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※昨年10月に書いた原稿です
今朝(といっても10時半ころに)、布団の中のぼくに電話がかかってきた。元テント村のHさんだ。 まだ寝ていた? 別に用事はないんだけど。 久しぶりの声だ。 今年は花見やったの?連絡ないからどうなったのかと思って。 (花見か、それ半年前の話だよ)と思いつつ、うーん、今年もやらなかったよ、と答えると、一般はやっていたんだろ、と言う。寝ぼけた頭ではやらなかった理由をすぐには思い出せなかったが、うーんやっても人が来るか分からなかったしね、と言う。実際、花見のことを気にかけていたのは、ケンさんとHさんくらいだった。 4ヶ月ウツで寝ていたんだよ、とHさん。連れが飯つくってくれたからどうにかなったけど、一人だったら死んでいたかもしれない、なんにもする気がしなくて家の外に出なかったよ。 それから、Hさんにテント村住人の近況を聞かれた。最近入院したケンさんの話をすると、そうかケンさんもあっちに行ったか、と言うので、まだ生きているんだよ、と返すと、これから施設に行くことになるんだろ、産まれる時と死ぬ時は一人だからな、と言った。それから、 エノアールはやっているんだろ、そのうち遊びに行くよ、と電話が切れた。 今日の午後、Iさんとドカコさんの面会に行った。ぼくがドカコさんに会うのは、実に5年ぶりだ。ドカコさんの入院生活も2年になろうとしている。ベットの3分の2ほどでちょこんと収まっているドカコさんは、以前より幾分やせたとは言え、ドカコさんのままで、ぼくは胸をなでおろした。ドカコさんが口を開けば、清潔だけど無機質な大部屋のベットの上にもドカコワールドが立ち上がるのだ。Iさんも病室の雰囲気は気になったらしく、こんどドカちゃん人形を持ってくるから飾ろうよ、と言っていた。ドカちゃん人形とはドカコさんが布や紙でパッチワークして制作していた作品のことである。 ドカコさんらしかったのは、テーブルの上に、トルストイ「くつやのマルチン」が載っていたことだ。ドカコさんと話しながらページをめくってみた。貧しい靴屋にキリストから明日訪れるとの託言がある。翌日、ワクワクしながらキリストを待つ靴屋だったが来臨はなかった。雪かきしている老人にコーヒーを入れたり、赤ん坊を抱いている薄着の婦人にセーターを上げたり、老婦人からりんごを奪った少年と老婦人の仲介をしたり、という平凡な一日にすぎなかった。その夜、それらの人たちは私だったのだというキリストの声が聞こえる。わたしは貧しい人と共にいるという聖書の言葉で絵本は締めくくられていた。子どもの頃、ドカコさんは、老人であるマルチンを演じたことがあるのだという。 そして、話はやはりテント村のことになった。テント村の出来事が、色鮮やかにドカコさんの眼前に映し出されているのが分かって、ぼくは驚きとともに胸が暖かくなるのを覚えた。加藤さん、小山さん、ウノさん、今となっては懐かしい名前が次々と出てくる。ドカコさんが、テント村でもっとも思い出すのは意外にもケンさんらしく、入院していると聞いてずいぶんと心配していた。 面会の制限時間は10分だったのだが、40分ほどは話したところで、看護師がそろそろです、と言いに来た。ドカコさんは、もう終わりなの?。年内にまた来ます、と言うと、それまで生きているか分からないわよ。ぼくが、面会の予約がなかなかできないと言うと、じゃあ糸電話で、とドカコさん。色んな人と糸電話で話しているようなのだ。それで、色んなことをはっきりと覚えているのかなと思った。ぼくたちも、糸電話で!、と言って帰った。 夕飯の買い物に近くのスーバーに出かけた。その行きがけに、テント村のTさんが大きなブラスチックの衣装ケースを抱えて歩いているのに出会った。「いいのを拾ったね!」と言うとエヘヘと笑った。この手のフタ付きのケースはテント生活には必須なのだ。落ちてないかとぼくもいつも気にしている。 スーバーでは猫のエサを買っている、元テント村のSさんに数年ぶりに出会った。隣のテントだった人だ。まだ、あっちにいるの?とSさん。やはり、話はテント村の近況だ。絵かきさんのことや一昨年亡くなったYさんのこと。