明治時代にプロフィールが曖昧な宣教師により、ニチユ同祖論は始まりましたが

天皇がいつからキリスト教化するのか御注目下さいという過去記事に途中から信仰が変わった話を書きました。

やはりあれだけキリスト教化に難色を示していた日本ですから度々浸透させる努力をしてきたのでしょう。

※注 キリスト教は第二神殿時代のユダヤ教にルーツを持ち西暦1世紀に2つの宗教に分かれた。 キリスト教はイエス・キリストを通して結ばれた新しい契約とそれに付随する勧告を重視し、新約聖書を聖典とする。ユダヤ教はモーセのシナイ契約とそれに付随する伝承を重視し、トーラー(モーセ五書)とタルムードを聖典とする。

※赤字は着目すべき点青字は私が解説している部分です。

 

~1930年代(昭和5年から昭和14年)こんな計画が日本では進められてきました~

河豚計画ふぐけいかく)

当時代では1934年に鮎川義介が提唱した計画に始まり、ユダヤ難民の移住計画が提唱されていた。

※鮎川義介氏とは?

日本の実業家、政治家。日産コンツェルン創始者。満州重工業開発株式会社総裁、貴族院議員、帝国石油株式会社社長、石油資源開発株式会社社長、参議院議員などを歴任した。明治13年(1880年)、旧長州藩士・鮎川弥八(第10代当主)を父とし、明治の元勲・井上馨の姪を母として山口県吉敷郡大内村(現在の山口市大内地区)に生まれた。

~以上~

長州と言えば明治のグラバーが思い出されますね。トーマスグラバーとの蜜蜜の関係があったからこそ、坂本龍馬は後世に語り継がれるほどの偉人となったとも言われています。

詳細はコチラのサイトが一番分かりやすいです→世界ミステリー様

 

【裏天皇との関連性】

堀川 辰吉郎氏(ほりかわ たつきちろう、1884年? - 1966年12月19日)の明細について確認してみましょう。

大アジア主義者。明治天皇と女官の千種任子(ちくさ ことこ)の間に出来た隠し子とも噂された怪人物(後述の中丸薫がこれを根拠に自分を“落胤”と主張)。井上馨と京都の芸者の間にできた息子ともいわれ、戸籍上は井上馨の兄・重倉の五男。


京都堀川(旧皇居の所在地)の生まれと自称。戸籍上は1891年生まれとされるが、当人は1884年生まれと自称しており、1879年に大正天皇と1分違いで生まれたとの言い伝えもある。
生後まもなく福岡の堀川家に預けられ、頭山満や井上馨の庇護を受けて育つ。校長への暴行や動物虐待、さらにはヤクザを相手取っての放火事件など腕白が過ぎて福岡じゅうの小学校をたらい回しにされ、やがて学習院中等科に入れられたが、ここでも女学生の前での公然猥褻事件や皇族への暴行傷害事件など問題行動を繰り返して放校処分を受けた。

折あたかも、頭山を頼って日本に亡命していた孫文が帰国の途につこうとしていた際であった。堀川は日本の学校にいられなくなったため、頭山の依頼で孫文に托されて中国に渡ることとなった。1899年のことである。以後、1912年まで孫文と生死を共にして辛亥革命の成功に尽力した。このとき孫文が周囲に対して堀川を「日本の若宮」と紹介し、「日本が我らに若宮を托したことは、わが革命軍に対する日本の賛意の証」と主張して政治宣伝に利用したことが、堀川をして明治天皇の落胤とする風説の根拠の一つとなっている。

その後、奉天の世界紅卍字会(天皇家関連が良く役員に何人もなっているあの赤十字の前身です)の会長に推され、日本の軍閥と争いつつ日中平和に貢献。帰国後、1935年、大木遠吉や鈴木三郎(関東都督府外事総長・久邇宮御用掛。鈴木貫太郎三男)のあとを受けて大日本国粋会第3代総裁に就任。反軍閥運動のため東條内閣と対立し、ふたたび中国に渡った。

終戦と共に帰国。国粋会総裁(右翼団体)という経歴が災いして戦犯容疑でGHQに逮捕されたが、無罪放免となった。戦後は世界連邦運動を推進。1951年のサンフランシスコ講和条約会議に際しては舞台裏の根回しに奔走

