~プロローグ~

  私個人は、宗教については、どれが良いとか悪いとかは無いです。従って私が特定の物を批判したくて記事を立てている訳では無いので最初からその様に明言しておきます。

 しかしこの宗教と言うものは長い人間の歴史から見ると必ずしも人の平安や心の拠り所になっているのか疑問だったり、権力者から虐められる原因になったのも事実です。そして残念な事に政治利用をされてきました。特定の宗教を信心している方には見たくない!腹立たしい!と思う方も居られるかもしれませんが、現実逃避していては本当の幸せ何て掴めないと私は思います。これからの世の中に私が希望する事は権力者が心の弱い庶民を宗教を使って利用しない事と。自分の利益の為に嘘を付く事によって本来の神や仏を世の中から隠す事を辞めて貰えれば良いのになと切に願います。

~以上~

 

【今から解説して行くのは凄く一般的な歴史解説に過ぎません】

しかし、良く目を通してみてください、私も含め自分達がいかに過去の事を普段教えれていないかを(当然歴史マニアみたいな人は自分で切磋琢磨しておられるでしょうから例として除きます)私達は本来教えられるべき事を教えられていなんです。いえ、学校などでは教えられてはいます

『視点を変えて物事を見る』

という教えられ方をしていないのです。

 

【江戸時代から幕末にかけてのキリスト教事情】ウェブリブログ等から参照

【鎖国から明治の文明開化の時代】~時代背景~

御存じの方は多いかと存じますが、江戸時代日本は鎖国していました。明治と共に鎖国は開放され外国との交流が公式にはじまったのでした。

 

アメリカ合衆国からの要求をきっかけに、日本は西洋諸国に門戸を開くようになった。1858年には日米修好通商条約や日仏修好通商条約などが結ばれたことで、外交使節や貿易商と共に多くの宣教師たちが来日した。

1846年4月30日にバーナード・ジャン・ベッテルハイム医療宣教師が琉球王国に到着し、8年間迫害の中で宣教活動を行い、琉球語に聖書を翻訳しカトリック教会の復興とキリスト教解禁カトリック教会のローマ教皇庁は、鎖国期を通じて日本への再宣教の方策を模索していたが、19世紀半ばには日本に開国の兆しありと見て、フランスに本部を置くパリ外国宣教会 (Missions Étrangères de Paris; M.E.P.) に日本への宣教師派遣を依頼した。こうして1844年にテオドール・フォルカード (Théodore-Augustin Forcade) 神父(司祭)が那覇に派遣され、2年滞在して日本への渡航許可を再三求めたが、果たせず1846年に帰国した。しかし、同年にフォルカードを初代教区長として日本使徒座代理区が設立され、その後1855年からユジェンヌ・エマニュエル・メルメ・カション (Eugène-Emmanuel Mermet-Cachon)、プリュダンス・セラファン=バルテルミ・ジラール (Prudence Séraphin-Barthélemy Girard)、ルイ・テオドル・フューレ (Louis-Théodore Furet) の3人の司祭が那覇に赴任して日本語を学んでいたが、1858年に日仏修好通商条約が結ばれたことで、日本入国が可能になった。メルメ・カションは函館に赴き、ジラールは江戸を経て横浜に拠点を構えた。ジラールは1862年、横浜に開国以来最初のカトリック教会となる聖心教会(その後移転し、現在の山手教会)を建てた。このころ、ヨーロッパのカトリック教会の強い関心が日本に寄せられていた証左として、1862年に「日本二十六聖人」の列聖が行われたことがあげられる。1864年になってフューレは長崎に土地を購入、後から加わったベルナール・プティジャン (Bernard-Thadée Petitjean) 神父(後に司教)と共に1865年に教会堂を建てた。これが大浦天主堂である。一か月後、教会を訪れた婦人たちが自分たちは禁教下で信仰を守り続けた潜伏信徒(隠れキリシタン)であることを告白、神父は驚愕した。これを「長崎の信徒発見」という。信仰を表明した信徒の多くはカトリック教会に復帰して司祭の指導を受けるようになった。しかし、彼らは同時に寺請制度を拒否したために長崎奉行所が迫害に乗り出し(浦上四番崩れ)、1867年に成立した明治新政府も慶応4年3月15日(1868年4月7日)に五榜の掲示という高札を掲示してキリスト教禁教を継続したため、信徒への拷問や流刑などが行われた。明治政府が刑事罰を与えたキリスト教徒はカトリックに留まらず、他の地方でも東北で正教会への日本人改宗者が投獄されるなど、キリスト教弾圧が全国的に行われた。だが、明治政府の予想に反して、キリスト教禁止と信徒への弾圧は諸外国の激しい抗議と反発を引き起こした。岩倉使節団が欧米諸国を視察した際、キリスト教の解禁が条約改正の条件であるとされ、1873年(明治6年)にキリスト教禁止令は解かれた

