アルペンサイクリング

国内サイクリングは欧州文化の影響下に=輸入文化。

その日本化な過程には独自な解釈は無論、普及につれ新たな様式も派生=その一つがパスハンターでも。

さて、欧州の山&峠系に、仏にシクロ・アルピニズム[Cyclo-Alpinisme]が、そして英にはパス・ストーム[Pass-Storm]が。

いずれもツーリズムにカテゴライズ=自転車でのスポーツとはされない=旅は競技( ゲーム )ではない。

( ちなみにヒルクライムは登坂競技としてTTに。またCXも”Course sur Route”で競技に )

そして、そのような峠越えはクライミング[Climbing Run]にヒリィ[Hilly Run]としても紹介された。

( このネーミングの使い分け、ざっくり言って識者と年代にも、古いサイクリング本に散見は”クライミング”かと? )

が、そもそもトランスレートに無理が=風土が異なる。

峠越えにシクロ・アルピニズムは、仏の風土に鑑み、標高2000mの高峰エリアがデフォ。

峠をターゲットなパス・ストームでは、英の風土に鑑み、標高700mを越えることはなく、舗装率も97%に。

( 英で未舗装路に特化なサイクリングとしてはラフ・スタッフ[Rough Staff]が )

国内の山岳系ツーリングで標高2000mはポピュラーとは言い難く、舗装率は低い( 70年ころで15% )。

いずれもママには該当しない。

と、このような話は幾重にも語られ… たいていのサイクリング本には載ってる話であり詳細は割愛。

( 先にふれておくと、80年代には峠越え=クライミングな呼称はほぼ絶えて、それにかわり峠越え=パスハンティング[Path-Hunting]が広義的に。留意は”path”のトランスレートである点 )

そして前回にも紹介な50年代中期、山田鉑雄氏により”アルペン・サイクリング”の提唱が、で、ここからが特殊な話に。

そのアルペン・サイクリングとは嶮峻な山道の峠をターゲットに、端的には、登山に近い。

( アルペンサイクリングな呼称は山岳系ツアーな総称的に活語ですが、それは山田氏による元祖系とは異なる。昨今のアルペン系は鳥山新一氏が説くところのクライミング・ツアーに近い )

が、登山ママでなく、ハイキングでもなく、通例なサイクリングとも異なるとの見解は、低山バリに近い感覚だろうか?

( この以前、すでにパスハンティング的な所作はポピュラーに、山岳サイクリングも自転車での登山と云われたが、それはまだツーリズムの枠内 )

これが世にいうパスハンターの元祖に相当するも、そんな深山の峠アタック専用車が販売されていたわけではない。

そもそも戦後では、国内でのサイクリング車の製造スタートは54年とされる。復興期を終え、これからという時節だ。

マイナー用途に特化な車体が最初から存在する方が不自然。当初、既存の自転車をベースに、平たくはカスタムに。

( たとえば峠越えサイクリングの歴史を辿るに、菅沼氏からALPSの萩原氏に至るまで最初期には実用車も活用と )

そのアルペン仕様で( まだパスハンターな符牒はない )峠をターゲットなルートファインディングに山にわけ入る。

alpen-cycling

ところで、アルペン[Alpen]を冠し、その解説には”岩壁登攀に相当”と添えられても。

するとそれは( 当時としては )古典的アルピニズムの影響下にあると考えるのが妥当では? な、疑問が。

( 山田氏がアルピニスト云々でなく、その講釈に鑑み、多少なりともその影響下に? な、提起 )

なぜに、そこにこだわる? は、アルピニズムとは純粋にスポーツであるから。

前述、通例な峠越え( クライミング・ツアー )はツーリズムであるからには、スポーツとはされない云々。

( ツーリズムとスポーツとの区分けは、鳥山氏など始祖連の文献を参照 )

でも、スポーツになるからには、であるならばと、それで前回、旧来ツーリズムの枠を超えてる&分派云々と例えた。

ただ、その著書にはアドベンチャーに相当な意味での解説はあれど、スポーツな文言は見られない。

( しかしアルペン云々な時点で、当時の概念としては純粋なスポーツとみなされる、と、捉えるのが近代登山史では通例かと )

そこで、当初のパスハンターとはスポーツ( アルピニズム影響下と仮定 )にアドベンチャーとして、そこの説明も必要に。

そのスポーツとは、アルピニズムでは純粋な登山においてで、通俗的スポーツ( ゲームに競技 )とは異なる、またアドベンチャーは=単純に冒険ではない。

( アルピニズム門外漢としては、ここの説明が厄介で、これまでパスハンターの派生にまつわる話は避けてきた。型式など外観的な云々よりも、その概念の形成は如何に? な、そこが哲学的にもややこしい )

通俗的スポーツにはルールが( 人工的に造成されたグラウンド上では )、でも対峙な相手が自然ともなるスポーツ登山にルールはない。

競い合う相手は自然と仮定に、自然はママにあるのみ。そのリスクは自然条件と登山者の条件に応じて多様に変化=ルールも多様に変化せざるを得ない、それはルールとは言い難く。

( 常に安全性と危険性が変化するとされる自然では、二元論的なルールは通用しない。ルールの無い危険なスポーツが登山であり、危険なことを了解したうえでわざわざ行うのが登山の特性とされる。これは法律書でも説かれている定説であり、すなわち安全な登山などない )

そのような自然の中で行われるという点が通例なサイクリング、また舗装路上でのパスハンとは異なる。

( 舗装路上では、たとえ過酷なパスハンがあれど、コンディションはともかく、少なくとも舗装路の安全管理は可能 )

競技でのトレラン&スキーに例えても、それも自然の中だが、人と人とが競い合う( またタイムを競う、であれば )そのようなスポーツと、アルピニズムのスポーツとは概念が異なる。

( 純粋行為なスポーツ登山での対峙は自然ママに個己そのもの。ちなみに、その対極はプロスポーツで、それは興行に )

つまり山田氏創始なパスハンターがアルピニズム影響下にあるならば、スポーツとなるが、レーサーにヒルクライムなど通例な自転車競技のスポーツとは意味が異なる。

つづきます。

アドベンチャーとの関係は、また後でふれます。

留意は、アドベンチャー[adventure]のトランスレートが”冒険”は便宜的、相当な概念が日本語にはないのです。

それと、このように純粋登山にまで話が及ぶのは( ならざるを得ないのは )、それほどに山岳系パスハンターは特殊。

( 極論、古典的な山岳系パスハンティングはサイクリングと言えるか怪しい…Hmm )

その1: 自転車登山に山サイ
その2: 戦前のサイクリング
その3: 自転車に大道無門
その4: 山旅と古道な幹線道路
その5: 高尾山年表( 近代インフラ編 )前編
その6: クライミングにパスハンター
その7: 初めて物語( パスハンターの巻 )

初めて物語( パスハンターの巻 )

今に通じる( 概念的にも )パスハンターの起源は50年代中期、当初は”アルペン・サイクリング”と云われた。

その始祖は? ポピュラーに公的な記録が残されているものでは山田鉑雄氏になる、そう、かの”下りの山ちゃん”に。

( パナソニックバイシクルがフィーチャにNCTC登場のCMを記憶されている方も多いかと )

昭和33年( 1958年 )、その山田氏により「峠・関東編」が刊行、この「峠」こそがパスハンターのバイブルに。

( それで初めて自転車でのアルペン[alpen]なるスタイルを知ったが、リアルタイムではない、後年、学校の図書室で巡り会う )

これは山岳エリアの峠のみをターゲットとする、平たくは、パスハンティングの解説&入門書に。

ただし、その文言には”登山での岩壁登攀に相当する”とされ、サイクリングにおいて”最も高度な技術を要する”云々。

つまり嶮峻な山越えをも標榜するもので、整えられた林道に舗装路上での峠越えではない。

( サイクリングはふまえ、いわば「新ハイ」のバリエーションに近いコンテンツ )

実際、スパイクピンの使用についても付言されてる( CXに例えてもアイゼン使うじゃないですか )。

そのようなルートファインディングの想定は( ハイキングよりも過酷なニュアンスな説明 )、万人受けするものではないと冒頭で釘をさしてる。

( ちなみに以前に紹介な乗鞍は、アルペン・サイクリングでは入門者コース=なぜならば道迷いの懸念が低い、対して中・上級者ルートでは読図必須 )

深山の峠をルーファイで詰め、時にはピークも踏むという異端的なスタイルには違和感を抱かれるかもだが、そこは”信念の相違”であると山田氏は語る。

( たとえばあえて山頂に自転車を担ぎ上げるのも、それは個個の哲学的な問題であると )

pass-hunter

そのベースとなる車種・車体に関しては、特に限定なし=手持ちの車体で可、自ずとカスタムに。

( そもそもパスハンターは既存の自転車の改造=まだ戦後10年目ころの話であり )

それに際しての必須条件に、当時、山田氏が定めたのは、まず山道で”押せる”こと、そして”担げる”こと。

ただし、ステップUPな虎の巻は、万人受けするものではない云々に、相応にサイクリング車の知識があることが前提に。

そして軽量化も=押す&担ぎに特化では、ただ、登攀云々に例えたように、ハードな使用に耐え得る手法で。

( ちなみに山田氏によるパスハンティング車は、画像で見る限り、泥除けも装着してる )

ハンドルバーはオールランダー&フラット系推奨、ドロップの場合はツーリストレバー推奨=吉川のギドネットと思われる。

( ただ、50年代のオールランダーバーは、たとえば今のママさん自転車が装着なハの字アップハンドルに近いものも )

ブレーキはセンタープル、サイドプルも可などなど、その他はケースバイケースに=ルーファイに留意。

要ともなるギア比は、30インチよりも低いギア比率では歩いた方が早い云々、な、解説が。

留意は、始祖連など、昔のサイクリストは健脚。それとインチ云々も最近では使われない表記かと。

( ホイールインチで計算な手法で、トランスレートでは、たとえば前46Tで後39T前後にギア比1.18前後に相当でしょうか。ちなみに当時、坂用での通例は40インチか? )

積載に関しては、やはりアルパイン系の特徴ともなるが、フロントバッグまたはサドルバッグ、さらに2サイドも想定。

2サイドの場合、押し&担ぎでは、パニアバッグなどは別に肩で背負う。またサドルバッグも状況に応じて別に背負う。

( これも山田氏は、フル装備ではフロントバッグにフロント2サイド、そしてサドルバッグも装着でアタックな画像が残されてる )

相応に大型のバッグが必要な理由は、本格的に山岳系=水と食料&クッカー類の積載にビバークをも想定で。

それは山行では当然に常識でもあり、そのような装備( 用意 )がないママに山に入るとか、どうかしてるとしか…

( たとえ低山でもバリエーションでは、水の余裕にツエルトかビバークサックは携帯、手強いルートにはセルフビレイも用意など )

すると、では、昨今のパスハンターとされる( 図鑑に掲載されるかのような )極めてシンプルなフォルムは、と言うと、さらに後に整えられた様式に。

( 主にルートが明確な林道活用なルーファイか、舗装路上の峠用。要は、軽装備=過酷なルートは想定しない )

その、昨今のパスハンターまでの流れ云々な前に、なぜに日本固有の車種とされているかな史観を。

そこで門外漢ではあるが登山にアルピニズムの説明が必要に。

つづきます。

補足1。

50年代の著書「峠」について。山道の峠越えに特化では初のパスハンター本。

その概念、車体にまつわるエトセトラ、山岳装備は食糧&飲料にも付言、そしてルーファイ&走行指南からコース案内まで。

そのように総体としてのパスハントを紹介な初の試みでもあり、山に自転車で入る理由の整合性までも説かれてる。

半世紀以上前の古書である点を差し引いて考えても、総体では、依然、これを超えるパスハン本はないかと。

( また先に紹介の”信念の相違”である云々は、今、こういうことをズバッと言える人はなかなか…)

後の80年代に例えても”山岳サイクリング研究会“による冊子の発行もあれど、また、さらに後の「自転車パスハンティング( 薛雅春著 )」の刊行も。

それは実践的な試み( コースガイド&部品紹介&アタック手法の手引きなど )であるが体系的に史実面が弱い。

( そのような80年の文献は、すでにMTB影響下にある点にも留意。ちなみに”MTB”は登録商標、通例は”マウンテン・サイクル”に )