※GHQに逮捕されたが、無罪放免となったという部分。逮捕からの釈放って東京裁判でも有ったパターンです。ポダム岸さんなんて有名ですよね。

~以上関連人物の解説です~

 

 

~では実際に河豚計画の具体的な内容を見て行きましょう~

1938年の五相会議で政府の方針として定まった。実務面では、陸軍大佐安江仙弘、海軍大佐犬塚惟重らが主導した。ヨーロッパでの迫害から逃れたユダヤ人を満州国に招き入れ、自治区を建設する計画であったが、ユダヤ人迫害を推進するドイツのナチ党との友好を深めるにつれて形骸化し、日独伊三国軍事同盟の締結や日独ともに対外戦争を開始したことによって実現性が無くなり頓挫した。

※頓挫している話になっていますが途中までの過程で実際には効果をある程度生み出しているという事が分かる話が続いて行きますので、最後まで是非ご覧ください。

 

上記の鮎川義介氏が1934年(昭和9年)、自動車製造株式会社を日産自動車株式会社と改称。同年『ドイツ系ユダヤ人五万人の満洲移住計画について』と題する論文を発表。5万人のドイツ系ユダヤ人を満州に受け入れ、同時にユダヤ系アメリカ資本の誘致を行うことにより、満州の開発を促進させると共に、同地をソビエト連邦(ソ連)に対する防壁とする構想を、ユダヤ専門家として知られる陸軍大佐・安江仙弘、海軍大佐・犬塚惟重、関東軍のいわゆる「大陸派」(満州進出を求めた多くの軍閥)に立案した(のち河豚計画へと展開する)。これにより、関東軍の後ろ盾を得る。南満州鉄道(満鉄)の理事だった松岡洋右ものちに河豚計画に参加。

※つまり、計画以前からも人脈は色々有ったかもしれませんが(そもそも生まれが血筋的にも井上薫氏と関連してる訳ですしこの提案をすることにより更に色々なところに関係を持てたという記述になります

 

【そして興味深いのはそもそも何で河豚と言う名前を付けたかと言う事です】

「河豚計画」の名は、1938年7月に行われた犬塚の演説に由来する。ユダヤ人の経済力や政治力を評価した犬塚は、「ユダヤ人の受け入れは日本にとって非常に有益だが、一歩間違えば破滅の引き金ともなりうる」と考えた。犬塚はこの二面性を、美味だが猛毒を持つ河豚に擬えて、「これは河豚を料理するようなものだ」と語った。

のちに、日本通として知られるアメリカ人ラビのマーヴィン・トケイヤーが同計画に関する研究書を執筆した際に、この喩えを借りて『河豚計画(The Fugu Plan)』と題したことから、「河豚計画」と通称する。ただし同書によれば、この語は当時も非公式に使われていたという。

~以上~

※成程~って繋がりますよね。だから今日本は破滅がそろそろ最高潮に達するのです。これは陰謀論の類ではなく政府の記録として残された物でしょうから誰も何も言えないと思います。

 

河豚計画の核心はアメリカ(殊にユダヤ系アメリカ人)を説得することにあった。つまり、ヨーロッパ諸国の数千から数万のユダヤ人に対して、満州国(あるいは上海)への移住を勧めるようアメリカを説得しようとした。その目的は、ユダヤ人の経済力の恩恵を日本が享受し、日本へも資本を投下させようとしたためである。その背景として、当時すでにユダヤ人がヨーロッパ諸国で迫害を受けるばかりか、ドイツ国内における市民権を否定され公職から追放されるなど深刻な状況下におかれていたことを挙げることができる。実際、ナチス政権下のドイツにおいては、1935年にニュルンベルク法が制定されるに至っていた。

河豚計画は、「在支有力ユダヤ人の利用により米大統領およびその側近の極東政策を帝国に有利に転換させる具体的方策について」という長い表題の付いた計画書である。その中で計画者らは豊富な選択肢を提示した。その選択肢には、ユダヤ人の移住及び投資獲得の方法に関する詳細な計画が含まれていた。1939年6月に編纂されたこの計画書は、同年7月に「ユダヤ資本導入に関する研究と分析」と改題した上で政府に提出され、承認を受けた。

当時、ユダヤ人社会は日本と比較的友好的な関係にあり、また、アメリカは、満州国建国などで日本との外交的対立が先鋭化してきていた。そこで同計画書において提示されたのは、世界のユダヤ社会とアメリカとの双方の関心を惹く方法であった。すなわち同計画書には、

