「──レッドフィールド」
突然の、予想だにしなかった呼び掛けで我に返る。
恐らくハーマイオニーもそうだっただろう。肩を震わせ、はっとした表情を浮かべて、僕と同じ方向、つまりミネルバ・マクゴナガル教授の方を向いた。この瞬間、僕達は教授を居ないように扱うのではなく、そもそも部屋内に居た事すらも忘却していた。
そして、教授は呆れを隠さない、しかし何処か眩しいモノを見るような目で僕を──いや、僕達を見ていた。それだけでなく彼女は立ち上がり、ハーマイオニーの隣に座った。
「丁度良い機会だから聞くのですが、貴方は将来どうするつもりなのですか」
「……どうするつもり、とは?」
「勿論、進路の話です」
平静を装った問いに、至極当たり前のように教授は答えた。
「進路相談は、自寮の寮監とすると記憶していましたが?」
「別に他の寮監にしてはならないという道理は有りません」
「……まあ、確かに仰る通りでは有りますが」
そして教授は今回もまた、話を聞く気が無いようだった。
それは間違いなく意図的な反応で、恐らくは僕達の会話中に深く検討され、覚悟と共に判断を下した上での行為に違いなかった。
「貴方は非常に賢い人間です。更に言えば、私が見て来た中で最も生徒らしからぬ人間だと表現して良いでしょう」
僕の気のせいだろうか。
それは全く称賛のようには聞こえなかった。
「私も教職生活は長いですから、色々な生徒を見て来ました。決闘の腕で大人に並び立てる生徒。変身術の分野で類稀な才を示す生徒。高度で邪悪な魔法の数々を使える生徒。そして、グレンジャーのように並外れた記憶力を持つ生徒。そのように様々な生徒を見て来て──けれども、レッドフィールド。全く魔法と関係の無い領域で生徒を、教師を、そしてアルバス程の魔法使いすら手玉に取ろうとする人間は、今まで見た事が有りません」
「それは非常に光栄な話ですが、まあ、何事にも初めてという物はあるでしょう」
数十年前の彼女、新任教授は間違いなくそうだった筈だ。
そもそもハリー・ポッター、『選ばれし者』への対応も、やはり初めての筈だ。
「また、手玉に取っているつもりも、取れたつもりも無い。誰も彼も同じ。アルバス・ダンブルドアも、ハーマイオニー・グレンジャーも、ドラコ・マルフォイも、勿論貴方だって、僕の意図とかけ離れた所で好き勝手に動いている。僕の意図通りに動くモノなど一つも無い」
「ならば、相手になっていない。そう言い直しましょうか」
教授は動揺も無く、僕を真正面から見据えた。
「貴方はグレンジャーが意外と静かだったと、先程そう言いましたね? その理由は単純ですよ。貴方と論戦をするには力不足だと感じていたからです。ウィーズリー達も同様で、そしてそれは当然なのです。私ですら敵わないと思わせる程の相手を、一体どうして彼女達が相手出来ましょうか」
「……解らないでしょう。貴方は被告人でも弁護人でも無かった。実際にやってみれば──」
「──レッドフィールド。貴方はまだ理解していないようですが、大人とは、ホグワーツ一年生の問いにすら容易に答えに窮してしまう程度の生き物ですよ」
「…………」
その指摘に不意を突かれた気がしたが、それ以上に、教授が自ら打ちのめされたように見えた事により大きな驚きを感じた。
「大人が答えを出せない場合は単純な知識不足という場合も有ります。けれども、もっとも答えにくい子供の質問というのは、やはり世の不公平や不条理──大人ですら無力感を抱く類の事柄に関する問いです。思えば去年度のクリスマスもそうでしたね。貴方が我々に叩き付けたのは、三校試合で上級生だけ楽しむのはズルいという、そんな素直な感情の論理でした」
「……それが何か?」
「私達は、少なくともアルバスとスネイプ教授以外の人間は、貴方を勘違いしていたという事です。貴方は他の生徒より遥かに大人びて居るように見えますし、実際そうなのでしょうが、貴方の根幹を構成している部分は全く違うのでしょう」
「…………」
「ですから、私は問うているのです。貴方は如何なる将来像を思い描いているのです? ホグワーツを
その問いは恐らく、今日初めて僕の心を揺らした問いだった。
