「ハリーは夢を見たわ」
ハーマイオニーは、アズカバン脱獄について触れるつもりは無いと言った。
だから彼女が何を聞きたいかというのは想像が付いていたが、しかしそれでも十分な不意打ちになった。ああした前置きをして尚、ハーマイオニーがそのような内容を直接口にするとは思ってもいなかったからだ。
対面の椅子に座る彼女は、膝に置いた手を堅く握り締めている。
「ハリーが見た夢は、ウィーズリーおじさんが大きな蛇に噛まれる光景だった。そして想像は付くでしょうけど、その事件は実際同時刻に起きていた。このホグワーツから数百キロ離れた場所でね。それが冬期休暇前に起こった事で、だからあの時ハリー達は姿を消したの」
その言葉に、直ぐに返答はしない。
推測はしていた事とは言え、これは非常に重要な事だ。検討と熟考は必須であり、ハーマイオニーも急かそうとはしない。暫くして考えを纏めた後で顔を上げれば、無言の間も彼女はずっと僕の方を見つめていたのか、視線を真正面から受けて立った。
「……一応最初に聞くが。その情報を僕に明かして良いと、君は本気で考えたのか?」
「余り自信は無かったけど、正しかったのは既に解ったわ」
確認の問いに寄越されたのは、非常に素っ気ない返答。
「今のが突拍子も無い内容だという事くらい私にも客観視出来るつもりよ。普通なら奇妙に思ったり不気味に感じたりする筈で、少なくとも騎士団員はそうだった」
「…………」
「けれども貴方は全く驚かなかった。その事件が起こるのは何ら不思議が無いと思っているようにね。……ああ、表情が変わってないとかじゃないわ。とにかく、私には解ったのよ」
「……まあ、そうだな」
確かに不思議になど思っていないし、結果的では有るが、僕に隠す意味はなかった。
「君の言う通りだ。先学期末に何が起こったかというのは、僕の方でも既にある程度見当を付けていた。僕にはそれを推測出来るだけの材料が校長から与えられており、仮にそれが無かったとしても、可能性の一つとして想像する位の情報は落ちていた」
「……そんな情報が有ったかしら」
「あったとも」
背凭れに深く寄りかかりつつ、足を組みなおす。
「時系列を整理出来ない人間だと思われるのは心外だな。ハリー・ポッター達が校内から消えたとドローレス・アンブリッジが推測した時刻。アーサー・ウィーズリーが緊急治療室に運び込まれた時刻。両者を比較してみれば、殆ど同時か、下手すれば前者が早い」
「…………」
「アーサー・ウィーズリーの危篤状態にしても、明け方には既に脱していたという話だ。つまり普通であれば生徒達が寝ている内、何も知らないままに事態は全て終わっている。それなのに何故、君は朝食時に一人で大広間に座っていた──彼等の姿が朝食時から見えなかったのだろうな? 父親の見舞いに行くにしても急ぐ必要は無く、実際ウィーズリー兄妹は昼以降に聖マンゴを訪れたというではないか? その間、彼等は何処で何をしていた?」
当然、アーサー・ウィーズリーの危篤や入院の報せを受けてウィーズリー兄妹が消えたという筋書きは、これらの事実と整合しない。
「……貴方は、それを誰かに伝えたの?」
「ここまで具体的に伝えていないが、ドラコ・マルフォイに時間軸の質問を投げた結果、最終的には先程の回答が寄越された。必然、闇の陣営にも当然伝わっているだろう」
先の一連の時間情報は決して公開情報ではないが、患者のプライバシーに深く関わるものでもないから、聖マンゴに関係者が居れば容易く集められる程度の情報である。僕が直接訪れて聞き回ったとて得られたかもしれない。今回の一件を誤魔化したかったと言うならもっと上手くやって欲しいものだ。
「…………マルフォイに言わないで欲しかった。そう思うのは身勝手よね」
「僕の照会なんぞ価値が無い。ハリー・ポッター達が姿を消したという連絡は、ドラコ・マルフォイからルシウス・マルフォイ氏に必ず行くのだ。必ずや何処かで誰かが気付く。敵が己より愚かだと期待すべきでもない」
一応ドローレス・アンブリッジは未だ気付いていないようだが、しかしそれを責めるのも酷ではある。〝純血〟達と違い、彼女は聖マンゴに伝手を持ってはいないからだ。
「……ともかく、何故なのかは知らないけど、貴方はコレを予測していたんでしょ?」
「君の言葉は正確ではなく、予想し切れなかった部分も存在する」
険しい表情を前に、軽く首を振ってみせる。
「まずハリー・ポッターが何らかの
去年の……ユール・ボール前だったか。間接的にだが、僕も同種の物を見ている。
あの時のハリー・ポッターのイメージは、まず間違いなく闇の帝王のものだ。そしてリータ・スキーターの記事――第三の課題前の彼の頭痛もそれによるものだろう。帝王の心を覗き見るのは、どうやら楽しい行為という訳でもないらしい。
「しかし中身に関しては想像の埒外で、初耳だ。今の話を聞いて気になった事も有る」
「……聞かせてくれるの?」
「事実でなく推測である以上隠す事でもない。個人的に気になったのは
ハーマイオニーは全てを語っていない。
だから意図的に削ぎ落された情報で有る可能性も存在していたのだが、彼女の反応を伺う限り、そうではないらしい。
彼女はその事実を知らない。ハリー・ポッターから聞かされていない。
「……貴方が問うからには、非常に重要なのよね?」
「さて、重要であるかどうかを決めるのは君だ」
「…………」
「嗚呼、意地悪では無い。横や後ろから蛇を見ていた──そんな答えが彼から返って来たなら忘れて良い程度の問いだ。しかし今のを聞く限り、それ以外の答えが返って来そうだというのが問題だ。そもそも性質上、早合点して省略して良い類の問いでもない」
ハリー・ポッターが繋がっている先は
だから素直に考えれば、
しかし既に今聞いた情報からして明らかに可笑しいのだ。
その蛇の姿を闇の帝王が見ていたならば──つまりその場に彼が居たならば、冬期休暇中にウィーズリー家は聖マンゴに見舞いに行く代わり、アーサー・ウィーズリーの葬式を挙げる羽目になっていた事だろう。
けれどもそうなっていない。
という事は、僕に情報が足りないか、僕が何かを見逃しているという事だ。
「……疑問に思ってしまった以上、後からでもハリーに聞いてみようと思うわ。けど、その答えは貴方には教えない。それで構わないかしら?」
「明かす必要が有ると君が考えたのならば、聞きはするがね」
僕の立場は一貫している。