否、日本固有の山岳の概念云々と史実面にも多少はふれているのですが、抽象的。

体系的に捉えるにおいて肝心な、この風土において、なぜにパスハンが派生し、如何に進化を遂げたか、な、そのエビデンスが欠落。

( How-to本にそこまでな期待は酷かも? 薛氏の本はクロスオーバー期の資料としては希少だが、そんな点が惜しい…)

対して山田氏による「峠」では、御当人が戦前-戦中に草創期サイクリングを体現されており、また当時の世相も合わせて紹介されている。

( 以前に紹介のように、ロウソク式ランプの時代から自転車に乗られていた方ですので )

と、山田氏の文言そのものにエビデンスとしての価値が。また関東エリアに特化なインフラの説明からも、民俗学的な意味をも派生する。

これ国会図書館にて回覧可能なので、もしも興味があればぜひ。

補足2。

山相&地勢な概念はローカルなもの=山岳サイクリング車の様式はそれに即す( 自然条件と乗り手のレベルに応じたルーファイにも )。

経験値もふまえ、ある程度は整うとしても、法律書にも”わからないもの”とある自然において、端的には、その時々なスタイルにならざるを得ない。

( 季節に即すのは無論、基本装備はともかく、どこの山でも同じ装備品でのアタックはありえないのと同様に )

山に入る以上、より顕著にローカル色が出るところも本格的な山岳サイクリング車の面白みでもあるまいかと。

でも、もちろん主に舗装路活用にマイルドな山岳系であれば、いわば全国共通的なスタイルもあって然りでしょう。

そして2サイドも推奨では、キャリア・荷台にも留意=パスハンターに荷台がありえないかのような発想は後年の派生。

( ちなみに、北アルプスで担いでる写真かと思われるのですが、ガッチリした荷台付いてます )

あと、山田氏は、リュックサック=バックパックの使用についてはふれてないが、UL系も波及な現在ではケースバイケース。

( ルーファイにもと例えたように、その内容次第、これという決まりはあるわけもなく )

補足3。

前に56年の乗鞍の件で”日本アルプスサイクリング実行委員会”のサポートにふれた。

アタックに際し、鳥山新一氏はメーカーと協力に山岳用部品の開発にもトライされている。

( 戦後サイクリング黎明期、すでに山岳走行に特化な概念の派生に留意。実際、カテゴライズにも山岳サイクリングが )

その1: 自転車登山に山サイ
その2: 戦前のサイクリング
その3: 自転車に大道無門
その4: 山旅と古道な幹線道路
その5: 高尾山年表( 近代インフラ編 )前編
その6: クライミングにパスハンター
その8: アルペンサイクリング

クライミングにパスハンター

前にUPな年表のつづき、前編の高尾エリアからは離れて、ざっくりと。

山サイの原型ともなるサイクリングは大正時代にも、が、それはまだ極例。

( 大正3年の菅沼達太郎氏の件は、時代先取りとしても早すぎ…)

大正期を最初期に( 仮 )、昭和初頭が初期となるでしょう。

( 縦走路での乗車にハイキングとのミクスチャーな話を紹介なように、戦前-戦中には山岳系サイクリングの自覚が芽生えた )

そして戦後、50年代半ばにポピュラー化は、56年の”サイクリングブーム”の影響もあるのでしょう。

( 高尾エリアのみでなく、丹沢エリアでも、たとえば塔ノ岳-大倉尾根でのサイクリングも紹介されています )

また、この50年代半ば、オールドファッションなパスハンティングは、ほぼ完成されていた。

前述の、戦前よりの流れが成熟期を迎える( エビデンスは山サイに特化な入門書の刊行など )。

当時、山岳エリアの峠越えは、依然、未舗装路がデフォ( 和田-案下=都道521号に例えても、まだ山道に近い )、加えて、峠に対する憧憬に旅情も派生なこの国では、必然な流れかと。

まだ”パス”云々な名称・呼称が公然とは登場してないだけ。当初は、主には自転車での”クライミング”とされていた。

各文献に「峠越え=クライミング」な記載も、わりとポピュラーなトランスレートになるようです( 大層な話でなく、戦後の菅沼-鳥山氏などのサイクリングに学んだ方には周知の事実では? )。

要は”パスハンター”という呼称は”符牒”でしょう( その他、山サイにまつわる用語も含めて )。

と、これまでは、帝都史観で、インフラ状況と自転車の波及により、当然の如くに山に入る経緯の説明。

そして年表で、アウトドアレジャーのマス化と始祖連が山に乗り入れた時期とを時系列に並べてみた。

ではでは、今度は、五輪景気&高度経済成長な60年代を終え、そこに…

昭和45年( 1970年 )、ディスカバージャパン=美しい日本と私、が、帝都では光化学スモッグが。

( 留意は、成長-開発に伴う破壊化が顕著であったからこそ、美しい日本云々なテーゼが求められた )

同年、USではマスキー法が。これは光化学スモッグの要因ともなる排ガス云々に60年代からの流れ。

( いわゆる”Unsafe at any Speed”なキャッチは有名に、保険業界の動向にも留意。ガス規制は、パワー抑制による事故回避策でも )

昭和46年( 1971年 )、いわゆる”ニクソン・ショック”など=VNM勃発の影響。

昭和47年( 1972年 )、日本列島改造論。地方の都市化の導火線、乱開発の幕開け。

昭和48年( 1973年 )、中東勃発=いわゆる”オイルショック”が。

一旦、この70年代初頭で区切ります。

50年代後期から60年代、そしてこの70年代初頭にかけて環境汚染が加速する。

( 当時、工業地帯では”空までが錆びている”と揶揄されたほど )

特需&成長に伴うコンビナート公害。道路網などの整備に伴う開発での破壊にダンプ公害と。

そして道路網が整うことで交通革命ともされる本格的なモータリゼーションの到来に、輸送の主力は鉄道のみでなく自動車にも。

( そこ、自動車の波及に憂慮な国電が電通とタッグを組んだ、いわばカウンターアタックがディスカバージャパン。しかしこの目論見は意外な展開を見せる )

そこにマイカーブームも相まって、さらなる交通量の増加に伴う大気汚染が。

それはまた”一億総レジャー”時代の到来とも重なる。

レジャーでの変化は、通俗的に、50年代中期ころまでは主に受動的な娯楽とされた=音楽&舞台鑑賞などなど。

それが主に能動的な娯楽に=ドライブにピクニックなど、平たくは、戦後のアウトドアレジャーが、いわば起動と。

( 留意は、交通機関のスピードUPも合わせて、奥座敷がより身近に )

そこに、さらに重ねて”消費は美徳”な消費革命も。使い捨て文化の始まり=行楽地では観光客の増加によるゴミ問題が。

そのように70年代初頭での記憶では、加速する環境破壊が真っ先に思い浮かぶ=それほどにひどかった。

( おおまかには、不穏な空気感も。このころから認知件数は上昇の一途を辿る )

それと道路網は整えど、主要な幹線はともかく、他は現在ほどには整ってない。

( 都市部を外れると、旧態依然な狭い道路上に、まるで溢れるかのように自動車が増えた感覚だろうか? )

ただ、舗装化も急ピッチに=23区内では裏道&路地までも=裏道も走りやすく=裏街道に避難。

( それでもまだ、このころの都内、裏道&路地の側溝はフタなし=ドブ的ママ )

そんな環境にまつわるエトセトラをふまえ、静寂&澄み切った空気を求めるかのようにエスケープ。

が、すでにそんなエトセトラは近郊の郊外にも及んでた=たとえばベッドタウンの開発ラッシュは顕著。

やむ無く、さらに、より郊外に、また、より郊外に、と、静寂な場は、端的には、もう山にしか…

( 私の場合、それとディスカバージャパンの影響も相まって山の峠道探訪が始まる )

このサイクリングでの、自ずと山に入らざるを得ないかのような事象は50年代にも起こった( 山田鉑雄史観 )。

でも質が異なる。50年代は、レジャーのマス化&サイクリングブームによる景勝地での混雑を避けて。

それにより自転車での”アルパイン”という、当時としてはハードコアなスタイルが確立された。

( いわゆる”自転車を担ぐ”スタイルの山行が徐々に慣例化、50年代後期から70年代にかけて )

70年代では、前述のエトセトラ云々に、より切実な問題として山にエスケープ。

たとえば戦前、西新宿エリアに牧場があった当時、環状七号の内側でも牧歌的にレクリエーションなサイクリングが可能。

戦後の近郊でも、開発以前の多摩丘陵エリア( 東京高原 )では、やはり牧歌的にレクリエーションなサイクリングが可能。

しかし60-70年代にかけての都心近郊では、そのようなサイクリングに最適なエリアは次第に消え失せてしまう。

( それほどに高度経済成長により、近郊エリアは激変した )

無論、スポットには現存、でもランドスケープとしての連続性に乏しい=サイクリングには、いかがなものかと…

そして前述の如く、静寂な空気を求めるほどに、自ずと深山での山サイ的にならざるを得ない。

と、まあレジャーに趣味ではあるが、高度経済成長後にかけても山に向かう相応な理由が。

( ただし、誰もが皆、山にエスケープなどありえない、適性によるだろう )

ちなみに静観的なサイクリングは”瞑想派”ともされた。揶揄はともかく、瞑想派って? どうにも違和感が。

つづきます。

ここでは主に環境云々な話に留めます。

ここでの総括。

60年代末から70年代にかけて、路面は整う、しかし交通量の増加には辟易。

( ちなみに70年代初頭も、大垂水峠の先は依然、未舗装路 )

交通量の少ない道を求めて裏街道に。同時期、近郊での開発に公害云々も加速。

開発を免れた牧歌的なエリアを求めて彷徨うが、そのような場所は( 近郊では )低山エリアにしか残されてない。

エスケープなサイクリングでは、自ずと、林道および登山道的な地道に乗り入れるのが慣例化に。

( 60年代、23区内でも繁華地を外れると未舗装路はデフォ=未舗装な林道&地道の走行に抵抗はない )

それは狭義( 私の周囲のみ )かと思ってたら、当時のサイクリング事情に鑑みるに、開発に伴い、各地で同時多発的に起きている現象のようだった。

( エビデンス的にも、それで旧来の輪行とは異なる、いわゆる”カーサイクリング”なスタイルも派生する )

さらに歴史を辿ると、開発&観光地化の喧騒から逃れるように、山岳地帯に遁世なサイクリングの事象は50年代半ばにも起きていた。

それによりサイクル・クライミングの中でもアルパイン系とされる、今のパスハンターの原型ともなるスタイルが確立された。

そこが、世にいう、そもそもの”パスハンター”の始まりだ( 50年代中期 )。

ここでの留意は、それまではツーリズムの派生であった山道の峠越えが、パスハンティングな様式として分派する( と解釈 )。

だが、前述のように、まだパス云々な呼称は登場してない、また、メインストリームではないだろう( 少数派にUG的なカルチャーかと )。

スパイク底で自転車を担いでまでな感覚は( それを前提とするかのような )、異端的、普通はそこまでしない。

( サイクリストでも山に興味がなければ、パスハンターそのものを知らないでしょう )

重ねるが、符牒とも例えたが、あえて嶮峻な山道の峠をターゲットとするかのようなアルパイン系のパスハンターともなる様式は特殊。

それまでの( 旧来の )ツーリズムでの山道通過な枠を超えてる、つまりこれは通俗な自転車サイクリングの話ではない。

補足1。

開発&観光地化の喧騒云々にまつわり=当時の様相、名編集長今井彬彦氏の文言。

以下引用「観光バスの騒音と排気ガスとホコリを浴びに走るようなもので、交通上からも自転車で行くには危険が多いルートになってしまっています」引用以上( 66年11月、レクリエーション誌 )。

( 60年代中期の論説である点に留意、前述のように、50年代復興に特需-60年代高度経済成長-70年代乱開発と、このような問題はエスカレートしていたのだろう。ちなみに第二次サイクリングブームは67年 )

文脈から意訳に、今井氏は、交通不便に閑散としたエリアに容易にアクセス可能なのが自転車の特性であるとし、その特性を活かし、排ガス環境を避けて快適なサイクリングを開拓な提唱。

補足2。

50年代半ばのターニングポイントについて。

まず復興期、常民の望みは”食べる”ことだ( たとえば映画「東京五人男」を参照されたし )。

そして終戦の約10年後「もはや戦後ではない( 56年の経済白書 )」に景気は上昇傾向=衣食住の不安が和らぐ。

要は”ゆとり”ができた。すると今度は”レジャー”に対する欲求も( 世相総体としても娯楽が渇望されていた )。

そのタイミングにサイクリングブームが、また文学散歩( 史跡探訪 )も戦後では初のピーク期にかかる。

( サイクリングブームでは乗鞍に例えたように、山サイのポピュラー化も=バリエーションが派生 )