全てが想定の範疇とまでは言わずとも、意表を突く言葉というのは今までの場には全く出て来ず、けれども、その問いだけは違った。
「貴方がこの場に私に相談する事へ忌避感を抱いているのは解ります。普通の人間が相手であれば、そもそもこのような話をしなかったでしょう」
……まあ、通常で無いのは明らかだ。
他の生徒が居合わせる中での進路相談など聞いた事が無いし、一般論としても存在して良いとは思えない。
「けれども、貴方の場合は普通で無い方が良さそうですし、何よりこの場でこれを語るのは、他ならぬ貴方の利にもなると考えています。私は貴方に対し、スネイプ教授──スリザリン寮監よりも多くの道を示せますから」
「……随分とまた、貴女らしからぬ事を言うのですね」
「事実だから仕方ないでしょう。私は彼より遥かに長く生きています」
自賛の響きを一切含ませる事無く、淡々とグリフィンドール寮監は言った。
「貴方の望みにも拠りますが、私ならば、かなりの程度の助力が出来ると自負しています。貴方が魔法省に就職したいと望むなら、かつての同僚に私が推薦状を書きましょう。貴方がホグワーツ教授になりたいというなら、私が他の教授達や理事会に、そしてドローレスにも話を通しましょう。貴方が不死鳥の騎士団員になりたいというのなら──確約は出来ませんが、アルバスに話を持ち掛ける事くらいはしてみましょう」
「旨過ぎる話には大概何らかの落とし穴が有るものですが」
「落とし穴など有りませんよ。貴方を欺こうという気も有りません」
ミネルバ・マクゴナガル教授は僅かに微笑んだ。
「しかし、賢い貴方の事です。私がこの提案をする上で、何を前提として言っているかは解っているのでしょう?」
……嗚呼、勿論だとも。
「光の側に付けという事でしょう?」
「ええ、その通りです」
ハーマイオニーが小さく喉を鳴らした。
けれども、僕は彼女に眼を向けなかった。
僕に余人に意識を向ける余裕は無く、一方で、教授もまた僕から視線を逸さなかった。アルバス・ダンブルドアと違う歳の取り方をし、全く異なる力を持つに至ったであろう魔女は、唯一僕だけを瞳に映していた。
「貴方は、貴方自身が思う以上に力が有る。私はグレンジャーの主張の方が正しいと思いますよ。貴方はアルバスをホグワーツの破壊者と認識していましたが、けれども貴方が今年本気になっていたのであれば、貴方こそが間違いなくそうなれる器でした」
「教授もまた僕を過剰評価してくれる訳ですか」
ウィーズリー共の『卒業』の場を荒らし、ホグワーツの熱気に冷や水を掛けてやる程度が精々で、その後に校内の結束全てを破壊し切るまでは行かない。
それが僕の予測であり、けれども教授はゆっくりと首を横に振った。
「貴方が自分を理解していないだけです。そして、貴方が言うには前哨戦のつもりだったのでしょう? ウィーズリーについては純血主義の論理で捻じ伏せましたが、他の生徒に対しても、貴方が一度敵意を抱いてしまえば幾らでも似たような事をやれるのでしょう? 後ろ暗い所のない人間など存在せず、貴方にはマルフォイ家の情報網があるのですから」
「────」
「貴方は自分の強さを、或いはグレンジャーの強さを基準としています。……もしかすれば、そこに含まれるのはポッターもでしょうか」
心労を誤魔化すかのように、彼女は溜息を吐く。
「先程のウィーズリー達が良い例です。法律上成人していようが、たかが十七や十八の人間の強さには限界が有ります。貴方が容赦なく振るう感情──憤怒や憎悪、嫉妬や悪意の力に、彼等は耐えられるようには出来て居ない。他の下級生なら尚更です」
そう言うもの……では有るのか。
まあ、教授の言わんとする所は解る。先程の
「しかし、貴方は自制しています。私達の頼みがあったとは言え、それでも簡単に引き下がってしまった。サラザール・スリザリンが、いえ、貴方がたの先輩が六十年前に打ち立てた『純血一族一覧』の正義を、全ホグワーツに対して問い直す事はしなかった」
「寧ろ、僕の代わりをやらないスリザリン生の方が理解しかねるのですがね」
どれだけ怠慢な人間が多いのやらと、そう思ってしまう。