 

【日本は江戸時代からキリスト教が禁教でした】

禁教令(きんきょうれい)とは、ある宗教を信仰し布教したりすることを禁ずる命令(法令)のことである。日本においては特にキリスト教を禁じていたものを指し、キリスト教禁止令(キリシタン禁制、禁令)とも呼ばれる。禁制扱いになった宗教は邪宗門と呼ばれた。通常、単に禁教令と言った場合には、日本で慶長17年(1612年)及び翌慶長18年12月22日(1614年1月31日)に江戸幕府が出したキリスト教を禁ずる法令を指す。

 

江戸チャンバラ時代劇様の記事を参照させて頂きました→こちら

キリシタンが禁止された理由には

①宣教師の背後にあるポルトガル・イスパニア(スペイン)の軍事力

②神仏への宣誓で成り立っている秩序の崩壊

③キリシタンを基盤とした地域支配

④キリシタンを基盤とした一揆

⑤魔法を操る怪しげなイメージ

といった脅戒があげられるが、そのどれが本質的でどれが副次的であるというのではなく、どれもが禁教の理由であった。

ただし、キリシタンを取り巻く国家・社会のあり方に連動して、これらのうち脅威が強まるものもあれば弱まるものもあり、時代状況に応じて脅威の質は変化した。一七世紀初期では幕藩権力にとって

①軍事力

②神仏で成り立っている日本への秩序崩壊

③キリシタンを基盤とした一揆(島原の乱などが実例)

などへの脅威が強く、徹底した弾圧が行なわれたが、一七世紀中~後期には幕藩権力が感じるキリシタンへの脅威は④一揆への警戒⑤魔法を操る怪しげな存在への警戒にシフトしていき、一八世紀以降はとくに⑤魔法を操る怪しげな存在への警戒が増幅していった。①②③から④⑤に脅威の質が移行していった背景には、ポルトガル・イスパニアとの断絶(前者は寛永一六年、後者は寛永元年)や兵農分離の進展といった状況の変化が考えられるが、決定的だったのは寛永一四年(一六三七)に起こった島原・天草一揆である。この事件は、厳しいキリシタン弾圧により表面上乗教したキリシタンたちが、ふたたび信仰に立ち帰って起こした一揆として知られる。近年の研究では、これを史料上「日本宗」と呼ばれる神仏信仰とキリシタンとの対立の帰結とし、宗教戦争として理解すべきであるとの見方に傾斜しつつある。その妥当性についてはさらなる検討が必要であるが、この事件は、その後の「切支丹」をめぐるイメージに決定的といえるほどの大きな影響を及ぼした。すなわち、イメージのなかで「切支丹」と一揆が強固に結びついたことによって、「切支丹」が既存の秩序を乱す象徴とされていく起点となったのである。

寺檀関係とは直接関係のない、俗人を導師とする宗教活動は、権力が規定する宗教の枠組みからはずれる可能性があるという意味で、権力の側からすれば得体の知れない不気味な存在であった。

一八世紀に入ると、そうした異端的宗教活動に対する警戒はいっそう厳しさを増していき、潜伏キリシタンの既存秩序への埋没と相まって、徐々に異端的宗教活動とキリシタンとの判別が困難になっていった。以上のようなキリシタンをめぐる状況の変化のなかで、一八世紀「切支丹」的なものとして批判する風潮が醸成され、それぞれの地域的な民間信仰や流行神などを含めた民衆の宗教活動に対する規制が強められていった。切支丹」は権力にとって警戒すべき怪しげな異端的宗教活動を象徴するものとなり、キリシタン禁制は、キリシタンを取り締まるというよりも、既存秩序を脅かす対象を規制する宗教政策に転換していったのである。

~以上~

 

【重要ポイント:ここまでの内容で確実に言えるのは神仏信仰とキリシタンとの対立が有ったという事です

【では徳川将軍が神経質だったのか?というとそうでは有りません。事実以下の様な事が行われてきた歴史が有るからです】

学問の専門の方の方が良いと思いましたので早稲田大学高等研究所様の研究発表をまとめさせて頂きました。ソース元→こちら

コロンブスによるアメリカの「発見」(1492)以降、スペイン、ポルトガル主導のもと、植民地化とキリスト教化が同時に進展していったことで、アメリカ先住民の土着の文化が大きく変容していきました。→インディアンの方々の事ですね。

