時系列もポイント、とりあえず近現代に特化な年表のUP。
以下、高尾山インフラ年表、バイアスに抜粋( 帝都史観 )。
まず、近世には甲州道中-小名路ルートが高尾山まで通じていた。
明治4年( 1871年 )、国内旅行自由化( すでに関所は廃止 )。
ただし、すでに江戸期、国内旅行は成熟化していた。これは世界的にも稀とされている。
明治6年( 1873年 )、高尾エリアに人力車が。
この以前にも人力車は存在、でもそれは個人所有( 営業用ではない )。
明治11年( 1878年 )、高尾エリアに乗合馬車が。
明治12年( 1879年 )、高尾エリアでは初の自転車所有者が。
同年、高尾エリアに初の電柱( 電信線 )。
明治13年( 1880年 )、御巡幸に備え甲州道中の整備、路面に白砂が敷かれる。
明治15年( 1882年 )、このころ層雲閣の前身ともなる小屋が建てられたようだ( 正確には不明 )。
明治21年( 1888年 )、甲州街道が開通( 初期の大垂水峠ルート、未舗装路 )。
整える目的もソリッドな馬車に牛車用( 空気入りタイヤは、まだポピュラーではない )。
国内に自動車はなく、公的な交通では人力車に乗合馬車、そして蒸気機関車が主役。
( もしかすると山籠もまだ現役? )

画像、大垂水峠の由来ともなる滝。大タルミの”タルミ”は「万葉集」にもあるように”滝”の意味。
撮影時期不明( 早くとも明治33年以降 )、おそらく明治-大正に甲州街道の開通後かと。
( これは当時の版、オリジナルプリントを所有しています。ちなみに撮影は神宮写真館によるもの、この写真館は横山町に現存 )
明治22年( 1889年 )、八王子駅が開業( 国鉄の前身 )。
明治27年( 1894年 )、全国版時刻表( 全国版は初=旅の利便性UP )。
明治30年ころ( 1897年 )、高尾エリアにも自転車の普及が云々と郷土史に。
広義で、パイオニア期は終焉に向かい、そしてベテラン期にかかる。
明治33年( 1900年 )、富士山DH。山頂まで自転車を上げたかは不明、乗車は七合目から御殿場に。
( まだ山サイの元祖とは言い難い=後述 )
明治34年( 1901年 )、小仏トンネル開通&浅川駅が開業( 高尾駅の前身 )。
この以前、高尾山までは八王子から徒歩がポピュラー。
このころ自転車用の”草鞋”が発売されていた( 昔ながらの”ワラジ”とゴムとのハイブリッド? )。
他にも自転車用パンツなど=すでに自転車用アパレルの展開が、そこに留意。
明治35年( 1902年 )、高尾エリアで自転車レース開催( 空き地利用=トラックはダート )。
明治37年( 1904年 )、日露勃発。
明治38年( 1905年 )、日露終結。
同年、日本山岳会設立。近代的な登山の幕開けともなるが、フェイスバリューのママに登山。
( この時点では登山旅行団体に近い。ちなみに国内では、まだ”岩”に”沢”などクライミング系は邪道とされた )
明治39年( 1906年 )、大阪探勝ワラジ会創立( 近代団体登山の元祖 )。探勝に留意、いわゆる”山水”志向かと。
( 山水=自然を愛でる旅での再発見 )
明治40年( 1907年 )、富士山でのサイクリング( 石川賢治=後の丸石自転車 )。
ルートは御殿場-馬返し( 旧? )-四合目-御殿場で、新たに入手な自転車のテストラン。ライト・ロードスター系?