彼女が余計な詮索を僕にしない以上、僕も彼女に対して余計な詮索をしない。聞いた情報を踏まえて推測を立てる位はするが、少なくとも直接問い質す気は無かった。
「……とにかく、貴方は全く驚いていない。貴方にとっては既知同然の事が起こったに過ぎない。そして――それはダンブルドアも同じ。そう解釈して良いのよね?」
「まさしくその通りだ」
意図して震えないよう努力している。それが伝わってくる声に頷く。
「更に言えば、こうなる危険を甘く見積もっていたのは君達の騎士団長閣下だ。本気で危惧していたなら彼は既に対応を取っており、そもそもハリー・ポッターが夢を見る事は無かった」
「……対応っていうのは、閉心術の事?」
「それが一つの対処法ではある。もっとも、夢を見る事は止められるとして、
僕の回答に彼女は少しの間黙り込んだが、必死に脳を回転させる事は伝わって来た。
けれども答えを導き出せる程の情報を彼女は持っていないので、僕の方から話を続ける。
「あの校長は、ハリー・ポッターが一風変わった夢を見る事を恐れてなど居ない。僕が知る限りは去年二度以上、ハリー・ポッターは闇の帝王の心を覗き見ており、そしてアルバス・ダンブルドア校長も同じく知っていた。しかし、止めようとしなかっただろう?」
「……ええ、そうね。ダンブルドアは、去年からハリーに閉心術を教えようとはしなかった。今年──それもウィーズリーおじさんが襲われるまで、その必要を感じていなかったように見える」
「実際、夢を見る事自体の危険というのは考え辛い。彼が猟奇映像を見て魘されようが、遠く離れた光景を見させられようが、それが現実の魔法戦争で脅威になる事はほぼ無いからな。帝王の感情が伝わってくるのも同様だ。校長はハリー・ポッターを善と見ており、余程の事が無い限り、闇に染められる事もないと看做している」
寧ろ便利に働く場合の方が多いだろう。
だから彼等の繋がりは維持すべきではないか。その考えは、あの校長閣下には間違いなく有ったに違いない。
「故に彼が真に恐れたのは、闇の帝王によりハリー・ポッターが乗っ取られる可能性だ」
「――――ええと、少しだけ考えを纏めさせて頂戴」
「構わない。好きにすると良い」
ハーマイオニーが左手で額を押さえ、眼を瞑った。
僕が与えた情報は彼女にとって余程呑み込みがたいものであったようだ。彼女はこちらにも聞こえる程の深呼吸をした後、挑戦者のような眼をして僕に向き直った。
「……ジニーは──ヴォルデモートに一度乗っ取られた経験を持つ彼女は、ハリーが乗っ取られていないと断言したわ。ハリーは一瞬たりとも記憶を喪っていないもの」
「だろうな。彼が過去に乗っ取られたのだと、そう主張したい訳ではない」
既に予期していた反論である。
だから、彼女の言葉に対して留保を付けるのは容易かった。
「そして一ヶ月後や二ヶ月後とか、そんな近い未来にハリー・ポッターが乗っ取られるという話をしてもいない。彼等の物理的距離が離れており、かつホグワーツの護りが存在する限りは、そんな危険を恐れずとも良いだろう」
彼は彼のままだ。
ホグワーツ特急内とて、姿を瞳の中に見ただけである。成り代わられた訳でも無かった。
「しかし、将来的にその時が来るのではないかという推測を僕は──僕達は立てた。一番可能性が高いのはハリー・ポッターが闇の帝王と遭遇した時だ。心身が弱っている際も良くないかもしれない。僕にとっては確信するまでの根拠は無かったが、可能性は高いと見ている」
「どうしてそんな事を言えるの? ……いえ、これは答えてくれる筈がないわよね」
「その通りだが、答えられないというのがより正確だな。何せ校長の方は、
アルバス・ダンブルドアは去年と違って動いた。
とすれば、彼は今回の事件に何かを見たのだろう。
「理由は解らん。アーサー・ウィーズリー絡みの問題なのか、襲撃事件が起こった理由の問題なのか、それとも
特に、分霊箱に関わる問題なのか。
僕の視点からは全く解らない。まず間違いなく、ハーマイオニーの視点からも。
唯一解るのは、答えを持っているのはアルバス・ダンブルドア校長だけだという事だ。
改めて考え込む僕を他所にハーマイオニーは溜息を吐いた後、言葉を続けた。
「……質問を変えるわ。兎も角、ダンブルドア先生は今回のような事が起こるのを知っていたのよね? それも夏休みの前から。だからハリーを遠ざけてた」
五十点もやれそうにないな、と顔を上げつつ軽く笑う。
「ハリー・ポッターを遠ざけていた理由は正解だ」
あの校長の事だ。必要以上に遠ざけたのだろう。
僕の方がマシだと自負出来る次元で、彼は人と人の距離を正確に測り切れない。
「しかし、予期していたのが夏休み前からというのは外れだ」
「────」
「あの校長は既に十四年前の時点で推量してしまっていた。勿論、ハリー・ポッターが何らかの光景を見るだろうと、そう具体的に予測していた訳では無いがね。しかし〝生き残った男の子〟が闇の帝王の影響を受ける可能性は誰よりも先に頭に思い描いていた。あれだけの賢さを持つ人間にはそれが出来てしまう」
ハーマイオニーは一瞬だけ脅えを見せたものの、それを振り払うように首を振った。
「……ダンブルドア先生が放置していた訳では無いのよね?」
「ああ。彼が十四年間注意深く見張っていたのは間違いない。そしてハリー・ポッターの人格の維持は、今や彼にとって最優先事項になっている。君が懸念するような事は無い」
「…………そう」
「付け加えると、十四年前の時点では複数の可能性が考えられた。当時どう動くのが正解だというのも解らなかったし、多くが見え過ぎてしまうからこそ動けないという事も有る。あの時こうすれば良かったというのは既に結果論に成り下がっている。彼は最善を尽くさなかったかもしれないが、それでも最悪を避ける為に立ち回ってはいたのだ」
彼は十四年前、ハリー・ポッターの傷跡から幾つかの推論を立てた。
悪しき魂の欠片に乗っ取られ、赤子が
悪しき魂の欠片に引き摺られ、第二の
悪しき魂の欠片を物ともせず、善良と正義を尊ぶ
その一つ目、もしくは二つ目が現実化する危険を思えば、アルバス・ダンブルドア校長が〝生き残った男の子〟を手元に置くという判断は有り得ない。
校長の本性を把握し、その手口を熟知した人間は、第二次魔法戦争では光の陣営にとって絶対に手強い敵となる。しかも校長の周りに居る者達が残らず〝生き残った男の子〟に絆され、懐柔されてしまえば、ハリー・ポッターを危険視出来るのは校長だけだ。その場合は勝ち目など無くなるとすら言って良いだろう。