「僕は何も独創的な発想をしている訳では無い。アーサー・ウィーズリーの子供は、ホグワーツに十数年居続けている。何時でも叩きのめしてやれば良かった筈で、しかしながら如何なる上級生も、彼等の純血結婚の欺瞞を指摘しなかった。そして今も、誰も及びはしない」
殆ど本心とも言える嘆きに、けれども、教授はゆるゆると首を横に振った。
「他のスリザリン生も貴方とは違うのですよ。前回の戦争後、死喰い人の大半はアズカバン送りから逃れました。だから彼等の子供達が今どのように感じていようと、その時点で彼等は遥かに恵まれています。彼等は親の示す道に何の疑問を持たず──とまで言い切るのは教授として不適切でしょうが、少なくとも貴方よりは考えを巡らせずに済んでいる」
「…………」
「気付いた少数の人間にしても、スリザリンには『例のあの人』の存在が立ちはだかります。彼は支配を正当化する為の論理として純血主義を掲げました。けれども、本当は違うのではないかという噂も、光の陣営側では確かに有りました」
……そして多分、闇の陣営にも在っただろう。
ゲラート・グリンデルバルドは魔法族の未来の為に戦った。
必然的に、彼の配下は魔法族──精々言語が違うだけの、常識や価値観の大半を同じくする者達が殆どだったようだ。噂では亡者の軍隊も居たらしいが、それも所詮は元人間に過ぎない。彼の強さや卓越性は、あくまで人間の枠組みを逸脱するモノでは無い。
だが、闇の帝王は全く違う道を歩んでいる。
確かに、利害の一致を理由とし、巨人や小鬼、狼人間や吸魂鬼、その他多くの闇の存在と一時的協力関係を築けた魔法使いは居る。それこそ魔法史を当たれば簡単に探せる位には。しかしながら、それらのヒト以外を配下として付き従え、命令すら下しているように見える存在は、僕が知る限りでは彼だけだ。
「けれども、貴方は『あの人』の矛盾を平気で指摘してしまう。その理屈を理解しながらも、しかし些細なモノとして呑み込んでみせる。恐らく貴方は彼を肯定する論理すら提示出来るのでしょうね。貴方が有するその視点は貴重であり、そしてその視点を言語化出来る存在は更に貴重です」
反論の余地など無い。
そう示すかのように、教授の言葉に迷いは無かった。
「今回の場を準備するにあたっては大きく骨を折りました。貴方が暗に指摘したように、今回の一件で私達がアルバスに連絡を取る一手段を喪ったのかもしれません。今後、実際に困る事が出て来るのかもしれません。しかし、私はその価値が十分に有ったと思います」
「……貴方の寮生達を叩きのめしたのを見ておいて良く言えますね」
「まあ、私が考えていたより遥かに手酷くやられたのは否定しませんが」
ミネルバ・マクゴナガル教授は流石に困ったような、疲れたような表情を浮かべた。
「けれども、私の選択は間違っていなかったのだろうと、そう思える事は確かに有りましたよ。貴方がウィーズリー達に対して投げた最後の言葉。あれは絶対に私の口から、そしてグレンジャーの口からも決して出なかった内容ですから」
「彼等がもっとも傷付くであろう言葉を意図的に選択した。そうだとしても?」
「自分の意図通りに動く物は無い。そう言ったのは貴方でしょう? そして、私から見れば至極当然ですよ。貴方は何故グレンジャーやデラクールが手を差し伸べようとするのか、その理由すらも全く理解出来ていないのですからね」
僕が最も不可解に思える部類の人間達を出すのはやはり反則だと思う。
「貴方が傷付けようと思った相手が、傷付いてくれるとは限りません。それと同様に、貴方が心を折ってやろうと考えた相手が、そのまま屈したままであるとは限りません」
「彼等はハーマイオニー程に強くない。そう言ったのは貴方ですが?」
「か弱いと言った覚えも有りません。彼等は私が誇りに思っている私の教え子達です」
その返答は堂々と、胸を張ってなされた。恥じる色も一切無かった。
「そして、貴方も同様なのでは? 注意深く観察する事さえ出来るのならば、貴方は案外解り易い人間です。この場に居たのが双子達の弟や妹であれば、いえ、仮に彼等の三人の兄の誰かが相手だったとしても、貴方は先程の話をしようとしなかった。私は傍らから見ていてそう感じましたが、違いましたか?」
「……良く解りますね」
「伊達に貴方を見て来ていませんからね」
