人でも生きていける的なスカしっぷりがある、そのくせ傍に誰かがいることを前提として生きてやがるんだ、そこが決定的に違っている。とにかく僕は、その点が気になった。はいはいはい、余裕があっていいですね、と思うのだった。たぶん、この本に対してガーリー云々っていう書評が出回るとは思うんだけど、なんか、それって違う気がする。まあ、どうでもいいけど。
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2004年10月01日
 バイオリズムのせいか、どうも最近は本(活字)が読めない。そんなときに無理やりスラヴォイ・ジジェクの『身体なき器官』(長原豊:訳)を読んでいたもんだから、頭のなかがぐちゃぐちゃになってしまった。結局『身体なき器官』は3分の1ぐらいまで行ったとこで、放り投げてしまった。
 小難しい本なんて読んでると馬鹿になる。しかし馬鹿になった頭にはこの本がちょうどぴったりだったようで、ものすごい文字数なんだけど、あっという間に読みきってしまった。
 これは中原昌也が、あちこちに書いたエッセイやコラム、対談などなどを、いっさいの整合性を持たずに、まとめたものである。とにかくエラいのは、掲載先がサブ・カルチャー誌、音楽誌、ファッション誌、週刊誌、文芸誌と多岐に渡りながらも、言い分にちゃんとした筋が通っていることである。言い分とは、もちろん、平穏無事な生活が送れないことに関する愚痴である。他人の愚痴というのは、読まされるほうにしたら、耐え難いところがあったりするもんだが、中原の場合は文章が、ひじょうにブザマで愉快なダンスを踊っている、そういうセンス・オブ・ユーモアに満たされており、本当にねえ、もうなんていうか、読みながらヒヒヒという根暗な笑い声を発してしまう。
 個人的に、いちばん可笑しかったのは「死体ビデオ最前線!!」という、とにかく死体ばかりを映したビデオの実況で、内容自体のあまりの頭の悪さを正確にトレースする悪意こそが、中原にとっての誠実さなのであり、この世のくだらなさに対する軽蔑を、リリカルなほどの純粋さでもって表している。
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2004年09月28日
 ゲームやアニメ、マンガなどのサブ・カルチャーにおける美少女表現が、80年代から90年代、そして現在にかけて、どのような変容を遂げてきたのかを、事細かな資料によって追っている。用いられる資料は、わりとマニアックだが、分析としては、それほど能力が高いものではない。読んでいて、それほど関心が持てなかったのは、まあ僕の興味とあまり被るところがなかったからだろう。これはササキバラ・ゴウ『〈美少女の現代史〉 『萌え』とキャラクター』にもいえる。

 この本もササキバラのものも、基本的には、ロリコンやエロを重点にして話が進められていく。こういった女性に向ける男性視点の変化の説明は、ひじょうに判りやすい。たしかにエロ・マンガなどを見てみると、十数年前までは主流だった劇画タッチのものは、いまや稀少である。デフォルメされた美少女たちの性交を描いたものが、ほとんどを占めている。ここら辺については『NAKED STAR』の巻末で、大暮維人と天竺浪人が、実体験に基づきながらくわしく語っていたりもする。そこで話題として出てくるのが『週刊少年ジャンプ』のことなのであるが、僕なんかが関心を持っているのも、そういった少年マンガ的な要素と、まあいわゆる美少女と呼ばれるものが、90年代以降、どのように折り合いをつけていったかという点にあって、吉田もササキバラも、数行を割いただけで話を終わらせてしまうラブコメ的価値観こそが、じつは重要なポイントなのではないかと思っている。
 ラブコメと少年マンガとの親和性(のなさ)について書かれたものは、とても少ない。数年前に小説家の酒見賢一が『小説すばる』に連載していた『マンガたたき台』というコラムのなかで、いくつかの指摘を行っただけに止まるのではないだろうか。たとえば酒見は、マンガ『ドーベルマン刑事』に女性キャラが頻繁に登場するようになるのと同時に、主人公である加納が衰弱してゆくというようなことをいっている。これなどは、年代的にも大塚英志がいうところの連合赤軍と乙女ちっく云々の関係性と無縁ではない気がする。
 また、まつもと泉が80年代に『週刊少年ジャンプ』誌上で、『きまぐれオレンジロード』を連載するにあたって、ただのラブコメでは少年マンガとして機能しえないので、超能力者という設定を付加したというエピソードを、僕はどこかで聞いたことがあるが、現在『週刊少年ジャンプ』では、河下水希『いちご100%』という何の特殊能力も持たない少年と美少女たちとの交流を描いたマンガが掲載されているが、そのような少年マンガ誌自体の転換においては、ただエロの要素だけが働いたのではなくて、やはりラブコメという要素の関与(男性社会における需要と供給の肥大)も大きかったのではないかと思う。そういったことに対しては、ササキバラはたしか『〈美少女の現代史〉 『萌え』とキャラクター』のなかで、社会的なイデオロギーの喪失と関連付けて書いていたように思うが、あだち充の『タッチ』をラブコメの例として挙げ、それだけで話を速やかに片付けてしまうところが、僕などは大いに不満だ。『タッチ』は女の子のために男の子が戦うマンガである、という読みは、明らかにミスリードであり、しかし、そのミスリード自体が一般的に共有されていたことこそが強調されるべきなのである。

 ああ、だから、つまり、なにが言いたいんだ?僕は。だから、たぶんオタクと呼ばれる層には、少年マンガ的なものとラブコメを真剣に語ることを忌避する部分というのがあるのだと思う。それはもしかしたら、少年マンガ的なものを真剣に語ってゆくと、最終的には男らしさの話に結びついてしまい、ラブコメを真剣に語ってゆくと、最終的には恋愛の話に結びついてしまうからなのかもしれない。そういった冷めた(弱気な?)部分こそが、おそらく「燃え」から「萌え」へといった具合に作用していったのではないだろうか。どうだろう。
 まあいろいろ考えるきっかけにはなった。
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2004年09月20日
 ざくっと読んだ感想としては、とりたてて新しいロジックや、はっとするような考察はないかな。収められた評論は、西尾維新の参照項を探るタイプのものと、西尾維新の小説に登場する人物たちの自意識を探るものの、主に2パターンに分類できる。個人的には、参照項を探るタイプのものは(斉藤環のインタビューを含め)、それほどおもしろいとは思えなかった。というのも、西尾自身の書き下ろし新作『させられ現象』が冒頭に掲載されていて、そこで披露されている、本屋でぜんぶの本の中身とブックカバーをべつべつのものにしてしまうというアイディアは、たぶんどっかで見たことがある気がするんだけど、それをどこで見たか、つまり参照項がどこにあるかとか、じっさいは見たことがなかった、つまり参照項がなかったとしても、それを知ったところで、作品の評価自体に影響を与えない気がするからだ。
 個人的には、誰も指摘してないが、西尾の小説と、みさき速のマンガ『特攻天女』には共通する感覚があって、それは少年マンガ的なものと少女マンガ的なものとの融合であり、「きみとぼく」なる世界観のことなのだが、そっちのほうがよっぽど気になる。

 『させられ現象』についてと、気になった評論に関してのくわしくはべつの機会に、あらためて書きます。
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 この世はどこか間違っているというところの、どこかをいちいち指摘するのは面倒くさい。その面倒くさい労力を惜しまないのが、小谷野敦である。小谷野がいうところの愚民とは、簡単にいえば、大勢に加担する知識人をも含めた民衆のことで、それに対して反論しようとするのであれば、知識人を敵に回すばかりか、マイノリティになることをも恐れてはならない。全体を貫く小谷野の文章(ロジック)には、よくも悪くも呉智英バイアスがかかっており、言い分としては、ひじょうに明快だ。

 第一に、ある仮説に対して、根拠不十分という判断を下す場合に、代替案を出さなければならない義務はない。「分からない」でいいのである。相撲の行司ではないのだから、どちらに軍配を挙げなければならないということはない。まじめな学者が書いたものを読んでみれば、分からないことは分からないとはっきり書いてある。そこを推理小説よろしく犯人探しをするのが、インチキ学問なのである。 P102

 しかし個人的には、2点ほど難所があるように思える。それは、2ちゃんねるについて書かれた箇所と、タバコについて書かれた箇所である。
 や、2ちゃんねるのとこは、短いなかに、やや詰め込みすぎだというのが正確かもしれない。ここで小谷野が批判しているのは、2ちゃんねるを支持する知識人と2ちゃんねる自体という、ふたつの層であるわけだが、知識人の部分についてはともかく、2ちゃんねるに関しては、印象論で終わっている感は否めない。またタバコについて書かれた箇所であるが、毎度のことながら、議論の進め方が、ややヒステリックすぎる感じがする。僕なんかは、ヘヴィ・スモーカーの類に入るタイプの人間なので、言わんとしていることはわかるが、しかし、読ませる文章としてはキツい。でもまあ、何も言わないよりはぜんぜんマシなんだけど、うーん。

 あ。話は変るが、たぶん書かれた時期のせいだろう、憲法九条への意見がわりと出てくる。たしかどこかで誰かが「自衛隊というのは日本国民の防弾チョッキでなければならない(防弾チョッキでしかない)」というようなことを言っていて、僕にとってはそれが一番納得できる意見なのだが、えーっと、どの知識人がそれを言っていたかな、と思って必死で考えていたら、知識人じゃねえや、マンガ『ドーベルマン刑事』の加納だった。
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2004年09月18日
 ポップ・ミュージックからのインスピレーションを基に成り立つ小説というのは、いまや珍しくもなんともない。宮崎誉子のばあいは、デビュー作『世界の終り』からして参照項の知れるものだった。ひさびさの新刊であるこれにも、さまざまなポップ・ミュージックからの引用が存在している。けれども、ポップ・ミュージックからの引用がさして珍しいものではない今に至っては、このあまりにも直裁なやり方はちょっと気恥ずかしいものがある。
 また『世界の終り』から、この『セーフサイダー』までの間に、森健がデビューしてしまったことは、宮崎の作品を多少クオリティ落ちしたものに見せてしまう。宮崎と森の作品は、ポップ・ミュージックの影響下にあることで、失意と野蛮に満ちた世界を明るいテンションで描くという在り方でもって、近しい。だが、森のもののほうが小説という体にうまくまとまっている。比べてみると、宮崎の作品における、直截な引用の数々は、ポップ・ミュージックからのインスピレーションを基にした小説としては、やや粗雑的かつ短絡的すぎるものだといえる。
 もちろん、それだけで内容を計ることはできないけれども、それは内容を計る以前の問題でもある。

 思うところがあって、すこし書き改めました。
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2004年09月17日
 ごめんなさい。僕向きではありませんでした。あとで本文追加するかもしれません、しない可能性が大ですが。