――儂は、ハリーに近付かない方が良い人間なのじゃ。
ハリー・ポッターに対してはアルバス・ダンブルドアこそが最も悪影響を及ぼしかねない。己こそが脅威であると看做していた発言は、間違いなく彼の本心に違いない。
そして理屈はどうあれ、魔法戦争が三つ巴――闇の帝王対闇の帝王対ホグワーツ校長、或いは例のあの人対生き残った男の子対今世紀で最も偉大な魔法使いになる事は避けられている。結果的にではあるが、あの校長がハリー・ポッターを手元に置かなかったのは正しかった。
「無論の事、君が今直ぐ校長の所に怒鳴り込みたいというならば止めない。寧ろ応援しても良い。彼が他人から糾弾されたがっているのを差し引いても良い気味だとは思うからな」
「……そんな事はしないわ」
俯く彼女の瞳からチラリと見えたのは、それも良いかもという光だった。
冗談半分ではあるものの、それは半分は違うという事だ。
「でも、貴方の口振りでは閉心術が役に立たないという風に聞こえたけれど」
「未知数だ、と言ったのだ。何分前例が無い筈だからな。何とも言えん」
跳ね返った死の呪文により意図せずして分霊箱化され、十四年間も魂の接触が続き、更に復活の儀を経る中で血液と愛の加護の共有が為されている。
こんな事例なんぞ世界の何処にも無いと断言出来る。
「確かに閉心術は、『外部からの魔法による侵入や影響に対して心を封じる』手段だ。だが基本的には相手の開心術――感情や記憶を抜き取る技術に対抗する
「…………」
「ただ、あの校長が必要だと考えたのであれば、それは正しい可能性が高い。彼は僕よりハリー・ポッターに近しい位置に居り、何より彼は僕より頭が良い――」
「――閉心術を教える人間がスネイプであっても?」
思わず天を仰ぐ。
灰褐色の天井は、何時ぞやの御節介な星空より苛立たしかった。
「……嗚呼、そうか。考えてみれば、今の校内には我が寮監しか居ないのか」
頭痛を抱えるのは今度は僕の番らしい。
確かに考えてみれば、盤面の駒中、閉心術を教えられるのは彼以外にない。
しかしそれでも常軌を逸しているだろう。感情を制御する事を肝要とする技術の習得に、感情を乱さざるを得ない――片方でなく御互いに――人間を敢えて用いようとするのは。
「……スネイプが教えるのってそんなにマズい?」
それまでと違い、僕の反応が大きかったからだろう。今のハーマイオニーは、その表情に隠し切れない程の不安を浮かべていた。
しかし、非常に残念ながら、僕は首を振らざるを得ない。
「悪いと言えるかは判断しかねるな。少なくとも校長の判断を否定する根拠は無い。仮に閉心術を教えないとして、なら他に適切な対策が有るのかという話になる」
代案も出せない以上、反対する気にはなれない。
「そもそも、スネイプ以外に閉心術を教えられる人間は居ないの?」
「そんな人間が居れば、あの校長はスネイプ寮監以外に仕事を押し付けている。如何にあの校長とて寮監に閉心術を教えさせる事を最善と思っている筈も無かろうよ」
どんなに頭が御花畑の人間でも、あの二人を一緒の教室に閉じ込めておきたいとは考えないだろう。彼等の間に横たわる憎悪の深さは、ホグワーツに居る者であれば誰もが知っている。
「今年ドローレス・アンブリッジが抑止力となっていなければ、あの校長はどうにかして校外から人間を招いていた。どの程度の頻度で寮監が教える気かは知らないが、一週間に一日くらいホグワーツに外部から客を招くなんぞ、そう難しい仕事でも無いだろう?」
「……そうね。ダンブルドアだもの、それが出来ない理由はないわ」
「余り期待して居なかったが、彼女は闇の陣営にとって中々役に立っているようだ。少なくとも、あの校長を鬱陶しがらせる事は出来ている」
個人的にはあんなのは無視して実行に踏み切れば良い――今回で言えば、ドローレス・アンブリッジが何と言って来ようと人間を外から呼べば良いと思うのだが、そんなつまらない自制をしてしまうからこそのアルバス・ダンブルドア校長か。
「話に出た以上、開心術と閉心術について触れていた方が良いのは明らかだが……まあ、ざっくりとした内容で十分か。君の知りたい事でもあるまい」
「…………」
「まず開心術。君が今思っている程に、これは便利な技術では無い」
世に知られていないのは必然でもある。
「開心術は、自分と同等以上の閉心術士には通用しない。自分の心に他人が入り込むという状態がそもそも不自然だからな。細菌に対する免疫機構宜しく、防げるのが普通なのだ。第一、確実に〝真実〟を判定するには開心術以外の情報が必須であり、一方で〝真実〟を知るのに開心術は必須ではない。配偶者の浮気を見抜くのに、わざわざ開心術士としての修練を積む必要なんぞないだろう?」
そんな技術が無かろうとも、客観状況からの判断や物的証拠の収集等により、相手が〝嘘を吐いている〟と見抜く事は出来る。代替手段が有るのに遠回りするのは無駄の極みだ。
「決闘――否、殺し合いへの利用に際しても、開心術を役立てられるのは化物共だけだ。開心術の基本は眼を合わせる事であるが、しかし銃を向けられれば自然と銃口に視線が行くように、大抵の魔法族が意識するのは杖先だ。必然、視線は合いにくい。また、訓練された軍人が脊髄反射で銃を撃てるように、やはり熟練の杖使いも呪文行使に思考は殆ど不要だ。忙しい戦闘中に素人開心術士が呑気に読めるものでもないな」
だから開心術は対人戦闘の万能薬にも成り得ない。
開心に際して一々杖を振る必要がない熟練の魔法使い、かつ一瞬で心の深層まで読み切れる程の術士同士が殺し合う場合にのみ、心の読み合いと呼べる戦いは発生する。
今の魔法界でそれが出来るのは勿論、たった二人だけだろう。
「無論、開心術の有用性を否定する気はない。使い所を選べば便利な術だ。大抵の術と同様、開心術も杖を使った方が基本的に強力にもなる。つまり一方的に杖を使える状況、つまり容疑者の取調べをする際で有れば特に有効に扱えるだろう。また独裁者が臣下の忠誠を確認する場合に使う気なら、一定程度は役に立つ」
そして、と続ける。
「開心術まで修めている闇祓いは少数であっても――取調官を専門家に任せたり、もしくは補助を頼めば良いだけだからな――閉心術の訓練を積んでいない闇祓いは居ないだろう。開心術士は少ないとはいえ、魔法戦士の心が無防備なのはやはり拙い。それでも力量に個人差は有るだろうし、闇の帝王の前で心を閉じられる者は稀だろうが」
