ブログNO.176 「卑弥呼はどこにいた」2-2 | うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」

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ブログNO.176

「卑弥呼はどこにいた」2-2

 

⑪14Ⅽ測定値の傍証 その2ー2



「水城」が卑弥呼時代に建設されたことを示しているのは14C測
176-1 定値だけではない。糸島市の古刹・雷山千如寺の縁起にも記録されている
写真=九州歴史資料館刊≪九州の寺社シリーズ⑩ 筑前怡土(いと)・雷山千如寺大悲王院≫から)。

縁起はこう記す。

息長足(おきながたらし)姫、即位の後、神功皇后と改称す。神功皇后この時韃虜(たつりょ)、(国)境に来たりて国を侵すあり。人(民)を劫(おびや)かす。水火雷電神、この潟に水城を築く。山中に於いて若干を漂い(水)没させ、凶軍おわんぬ・・・延長三年八月、之を記す(。、、及びルビ、カッコ内は筆者)。

『日本書紀』では先述したように、「卑弥呼は神功皇后だ」、と読者に思わせようとして、『魏志』の文章を神功皇后紀に引く‶いかさま〟を試みている。その‶神功皇后〟が「三韓征伐」に行った折、干珠を投げて潮を引かせ、出てきた敵を満珠でもって満潮にして退治したという話もある。

九州の伝承は後の大和政権の主張に配慮して、「一元史観」と合うよう潤色されているケースが多い。真っ向から権力に刃向かえばどういう仕打ちをされるか分かったものではない。神社も寺も生きていかなくてはならない。千如寺の「縁起」は延長三(九二五)年に記したという。となれば、その記述も「神功皇后=卑弥呼」と解釈するのが適当であろう。神話に登場する「干珠満珠」伝説にも近い。

九州歴史資料館は従来、発掘調査の結果から「水城」は都合回の工事が行われていて、最上部は補修程度の工事をした時のものと結論していた。ところが発表では「最上層の年代値が水城の築造を表す年代だ」などと訳の分からないことを発表した。そして、中層、下層の敷ソダは「何か別の施設を作った時のものであろう」などと何の根拠もない話をしていた。

誰かに発表のやり方を指示されたのだろう。だが、水城や鴻臚館では太宰府都城と同じ土器が出土していると言い、ほぼ同時期に築かれた施設であることは疑いない。

現在出土している遺構は決して「ヤマト政権」の出張所である七世紀後半の「大宰府政庁」遺跡などではないことは間違いないと言える。

 

⑫貴重な福井・水月湖の調査

14C」年代測定法は一九四〇年ごろの発表後、全世界の物理・化学学界が徹底的に検証を行い、当初のものはいくつかの訂正があったものの現在は疑問のないものと全幅の信頼を集めている。世界の考古学界も認め、最も確実な資料の年代決定法として採用している。

よく話題になるエジプトのミイラについての年代測定や欧州の各種考古資料の年代はすべてこの方法によって決定されている。読者もよくご存じだろう。

九州人にとっては卑屈きわまる古代史像を守るよう‶指導〟されている九州の考古学研究者らは、測定値に幅があるのを利用して「我々の推定値とそれほどの誤差はない」と強弁するケースが多い。とんでもないことだ。二〇〇〇年以前(BP)の測定値でも中央値付近に八〇%以上の確率で遺跡の実年代があることは確かめられている。

要するに、大阪・堺市の陶邑(すえむら)出土の須恵器による年代推定を援用した従来の九州の遺跡や、前方後円墳の年代などは見直しが必須だということである。これは関東、東北のものも含めての話である。最近の「14C」による年代即定はこの当時のものよりさらに精度が高まっている。

最新のAMS(加速器質量分析器)法による年代測定を行っている名古屋大学年代測定総合研究センターのセンター長は以前、「今は耳かき一杯(二g程度)の資料があれば、十年ほどの範囲で実年代を示すこともできる」と言っていた。

特に日本では英ニューカッスル大学の中川毅教授(現立命館大学)らの、福井県若狭町、水月湖での層位(年縞)調査の成果が大きい。七万年ほどの層位が乱れなく堆積している特異な湖で、一年ごとの各種の炭素量をきっちり調べ尽しつつあるからだ。中川氏の研究成果は現在、最も正確な「国際的基準」として採用されている。

 
176-2
〝非常識〟な須恵器の研究

遺跡、遺物の年代は現在、そこにあった土器の種類、形式で推定されるのが基本だ。いわゆる「土器の編年」である。各地の土器の「古い」「新しい」の順序を見つけ、それを全国的な規模で年代を推定していく。もう二十年前以上の話になるが、九州大学のある教授は「土器によってほぼ二十五年単位で年代を決められるようになった」と誇らしげに語っていた。

一方で研究者らは「土器だけではない。遺跡は遺物の年代や文献などから総合的に判断している」とも言っていた。しかし、その「遺物の年代」も結局はそれぞれが共にあった土器の年代や、古墳時代の先進地は関西、いわゆる「畿内」であるという『日本書紀』の記述、解釈によって導かれた「思い込み」で推定されている。「総合的な判断」ではなかったのだ。