 と思ったけど、やっぱりちょっと書いておこう。

 とりあえず、この小説って、子供が子供のままでいることみたいのが書かれているわけですよ。タイトルにある「悪党」っていうのは、「大人」と入れ替えることが可能で、つまり悪党になりたいけれどなれない、という内容は、大人になりたいけれどなれない、ということになるわけだ。で、気になるのが、羊谷って友人がいるのだけれど、彼なんかはテレビ・ゲーム(育成ゲーム)をプレイすることによって、ある種の責任感みたいなものを獲得するのだが、まあそれが嘘か本当かは置いておいて、主人公はといえば、さまざまなトラブルを通過しながらも、最後まで子供の立場に止まる、たぶん、これをおもしろいと思う人は、そこいら辺に微笑ましさみたいなものを感じとるんだと思うんだけど、僕は、だめ。だって父親の不在という境遇を条件としてやることが、たとえば病気の弟を放り出したり、未成年であるにもかかわらず酒を飲んだりタバコをふかしたり、好きでもない子とセックスをしたり、あげくには家出をしたり、でもって、そのツケは終盤、ぜんぶ大人(他人)に回収させているんだもの。こういう人格自体があることが、僕には信じられない。それでも許せるとしたら、まあ子供のやることだから、って譲歩するしかないわけで。その譲歩が最後に出す結論は、大人になるまでまだ時間がある、っていうもんだから、えーじゃあ、この一冊のなかに起こった出来事っていったい?ってなってしまう。まあ、エンターテイメントっていうのは、お客さんが喜べばいいわけで、その意味では、僕は客としては相応しくないようだった、それだけの話。それにしても、この小説に出てくる大人は誰も彼もが、ほんとうに子供に対して怒らないね。リアリズムなのかしら。やけに理解のある親がいて、それに子が甘えるってのは、なんかものすごく嫌な感覚だな。
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 やあっと読み終えた。けっこう好きな人も多いみたいだけど、僕なんかはわりあい苦手なのが、福田和也の文章である。そのなかでもこれは硬派なほうに入るので、かなり四苦八苦した。とはいえ、アウトラインはシンプルに取り出せる感じがする。
 「テクノロジー」「暴力」「自由」「信仰」「愛」の五つに章分けされているが、基本軸は同じである。ある種の極端を提示して、そこから現在という地点を演算するというものだ。「暴力」におけるニグロの箇所が、例としてわかりやすいと思われるので、引用する。

 「白人」たちに「自由」を贈られるのではなく、むしろ「人間性を否認」されることを「ニグロ」は要求するのだ、とファノンは云う。礼儀正しく、条理にかなった扱いをうけ、正義と自由を供与され、同じ人間として扱われること、つまりは法と理念によって人間として認められることは、けして「ニグロ」の人間性を回復しない。彼らに必要なのは、「《奴らに思い知らせる》機会」を求めること、つまりは法を侵そうが、警察につかまろうが、あるいは殴り返されて息たえだえになったとしても、生身の体で戦おうと挑むことだけが、「ニグロ」に尊厳を獲得させる。

 福田和也『イデオロギーズ』 P70


 まあ、だからヒップホップなどでうたわれるアレである。要するに、ある構造下で、人間として生かされることがあろうとも、その構造自体を容認することができなければ、それは、人間として生きているとはいえない、ということである。ここで福田がイデオロギーとして抽出するものは、言い換えれば、システムのことである。そのようなシステムというのは、我々という名の社会が、無意識のうちに、生成するものなのだ。
 そして思考は、そうした無意識の流れを怠惰にまとう、そのことを穿つ錐である、というようなことがいわれている。
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2004年09月16日
 さいきん僕のなかで絲山秋子の株が上がってるというのもあるが、これもおもしろく読んだ。ぐっときた。そのように考えると、僕は、デビュー作『イッツ・オンリー・トーク』以外のものはぜんぶ、好きなのかもしれない。
 
 絲山の小説には、性交しない男女というモチーフが頻出するが、ここにもそれは現われている。女は寝てもいいと思うのだが、男のほうで除けてしまうという構図もいっしょである。『海の仙人』では、寝ないことの理由に、男の側の抱えるトラウマが置かれている。すると、ふつうであるならば、どこかにトラウマからの解放が用意されていそうなものだが、しかし最後の最後(ほんとうの意味で、死がふたりを分かつまで)に至っても、彼らは性交することがない。深刻さは、日常の静けさのなかに溶け込み、スタティックな波として物語を揺らす。

 これは恋愛の話だろうか、と考える。たぶん僕たちが考える恋愛とはすこし違っている。性交をしたり、いっしょに暮らしたり、そういったごく当たり前のことのように感じられることが、ごく当たり前のこととして書かれていない。むしろ反対に、それらのないことが自然のように書かれている。それはつまり、人は誰しもひとりであるという、ごく当たり前であるが、ゆえに否定したい真実を、受け入れる姿形である。
 ファンタジーという名の〈役に立たないが故に神〉様が、次のようにいう。

「そうだ。だから思い出せないのが一番正しいのだ。真実とはすなわち忘却の中にあるものなのだ」 P151

 登場人物のなかでは、片桐という女性が、かなり素敵である。報われない愛情を胸いっぱいに抱いて、できるだけの明るさを総動員しながら生きている。その彼女が、最愛の人を見送ろうとするとき、駅の改札で感極まって涙してしまうシーンは、あまりにも愛しい。この小説には、いくつもの別れが用意されている。そのほとんどが悲しく胸に迫る。けれども悲しみのあることが、最後の場面に、やさしい奇跡の起こることを期待させるのであった。じつはものすごく寂しい物語だけど、読後感は、とてもあたたかい。血の通ったあたたかさだ。
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2004年09月13日
 冒頭に、 ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の第5節の、いわば独我論に関する(批判の)箇所が、引用されている。この小説のなかで、謎を解こうとする人物たちはみな、基本的には、謎を解かなければならないという責務は負っていない。被害者でもなければ、加害者でもなく、探偵でもなければ、警察でもない。つまり彼らは、事件の外部にいるのであり、他者なのである。そのような人物たちが存在することによって、ある殺人は、ようやく客観的命題として成立しうるのだった。
 本当に?

 しかし、これは新シリーズのはじまりであるが、これまでのものと比べると、いささかサプライズやおもしろみに欠けるという印象は拭いきれない。
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 『群像』10月号掲載の短編。川端康成文学賞を獲った『袋小路の男』もよかったけれど、これもいい。絲山秋子は、やはり短編の人なのだ。複数人ではなくて、一対一の関係性を書くのが、似合っている。微妙な距離の親密さ、たとえば『袋小路の男』では、ただの友達ではないが恋人というのでもない一組の男女の数年に渡る交流が軸となっていて、性差はあるけれども性交がない、そういう緊張感みたいなものが、やさしくも切ない空気を生み出していた。『アーリオ オーリオ』は、簡単にいってしまえば、伯父と姪の話である。ふたりの手紙のやりとりを中心にして、進む。彼らの間にあるのは、恋愛感情ではない。が、肉親と呼ぶにはちょいとばかり離れていて、まったくの他人というほど遠くもない、そうした微妙な距離の親密さが、やはり、やさしくも切ない空気を育んでいる。絲山の小説には、淡々としたところがある、けれども、それはつめたさを表してるのではない。この世界では、誰もが連鎖反応の一部であるけれども、偶に、自分はどこからも隔絶されたひとりぼっちなんじゃないかなと感じる。そんなとき、誰かが声をかけてくれるのをずっと待ってる。もしも誰からも声がかかることがないとしたら、それほど寂しいこともない。その寂しさの書かれていることが、あたたかいのだと思う。

 さて。ここからは小説の内容とはあんまり関係のない話なんだけれど、『アーリオ オーリオ』には、伯父さんにあたるところの39歳の男性が高校のときにジョン・ボーナムの死をリアル・タイムで体験して友人とともにショックを受けた、というような箇所がある。この39歳というのは、要するに、絲山の年代なわけで、まあそう考えれば、若いといえば若いのだけれども、レッド・ツェッペリンを知ったときにはすでにジョン・ボーナムは亡くなっていた世代に属する僕なんかは、こういう設定だと、ずいぶんと年輩な感じを受けてしまう。ジェネレーション・ギャップなのかもしれない。こういうことを考えるのは、この十年ぐらいの間で、けっこう多くの小説にロック・アーティストの名前を見かけるようになったからで、ロック(ポップ)・ミュージックを聴いてない読み手は、きっと素通りしてしまうポイントなんだろうが、僕なんかはわりと気になってしまう。そうした参照項と作品と作家の世代的な関連をまとめたテキストなんかあるとおもしろいと思うのだが、誰かやってくれないものだろうか。
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2004年09月10日
 『群像』10月号掲載の短編。立てられた看板や、ファーストフードの店やコンビニ、そして自動販売機たちは、まるで本気で物を売ろうとはしていないみたいだ。目的を失ったように突っ立っているだけ。携帯電話を使う人たちは、誰かとなにかを話すのではなくて、返ってくる声によって自分の存在を確認しているみたいだ。携帯電話は手段ではなくて、目的として現われている。話し相手は、目的ではなく、手段なのであり、だからそこでは、因果関係が逆なのだ。たぶん、ここには大澤真幸が『電子メディア論』のなかで書いていたような現代特有の閉塞感があり、それが、小説の最後に消え去ることのないメランコリーを生んでいる。さいきん読んだ短編のなかではベストかもしれない。
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 僕がたまに「だから」とか「ところで」とかのあとに「、」ではなくて「。」を置いたりするのは、たぶん、新井素子の影響であると思う。だからどうした、と言われても困るのだが。
 でもって、これは00年以降の新井素子のエッセイをまとめたものであり、旦那さんとの生活も含め、日々のあれこれが、おもしろおかしくあたたかく綴られている。じつは一番最初の「“普通”って素敵なことだよね」が、いちばん新井の人柄みたいなものを表している感じがする。普通、普通、普通。普通に生きることって、あんがい簡単で、とても難しい。
 それはさておき。さいきんの作家さんのエッセイを読んでいて思うのは、パソコンとの付き合い方などが題材として取り上げられることが多い、ということだ。それだけ日常にテクノロジーが自然な形で浸透しているという証拠だろう。
 いま福田和也の『イデオロギーズ』をすこしずつ読み進めているのだが、そのいちばんはじめの「テクノロジー」の章や、あるいは小熊英二『「編集的」執筆法とコンピュータ』(『季刊 本とコンピュータ』04年秋号掲載)などを読むと、我々の生活はもはやどのような水準においても、テクノロジーなしでは捉えられない、というような印象を受ける。
 が、しかし、それはそれほど難しい話ではなくて、新井がここに書いているような、ゲームボーイ・アドバンスを経由して囲碁を覚えるとか、その程度のことなのだと思う。そして今、ワープロ・ソフトを使って書かれる新井の文体は、そのことにあまり影響を受けていない感じがする。
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2004年09月08日
 (注:村上龍『限りなく透明に近いブルー』について)一読してわかるのは、言葉が即物的な記述のためだけに使われているということです。心理描写を排し、主人公で語り手のリュウに無人格なカメラの役割を果たさせながら、徹頭徹尾、映像的にものごとを記述する。そのことを意識的におこなったのがこの作品(注:村上龍『限りなく透明に近いブルー』)の新しさでした。

