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絶滅しないように生きるのではなく、絶滅する。

毎日通っている温泉に口笛おじさんがいる。口笛おじさんは、湯加減がいいと本当に気持ちよさそうな顔を浮かべながら口笛を吹く。私は、口笛おじさんの口笛が大好きなので「今日もおじさんの笑顔が見たい」と思って温泉に行く。湯加減が悪いと「今日はぬるいな」とか「今日は少し熱いな」と言って、おじさんは口笛を吹かない。私は、口笛おじさんにとっての適温を徹底的に調べ上げて、口笛おじさんが来る少し前に温泉に行き、こっそり湯加減をベストな状態に調整する裏技を見つけ出した。それ以来、私は毎日口笛を聞いて幸せになっている。口笛おじさんも「最近なんだか湯加減が最高だね」とか言いながら、何も知らずに、口笛を吹く。

これが陰徳陽報(人知れず善行を積めば、必ず報われること)かと思って、私はほくそ笑む。隣の家のおばあちゃんが、時折、畑で育てた野菜をくれる。不思議なことに、我が家に食料のストックがある間は、おばあちゃんは来ない。食料のストックが尽き、金も尽き、いよいよ死ぬな、俺の人生もこれまでかと思ったタイミングで、野菜や花や果物を持ったおばあちゃんが「あげる」と言って現れる。ある間は来ない。なくなると来る。奇跡を見たければ、人の優しさに触れたければ、一文無しになるのが良い。一文無しになると生きていけなくなると恐れて私たちは金やモノを貯蓄するようになったが、自然の循環からズレる。有り金があると、奇跡は起きない。人生を変えたければ、有り金を全部使え。さすれば、奇跡が舞い込む。死ねほど怖いが、身を委ねる。奇跡は余白に舞い込む。

脳性麻痺の友達T様は、講演活動をしながら生計を立てている。T様は、講演の時だけ症状が悪化する。普段はもっと普通に話せるのに、講演の時だけ「しゃべるのもやっとな自分」を演じて、聴衆の哀れみを誘う。実際に、涙を流す聴衆が続出する。それを見て、私は「やるな」と思う。講演終了後、楽屋に行くと「今日はちょっと盛り過ぎたかな」と言いながら、T様はほくそ笑む。それを聞いて、私もほくそ笑む。したたかなT様を見て「けしからん」と怒る人もいるだろう。だが、怒る人と同じ数だけ「最高だね」と好きになる人もいるだろう。T様は障害者だが、天使ではない。障害者は天使ではない。普通の人間だ。私とT様には共通点がある。怒る人と友達になろうとするのではなく、最高だねと言ってくれる人と友達になろうとする。だから、我々は「いい人になること」を目指さない。どちらかと言えば、悪ガキになることを目指す。誰かからの承認を求める限り、自由にはなれない。他者からの承認を求めると、他者の評価の奴隷になる。真の充足感は、他者からの承認を必要としない。いい人を目指している場合ではない。友達になりたい人と、友達になれる生き方を目指している場合だと思う。

熱海には天然記念物おじさんがたくさんいる。この前乗ったタクシーの運転手に、ちょっと細い道を通らなければ行けない場所を指定した。天然記念物おじさんは「あの道は細いから嫌なんだよなあ。行きたくねえなあ。ついてねえなあ」と連呼した。なんて正直な男なのだと感動した。私は「面倒だよね。悪いね。だけど頼むよ」と言った。天然記念物おじさんは「嫌だなあ。行きたくねえなあ。まったく今日はついてねえなあ」と何度も愚痴りながら、目的地を目指した。山を登り、森を抜けた時、車の目の前をはくびしんが通過した。天然記念物おじさんは「おい、はくびしんじゃねえか。嫌だなあ。ついてねえなあ」と愚痴った。目的地に着き、私は多めの金を渡した。途端にご機嫌になった天然記念物おじさんは「いいのかい?」と言って、柔和な顔で「はくびしんに食べられないでね」と人間の出来損ないみたいな声を出して、私たちを送り出した。両手を強く振りながら。