アメリカの「発見」は、当時のヨーロッパ人を驚嘆かつ困惑させる前代未聞の出来事でした。スペインは、いかにしてこの世紀の大発見を自国の利益と結びつけられるか、神の代理人と言われていたローマ教皇に相談を持ちかけました。両者の間でなされた合意が、「発見」された土地の住民をキリスト教徒に改宗させれば、その土地はスペインの領土として認定されるというものでした。

こうした背景のもとで、「全人類のキリスト教化」を目指していたのがイエズス会です。イエズス会とは、1540年に正式認可された、比較的新しい修道会です。イエズス会士は、未知の彼方の土地にも積極的に足を運び、現地住民のキリスト教化に果敢に取り組んだことで有名です。

~参照以上~

 

つまり侵略にはキリスト教を使うという事です。右の頬を打つものは左の頬を差し出せという教えですから、やられてもやり返さない統治者にとってはとても扱いや裁判権の承認すい人が量産されるという事は誰の目から見ても明らかな事です。

しかし、とある事がきっかけで日本にキリスト教が一気に流入し始めたのでした。

【条約改正と引き換えに要求された】

日本が開国の際に結んだ条約は上記にも書きましたが、日米修好通商条約です。その内容は不平等でした。

①領事裁判権の承認

日本国内で外国人が罪を犯した時に、日本の法律ではなく、その外国人の出身国の領事が自国の法律で裁くというものです。つまり、治外法権。自国に帰ってから裁かれるため、甘い判決が出ることや、日本にいる被害者への補償が十分にされないことも多かったそうです。

※今でいうと米軍の飛行機は低空飛行しても責任を問われませんが当時から同じ様な雰囲気が有ったという事です。

②関税自主権放棄

他国の商品を日本が輸入して売る際に、その商品にかける関税額を日本で決められなくなるというものです。通常、関税というのは国内の産業を保護する目的でかけられます。産業革命で工業化していた欧米の製品が安い値段のままで入ってくれば、日本の産業は衰退を招く恐れがありました。ただこの条約の付則で定められた関税率は、食料や建材などは5%でしたが、それ以外は20%、酒類においては35%という高関税でした。

【この様な条約が結ばれたせいで】

1866年、欧米列国は弱体化した江戸幕府に圧力をかけ、関税率を5%に固定する「改税約書」への調印を求めます。これにより、安価な外国商品が日本に流入し、貿易不均衡が生じました。

 

なのでこれを政府がどうにかしようと考えた訳です。そこで出てくるのが岩倉使節団という訳です。欧米諸国まで彼らは交渉に行ったわけですが。この様な不平等をどうにかして下さいませんか?のお願いにキリスト教の解禁が条約改正の条件であるとされ、1873年(明治6年)にキリスト教禁止令は解かれた訳です。

つまり条約の不平等を直す代わりにキリスト教を受け入れろや!という風に言われて日本に帰国して、それを実行したのでした。

 

【その結果日本はどうなったかと言うと・・・・・】

【学校教育へのキリスト教団体のねじ込み】

●1872年にはプティジャン司教の招きによってフランスからサン・モール会(現:幼きイエス会)が招かれている。最初の5人の修道女たちは横浜に修道院と孤児院を建てた。

●1888年には彼らの手で築地教会の近くに高等仏和女学校が開かれた。これが後の雙葉学園の前身である。プティジャン司教は同じくフランスの女子修道会であるショファイユの幼きイエズス修道会にも修道女の派遣を依頼、これに応えて1877年に来日した4名は神戸で孤児院と学校(後の大阪信愛女学院)を開いた。

●1878年にはシャルトル聖パウロ修道女会が来日、函館に仏蘭西女学校を開設し、1882年には神田教会の敷地内に孤児院や小学校を建てた。同学校は白百合学園へと発展していく。

●1887年には、パリ外国宣教会の招致に応えて5人のマリア会員が来日し、翌年東京都に暁星学園が創立された。さらにマリア会によって1891年には長崎市に海星学園が、1898年には大阪市に大阪明星学園が、1901年には横浜市にセント・ジョセフ学院が創立された。