 仲俣暁生『ポスト・ムラカミの日本文学』P28


 都市、切り取られた状況、〈私たちの視点としてのカメラ〉。私たちは状況に介在している。私たちは状況を作り出すことはできない。私たちにできるのは、ただ状況が送ってくる「しるし」に気づき、反応することだけだ。おそらく『海辺のカフカ』と同様に、ポール・トーマス・アンダーソンの映画『マグノリア』が参照項としてあるのだろうけれども、村上春樹の新作『アフターダーク』の成り立ちは、上に引いた仲俣暁生がいうような意味で、村上龍の初期作品に近しい。が、しかし、それは後退ではなくて、むしろ時代の進行を観察した、その結果としてあるものだ。

 『AIR』というノベルゲームがある。とはいっても、僕はそのゲームをプレイしたことがないので、こんなことを書くのはフェアじゃないかもしれない。なので、だから、ここでは東浩紀が『AIR』について書いた文章(東浩紀『動物化するポスト・モダン』あるいは『萌えの手前、不能性にとどまること』)を参考にして話を進めていくことを、あらかじめ断っておく。東によれば『AIR』は三部構成になっており、第三部において、プライヤーはひとつの視点として、ゲーム世界に介在する。正確には、物語に介入できないただの視点としてのみ存在している、らしい。もしかしたら、それはちょうど『アフターダーク』における、私たち(じつは私たちとは「エリ」以外の登場人物すべてであるのだが)の存在と同じものなのではないか、と僕は思う。

 『AIR』の物語はただ設定だけを組み合わせた骨組みとして進んでいく。

 東浩紀『動物化するポストモダン』P114


 これである。『アフターダーク』の登場人物たちが口にするのも、ただの設定だけであり、彼女や彼らの内面は語られることはない。〈私たちの視点としてのカメラ〉。しかし、カメラはおそらく無人格ではない、感情を宿し、感覚を持っている。たぶん、ここいら辺に時代性みたいなものが現われている。ただ、それだと阿部和重とかのほうがもっとナチュラルにやれているような気がする。そうじゃなくて、それでもここには、なにか村上春樹特有のものがある感じがする。方法論とか構造とかでは区分できない。それがなにかは、おいおい考えていくことにする。
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2004年09月07日
 『新潮』10月号掲載の短編。スーパーカー『JUMP UP』にともなう記憶、僕が森健に寄せるのは、世代的な、限定された共感なのだろうか。この小説を読んだらスーパーカーを聴きたくなった。スーパーカーを聴いたら、君のことを想い出した。
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2004年09月06日
 とにもかくにも、この小説に出てくる今井という男に、はげしく腹が立つ。とはいえ、登場人物のほとんどの姓が「今井」なのだから、と、下の名前を探してみたのだけれど、見つけられなかった。もちろん僕が見落とした可能性もあるが、しかし、もしかしたら最初から書かれていないのかもしれない。まあだから名字(家)に頼って生きているような奴である。そいつの生き方みたいなものが、ムカムカムカムカして堪らない。妻子があるにもかかわらず、歳を誤魔化してまで年下の女の子と不倫をする、挙句、離婚が成立したあとは、子供を引き取ることを条件に、そっちの年下の女の子と再婚を果たす、口では誠実そうなことを言いながら、以降の結婚生活では、仕事がすべての免罪符であるような、日本人男性特有のダラシのなさをごく当たり前のものとして家族に押し付ける。何様のつもりだよ、お前。でもね、こういう男というのは、たぶん世のなかにちゃんと実在しているのだ。それもすくなくない数。そして、そいつらがこの国を駄目にしているのは自明である。けれども、女の子たちというのは、案外そういうタイプとくっ付くものなのだ。ああ、やってられない。おい、誰だ?いま、それはお前モテない人間の僻みだろう?と言ったのは!きー。

 物語は、その今井の、年下の恋人(後妻)、妻(前妻)、娘の三者の視点を、それぞれ第一部、第二部、第三部と変えながらも、同じポイントをべつの視点から眺めるというものではなくて、ちゃんと時系列に沿いながら、進む。立場やシチュエーションなどから推測するに、作者である岩井志麻子がもっとも強く投影されているのは、第二部の主人公だと思うが、まあ、そういった読みはどうでもいいことだろう。物語の中核に置かれているのは、「普通の家族の幸せ」とはなにか?という問いである。これは当然のように、「普通」とはなにか?「家族」とはなにか?「幸せ」とはなにか?という三つの問いかけを、さらに含んで成立している。残念ながら、それに対しての明確な答えを出せるのは、宗教や政治的イデオロギーぐらいのものだと思われる。けれども、そこからは自由になった(自由になろうとする)現代において、欲せられているのは、もっと個人的な場所でのみ発現する安息に他ならない。誰もが知っている。「普通の家族の幸せ」。そういったものは実態としては、どこにも、ない。が、しかし感覚としてはたしかに、どこかに、ある。そのような確定と不確定の狭間のなかで、彼女たちは、それぞれやり方は違うけれども、自分の居場所をずっとずっと探し続けている。
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2004年09月05日
 たしかに「J文学」というものはあった。それがどんなものかは説明できないほどにあやふやではあるし、そこにカテゴライズされた当の作家さんたちにとっては、どうでもいいことかもしれないけれど、たしかに、それはあった。「J文学」は、一部ではフリーター文学などといわれた。
 フリーターという言葉もまたあやふやなものである。職業としては正式なものではないにかかわらず、カテゴライズとしては社会的な領域で、十分にまかり通っている。あやふやな世界における、あやふやな実感、あるいは、そういったものをすくい取ったのが「J文学」と呼ばれたものであったのかもしれない。

 おそらくはフリーター(あるいは無職)である垂れ男が生きる世界はすこし奇妙に捩れている。そこで彼は、過去や未来と、今ここにいる自分との距離を測り、長い両腕を持ったムラルカミという男が、“入り口”を指し示す。

 さて。昨日と今日はべつのものであり、今日と明日もまた同じようにべつのものである。としたとき、では、昨日に属するところの自分と今日に属するところの自分と明日に属するところの自分は、まったく異なる存在なのだろうか。いや、ちがう。と、もしかしたら誰かは言うかもしれない。だが、その誰かがいうところの「いや、ちがう」はほんとうのことなのだろうか。堂々とめぐる問いかけは、ときにデジャヴのようであり、ジャメヴのようである。

 ところで。垂れ男と老人=R、そしてユルリコの関係は、夏目漱石『こころ』における、「私」と先生、そして奥さんとの関係性をトレースしているっぽい感じがあるが、どうだろう?ちがうかな。
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2004年09月03日
 声に出して読みたい日本語的なものとはぜんぜん無縁で、これは個人的な考えなのだけれど、よい文章というのは、目で追うだけではなくて、じっさいに声に出して読み上げてみても、よい文章として響くのだと思っている。たとえば、こうやって文章を適当に書いてみる。それを口にしながら読み直してみる。文体であったり、ロジックであったり、とにかく文章のどこかがおかしいと、見事なまでにつっかかってしまうのだ。もちろん、それは言文一致以降の問題を孕んでいるわけだが、いま現在、どれだけはっちゃけていたとしても口語体の文章のほうが、丁寧な文語体のそれよりも通りがいいのは、声に出したときに生じる違和感がすくないからなのだろう。
 蜂飼耳は詩人で、僕は彼女の詩に関しては、『ユリイカ』に掲載されたものぐらいしか知らないのだけれど、さいきんでは文芸誌などにエッセイを寄せていることもあって、いつ読んでもその文章は悪くはない類のものだと感じているのだった。これは詩集ではなくて、そういったエッセイの類を集めたものである。へえそうか、と感心するような視線の新しさはないけれども、それでも読みながら、その視線の内側にすうっと吸い込まれていく、とても感じのいい文章が詰まっている、声に出して、まるで独り言を呟くみたいに読み上げたくもなる。ほんとうは僕もこういうのを書きたいんだけど、どうしても書けないので、くやしい。
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2004年09月02日
 読んでる最中はわりと地味だなと思っていたのだけれど、じっさいに読み終えると余韻とともに嘆息した。ミステリとしては、それほどトリッキーではなくて、けっこう読んだそばからネタがバレる感じではある。が、しかし、これは、そうしたトリックの立て方とも深く関係しているのだけれど、登場人物たちのほとんどを、意図的に、入れ替え可能なものとして表したところに麻耶雄嵩の鋭さをみる。じっさいにある登場人物のひとりは、自らの生の交換可能性についてを何度か口にするし、長崎や佐世保、松浦や平戸といった登場人物たちの名付け方にも、それは如実である。本作で、登場人物たちの生を固有化させるものは、死という存在である。生者は誰も印象が薄いが、死んだ者の名前だけが、記憶にひっかかるようになっている。とはいえ、終盤、登場人物たちの立場が二転三転する、そして……辿り着いたエピローグにおいて逆転が起こる。死者は忘れ去られ、名前のない生者だけが、読み手の関心を一手に引き受ける。
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2004年09月01日
 女の子の気持ちなんてわからないよ、男の子だから。女心なんて掴めないよ、モテないから。それでも女の子のことばかり考えてしまうのは、まあ仕方ないといえば、仕方ない。
 
 角川系の雑誌(『野性時代』、『新現実』)に掲載された短編をまとめたものに書き下ろしを加えた、森健にとって2冊目の本にあたる『女の子と病気の感染』の帯には、「萌え」系青春小説なるキャッチフレーズ(?)が記されているのだけれど、どこら辺が「萌え」系なのかわからない僕は、これを、彼や彼女たちの人生におけるある一点(一瞬の交差)を、まるでスナップ写真のように切り取った青春小説として読むのだった。
 ここでの「おれ」という語り手は、デビュー作『火薬と愛の星』や2作目『鳥のようにドライ』と同様、作者である森健を想起させる、そういう趣向を担っている。森の経歴をみてみると予備校講師というのがあって、作中の「おれ」もまた予備校講師として教え子(あるいは元教え子)の女の子たちと会話を交わす。けれども、そういったことはあまり重要なポイントではない。目の前できゃっきゃとはしゃぐ女の子や、薄ら寒い視線を浴びせる女の子、彼女たちの内面に「おれ」の手が届くことはない。もしも村上龍の小説ならば、「おれ」は嬉嬉として彼女たちの内面を語りはじめるだろう。けれど、そんなことはしない。かといって、村上春樹の小説のように自意識が傷つくのを避けるため内省を語りだすこともない。視線はずっと、魂に届けばいいなという願いを込めて、女の子たちに注がれている。彼女たちにあたたかくされたり、あしらわれたり、離れていかれたり、さよならを言えなかったりしたことが、他の何者でもない、「おれ」は「おれ」でしかないことを思い出させる。