  • アメリカへの代表団を派遣すること
  • アメリカのラビを日本に招聘し、ユダヤ教と神道との類似点をラビに紹介すること、および、ユダヤ人とユダヤ教を日本人に紹介すること

※この部分が一番重要かもしれませんつまり明治に引き続きユダヤ教・ニチユ同祖論を刷り込もうという計画になりますね。

同時にこの計画は、アメリカの新聞や映画業界を抱き込むことをも提案していた。計画者らは、当時これらの業界がユダヤ人に支配されていると信じていた。

しかし、実際の記述の大半は移住計画に割かれていた。例えば上海近郊の諸地域や、満州の多くの箇所が候補として示された。同移住計画は、移民の人口が1万8千人から60万人に及ぶと見積もっていた。しかも、それぞれの想定人口規模に合わせた、学校、病院などのインフラの整備、居留地の面積に関する詳細も示されていた。計画者らの間において、これらの居留地においてユダヤ人に対し、文化・教育面での自治、完全な信教の自由を与えることが合意されていた。

日本の計画者らは、ユダヤ人に過度の自由を与えることを警戒していた一方で、ユダヤ人の好意と経済的恩恵を継続的に享受するためには、ある程度の自由が必要であろうと考えた。

※警戒している理由を各々が考えてみましょう。答えが分かる筈です。それが今に繋がっていますから

 計画者は、この計画を承認するよう要請した。その計画において主張されていたのは、「居留地は一見自治国のように見えるが、ユダヤ人を密かに監視下に置くために統制が必要である」ことであった。計画者は、ユダヤ人が支配権を掌握して、日本の政治経済の主流への道を進むのではないかと懸念したのである。なお、『シオン賢者の議定書(後述)』によれば、諸外国でユダヤ人が支配権の掌握を行った、とされている。

ただし、その計画における居留地への投資と移民の送致は、世界のユダヤ社会任せとされていた。

 

元来この計画は、日本政府のうちでも少数の者、及び軍当局(彼らは満州国に住民が定住する必要性を感じ、また同地に対する日本の産業及びインフラの構築を支援することが可能であった)の考えであった。この一派の主な顔触れは、「ユダヤ専門家」として知られる陸軍大佐安江仙弘と海軍大佐犬塚惟重の両名に加え、日産コンツェルンの総帥鮎川義介、及び関東軍のいわゆる「大陸派」(満州進出を求めた多くの軍閥)であった。

例えば鮎川は1934年、「ドイツ系ユダヤ人五万人の満洲移住計画について」と題する論文を発表した。彼は、5万人のドイツ系ユダヤ人を満州に受け入れ、同時にユダヤ系アメリカ資本の誘致を行うことにより、満州の開発を促進させると共に、同地をソ連に対する防壁とする構想を立案した。関東軍の後ろ盾を得た彼は1937年、日本産業を改組して満州重工業開発を設立。満州への本格的進出を果たした。

 

満州国にユダヤ人を呼び寄せるという彼らの構想は、ユダヤ人が多くの資金や政治権力、及びそれらを獲得する超自然的ともいうべき能力を有するという確信から来ていた。彼らは、ドイツ系ユダヤ人でアメリカ人銀行家のジェイコブ・シフの名を記憶していた。30年前、クーン・ローブ商会を率いるシフが日本政府に提示した巨額の投資があったればこそ、日本は日露戦争に勝利できたのである(戦費の約4割を、日本政府へ協力したシフが調達したといわれる)。

※天皇との関連性:高橋是清の求めに応じて日露戦争の際には日本の戦時国債を購入した。勲一等旭日大綬章を明治天皇より贈られる。つまりこの様にして繋がりが出来た。

つまり日本が戦争をした時にはバックスポンサーになってくれたという事です。明治維新の時の坂本竜馬とグラバーの関係と似ています。

 

 

さらに彼らは、『シオン賢者の議定書』の記述を信じた。1897年にスイスのバーゼルで開催された、第1回シオニスト会議の秘密議事録という触れ込みで流布した同書は、「世界の政治経済の支配を目論む、国際的なユダヤ人の陰謀の存在を示す証拠」とされ、偽作の疑いがたびたび出たにも拘らず、世界中に影響を与えた。アルフレート・ローゼンベルクもその1人である。『二十世紀の神話』の著者であり、ドイツの理論的指導者として知られる彼は、1923年に同書の解説本を上梓している。