また、渋谷の街で倒れて急死したと言われている人のこと。この人は、公園近くの都道に荷物を置いていて(住んでいたようでもあった)よくテント村に遊びに来ていた。テント村を離れても、どっかから情報は入っくるようだ。みんな死んでいくなぁ、とSさん。 スーバーからの帰り道では、台車を押して歩いてるMさんと挨拶をした。 今日はなんたかテント村関係者とよく会う。 そして、ぼくたちがバラバラにされてきたということにも思い当たった。テント村という1箇所(いや、それはテント村だけではなく炊き出しの場であったり、もっとピンボイントでエノアールであったり、つまりは野宿という交差点の多い時空)に集っている人たちが、病院に施設にアパートに分散されてきた。そこにおいても、その人の個性を発揮できなくもないだろうが、それは閉じた空間に埋没される傾向にある。そして、なにより、変人(とあえて言うが)が集うことによってうまれる相乗効果に欠けている。開かれた空間に集うことによって存在を顕在化すること、それが野宿の効用なのである。もちろん、身を隠せること、不本意にさらされないことも大事だから、それが両立しうる繊細さが必要だろう。 ここまで考えて、集うことに対して冷めつつあった最近の自分に少し喝を入れる気持ちになった。 #
by isourou1
| 2024-04-15 22:20
| ホームレス文化
声をかけるのは難しい。相手が見知らぬ人であれば、なおさらだ。
JR高架下に寝ている男性がいた。1月頃は段ボールに毛布を1、2枚敷いているだけだったが、そのうち、少し厚手の寝袋になった。 すぐ近くにある公園で毎週寄り合いをしているので、たまに歩いている姿を見かけた。やせているが背が高く、おそらく同世代か、もう少し若かった。その公園でテントを張っている人から不安の声も聞かれた。高架下の男性が昼間に公園にいるというのである。野宿者だからといって他の野宿者を警戒しないわけではない。むしろ、同じ生活領域にいるので敏感になる。 その高架下の寝床がきれいになくなった。 「排除されたのかもしれない」と言う人もいた。「何でもっと話しかけようとしなかったのか」となじられもした。ぼくとしても、寝床にビラを置いたり、食べ物を用意したりしたことはあった。しかし、寝床にいないことも多かったし、いても寝袋にくるまっていた。一度、公園の前に佇んでいる時があって、声をかけようか、ちょっと考えた。しかし、なんとなく不穏な顔つきで周囲を見ているようだったので、なんて言ったらいいのか分からず気後れした。 見知らぬ人に声をかけて、思い通りの交流になる場合は限られるだろう。こちらが何者か分からないと怪しまれるからだ。支援者のような感じで声をかけることは、それを幾分なりとも緩和する。支援という目的は不自然ではないからだ。しかし、急迫しているならともかく、別にそういう関係をつくりたいわけではない。そして、野宿者は野宿者に声をかけることはあまりしない。 そういうことを考えていた時、ぼくの頭に浮かんだのはセキさんの姿だった。 セキさんは、昔のテント村で近くのテントに住んでた人で、とにかく、この界隈を歩き回っては話をしているため、誰よりも情報通であった。そして、それを秘かに自負しているようでもあり、野宿界の「世間師」というべき人だった。3000円アパートに入ってからも、しばしばテント村に遊びに来ていた。セキさんは一カ所で長くは腰を落ち着けたりしない。エノアールに来ても、長くて30分くらいで切り上げる。賑やかしのように冗談を言って笑って立ち去る。基本的には明るい調子だが、人間観察はきっちりしている。 セキさんの名言で覚えているのは、公園の管理事務所(現・サービスセンター)が焚き火を禁止して、職員が水をかけたりしていた頃、セキさんは「バカとけんかするには、こっちもバカにならないといけない」と言った。時と場合によっては、相手よりさらに低次元なことを言わないと喧嘩には勝てない、というのは真実味がある。 セキさんは墨も入っていたから、かつてはそういう世界にいたのかもしれない。ぼくが知っているセキさんの仕事は、カジノかなにかの看板持だった。看板持はテント村でも何人かやっていた。街にずっと立っているので、人間観察ができそうだ。