 森健の小説は、岸田繁(くるり)のうたう歌に似ている。そしてこれは、たとえば「ワンダーフォーゲル」がそうであるように、やさしくも勇敢な新しい世界を目指すための歩みなんだと思う。
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2004年08月31日
 僕はちょっと、絶望という言葉が苦手である。というのも、理由は簡単で、絶望なるものを経験したことがないからだった。なので、誰かの引用とか以外では、なるだけ使わないようにしている。こんなんでも、いちおうは嘘をつきなくないと心がけているのだ。僕が羨ましいと思うのは、どうやら多くの人が一度ぐらいは絶望というものを見てきたことがあるらしいことで、そりゃあ僕のような凡庸な人間だって、がっかりしては死にたいなあと考えたりすることも多々あるけれども、それが絶望でないことぐらいは知っている、要するに、僕という存在には絶望するに足る何か(あるいは、それは感性と呼ばれるものかもしれない)が致命的なほどに欠けていて、そのことが気分をものすごく暗く暗く、そして重たくさせるのであった。

 直裁には示されていないが、清田友則という人が、この本のなかでいっているところの絶望とは、老いることにともない可能性が制限されてゆくこと、システマティックに希望が搾取されてゆくことなのだろうと思う、たぶん。たぶん、という具合に断定しきれないのは、文体のせいなのかロジックの立て方のせいなのか、全体を通して非常に読みづらいからなのである。たとえば自我というものを、ウンチの喩えを用いて説明する箇所があるのだけれど、ここ、きっと書き手はものすごくいいアイディアを発明したっていう手応えを感じたのだと思うが、勢い余って、あきらかに筆が滑っている。滑っているというか、論理のスライドのさせ方があまりにも性急である。意識的に、衛生学、精神(衛生)現象学、精神衛生学といったセンテンスの書き分けがなされているのか、それとも混同しているだけなのかというのがどうも読みきれないのだ。散文とか創作であるのならばべつにどうでもいいことなのだけれど、批評や分析として何かを明確にしようとする文章においては、マズい気がしないでもない。同じ章で出てくる「ブロックバスター」という単語の用いられ方にも同様の違和があって、ヒット商品をすべてのジャンルを超越したもの(メタの立場にあるもの)として捉えてしまうのは、ちょっと短絡的過ぎなのではないだろうか。他にもいろいろとあるのだけれど(第3章以降の性差やセクシャリティの問題の扱い方とか)、なんか上げ足取りみたくなるので、やめる。ただ、納得できないけれど、理解できるところは多々あったので、読んで損したとまでは思わなかった。

 ところで、この本の個人的な評価とはべつのところで、気になった点がひとつあって、それは東浩紀がいうところの「動物化」に対する見解である。清田がここで「動物化」をイコール「本能への回帰」として捉えるような、東浩紀『動物化するポストモダン』に対する読み(批判)が世間にはけっこうあるが、僕の理解はべつである。他者と他人は違う、ほんらい欲望とは、他者の欲望を欲望することであるが、よく言われるように現代では他人(鏡像)は存在しているが、他者は消えて(透明になって)いる、ここで、じゃあ欲望もまた消失してしまうわけだから……それは欲求でしかない……と考えると「本能への回帰」になるわけだけれど、そうではなくて、たしかに欲求のようにショートサーキットではあるが、しかしそれでも欲望としか言えない消費行動をとる層が存在する、そういった層を指して、東は「動物化」するといっている、というのが僕の読みである。
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2004年08月27日
 ちょっとタイミングとしてズレてる気はするけれども、綿矢りさ人気便乗商品であることには変わりない。渡辺直己や小谷野敦といったわりと硬派(?)な批評家も考察を寄せているが、ここでの彼らの仕事が硬派であるかといえば、やはり、そうとも言えない。全体の半分を占めるのは、吉本謙次が、綿矢と同年代の小説家志望の学生たちへのインタビューをまとめたもので、この時代の空気みたいなものを、うまい具合に切り出しているとは思う。ただ結論部において吉本は、そういった学生たちと綿矢との違いはなにか?という問題提起はするが、しかし、たぶん類型的であるほどに凡庸な彼や彼女らのサイドに感情移入するためだろう、自身の考えをずいぶんと曖昧に暈してしまっているのが惜しい。一言でいえば、才能の問題なんだろうけれど、才能にはきっと先天的なものと後天的なものがあって、綿矢に関しては先天的なもので語っているのに、学生たちに対しては後天的なものを見据えた物言いをしているのは、どうにもフェアでない感じがする。
 個人的な読みどころとしては、小谷野敦が石川忠司の『蹴りたい背中』に関するミスリードを指摘している点を挙げたい。批判の対象は、対談での発言なので、ちょっと小谷野の言い方はキツ過ぎる気がするが、それゆえに、小谷野(62年生)と石川(63年生)という同世代の、サブ・カルチャーをも取り込んだ小説そのものに対する、決定的なスタンスの違いみたいなものが如実に現われている。
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2004年08月26日
 「僕」は仕事帰り、終電の地下鉄に乗り込む。そこで、ひとりの少女が4人の若者にからまれているという場面に遭遇する。状況をよく理解できないながらも、彼女を助けようとするが、しかし返り討ちにあってしまう。次に目覚めたのは病院のベッドの上だった。彼の意識は昏睡状態にある身体の内側に閉じ込められてしまった。
 これを読んで僕がさいしょ思い浮かべたのは、舞城王太郎の『好き好き大好き超愛してる。』だった。枠組みは違っているが、中核にあるテーマとでもいうべきものは、ひじょうに似通っている。あるいは、イラスト(挿画)が、小説にある種の効果として奉仕するスタイルは、方法論として、近しいものであるかもしれない(イラストーリー?)。

 それにしても、不確実性に満ちた現実の世界から依然として僕を遠ざけているものが不確実性そのものであるのは皮肉だった。

 アレックス・ガーランド『昏睡 コーマ』P199

 この世界は、現実として疑われていないこの、ここは、でも、夢なのか?

 舞城王太郎『好き好き大好き超愛してる。』P84

 夢はそれを見た人だけのものであり、なにをどうしようと、それを人と分かち合うことなどできはしない。

 アレックス・ガーランド『昏睡 コーマ』P199
 
 でも今僕がこうして夢を夢だと気づいているということは、夢を壊しているということで、つまりこの夢のどこかにほころび、穴があるのだ。

 舞城王太郎『好き好き大好き超愛してる。』P81

 書かれた時期がどのような因果関係を持っているかはわからないけれど、両者は同じ時代を生きる同世代の作家(ガーランドは70年生、舞城は73年生)として、なにか共通する問題意識のようなものを、たしかに、掴んでいて。そして僕は、それがいったい何をもたらすんだろうとか、そういうことを考えている。
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2004年08月25日
 第一部から第二部は、基本的な社会学入門といった感じ。で、近代を相手にしているのが、ようやく第三部で、現代に向き合う。「あとがき」で、橋爪大三郎は、社会学というのは本来現実社会に対してアクチュアルなものだ、みたいなことを書いているけれど、じっさいにこの本がアクチュアリティを持っているかといえば、そんなことはなくて、触発されるところはほとんどなかった。まあ収められた文章のほとんどが、わりと古いものだということもあるのかもしれないが、情報としても既知なものばかりであった。ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」といったところで、これという独自なものが示されているわけでもない。学生向きなのかな。
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2004年08月22日
 中条省平が中学そして高校時代に『季刊フィルム』誌に発表した4本の(本人は未熟であるといっているが、あきらかに早熟である)評論を、この本の序盤に収録しているのは、「あとがき」にあるように〈四方田氏は一九五二年生まれ。坪内氏と大塚氏は五八年生まれ。私は五四年です〉と、おそらく同世代として捉えている四方田犬彦、坪内祐三、大塚英志らが、立て続けに自分史とでいうべきものの再検証を行ったことと関連している、〈要するに、一九五〇年生まれの世代が、自分形成期を回顧的かつ批評的に再検討する時代になったわけ〉だからである。
 が、しかし、四方田『ハイスクール1968』が、大塚『「おたく」の精神史』が、自分語りの域を脱しえなかったように、中条のこの本もまた、彼の個人的な体験を語る段階で終わっており、つまり、自己形成期を回顧的には見つめてはいるけれども、批評的に再検討しているとは、到底のこと、いえないのであった(坪内『一九七二』は、これら3者のものに比べると、あくまでも比べるとだが、ずいぶんと批評的というか考察的というか冷静ではあるといえる)。
 さて。とはいえ、この本の大半を占めているのは、彼がここ最近に発表した短い文章ばかりであり、そういった意味では、ずいぶんと読み応えに欠ける。「まえがき」と「あとがき」で提示されたテーマは、ほとんど反故されているといっていいだろう。もっといえば、四方田、坪内、大塚の本の中にあったような自己形成期への真剣な眼差しが、ここでは建前程度にしか存在していないことを明確に表している。

 でもって、僕がこのような本を読むと、いつも思うのは、今日サブ・カルチャーにとって(あるいはサブ・カルチャーを受容する層にとって)歴史を顧みることは必要か、不必要かというような、根本的な問題である。というのも、中条のマンガ評などを読むと、過去の文学が為しえた仕事と結び付けたいのはわかるが、しかし、そうして出来上がった文章があまりにも退屈であるのと同時に、精密ではないなと思えるからだ。どういう時代の文脈のなかで、そのマンガが生まれたのか、という部分はほとんど無視し、過去の歴史との接続にばかり拘る中条の書き方は、よくよく考えれば、その作品と現在との結びつきを外しているのであり、イコール後の世における歴史との断絶しか生まない。そうやって出来上がってきたのが今日のサブ・カルチャー(あるいはサブ・カルチャーを受容する層)であるのならば、やはり、僕たちにとって歴史は必要ではないのだろう。
 まあ、それをデータベース化というのならば、そうかもしれない。とすると、それは世代的な問題ではなくて、まるでここまで書いたことと矛盾するようだが、すでに歴史化された問題なのである。
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2004年08月21日
 通販で頼んでおいた東浩紀編集の同人誌が届く。ギャルゲーとかぜんぜん興味がない(というか一本もやったことない)けど、90年代的なものに対する考察としては、読めなくもないな。そんな風にとりあえず東浩紀と佐藤心と更科修一郎と元長柾木の鼎談だけ読んで思った。あと夜ノ杜零司という匿名作家の小説が載っていて、一部のサイトでは、舞城王太郎っぽいとか言われているので、期待してたんだけれど、ちらっと読んだ限り、えーぜんぜん舞城じゃねえじゃん。

 いずれ本文追加します。
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 『サウンドトラック』もかなりの力作だったけれど、これもあれとはべつの意味で、傑出した内容となっている。
 
 「僕」=フルカワヒデオは、メタ構造の物語を書こうと思いつく、エッセイのふりをした小説を書こうと思いつく、そういった着想がそのまま『ボディ・アンド・ソウル』という空間をつくり出している。とはいえ、そのようなアイディア自体は、まあわりと見え透いたものに見えなくもないが、ここに収められた情報量の多さと正確さが、とてつもない説得力を育んでいるために、読み終えたときに、うわー、と思わず唸らざるをえなくなる。
 たとえば次のような一節。