自転車&文学散歩に例えましたが、おそらく他のアウトドア系カルチャーにおいても、戦後では、この時期に起動かと。

補足3。

環境の激変に伴い( マイカーブームもふまえ )カーサイも派生では、ところがこれは一大矛盾をも内包する。

交通量の増加&排ガス辟易にも関わらず、自ら、自動車活用に、その排ガスを撒き散らす側になってどうすんだと。

( 否、私も一時期&たまにカーサイしてたが、その矛盾が嫌で自走にシフトな経緯が )

自然が好き! は結構に、その自然破壊の権化かのような交通機関利用で山に向かうとは、いかがなものかと。

その1: 自転車登山に山サイ
その2: 戦前のサイクリング
その3: 自転車に大道無門
その4: 山旅と古道な幹線道路
その5: 高尾山年表( 近代インフラ編 )前編
その7: 初めて物語( パスハンターの巻 )
その8: アルペンサイクリング

不要不急にダブルスタンダード

旅行制限と有事( 先の年表にまつわり蛇足の2.)。

主に昭和17年( 1942年 )6月のミッドウェー以後から、昭和20年( 1945年 )の終結まで。

厳しくなる段階はあれど、実情は… ぶっちゃけ、ザル( 抑制効果が低い )。

ざっくり言って、なにがあろうと旅に出た。

あの手この手に様々な抜け道が、末期には無視ママに強行突破派も現れた。

旅行制限に移動規制は、ほぼほぼ形骸化( 官側も渋々に認めてる )。

結局、常民の移動( 旅の欲求 )をコントロール出来なかった=そこがデモクラシーを経た常民の逞しさ。

( 菅沼御大に例えても、戦中にもサイクリング。ただ、体位向上な大義では、自転車活用は理に叶う )

データでも( 当時の宿帳が残されてる )規制下な戦中にもかかわらず、旅館は満員御礼に旅行は盛ん。

( 御大も宿泊を断られた=大型旅館も満室。ちなみに、その宿は現存、建て替えられてはいるかと )

で、この旅行制限での建前=いわばダブスタは、実は関所が存在な近世からなのです。

関所通過数と、その先の宿場での宿帳記載者数が合わない=官の記録よりも、民での記録数が多い矛盾。

関所破りは御法度でも、間道ともされる数多の抜け道の存在、さらに偽造手形の横行も。

( 行者に例えても、関所御免に、尾根=縦走路でどこまでも )

また絶えず手形が必要とは限らない。上りは厳しくとも、下るにはフリーパスなケースも( 入鉄炮出女にも留意 )。

顕著なケースでは、慶安3年( 1650年 )にブレイクの御蔭参りが( いわゆる”抜け参り”で、いわばパスポートなし )。

そこで近世から近代の旅とは、大きくは、まず宗教系、そして療治系と、その二つに( 仮 )。

物見遊山に行楽もあれど( 精進落としも )、建前は参拝=信仰。療治系では、主に温泉地での逗留=治療。

すると、信仰の旅は、一種の”修行”とみなされた( 娯楽でなく )。それ故に、方便でもあるのだけれど、許可が下りた。

( 前に、古くは旅=登山であるという史観を紹介、つまり旅=登山=修行でも )

温泉旅行では、病の治療が目的とみなされた( 娯楽でなく )。それ故に、これも方便でもあるのだけれど、許可が下りた。

そのように規制が厳しいとされた近世以前にも、旅に出る方法は。だからこそ常民による道中記が相応に残された。

( そもそもなぜに規制は、徴兵&年貢に起因、その監視・統制のために各地に寺院が置かれ、檀家システムで縛った )

これ、そんな事象に鑑みるほどに、特にレジャーでのダブスタは日本の御家芸かと。

( 幕府の指針とはまた別に、常民なりにも規範が、そこを幕府側も多少は認めてた )

万治3年、つまり1600年代半ばには「可愛い子には旅をさせよ」な、キャッチまで登場と。

それがなにを示すかと言うと、古くから、御公儀の布令には形骸化な面もあったということでしょう?

( 布令ママ、厳しく取り締まりが行われていたならば、そんなキャッチが流行るわけもなく )

また「可愛い子には旅云々は、通過儀礼=常民においての成人の儀式的にも捉えられていた。

通過儀礼とみなされていたからこそ( 共通認識 )、縁もゆかりもない旅先でのサポートが受けられた。

それは未成年による無謀な単独行でもあり、野垂れ死にもあれど、が、大多数は無事に帰還というデータも。

( 人別帳など台帳に、そのようなUGなケースまでも隠さずに記載は、勤勉故か、面白いと思います )

興味深い話では、狼&山賊デフォな当時にも、なぜか女子の一人旅も多かったんです。

街道に宿駅も整備は、初期は御公儀専用=常民の利用不可=野宿上等でも旅に出たのです。

unless-necessary

話を戦中に戻します。

でも有事下、泰平とされた江戸期と同列には語れない。

物資輸送の優先&燃料節約云々、であるから、不要不急のインフラ利用は罷り成らぬ! と、それも御尤も。

でもたとえば、規制を掻い潜りハイキングに=郊外に。それは厚生と買い出し( 農村での調達 )を兼ねてる。

主に厚生な娯楽目的としても、生き抜く知恵でもあったわけです( 家族を養うための )。

と、厳しい布令はあれど、常民なりにも事情が、そして官側も理解してた節が=近世同様に、いわば大岡政談に。

( 官僚サイドにも、厳格に取り締まるべき派と、でも、こんな御時世にこそ厚生も必要派との対峙が )

そして強兵も見据えてな、いわゆる徒歩旅行( 軍式ワンゲル )は奨励。その点は、旅そのものは禁じてない。

実際、官主導に宿泊施設が新設に( YH )、旅行団の結成も( そこに八咫烏が出てくるのは、なんですかねあれは? )。

しかし末期、制空権を失ってからは別、無差別空爆&艦載機による無差別掃射も。

( 列車では昭和20年8月の湯の花トンネルにも明かなようにルール無視。この件もむごい、留意は、客車は木製=弾貫通=車内は…)

が、移動が止むわけでなく、そう、疎開ラッシュに入る&食料調達も命懸けに。

当時の常民は、たとえ布令はあれど、自分の頭で考えて自らの判断で行動してた。

( ただ、それは哲学を伴わないと、独自な解釈に”オポチュニズム”的にあやうい面も…)

そして戦前には、この国家そのものも自立してた。

ところが戦後GHQによる”Dual Containment”での主権喪失( C.L.Kadesによるインチキ植民地法=九条がある限り自立無理 )。

つづきます。

補足1。

官主導に軍肝煎りの徒歩旅行に関して( 体位向上銃後に云々 )。

相応には盛んに。でも数年で終息とされており、おそらく常民側も、きな臭い匂いを察した?

また、無理も。今もですが、普段、運動不足ママに、いきなり徒歩旅至上と言われても…

それでも軍云々な国家総動員下では従うしかなく=逆らえない、と、思うのですが。

興味深いことには、常民側からの反発もあったんです。

たとえば、国民精神総動員な徒歩旅行って、なんだそれ? それこそ普段ろくに歩いてない連中が机の上で考えたのだろう云々。

当時のアウトドア系雑誌には、そんなdisまでも掲載と( 広告欄には”銃後の健康”とあるにもかかわらず )。

全員が黙って従ったわけではないようです。

いわばアウトドア系スタイリストの元祖ともなる菅沼御大に例えても、歩くのは結構だが、肝心の靴がない云々に統制緩和を唱えてる。

つまり物資統制により、常民が野山を歩くの適した靴が入手不可能に近い。たとえあっても値上に高額と。

それで歩けとは如何に…な。

そのように無理・矛盾に難題もあったようです。

補足2。

徒歩がスタンダードの古来より、まるでなにかに取り憑かれたかのように旅に出ていた。

たとえば近世の文政13年( 1830年 )、約半年間( シーズン中 )に約457万人もの御伊勢参りが。

他の講中に湯治、そして商用も含めると、おそらくは、さらに膨大な数に。

常民レベルでのそのような現象は、近世には、世界でも日本だけ。もう笑うしか…

すると規則に規制が厳しい云々には、どうにも矛盾が…

追記。

メディア報には( よく歴史劇に描かれるようにも )、ネガティブ面を誇張な傾向が強い。

たとえば年貢、たしかに不作に飢饉も、が、年貢は主に稲作限定。そして江戸期の農家の多くは半農=副業は無税。

( しかも幕府の安定とともに年貢の徴収率は大幅に下げられても。現今の官僚によるクズ政策のほうが重年貢かと )

WWIIでも、辛い苦しみは、制空権を失った末期の様相。初期は浮かれて御祭りムードに提灯行列。

徴兵も、そもそもは選抜=エリート限定。赤紙云々は、なりふりかまってはいられない末期の話。

国家総動員下の話も、たとえば”ぜいたくは敵だ”はプロパガンダに、実際にはそれほどでもないはず。

また思想統制も行われていたのは事実だが、前述のように常民側も、言いたいことは言ってた。

おかしいんですよ、古い記録を調べるほどに、今のほうが不自由に思えてしまう。

関連のある記事: 高尾山年表( 近代インフラ編 )前編

オルタナティブな高尾山

年表( 前編 )にまつわる補足に蛇足、以下、云々。

参考に、次の写真。大正13年( 1924年 )1月の御成婚時の様子。

alternative-takaosan

見切れる限り、全て人の波( 奥の奥まで果てがなく )。

震災から半年も経ってない=インフラは完全復旧とは言い難いにもかかわらず、これほどの拝観者が。

( これは一例に一部。当時の写真では、他エリアの沿道においても同様に )

これが当時の皇室の影響力。それをふまえ、まず大正末-昭和初頭における山里エリアでの変化、その要因。

崩御あそばされ、陵墓での斂葬は昭和2年( 1927年 )2月8日。

大喪においての御陵では=それまでは閑散であった山里に大変化が…

ちなみに葱華輦の御通過には「静粛謹弔ノ誠意」告論。たとえば作業&物干は禁止。

( そのような下々の民の云々が見切れては、いかがなものかとされ )

駅御到着は真夜中( 厳冬期 )であったが、小学生徒に至るまで動員( 住民ほぼ全員なニュアンスかと )。

文献によると、大変な騒ぎ( 大事 )に。拝観期間一ヶ月、毎日、数万もの参拝があったそうです。

…それを目の当たりにした山里の民は驚愕。

( 記憶に新しいのは、昭和天皇が御隠れになり殉死者が出たじゃないですか、現代で、そのような事象は世界的に稀 )

留意は、当時、高尾エリアの景気は停滞、追い討ちを掛けるように大恐慌も。そこで、これを機に立て直しを図る。

その再興策の一つは城山-御陵-高尾山を一体とする、いわゆる東京府民公園計画に連なる。

また御陵では、要人の参拝も慣例に。それで当時、ある種のオルタナティブとして盛況な滝療法がネックに。

近代の高尾は、本坊はともかくも、滝云々の山でも著名。たとえば北村透谷著「三日幻境」を参照されたし。

( 近世は別に、近代での”あの”通説はcover-story的なのです )

要人が訪れるにもかかわらず、たとえば座敷牢が散見はいかがなものかと…云々に、圧力が。

そして、いわゆるホワイト化に=云々としては終焉を迎えざるを得ない。

( 当初は当局の意向で=命令に等しい。さらに後、GHQが法的に禁じた )

そして云々にはフタがされ、後述のエトセトラもふまえ、いわばハイキング時代が到来。

まあアンタッチャブルな面も、介山の件もそうだし。ただし、云々は凄惨な話じゃない、むしろ逆。

収入源に乏しい山奥では生活の糧=民間によるケアビジネスの草わけ( そのサポートが強力でも )。

次、国際労働機関云々。

休日に関する布令で、これがまた、現代的に理解し難いかと…

( ものすごく雑に説明すると労働基準法の始まり )

それまでも休みは、が、慣例的には”盆”と”正月”のみ。他は不定期=予定を立てづらい。

まともに定休があるのは( 雇用形態にもよるのだろうが )、ある意味、エリート層に限定されていた。

日曜日な定休があるから予定が立つ=共通な認識( たとえば友人と示し合わせてな旅行など )。

このポピュラー化・定着で、レジャーにまつわるオルタナティブなカルチャーも派生に活性化。

たとえば厚生施設の新設に旅行プランの提案と=付帯事業もふまえ、官鉄と民鉄間とでの競争が。

( ちなみに”レジャー”という言葉が広まるのは50年代以降 )

で、これはインフラ整備に普及とも重なる=それも相まって、郊外でのハイキングがブームに。

( 前回ふれたように、暮らしに根ざしたスタイルの常民レベルでの=休日に気軽に )

御陵の完成、インフラ充実、恐慌からの再興、公園化計画、休日制度の活用、そして鉄道省云々..と、様々な思惑と要因とが合致に、奥座敷となる山里にハイカーが。

そのように、昭和初頭、高尾山がブレイクな理由が( 単純にハイキングが流行ったという話ではなく )。

つづきます。

補足。

UPの古い写真は当時の版、オリジナルプリントを所有しています。

ちなみに位置は皇居の東側、角度的にも銀座側では。それと奥、まるで浅間か男体山かのような稜線は? 謎。

ともに厳冬期には都心からも見切れるはずですが、ここまでクッキリと写るものか?