政府中枢でも、ユダヤ人の経済力や政治力、及びユダヤ人が世界中に四散したことによる国際的情報網を過大評価した者は少なくなかった。彼らは、ドイツやソビエト連邦をはじめとするヨーロッパ諸国で迫害を受けているものの、日本とは比較的友好的関係にあったユダヤ人を救出することで、日本に対する在米ユダヤ人からの確実で永続的な好意を獲得できると考えたのである。

※何故ドイツやソビエトでは迫害されたか考えてみましょう。しかし当時日本は国力を持ちたかった為そういう行動に梶切をしたと読めます。つまり陰謀論で外国勢を批判してる陰謀論本と言う駄本とスピ本が有りますが、日本が自分で決めて自分達で行った事だという事でしょう。

 

1918年に、日本はロシア革命の鎮圧のためシベリア出兵を行い、赤軍と敵対していた白軍を援護した。10万人の兵と9億円の戦費を投入したものの、3千人の死者を出した上に目立った成果もなく、1922年に撤退を余儀なくされる。

この頃、白系ロシア人らの間では、革命はユダヤ人による陰謀であるとの疑惑が広がっていた。レーニンをはじめ、トロツキーやカーメネフ、ジノヴィエフ、スヴェルドロフら多くのユダヤ人、もしくはユダヤ系の人物が革命の主導者として名を連ねていたことが原因とみられる。白軍は『議定書』の写しを兵士に配布し、またシベリアや満州に逃れた白系ロシア人は、行く先々で反ユダヤ主義思想を喧伝した。こうしてユダヤの情報に接した者の中に、安江と犬塚も含まれていた。

2人はシベリアで『議定書』の存在を知り、ユダヤ陰謀論の洗礼を受けた。1922年に帰還した彼らは、ユダヤ人に関する多くの報告書を書いた。安江は1924年、「包荒子」の筆名で著した『世界革命之裏面』で、『議定書』の全訳を掲載した。また1928年にイギリス委任統治領パレスチナのユダヤ人入植地を訪れ、ハイム・ヴァイツマン(ヘブライ大学創立者)、及びダヴィド・ベン=グリオン(後のイスラエル初代首相)と会談し、さらにユダヤ人入植者の勤勉さを目の当たりにするに至って、ユダヤ人の力に魅了されるようになった。

2人は外務省に対し、ユダヤ人への関心を持たせることに成功。以後、日本のあらゆる大使館及び領事館の職員は、彼らの駐在する国々のユダヤ社会の動向を外務省に伝え続けることを要求された。膨大な報告書が上げられたが、いずれも「国際的陰謀」の存在を決定的に証明しなかった。

「ユダヤ専門家」はその後、「大陸派」とある程度まで協力した。陸軍大佐板垣征四郎及び陸軍中佐石原莞爾率いる「大陸派」は、日本から開拓者や資本を満州に誘致しようとしたが、難航した。これが、計画者の胸中に河豚計画の最初の種が蒔かれた瞬間であるとみられる。1931年、満州事変の直前のことであった。

 

【某団体が何で実在があやふやとされているのか?そして明確に調査した例が無いのか?が分かる文章。これらは外国では政府としての議論にまでなっています。存在が無かったら無い記録な筈です。どう見ても都市伝説ではないって事でしょう】そしてその経緯が日本の外務省外交資料として記録されているのです。

 民族問題関係雑件/猶太人問題 第三巻 分割2 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B04013204500、民族問題関係雑件/猶太人問題 第三巻(I-4-6-0-010)(外務省外交史料館)」より

1928年4月5日、フリーメイソンのスンガリー(松花江)会場が設立された。これは暫く存在が隠れていたが、1929年夏にロシアのファシストシンジカリスト党が、この会の存在を暴露し宣伝した。ユダヤ系ロシア紙は「フリーメーソンは有害・危険なものではない」として反論した。

1930年、ユーゴスラビアのベオグラード市で発行された『「メーソン」の特質と其の行動』というフリーメーソンの有害さ・危険さを強調した書籍が、輸入されてきた。ユダヤ人はこれを買い占めて撲滅に至らしめたという。