 リボルティング・コックス、つまり胸糞悪いおちんちん(ひどいバンド名だね)は、そのころ勃興しつつあったエレクトロニック・ボディ・ミュージックの中心勢力、ミニストリーとフロント242、およびベルギーの多芸多才なテクノ人らが三国同盟を組んで演っていたユニットで、“ロック”およびパンク運動以降の最大の変革を迎えようとする時期を象徴する存在だった。しかし、その改革はあまりにもアンダーグラウンドで進行していたために、またファッションでありコマーシャルであるパンク運動を鼻で笑う(どうかな?照れてたりすねてたりしてただけかな?)後発の世代であったために、いっさいはオーバーグラウンドに出なかった。こうした勢力はのちにジャンル的な洗練を遂げて、ということは暴力性を失して商業マーケットに飼い馴らされてということだが、インダストリアル・ミュージックと呼ばれ、さらにヘヴィ・ロックと改称され、十年後には何百万枚をメガ・セールスを記録するアーティストがでたりもした。名前は挙げないけど。しかし、リボルティング・コックスがいた時代に、いうなればリボルティング・コックスは自身に先駆けすぎたのである。

 古川日出夫『ボディ・アンド・ソウル』P16


 長くなった。でもって、この文章自体がわりと全体に絡んでいるのだが、それはおいて置いて、ある程度80年代以降のロックに関する知識がある人ならばわかると思うが、ここの箇所はそのままリボルティング・コックスのバイオグラフィとして機能してしまう勢いである。そうした情報量の多さと正確さが、細部にリアリティをもたらしている。細部とはどこかといえば、つまり「僕」が立っている、その場所のことである。「僕」=「今ここ」という感覚のことである。「あそこ」や「どこか」ならば、フィクションだからという一点で、多少のあやふやさを許されるだろう。けれども古川は、それを拒む、なぜならば「僕」=「今ここ」であることが、この作品の主題として、ど真ん中に置かれているものだからだ。
 では「今ここ」で行われていることはなんだろう?おそらく、古びることへの抵抗であると同時に、模倣から逃れて類似へと至る、そのような道程である。
 
 例のトリビュート小説のことは抜きにしても、これはもしかしたら古川日出夫ヴァージョンの『ダンス・ダンス・ダンス』(村上春樹)なのではないだろうか。
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2004年08月20日
 この人の小説ってデビュー作の『オロロ畑でつかまえて』しか読んだことがないけれど、ずいぶんとステレオタイプな物語を書く作家になってしまったんだねえ。現代の若者と戦時下の若者が、タイムスリップによって、立場が入れ替わるというプロットは、まあ、珍しくもなんともない。なので、重要なのは、その間にどれだけのドラマを盛り込めるかということになるのだが、はっきりといえば、中身のほうもかなり凡庸だと言わざるをえない(こういう小説を読むと、やっぱり小説ってマンガに負けてるよなとか、いかにも頭の悪いことを言いたくなってしまう)。いっけん戦争がテーマであるみたいだが、しかしそうではなくて、一生懸命生きるのがエライ式のエンターテイメントである。だからこそ、こういう戦争の使い方ってあんまり良くないんじゃないかと僕なんかは思う。たとえば9.11の同時多発テロは、現代サイドの主人公の無関心さを強調する、それだけのために持ち出されているだけで、最後まで何の作用ももたらさない。物語に必要とされていないのだ。正直な話、そこいら辺がくっきりとした瑕となっている。不用意さが、すべてを損なっている。人間なんてみんな目の前にあることしか興味が無いのさ、というのが作者のメッセージであるのならば、まあべつに、それはそれで構わないけれど。いい大人が書く小説じゃねえよ。
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2004年08月19日
 数年前にテレビのワイドショーで嶽本野ばらの自宅拝見みたいのを観たとき、ああ、この人はスタイルの人なんだなと思った。良くいえばスタイルを持っている、悪くいえばスタイルに囚われている。正直なところ僕には、『ミシン』(あるいは『世界の終りの雑貨店』)に書かれていたアイディアのどれもが、あまりにも有り触れたものに感じられ、要するにこれは、このスタイルを共有できる人たちだけに支持されるブランドにしか過ぎないのではないかと訝しげではあった。
 スタイルへの固執。自己模倣に陥ったロック・スターが「誰か」の力を借りて自分自身のスタイルを取り戻す、そういうラストが『ミシン2 / カサコ』には用意されている。
 基本的に、この物語(嶽本の小説)は、ふたつの層から成り立っている。ひとつは特殊性が固有名によって支えられている層。もうひとつは普遍性がベタベタのメロドラマによって支えられている層。あるいは、こう言い換えてもいい。他人がイメージする自分と自分がイメージする自分。前者には洗練が要求され、後者にはシガラミが宿る。その構造は、矢沢あいのマンガ『NANA』に似ている。僕には80年代を思い起こさせる。ああ、だからこれはつまり、中流階級のガキが見るべき夢想であるのだった。良くも悪くも。
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2004年08月17日
 現代においては、ある世代だけが「生きづらい」わけではなくて、どの世代も同様に「生きづらい」のだけれども、どの世代もが「生きづらい」のはどの時代もいっしょで、ただ、この時代の「生きづらさ」は、やはり、ある種の「若さ」のなかに象徴的に表れているのだと思う。若いということは、思慮がなかったり無知である以上に、純粋だということだ。「生きづらい」というのは、つまり、純粋であることの困難さなのであり、今日、多くの識者によって書かれている若者論の多くは、対人関係を中心に純粋さを窒息させる、そういったシステムについてを語っているようだ。ここで僕たちが考えなければならないのは、なぜ、対人関係が重く肩にのしかかってくるのかと、そういうことである。それは本質的に「他者」の問題に関わってくる。たぶん共同体の解体に関連しているのだと思うが、かつてにおいて「他者」は、そのまま外部として存在しえたわけだが、しかし、いま「他者」はどこにいるかといえば、どこにもいない。それはつまり、自分とそれ以外のものとの境界がひじょうに曖昧になるということである。そこでは純粋さを守るためのフィルターもまた失われている。なのに対人関係に基づく抑圧だけは永久機関として存在するのだった。少年や少女は、そうした更地のような寂しさの上に立って「ぼく(わたし)っていったいなに?」といった叫びを上げる。

 この本は、小倉千加子が、さまざまな17歳の悩みを分析するという体で成り立っている。読み手としては、やはり、そのぐらいの年代が想定されているんだろうなと思う。小倉の言葉は、わりと真摯だが、しかし、それが彼や彼女らの「生きづらさ」に届くかどうかは、まったくべつの問題である。
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2004年08月16日
 ハンナ・アレントは人間を人たらしめているものは「活動」だといっている(『人間の条件』)。東浩紀が「動物化」というとき、それはおそらく、そういった「活動」に「意味」が宿らなくなることを指している。「活動」自体がなくなるわけではない。そこいら辺を誤解してる人が多い気がする。もちろん、そのことは、この本とは近いところでは関係していないが、しかし、遠いところでは無関係ではない。
 アガンベンは、この本のなかで、人間と動物との境界を、さまざまな先人の言葉を踏まえながら考察する。世界を形成するのが人間の特徴であるならば、世界なしですますことを余儀されるのが動物なのであり、そうして、やがて見出されるのが「開かれ」という概念である。人間はつねに世界と向き合わなければならないが、動物はそのような拘束から開かれている、けれども、そこにある「開かれ」を見ることができるのは人間だけだ、という転倒を、アガンベンは、可能性あるいは不可能性と結びつけながら語っている。人間と動物の差異に、どちらが優位かという価値判断は、ない。つまり、ここで問いかけられているのは、人間とはなにか?動物とはなにか?ということではなくて、国家や歴史から演算されるような生からはたして逃れることはできるのだろうか、という難題(それはもしかしたビオス=政治的身体やゾーエー=生物的身体とは異なる新しい身体というのはありうるのだろうかということ)なのだと思う。
 
 われわれの文化において、人間とは―すでに見てきたように―たえず動物と人間の分離と分節化の帰結であり、そこでもまた、この操作の二項のうちの一方のほうが賭けられている。われわれの人間概念を左右する機械を機能させないようにするということは、それゆえ、もはや新たな―いっそう有効で偽りのない―分節化を模索することを意味しないだろう。むしろそれは、中心に空虚を見せてやること、すなわち、人間と動物を―人間のうちで―分割する断絶(イアト)を見せてやることなのであり、この空虚に身を曝すこと、つまり、宙づりの宙づり、人間と動物の無為(シャバト)に身を曝すことにほかならない。
 
 ジョルジョ・アガンベン『開かれ 人間と動物』P138
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2004年08月14日
 「戦後60年と今」なる副題が付せられているけれど、それほど難しい本ではない。難しかったのは『日本語の外へ』である。日本語(英語)の側から英語(日本語)を考えるという、あれは難しかった。途中で放り出しそうになった。や、難しいというのは正確ではない。読むのが面倒くさかったのだ。しかし、その面倒くささこそが、じつは思考のプロセスなのであり、重要なものなのだ、と片岡義男はいっているように思える。ここに収められているのは、基本的に、日常生活についてのエッセイばかりである。スパム・ライスのこととか、引越しのこととか、わりとどうでもいいことも書かれている。けれども、原爆の話からはじまり、憲法第9条の話で終わる構成は、戦後以降を生きる僕たちの日常生活がすくなからずアメリカの影の下にある、あるいは、アメリカ的な価値観の混ざったものが戦後以降を生きる僕たちの日常生活であることを教えている。まあ、ある意味では単なるおっさんの回顧録としてしか読めないかもしれないけれど。べつにそれはそれでいいんじゃないか。暇潰し用の読み物としてふつうにおもしろいよ。
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 元来、仏教には、キリスト教のような「神」という超越者は存在しない。なぜならば仏教においては、すべてを乗り越えた先にあるのは「空」という認識だからである。〈空とは、一切が関係の中にあり、実体はないということである〉。
 けれども今日、僕たちは、仏教においても「神」様のような誰かを見出そうとしてしまう。なぜか?それは、いま仏教と呼べるものは、近代=開国後において改めて発見されたものだからだ。そこには西洋の影が、目に見えない微粒子のカタチで混ざり込んでいる。

 たとえば、邦楽でも洋楽でもいい、つまり日本語でも英語でもいい、あるアーティストが、天国のドアを叩く、とうたったとき、聴き手であるところのこちらには、なにか「天国」なるもののイメージが想起されるが、しかし、それはいったい何に基づいているのだろうか、ああ、そうだね、僕たちは「天国」とは遠からず「heaven」の別名であることをほとんど無意識のうちに知っているとか、そういう話。

