前回→その②

 

 私はこの周辺の歴史を見てきて実はとても違和感を感じました。すでに詳しい方もいらっしゃるかもしれませんが、結局広く認識されていないという事は考える機会を知る機会を奪っているのです。偏見では有りませんが女性ってこういうネタが苦手な人が多いです。実際例えば【コミンテルン】の話をすると凄く興味を持って下さる方が多いし男性は一門の知識を披露する方が多いですが、女性ではネット上でも論じられらる事を出来ている人を見かけません。※触れたとしても詳細に渡って説明されている人は見かけません(恐らく脳の趣味の傾向に違いが有る為差別ではなく仕方ないかもしれませんが)こんなんじゃいけない!と思った私は誰にでも分かる解説をして行きたいと思います。

 

神社仏閣のネットを見ると御祀神の正確な真実って何といつもはぐらかされてしまわないでしょうか?(それも多分意図的です)そんな風に曖昧になっているのは何故か?当然ですが明治の国家神道で天皇をアマテスと作り上げたのもそうなのですが、他にも古来神社の元来の神潰しをやっているのは記録が有るのだし逃げも隠れも出来ない事なんです。それをちゃんと把握もしないで神社や仏閣を語るのは私は間違いであると思います。人類の起こした事、やってしまった過ちは本来の姿に戻す必要はないでしょうか?


1853年

江戸時代にあの有名なペリーの黒船が日本に来航しました

wikipediaより画像引用

黒船来航(くろふねらいこう)は、嘉永6年(1853年)に代将マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本に来航した事件。艦隊は江戸湾入り口の浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊し、一部は測量と称して江戸湾奥深くまで侵入した。結果、幕府はペリー一行の久里浜への上陸を認め、そこでアメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡され、翌年の日米和親条約締結に至った。日本ではおもに、この事件から明治維新における大政奉還までを「幕末」という

~以上~

 

ん~私であれば「一部は測量と称して江戸湾奥深くまで侵入した」という行動だけで警戒しますね。人様の家の間取りを測るようなものですから。まぁ、そこは置いておいても、天皇サイドは実は交流する事さえも嫌がっていて日米和親条約締結も渋々認めたという事が有るようです。

 

黒船が来た。アメリカから大統領から条約結びませんか?とう書類を渡す。幕府はその書類を読み、黒船来航翌年1854年に日米和親条約締結された。

【特にこの条約には問題点は無いと思われたので締結しました】

日米和親条約には通商に関する規定がなく、下田と箱館の港を開放し、アメリカの船への補給などを認めたにすぎなかった。天保13(1842)年に発した「薪水給与令」によって、すでに飲料水・燃料の給与を認めていることを踏まえると、実質的な影響は少なかった。

幕府は日米和親条約について、安政2(1855)年8月末、「書状で説明するのは難しい」とし、京都所司代の脇坂安宅が禁裏付武士の都築峰重らとともに上京。関白らと会見して、アメリカだけでなく、ロシアとイギリスとも和親条約を締結したことを報告している。

いくつかの質疑応答はあったが、条約の締結について、関白らは条約に納得。特に問題視する声は上がらなかった

 

【ワンポイントメモ:当時の外国に対する権力筋の温度差

表向きは徳川将軍頂点の時代と言いつつも、江戸時代終わりくらいには幕府と朝廷(天皇)の権力が両方混在してきてその後朝廷に移行する流れを念頭に置きながら読んでいくと分かりやすいです。

最後の将軍として有名な15代将軍慶喜の時代には江戸幕府は徐々に求心力を失い、衰退の一途をたどっているところでした。

 

※鎖国していた江戸時代でしたが、開国を希望してくる欧米列強国に対して積極的な考えの人と保守的な考えの人。大きく分けるとその二種類の人達が対立していた状況です。入り混じっている部分も有りますが大まかには