また、同じところにいるから、いろんな人が立ち寄る。セキさんは、人から請われればお金を貸していた(返ってこないと苦笑していた)。街で会うと、ジュース飲む?といつも聞いてきた。面倒見が良かったが、親分風を吹かせるわけでもなくあっさりしていた。 公園にテントを張る前には、セキさんは区役所まわりのダンボールハウスで寝ていたらしく、そのころが一番楽しかったとよく言っていた。壁が薄くて、と、その理由を説明していた。ちなみに、セキさんは泥酔してあちこちで転がっているので有名だったらしいが、ある時から酒を全く止めたと言っていた。アルコール依存を自力で克服した人というのもあまり聞いたことがない。「生きているのが冗談みたいなもの」が口癖だったが、10年前くらいに部屋の中で亡くなっているのを看板持の同僚が発見した。 さて、セキさんのように声がけが出来るだろうか? 何となく楽しそうに、でもどこか親身に、さっきまでの会話の続きのように。 #
by isourou1
| 2024-04-09 13:51
| ホームレス文化
※昨年末に書いた文章です。 ついに、Kさんに面会できる日がやってきた。 6月にトイレで倒れてから半年が経過した。その間、Kさんからは、生き地獄だ、公園に帰りたい、助けて欲しい、という悲鳴のようなハガキがたまに届いていた。リハビリ病院や福祉事務所とやりとりをしていたが、個人情報保護をたてにされて、肝心なことは何も分からなかった(病院は、手紙を本人に渡したかを答えず、言わない理由すら答えなかった。忙しいと一度も面会に行かなかったCW(ケースワーカー)も、ぼくには応答しませんと言い出す始末だった)。未だにコロナを理由に面会を禁止し、公衆電話もない、外部との交流が遮断されたリハビリ病院で、何が行われているのか、疑心暗鬼になる要因はいろいろあった。そういうもどかしい思いを抱えている中、Kさんから電話があった。 「もしもし、Kです」。懐かしい声だ。病院の隣市にある老人ホームに移ったところだという。サプライズだと午前3時に職員がやってきて、荷物をまとめさせられ移動することになったのだという。Kさんは、嫌がらせだよ、と言っていたが、たしかに意味不明だ。 病院では、配食の有無で言い争いになり認知症扱いされて、毎日けんかしていたとのこと。「看護士、全員敵」とKさん。リハビリの先生は良くしてくれて明るい気持になったらしいが、院内感染でKさんもコロナに罹患して、最近はリハビリも出来なかったという。病院を出られるのならどこでもいいから移動したとも言っていた。取り次いでくれた管理人に面会できることを確認し、Kさんには、ちかぢか訪問すると伝えた。 テント村から電車を乗り継いで1時間。さらに、そこからバスで30分。交通量の多い街道から脇道に入ると、畑が点在する住宅地。典型的な郊外の風景だ。老人ホームは3階建てのため、わりにすぐに見つかった。ホーム前はガラガラの駐車場が広がり、全体として殺風景な佇まい。入口のドアには、コロナのため面会禁止の張り紙があったが、テント村のIさんと入ると、管理人がKさんの部屋番号を教えてくれた。 手狭な個室のほとんどを占めているベットの上にKさんが座っていた。全体として白っぽい空間。Kさんも漂白されたようで衰弱して見えた。身長は4センチ、体重は22キロ減って40キロ前半しかないという。脳出血の麻痺は残っていて、少し話しづらそうだ。病院側と揉めた時、一日1キロでも一ヶ月も歩けば公園まで帰り着くだろうと思ったが、病院にお金を管理されていて、これでは闘えないとつくづく思ったそうだ。Kさんは、公園に帰りたい、公園で死にたい、と何度も言った。 老人ホームの食事も足りないらしく、食べ物のことで頭がいっぱいらしい。好きなものを好きなだけ食べたいという切実な願望。<やよい軒>のハンバーグ定食のハンバーグを四等分して、その一片につきご飯1杯、計4杯たべたいと言っていた(やよい軒は、ごはんお代わり自由)。 ピーナッツや食パンを買いたいと言うので、コンビニまで行くことになった。入居10日目のKさんだが、今までホームの外に出たことがなく、外出していいかどうかも知らなかった。この施設は<住宅型有料老人ホーム>なので、外出・外泊など自由なはずだ。 