追記。

ざっくり言って、案外、高尾山でのハイキングの歴史は浅い。それよりも前述のように滝云々の山だった。

( そこが云々に云々で隠された、それで歴史を辿ると辻褄が合わない、よくわからないことにも )

と言うか、ハイキングってわりと新しい。草創期のアウトドア・カルチャーと、そのクロスオーバー期をも、ごっちゃに捉えるから古そうに。

先ず、信仰との断絶=伝統的価値や慣習からの自立とされる近代レジャーでの定義が。

探勝に山水趣味に例えても反伝統的なスタンスな一面も( 個個に信心はあれど、信仰として探勝ではない )。

そして西欧化の洗礼にアルピニズムが、それが常民に降下( 大衆化 )な過程に低山趣味が派生。

その観光的でもある低山志向も含めて昭和初頭にハイキング的な概念が広まる=いわば公平化でも。

( 低山趣味ママがハイキングに転じたのでなく、キャパの広いハイキング側に飲み込まれた、と認識 )

その時期が、前回&今回説明なように昭和8年前後と見るのが妥当ではないだろうか。

狭義でのハイキングは、それ以前にも。でもそれは概念からして怪しく、少なくとも常民の感覚とは乖離してるだろう。

古くは修験的な彷徨では、主に、それにより修得な法力により常民の救済を行うもので、あくまでも”行”な山行に。

講登山に例えても、初期は家長限定&女人禁と特定な階層に限定、それが身禄入定により常民のものとなるが、それは体制批判でも。

概念的には政治的&宗教的な山行に、その宗教的な面は近代を迎えても継承され、たとえば講での旅ではヘバると”神罰”とみなされた。

たとえそのような宗教的な側面を差し引いても、実は共同体の絆を強めるという意図が明かにも=慣習からの自立とは言い難い。

( 六根清浄などの単純なフレーズを繰り返し唱え、全員が同じ行動をともにするというのは、典型的な統制=洗脳手段 )

そんなデモクラシー以前の徒歩旅は、後のお気楽なハイキングとは同列には語れないだろう。

デモクラシー以降でも、探勝に山水とは、ズバリ言ってハイキング行為だが、インフラ未整備な当時はそういうもの。

ではその概念を現代的に解釈では、至って普通な観光に。探勝はディスカバージャパンにアンノンの元祖的ともなるだろう。

( かの”霧の旅会”にも例えても、当初の規約などを参照でも、お気楽ハイクとは、まだ言い難いのでは? )

これは山サイの起こりにも通じるが、上辺( 外観 )のみでのジャッジは危うい。肝心な概念としては如何に、が、問われるので。

追記。

大正期、休日が定まったとはいえ隔週、日曜休みは月2回=毎週ではない。

あと、その制度以前、不定期な休みでも、常民レベルでの長期的な旅行は可能だった。

まだ鉄道もない時代、温泉旅行なケースでは、たとえば都内から箱根までの距離感は、平均4日( 健脚で3日 )=往復のみで8日間。

慣例な逗留湯治というスタイルでは、3日また一週間の湯治で考えると、全行程は11日または15日間に。

却って、今のほうが旅行理由に10日前後もの休暇は…

そこで留意は、当時、定休日の慣例化&インフラ整備などにより、自ずと、日帰り&一泊という新たな旅のスタイルが派生。

そして前述の、いわばプロレタリアートによるハイキング時代が到来、と、ループするが、歴史総体に鑑みるほど、昭和8年前後にハイキングがブレイクな歴史の必然性が。

( 昭和7年の登山者VSハイカーもアウトドアレジャーのブレイクにおいて、いわば起こるべくして起こった事件かと )

余談で、オルタナティブ[alternative]は、そもそもは自動車用語的。ある種の自動車に対する形容詞として使われたのがメディアでは初出( 記録が残されてる )。

関連のある記事: 高尾山年表( 近代インフラ編 )前編

高尾山年表( 近代インフラ編 )前編

時系列もポイント、とりあえず近現代に特化な年表のUP。

以下、高尾山インフラ年表、バイアスに抜粋( 帝都史観 )。

まず、近世には甲州道中-小名路ルートが高尾山まで通じていた。

明治4年( 1871年 )、国内旅行自由化( すでに関所は廃止 )。

ただし、すでに江戸期、国内旅行は成熟化していた。これは世界的にも稀とされている。

明治6年( 1873年 )、高尾エリアに人力車が。

この以前にも人力車は存在、でもそれは個人所有( 営業用ではない )。

明治11年( 1878年 )、高尾エリアに乗合馬車が。

明治12年( 1879年 )、高尾エリアでは初の自転車所有者が。

同年、高尾エリアに初の電柱( 電信線 )。

明治13年( 1880年 )、御巡幸に備え甲州道中の整備、路面に白砂が敷かれる。

明治15年( 1882年 )、このころ層雲閣の前身ともなる小屋が建てられたようだ( 正確には不明 )。

明治21年( 1888年 )、甲州街道が開通( 初期の大垂水峠ルート、未舗装路 )。

整える目的もソリッドな馬車に牛車用( 空気入りタイヤは、まだポピュラーではない )。

国内に自動車はなく、公的な交通では人力車に乗合馬車、そして蒸気機関車が主役。

( もしかすると山籠もまだ現役? )

infrastructure

画像、大垂水峠の由来ともなる滝。大タルミの”タルミ”は「万葉集」にもあるように”滝”の意味。

撮影時期不明( 早くとも明治33年以降 )、おそらく明治-大正に甲州街道の開通後かと。

( これは当時の版、オリジナルプリントを所有しています。ちなみに撮影は神宮写真館によるもの、この写真館は横山町に現存 )

明治22年( 1889年 )、八王子駅が開業( 国鉄の前身 )。

明治27年( 1894年 )、全国版時刻表( 全国版は初=旅の利便性UP )。

明治30年ころ( 1897年 )、高尾エリアにも自転車の普及が云々と郷土史に。

広義で、パイオニア期は終焉に向かい、そしてベテラン期にかかる。

明治33年( 1900年 )、富士山DH。山頂まで自転車を上げたかは不明、乗車は七合目から御殿場に。

( まだ山サイの元祖とは言い難い=後述 )

明治34年( 1901年 )、小仏トンネル開通&浅川駅が開業( 高尾駅の前身 )。

この以前、高尾山までは八王子から徒歩がポピュラー。

このころ自転車用の”草鞋”が発売されていた( 昔ながらの”ワラジ”とゴムとのハイブリッド? )。

他にも自転車用パンツなど=すでに自転車用アパレルの展開が、そこに留意。

明治35年( 1902年 )、高尾エリアで自転車レース開催( 空き地利用=トラックはダート )。

明治37年( 1904年 )、日露勃発。

明治38年( 1905年 )、日露終結。

同年、日本山岳会設立。近代的な登山の幕開けともなるが、フェイスバリューのママに登山。

( この時点では登山旅行団体に近い。ちなみに国内では、まだ”岩”に”沢”などクライミング系は邪道とされた )

明治39年( 1906年 )、大阪探勝ワラジ会創立( 近代団体登山の元祖 )。探勝に留意、いわゆる”山水”志向かと。

( 山水=自然を愛でる旅での再発見 )

明治40年( 1907年 )、富士山でのサイクリング( 石川賢治=後の丸石自転車 )。

ルートは御殿場-馬返し( 旧? )-四合目-御殿場で、新たに入手な自転車のテストラン。ライト・ロードスター系?

( その他詳細不明。これを初の山サイと捉えるかは保留 )

同年、高尾エリアでは初めて自動車( 乗用車? )が目撃された。

このころから電灯( 電気 )が一般化、それまでは石油ランプ。

( 先立ち、小名路の”花屋”のみは電灯を使用とのこと=摺差の水力発電 )

明治41年( 1908年 )、徐々にではあるが、自動車の目撃談が増える。

同年、高尾エリアでは初めて自動自転車=モーターサイクルの一種が目撃された。

( ちなみに”自動自転車”が”オートバ”になり、そして”オートバイ”になったという証言も )

同年、高尾エリアで自転車レース開催、2回目。

このころ八王子最深部のエリアでは、村に自転車16台とのこと。

明治43年( 1910年 )3月、柳田國男が”峠会”なる概念を提起(「峠に関する二、三の考察」)。

ここに、峠行に特化な、いわゆる”パスハンティング”的な静観の山行のスタイルが提唱( 仮 )。

静観派パスハンターにおいては、ここがスタートに。つまり柳田翁が始祖、と、私の史観は。

( その静観とは、これまでにも説明、そもそも日本的な山行とは”静”とされている。が、動と静とは一対でもある=二元論ではない )

ただし自転車云々ではない、峠を主題とする、な、そこ、その概念において。

狭義で? エドワード期の終焉。そして御存知ヴィンテージに。

・大正時代にかかる。

このころ、五日市エリアで自転車レース開催( 東京府外でもレースはポピュラー化? 依然、ダートトラック )。

時期不明に、この後にも五日市エリアでのローカルレースは開催されている。

また都市部ではアスファルト舗装も進んでいたが、初期の乳剤道路で評判はよろしくない。

( 古い文献に「ペーブ[pave]された道云々は、この初期の舗装路でしょう )

大正3年( 1914年 )6月、WWI勃発。

同年7月、菅沼達太郎が自転車で山岳地帯走行。天竜川水系の三峰川エリア=南アルプス。

今に通じる山サイの起こりは、このころに派生? 関東寄りの史観で、仮として、この件が初かと。

( デモクラシーをふまえ、夏休みのアドベンチャー=プライベーターの山岳走行な点に留意。しかも先の富士山とは異なり、嶮峻な山道での走行 )

・このころが”山サイ”の最初期と仮定。

同年、ハイキング系団体の”アルカウ会”創立( 関西主導 )。そのオルグが盛んに。

このころ以降、木下杢太郎によるアーバンランドスケープ論=都市美の発見( 近代モダン )。

大正4年( 1915年 )、このころ、いわゆるアルピニズムの勃興、山岳部主導。

( 西欧的登山思想の広まり=ターニングポイントとされるそうだが、アルピニズムは門外漢 )

大正6年( 1917年 )、八王子城山開山。

同年、紫陽道人「山岳旅行秘訣」。日本初の登山の実用書・技術書。

( アルピニズムとは異種な、いわば日本式近代登山の指南書 )

大正7年( 1918年 )、WWI終結。

大正8年( 1919年 )、国際労働機関云々を経て、このころから休日制度が普及。

( この普及がなければ、常民レベルでのアウトドア活動の発展は遅れただろう )

そして、いかに休日を過ごすかな提起が=レクリエーションな概念の広まり。

同年3月、ハイキング系団体の”霧の旅会”創立( その経緯は最初期の「山と溪谷」に詳しい。ただ、帝都においての低山趣味系では”東京野歩路会”が最古かと )。

このころ南高尾&北津久井が新たな観光地として注目された? ホテル建設の計画書が出されてる。

層雲閣ではない、すでにあった。びっくりしたのは、あそこまで人力車も行ってたんです。

( 層雲閣は最初からあった。そもそも甲州街道の工事のために建てられた山荘、後にホテルに改装 )

またこのころ、八王子市( エリアが今一つ判然としない )では、自動車約5台、自動自転車( モーターサイクルの一種 )約32台、人力車約179台、自転車約3252台。