幕府(外国との積極的な交流を求める)⇔朝廷【天皇サイド】(保守的)という図式です。

しかし、この時を境として日本は大きく変わって行ったのでした。

通商条約

前述の1854年に結ばれた日米和親条約を足掛かりにして、日本初の総領事として赴任したハリスは、当初から自由貿易を受け入れさせるための通商条約の締結を計画していました。日本側は天皇の許しを待たずに江戸幕府が勝手に調印したため、14代将軍徳川家茂(一つ後の15代徳川義喜(最後の将軍))の署名がなされています。

 

1857年には江戸城にやってきて、将軍・徳川家定に謁見し国書を渡すなどし、ハリスの強硬な姿勢にそれまで消極的だった幕府も応じざるを得ない雰囲気になります

~以上~

 

【ワンポイントメモ:当時の権力の中心と揺らぎ

天皇の許しを待たずに江戸幕府が勝手に調印したと有りますが、元来外交実権は徳川サイドに有るので許しを得る事は本来はしなくても良い筈ですが、徳川家の権威が失墜して来ている事と幕府だけで外交問題を含む国難に対処するのが難しい事態になっていた状態だったそうです。それと一国の行く末を左右する大きな判断になることは間違いない。そんなとき、なるべく責任をとりたくないという気持ちが働くものだ。また、ペリー来航時の日米和親条約では、朝廷とも連携をとったうえで、締結に至ったという前例もある。

念のため、朝廷の許可を得ておいたほうがよかろう――。岩瀬忠震らがそう主張して、堀田の上京を支持。ならばと、堀田が勅許を得ようと安政5年2月に上京したところ、孝明天皇から予想外の拒絶を突き付けられることとなった。

過去に権力の中心であり、幕府に中心権力が当時は有る物の深いかかわりを持つ天皇には期待感もあったのでしょう、実際にこの不利な条約に対しては御意見番の様な役割が有ったと思われ、将軍の影が薄くなったタイミングなのでいづれにしても天皇の存在感がクローズアップされたのです。

~以上~

 

【条約に対応する幕府と天皇の思い】

老中の堀田正睦(ほったまさよし)は、下田奉行の井上清直(いのうえきよなお)と目付の岩瀬忠震(いわせただなり)に全権をわたし、条約の交渉を開始しました。アメリカ側は自国に優位な交渉ができるよう、条約草案を作成それをもとに15回もの交渉がおこなわれました。睦は天皇から条約締結の勅許を得ようと試みますが、孝明天皇は拒否。公家たちからも座り込みをしてまで抵抗され、失敗に終わります。

しかしハリスは引き下がりません。清と戦争中のイギリスを例に挙げ、欧米列国による日本への侵略を防ぐためにもアメリカとの条約を締結すべきだと迫りました。

正睦は困ってしまいますが、ここへさらに追い打ちをかけるように、天皇の勅許を第一とする井伊直弼(いいなおすけ)が大老に就任します。「勅許を得るまで調印延期するよう努力せよ」という直弼と、「機を逸する前に調印を」とする老中たちの板挟みになってしまいました。

この溝は埋まらないまま、1858年7月29日、直弼の意向を無視した井上清直と岩瀬忠震が、USSポーハタン号の艦上で条約調印に踏み切りました。

日米修好通商条約調印からわずか4日後に、正睦は老中を罷免。清直、忠震もその後左遷されています。

~以上~

 

【今も同じ感じですよね】

●ハリスは欧米列国による日本への侵略を防ぐためにもアメリカとの条約を締結すべきだと迫りました。

アメリカ側は自国に優位な交渉ができるよう、条約草案を作成。

※今も昔も関係性が変わらないのが個人的には面白いなと感じました。守ってやるけど、金銭的には有利にさせろって要求。やはり小国は大国には意見を言えないのでしょうか?