( その他詳細不明。これを初の山サイと捉えるかは保留 )
同年、高尾エリアでは初めて自動車( 乗用車? )が目撃された。
このころから電灯( 電気 )が一般化、それまでは石油ランプ。
( 先立ち、小名路の”花屋”のみは電灯を使用とのこと=摺差の水力発電 )
明治41年( 1908年 )、徐々にではあるが、自動車の目撃談が増える。
同年、高尾エリアでは初めて自動自転車=モーターサイクルの一種が目撃された。
( ちなみに”自動自転車”が”オートバ”になり、そして”オートバイ”になったという証言も )
同年、高尾エリアで自転車レース開催、2回目。
このころ八王子最深部のエリアでは、村に自転車16台とのこと。
明治43年( 1910年 )3月、柳田國男が”峠会”なる概念を提起(「峠に関する二、三の考察」)。
ここに、峠行に特化な、いわゆる”パスハンティング”的な静観の山行のスタイルが提唱( 仮 )。
静観派パスハンターにおいては、ここがスタートに。つまり柳田翁が始祖、と、私の史観は。
( その静観とは、これまでにも説明、そもそも日本的な山行とは”静”とされている。が、動と静とは一対でもある=二元論ではない )
ただし自転車云々ではない、峠を主題とする、な、そこ、その概念において。
狭義で? エドワード期の終焉。そして御存知ヴィンテージに。
・大正時代にかかる。
このころ、五日市エリアで自転車レース開催( 東京府外でもレースはポピュラー化? 依然、ダートトラック )。
時期不明に、この後にも五日市エリアでのローカルレースは開催されている。
また都市部ではアスファルト舗装も進んでいたが、初期の乳剤道路で評判はよろしくない。
( 古い文献に「ペーブ[pave]された道云々は、この初期の舗装路でしょう )
大正3年( 1914年 )6月、WWI勃発。
同年7月、菅沼達太郎が自転車で山岳地帯走行。天竜川水系の三峰川エリア=南アルプス。
今に通じる山サイの起こりは、このころに派生? 関東寄りの史観で、仮として、この件が初かと。
( デモクラシーをふまえ、夏休みのアドベンチャー=プライベーターの山岳走行な点に留意。しかも先の富士山とは異なり、嶮峻な山道での走行 )
・このころが”山サイ”の最初期と仮定。
同年、ハイキング系団体の”アルカウ会”創立( 関西主導 )。そのオルグが盛んに。
このころ以降、木下杢太郎によるアーバンランドスケープ論=都市美の発見( 近代モダン )。
大正4年( 1915年 )、このころ、いわゆるアルピニズムの勃興、山岳部主導。
( 西欧的登山思想の広まり=ターニングポイントとされるそうだが、アルピニズムは門外漢 )
大正6年( 1917年 )、八王子城山開山。
同年、紫陽道人「山岳旅行秘訣」。日本初の登山の実用書・技術書。
( アルピニズムとは異種な、いわば日本式近代登山の指南書 )
大正7年( 1918年 )、WWI終結。
大正8年( 1919年 )、国際労働機関云々を経て、このころから休日制度が普及。
( この普及がなければ、常民レベルでのアウトドア活動の発展は遅れただろう )
そして、いかに休日を過ごすかな提起が=レクリエーションな概念の広まり。
同年3月、ハイキング系団体の”霧の旅会”創立( その経緯は最初期の「山と溪谷」に詳しい。ただ、帝都においての低山趣味系では”東京野歩路会”が最古かと )。
このころ南高尾&北津久井が新たな観光地として注目された? ホテル建設の計画書が出されてる。
層雲閣ではない、すでにあった。びっくりしたのは、あそこまで人力車も行ってたんです。
( 層雲閣は最初からあった。そもそも甲州街道の工事のために建てられた山荘、後にホテルに改装 )
またこのころ、八王子市( エリアが今一つ判然としない )では、自動車約5台、自動自転車( モーターサイクルの一種 )約32台、人力車約179台、自転車約3252台。
おそらく登録台数、それで自転車に例えると鑑札逃れも( 郷土史によると、わりと横行? )、であるからさらに台数は多いかと。