小田原の博物館に行ったら「絶滅した動物のコーナー」があった。悲愴感漂う音楽が流れ、最近絶滅した動植物のリストが羅列され、最後に「絶滅させないために大切にしましょう」と説教臭いメッセージが流れた。私は「俺が絶滅した時は、かわいそうとか思ってほしくない」と思った。同情されるより、絶滅したくて絶滅したのだと思ってほしい。絶滅させないために大切にしましょうとか言われたくないし、言いたくない。滅びるものは滅び、残るものは残る。説教臭く生きるより、正しさを振り撒くより、自分を使い切って死にたい。絶滅しないように生きるのではなく、絶滅したい。絶滅してもいいと思って生きている人ほど、生き生きとしている。絶滅しないように生きている人ほど、死んでいる。これを「奇跡の逆説」と呼ぶ。奇跡の逆説は、私たちに無一文になることを要請する。増やすな。捨てろ。貯めるな。使え。有り金を全部使え。生き延びようとか思うな。絶滅しろ。今日終わってもいいと思えるような生き方をしろ。この声に従うのか。従わないのか。全部、自分次第だ。絶滅しないように生きるのではなく、天真爛漫、豪華絢爛に絶滅したい。

坂爪様

こんにちは!わたり文庫のお話を読んで、私がわたせる本はないかな…と考えて「生きることが楽しくなる本」ってめっちゃいいお題だな…自分なら何かな?と考えて「誰も知らない小さな国」にしました。ライオンと魔女とか大きな森の小さな家とか、どれもとっても好きな本ですが、坂爪さんに送ろうと思って「誰も知らない〜」を読み始めたら、夢中になってしまいシリーズほぼ読んでしまいました。なのでこれに決めました。

私がこの本と出会ったのは、小学校の高学年か中学生くらいの頃で、久々に読み直すと別の感動がありました。私は自分の好きな仕事をしてますし、恵まれてるなぁ…と思うのですが、最近は「何の為に生きてるんだろうな…私は…?」と思うことが多く、その理由がわからなかったのですが、この本を読んだあとに「ああ、自分はおもしろくなかったのだな」と気がつきました。坂爪さんのブログの中で、昔にパンをつくることを教えていて、やめられた話がありましたよね?あれとちょっと似てる感覚です。好きだと思ってやっていたことだけど、求められることが多くなって、自分を(自分を?なのかな?自分っていうより楽しさかな)を見失っていく感じなんだな…と気がつきました。

この本を読み直して、主人公の「ぼく」が秘密の場所を友達にも誰にも言わないのは「ずいぶんケチだな〜」と読み進めましたが、本当に大切なものは心の中に持ってないと…誰かのためにって全てを使ってしまうと、心がカサカサになってしまうのではないかと思いました。すでに「誰かのために」なんていうことがおこがましいのですが…。

実際にそうゆう場所があれば素敵だけど、でもむしろ、無くても心の中にそうゆう場所があればとても豊かな気持ちになるし、こどもの頃、この本が私の中にそうゆう場所をつくってくれたのだなと思ったのです。「何の為に生きてるのか?」に明快な答をもらったわけではないけど、この本を読んでから、あまりそのことについて考えることがなくなりました。

この本には、デブとか、チビとか、今のルッキズム的な見方からするとマズイのでは?と思う表現がありますが、でも「ルッキズムは良くない」とみんなが黙る圧的なものより、嫌ならそう言われるのは嫌と言うとか、もっと対話的なものがあるのが昭和っぽい良さを感じます。

残念ながらたくさんの人とお話しするのは苦手なので集まりには行けませんが、この本のことを思い出させてくれたキッカケを与えてくださった坂爪さんに感謝をこめて、本とお布施を送りますのでお役立ていただけたら嬉しいです。楽しい集まりになりますように!

P.S. 結局「ぼく」は、みんなと秘密の場所をたのしんでくことになるのですが、心の奥には、大切な場所に泉がわきでてるのだと思います(モモの花が咲く場所みたいなところですね)

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おおまかな予定

5月19日(日)静岡県熱海市界隈
以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)

連絡先・坂爪圭吾
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com

SCHEDULE https://tinyurl.com/2y6ch66z

バッチ来い人類!うおおおおお〜!

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コメント

ことだま
今日もタイトルに惹かれて読みました!
私も「自分を使い切って死ぬんだ」と、生きる喜びを感じました♪
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絶滅しないように生きるのではなく、絶滅する。|坂爪圭吾