 

が・・・・・この公明天皇の人物像がやたらめったら興味深いのです!まるで武士って私は思いましたので以下に御紹介しいたします。

 

ペリーの黒船が来航して開国を迫られる中、、長らく存在感が希薄だった天皇家が注目されることになる。開国か、攘夷か――。外国と交易するか、拒絶するかで、国内世情が揺れ動く中、孝明天皇は攘夷派の代表として多大な影響力を持った。

※要するにどちらかと言えば拒絶派、ということです。関税自主権の放棄をはじめとする条約の不平等な内容もさることながら、日本国内では、これらの条約が朝廷の許しを得ていない点が特に問題視されていました。

●幕府が勅許を得ることなく、日米修好通商条約をアメリカと締結したことに、孝明天皇は激怒する。異国嫌いの孝明天皇は、それ以前のペリー来航時から、異国の傍若無人な態度に腹を立てていた。とはいえ、直接見聞きしたわけではない。孝明天皇の怒りをあおったのは、水戸藩の第9代藩主、徳川斉昭(徳川慶喜の父)である。孝明天皇は、関白の鷹司政通(たかつかさ・まさみち)を通じ、斉昭の書いたこんな批判的な文書を目にしている。

「ペリーの態度は失礼極まりなく、日本を侮辱している」ペリーに感情をかき乱されたのは、斉昭や、それを聞かされた孝明天皇だけではない。朝廷の公家たちも不安に襲われ、ペリーが日本からの返答を聞くために再度来訪するころには、朝廷は京都所司代に京都の警護強化を要望している。

孝明天皇は拒否。公家たちからも座り込みをしてまで抵抗され、失敗に終わります。

こういった事も有りこの条約はすぐには結ばれなかったのです。

それにしても、なぜ、孝明天皇はペリーとの日米和親条約のときは、反対しなかったのだろうか。

もっともこのときは、ペリー来航時のように、広く意見を求めたわけではない。江戸城に登城していだが、そうはいっても、

 

【考明天皇の外国嫌いは理由が有りました】

●一つには、京から出たことすらない孝明天皇にとって、外国の存在があまりに遠く、異質なものだったということが挙げられるだろう。外国人や外国船は恐怖でしかなく、だからこそ異国人への嫌悪感を募らせたようだ。

●孝明天皇の「異国嫌い」に拍車をかけた人物がいる。その人物とは、水戸藩の第9代藩主、徳川斉昭(徳川慶喜の実父)である。のちに「烈公」と呼ばれるほど、荒々しい気性を持つ斉昭は、強硬な尊皇攘夷論を唱えたことで知られている。

ハリスと将軍が謁見したときには、こんな暴言を吐いた(『昔夢会筆記』)。

 「堀田に腹を切らせ、ハリスの首をはねろ!」

ただでさえ、未知の恐怖から嫌悪していた異国人のことだ。国内で傍若無人に振る舞っていると斉昭から知らされて、異国人への憎悪をさらに募らせたことだろう。そんな孝明天皇からしてみれば

●外国人の貿易と居住も認めるような、日米通商修好条約を結ぶことなど論外だった。

しかし、幕府は勅許を得ることなく、条約を締結。孝明天皇の抵抗は完全に黙殺されることになる。それを聞いた孝明天皇は、左大臣、右大臣、内大臣の三役らに「天皇の位から降りる」と伝えるほどの怒りを見せた。それが、安政5年6月28日のことである。

~以上~

 

【ワンポイントメモ:本当は賢い愛国者かも?】

外国人の貿易と居住を認めないというのは実は国防の面からもその方が良いのです。今脅威になりつつある以下の問題も外国の土地を貸すだけならまだしも買えるようにしてしまっているのです。つまり内側から侵略するという機会を与える愚行との意見が有るのですがその通りかもしれません。日本が日本でなくなる日はいつか来る事でしょう。本能的にその事に気が付いていた考明天皇は私は愛国の士であると感じました。

しかしこんなにも強烈に反対した、考明天皇でしたが、後にその状況を受け入れる状態になっていきます。頑なだった考明天皇が変わったきっかけとは何だったのでしょうか?

 

 

続く

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