僕は"推し"が嫌いだ
タイトルは盛った。正しくは、「僕は"推し"という言葉が嫌いだ」
昨今、"推し"という言葉を聞いたことの無いほうが珍しいのではないか。SNSを見れば誰彼構わず推し推し推し推し。
テレビを見れば、売れかけのタレントだが芸人だかの女が「推しが〜w」みたいな事をほざいている。
正直言って反吐が出る。
僕としても何故そう思うのか、少し考えた。
少しと言っても10分くらいだけれど。
そんな浅い偏見まみれの考えを徒然なるままに書き連ねる。
結論を言えば、"推し"という言葉は逃げだと思う
"好き"という言葉から逃げているだけ。
基本的に好きというのは一方通行だ。
その点"推し"とは非常に似通っていると言える。
人間は、常に相思相愛でありたい生き物だと思う。
しかし"好きな相手"は自分がどれだけアピールしても相手にされない、振り向かせることは難しい。
そういうジレンマから、"好き"という言葉から逃げてるだけだと僕は思う。
"推し"という言葉があれば一線を引いて、安全圏から"好き"でいられるのだ。
また、安全圏から一方的に相手をコンテンツとして浪費できる、自己中心的に相手が生きていようがいまいが関係無くモノ扱いできる。
一体なぜそんなことができるか?
理由は単純で"推し"だから。
まるで免罪符を得たかのように、喜びも悲しみも苦しみも全て一方的にコンテンツ化して消費する。
そこに承認欲求を加えたらどうなるだろうか。
"推し"という人形を一方的に搾取し承認欲求を満たすモンスターの出来上がりだ。そういうモンスターはSNSでよく観測できる。
結局のところ"推し活"なんてものは好きという言葉から逃げた挙句、"好きな相手"を自分の為だけに一方的に搾取する行為に過ぎないのだから。
長々と書くのは好きじゃないのでこの辺で。
書いた内容の全てが全て正しいとも当てはまるとも思ってないので悪しからず。経済回したり文化を促進したり、良いことも無いわけじゃない。
こんな稚拙な文を読んだ人の時間を少しでも浪費させられたなら嬉しい。
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