12月にしては暖かい日差しの中、徒歩10分くらいの場所にあるはずのコンビニへ、3人で向かう。Kさんは杖をついている。住宅地を抜けて街道に出る。体がふらふらと危なっかしいKさんの脇を大型トラックが走り抜ける。膝くらいの高さのブロック塀で休憩。何やら鼻歌まじりに自転車でやってきたおじさんが、ぼくらの前で停まって、やぶから棒に「柿くえば 鐘が鳴るなり 東大寺だっけ?」と話しかけてくる。「たぶん法隆寺じゃないですか」と答える。 ようやくコンビニに到着。店の前にある公衆電話を確認する。Kさんは視力も弱いらしく、目の前にある電話が分からなかった。「何かあればここから掛ける」とKさん。Kさんは食パンとピーナッツ、いちむらさんはチキンナゲットなどを購入。 コンビニを出たところで、「手を貸してください」とKさんに頼まれる。介助を受け慣れていることを感じる。手をつないで歩いたが、Kさんの歩幅はだんだん狭くなり、上体が後ろにそって、倒れかかった。それ以上、動けなくなった。そこで、いちむらさんが、急いでKさんの部屋まで歩行器を取りに戻った。 歩行器を使うと、ウソのようにKさんはスムーズに進んだ。「まじめに練習したから」とKさん。無事帰宅するなり、袋から取り出したチキンを顔の前にさげて、むしゃぶりついた。ぼくらと話ながら、だんだんと上体が後ろに倒れ、仰向けになっている状態で、ピーナッツを口に放り込み食パンを噛み締めた。その時、部屋がノックされた。Kさんは、あわてて買ってきたものを袋にしまって、ぼくがプレゼントとしたソーセージ(公園にいる頃の主菜)を引き出しに隠した。そんな必要はないはずだが、半年間の病院生活の感覚が抜けないのだろう。 ノックは、福祉事務所から施設へと入金があったからKさんに確認をしてほしい、という用件だった。ぼくも付き添って階下に降りた。施設を運営している法人の責任者と管理人が食堂のテーブルに座っていた。施設の取り分を除いた、Kさんのお小遣い(生活扶助費から食費や管理費、光熱費を除いた額)は、わずか月数千円で、貧困ビジネスの無料低額宿泊所より少ない。宿泊所よりも入居者に手厚い対応をしているのかもしれないが、これでは生活範囲は老人ホームにほぼ限定されるだろう。ぼくが外出や外泊のことを尋ねると、責任者は基本的には自由ですと言いながらも、入所者が行方不明になっても探すだけの人手がない、そのためすぐに警察に捜索願をだすと語って、抑制したいという本音を滲ませた。ただ、二人ともオープンな感じで嫌な印象をぼくは受けなかった。 部屋に戻ると、Kさんは、ぼくの誕生日に2人にやってほしいコントがあるんだよね、と話しだした。 テント村に関西から遊びに来る、しかも、だいたいヒッチハイクでやってくる女性にインスパイアされた内容だった。 ーーーハイティーンのIさんが、<東京まで>と書かれたダンボールを掲げて、人っけのない路肩に立っている。それを見てトラックが停まる。運転手は中年のぼく。ヒッチハイカーは、あまり乗りたくないと思う。そのうちに運転手が、オレのトラックに乗れないのかと切れる。ヒッチハイカーが怖くなって、警察を呼ぶわよと言うと、それは困ると、運転手は急にトーンダウン。なぜ?と聞くと、免許証を持っていないんだ。あんた、免許なしでトラックに乗っているの?と驚くヒッチハイカー、、、というコント。面白そうだね、とぼく。Kさんの持ち味が失われてないことにうれしくなった。 Iさんが、お正月にエノアールに来たら、と誘うと、まだ早い、とKさん。公園に帰ったら、もう施設に戻りたくなくなると思っているでしょ、とぼく。遊びにくるだけだよ、寒いうちは施設にいた方がいいよ、とIさん。 そうこう話しているうちに、Kさんは外泊して公園にやってくる気になった。「正月に人間らしい食事をさせてください」と、この日一番の晴れやかな顔をしてKさんが言った。
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by isourou1
| 2024-04-09 13:24
| ホームレス文化