「……貴方が言わんとする事は良く解ったわ。要するに開心術、いえ閉心術にしても、どちらも〝普通〟の人間が学んでいる技術では無いのね」
「その通りだ」
一定の理解を示してくれたらしいハーマイオニーへ頷く。
「重要な事だから繰り返すが、開心術は必ずしも〝真実〟を見抜いてはくれない。技術というのは、所詮人間が用いるものだからな。開心術によって得られた結果は〝果たして本当に信じていいのか〟。そんな問題からは決して逃れられない」
完全な嘘発見器という物が偶発的に世界に誕生したとして、それを人類が適切に扱えるかは別の話だ。人が人である限り、その完全性を信用出来ない。
「あの校長の在り様を見ても解るだろう。アレは優秀な開心術士だが――彼にしては珍しく稀代の、ではないが――開心術を判断材料の一つ以上に重んじていない。光の陣営を裏切っていないかと一々質問し、心を覗く真似なんぞもしない。それが無礼な行為で、逆に不信や反発を招きかねないというのも有るが、一番の理由は無意味だからだ」
開心術により得られた内容のみでは〝真実〟かどうか解らない。
二学年末、僕を〝信用出来る〟と言ってのけたのも、決して彼が開心術士だったからではない。偏に僕達が共通の瑕を持ち、かつ同様に囚われ続けているからに過ぎない。
「〝真実〟は閉心術によって隠せる。またその人間が心から騙されていれば、客観的事実と異なっていても〝真実〟になる。更に心を読んだ瞬間は〝真実〟で有ったとしても、一秒後に〝嘘〟に変化する事は有り得る。余程の愚者でない限り、無批判に開心術の結果を信頼する事はない。そして、あの校長は言うまでもなく愚者ではない」
「……確かにダンブルドアは、ペティグリューの裏切りも、シリウスやルーピンの真実も見抜けなかったものね」
「そして今も騎士団員を心から信用出来ていないから戦争の趨勢を左右する事実も打ち明けられない。それはハリー・ポッターが相手であっても例外でない。彼は〝生き残った男の子〟を信用し切れておらず、だから今も距離を置いている。開心術士が他人の本心を完全に知れるというならこんな事にはなっていない」
「…………!」
「嗚呼、君はこれを意識しておく必要が有る」
僕の補足にギョッとした顔をしたハーマイオニーに笑う。
先の皮肉は彼女らしくも無かったが、彼女が本気であの校長を理解しようとするならば、その段階で止まってはならない。
「ピーター・ペティグリューの裏切りなんぞ問題ではない。自分に忠誠を向ける相手すらも信用しない。それこそがアルバス・ダンブルドアという人間を理解する始まりだ。闇の帝王が臣下の誰も信用出来ないように、今世紀で最も偉大な魔法使いもまた誰も信用出来ない。……まあ、両者の違いは、最後に相手に歪んだ願いを懸けるかどうかだろうが」
改悛の機会を広く認める光の魔法使いは、他人にそんな願いを懸けている。
そう口元を歪める。
「では、話の本筋に移ろう。閉心術を学ぶのに一番手っ取り早いのは、当然ながら開心術を防ぐ事だ。それもハリー・ポッターが心を閉じようとする相手が相手だから、半端な開心術士相手に練習する訳には行かない。呪文を覚えたばかりの生徒を相手にする位なら何もしない方が余程マシだ。下手な開心術では心を破壊する危険すら有る」
この練習に際しハーマイオニー達は使えない。
「……で、スネイプは熟練した開心術士という事になるのよね」
「そうだ。まあ、あの寮監が真に熟練しているのは閉心術の方だがね」
開心術の分野において教授を上回る技量を持つ人間は、この魔法界に限定しても割と居る事だろう。彼は決してそれを専門として磨いて来た訳では無いからだ。
しかし閉心術の分野においては違う。その技量は下手すればアルバス・ダンブルドア校長すら凌ぐかもしれない。
「ただ、心の防ぎ方を知っているなら攻め方も当然知っている。元警備会社の人間ならば上手く泥棒もやれるのと同じだ。ましてあの教授程に閉心術を極めている人間は居ない。その理由は――まあ一々君に語る筈もないだろう?」
「…………」
あの教授が心を閉じている相手が誰かを思えば、そう結論付けざるを得ない。
「そのようだ。しかし、ならばこうも言っておこう」
ハリー・ポッターへの個人授業の事を知ってしまった以上、彼女の友人を自負するならば、多少余計な御節介を焼いておくべきだろう。
「――良いか、君はセブルス・スネイプ
「……貴方は、信じろという側だと思ったわ」
「僕がそう素直な人間だと、君は本気で考えていたのか?」
「…………そうね」
笑うべきか怒るべきか解らない。
そんな表情のハーマイオニーに、僕も苦笑を返した。
「ただ厳密には、僕の見解はあくまで
闇の陣営に付いた以上、光の陣営の判断に介入する余地はない。
そもそもハーマイオニーがスネイプ教授の善悪を判断する際、僕がその場に居合わせる事は間違いなく有り得まい。
「けれども客観的な立場で、かつ現状の寮監に対して判断を下すというならば、あの寮監は信じられないし、君は彼を疑わなければならない。僕はそう考える」
「……ダンブルドアが信じているから大丈夫。そういう事ではないのよね」
「ああ。あの校長も間違う時は有る。とはいえ、大抵の場合に校長の見立てが正しい事も見逃してはならない。だから重要なのはバランスだ。相手を基本的に信用しつつも、万一の場合に疑う事が出来るか。当然、これは君の親友二人には期待出来ない」
嫌な奴だからスネイプ教授は信じられない。
校長が信じているからスネイプ教授は信じられる。
極端から極端の結論を反復横跳びする事しか、彼等には出来はしない。
「君の事だ。我等が寮監が何故これまでの十四年間、大手を振ってホグワーツを歩けたか。その理由について『日刊予言者新聞』か何かで読んだ事だろう?」
「……ええ。クラウチ……さんが主宰した、魔法法評議会の裁判記録は見たわ」
「ならば、スネイプ寮監が今現在従事している不死鳥の騎士団の任務。その内容についても、君は当然のように予想出来ているのではないか?」
「――――」
彼女は口を堅く噤んだが、何とも解りやすい。
ハーマイオニーは賢い女性だ。だから気付かない方が良い事にも気付いてしまう。ハリー・ポッターやロナルド・ウィーズリーは何も気付いていまい。彼等は間違いなく、スネイプ教授が普通に騎士団の任務を行っているという認識しか持っていないだろう。