大正10年( 1921年 )、槙有恒、アイガー東山稜を初登攀。登山ブームの一大要因。
またこのころ、パイオニア期は終焉を迎えたという登山史観がちらほらと。
( アルパイン系は門外漢、詳しくは専門書を参照していただければ )
同年、帝都サイドにも”東京アルカウ会”が創立( 日本旅行文化協会の礎 )。
留意は、この以前( 明治-大正 )より”山水趣味”また”新山水”とされる紀行のムーブメントが( 文学的なニュアンスをふまえる )。
大正12年( 1923年 )9月、震災。
同年、八王子エリアに乗合自動車( 八王子駅-追分のバス路線、後に高尾山下まで )。
大正13年( 1924年 )、高尾エリアに乗合自動車( 浅川駅にバス路線、と解釈 )。
大正14年( 1925年 )、浅川駅にタクシー認可( 最初期は2台 )。
大正15年( 1926年 )、鞍骨新道が開通( 現在の陣馬街道の一部、依然、砂利舗装 )。
この大正末にかけて、案内図に自動車が描かれるように&かの”層雲閣”も広告を。
大垂水峠エリアの自動車利用での観光地化もポピュラーに( 山里でのモータリゼーションの幕開け )、と解釈。
同時期、各種遊覧券が( 周遊切符の登場 )、また”オートキャンプ”という概念の紹介も、これは官主導。
旅のメディアが近代的によりポピュラーに( 冊子発行など )、それでこれはWWI後&震災後の景気回復策でも。
( レジャーでの節目=マス化には、その都度、このような手ごろなプランの登場&ガイド誌の発行が )
この変化では、それまでの情緒&詩的趣味に傾倒な旅の紹介から、よりマニュアル的なガイド案内などなど。
・昭和時代にかかる。
昭和2年( 1927年 )1月、清滝駅が開業( 関東エリアでは初のケーブルカー )。
この登場で、水垢離が衰退との史観が。山そのものが信仰の当体、入山に際し、まず水垢離が正式な所作。
そのために清滝が、また聖と俗との境界として古くはあそこには鳥居も存在。
( では、垢離取場がない時は、それはそれで古神道では別の作法が )
同年2月、東浅川駅の開設( 皇室専用 )。
なによりも大正15年=昭和元年( 1926年 )の崩御、そして高尾エリアは新たな時代を迎えた。
御陵にまつわりインフラが整備され、新たな案内書も多種発行、そしてホワイト化も。
それと、この時期、新宿から高尾山までのツアーバスが運行されても。
同年、追分-浅川間の甲州街道拡張( 完成は昭和4年 )。
ちなみに同年、京王閣がオープン。当初は、いわばディズニーランド=巨大なレジャー施設。
昭和3年( 1928年 )、東京近郊遊覧地展覧会( レジャー&日帰り旅にまつわるプレゼン大会 )。
昭和4年( 1929年 )、武中電車が開業、追分-浅川駅間( 路面電車、ちなみに京王線も最初期は路面電車 )。
同年、八王子城山保勝会の始動=高尾エリアの景観保護&観光地化運動。
( 城山-御陵-高尾山を一体とする、いわゆる東京府民公園計画 )
同年10月、世界恐慌。
このころ( 大正末よりの流れとして )、アルピニズムに対するdisも、平たくは「こまけぇこたぁいいんだよ! な。
プロレタリアートは( 意訳で )休日を活用な山行が唯一の楽しみ、そこに専門家の「登山とは! な、講釈は不要と。
そして、ここに常民主導な( 暮らしに根ざしたスタイルの )低山登山が広まる=低山趣味とされる。
( 前述の山水系ブームにも留意、それを発端とし、ここで新たなブレイクか? )
これポイントで、登山の大衆化は大正期にも、でもそれは主にアルピニズム云々をふまえたアドベンチャー志向かと。
ここでのムーブメントは、より現在的な、近郊の山でのお気楽ハイクなイメージに近いのだと思います。
それにまつわり山岳論争も、が、古典的な山岳書では度々説かれているように、山行に決まったスタイルなどないのです。
( 山サイも同様に、パスハンはこうあるべき! など、それが二元論的な発想であるならば、近代合理主義の悪しき影響 )
ここ重要なので後述します。