そして視線が険しいままだったので、軽く両手を上げつつ僕から口を開く。
「魔法族──その子供が最も〝マグル化〟しやすいであろう分野というのは解り切っており、そして革命にはカネが必要なんですよ。特に、外の世界から文物や人間を持って来ようとする場合には。ウィーズリー・ウィザード・ウィーズはその架け橋に成り得る器かもしれない。彼等は好奇心旺盛で、何より新しい世代の発明家だ」
まあ彼等が何処まで
近代社会で世界を変える原動力となったのは、王でも貴族でも無く、産業資本家だ。そして現代社会で最も金を持つ個人は実業家であり発明家であり、慈善家でもある。
「……貴方は何処まで先を見通しているのです?」
「見通してなど居ませんよ。あの怪物と一緒にされては困る」
芽の有りそうな所に少し嘴を突っ込むのが精々で、結局は彼等次第だ。そして、彼等に対して全てを賭けた訳でも無いし、彼等が失敗したとしても何も思わない。絶対に勝たねばならない騎士団長閣下と違い、僕は百の内の一つでも実れば十分で、そもそも片手間だ。
教授は大袈裟に息を吐いた後、気を取り直して言った。
「確かに今回の貴方の所業や態度は、決して褒められたものではないでしょう」
その表現に微苦笑する。
褒められたものではないとは、余りに
「貴方は他人に厳しい以上に、他人への悪意を隠さない。貴方なら幾らでも違う方法が思い浮かぶでしょうに、相手の心を最も抉る手段こそを一番に選択する。貴方は世間的には善良と呼べる存在ではなく、けれども、その一方で私は貴方を非常に評価しているのです」
「…………」
「そして、心の底から望んでいるのです。貴方がその力を破壊ではなく創造に、堕落ではなく救済に用いる事を。この魔法界で正しく生きてくれる事を」
だからこそ聞いたのだ、と彼女の瞳は言っていた。
お前は
「正しい云々に絶対など存在しない」
教授の言葉に反発を覚えたのは、やはりその部分だった。
「闇の帝王やルシウス・マルフォイ氏達も自分達が正しいと思ってやっている。貴方達の正義は所詮独善的で在って、社会的が許容する訳ではない──という戯言は止めておきましょうか」
「それが賢明でしょう」
眼を光らせてくる教授に嘆息する。
今度は冗談は求められていないようだ。何時もはもっと甘い筈だが、今日は余程不興を買ったらしい。或いは茶化すべきでない話題だからか。
「ですが、教授。心遣いは有難く思うものの、御断りさせて頂きますよ。貴方の申し出が異例の親切と本心からの善意である事を理解して尚、僕はそれを受ける気が無い」
僕の返答に、ミネルバ・マクゴナガル教授は静かに視線を返してきた。
動揺もなかった。彼女はやはり〝教授〟だ。期間だけ見るのならば、ほんの僅かとは言えども、前校長やスネイプ教授より付き合いは長い。僕の返答を最初から予期していたのではないかとも思った。
「…………理由を聞いても構いませんか?」
「──単純に、教授が見誤っているからですよ」
ミネルバ・マクゴナガル教授は良い方向に考え過ぎている。
悪い訳ではないのだろうが、彼女もまた、自分中心で物事を捉えている。教授はバーテミウス・クラウチ・ジュニアとは違う。彼女は肉親に憎悪や殺意を抱いた経験を一度も御持ちでは無い──要は僕達と価値観を異にしている。
「僕が散々不満をぶちまけている理由を、貴方は、僕が世の中を変えたいという志を抱いているからだと考えている。しかし、それは違うのです。僕は革命に焦がれているが、革命に身を投じたいとも思っていない。僕にそれだけの理由は既に無いし、そもそも今や彼女に求められてすら居ない。まして僕は、自身が速やかに排除されるのが最も望ましいのではないかと疑い始めている」
僕はもう、前など向いていない。
「……話が見えて来ませんが」
「見えるように話す理由が有りますか、ミズ・グリフィンドール?」
「…………」
「嗚呼。そして、この話の始点は進路相談であり、将来の話でしたね」
もう二年後か。
思った以上に、年月が過ぎるのは早いものだ。
「まあ、結論から言えば、ルシウス・マルフォイ氏の世話になりますよ」
最初から、僕に多くの道など無かった。