「イゴール・カルカロフと違い、我が寮監は死喰い人の名を売ってはいない。けれども、あの評議会の結論は、あの寮監は闇の帝王の失脚以前に光の陣営に戻り、そして大きな危険を冒して騎士団の密偵となっていたというものだ。これは隠されている事実ではなく、調べれば誰もが手に入れられる。そうでなければ、彼がホグワーツ教授を続ける事なぞ許されない」
戦後も本物のアラスター・ムーディを筆頭にスネイプ教授を疑う者は多く、しかしその全てを退け続けて来たのはアルバス・ダンブルドア校長だった。
「そしてこれを完全な真実と見るならば、闇の帝王から見れば裏切者であり、当然粛清対象だ。見逃すなんぞ断じて有り得ない。だから寮監に少しでも危機感が有れば、闇の帝王が復活した今、安全なホグワーツ城に閉じ籠り続ける事を選択する」
「……でも、スネイプは騎士団を出入りしていた――つまり、外に出ていたわ」
「そう。そしてそれを許す論理は一つだけだ。
これはバーテミウス・クラウチ・ジュニアに提示した回答の延長に在る。
スネイプ教授は、第一次魔法戦争中に帝王から受けた仕事──騎士団への潜伏任務を遂行中である。アルバス・ダンブルドア校長に取り入る為に、闇の帝王が消えた後も変わらない忠誠の下に、十四年間仕事をし続けていた。万一それが違ったとしても、十四年間で得た情報を提供し、帝王への忠誠は今も変わっていない事を証明した。
だから、彼は闇の陣営から受け容れられた。
「……流石に、貴方がスネイプに聞いた訳ではないのよね」
「そもそも聞いて答えてくれる人ではないがね」
あの教授がそれ程素直なら、ハリー・ポッターと今よりも良好な関係を築けている。
「ただ、騎士団の大半が同じ考えに至っている筈だ。そして二人とも、つまり校長も帝王も隠しはしないだろう。……いや、校長の方は表向き取り繕いはするか。どう考えたって騎士団内に不和を撒き散らすからな。裏切者が入り込んでいる可能性は受け容れざるを得なくても、その名札を付けた人間を平然と受け容れられる者はそう居ない」
しかし周りからどんなに言われても、あの校長が絶対に譲らないのは間違いない。
「寮監の立場を敢えて評するなら二重スパイだが、一般的なそれと違うのは、両陣営の指導者が解っていてやっている事だ。校長と闇の帝王、そのどちらも自分の味方として振る舞う事を条件に、スネイプ寮監が二重の身分を持つ事を許している」
全くもってどうかしている、と思いつつ言葉を続ける。
「これを教授に許すのはな、御互いの指導者にとって利点や目的が有る。例えば、騎士団員の一人が怪しい真似を――闇の帝王に利するような不穏な行動を取ったとする。それが発覚した場合、君達の騎士団長閣下は怒り狂い、裏切りの代償を支払わせ、騎士団から放逐する事だろう」
「……そりゃあ、当然の事じゃないの」
「しかし、その行動をしたのがスネイプ寮監である場合は同じ事にならない」
「どうしてよ? 裏切者だと解ったんだから許す筈が――」
「
「――――」
本当に、あの怪物達の思考は常人と程遠い。
「勿論、限度は有る。幾ら闇の帝王の利益になるからと言っても、たとえば騎士団員の誰かを直接殺害するとかは論外だ。そこまですれば校長閣下も黙ってはいまい。しかし、多少の悪さをする事くらいは見逃す。騎士団内の情報を流すのが典型だろう」
「……でも、情報を流すって言っても、コレは戦争でしょう?」
「ああ。流す情報次第では騎士団員に死人が出かねないな」
ルドビッチ・バグマン以上の脳味噌が有れば、当然に躊躇う筈である。
「しかし、寮監が何もかも情報を流す訳には行かない。ここは魔法の世界だ。不利な情報を口外しない類の魔法契約を締結する事は現実として可能である」
闇の大魔法使いなら契約を無理に破って吐かせる事は当然可能だろうが、それではスパイとして無意味になる。余程の必要が無ければ取りたい手段でもなかろう。
「また、あの校長は寮監に対して情報を秘匿したり、嘘の情報を流す事もするだろう。これは信用しているいないの問題ではなく、一度の失敗が大勢の死に繋がる戦争指導者として当然の用心だ。まして帝王に繋がっている事が解っているともなれば、そうしない理由を探す方が難しい」
「……要は、ヴォルデモートの視点ではスネイプから得られる情報は限定的であり、かつ必ずしも信用出来るか解らないって事?」
「そうだ。彼が死喰い人の為に万全の仕事をする事は、立場上絶対に出来ない」
しかし、と続ける。
「帝王が騎士団に紛れ込ませた普通のスパイより、スネイプ寮監が遥かに多くを知り得るのもまた事実だ。何せ、校長にとって〝スネイプ寮監は不死鳥の騎士団の味方である〟筈なのだからな。必然、校長は露骨に寮監を疑う事も出来ず、彼にある程度重要な仕事を任せたり、騎士団の核心部に近付く事を許さざるを得ない。そして寮監から得られる情報は闇の帝王にとって大きく役立つ事だろう」
ハーマイオニーが反論の為に口を開こうとするものの、片手を挙げる事で止めた。
彼女が言いたいのは、それでも用心の為にはスネイプ教授を遠ざけるべきではないかというものであろう。元死喰い人が警戒されるのは已むを得ない筈だという主張で、実際それは一理有るどころか正論そのものなのだが、あの校長──というより、彼等の視点はそんな近視眼的な場所に無い。
「取り敢えず先を進める。帝王の方も同じだ。校長よりも不寛容だろうが、帝王としても一定程度、スネイプ寮監が騎士団の為に働く事は認めざるを得ない。帝王の立場としても、〝スネイプ寮監は不死鳥の騎士団の味方である〟事を校長が疑う事は有ってはならない。そうなってしまえば、当然騎士団から追放されるからな」
どちらの指導者も、スネイプ教授が実は自分の味方である二重スパイという枠組みを壊す気がない。そんな奇妙な状況が、彼の不思議な立ち位置を形成している。
「この結果、スネイプ寮監は両陣営で一定程度の地位を占める事になる。闇の陣営では死喰い人、光の陣営では高位の騎士団員。校長と帝王の両方が解っていてそれを肯定し――そして、それは或る場面で役に立つ可能性がある。誤魔化す意味が無いから言うが、寮監が最後の最後に味方する陣営に対し、戦争の趨勢を決める程の利益を齎し得るかもしれない」
あの二人は究極、寮監をそれだけの駒と見ている。
彼から得られる細々とした情報などは、あくまで余禄としか見ていない。