昭和5年( 1930年 )、武中電車、高尾橋まで延長( 浅川駅と高尾山が繋がる )。
同年、翌年にかけて、昭和恐慌で景気が最悪に。
同年、菅沼達太郎による山行での都市エスケープ論。
( この以前、すでに大正期には都市の雑踏が煩わしいという世評も )
このころから甲州街道の拡張工事が、それまでは道路幅約9mで未舗装、いわゆる歩道部分なし。
( 先に八王子エリアの拡張は大喪にも留意 )
広義で、ヴィンテージ期は終焉、クラシック期にかかるがPVTにも留意。
昭和6年( 1931年 )、御陵前駅が開業( 京王線の前身 )。
同年6月、登山家の田部重治「峠あるき」。この「峠あるき」にて、日本は”峠の国”であるという提起。
( 山国云々は多々あれど、峠国とは言い得て妙かと )
ちなみにこの年、古賀政男作曲「丘を越えて( ピクニック )」が、その”丘”とは多摩丘陵。
( 多摩丘陵エリアは”東京高原”とされていた、乱開発により面影もないが…)
昭和7年( 1932年 )、武中電車、八王子まで延長( 八王子駅と高尾山が繋がる )。
同年、コンサバな登山者と、近現代的なハイカーとの間で衝突が。
( アウトドアレジャーのマス化における象徴的な出来事では? )
昭和8年( 1933年 )、八王子山岳会の結成。
このころ高尾での、いわゆるハイキング時代到来。
( おおまかには、各地でのハイキングブーム=マス化はこのころに )
昭和10年( 1933年 )、八王子城跡&滝山城址跡など東京府史蹟に指定。
同年、陣馬山ヒュッテ開設。
昭和11年( 1936年 )、菅沼達太郎「走るハイキング」この”走る”は=自転車。
同年6月、鮫陵源が開園。南多摩郡( 現東平山付近 )に存在した遊園地。
・このころが”山サイ”の初期になるでしょう。
昭和12年( 1937年 )、事変。総力体制に入る。
昭和13年( 1938年 )、厚生運動の奨励=強兵も見据え。そして国家総動員に。
このころ、ワンデルングなハイキングとしてのサイクリングが提唱。
意訳すると、自転車の活用によりハイキングのフィールドがより広がる( と解釈 )。
これは五十嵐文次氏によるもので、おそらくハイカー兼サイクリスト、後の多摩の郷土史家?
( wandering=彷徨に逍遥、転じてハイキング。ただ、この言葉がポピュラーとなるこの時期は独式wanderungで、きな臭いニュアンスも )
留意は、黎明期、ハイキングと郊外サイクリングとはクロスオーバー的にも語られていた。
昭和14年( 1939年 )、武中電車の休止、そして廃止に。赤字路線であったようだ。
このころ、甲州街道は大垂水峠まで舗装( 以下、舗装の文字略 )。青梅街道は氷川( 奥多摩町 )まで。五日市街道は五日市まで。
所沢街道は所沢まで。中山道は高崎市まで。奥州街道は草加の先は狭くなるが、春日部市付近まで。
陸前浜街道( 国道6号 )は松戸市まで。千葉街道( 国道14号 )は千葉市まで。川越街道は川越市まで舗装とのこと。
その他割愛。
( これ当時、菅沼御大が都心起点のサイクリングでの、各主要幹線路の様相をレポしてるんです )
昭和15年( 1940年 )、天野金吉氏による奥高尾-高尾山にて自転車での走行。これも先の御大同様、嶮峻な山道。
( 都心在住のハイカー兼サイクリストのようで、この時点ですでに度々、高尾エリアを走っていたようです=ルーファイがマニアック )
同年、主に鉄道利用に関して旅行規制が( 徐々に厳しく )。
・ここまでがWWII前( Pearl湾は1941年の12月、そして決戦体制に )。
昭和17年( 1942年 )4月、USドーリットルによる関東空爆。
同年6月、ミッドウェー( ターニングポイント )。
昭和19年( 1944年 )2月、決戦非常措置に。さらなる旅行規制( より厳しく )。
同年6月、帝都エリア、徐々に警戒警報の回数が増す( 年末には毎日かのように )。
ちなみに同年10月、自転車徴発( ただし西欧での話 )。平たくは、自転車没収で、つまり最初に自転車を禁じたのはヒトラー=Nazi!