去年の夏の最後、現マルフォイ家当主と短い会話をした時点で決まったようなものだ。
「魔法省。あの砂の家に全く興味が無い訳ではないですが、やはり良い顔をされる職場では有りませんし、今後の時世からしてスリザリン生を受け容れてくれるかは割と怪しい。貴方の推薦はそれを踏まえての事なのでしょうが、その必要は有りません」
「私の提案を退けるのは構いませんが、では何の仕事をするつもりなのですか」
「さあ?」
「……さあ、って」
この瞬間だけ、教授は本気で困惑したような表情を見せた。
そして僕もまた、本気で笑う事が出来た。
「言われた所に行き、言われた事をやるだけですよ」
これを手紙でルシウス・マルフォイ氏に伝えた際、文面上でも解る位の困惑は感じ取れた。直接伝えたドラコ・マルフォイに至っては、理解出来ない怪物に向けるような眼で見られすらした。だが、僕としては、それ以上も以下も無い。
貴方がたが決めろ。僕はそれに従う。
「仕事なんぞ、将来なんぞに拘りは無い。質素な生活をする限りという条件は付きますが、十年くらいなら母達が遺した遺産で食い繋げもする。そもそも我がスリザリンの中で真っ当な労働をやっているのは極小数でしかなく、参考になる例が存在しない。ルシウス・マルフォイ氏が携わるのは名誉職ばかりですし、そして我等が帝王は疑問の余地無く無職な訳ですから」
割と自信のある冗談だったが、今度の教授は聊かも表情を変えはしなかった。瞬きすら一切しない程に揺らがなかったのだから、寧ろ逆に感嘆すらしてしまった。
「……兎も角、彼等に希望を出したのは、〝マルフォイ〟の関係者として特別扱いされたい訳では無いという事だけ。煌びやかな職場、誇りを持てる仕事なんぞ求めていない。彼等の監督下に無い、凡庸で地道な仕事で何も問題はない」
とは言うものの、何処かで首輪と紐を付けられはするだろう。
そもそも氏のコネを使おうとしている時点で、その柵からは逃れられない。
「しかし、レッドフィールド。それは貴方が自分で決める事から逃げるという事です。ホグワーツ教授として、私はそれを好ましくは思いません」
「御言葉ですが教授、貴方もまた、半純血に過ぎる」
非魔法界に染まり過ぎている。
「道を選べない者は居るんですよ、まさにドラコ・マルフォイがそうであるように。そして職業選択の自由なんぞ、スリザリンの価値観からすればふしだら極まりなく、存在しない方が良い。一々将来の夢なんぞに思い悩む必要は無くなるからだ」
「けれども、それは貴方の価値観では無い筈です」
「同じですよ。闇の時代が来るのであれば、そうでなければならない」
未だ闇の帝王の考えが完全に掴めた訳では無いが、何となくは察せている。
彼は〝スリザリン〟足らんとしているのだろう──絶対に、そう成れはしないのに。
「そもそも教授。貴方の申し出をのうのうと受け取れるようであれば、僕は最初から困っていない。何より、その為の大前提からして成立していない。僕が光の陣営に付かず、貴方の騎士団長殿にも頭を垂れない。その核心的理由を、既に察しているのでは?」
言いながら、僕はローブの襟を正しつつ椅子から立ち上がる。
義理は十分果たしたという気がしていたし、教授は見上げるだけで止めなかった。僕達の会話を見守るしかないらしいハーマイオニーもまた、僕を止められなかった。
「……貴方は、アルバスが負けるかもしれないと考えているのですね」
「ええ。多少は分が良いかもしれないとも思っていますが」
一つの特別な駒の分だけ、分があるとは思っている。
けれども、あの魔法使いの敗北を視野に入れているのもまた事実。
スリザリンは勝利の為に手段を選ばない。恩義を踏み躙り、忠誠を裏切る事も。嫌悪する相手に頭を垂れる事すらも。自身の信義に悖る道を選択する事すらも。だからあの騎士団長が勝つと信じていたならば、最初から闇に堕ちなどしない。
「アルバスは──貴方の見方によれば、この魔法界を壊し続けている。今回コーネリウスと対立し……そして貴方は、コーネリウスの次の魔法大臣や闇祓い達とも必ずや対立すると考えている。我々光の陣営の内輪揉めは終わらず、最終的に共倒れになって負ける。そう考えているのですね?」