 とはいえ、べつにグローバリゼーションのことについて言っているわけではない。そうではなくて、歴史における反復のことを言っているのだ。なぜならば、それは時と場合こそ違えど、地球のあらゆる場所で、過去に起きたことと立場を同じとするからである。〈反復がありうるのは出来事(内容)ではなく、その形式(構造)においてである〉。そのような形式(構造)の反復によって、この世界は成り立っている。そして僕たちは、いつだってそれを乗り越えてゆこうとする、そのことだけが出来事(内容)として認知されるのだった。
 たぶんね。
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2004年08月12日
 伊坂幸太郎の小説は、おもしろいと思うし、好きだし、読み終えたときに泣けてきてしまうものもあるのだけれど、正直なところ、永く心に残らない。それはもちろん、読み手であるところの僕の性質によるのかもしれないし、あるいは書かれたものがミステリという形式だからなのかもしれない。

 とはいえ、中学校の頃に読んだ赤川次郎の『ひまつぶしの殺人』はずっと心に残ってんだよな。ああ、でもあれは、人が理由もなく死ぬ、理由もなく殺される、理由もなく殺す、そういったことがあまり信じられていない時代に書かれ、読んだというインパクトでもって忘れていないだけなのかな。どうだろう。

 っていうか、じゃあ今は、理由もなく死んだり、殺されたり、殺したりするってことが信じられてる、そんな時代だっていうのかい。

 『グラスホッパー』に綴られているのは、たぶん、そのような問いかけである。物語は、復讐者、殺し屋、自殺を強要する者の3人の視点でもって、同時進行する。彼らが求めるものは、共通していて、それはおそらく生きる意味みたいなものである。そして、それを見つけられたものは生き残るし、見つけられなかったものは死ぬ。それなりに複雑な構造を持っているといえるけれど、中身は、おどろくほどにシンプルだ。まあ、すぐれた寓話なんてのはいつだってそういうもんさ、といわれれば、なるほど、きっとそうなんだろう。

 「僕は、君のために結構頑張ってるんじゃないかな」
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2004年08月11日
 『メフィスト』9月号掲載。十七番目の妹が死んだので「私」は映画を観に行かなければならなかった。十七番目の妹が死ぬのは、これで4度目で、そのたびに「私」は映画館へ向かう。途中、財布を忘れたことに気づいた「私」は、上品そうな紳士からハートのエースのカードを借りて、キャッシュディスペンサーから金を下ろす。銀行強盗の覆面の男は左手の薬指で引き金を引いたために死ぬ。熊の少女が携帯電話を差し出す。向こうからは十七番目の妹の謝る声が聞こえる。
 青臭い議論もキャラの立った登場人物も現われず、これといったストーリーもない。これまでの西尾作品でいえば『明けない夜とさめない夢』がもっとも近しい、徹頭徹尾アパシーだけが感じられる。たぶん西尾維新の本質、っていうか文学観みたいなものって、こっちなんじゃないかな。太宰治を遠景に捉えるような。いや、こういうのものすごく好きなんですよね、僕。全体を通して、脈絡がないにもかかわらず、なぜか余韻が残るつくりは高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』を思い起こさせたりもする。
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2004年08月09日
 この新書において重点が置かれているのは、じつは「愛国心」ではなくて〈私〉のほうである。でもって、この〈私〉というのは公的領域に対する私的領域を指さなければならないのだけれど、これまでに香山リカの本を読んだことがある方ならばわかるように、基本的には、香山の「私語り」に収まってしまっている。

 香山や大塚英志(新人類っていうんだか、オタクっていうんだか知らないけれど、そういった世代)などの本を読むといつも思うのだが、彼らの「自分は他人とは違う」という発想を、まるでマス・プロダクツしたような感性こそが、現代の日本でもっともポピュラーなものであり、この本のなかでもあまり褒めてはいない類のものなのだから、「私語り」をするのはいいが、もうちょっと自分に厳しくなったほうがいいと思う。

 で、もっとも曖昧でいけないのは、社会的であるということと公的であるということが、ここではべつのレベルで書かれている、要するに「愛国心」なるものは、社会的には共有されていないのに、公的には実践されているというように読めるのだけれど、それぞれがいったいどういったものなのかが提示されていないにもかかわらず、前提として大勢に理解されているという体で話が進められているということ。なんとなくわかるんだけれど、そういうなんとなくわかるわかるで進められているというのは、たぶん香山の危惧する「愛国心」もいっしょなわけで、ここで香山のロジックに説得力を感じる人は、なんらかのきっかけがあればきっと簡単に、今いる場所とは反対側に転んでしまう。
 まあ世の中はそういうことの繰り返しなのだといえば、それもそうかもしれないけれど。よく飽きないね。

 それはともかく。愛国心云々の話だが、個人的には、ナショナリズムとか愛国心とかって、さいこうに胡散臭いと思うので、どうでもいいと思ってる。
 長くなるので、その件についてはまた。
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2004年08月08日
 うわ、これは微妙だ。僕は純粋なミステリ読みではないので、トリック云々はわりとどうでもよくて、物語自体のドライヴ感みたいなものを求めてミステリを読むわけなのだけれど、全体を通してアンチ・クライマックスとまではいかないが、しかし、ものすごく落とし所が掴みづらい小説なのではないだろうか。というか、これって基本的にフェイクがキーワードになってるのかな。名探偵は作り物だし、舞台となる中世的ファンタジーも作り物で、その他諸々もぜんぶ作り物だし、もちろん謎解きもフェイク。でもって、そのなかで唯一ほんとうなのが、なんと亡霊の存在なのだけれど、その彼が見る世界や言語感覚も、現代の日本においては紛い物だという、そういう趣向。ありとあらゆる特殊性が一回転して、じつに凡庸なところに落ち着くという怪作。たぶん、それが作者の意向なので、真剣になったら負け。石動戯作のシリーズでいえば『黒い仏』に似ているのかもしれないけれど、あれよりもずっと性質が悪い。
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2004年08月07日
 僕は菊地成孔のプレイしている音楽に対しては、あまり関心がないので、よい読み手であるかどうかはわからない、というのは、ここに書かれている固有名のほとんどが僕のデータベースには存在していないからなのだけれど、それでもグイグイと読めてしまうのは、菊地の文章力、それはテクニカルな問題ではなくて、藝として見せ方に優れているからなのだと思われる。つまり、菊地の文章というのは、文学的なのではない、あくまでも文藝として成り立っているのである。だから純文学なんかを扱う文学誌なんかは、居場所として、彼の作風にはマッチしない。そしてロジカルじゃなくて、フィジカル。ということを本書で確認した次第。個人的には、前著である『スペインの宇宙食』のが楽しめたかもしれない。散文的で。リストカットする女性の話とか、かなり好き。ああいうのがもっと読みたい。
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2004年08月06日
 これは雑誌『ダ・ヴィンチ』に掲載された映画にまつわる文章、宮台真司によれば映画批評ではなくて実存批評、を集めたものである。実存批評とは〈私たちの実存の意味自体を、社会的文脈と照らし合わせて批評することを目的とする〉ものらしい。正直な話をすれば僕は、処方箋処方箋と言っていた頃の宮台には、それなりに啓蒙されたが、「サイファ」とか言い出してからは置いていかれてしまった読み手であるので、ここに書かれていることも、映画批評としてみれば、その内容自体はともかく、納得はできなくもないのだが、実存批評などといわれるとちょっとわからなくなってしまう。要するに、ここで宮台式の論に則って定型化されているのは、僕たちの生であるはずなのだが、しかし、どうもこれは僕のことをいってはいないな、という違和感を覚えるということだ。
 じつはこれは重要なことである。

 もしも、その宮台が提出する形式に自分が当てはまらないと感じる人間がいるとすれば、では、その人間はどのように生きればいいのか、という意味合いで、かつて反論したのが、小谷野敦であった。小谷野がいうところの「モテない男」とは、そういった意味合いを含んでいる。たとえばこの本のなかで「〈社会〉との違和〈世界〉との違和」として書かれる女性たち、彼女たちに共通するのはセックスの存在、自分をモノ化する、言い換えれば、自らの所有権を他人に譲ることで一時的な安定を得る行為である、その共通項を軸として二股に分かれる差異が見出されるわけだけれども、世のなかにはセックスをしたくてもできない人間というのがいるのであり、そのような人間はセックス以外の何を自分のなかに代入して生き延びているのか、というのが延々と不明瞭なのである。もちろん、ここではセックスを宗教や恋愛やイデオロギーと言い換えてもいい。が、おそらく、そういったいわば中庸に属する種類の人間というのは、宮台式の救済には、さいしょから勘定に入れられていないのだと思われる。結局のところ、死人といっしょなのだ。そのような層には絶望すらも宿らない。
 
 90年代のはじめ、「オタク」と「サブカル」(サブ・カルチャー自体のことではない)は相容れないものであった。「サブカル」はモテて、「オタク」はモテなかった。そういった意味で、宮台は、今でも「サブカル」という狭義の世界を牽引しているのであって、さすがに10年以上も経つと、それは非常に退屈に感じられたりもする。
 ただ考察としては、参照するに値しうるだけのものが、未だにある(入れ替え可能性の問題などは今日おいてはとくに重要だ)と思うので、とりあえず、この宗教がかった仰々しいタイトルに示されるような、さいきんのセンスだけは、なんとかならないものだろうか。ラジオとかを聴いていると、わりと適当なことを言っているのにねえ。
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2004年08月05日
 これを読んでいて、いちばんビックリしたのは、小谷野敦は単著だけで17冊も本を出しているという箇所だった。小谷野は、それほど古くからいる書き手ではないので(登場は90年代に入ってから)、このスピードというのは、もしかしたら福田和也に次ぐものなのではないかと思った(推測)。で、じつは僕は、その17冊の単著のうち、なんと16冊を読んでいる(ぜんぜんおもしろくない『間宮林蔵〈隠密説〉の虚実』まで読んでいる)のであった。ということは、これはもはやファンなのではないだろうか。なんかやだな。
 小谷野といえば『もてない男』が有名であるが、僕は『もてない男』はあまりおもしろいと思わない。もしも一冊オススメするとしたら『恋愛の超克』か、新書の『バカのための読書術』が良いのではないかと思う。
 小谷野の執筆の動機にあるのは基本的に「法界悋気」というものである。本書でも、世間一般に対して「気にいらねえ」と異様に毒づいている。ただ、ここに収められたネタの半分くらいは、他の本にも書かれていることであったりするので、新味はないといえば、ない。
 ところで永江朗は『批評の事情』という本のなかで、小谷野は〈恋愛とセックスと結婚を故意に混同している〉、そこがわかりにくいといっているのだが、僕にはちょっとそれがわからない。そのように恋愛とセックスと結婚を切り離して考えるような人間は、きっと宮台真司とかの本を支持するのではないかと思う。たしかにそれらは同じレベルでべつに置くべきもなのかもしれないが、どうしても僕は愛のないセックスというのが理解できない。
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2004年08月04日
 生田紗代が、綿矢りさや島本理生、金原ひとみといった同世代の女性作家と比べて地味なのは、後発であるというよりはむしろ、その実力に問題があることは、デビュー作『オアシス』もかなり怪しかったが、この『タイムカプセル』ではっきりとした。
 