おそらく登録台数、それで自転車に例えると鑑札逃れも( 郷土史によると、わりと横行? )、であるからさらに台数は多いかと。

大正10年( 1921年 )、槙有恒、アイガー東山稜を初登攀。登山ブームの一大要因。

またこのころ、パイオニア期は終焉を迎えたという登山史観がちらほらと。

( アルパイン系は門外漢、詳しくは専門書を参照していただければ )

同年、帝都サイドにも”東京アルカウ会”が創立( 日本旅行文化協会の礎 )。

留意は、この以前( 明治-大正 )より”山水趣味”また”新山水”とされる紀行のムーブメントが( 文学的なニュアンスをふまえる )。

大正12年( 1923年 )9月、震災。

同年、八王子エリアに乗合自動車( 八王子駅-追分のバス路線、後に高尾山下まで )。

大正13年( 1924年 )、高尾エリアに乗合自動車( 浅川駅にバス路線、と解釈 )。

大正14年( 1925年 )、浅川駅にタクシー認可( 最初期は2台 )。

大正15年( 1926年 )、鞍骨新道が開通( 現在の陣馬街道の一部、依然、砂利舗装 )。

この大正末にかけて、案内図に自動車が描かれるように&かの”層雲閣”も広告を。

大垂水峠エリアの自動車利用での観光地化もポピュラーに( 山里でのモータリゼーションの幕開け )、と解釈。

同時期、各種遊覧券が( 周遊切符の登場 )、また”オートキャンプ”という概念の紹介も、これは官主導。

旅のメディアが近代的によりポピュラーに( 冊子発行など )、それでこれはWWI後&震災後の景気回復策でも。

( レジャーでの節目=マス化には、その都度、このような手ごろなプランの登場&ガイド誌の発行が )

この変化では、それまでの情緒&詩的趣味に傾倒な旅の紹介から、よりマニュアル的なガイド案内などなど。

・昭和時代にかかる。

昭和2年( 1927年 )1月、清滝駅が開業( 関東エリアでは初のケーブルカー )。

この登場で、水垢離が衰退との史観が。山そのものが信仰の当体、入山に際し、まず水垢離が正式な所作。

そのために清滝が、また聖と俗との境界として古くはあそこには鳥居も存在。

( では、垢離取場がない時は、それはそれで古神道では別の作法が )

同年2月、東浅川駅の開設( 皇室専用 )。

なによりも大正15年=昭和元年( 1926年 )の崩御、そして高尾エリアは新たな時代を迎えた。

御陵にまつわりインフラが整備され、新たな案内書も多種発行、そしてホワイト化も。

それと、この時期、新宿から高尾山までのツアーバスが運行されても。

同年、追分-浅川間の甲州街道拡張( 完成は昭和4年 )。

ちなみに同年、京王閣がオープン。当初は、いわばディズニーランド=巨大なレジャー施設。

昭和3年( 1928年 )、東京近郊遊覧地展覧会( レジャー&日帰り旅にまつわるプレゼン大会 )。

昭和4年( 1929年 )、武中電車が開業、追分-浅川駅間( 路面電車、ちなみに京王線も最初期は路面電車 )。

同年、八王子城山保勝会の始動=高尾エリアの景観保護&観光地化運動。

( 城山-御陵-高尾山を一体とする、いわゆる東京府民公園計画 )

同年10月、世界恐慌。

このころ( 大正末よりの流れとして )、アルピニズムに対するdisも、平たくは「こまけぇこたぁいいんだよ! な。

プロレタリアートは( 意訳で )休日を活用な山行が唯一の楽しみ、そこに専門家の「登山とは! な、講釈は不要と。

そして、ここに常民主導な( 暮らしに根ざしたスタイルの )低山登山が広まる=低山趣味とされる。

( 前述の山水系ブームにも留意、それを発端とし、ここで新たなブレイクか? )

これポイントで、登山の大衆化は大正期にも、でもそれは主にアルピニズム云々をふまえたアドベンチャー志向かと。

ここでのムーブメントは、より現在的な、近郊の山でのお気楽ハイクなイメージに近いのだと思います。

それにまつわり山岳論争も、が、古典的な山岳書では度々説かれているように、山行に決まったスタイルなどないのです。

( 山サイも同様に、パスハンはこうあるべき! など、それが二元論的な発想であるならば、近代合理主義の悪しき影響 )

ここ重要なので後述します。

昭和5年( 1930年 )、武中電車、高尾橋まで延長( 浅川駅と高尾山が繋がる )。

同年、翌年にかけて、昭和恐慌で景気が最悪に。

同年、菅沼達太郎による山行での都市エスケープ論。

( この以前、すでに大正期には都市の雑踏が煩わしいという世評も )

このころから甲州街道の拡張工事が、それまでは道路幅約9mで未舗装、いわゆる歩道部分なし。

( 先に八王子エリアの拡張は大喪にも留意 )

広義で、ヴィンテージ期は終焉、クラシック期にかかるがPVTにも留意。

昭和6年( 1931年 )、御陵前駅が開業( 京王線の前身 )。

同年6月、登山家の田部重治「峠あるき」。この「峠あるき」にて、日本は”峠の国”であるという提起。

( 山国云々は多々あれど、峠国とは言い得て妙かと )

ちなみにこの年、古賀政男作曲「丘を越えて( ピクニック )」が、その”丘”とは多摩丘陵。

( 多摩丘陵エリアは”東京高原”とされていた、乱開発により面影もないが…)

昭和7年( 1932年 )、武中電車、八王子まで延長( 八王子駅と高尾山が繋がる )。

同年、コンサバな登山者と、近現代的なハイカーとの間で衝突が。

( アウトドアレジャーのマス化における象徴的な出来事では? )

昭和8年( 1933年 )、八王子山岳会の結成。

このころ高尾での、いわゆるハイキング時代到来。

( おおまかには、各地でのハイキングブーム=マス化はこのころに )

昭和10年( 1933年 )、八王子城跡&滝山城址跡など東京府史蹟に指定。

同年、陣馬山ヒュッテ開設。

昭和11年( 1936年 )、菅沼達太郎「走るハイキング」この”走る”は=自転車。

同年6月、鮫陵源が開園。南多摩郡( 現東平山付近 )に存在した遊園地。

・このころが”山サイ”の初期になるでしょう。

昭和12年( 1937年 )、事変。総力体制に入る。

昭和13年( 1938年 )、厚生運動の奨励=強兵も見据え。そして国家総動員に。

このころ、ワンデルングなハイキングとしてのサイクリングが提唱。

意訳すると、自転車の活用によりハイキングのフィールドがより広がる( と解釈 )。

これは五十嵐文次氏によるもので、おそらくハイカー兼サイクリスト、後の多摩の郷土史家?

( wandering=彷徨に逍遥、転じてハイキング。ただ、この言葉がポピュラーとなるこの時期は独式wanderungで、きな臭いニュアンスも )

留意は、黎明期、ハイキングと郊外サイクリングとはクロスオーバー的にも語られていた。

昭和14年( 1939年 )、武中電車の休止、そして廃止に。赤字路線であったようだ。

このころ、甲州街道は大垂水峠まで舗装( 以下、舗装の文字略 )。青梅街道は氷川( 奥多摩町 )まで。五日市街道は五日市まで。

所沢街道は所沢まで。中山道は高崎市まで。奥州街道は草加の先は狭くなるが、春日部市付近まで。

陸前浜街道( 国道6号 )は松戸市まで。千葉街道( 国道14号 )は千葉市まで。川越街道は川越市まで舗装とのこと。

その他割愛。

( これ当時、菅沼御大が都心起点のサイクリングでの、各主要幹線路の様相をレポしてるんです )

昭和15年( 1940年 )、天野金吉氏による奥高尾-高尾山にて自転車での走行。これも先の御大同様、嶮峻な山道。

( 都心在住のハイカー兼サイクリストのようで、この時点ですでに度々、高尾エリアを走っていたようです=ルーファイがマニアック )

同年、主に鉄道利用に関して旅行規制が( 徐々に厳しく )。

・ここまでがWWII前( Pearl湾は1941年の12月、そして決戦体制に )。

昭和17年( 1942年 )4月、USドーリットルによる関東空爆。

同年6月、ミッドウェー( ターニングポイント )。

昭和19年( 1944年 )2月、決戦非常措置に。さらなる旅行規制( より厳しく )。

同年6月、帝都エリア、徐々に警戒警報の回数が増す( 年末には毎日かのように )。

ちなみに同年10月、自転車徴発( ただし西欧での話 )。平たくは、自転車没収で、つまり最初に自転車を禁じたのはヒトラー=Nazi!

昭和20年( 1945年 )1月、京王御陵線の休止、そして廃止に。

同年3月、USによる帝都空爆。

同年8月、USによる湯の花トンネル&後の高尾山口駅エリア空爆、たとえば”花屋”と”有喜堂”は被災。

( 留意は、すでに制空権を失っていた )

・戦後( 調印は1945年9月2日 )。

昭和22年( 1947年 )。知る限りでは、層雲閣の記録はこの年が最後。

昭和25年( 1950年 )、半島勃発。

同年、都立自然公園を設定。

昭和26年( 1951年 )、八王子城跡を国史跡に指定。

( ここに、先の城山保勝会の方々の活動が報われる )

同年、野田宇太郎による「文学散歩」がスタート。

昭和28年( 1953年 )、半島終結。

同年、文学散歩のムーブメント( 元祖ディスカバージャパンに相当 )。

昭和30年( 1955年 )、VNM勃発。

昭和31年( 1956年 )、サイクリングブーム到来。

同年8月、北アルプス乗鞍岳に自転車登山( 鳥山新一チーム )。

この件は女性陣もアタック( 鳥山夫人など女子4名 )。アップハンドルのおそらくミキスト系の650Bで、登りローでギア比1.33。

( 光風自転車ケンコー号の試作車とのこと。これは”日本アルプスサイクリング実行委員会”のサポートによるもの )

・このころ、50年代中期に”山サイ”はポピュラー化。留意は、ツーリズムの派生に。

当時、峠越えは”クライミング”と称されていた( またヒリィ[Hilly Run]とも )。

そして山岳系パスハンターの原型となる”アルペン・サイクリング”なスタイルも派生。

( いわば分派? いずれにせよ概念としても、これは後のパスハンターとほぼ同意義 )

それと依然、山岳エリアの峠越えは( 主要な幹線を除けば )未舗装にダート。

( 甲州街道でも、依然、大垂水峠の先は未舗装 )

たとえば和田峠( 案下峠 )は全線ダート。案下道は熟練者コース( 乗車で下るのを躊躇うほどに荒れてたそうで、もしかして依然、佐野川往還の名残ママ? )。

ちなみに峠の表裏で”案下峠”or”和田峠”ですが( 旧峠は別に )、なぜに地図上の表記が和田峠かは?