●なお、キリシタン時代の日本において活躍したイエズス会は、「日本にカトリック高等教育機関を」という教皇庁の求めによって明治期の終わりになって来日し、1913年に上智大学を開いている。

【様々な慈善事業への取り組み】

●1877年には築地教会の信徒であった本多善右衛門によって浅草にフランス語学校「玫瑰(まいかい)学校」(後の浅草教会)が設立された。この学校は児童福祉施設としても機能していた。

●この時期、パリ外国宣教会の司祭たちは、政府によって活動を制限されていたため、日本人信者の協力を得て慈善事業・社会福祉事業に力を注ぎ、主に下層階級への宣教活動を行った。

●1888年、パリ外国宣教会の司祭ジャン・ピエール・レイは、玫瑰学校に収容されていた孤児たちが青年へと成長し、職業訓練等が必要になり、もっと大きな施設が必要と考え、高木甚三郎の協力を得て関口に移転し「聖母仏語学校」(後のカトリック関口教会)を設立した。これらを代表とする学校は、表向きは「フランス語学校」であるが、実態は児童福祉施設であり、また政府によって活動を制限されていた外国人宣教師たちの宗教活動を補助するための機関でもあった。

●1878年に長崎県の外海地区(現・長崎市)に赴任したマルク・マリー・ド・ロは、この地域の人々の生活が貧しく、孤児や捨子も多く、特に海難事故で一家の働き手である夫や息子を失った家族が悲惨な生活を送っていることを知り、1880年に孤児院を開設し

●1883年には救助院(黒崎村女子救助院)を設立して授産活動を開始する。この施設に修道女として入院した婦人たちは、ド・ロの技術指導に基づき、織布、編物、素麺、マカロニ、パン、醤油の製造などを行った。ここで製造されたシーツやマカロニ、パンなどは外国人居留地向け、素麺や醤油などは内地向けに販売された。

このように、パリ外国宣教会に委託されたカトリック教会は、下層階級を中心に宣教活動の一環として積極的に慈善事業を行った

●1873年に来日した司祭のジェルマン・レジェ・テストウィードは、1880年に西関東・東海道地方を担当した。この巡回伝道の旅行中、足柄街道筋の水車小屋で30歳ぐらいの盲目の女性ハンセン病患者と出会い、療養所の設立を決意する。1889年、静岡県御殿場市に療養所を設立。彼は上司に設立許可を願うにあたり「らい患者が現世の苦しみによって永遠の生命を得ることができたら苦しみも又幸せとなるでしょう。そのために病院を建て、そのことを教えたいと思います。こうして彼らは肉体の救いと共に魂のたすかりを得ると思います」と説明した。彼はこの病院に「主における復活」の意味で「神山復生病院」と命名、これが日本最初のハンセン病療養所となった。1898年には、ジャン・マリー・コール により熊本県熊本市にもハンセン病療養所(待労院)が創設された。

~以上~

 

 慈善事業自体は私は良い事だと思います。当然その面では一切批判的な事が言いたい訳では有りません。ですが宣教活動の一環として(100%純粋な慈善活動ではなく、慈善活動も布教活動の一環と言う意味になります)と解説本等に有る様に、一定の違う目的狙いがあった事は条約と引き換えにキリスト教を受け入れろという交換条件を提示してきた態度からも普通に感じ取ることが出来るでしょう。

一般の庶民なら親切にされる=良い人=良い人が信じている宗教なら素晴らしいに違いない

という思考回路になるからです。

 

庶民とは、為政者の(例えば)人口間引きとかに文句を言うけれど、こういった大きな視点が欠落していたからこそ為政者側には成れなかったのだし、騙されても気が付かない体質を作ってきたという事です。こういうのを見ると良くわかりますが、何も第二次世界大戦の戦後にGHQがって問題でも無い事が分かるかと思います。

 

貿易の不均衡について文句が言えないところも今の時代も同じです。1995年、日本からアメリカへの自動車の輸出が年々拡大するなか、貿易不均衡を是正するための日米間の通商協議が行われました。この協議でアメリカは、日本の自動車メーカーがアメリカ製の自動車部品をどれだけ買うか、具体的な数値目標を示して約束するよう求めました。これに対し、日本側は、自由競争を原則とする国際ルールに違反するとして、要求をはねつけました。するとアメリカは自国の法律、通商法301条に基づいて日本から輸入する高級車に、100%の関税をかす一方的な制裁措置に踏み切り、日本の譲歩を迫りました
 

 

続きは→その②

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