そう、付け加える。
「つまり、あの二人が見据えているのは決定的な裏切りなのだ」
最後の一撃。
二重スパイの立場の放棄と引換えに行われる決定的貢献を、彼等は期待している。
「騎士団が裏切られては困る場面で、寮監が騎士団を裏切る。或いは逆に、帝王が裏切られては困る場面で、寮監が帝王を裏切る。セブルス・スネイプという人間が本当は
だからこそ、十四年前にアルバス・ダンブルドア校長はスネイプ教授の保証人となり、去年度末に闇の帝王はスネイプ教授の再度の忠誠の誓いを受け容れた。
そうして、教授は生存を許されている。
「……でも、御互いスネイプが二重スパイと解っているんでしょう? なら、そんな裏切りの場面が都合良くやってくるかしら? 本当の意味で信頼して居れば、重要な仕事を任せる事も有るだろうし、その機会が与えられるというのも解るわよ? けれどもヴォルデモートは──」
「――寮監を欠片も信じていないだろう。アルバス・ダンブルドア校長も同じだ。ハリー・ポッターすら信じられない人間が、一体どうして元死喰い人の男を信じられようか?」
「…………」
「故にこれは、彼等が張り巡らせた数ある策謀の一つに過ぎないだろう」
本命の内の一つかどうかまでは解らない。
けれども最低限、失敗して即座に困る策謀とはすまい。
策謀の一つに己の命運全てを賭けるのは愚かな事で、そもそもセブルス・スネイプという人間は闇の帝王や校長にとって信用に値しない人間だ。ハリー・ポッターやハーマイオニー以上に、教授を信じる理由が欠片も無い。
「敢えて言うなら、彼等にとっての一種の御遊びと表現した方が解り易いかもしれないな。寮監を媒介として行われる、二人の怪物達の策略合戦。失敗して元々で、しかし相手の思惑を上回って成功させた場合の利益は想像するに余り有る」
「……一応、それは貴方の勝手な想像なんでしょう?」
「ああ。僕の想像を覆す反論や証拠を君が持っていない限りはな」
「…………どうかしているわ」
「そうは言うが。この推測が正しい場合、最初にボールを投げたのはあの校長だぞ?」
二重スパイとして働いてくれ。
まず校長が教授にそう持ち掛けなければ現在の状況にはならない。
そしてその時点で闇の帝王には拒絶する選択肢――つまり、校長の思惑や教授の言い訳を聞き入れず、寮監を裏切者として殺す事は出来たのだ。
どんな命乞いをしようと、闇の帝王が身体を喪った時に教授が彼の下に馳せ参じなかったのは事実。賢者の石を求めるクィリナス・クィレル教授の妨害をしたのも事実。闇の帝王が身体を取り戻した去年度末に、他より遅れておめおめと姿を現したのもまた事実。更には、裏切ったかどうか解らない人間は物事を解りやすくする為に殺してしまえという発想にも一理有る。特にアズカバン脱獄を遂げた死喰い人達はそれを主張する事だろうし、帝王を一度裏切っているルシウス・マルフォイ氏ではスネイプ教授を庇えない。
だからスネイプ教授を二重スパイとして用いる計画は、そもそも最初から失敗が、それも非常に高い確率で見込まれるものなのだ。しかしそんな計画を平気で企て、尚且つその実行を強いるのが一切信用出来ない他人であるとなれば、正直言って常人の出来るモノではない。
本当にあの魔法使いは、脳髄の芯までイカレている。
「……どうかしている。私がそう感想を漏らしたのは、戦争の事を本気で考えている人間
「――その修正は、僕の言葉と左程変わらないように思えるが」
「全く違うわ」
「……そうか。まあ、先の話も君が信じる必要は無い。兎も角、だ」
推測に過ぎないし、仮に今現在正しかろうとも、彼等は最後に全てを覆せる力を持った人間だ。余り先の事を決めてかかって行動するのは宜しくもない。
「現在における確実な話をしよう。スネイプ寮監が閉心術の個人授業を受け持つ事になった。これは闇の帝王がハリー・ポッターに干渉し得る機会が生じたという事でもある。スネイプ寮監が死喰い人の身分も持つ以上、そう解釈せざるを得ない」
「…………」
「そしてだからこそ、僕は君に言うのだ。スネイプ寮監を信じるなと」
ハーマイオニー・グレンジャーは、スネイプ教授を疑わなければならない義務が有る。
「……ただ、貴方はそう言うけれど、スネイプがハリーを殺す警戒はしなくても良いんでしょう? 生き残った男の子の殺害は、スネイプの騎士団としての立場より価値が有るのは確実よ。だから本来は警戒しなければならないのだけど、貴方はそこまでは必要無いと考えている」
「そうだな。あの校長は他の騎士団員とは異なり、唯一教授に対してだけは〝縛り〟を掛けたとしても不思議ではない」
「その縛りって――」
「――君が想像する通りだろう。彼等二人を護る為には、それが一番手っ取り早い」
破れぬ誓い。
ハリー・ポッターを殺せば、スネイプ教授も死ぬ。
その威嚇が有れば、闇の帝王は短絡的かつ最高効率の命令を下せない。
勿論、帝王は臣下の命を使い捨てる事など全くもってどうでも良いと考えている筈だが、そのような命令をすれば裏切られる可能性が有るという事も理解している筈である。誰も他人を信じられない人間は、滅私の忠誠も信じられない。
「まあ実際に掛けているかどうかは別だが、最低でも帝王の前にはそういう事になっているだろう。仮に僕が寮監の立場に置かれ、かつ騎士団として本気で働くつもりならば、自分から申し出る事すらする。寮監が騎士団を離反して帝王の臣下として舞い戻る口実の一つにもなるしな。信じられないから破れぬ誓いを結べというのは、やはり世間的には盛大な侮辱ではある」
「…………」
「しかしその場合でも、ハリー・ポッターを傷付けないという縛りまで一々掛けはしない筈だ。そこまで行くと流石に〝アルバス・ダンブルドア〟らしくもない。何より校長の目的を果たすには闇の帝王が寮監を駒として使ってくれなければ始まらない。直接的に害する事は不可能でも、間接的に害する事は可能な仕掛けにしたに違いない」
そもそも心への侵入自体、見方を変えれば他人への攻撃である。
ハリー・ポッターに一切危害を加えられないなら、教授は開心術を掛ける事すら出来ない。
「さて、閉心術を教えようとする場合、既に述べた通り、ハリー・ポッターに対して開心術を掛け、彼に防がせようとするのが最も手っ取り早い」
それ以外の道は、何十年も地道に練習するのみである。
そしてハリー・ポッターにそんな悠長な事をしている暇はない。