かつて、近くで路上フリマがあった。日曜ともなれば、ホームレスの人たちがシートを広げて、主に拾ってきたものを路上に並べて売っていた。そういう店が10数軒も続いており、その間で路上バンドが演奏していた。それらが相まって、わざわざ足を運ぶ常連もいたようだし、独特な活気を呈していた。ぼくも描いた絵を売ってみたりしたことがあったと思う。興隆していたのは、おそらくアパート移行事業でテント村から人がいなくなる時期(2005年くらい)までだっただろう。ただ、自然となくなったわけではなく、音楽演奏も含めて警察の取締も厳しくなったのが理由だったと思う。
さて、それから20年近くの月日(え!そんなに!)がたち、こつ然と路上フリマを思い立った。 ひとつには3月になると、年度替えの端境期で<ダンボール手帳>(注1)の仕事が出なくなるので、<ねる会議>などで、どうやってお金を稼ぐかを討議しているためである。もうひとつには、3月末くらいまで、エノアールが冬季休業なので日曜日に時間がある。 幸いというか、なんというか、ぼくのところには古着がたくさん溜まっている。とりあえず、それを売ってみようと考えたのである。 1月末、おおいにワクワクした気分で、でかい袋に服を詰めて自転車のカゴに押し込み、路上に向かった。適当なところで、シートを広げて服を並べていると、見慣れた顔が前にある。ぼくが前夜の会議で宣言したので、野宿の知人たちが様子を見に来たのだ。服を売るだけでは退屈そうなので、似顔絵と似顔詩描きも同時にワンコインでやることにした。路上でやることには独自の喜びやスリルがある。それは予定調和をはみ出した予期せぬ出会いがあるためだ。しかし、意外なほど客はこない。チラチラと見る人がいても立ち止まったりはしない。うーん。それに、ぼくの店に並んで座っている、3人の野宿の面々の個性の強さ、台車を押していたり身の丈ほどのでかいリュックを背負っていたりする人々のインパクトに完全に負けている。この日は、炊き出しに向かう老人が一人、服を手に取り、中学生の集団が「ただで配っているならもらう」ワァーワァーと言っただけに終わった。3人は、「売れないねぇ」「気にしていた人もいた」「最初にしては上出来だわ」とそれぞれ感想や慰めを言ってくれた。 2回目は、午前中から始めた。すると、欧米人らしき二人連れの婦人が、面白いー、と立ち止まり、さらには似顔絵を注文した(一人は時間がないらしく「頑張って!」と帰ってしまった)。トルコから来た人であった。クレヨンでゴリゴリと描く。彼女は、インドカレーの炊き出しの手伝いをしている人であった。ぼくも並んだこともあるが、だいたいは(本格的すぎて?)苦手な人が持ってきてくれるカレーを食べている。ぼくは炊き出しの中でもっとも好みである。在住外国人によるネットワークに、服などを持ってきてくださいとの呼びかけがあったらしく、それで参加するようになったのだという話だった。ちなみに、この日、小笠原諸島の海岸で拾ってきた石などを売る予定の友人がいたのだが、遅刻している彼に向けて、人通りもたいしてないし寒いから来なくていいよ、と電話をかけたところに似顔絵の注文が来た。それで電話がかけっぱなしで、思いがけず実況中継となったのである。電話を切らずに、10分以上、聞いている友人も鷹揚だと思うが、彼の感想によると、紙にクレヨンを走らせる音、そのリズムや抑揚がものすごく良かったというのである。さらに、絵を見せた時に、相手ががっかりしたようだった、とも。いや、相手は、かわいい、と言っていたはずだが、電話越しに伝わった感触が本当のことだったやもしれない。今回も、この御婦人たちをのぞけば、服を見たのは、炊き出しに向かう老人一人だった。 3回目は、似顔絵と似顔詩を1つずつ。たまにエノアールに訪れる知人(鍼灸師)が客であった。服を手に取ったのは、この日も、知人をのぞけば、炊き出しに向かう老人一人であった。 4回目。ぼくは目覚めた。服は売れない。メルカリで売った方が儲かる。それに、売るものがないと野宿の人から言われる。それならば、どこにでもあるゴミみたいなものを売ることにした。その方が楽しい。この気持ちは、友人のブランドの服(注2)を見に行ったり、写真美術館の展示(注3)や映画(「太陽を売った少女」というセネガルのストリートチルドレンを描いた映画。どこで見れるか分からないが、最高だった)に、少し刺激されたところもあったかもしれない。