昭和20年( 1945年 )1月、京王御陵線の休止、そして廃止に。
同年3月、USによる帝都空爆。
同年8月、USによる湯の花トンネル&後の高尾山口駅エリア空爆、たとえば”花屋”と”有喜堂”は被災。
( 留意は、すでに制空権を失っていた )
・戦後( 調印は1945年9月2日 )。
昭和22年( 1947年 )。知る限りでは、層雲閣の記録はこの年が最後。
昭和25年( 1950年 )、半島勃発。
同年、都立自然公園を設定。
昭和26年( 1951年 )、八王子城跡を国史跡に指定。
( ここに、先の城山保勝会の方々の活動が報われる )
同年、野田宇太郎による「文学散歩」がスタート。
昭和28年( 1953年 )、半島終結。
同年、文学散歩のムーブメント( 元祖ディスカバージャパンに相当 )。
昭和30年( 1955年 )、VNM勃発。
昭和31年( 1956年 )、サイクリングブーム到来。
同年8月、北アルプス乗鞍岳に自転車登山( 鳥山新一チーム )。
この件は女性陣もアタック( 鳥山夫人など女子4名 )。アップハンドルのおそらくミキスト系の650Bで、登りローでギア比1.33。
( 光風自転車ケンコー号の試作車とのこと。これは”日本アルプスサイクリング実行委員会”のサポートによるもの )
・このころ、50年代中期に”山サイ”はポピュラー化。留意は、ツーリズムの派生に。
当時、峠越えは”クライミング”と称されていた( またヒリィ[Hilly Run]とも )。
そして山岳系パスハンターの原型となる”アルペン・サイクリング”なスタイルも派生。
( いわば分派? いずれにせよ概念としても、これは後のパスハンターとほぼ同意義 )
それと依然、山岳エリアの峠越えは( 主要な幹線を除けば )未舗装にダート。
( 甲州街道でも、依然、大垂水峠の先は未舗装 )
たとえば和田峠( 案下峠 )は全線ダート。案下道は熟練者コース( 乗車で下るのを躊躇うほどに荒れてたそうで、もしかして依然、佐野川往還の名残ママ? )。
ちなみに峠の表裏で”案下峠”or”和田峠”ですが( 旧峠は別に )、なぜに地図上の表記が和田峠かは?
実は、偶然、たまたま。これマジな話、特に思慮もなく和田峠案が採用された。
昭和33年( 1958年 )、アジア五輪での自転車レース。
コースは八王子八幡町-日野橋-立川-拝島橋-八王子明神町で、約25km。
昭和35年( 1960年 )、この60年にかけて高度経済成長に、東京の街並み&生活様式が激変。
( 復興から50年代末まで、少なくとも都心部では、ライフスタイルに大きな変化はなかったとされている )
昭和37年( 1962年 )、サイクリング少年団=官主導にジュニア層の育成。
このころ、サイクリングに対する一般的な認識は、たとえばJKがツーリズムなど、とんでもない、な、理解の低さ。
昭和38年( 1963年 )、北アルプス乗鞍岳に自転車登山( 岐阜CC )。これ、ランドナーにフル積載で自走。
前48T、登りローで23T=ギア比2.09は、ママさん自転車よりやや軽い程度? 健脚ですなぁ。
あと、先の鳥山チームのように”日本アルプスサイクリング実行委員会”のようなサポート体制があったわけではないようで、その意味ではよりワイルド。
( 乗鞍には他の自転車乗りもアタックしてるんですが、この件はハイカーにも付言されていたので )
同年、八王子エリアにて自転車クロスカントリーレース( 登山道も活用 )。
余談で、かの地( FR )ではすでに1900年代初頭に”シクロクロス”的なスタイルの原型が。
( 軍事教練としても広まったCX、諸国の銀輪部隊はシクロクロスの派生になるだろう )
このころの自転車レース、たとえば種目に”パン喰い競争”など、と、バリエーションに富む。
昭和39年( 1964年 )、五輪。自転車競技では八王子エリアが舞台( 陵南公園にモニュメントが )。
トラック競技の行われた八王子自転車競技場は、古くは浅川沿いの空き地。
それで明治35年と41年の自転車レースも、ここで( 空き地時代に )行われたのではという史観が( 正確には不明 )。