実は、偶然、たまたま。これマジな話、特に思慮もなく和田峠案が採用された。

昭和33年( 1958年 )、アジア五輪での自転車レース。

コースは八王子八幡町-日野橋-立川-拝島橋-八王子明神町で、約25km。

昭和35年( 1960年 )、この60年にかけて高度経済成長に、東京の街並み&生活様式が激変。

( 復興から50年代末まで、少なくとも都心部では、ライフスタイルに大きな変化はなかったとされている )

昭和37年( 1962年 )、サイクリング少年団=官主導にジュニア層の育成。

このころ、サイクリングに対する一般的な認識は、たとえばJKがツーリズムなど、とんでもない、な、理解の低さ。

昭和38年( 1963年 )、北アルプス乗鞍岳に自転車登山( 岐阜CC )。これ、ランドナーにフル積載で自走。

前48T、登りローで23T=ギア比2.09は、ママさん自転車よりやや軽い程度? 健脚ですなぁ。

あと、先の鳥山チームのように”日本アルプスサイクリング実行委員会”のようなサポート体制があったわけではないようで、その意味ではよりワイルド。

( 乗鞍には他の自転車乗りもアタックしてるんですが、この件はハイカーにも付言されていたので )

同年、八王子エリアにて自転車クロスカントリーレース( 登山道も活用 )。

余談で、かの地( FR )ではすでに1900年代初頭に”シクロクロス”的なスタイルの原型が。

( 軍事教練としても広まったCX、諸国の銀輪部隊はシクロクロスの派生になるだろう )

このころの自転車レース、たとえば種目に”パン喰い競争”など、と、バリエーションに富む。

昭和39年( 1964年 )、五輪。自転車競技では八王子エリアが舞台( 陵南公園にモニュメントが )。

トラック競技の行われた八王子自転車競技場は、古くは浅川沿いの空き地。

それで明治35年と41年の自転車レースも、ここで( 空き地時代に )行われたのではという史観が( 正確には不明 )。

昭和42年( 1967年 )、高尾山口駅が開業( 京王線 )。

同年、サイクリングブーム到来( 第二次 )。

60年代はここまでとして、後編につづきます。

高尾山にまつわる留意は、高尾エリアでのハイキングと山サイの歴史には、実は、大した差はない。

これ、意外にもですが、実用に普及な自転車=必然性な歴史が。その点、近代という枠で括ると、ハイキングよりも古い。

( 少なくとも山道の通過においては、自転車での歴史が先、それはハイカー登場以前のこと )

また60年代末から70年代にかけても、自転車誌では、奥高尾でのサイクリングは紹介されてる。

このころそれは、わりと普通な感覚かと、山サイ入門的な。ただし、ランドナー的車体での通過。

( アグレッシブな面はあれど、依然、主にはツーリズムの派生的な )

また前述のように、50年代半ばには山岳サイクリングは慣例化。それは今にも通じるもので、「担ぐ」という表現も使われてます。

先に乗鞍の件で光風自転車にふれましたが、50年代の光風の広告でも、すでに山で担いでます。

( 留意は、高度経済成長以前、山里では主要な道路を外れると依然、未舗装がデフォ。その峠越えなサイクリングを現代的に解釈では、ほぼほぼ山岳ダート系に )

補足1。

参考に古い銅版刷地図もUP( 注・上が南、高尾山は右方向 )。

infrastructure2

( 無銘に作成者などの表記なし、精密に正確ですが縮尺表記もなし )

太い路線は中央本線、左下側に見切れるのは御陵線と御陵前駅、その右側に御陵が。御陵の上側に浅川駅。御陵前駅の上側には東浅川駅。

中間に流れるのは甲州街道、その甲州街道上の線が武中電車。

京王の高尾線はまだ存在しない、武中電車は高尾橋まで。そのため昭和5年ころから昭和14年までに作製されたものと思われます。

ちなみに武中電車の浅川駅は、現在の国道20号、都心方向から高尾駅側に入る交差点手前、20号沿いに”7-11″が、その正面。

また甲州街道の両側、一面の桑畑がわかるかと( 今は、ほぼ全て住宅地に )。

補足2。

ここでのハイキングの定義とブレイク期について。

定義では、たとえば標高&距離&速度、そして難易度も関係ない=二元論的ではない。

では、なにを定義的に置くかというと、常民( 大衆 )による主に徒歩によるアウトドアレジャー。

( 近代化での信仰との断絶はあれど、そこはクロスオーバーも=ハイカーが無信心とは限らない )

ブレイク期では、たとえばハイカー人口( 人数 )の話ではない。では、その線引き、見極めは…

まず大正-昭和にかけて、富裕層もしくは中間層の娯楽としてのレジャーが( スノッブ的な )。

それが昭和8年前後には常民( 大衆、仮にプロレタリアートとして )にも広まる、という公平化の時期、そこだと思う。

なぜにそこに着眼は、それも近代化とされる現象だから。

ある階級層に限定な趣味が( 柳田翁は「成金云々とdisしてる )、やがて誰もが気軽に楽しめるものに。

( 当時はマルキシズム全盛期にも留意 )

それこそがレジャーにおいて、近代化の目指すところではあるまいか。

( ただし、誰もが気軽に=行楽地の俗化をも招くが… また結果的には伝統的価値観は崩壊していく )

これはサイクリングにも通じる面があるでしょう、そのような点に鑑み明治33年の件は山サイとしては除外。

( 単独に担ぎならともかく、強力に頼る大名登山。またダートの激坂を下れば、なんでも山サイなわけでもないかと )

追記。

勃発を加えたのは景気&旅行規制&物資統制に関係するため。

自転車にまつわる歴史&その他繰り返し語られている出来事は割愛。

あと、抜けてる点も、そこはパスハン編にまとめます。

その1: 自転車登山に山サイ
その2: 戦前のサイクリング
その3: 自転車に大道無門
その4: 山旅と古道な幹線道路
その6: クライミングにパスハンター
その7: 初めて物語( パスハンターの巻 )
その8: アルペンサイクリング

関連のある記事: オルタナティブな高尾山
不要不急にダブルスタンダード

山旅と古道な幹線道路

最初、概略的に、国内の山岳系サイクリングには100年ほどの歴史があるのではと。

次、であるならば、まず自転車そのものが相応に普及してないとおかしいので、その確認。

そして前回、山岳系云々の派生において、郊外でのサイクリングにおいての線引き。

インフラ未整備な当初、山里では、町道と山にかかる道との明確な区別はなかったはず、な、提起を。

今回、その道そのものに( コンディションに )関する補足です。

ここを押さえておかないと、サイクリングの延長に、自然と( 自ずと )山に入るという所作の整合性に欠けるため。

( 留意は、山相と自転車そのものに大きな変化はなく、でも、それを取り巻くインフラに生活様式は激変 )

ところで前回、東京府外はダート的と(“rough road”未満に”dirt track”な未舗装路 )、それはエリアにも。

大正期の多摩地区は”東京の北海道”と揶揄されも、しかし桑都として繁栄に横浜( 輸出港 )とはダイレクトに通じてた八王子は相応にインフラ化も。

また古甲州道が通じ、古くから民権運動も盛んな五日市は文化的にも進歩的なエリア。都心部から距離=遅れてるとは限らない。

( 明治末の五日市では、大日本双輪倶楽部の競走会に備え、自転車の走行練習をしてたという証言も郷土史に )

却って、今は23区内でも、かつては片田舎的なエリアも。

たとえば国木田独歩の”武蔵野”とは現在の渋谷NHK付近( 江戸前の感覚では”渋谷”は東京ではない )。

都心寄りでも、明治中期の旧三崎町エリア( 現在の水道橋駅の南 )には”追剥”が出たと岡本綺堂の随筆には。

環状七号エリアでは、震災後の馬込文士村も著名に( 大田区 )、郊外の別荘地とされていた。

環状八号エリアでは、石神井公園( 練馬区 )にはサンカの”セブリ”があったという証言も残されてるほど。

近郊では、戦後にかけての多摩丘陵( 開発以前 )は”東京高原”とされていたほどに牧歌的。

( 特に夕暮れての帝都は、昭和初頭に乱歩が描いたように、まるで怪人二十面相が暗躍するかのような空気に満ちていた、そしてそのような暗闇=陰翳の存在が本来の東京の魅力でもあった )

話を戻して、昨今の整備された幹線道路も、昔は未舗装に荒れてたという前回の話。

その逆、すでに役割を終えて放置に近いが、でも昔は往来も盛んだった道中の名残を。

thoroughfare

1.甲州道中( 近世。否、要害なので中世 )、近年の様子。当時は峠越えの要衝としても賑わいが。

今は廃道に荒れて、訪れるのは古道マニアに歴史派の好事家のみでしょう。

それでもここは都内に現存の甲州道中上では、おそらく唯一、近世ママに近い様相が保たれてる。


2.旧案下道( 古道 )、近年の様子。大正期ころまでは( 新道が整うまでは )往来も相応に。

( このエリアは新甲州街道=国道20号の候補地でもあった )

が、すでにその面影もなく。今となっては、よほどのマニアでもない限り訪れないかと…

3.南多摩郡から桧原また五日市に抜ける峠道( 1840年、江戸期に置かれた道標が )、近年の様子。

養蚕が盛んなころには通勤ルートでもあったが、今では低山バリエーションルート化。

幸い、多少は整備されているようで、好事家のハイカーには踏まれているようです。

極例のようで、前述のように、近代にもポピュラーな通勤路の一つ。

4.刈寄道、古甲州道と案下道との間道( 昔のバイパス )、近年の様子。

商用ルートとしてのみでなく、修験も歩んだ古い道で、まだ当時の面影がいくらかは…

ここも幸い、整備はされているようで、好事家のハイカーには踏まれているのでしょう。

5.日向峰道( 近世 )、いわゆる八王子道に属する峠道、近年の様子。

昔、群道( 準幹線道路 )に昇格な嘆願が=それほどに重視されていた山道。

その願いは叶わず、新道開通後には荒廃化が。しかし現在、その一部区間は整備され、散策路として活用されている。

いずれも古くは道、当時の道路が、なんとか( 主に作業道などに転用で )生き存える。

事情が飲み込めないと、え! ここが!? と、思われるかもだが、昔には主要道だったのです。

つまり山道という言葉はフェイスバリューのママ。まだ新たな概念である登山道のほうが珍しい。

否、アルパインでもない限り、登山専用の山道なんてものはまだなかった( その概念そのものがあるか怪しい )。

観光地化が目覚ましい高尾山に例えても、あの縦走路も、相州と武州とを結ぶ古いバイパスの名残。

( 明治-大正期の物見遊山においても、建前は、主に登拝に遥拝の山、さらには滝療法のメッカ。ハイカーが押し寄せるのは昭和8年ころから )

近代的な道路整備の始まりは、広くは、明治20年代以降とされている。

( その時点では道交法もない。布令は大正8年、ただ、明治期にも車両にまつわる警察令は )

そして山里では、大正期にも、新道が開通と言っても砂利舗装なダート道。

近代を迎えてもインフラ未整備な郊外では、画像にあるような道を普通に通っていた( 他に選択肢がない )。

泉鏡花が「高野聖」に描いた如く、参謀本部編纂の地図を頼りにバイパスで抜けようと思えば、自ずと…

自転車も然り、草創期にサイクリング黎明期には、峠越えでは、そのような道も進んでいたでしょう。

( 具体的には前回に紹介な、菅沼氏の小沢峠越えなど )

総括( 仮 )。

今回、昔の幹線道路は、今見れば、山道としか… な、実例を。

そこ、そもそも”旅”と”登山”とは同義で、移動での峠越えがデフォなこの国では、旅=登山だったのです。

( 現代においても”道中”なる言葉が慣用は、その名残でしょう )

これは極論なようで、学問的にも定説的な捉え方。今、旅行には様々な形態が、その根源はほぼ全て登山とされている。

( 古くは無論、そんな言葉も概念もなく、遡り適応させればということ )

昨今( MTB云々以来 )、たとえば「登山道に自転車なんて! と揶揄されますが…

およそ明治半ば-大正-昭和( 70年代初頭 )には、今は登山道とみなされる山の峠道を、日常的に自転車でも。

( エリアにもよる、都内山里では主に低山の鞍部通過がポピュラーかと )

その理由の一つは、インフラ草創期、常民レベルで所有が可能に、相応の距離を移動&荷物が運べる乗り物は自転車しかなく。

( 明治-戦前の自転車の普及には、そのような必然性が )

故に、山里エリアでは、画像にあるような道を通ってないと( 他に選択肢がない当時 )、逆に、おかしいんです。

以前、高尾山での自転車参拝を紹介、それも当時には、それにより( 自転車派の受け入れで )信仰圏の拡大に繋がる。

( 郷土史にも、他県からの集団走行による参拝が多かった、な、証言が )

そのように自転車で山に向かうのにも歴史&理由が( 相応に整合性が )。

ただそれは、まず戦後復興期まで、そして復興から高度経済成長と、大きくは二分されるでしょう。

復興期までは、やむ無く・他の選択肢に乏しい( 生活派 )。高度経済成長では、レジャーで( 趣味派 )。

生活派は当然の如くに山道を通過するとして、趣味派の峠越えでは、当時は、やはり山道を利用するしかなく。

趣味自体の整合性はともかく、山国での自転車旅行とはそういうものだった、としか…

以前から述べてるように、自然派生に、なぜか峠に魅せられるサイクリスト( ツーリズム )は後を絶たなかった。

60-70年代初頭の山岳エリアでの記録にも顕著なように、ランドナー的な車体で山道を進むのはポピュラーだった。

しかしまあ、そこも多種多様、動的な走行重視派、静的な山水派、そして探検目的なアドベンチャー派など。

つづきます。

補足。

自転車での山道走行の正当化を図るつもりは、さらさらない。

昔には、そういうものではないですか、お忘れですか? な、話です。

その1: 自転車登山に山サイ
その2: 戦前のサイクリング
その3: 自転車に大道無門
その5: 高尾山年表( 近代インフラ編 )前編
その6: クライミングにパスハンター
その7: 初めて物語( パスハンターの巻 )
その8: アルペンサイクリング

自転車に大道無門

今となっては「道」そのもの、道路の変貌が最も理解し難いかも?