※この時点で既にちゃんとした情報は日本の本に無いと推測できますよね。発行出来ないはずです。

その後、白系ロシア人によって1931年に成立したロシアファシスト党がドイツファシストの反ユダヤ政策を真似し、反メーソンな新聞広告や公開討究会等を行うが、その他の反メーソン運動は日が経つにつれ大分下火になったという。

※つまり絶大な力を持っている者には逆らえないので

 

反フリーメーソン

以下は、「比較的公平なる態度を以って研究しつつある一ロシア人の報告による」とされる。

1928年4月5日、フリーメイソンのスンガリー(松花江)会場が設立された。これは暫く存在が隠れていたが、1929年夏にロシアのファシストシンジカリスト党が、この会の存在を暴露し宣伝した。ユダヤ系ロシア紙は「フリーメーソンは有害・危険なものではない」として反論した。

※ロシアでは結構工作員の話とか普通に話されているのかなと。ロシア人としゃべると普通に知っているのでは?と思います。日本人の工作員のはなしなのに、日本より野坂参三の本がベストセラー位になる国なので、今は戦争中ですから色々有るかもしれませんがその前は普通に日本よりは情報が庶民に回っている可能性はありますね。

1930年、ユーゴスラビアのベオグラード市で発行された『「メーソン」の特質と其の行動』というフリーメーソンの有害さ・危険さを強調した書籍が、輸入されてきた。ユダヤ人はこれを買い占めて撲滅に至らしめたという。

その後、白系ロシア人によって1931年に成立したロシアファシスト党がドイツファシストの反ユダヤ政策を真似し、反メーソンな新聞広告や公開討究会等を行うが、その他の反メーソン運動は日が経つにつれ大分下火になったという。

以後数年間、計画者だけでなく、ユダヤ社会のメンバーらも含めた会合が頻繁に行われた。しかし計画は、如何なる公的・組織的手段によっても、軌道に乗らなかった。1939年には、ユダヤ共同体による支援の分散を懸念した上海のユダヤ人が、上海へのユダヤ難民流入をこれ以上許可しないよう要求した。

極東ユダヤ人会議議長となっていたカウフマンは記者を通じ、日本への警戒心を緩めるようアメリカ社会に説いたが、フランクリン・ルーズベルト大統領の側近で世界ユダヤ人会議議長のスティーヴン・サミュエル・ワイズは、「ユダヤ・日本間の如何なる協力も非愛国的行為だ」とする強い見解を示した(アメリカが日本に対して行った通商停止措置に違背するため)。1940年には、在米ユダヤ人の有力者との間にパイプを持つ田村光三(ユダヤ系学生の多いMIT卒で東洋製缶ニューヨーク出張所職員)が移住構想を進言したが、にべもなく断られている。

~以上~

 

これらの政策から分かることは【良いとか悪いとかじゃなくて】政治家が国としてやっていくためにユダヤ人の力を借りたかった事。戦争にはバックスポンサーになってくれたありがたい存在である事が伺えます。開国してしまったのでそうせざるを得なくなってきたという事なんでしょう。

 

だから私は誰が悪いとか良いとかの話をしたいのではありません。偽の情報に惑わされる時間がもったいないんじゃないかなと言う観点。本当は誰が何をしたのか?とかに興味が非常に有るだけです。

 

そして、あきらかにニチユ同祖論と言うものは仕掛けられたものと言う事ですね。明治の良くわからない身分不確かな宣教師によって書かれたシナリオを元に発展させてきたものだという事です。

嘘には不整合性が生じますので。以下の様な事が起きるわけです。

 

 

 

【出典】

●民族問題関係雑件/猶太人問題 第三巻 分割2 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B04013204500、民族問題関係雑件/猶太人問題 第三巻(I-4-6-0-010)(外務省外交史料館)」

●『大日本帝国の戦争1 満州国の幻影 1931-1936 幻のユダヤ人自治区計画』 毎日新聞社(毎日ムック:シリーズ20世紀の記憶)、1999年、ISBN 4620791245

安江弘夫『大連特務機関と幻のユダヤ国家』 八幡書店、1989年、ISBN 4893503146 * 著者は安江仙弘の長男

秦郁彦「河豚プランと日本」(『昭和史の謎を追う(上巻)』 文藝春秋(文春文庫)、1999年、ISBN 4167453045 に所収)

~以上~

 

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