「それは一部その通りですし、小さくない理由では有りますが」
決して無視してもならないが。
「けれども、彼が負けると思える一つの理由でしか有りませんよ。光の陣営が抱える構造的欠陥、あの魔法使いを頂点に据える弱点を、僕はそれなりに問題視している」
「……どういう事ですか?」
段々と嫌悪の色に染まり始めた表情に、たとえばと笑う。
「ミネルバ・マクゴナガル教授は、アルバス・ダンブルドア騎士団長を心の底から信頼している。この戦争を遂行するにあたり、その忠誠の証として杖を捧げ、騎士団の一員として命を賭して戦うと誓っている。これは事実と捉えても良いのですよね?」
「……それがどうかしましたか? まさか疑うとでも?」
「それこそまさか」
それを前提に一つ質問です。
人差し指を立てながら、そう問う。
「勝つ為に
「────」
ほら、と笑った。
「貴方は今、彼への叛逆を思考した」
命令違反の道を探し、身を投じる未来こそを見ていた。
「アルバス・ダンブルドアならば、決してそんな命令をしない。そのような反論を受け付ける気は有りませんよ。あの魔法使いの本性は、ハリー・ポッターが入学してからの二年間を見れば明確なのですから。いや、後一年間を余計に足しても良いかもしれませんね。まあいずれにしても、直近二年の方が例外的だというのは間違いない」
アルバス・ダンブルドアは善の側に立つ。
しかれども、必要とあれば少々外れる事を躊躇わない。
我が子のように想い、愛しているたった一人の人間ですらも、大義さえ在れば容赦なく傷付ける事が出来る。ミネルバ・マクゴナガル教授、アーサー・ウィーズリーやモリー・プルウェット、そしてハーマイオニー・グレンジャーには出来ずとも、彼にはそれが可能だ。
大いなる善に繋がる地獄の道を、彼は決して見失いはしない。
「賢者の石を守る為の機巧として、何故かチェス盤を用意させられた事に思う所は無かったのですか? 十三歳の魔女がパイプの中のバジリスクに気付けたのに、あの賢い魔法使いが見落としたとでも? 何より、アレらの事件時に生徒が故意に殺害される可能性は低かったとして、それでも不幸な事故が起こり得ないとまで言えましたか?」
クィリナス・クィレル教授が生徒の無差別殺戮に踏み切らなかった。
その理由は、彼に憑りついていた闇の帝王の意向以上に、彼に残された最後の善なる心の御蔭だと僕は考えている。
スリザリンのバジリスクは生徒を一人も殺さなかった。
その理由はやはり、トム・マールヴォロ・リドルが望まなかったという以上に、偶々出合い頭にバジリスクの眼を見るような事が起きなかった、単なる幸運の結果に過ぎないと僕は認識している。
まあ、その推測が正しいかどうかは別として。
明らかなのは、一人の魔法使いの智謀が大団円を招いた訳では無い事だ。何処かで歯車の狂いが有れば、容易に悲劇に転ぶ程の物語でしかなかった。
「他にも疑問に思いませんでした? ハリー・ポッターを守る最善がダーズリー家に預ける事だとして、しかし虐待の発覚時点で何故次善を選択しなかったのか。かつてポッター家にやろうとしたように、あの騎士団長が秘密の守人となり、更に校長職なんぞ放り投げて二十四時間守護すれば良かった。貴方がたに言わせれば、彼は『例のあの人が恐れる唯一の人物』なのですから。どんな複雑な呪文より、母の大いなる愛より、彼の存在こそが最強の盾なのですから」
身体を喪っている帝王への対抗手段として、彼は自分の身を捧げて守る道を選ばなかった。
闇の帝王が一度滅び、彼こそが『予言の子』である事が解ったにも拘わらず。
その理由は既に僕には明らかとなっている。
その道が、過去の己とアリアナ・ダンブルドアを思い出させたからだ。自由を愛する自分本位で利己的な男は、赤の他人の息子に十数年間も縛り付けられたく無かったからだ。虐待を受ける児童の不幸を消すより、己の気楽な人生の方が
けれども、彼女達の視点では未だに不可解のままの筈であり。
「……嗚呼、しかし。貴方はそれでも最終的に、彼の言葉へと従っている」
打ち明けられ、察し、理解している僕と違い、ミネルバ・マクゴナガル教授は一切の理屈抜きで、アルバス・ダンブルドア騎士団長の行動を肯定している。
