人間はペットを飼わなくなる。
家の前を猫や狸や猿や鳥やリスが通る。私はペットを飼っていない。だが、彼らをペットみたいなものだと思う。野生の動物には、何時になるとここに来るなどのリズムがある。その時間にそこに行けば、彼らに会える。エサを用意する必要はない。彼らは自力で確保をする。私の役割は、ただ、彼らを愛おしく思うだけだ。野生の動物は色々なことを教えてくれる。普通、ペットを失ったら家族を失った時と同じ悲しみを抱く。だが、私は、彼らが死んでも「逝ったな」と思うだけだろう。家族に対しても同じことを思う。父や母が死んでも、深く悲しむのではなく「逝ったな」と思うだけだ。当然、会えなくなることは寂しい。だが、それが自然だ。
ペットロスという言葉がある。飼い犬や飼い猫を失ったら、家族を失った時のような痛みを感じるのは正常な反応だ。何が違うのか。私は、家の前を通る猫や猿や狸や鳥やリスを「自分のもの」だと思っていない。だが、家の中で飼っているペットに対しては「自分のもの」だと思うだろう。だからこそ、手間暇をかけて世話をするだろう。自分のものだからこそ、喪失の悲しみも深いものになる。自分のものだと思わなければ、悲しみも薄くなる。私は家族を愛している。動物をたまらなく愛しく感じる。だが、彼らは私のものではない。私のものでないものを、私は、コントロールすることができない。
今は「ペットを飼うことは普通」という認識が一般的だ。これが、数十年後に変わると思う。ペットを飼うことを普通と思う人よりも、ペットを飼うことを異常だと感じる人が増えた時、人間がペットを飼うという文化は終焉する。誤解されると困るが、私は、ペットを飼っている人を否定したい訳ではない。ただ、様々な理由からペットを飼う行為は異常だと思う人が増えて、遠くない未来、人間はペットを飼わなくなると思っているだけだ。結婚相手とも別々の家に住むことが普通になり、別居と不仲はイコールではなくなる。仲良しなまま、別居する夫婦が増える。幸せな共同体を目指すことよりも、幸せな個体になることを目指すようになる。その過程の中で、人間はペットを飼わなくなる。
野生のゴリラは虫歯にならないが、動物園のゴリラは虫歯になる。野生の動物は決してかからない病気に、飼い猫はなる。飼い犬はなる。人間に飼育されると病気になる。人間も同じだ。誤解を恐れずに言えば、今、人類全体が「誰かのペット」になっている。飼い慣らされている間は、エサを保障される。安心安全を約束されるのだが、極めて肝心な部分が傷つけられていることを感じている。生きているのに、生きている感覚がない。日々の中に生命感がない。そして、慢性的な疲労感や虚無感、無気力や倦怠感などと言った、得体の知れない病気になる。これまでは「誰かのペットになることが幸せの条件」だと思い込まされてきた。昔は、多分、それでよかった。だが、これからは「そもそもで誰かのペットになること自体が無理」だと認める人が増える。人間が人間をペットにすることを止めた時、人間はペットを飼わなくなる。
不調の原因は、誰かをペットにしているから。誰かのペットになっているから。誰かを「自分のもの」だと認識して、コントロールしようとしたり、コントロールされたりしているから。距離が近いから。領域を侵し合っているから。自立を阻害し合っているから。病気にさせて、病気になっているから。情を断ち切り、未練を断ち切り、生きることも死ぬことも全部をひっくるめて個を尊重するようになった時、人間はペットを飼わなくなる。今の常識から見ると、びっくりすることが沢山ある。それが未来だ。だが、古の人々は生命のリズムを知っていた。死ぬことは、必ずしも、悲しいことではない。形を変えて、生の冒険から、死の冒険に移行をするだけだ。季節が巡るように、命も巡り続ける。近い未来、人間はペットを飼わなくなる。
おおまかな予定
5月19日(日)静岡県熱海市界隈
以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)
連絡先・坂爪圭吾
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE https://tinyurl.com/2y6ch66z
バッチ来い人類!うおおおおお〜!
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