 ここに書かれていることは、基本的に、自分(他人)の内面に他人(自分)は届かないというもので、そのテーマ自体は、綿矢、島本、金原と共通するものである。ただ、それだけのことをいうのに、なぜこれだけの登場人物が必要なのかが判然としない。おそらく物語を進行させるためだけに、彼や彼女らは、小説中に召還されているのだろう。言い換えれば、ここでのコミュニケーションは、ただ字数を埋める作業にしか他ならないということだ。あるいは、さいしょは必要性を持って現われたのだけれど、途中で要らなくなった。しかし、もったいないので削れなかったという、技術的な不足によるものかもしれない。

 いちばん理解に苦しむのが、韓国人のハン先生の存在である。どう読んでも、この人がどのように物語に貢献しているのか、あるいは、この人がなぜ韓国人でなければならなかったのかが、僕にはまったくわからなかった。

 もしかしたら生田が大学で韓国語の講義を受けているからという理由で登場しただけなんじゃないかな、これ(じっさいに受講してるかどうかはしらない)。
 そう思えるのは、WEEZERや『トーマの心臓』、『猟奇的な彼女』、ファイナルファンタジーといった固有名が、あちこちに登場するのだが、それらが特に物語のなかで必然性を持っていない、つまり、書き手にとっては重要な情報なのかもしれないが、読み手にとっては無意味な情報にしか過ぎない、そういう書き込みが多すぎるからである。

 もちろん固有名の氾濫は、「私」が気にかける異性の名前が最後まで明かされないことと関係しているのだろうけれども、そんなとこまで読みとるには、この小説に対して、かなり親切になってあげなければならず、僕にはちょっとそこまでの感情移入はできない。

 また生田は、食に対する記述が何かしらかの現実感(リアリティ)を生み出すと考えているようで、料理やお菓子の描写が頻出するのだが、しかし、それらはとても稚拙で、もしかしたらこの人は料理とかしたことがないのかもしれないな、と思わせるぐらいの効果しか上げていないのだった。
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2004年07月31日
 乙一がWEB上で公開していた本当と嘘が混じった(本当に嘘を混ぜた)日記をまとめたもので、たとえば女性作家などが公開しているWEB日記などと比べると、非常にネタ度が高い、というか、ぶっちゃけて日記というよりはネタ帳とでもいうべきものなのであって、片手間ぐらいでニヤニヤして読むのがちょうどいい。でもって、とくに秀逸なのは、じつは本文よりも脚注であったりする。乙一のユーモア・センスというのは、この本でもちょこっと取り上げられているマンガ家、施川ユウキの持っているものに近しい。その近さというのは、世代的なものに起因しているのかどうかというのが、僕の興味のあるところである(たぶん参照項が近いんだろうと思う)。それはともかく。その脚注でもって10ページに渡り解説される滝川竜彦、西尾維新、佐藤友哉らとともに臨んだらしい合コンの話がおもしろい。内容を書くとネタバレになってしまうので書かないが、これまで合コンというものに参加したことのない僕などはそれを読むと、ああ合コンっていうのはやっぱり怖いんだなあ、と思って、ただただ萎縮してしまうのであった。
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 前半はともかく、後半の筆力(とくに「そう」という言葉の連呼によってビルの倒壊を夢想する場面)が印象的な力作である。けれども、全体を総括するには、すこし作りが複雑になっていて、おそらく『群像』6月号の「創作合評」で星野智幸が披露した、父性の去勢のようなものがテーマとしてある、という読みがもっとも納得のいくものであるが、しかし、そこにストンと落ちてかない、吉田修一特有ともいえる粘着性が、じつは僕はちょっと苦手だったりもする。
 従来の吉田作品と同様、物語のなかに複数の視点(ここでは2つ)が存在している。それらはニアミスはするが、基本的には、交差しない。そのネジレみたいなものと、イメージとディテールの連なりが、「O‐Miya スパイラル」という巨大な建造物に、象徴的に、表されているのだと思う。
 ぜんぜん話は変るが、帯に村上龍が推薦文を寄せていて、たとえば村上の小説などでもそうなのだが、埼玉辺りに住んでいる人間の描写には、どこか負け犬感がつきまとう。この小説も舞台は、大宮なのだけれど、その負け犬感みたいなものがちゃんと存在していて、たしかにそれはリアルではあるのだけれど、僕のような埼玉在住の人間としては気になる、居心地の悪さを感じるところである。って、そんなことは激しくどうでもいいな。まあだから要するに、郊外というか、地方都市の憂鬱というやつだ。
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2004年07月29日
 の特集は「文学賞 A to Z~獲るまえに読む!」というもので、こういうのを読むと、10ぐらい前に「J文学」とかが流行って、公募ガイドみたいのが売れて、新人賞をとるための「傾向と対策」本がにわかに登場しはじめたことを思い出せるが、まあ要するに、世界は何も変っていませんよということなのかもしれない。だから、これを読んだって、べつに文学力(?)が上がるわけではないし、獲れるとしたって(かつての『文藝』と同じような意味合いで)サブ・カルチャーに日和った今の『群像』の新人賞ぐらいではないだろうか。
 さて今回の特集だけれども、個人的に、冒頭の島田雅彦と大森望と豊崎由美の座談会(?)以外では、神山修一(おお、「J文学」者だ)の『自分を商品とするということ 「美少女作家」の二十年』を興味深く読んだ。というのも、好きな作家である黒田晶のことについて、わりと多く字数が割かれている、ただそれだけの理由なのだけれど。ただ、『メイド・イン・ジャパン』が金原ひとみに強い影響を与えたという推測は如何なもんかと思う、それはないだろう(もしかしてインタビューとかで言ってたのかな、だとしてもソースがないのでわからない)。

 それはともかく。最近、黒田晶のWEB日記がぜんぜん更新されないので、しょんぼりしてしまう僕であった。
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2004年07月26日
 もしも、よしもとばなながここで書こうとしたことが、装丁や本文イラストに表されているものと結びつくべきであるのならば、よしもとは、おそらくそれを書けてはいない、けれども、これは、ここ数作のなかでも、とくに突出した内容を持った小説であるように、僕には思えるのだった。
 これまでのよしもと(吉本ではない)が描いてきた女性たちが、あらかじめ何か(たぶん、イノセンスとかピュアネスとか、そういったもの)を喪失している場所からはじまり、再びそれを発見するという過程をとっていたならば、ここでは、それ以前の段階が書かれている、といえる。
 主人公である14歳の少女は、つまり従来ならば、作品の終盤に現われるか、それとも「私」以外の人物に表象されていたものであったが、『High and dry(はつ恋)』においては、間逆の場所に立たされている。それは、未来はうつくしいかもしれないが、しかし同時に、とてもとても過酷なものなのだ、という厳しい言い切りでもある。
 全体のプロットとしては、もはやワンパターンの美学ともいえる、さまざまな葛藤が不意に経験する不思議な夢によって自己解決するというスタイルをとっているが、ストーリーは、そのちょっと先にまで足を伸ばしている。少女は、その夢はただの象徴的な出来事でしかなく、そして、それはたしかに現実とは地続きであるけれども、しかし、べつのレベルで行われているのだということを自覚したところで、小説は、終わる。
 そういったことを踏まえ、僕がこれを優れていると思えるのは、『海のふた』のときの印象とは逆で、ここで登場人物たちは世界をちゃんと対象化し、その上で、そこに内在化しつつある自分という存在を見つめていると感じられるからだ。 

 ほんとうはもうちょい色々と書きたかったのだけれど、とりいそぎ、ここまで。

 あ、それとはべつに。片岡義男のジョン・レノンに関する本(たぶん『回想するジョン・レノン』)を読んでる14歳の少女って!とか、タイトルは、レディオヘッドのナンバーからとられているのかなとか、今回はかなり細部が気になった。ロック・ファンなので。
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2004年07月25日
 を読んでる。この本でも最初のほうに書かれているように、カルチュラル・スタディーズ=カルスタの旗色が、いま現在、それほど良くないように思われるのは、たぶん、実践を掲げながらもその有効性が、イマイチ伝わってこない点にあるのだろう。
 とはいえ、僕は吉見俊哉の本はわりと好んで読む。なぜか、簡単にいえば、非常に見通しがいいからだ。それというのも、リアルタイム性は少ないかもしれないけれど、いっこ前の時代のレポートとしては、それなりに巧くまとめられているように感じられるからだった。

 読み終わったら、いつか書き直します、おそらく。
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2004年07月24日
 井上荒野の小説を読むたびに思うのだけれど、彼女の文章には、なにか独特な引っかかり、それこそフックと呼んでも差し支えのないものがある。

 丘は、山のようには高くないけれど、そのぼんやりした起伏は、見渡すかぎりうねうねうねと続いていた。山は、どんなに高くそびえていても、その向こう側を想像することができるが、ハワースの丘の連なりは、果てがないように思えた。そら恐ろしい感じがした。
 そら恐ろしくなんかないわ、と杏は自分をたしなめた。日常は果てがないに決まっている。生きていくのはそういうことだろ? と、迅人なら言うだろう。 P21


 たとえば、この箇所でいうならば、もちろん平仮名の使われ方もそうなのだけれど、もっともわかりやすいのは、「そら恐ろしい」という言葉が、そのフックにあたるだろう。二度繰り返されるように、作者は、おそらく、それを意図的に置いている。そして、その「そら恐ろしい」という言葉に表象される何かが、この作品のフレームのようなものを作っている。
 中心人物は3人である。妹、妹の旦那さん、姉。このようなトライアングルから想像できるように、妹の旦那さんと姉がじつは関係を持っている、という部分が陰となって物語は進む。が、しかし単純に、どろどろとした愛憎劇には陥っていない。たしかに暗く重たくもあるのに、それなのに、むしろ軽快な読み易さすら感じさせるのは、彼らのなかのひとり、いちばん弱いひとり、誰にも何も与えられないひとりが、やがて気づくように、ほんとうの孤独や絶望というのは〈湿った感じではなくて、乾いた感触〉で〈乾いていて、軽い〉〈あまりにも軽くて、温度もない〉〈何もない〉からなのだと思った。

 と書いたずっとあとになって気づいたことがあったので、書き足しとくと、しかし、目新しさはなくて、これはじつに模範的な絶望であったり、孤独であったりするのかもしれない。だから読み易いというのもあるだろう。
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 たとえば、こうして僕がある本について文章を書いたとしても、それは本というメディア自体を論じたことにはならない、では、そこではいったい何が行われているのか、という問いかけが、第1部の基本線で、第2部は、その実践みたいなことになるのかな。しかし北田暁大の文章は、読み進めるのがほんとうに面倒だ。それは難解だということではなくて、むしろ平易ではない、というか、広く多くの読み手には開かれていないからなのだと思う。