これら土器による年代推定の致命的な欠陥はその年代決定の基本に「思い込み」と「理化学を装った間違った研究成果」があることである。

旧来の考古学研究者が自らの年代推定に自信を持っていた裏には、自らのたゆまない努力の成果である「土器編年」に対する過度の自信とともに、三辻利一氏(奈良教育大学)らによる須恵質(すえしつ)土器(須恵器)の研究に依拠するものが大きい。

日本の須恵器は近畿・堺市を中心にした「陶邑(すえむら)」が発祥地で、ここの土器が全国に運ばれて各地の須恵器が作られた、という説である。九州の須恵器はほとんど陶邑から運ばれたもの、あるいは陶邑の土器を模倣して作られたものだと結論している。

だが、この説には重大な欠陥がある。氏は九州などの土器と陶邑の土器の組成を比較するのにⅩ、Yだけの二次元座標を使い、成分がよく似ているから同じ土で造られていると結論している。

だが、物質の組成を比較するにはⅩ、Y、Zという次元座標を使わなければ正確な結論は得られない。これは理化学的な常識である。物質であるから立体像が描かれる三次元解析が必要なのである。

二次元解析と三次元解析とはどう違うのか、典型的な一例があるので紹介しよう。

東京国立文化財研究所の馬淵氏らは以前、鉛の同位体組成分析を使って、その鉛の産地がわかる、という研究成果を公にした。

しかし、その結論にはすぐさま米スミソニアン博物館の研究者らから反論が出た。「そのような事実は認められない」と

馬淵氏は結論を得るのに三辻氏と同様、二次元解析を使っていた。そこで日本金属学会評議員であった久野雄一郎氏(元奈良県立橿原考古学研究所客員研究員)が、馬淵氏が使ったデータを物理学会の常識である三次元解析で表示してみた。すると日本産の鉛の組成は中国産の鉛の範囲にすっぽり入ってしまい、判別は不可能とわかった(=久野雄一郎氏作成。拙著『太宰府は日本の首都だった』から)。

スミソニアン博の指摘は正しかったのである。しかも馬淵氏らは岐阜・神岡鉱山群のデータなど自らの説に都合の悪いものを除外して結論していた。

だが、今でも馬淵氏説を信じて論を張る研究者もいることは驚きだ。事実を市民に伝えるという職務を忘れ、自らの邪(よこし)まな、事実とは違う説を広げようとする人だろうか。

⑭九州の土器は陶邑産とは別ルート

いずれにせよ、須恵器には大きく分けて少なくとも二つの流れがあるらしい。一つは近畿の陶邑の流れ、一つは九州の、大陸から直接九州にもたらされた製造技術だ。大陸では紀元前三〇〇〇、四〇〇〇年前から須恵器と同じ硬質土器が作られていた。紀元前八~五世紀の春秋時代にはその技術は普遍的なものになっていたのだ。

筆者が研究している熊曾於(熊襲)族や「周の太伯の子孫」だという卑弥呼(姫氏)らは大陸沿海部からの渡来人である。紀元前世紀の徐福の例もある。彼らが実物や製造技術を持ち込んだものと考えられる。

九州で出土する須恵器は多くの場合、弥生式土器と共存して見つかる。五世紀初頭に韓国からもたらされた技術と考えられている陶邑のものよりはるかに古いのは当然である。

陶邑の型式による年代判定で遺跡や古墳の年代を推定しても大間違いを犯してしまうのである。

 

⑭「定説に触れるもの」にはふた

九州、東北な七世紀以前の遺跡や古墳、遺物の実年代は現在想定されている年代よりはるかに古い。このことを初めて指摘(注11)してからすでに二十年がたった。指摘後、国立歴史民俗博物館(千葉)が「放射性炭素の測定によって九州の弥生時代の始まりは従来の年代推定より五〇〇年ほど古かった」と発表して考古学界に衝撃を与えた。

ところが今でも九州の多くの考古学研究者が「そんなことはない。我々の想定年代は正しい」と主張したり、無視を決め込む研究者が相変わらず多い。確かに畿内については土器の年代と実年代はほぼ一致してケースが多いが、九州や東北では全く違う結果がでているのに目をそらしている。

指摘を認めれば、「大和政権一元論」や「畿内中心」の古代史像が瓦解してしまう。研究者としての面子がつぶれるという恐れもあるからであろう。九州の考古学研究者は意図的に古墳時代の理化学的測定を忌避しているようである。

さらに九州の考古学界を牛耳っているとみられるある元九州大学教授は「定説が崩れる恐れのある遺構にはコンクリートでふたをしてやった」「定説に反する資料は出せない」などとんでもない発言をしたと伝えられている。この件は本誌第六十三号「武・内宿禰は実在の人」でもお伝えした。まったくあきれて開いた口がふさがらない話だ。ひんしゅくをかっているが、市民不在、これが大学の古代史研究者の実態なのだろう。

 

注11 『太宰府は日本の首都だった―理化学と「証言」が明かす古代』(ミネルヴァ書房 2000年) 

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