「けれども、この開心術を掛けるスネイプ寮監は、二重スパイとして振る舞わねばならない騎士団員兼死喰い人である。この場合、寮監は如何なる振舞いをすると思う? 或いは、二人の指導者は、それぞれ寮監に如何なる要求をすると思う?」
「ええと、ダンブルドアはハリーに閉心術を学んで欲しいんだから、スネイプに閉心術を教えるよう求めた訳でしょ? そこは動かない筈で、一方でヴォルデモートは……」
頬に人差し指を当てながら考えていたハーマイオニーは、まさかという表情を浮かべる。
「……
「そうだ。その危険性は排除できない」
「――――」
彼女は黙り込んだ。
非常識な判断だ。改めて彼女がそう考えているのがありありと伝わって来るが、あの校長のような怪物を常識の枠組みで図る事が間違っている。
「しかし、それが正しいかどうか解らないというのは告げておく。ハリー・ポッターの心を開く事が果たして闇の帝王の利益に繋がるのか。この疑問は当然有り得るからな。個人的見解としては可能性は低いと思っている。しかしそれを行う事によって万一利益が有るならば、臣下である寮監に対し帝王が要求しない理由がない」
二人が精神的に接続されている利点――特に闇の帝王側の利点というのは余り思い付かないが、闇の大魔法使いならば何らかの利用方法を見出すかもしれない。
「仮に利益が有る場合でも、帝王が寮監にどの程度の強度で命令するかという問題が更に有る。是が非でも心を開く必要が有るなら、ハリー・ポッターに閉心術など教えないのが一番だ。ただ、それは有り得ないだろう。閉心術を教えられる人間は決して寮監だけではない。あの校長閣下が下らん拘りを放棄してくれば、彼が直接教える事は可能なのだから」
「…………」
「故に現実的なのは、寮監が開心術を行使する際、ハリー・ポッターの心を必要以上に開く。その一方で寮監は一切の手を抜かず、懇切丁寧に閉心術を教える。これならば寮監は二人の要求を同時に叶えられるし、どちらも文句は言わんだろう」
その程度の修正ならばと、互いに寮監の動きを黙認するに違いない。
「……それって、大丈夫なの?」
「解らん」
端的かつ明快な返答。
ハーマイオニーが愕然とした表情を浮かべるが、僕としてはそう答えるしかない。
「解らん事だらけなのだ。精神的接続を齎す傷なんぞ前例が無いからな」
分霊箱という邪悪の極地、そして人間の魂の問題まで絡んだこの問題は、今世紀で最も偉大な魔法使いをもってして尚、読み切れぬ領域の筈だ。
これに正しい答えを出そうと思えば、魔法族には更に数百年の時間が必要だろう。
「しかし現時点で間違いなく言える事は──君の為にアルバス・ダンブルドア校長の視点で言うが、彼はハリー・ポッターが閉心術を習得する事を望んでおり、それが叶う方に可能性に賭けた。今回の〝試練〟も、ハリー・ポッターなら問題無く乗り越えられると信じた訳だ」
バーテミウス・クラウチ・ジュニアによる服従の呪文、そして闇の帝王が直々に掛けた服従の呪文すらも、ハリー・ポッターは撥ね退けてみせたという話もある。
だから寮監の〝嫌がらせ〟を物ともせず、ハリー・ポッターが完璧に閉心術を習得出来る可能性は、僕の眼から見ても左程低くないように思われる。
「更にこちらは僕の想像になるが、校長も自信を持って行動している訳では無いと思う。最初から確信していたならばやはり対処療法的に行動する理由がない。既に言った通り去年から、そうでなくとも今年度の九月からハリー・ポッターに開心術を教える事は可能だったからな。そうして〝夢〟を防いでいたなら、冬期休暇前の〝異変〟は起こらなかった」
「……ハリーが夢を見なければウィーズリーおじさんは死んでいたわ」
「些事だ。あの校長は目先の一人を救う為に戦争をやっている訳では無い。一人が救われる代わりに将来大勢が死ぬ羽目になるなら、アルバス・ダンブルドアという人間はその一人を見捨てる。勿論最後まで救う道は無いかと足掻きはするが、彼は最後の最後にはそれが出来る」
非魔法界の首相だろうが王様だろうが変わらない。必要ならば冷徹な判断を下すのも、大勢の命を預かる指導者の仕事だ。
その一人の命がハリー・ポッターでない限り、あの校長閣下にはそれが出来る。
「故に、今回も結局はハリー・ポッター次第だと言える」
今回もまた、あの英雄殿が鍵を握っている。
「彼が滞りなく閉心術を修めたならば、校長の思惑通りで、めでたしめでたしで話は終わる。帝王の乗っ取りに対する防衛として役立つかは不明だが、閉心術を習得している事は少なくとも害にはならない。一方で帝王の思惑は挫かれる事になるが、元より寮監を通じて干渉出来る可能性が生じた事自体幸運だった。仕方無いと諦めるだろう」
「……じゃあ、ハリーが閉心術を習得出来なかったら?」
「校長の計画は根本から軌道修正を余儀なくされる。あの大魔法使いの事だから何か次善の策を思い付くとは思うが。とはいえ、次善の域を超えないだろう。寮監にハリー・ポッターを教えさせる以外の良い代替手段が有るなら、やはり彼はそれを選択している」
溜息を一つ吐く。
つくづく他人事で良かったと思う。
現場の一兵卒以上になりたがらない人間が居るというのも良く解る。こんな細々とした事を一々考えた上で、思い通りに動いてくれない者達を操って戦うなど面倒で仕方が無い。
「そして、今回の開心術の訓練がハリー・ポッターに悪影響を及ぼす可能性も勿論存在する。スネイプ寮監が帝王の命令を受け、校長の眼を盗んで何かを仕掛けようとする可能性もまた零ではない。仮にそのような事態が起こった場合、また実際に起こらずともその気配を感じた場合──君は今回の個人授業を止めるべきだ。その権利もある」
ハーマイオニーは少しだけ身を固くしたが、それでも僕の視線から逃げなかった。
「まあロナルド・ウィーズリーにも同様の権利は有るが、彼はこの手の決断を出来ない人間だろう。但し、ロナルド・ウィーズリーの言葉を基に君が判断を下すのは悪くない。君と同等、一部の面では君以上に、ハリー・ポッターの〝異変〟には気付けるだろうからな」
「……閉心術を教えるのはダンブルドアの計画でしょう? その中止を先生が認めるの?」
「認めるとも」
強張った言葉に対し、気楽に答えを返す。
「己の判断に絶対の自信を持っている場合、彼は他人に何と言われようと譲りはしない。ハリー・ポッターや君、そして不死鳥の騎士団員に対し、秘密を抱え続けるのは典型だろう」