( アプローチでの、では、どこからが山か? な、提起… 以下云々 )

たとえば、大正期の甲州街道では…

かの和田文平氏が大正10年ころ( 1921年前後 )を回想に、甲州街道でのサイクリングでは、砂利道は当然に自動車も走ってない( ほぼ見かけない、の意味かと )云々。

( その和田氏の住まいは旧日本橋区=江戸の中心。そして当時、和装=着物でサイクリングがデフォだったようです )

初台のあたりから先は、建物も、まばらとのことで、これは現在の西新宿エリアの様相と思われます。

大正初頭の西新宿エリアには牧場もあったそうで、甲州街道を、依然、牛に馬も歩んでいたそうです。

昭和にかかり、初頭、都心エリアで、やはり甲州街道に例えると、新宿を出れば、あとはひたすら未舗装路が。

( 拡張整備が始まるのは昭和5年ころから。それまでの道幅は約5間=約9mほど )

それでも甲州街道の舗装化は急ピッチに、戦前には、都下はほぼ舗装されていたようだ。

( 青梅街道では、昭和5年ころに北多摩郡の田無エリアまでは舗装との証言が )

WWII当初( 昭和14年ころ )の郊外、たとえば所沢では「町の中だけ舗装」という証言も。

( この舗装は、おそらく初期の乳剤道路かと。であればコンディションに応じて砂利をまいたりと、今のアスファルト舗装とはやや異なる点に留意 )

戦後にも、帝都下でさえ、主要な道路を外れると未舗装に地道か砂利道( 砕石 )。

里山エリアにおいては、都下の甲州道中( 旧 )でも、依然、博労渡世も( 1930年代は末期 )。

未舗装は当然に、路上には牛糞が散乱という記録も郷土史には( まあ当時はそういうものかと )。

舗装路が絶えて山道にかかるのでなく、未舗装路な裏街道を走り、いわば大道無門に山にかかる。

未舗装か舗装かを山と里との境界とするならば、そんなものはないに等しく。

画像、都道189号線、大正期前後と思われる。現在は拡張され舗装に自動車も、が、昔は、このように馬で往来。

ところで、初めて自転車に乗ったのは60年代、家の周囲は全て砂利道か地道、大通りに出ると舗装路。

( 実家エリアでは、たしか70年代の列島改造論に伴い舗装化が進んだ記憶が )

23区内でも( 繁華地を外れると )60年代にはそれ、大正-戦前の郊外に山岳エリアでは推して知るべし。

しかも今では登山道とされている峠越えに山越えなルートは、その多くは( 行道に登拝道は別、また都内では標高2000m圏内は )元来は生活の道。

故に昔は、登山のための道はなく、純粋に”道”に( 山道には、達路=街道、また連路=間道という俗称も )。

そのような概念は近代にも継承=突如と登山道が出現するわけもなく。登山道云々はアルピニズム以降の概念。

( また”道中”に”街道”とは、そもそも山岳系ルートの呼称=道中とされる時点で、それは山岳エリアをも通過する )

で、山サイ的に峠越えな概念を遡り適応させれば、自転車黎明期の峠越えは実質的にも山サイと言い得るかと。

菅沼御大の記録では、たとえば昭和17年( 1942年=戦中 )に成木の小沢峠を越えてるんですね。

無論、現在のバイパスでなく古い道=道中。そう、山の中。菅沼氏におかれても、登り下りともに押し。

そのように1940年代の峠越えなルートファインディングは、現代的な観点では山サイ的でしょう。

冒頭に戻る。

どこからが山かは、黎明期に始祖連は、おそらく、さほど深い考えは=前述のように境界も曖昧に。

( 古い文献にも「山にかかる」な記述はあるのですが、それ、状況に鑑みれば現代的には、その手前ですでに山…な、感覚にズレが )

戦前では、ざっくり言って、東京府外の丘陵地帯( 現在はニュータウン化 )にかかる時点で山岳地帯的かと。

( 昭和初頭と思われるが、夢野久作が上京の際、横浜線の車窓より望む八王子手前の景観を”大森林”と形容 )

( 昭和中期では、いわゆる多摩丘陵は”東京高原”と呼ばれていた。今は乱開発で、その面影もないが…)

峠を越える=山にかかる=道中での山岳エリアに山道通過は、本来、この山国では普通のこと。

郊外の未舗装に荒地走行ママ、山岳サイクリングな気負いはなく( 多少な自覚はあれど )山に取り付いていたものと思われます。

ただ、戦前のサイクリングが全て山サイ的かというと( 帝都エリアでは )、そんなことはないかと。

そこは関東の地形図を参照していただければ、すると西には山並みが、南には多摩三浦丘陵( イルカ丘陵 )が、そして他の方角には関東平野が広がる。

その西と南での峠越えなルーファイが黎明期の山岳系サイクリングに相当するのではないでしょうか。

つづきます。

補足。

仮にも定義を置かないと、市街地のフラットダートでもなんでも山サイ的に…

多摩丘陵に例えても、そこそこな急坂( ランド坂など )、ルーファイでの標高差約50m。

今、あのエリアを走行しても山サイとは言わない、が、戦前で考えれば山サイ的であろうと。

( アナ・キーゼンホーファーが制した五輪の山岳ルートも、戦前で考えれば山サイだろう )

北西奥に238という古城エリアのダートが。宅地に接し、感覚的に丘、やはり標高差約50m。

でも、そこは今でも山サイかと( 実際、15年ほど前には本格的なMTBをよく見掛けた )。

その手前( より市街地 )の165から194も標高差約50mのルーファイで、ほぼほぼダート。

山とは言い難いがMTB入門的な散策コースとしても知られており、やはり戦前で考えれば…

逆と言うか、南の364は登山道も整備され、ルーファイでの標高差約180mの低山。

でも60-70年代当時には、完全ダートだが、あそこが山とは思ってなかった( アプローチは舗装されてたし、単純に小高い公園と…)。

と、悩むんです。道のコンディションのみでは、なんとも。

( 和田文平氏、また今井彬彦氏の古いレポも、郊外では、ある意味、すべて山系に思えてしまい…)

それで、やはりダート( 悪路 )に峠( コル )なルーファイで、なおかつ山岳サイクリングな自覚がある、が定義的かと。

でないと前述のように、特に明治に大正では、どこまで含めて良いものか…

しかし最初期、無自覚にも自転車で山に入ってた一般的な峠越えの記録に最も惹かれても。

( 先鋭的な登攀のアルピニストに、車体では西欧製ヴィンテージなど、そんな極端な事物よりも、暮らしに根ざした感覚が知りたい )

そこで、先の定義( 仮 )に合わせ、昨今の山サイ的な概念を遡り適応で、明らかに山岳系サイクリングであろう、な、点も見極めかと。

逆も、当時は山岳系サイクリングな自覚はあれど、昨今の概念に鑑み、それ違うだろう、は、除外。

( とにかくここではサイクリング初めて物語でなく、山岳系にのみ提起、しかも帝都寄りな推考 )

補足。

UPの古い写真は当時の版、オリジナルプリントを所有しています。

追記。

古くは境界にもふれておくと、明確的なエリアも。検地は盛ん、それは年貢にも関係&御林にも留意。

近世以前、そもそも山は他界。山に入る慣例そのものがなく( 集落管理なマキ山などは別、また御林の管理は麓の村にアウトソーシング )。

道中はともかく、深山の細道を歩むのは信仰上( 修験など )か業務上( 杣など )、はたまた柳田翁が説くように遁世なアウトサイダー。

古くから山に親しむ云々は、それは山里の民限定な話。一種の無法エリアとして、稲作な常民は深くは入らない。

( 市街地での常識に法が通用しないのが山でもあったわけです )

サイクリングに話を戻し、70年代の感覚では登山道を走っても、それは峠越え( 尾根を越えての移動 )ではやむなく、そういうもんかと。

( 先に例えた南の364のように、無自覚に、わりと普通に通過してた )

アドベンチャーな面はあれど、あくまでもサイクリングの延長に遊び、競い合うスポーツ的な走破が目的でなく。

( 実際、それで高尾山に行き、山の中で友達と将棋指したりしてたんです )

追記。

小沢峠は、菅沼氏の記録に倣いパスハンしたことが。昔ママとはいかないが( 相応に整備も )。

それでも依然、山道の峠は、一瞬、ほんとに”こんなとろこ”を? と、疑うほどには山深い。

( 否、パスハン前提では難儀でもない。御大のケースは”普通”にサイクリングでのルーファイで=やはり昔は普通に通過、そういうものだったのでしょう )

私が訪れたのは20年ほど前だが、古い道も現存と思うので、もしも興味があれば…

しかしマイナーな低山であり読図必須。ちなみにKUMAデフォ( あのエリアは出る )。

追記。

御大の峠越え、車体は旅行車、ハンドルはラウターワッサー。前48T、そして後は登りローで21T=ギア比2.29=ママさん自転車と同等。

( 旅行車でロー21Tって、今ではレーサーでさえ… そう、昔のツーリストは健脚! 70年代にはロー28Tでさえ今の乙女ギア的かと…)

ただ、小沢峠では、前述のように登り下りともに押し。乗車で下れるようなコンディションではなかったそうだ。

この峠越えでは、サイクリングシューズよりも登山靴に草鞋が相応しいと述べられてる=山。

( 御存知、ハイカーとしても著名な菅沼氏は登山系アパレルにも造詣が深く、山行では草鞋推奨派 )

余談だが、菅沼氏はサイクリングにもネクタイですよ、洗練されてるんです。

その1: 自転車登山に山サイ
その2: 戦前のサイクリング
その4: 山旅と古道な幹線道路
その5: 高尾山年表( 近代インフラ編 )前編
その6: クライミングにパスハンター
その7: 初めて物語( パスハンターの巻 )
その8: アルペンサイクリング

戦前のサイクリング

黎明期の山岳サイクリングにまつわり、その時代的背景。

自転車そのものは、最初期は輸入品。やがて国産品も登場。広く普及は、おおまかには明治末にかけて。

( 注・東京生まれに東京育ちな視点での史観。他エリアの世事に疎い )

特に日露戦争以後( 1905年- )に普遍化のようだ(「チラホラと見かけるように、な、証言が郷土史に )。

そしてWWI以後( 1918年- )にも普及、さらに震災以後( 1923年 )にも、と、そのようなターニングポイントが。

都内西部では、最初期は主に商人-商家で、それが震災後には農村にも広まったとされている。

そのように明治-大正期は、ほぼほぼ商用車。

でも、最初期は趣味性が高く、商用は稀であろうという黎明期の証言も。

( 趣味性云々は古いオーディナリーで、商用云々はセーフティー型の普及を示すのでしょう )

この相反する史観は、そのスタンスにもよるのでは? 繁華地と郊外との温度差など。

それでも娯楽用に限れば=サイクリングにスポーツ車は富裕層の道楽かと。

1902年( 明治35年 )と1908年(明治41年 )には高尾エリアで、空き地利用にローカルな自転車レースも。

他のエリアでも1910年ころ( 明治と大正との狭間 )には農地・空き地利用にローカルな自転車レースが。

( 定説は明治31年/1898年に上野での”大日本双輪倶楽部”による競走会が初、紹介なケースは東京府外である点に留意 )

菅沼御大など始祖連に例えても、相応に長距離なサイクリング旅( 泊りがけ )にトライされている。

そんな大正期の長距離サイクリング、たとえば他県の峠越えには通行手形が必要だったという記録も… まるで関所?