 こうした歴史学的な動向とは別に、労働者階級の「読み書き能力」を文化論的に論じたリチャード・ホガードの労作『読み書き能力の効用』、十九世紀以降の読者階層と「文学」の変容を〈structure of feeling〉に定位しつつ鋭利に分析したレイモンド・ウィリアムズ『長い革命』などに見られるような「読者(階層)論」がイギリスのCSの「始祖」たちによって展開されているし、また、ガダマー流の解釈学に依拠しつつ、テクストの作者と読み手の認識論的な隔絶を見据えながら読み手の影響史(effective history)が解釈に果たす作用を分析したヤウス、イーザー等の「受容の美学」が文学研究の文脈において活発な議論を巻き起こしたことは知られる通りである。 P30

 と序盤に書かれているのを読むと、「知られる通り」だって?と、それぐらいのことも予め了解していない僕などは、この長いワンセンテンスの前に、うわーん、ごめんなさい、って屈してしまいそうになる。まあ、それこそが「学問」とか「思想」とか「研究」なのだといわれれば、そうかもしれないけどさ。とはいえ、これは、さまざまな雑誌などに発表された文章を集めたもの(半分ぐらいは既読だった)なので、全体の見通しは悪くとも、一個一個の部分では、それなりに啓蒙されるところがあるのだった。個人的には、第5章の「RE-PLICATION複製 レプリカはアウラの衣を折り畳み、喪失の夢を見る」が、オリジナルとコピーそしてシミュラークルという、自分の関心に近いことについてが書かれているため、とても興味深く読んだ。
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2004年07月21日
 ちょっと前に起こった事件によって抽出された、長崎+カッター+小学生という不穏なキーワードをそれ以前に先取りしてしまったのが、『新本格魔法少女りすか』なの(←登場人物の口調を真似てみた)。ちきちきちきと刃を迫り出すカッターナイフのつけた傷が少女のなかの魔法を発動させる。ぜんぶで3話収録されているけれど、さいしょの2話(つまり『ファウスト』掲載分)に関しては、救いがない、といってしまって良いかもしれない。ただし、そこで救われないのは、隣人が失われてもその危害は自分には及ばない、平穏な日常がいつまでも続くと感じる想像力の足りない、小説中の言葉に即していえば〈鈍感で無神経な連中〉であって、そのような世界を外側から見るような「きみ」と「ぼく」の関係においては、ここで人が無慈悲に殺されること、無意味に人が死ぬこと、見殺すこと、それらのすべてが罪と罰の名目の違いはあったとしても、お互いに価値のある結びつきをもたらす、重要なファクターへと転じている。
 単純にこの小説のおもしろさは、登場人物の性格も含めて、マンガ『デスノート』と同様のカタルシスによってもたらされているように思われる。一般的なモラルに則れば、主人公たちの行いは、けっして正しいものではないけれども、社会化された正義や悪がもはや、それほどの説得力を持たない現在では、このようなごく個人的な正当性からの一撃が現実を穿つ、カウンターのような役割を果たすものだけがエンターテイメントとして機能するのかもしれない。とはいえ、『デスノート』がファシズム的な自信でもって主人公を際立たせているのとは違い、ここでは、そうした個人的な正当性を支えているのは、3話目で明かされるように、あくまでも「きみ」と「ぼく」がともに在る、そうした関係性によってである。少年と少女が作り出す、いわば私的領域とでもいうべきものが、この世界のありとあらゆる不運を退けている。
 西尾維新のほとんどの小説がそうなのだが、登場人物はけっして、自分はこの世界の一部である、とはいわない。なぜならば、そのように認識することは、彼らのどのような行為も、やがて世界に吸収され、内側に捕えられ、結局のところ、その下位に属してしまうことなのであって、そこでは、ある行為が世界を変える、あるいは越えるという可能性が、奪われることとなるからである。なので、もしも、この小説が残酷さのなかに伝えるものがあるとしたら、それは優しい救済ではなくて、受け入れるには過酷かもしれないが、しかし、たしかに存在する希望だろう。

「だから、ぼくが……ことの頑張り方って奴を、教えてやってるのさ。教えてやらなくちゃ……ならないのさ」
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2004年07月20日
 つい最近まで僕は、よしもとばななの熱心な読み手のつもりだった。けれども、たぶん「吉本」が「よしもと」になったあたりから、どうもそれほど引きつけられることがなくなってしまった気がする。
 その要因として考えられるのは、ある人たちが村上春樹の小説を読んで、これはモテる男の話だと感じることがあるように、よしもとばななの小説もまたモテる人間しか扱っていないじゃないかと、寂しがりやの僕は妬むからなのだった。
 というのは嘘である。
 じっさいには、かつては限定された事柄を扱っているようでいて、じつは普遍的な事柄への拡がりを持っていたものが、今では、普遍的な事柄を扱っているようで、じつは閉ざされた空間にまとまっていく、そういう感じを受けるからなのだった。もうちょっと言い換えて、以前の作品でいうならば『TUGUMI』のイジ悪さは、最終的には優しい読後感を残すが、最近の作品は、なんとなく逆のような印象、ある意味では残酷な、特定の人間にだけに向けられた恣意の優しさが作られている、そういうような印象を僕に与えるのだった。
 それはおそらく、平仮名の使われ方に現われている。本来ならば、漢字で表されたほうが読みやすい場合でさえ、平仮名として綴られるのは、無意識からやってきたことではなくて、あくまでも作者の、そういう風になにかしらかを構築しようとする意識が、そこに含まれていることを示唆している(以前はここまであからさまではなかったと思われる)。あるいは、それを自然だとする層があるのかもしれないけれど、僕はそこにはいけない、というのが僕と今のよしもとばななの小説との距離となっている。
 登場人物たちは、いっけん自分たちが世界という存在を認識し、そこに内在しているという感じで生きているみたいであるのだけれど、そうじゃなくて、単純に、彼女たちは世界そのものの存在を対象化することを拒んでいるだけなのである。では、なぜ世界だなんて言い出すのだろうと、そのことを訝しがる僕がいる。
 とはいえ、この小説のラスト・シーンはちょいとうつくしすぎる。それはちょうど作品のなかで、ふたりの女性がある夏に見た世界の明るさと等しいものだと思うと、その瞬間だけは、ああ、やっぱりよしもとばななの小説の良いところはここだな、と感じることができるのだった。
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2004年07月19日
 嫌々書く作家である中原昌也の、待望(!)の短編集。しかしいや、これがパラノイアの記述でないとするならば、いったい何なのだろう。ユーモアである。あるいは、ひどくおそろしいほどのピュアネスなんじゃないか。僕はここにある陰鬱をケタケタと笑いながら読み飛ばす。読み飛ばすのは陰鬱であって、文章のことではない。ここに収められた一編『お金をあげるからもう書かないで、と言われればよろこんで』では、中原の大嫌いなマンガと石原慎太郎が力強く肯定されている。肯定とはいっても、しかし、それは否定の裏返し、皮肉だ。マンガと石原慎太郎は、中原昌也という作中人物によって、声高に讃えられている。しかし中原は、他人の個人情報を売りさばくような胡散臭い奴である。つまり、そういった下卑た連中によって支持されているのがマンガや石原慎太郎なのであって、要するにマンガや石原慎太郎などは、信用するに値しないものなのだ。石原慎太郎はともかく、僕はマンガが大好きな子なので、その点においては賛成しかねるけれども、ここにある純粋なほどの憎悪には、首を傾げることはない、しっかりと頷いてしまうのであった。笑いながら。
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2004年07月16日
 なぜロック・ミュージックを扱うと、小説は、とたんに紋切り型となって読むのも恥ずかしいものに変わってしまうのだろうか。たとえば最近では、大崎善生のレッド・ツェッペリンに関する解釈はおそらくは正しいのだと思うが、それを聴いている登場人物の振る舞いには、身を凍えさせそうになってしまったし、辻仁成の『刀』に現われるミュージシャンの姿、そのナルシストぶりなどは、真剣に心の底からキモイと思ってしまった。
 川島誠は陸上を扱った『800』がそこそこ出来のいい青春小説だったので、この『ロッカーズ』も試しに読んでみたのだけれど、うひゃーだめだ、耐えられない。いつの時代のどの国のバンドだよ、これ。っていうか「ギグ」っていう言葉をひさびさに聞いちゃった。なんか得した気分だ。
 
 「もうすこし聞かせてくれよ。夜は、まだ逃げやしないんだぜ」
 あきれてしまうようなセリフだった。いまどき映画の中でさえ聞けないような(中略)。
 しかし、セージにそんなキザなセリフが似合うのは、いまや日本中でみんなが知っている。

 
 まさか、いまどきアイロニーじゃない用いられ方で、そんな〈いまどき映画の中でさえ聞けないような〉〈あきれてしまうようなセリフ〉を、小説で読めるとは思いもしなかった。
 小説における、ロックの描かれ方というのは、角田光代『あしたはうんと遠くへいこう』ぐらいにダメダメか、それか、松村雄策『苺畑の午前五時』のようにノスタルジーに抵抗するものでなければ、ちゃんとしたリアリティというものを伴わない。そのことをわかって書けている人は、悲しいけれど、少ない。
 ちなみに解説で『青春デンデケデケデケ』の芦原すなおが、ステレオタイプであることを、ものすごく褒めています。
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 『文學界』6月号掲載。もうあちこちでさんざん既出だと思われるが、第131回芥川賞受賞作である。じっさいに読んでみると、なるほど、今回の候補者でいえば、ちょうど佐川光晴と舞城王太郎の中間のような作品で、堅実さとラジカルさのバランスが、心地良いといえばいい。一回読んだだけなので、細かいところでいろいろあるのかもしれないけれど、基本的な内容は、「俺」語りによってモラトリアム的なエンプティネスに祖母の介護という題目が代入されるという、じつにオーセンティックなもの。文体としては、ヒップホップ云々というよりは、いま現在、30代の男の人とかがネットでやってるテキスト・サイト系のものに近いんじゃないかしら。
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2004年07月15日
 ボードリヤールの本を読んで僕が理解できるのはほんの一掴み程度のことでしかなくて、それはつまり、なにも理解していないのに等しい。とかって考えると、まあ自分の頭の悪さが悲しくはなる。
 これは03年に行われた来日講演をまとめたもので、今日を生きる僕たちは、非・出来事を、あらかじめ出来事として先取りするため、イラク戦争に関しては、それが予測範囲内であるがゆえに、大きなエキサイトメントは得られなかったが、9・11のテロからは、それが想像を越えた事象なので、強烈なインパクトが与えられたわけだけれども、そこにあった差異すらも、もはや出来事として同じレベルで経験してしまったため、暴力に対しては、先行するヴァーチャル性だけを追いかける格好で生きていることとなる、というようなことが、たぶん、基本軸に置かれている。
 また、ここでボードリヤールが語る、ヴァーチャル性、あと写真の問題(写真家としてのボードリヤールの視点)などは、たとえば阿部和重や星野智幸、吉田修一の小説のなかに書かれていることに近しい。とするならば、思考としては、掴みづらいが、実感としては、たしかに説得力を持つものだと思う。
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