昭和42年( 1967年 )、高尾山口駅が開業( 京王線 )。
同年、サイクリングブーム到来( 第二次 )。
60年代はここまでとして、後編につづきます。
高尾山にまつわる留意は、高尾エリアでのハイキングと山サイの歴史には、実は、大した差はない。
これ、意外にもですが、実用に普及な自転車=必然性な歴史が。その点、近代という枠で括ると、ハイキングよりも古い。
( 少なくとも山道の通過においては、自転車での歴史が先、それはハイカー登場以前のこと )
また60年代末から70年代にかけても、自転車誌では、奥高尾でのサイクリングは紹介されてる。
このころそれは、わりと普通な感覚かと、山サイ入門的な。ただし、ランドナー的車体での通過。
( アグレッシブな面はあれど、依然、主にはツーリズムの派生的な )
また前述のように、50年代半ばには山岳サイクリングは慣例化。それは今にも通じるもので、「担ぐ」という表現も使われてます。
先に乗鞍の件で光風自転車にふれましたが、50年代の光風の広告でも、すでに山で担いでます。
( 留意は、高度経済成長以前、山里では主要な道路を外れると依然、未舗装がデフォ。その峠越えなサイクリングを現代的に解釈では、ほぼほぼ山岳ダート系に )
補足1。
参考に古い銅版刷地図もUP( 注・上が南、高尾山は右方向 )。

( 無銘に作成者などの表記なし、精密に正確ですが縮尺表記もなし )
太い路線は中央本線、左下側に見切れるのは御陵線と御陵前駅、その右側に御陵が。御陵の上側に浅川駅。御陵前駅の上側には東浅川駅。
中間に流れるのは甲州街道、その甲州街道上の線が武中電車。
京王の高尾線はまだ存在しない、武中電車は高尾橋まで。そのため昭和5年ころから昭和14年までに作製されたものと思われます。
ちなみに武中電車の浅川駅は、現在の国道20号、都心方向から高尾駅側に入る交差点手前、20号沿いに”7-11″が、その正面。
また甲州街道の両側、一面の桑畑がわかるかと( 今は、ほぼ全て住宅地に )。
補足2。
ここでのハイキングの定義とブレイク期について。
定義では、たとえば標高&距離&速度、そして難易度も関係ない=二元論的ではない。
では、なにを定義的に置くかというと、常民( 大衆 )による主に徒歩によるアウトドアレジャー。
( 近代化での信仰との断絶はあれど、そこはクロスオーバーも=ハイカーが無信心とは限らない )
ブレイク期では、たとえばハイカー人口( 人数 )の話ではない。では、その線引き、見極めは…
まず大正-昭和にかけて、富裕層もしくは中間層の娯楽としてのレジャーが( スノッブ的な )。
それが昭和8年前後には常民( 大衆、仮にプロレタリアートとして )にも広まる、という公平化の時期、そこだと思う。
なぜにそこに着眼は、それも近代化とされる現象だから。
ある階級層に限定な趣味が( 柳田翁は「成金云々とdisしてる )、やがて誰もが気軽に楽しめるものに。
( 当時はマルキシズム全盛期にも留意 )
それこそがレジャーにおいて、近代化の目指すところではあるまいか。
( ただし、誰もが気軽に=行楽地の俗化をも招くが… また結果的には伝統的価値観は崩壊していく )
これはサイクリングにも通じる面があるでしょう、そのような点に鑑み明治33年の件は山サイとしては除外。
( 単独に担ぎならともかく、強力に頼る大名登山。またダートの激坂を下れば、なんでも山サイなわけでもないかと )
追記。
勃発を加えたのは景気&旅行規制&物資統制に関係するため。
自転車にまつわる歴史&その他繰り返し語られている出来事は割愛。
あと、抜けてる点も、そこはパスハン編にまとめます。
その1: 自転車登山に山サイ
その2: 戦前のサイクリング
その3: 自転車に大道無門
その4: 山旅と古道な幹線道路
その6: クライミングにパスハンター
その7: 初めて物語( パスハンターの巻 )
その8: アルペンサイクリング
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不要不急にダブルスタンダード