世の老人の例にもれず、百年を生きた彼は非常に強情だ。
まして自分より劣っていると看做す人間の言葉を、彼は易々と受け容れない。
「けれども一方でそこまで確信を持っていない場合、善人足らんとする彼は当然のように他人の判断を尊重する。それが世間的に承認されるべき行為とされるなら猶更に。ジェームス・ポッターの独断による秘密の守り人の決定、シリウス・ブラックの脱獄に対してリーマス・ルーピン教授の不関与を信じた事等々、彼は多くを譲る事が出来る」
言葉の後半でハーマイオニーが微妙な顔をしたのは、その例が何れもアルバス・ダンブルドア校長が〝間違い〟を犯してしまった例だからだろう。
しかし、少なくとも今回に限っては、彼女達の結論を尊重するのに間違いは有り得ない。
「今世紀で最も偉大な魔法使いの知識や頭脳が導く答えより、ハリー・ポッターの親友が直観的に導き出す答えが正しい可能性はやはり存在するのだ。ミネルバ・マクゴナガル教授、或いは校長本人から何か言われなかったか? 彼の様子を最も近い場所から観察出来、尚且つ成り代わりでも発生した時、最初に気付けるのは君達なのだから」
バーテミウス・クラウチ・ジュニアの前例から学ぶ必要が有る。
僕は笑いながら言ったが、ハーマイオニーは口元をピクリとも動かさなかった。
「……今の貴方の話を総合すると」
ハーマイオニーは悩み悩み、慎重に言葉を選びながら言う。
「貴方はスネイプを信じるなと言った。その際、貴方は最後の最後以外――つまりスネイプがヴォルデモートを裏切って良い時が来るまでという条件を付けたけど、今回のハリーへの個人授業に限るという条件は付けなかった。つまり、私が基本的にスネイプを疑うべきという考えは、貴方の中で変わらないのよね?」
「それはその通りだ」
やはり君が従う必要は無いが、と頷いてみせる。
「スネイプ寮監の行動が校長の承認に基づいて行われる限り、無駄に警戒する必要はない。あの校長の判断は概ね正しく、けれども如何なる仮説を立てたとしても絶対に正当化出来ない――そう君が判断を下した時、校長に逆らう事を躊躇うべきではない」
まあ校長が聞き入れるかどうかは別問題である。
しかし聞き入れずとも、彼女達が独自に行動する事は出来る。御優し過ぎる魔法使いは、ハリー・ポッター達に可能な限り自由を与えるからだ。彼は己が善人でないと自覚するからこそ、計画上絶対に必要だと判断しない限りは、
「そもそもスネイプ寮監には君達の味方をする自由が無い。彼は不死鳥の騎士団員兼死喰い人である――この前提が動かないならば、彼は絶好の裏切りの機会が訪れるその瞬間まで、
スネイプ教授は、あくまで曖昧だから両陣営への所属を許されている。
しかしその前提が崩れれば、当然のように排除される。
「如何に校長や帝王が〝御遊び〟に興じていると言っても、流石に敵だと確定した者を放置したままには出来ない。そのような真似は彼等の周り――他の騎士団員や、死喰い人達も許しはしない。校長は寮監を騎士団から追放せざるを得なくなるし、帝王であれば当然の事ながら寮監を殺す」
「……だから貴方は、私がスネイプを信用すべきではないと考えているし、けれども死喰い人に残る事を考えなくて良い最後だけは、スネイプを一定程度信じられるとも考えているのね」
「あくまでスネイプ寮監が君達の味方である前提だがな」
その点は未だ不確定である。
僕の立場をもってしても断定し切れない。彼は僕とは違うのだ。ハリー・ポッターを──ジェームス・ポッターの息子を殺す理由は、スネイプ教授には有る。
「彼が骨の髄まで死喰い人であり、最後の最後で不死鳥の騎士団を裏切る可能性は現実として残っている。君がハリー・ポッターの親友であると自負するならば、希望的観測で行動する事無く、正確に状況を見極めて動かねばならない。それが出来るのはやはり君だけだ」
「…………そうね」
ハーマイオニー・グレンジャーは難しい顔をしたままだ。
まあ、已むを得ない。僕が彼女の立場に居れば似たような反応を示すだろう。
アルバス・ダンブルドア校長はスネイプ教授を信じてなどいない。
死喰い人として大勢を傷付け、殺して来た男が、
しかし一方、校長は一定の確度で教授を自分の〝駒〟として使えると考えている。
つまり彼等には何らかの――契約と表現するか。兎も角、契約が有る訳だが、それが何かは外部の人間には解らない。知るのは彼等二人だけで、他の人間は知らないまま、スネイプ教授を
……他の騎士団員は良く我慢しているものだ。僕なら早々にキレている。
・五年目のヴォルデモートの動向
ハリーのヴィジョンにおいて『仕方あるまい……どうやら、俺様は、無駄な企てに何ヵ月も費やしてしまったらしい』(五巻・第二十六章)と語られるように、ヴォルデモートは学期始めからハリーを利用する計画を立てていた訳ではないようである。
この記述を素直に受け止めるならば、その計画が出来たのは新年にアズカバンが破られた後、ヴォルデモートがルックウッドから情報――予言に関わる者のみが狂わずに予言を手に取れるという情報を得て以降、それも二月後半以降(上記ビジョンをハリーが目撃したのは、クィブラー三月号の見本紙がハリーに届いた当日の夜)と考える事になる。
但し、ヴォルデモートが繋がりに気付いたのはアーサーを襲った時であるとダンブルドアは推測しており(五巻・第三十七章)、作中で行われたように、ヴォルデモートがハリーに対して嘘の映像を見せる事は可能である。またクリーチャーがマルフォイ夫妻の所に行ったのは『クリスマスの少し前』(同上)なので、ルックウッド脱獄前からハリーに予言を取らせる計画が進んでいたとみても不自然ではない。
・閉心術と予言
『結局、きみが心を閉じることができなかったのは、問題ではなかった。きみを救ったのは、君の心だったのじゃから』(五巻・第三十七章)という発言からして、ハリーの神秘部行きをダンブルドアが危惧していたかはやはり微妙である。
・騎士団内でのスネイプの暗躍
自身を疑うベラトリックスに対し、スネイプは『闇の帝王は、騎士団について我輩がお伝えした情報で満足していらっしゃる』『その情報が過日エメリーン・バンズを捕らえて殺害することに結びついた』と主張しており(六巻・第二章)、これを聞いたベラトリックスは否定していない。
この会話は五年生から六年生にかけての夏休暇中に行われたものなので、当然ながらダンブルドアは健在である。