( 鑑札でなく。所轄に、事前に届け出が必要。街道に検問があったそうで、闇物資の取り締まりだろうか? )

ちなみに昭和にかかり、自転車用リヤカーに側車( サイドカー )も登場、やがて輪タクも( 自転車タクシー )。

この自転車リヤカーにより、いわゆる大八車( 荷車 )は衰退、また輪タクにより人力車も衰退とされてる。

モーター系との兼ね合いでは、戦時には燃料規制も=配給制度=ガスに電力不要な自転車の需要が。

( 郊外・山岳エリアでは牛車また馬車による運搬は戦前ころまでつづいたようだ )

留意は、結果的には、戦により豊かに、自転車も普及という流れが。

( たとえばWWII後の復興=高度経済成長は、なぜに可能? その財源は特需 )

昭和31年( 1956年 )のサイクリングブーム到来に例えても、では、先立ち昭和28年( 1953年 )に半島終戦、そして昭和30年( 1955年 )にVNM勃発が。

話を戻す。昭和初頭には、マニアックな存在ではあるがツーリング派のサイクリストが登場=増加傾向に、と解釈。

( ただ、そのような土壌が整うには、和田文平氏に鳥山新一氏などなど、パイオニアの存在も )

エビデンスは、ランドナー( ツーリズム )の元祖のような人々がアウトドア系雑誌にサイクリング記録の寄稿を始める=昭和8年ころ。

( それに先立ち、大正期、関西方面主導にハイキングのムーブメントが。また震災後には史跡散歩のムーブメントも、これが後のディスカバージャパンに繋がる )

で、そもそも日本は山国、サイクリングにツーリングでの峠越えはデフォ、相応のルーファイでは、否応なしに丘陵地帯もしくは山岳地帯にかかる。

( 端的には、峠を越えないとどこにも行けない。ある意味、パスハンティングせざるを得ない? )

つづきます。

追記。

WWIにふれた、この以降、洋装化も。それまでは和装( 着物 )で自転車がポピュラー、と、そこも、エリア毎な…

( 柳田翁が説くように、和装の作業着は”筒袖”に”細袴”がポピュラーとされていますが、郷土史の証言では、最初期にはスタンダードな和服で乗っていたようです )

この話に限らず、郷土史を紐解くに、地域による、ひらきが大きいんです。

山の手と下町に例えても言葉遣いに生活様式も異なる異文化圏とされた時代=ある意味、今の都内とは別世界。

なんにせよ一括りにはできない、関東全域に通じるものではない、と解釈した。

追記。

なくてはならないものとして自転車は普及( 明治中期以降 )。が、価格は給与1.5か月分。

この価値観は大正-昭和と大差なし( おおまかには )。たとえば昭和初頭、RUDGEの価格135円前後、大卒の初任給50円前後。

( 価格では当時の新聞広告を参照。菅沼御大も初期の実用車について、後年に照らし合わせた価値観で、ほぼ自動車一台と同等の価値と述べられている )

誰もが安易と買えるものでは。大正期の記録から推察するに( 憶測 )、わりと富裕層もしくはマニア限定に、普及云々は狭義では?

でも当時のスナップには相応数の自転車が見切れる( 商家の軒先などに )。また大正期末、国内生産数はおよそ7万台というデータも。

そこはたとえば現代的に、ママに、ご家庭の自動車もしくはモータサイクルに置き換えると、そう矛盾は?

なにが言いたいかというと、文献には自転車増加云々、でも給与1.5か月分な高額品が、そうそう売れる? な、謎。

その実情は… 売れた、爆発的に普及。特に農村に顕著=主に実用に運搬車。その他、通勤に通学用も。

( 繁華に商業地での目安は、昭和初期、5人に1台の割合。ただし全て新車ではない、中古も流通。また購入に際してはローン=月賦の利用にも留意 )

データ参照では、瞬く間に自転車製造大国に。他のカルチャーにも通じるが、日本の近代化は猛スピードに極端( 機械化のみでなく外圧を伴うため )、そこは他国に類を見ない。

明治、最初期の自転車は西欧の輸入品、ところが昭和にかけては逆転、輸出数では西欧を凌駕にまで。

この話… 把握しきれてない。データに乏しいのでなく、逆、掘るほどに出てきてカオス。とにかく国内では自転車が乱造傾向に。

と… 作ればいいと言うものでは、限界が( 飽和状態に )。輸出増にも規制化が( 外圧 )。当然、在庫増にダンピングも。

合わせて、いわばマスプロ量産車が( 趣味性の高い車体はともかく )、いくらなんでも高すぎ=製造コストは如何に? な、提起が。

平たく言えば、ぼったくり反対な消費者運動も( 昭和初頭、日本青年館主導 )。

なぜに乱造は、初期の需要は無論、国産車は利幅が大きく=自転車は儲かる神話に、一種のバブルのようです。

( これがまた、怪しい資料がけっこう、それを真に受けてよいものか? もしも興味があれば、戦前の工業系新聞を調べてみて下さい )

追記。

大正-昭和初頭、すでに相応に普及という点を確認しておきたかったんです。

であれば自ずと、その派生( ここでは、たとえばあえてダート走行などの遊び用途 )に整合性も。

( 高尾エリアでの自転車所有は、確認できたものでは、明治12年/1879年が初 )

戦前と聞くと、時代遅れなイメージを抱かれるかもだが、大正期はモダニズムにデカダンス全盛期。

その風潮( いわゆる大正デモクラシー )は昭和初頭にも継承された、その意味では、今以上に遊びに対してもラジカルなのです。

( 特にカルチャー面では昔が劣ってるとは限らない、昨今のほうが保守的に地味かと )

バナナ云々な与謝野晶子にも(“相対会”での逸話とされている )、デモクラシー期はイケイケ。

追記。

純粋に趣味のサイクリング車の普遍化では、昭和-戦前にかけてではないでしょうか?

ちなみに昭和15年( 1940年 )、菅沼氏同様に国内サイクリング始祖の前田氏( NCTC )は、サイクリング車のジオメトリーについて解説されている。

( 菅沼氏の話を、と、思ってたが、また今度。また前田氏では、かなりの健脚かと=山岳エリアでのコースタイムが速いんです、流石スケート出身 )

その1: 自転車登山に山サイ
その3: 自転車に大道無門
その4: 山旅と古道な幹線道路
その5: 高尾山年表( 近代インフラ編 )前編
その6: クライミングにパスハンター
その7: 初めて物語( パスハンターの巻 )
その8: アルペンサイクリング

自転車登山に山サイ

パスハンターに山サイ云々、最初期は遊びの延長に自然派生ではあるまいか。

ただ、国内の自転車文化そのものが西欧の模倣にスタート、山岳系的サイクリングも西欧が先達だろう。

たとえばツーリング車でのシクロ・アルピニズム( FRA )にパス・ストーム( GBR )などなど、と、かの地では体系化も云々。

そして国内でもサイクル・ハイキングが。国語にトランスレートでは”自転車登山”とも言い得るが、古くは異なる概念。

( サイクリング的な事象は明治期にも、ここで提起は山岳系に特化なスタイルとしての )

戦前、都内西部の山域では、すでに自転車登山のムーブメントが( 記録が残されてる )。

が、これは信仰登山の派生、いわゆる”山サイ”な登山道の走行じゃない。

奥宮を訪れるのに( 登拝 )、山頂直下まで自転車でアプローチ、そしてデポで取り付く。

たとえば大正期と思われる写真には、里側の参道エリアに「自転車御預所」の看板が散見される、あれがそう。

これは明治期以降、自転車は普及、でも鉄道などのインフラは未成熟な当時ならではの合理的スタイル。

高尾エリアでの自転車参拝は昭和初期ころまでつづいたようで、特に大祭に際し、街道には自転車の隊列が云々=パーティを組んで詣でたようだ。

( インフラが整うにつれ信仰派生の自転車登山は自ずと衰退。でも坊ヶ谷戸に例えても駐輪場は現存=名残り? )

以前、富士講でも講釈垂れた、信仰との決別からハイキングがスタートと同様に、新たな自転車活用なハイキングのスタイルが…

( 最初期の自転車登山は登拝目的、対して後年に派生な自転車登山はサイクリングとハイキングの迎合。この信仰と無縁という点が近代化以降のアウトドアレジャーの特色 )

で、国内での山岳系サイクリングは冒頭に述べたように自然派生と思われるが、およそ100年もの歴史も。

その論拠は戦前のサイクリストにより残された記録、高尾山に例えても、すでに戦前、あの縦走路に自転車を上げていたサイクリストが。

( 高尾方面では戦後にも付言すると、60年代、滝山-七曲峠エリアにて登山道も活用な自転車クロスカントリー・レースが催されても )

無論、そのころには”山サイ”という呼称も概念もないだろう。

しかしそのような登山道活用なサイクリングのルートの紹介に鑑み、極少数でも、山岳系的なサイクリストは戦前に存在したのだろう。

( まるで競い合うかのようなスポーツ走行派でなく、サイクリングの延長としての登山道なルートファインディングとしての )

それに合わせて静観派的な人々もいたと思う( サイクリング云々は無自覚に、実用車での峠越え=運搬の都合上または日常的な散策の延長での )。

ちなみにかの中里介山(「大菩薩峠」)も自転車を購入、介山云く「自転車は乗るものにあらず、押すものなり」。

留意は、山に限らず、市街地も未舗装( 地道 )。60年代に例えても、23区内でもマイナーなエリアでは主な道路を除くと未舗装ママ、ジャリ道がデフォ。

( たしか60年代末? また70年代にかけて、さらなる舗装化が行われたような? )

追記。

黎明期のいわば山サイ、活用な自転車車体( フレームなどの様式 )は様々かと。

本格的なスポーツ車はマニア限定に特殊、一般的には軽快車( ライト・ロードスター系? )が主では?

これ、よくわからなくて…

明治-大正と思われる写真を参照では、サイクリスト連は、クラブラン用と思われるモデルが勢揃い。

でも市街地のスナップに見切れるのは実用車系と、その差が顕著( 両極端 )、いわば中間層的な車体は…Hmm

否、マニアックにカタログ的なデータはある。そうではなく、山にまつわる常民の具体的に実例が知りたいのです。

たとえば山里での初期の自転車活用の記録も残されているのですが、そのような暮らしに根ざしたものは極めて少ない。

サイクリスト目線のみでなく( 最初期、娯楽用は、富裕層の道楽なわけで )、可能であれば、一般な常民の感覚での山岳系というものを捉えてみたい。

そこはたとえば行道( 修験 )に山城との相対的な関係はあれど、峠越えの多くは、山里の民により開かれた暮らしの道であり。

ちなみに古い文献に「東京式ハンドル」な文言が散見は、おそらく”ラウターワッサー”なのでしょう。

追記。

最初期の車体と様式などに関しては専門書も参照されたし。体系的な解説では”日本自転車史研究会“のサイトが参考になるでしょう。

( 基本、歴史派、史実的な経緯はともかく、自転車に詳しくなく、またメカにはさほど興味がないんです )

あと総論的な、と言うか全国的に、まるで”みんながそうだった”とするかのような論調に史観は疑うべき。

カルチャーの黎明期において、そんなことありえないから。取り上げた、主に郷土史にある証言も狭義なものです。

追記。

クライマーにパスハンターで著名な先代の萩原氏( ALPS )の古い記録を参照しても、実用車( ほぼ運搬車? )でキャンプツーリング。

高野聖の如く荷物満載にシングルなわけで、峠道では( たとえば大垂水 )、ひたすら押したそうで、黎明期には、やはりそんなもの。

追記。

明治-大正では、娯楽では、山に自転車を上げても( 明治33年の富士山DHの一件のように )、特殊に極例でしょう。

( 普遍的な意味のサイクリングでは、たとえば菅沼御大など始祖連は、大正期には自転車旅行を決行。ただこの件は実質、山サイ的でも )

山岳サイクリング的な自覚があるという点においては、昭和にかかりではないだろうか?

戦前ころには、登山道も活用な峠越え、また縦走にもトライなサイクリストがちらほらと、では?

戦後では、先に紹介な萩原氏も専用の背負子を制作、それで自転車を担ぎな山行だったそうだ。

追記。

富士山と自転車に関して。

話はやや逸れるが、ビジターでは1860年のオールコックも著名。で、そのような登頂は19世紀後半のアルピニズムによるもの=征服欲。

いわばグローバリストの功名心を満たす故の山行は、それまでの富士登山とは乖離( 庶民信仰の山、しかもあそこは登拝道=信仰の道 )。

明治33年の件は、そこを単独に自転車担いでならともかく、大名登山によるDHでは、車体を持ち込んだ記録でしかないだろう。

それを日本の山岳サイクリングの始まり=始祖とは認め難い。

( オールコックのケースでは山頂に英国旗を立て、祝砲と称し火口に拳銃を乱射は、不敬極まる。ちなみにこの英国人が、日本初の”山コーヒー”でも )

つづきます。

その2: 戦前のサイクリング
その3: 自転車に大道無門
その4: 山旅と古道な幹線道路
その5: 高尾山年表( 近代インフラ編 )前編
その6: クライミングにパスハンター
その7: 初めて物語( パスハンターの巻 )
その8: アルペンサイクリング