テントのまわりをウロウロして、土に埋もれかかった人形を掘り起こしたり、錆びた蚊取り線香立てを集めたり、それらを組み合わせたりして、いくつかの商品を1時間くらいで制作した。これを売ろう。シートの上に並べる。うーん、完璧だ。 しかし、思ったほど人は見ない。チラと見て通り過ぎる。でも、気分はいい。「何やさん、これ?」チャイルドシートに乗った子どもが母親に問いかける言葉が飛んでくる。店名が決まった。「何やさん」とマジックで石に書いて置く。2時間経過。誰も立ち止まらず。でも、気分は悪くない。それに春のようなうららかな陽気である。3時間が経つ頃、ベビーカーを押して紺色の作務衣を着た男性が立ち止まって「写真をとってもいいですか?」。おぉ。「古道具やさんですか?」。いや、ちがいます、と言って、近くでテント暮らしをしていることを告げる。「これ、いいですねぇ」、と蚊取り線香立てにスミレを挿したものを気に入ってくれたようだ。一応、売ってます、と言うと、「今日は無理ですが、また来ます」とのこと。おぉ。じっくり見たのが彼一人であっても、ぼくは満足だった。あと、服を売る時は、木の葉が飛んできたら退けたり、自分の服装の汚れも気になったりしたが、「何やさん」ではそういう考慮は一切必要ないところも具合がいい。 さて、「何やさん」は、たぶん春までは続けるだろう。「何やさんコレ」として商品紹介ブログも立ち上げることにした。 路上フリマは、かつてはアチコチにあった。釜ヶ崎のドロボウ市が消えてしまったのは驚いたし、井の頭公園の入り口付近での自然発生的なフリマも随分前に審査制かつ有料になってしまった。今では、朝の玉姫公園前(山谷)くらいしか思いつかない。通行するためだけに道があるわけではないよ。 注1)ダンボール手帳 東京都による特別就労支援事業。山谷にある玉姫労働出張所(職安)などで、公園や霊園、都道などの清掃業務を求人している。同職安で作った「ダンボール手帳」(求職受付票)を持つ人を対象にしており、一日8000円弱の労賃で、平均週1回ほど仕事が回ってくる。 注2)途中でやめる 注3)恵比寿映像祭2024 月に行く30の方法 #
by isourou1
| 2024-02-29 17:46
| ホームレス文化
近くの公園で開かれる寄合に行くため自転車にまたがり、ふと、ラジオで午後から雨と言っていたな、と思い出した。急いで、テント裏に干していたタオル類を折りたたみハンガーごと、テントシート下に移動した。改めて自転車にまたがって、見上げれば雲ひとつない晴天。1月とは思えないうららかな小春日和。まさか、と思い、ハンガーを洗濯紐に戻した。タオルの端を長靴で踏んでしまい汚れた。
さて、会議も終わり、イケアで洗濯用手袋を購入して、外に出れば空は真っ暗。ポツポツ降り始めている。ペダルに力を込めて大あわてでテントに戻り、テント裏に直行すると、黒っぼい服装の人が洗濯物の上に緑のシートを被せているところだった。そのシートは、急な雨のために、洗濯紐の端に引っ掛けてあったものだ。そんなこと知っている人って、、、えっ!隣の小屋の人だ! 10年は一言も話してないし、会ってもお互い挨拶もしない。「ありがとうごさいます」と言うと、こちらをジロリと一瞥して踵を返した。ぼくとしては、その背中に「ありがとうございました」と重ねるしかなかったし、隣人としても、ぼくの出現は想定外だっただろう。それにしても、ぼくに対して悪感情を持っていると思っていた隣人に、心境の変化でもあったのだろうか。それとも、心根は親切なのだろうか。あるいは単なる気まぐれか。いずれにしても、うれしい意外さだ。すぐ雷が鳴り出し雹(ひょう)が降り出した。ウヒョー。 テント村のIさんに話すと「 雨に濡れる洗濯物を見るのが、いたたまれなかったんじゃないの。きちんとしていないのが嫌なだけじゃない」と新説を述べた。掃除好きの隣人の端正なブルーシート小屋を思い浮かべながら、そうかもしれないと思った。 #
by isourou1
| 2024-01-14 15:21
| ホームレス文化
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