「まあ、恐らく裏では色々と抗議をし、抵抗はしているのでしょう。それでも貴方は最も重要な部分に関し、あの前校長に決して叛逆しなかった。その忍耐と沈黙こそが、確かにアルバス・ダンブルドアへの無毀の信頼と無比の忠誠を表している。心底敬服する強固な関係性であって──だが、世の大多数の人間は、間違いなくそうでは無い」
それだけ強い人間は、そう居ない。
「裏切りとは、コーネリウス・ファッジのような、或いはピーター・ペティグリューのような解りやすい行いのみを言うのでは無い。ジェームズ・ポッター達が真の秘密の守り人を秘密にしたのもまた、あの騎士団長閣下への裏切りだ」
グリフィンドールは二元論が御好きだ。
光でなければ闇。闇でなければ光。その二つで物を見ようとする。
コーネリウス・ファッジ、或いは魔法省という邪魔者の息の根を完全に止めてやらず、将来に禍根を残してしまうのも同様。あの騎士団長閣下は平然と自分達が同じ陣営であると嘯いた筈で、けれどもこの世界はそんなにも簡単な仕組みをしている訳ではないだろうに。
そして敵の敵が敵という事もあるように。
味方こそが最大の敵という場合もまたある。
『シリウスがポッターの『秘密の守人』だった』。
その旨のアルバス・ダンブルドアの証言は魔法省に存在し、それこそが、シリウス・ブラックを裁判無しで牢獄送りにした最大の証拠である。つまり、彼はポッター家の守り人の素性を全く知らなかったのではなく、明らかに彼等から嘘を教えられていたのであって──けれども、そうすべき理由は有ったのだろうか。
敵を騙すにはまず味方から。
嗚呼、それも場合によっては非常に有効な策では有ろう。
しかしながら、闇の陣営との密通が絶対に有り得ない大魔法使い、自分が帰属する組織の最上位の長に対してまで秘密にする事は、
「……貴方はジェームズ達を批難しているのですか?」
「とんでもない。寧ろ、彼等の行動は理解出来ると言っているのですよ」
アルバス・ダンブルドアの敵対者として、ジェームズ・ポッター達の弁護側に立っている。
「彼は不可解でしょう? 秘密主義でしょう? 彼の行動と理念は余人にとって常軌を逸しているでしょう? 何より彼は団員達に言うでしょう。お前に対し、自分が何もかも説明するなど期待するな。ひたすら信用しろ。何を説明せずとも、お前より賢い自分は全て納得ずくでやっているのだ。たとえ自分がお前を信じていなくとも、お前の方は自分を信用しろと」
耳にした事は一度も無くとも、ありありと光景を想像出来る。
「そして、そんな彼の態度に対し、反発や敵愾心を抱かない方が異常だ。これくらいは大丈夫だろうと言う甘い考えや、彼が間違っていると独断で決めつけて命令違反する人間が出て来るのも良く解る。ジェームス・ポッター達の憤り、そして選択も真っ当な物だと感じる。しかし──それは理解出来るというだけで、個人的に感心は出来ない」
魔法族が非魔法族に唯一絶対的に劣るのが、その社会性の欠如だ。
産まれた時から個として強いが故に、群れから逸れても一人生きる事が出来たが故に、個人主義の精神が血の中に刻まれている。上意下達の絶対服従が出来ない。非魔法界の古代ローマを筆頭とする強大な帝国が有しており、近代国民軍も当然のように獲得した組織としての頑強さを、魔法族は決して持ち得ない。
「そしてその毒こそが彼を敗北へと導き得る。
そしてアルバス・ダンブルドア前校長は出来ない。
あの超越者に、真に人間の心を理解する事は不可能である。
「……随分と解ったような事を言うのですね。ミスター・マルフォイへの貴方の対応を見る限り、貴方もまた、アルバスの傲慢さを責められる口では無いと思いますが」
「それはまた別の話ですし、そして全く違うとでも?」
既に睨む事を止めない視線を、静かな心持ちで受け止める。
「貴方がたの中に騎士団長に対して反感を抱くのみならず、その不満を公然と表面したり、気軽に命令違反をしたりする人間は全く居ないと? それを貴方がこの場で保証してくれるなら、僕は簡単に自説を撤回しますし、何なら貴方の提案に耳を傾けても良い」
そして返答の無いのも解り切っていた。
全てがアルバス・ダンブルドアの思惑通りに進んでいたなら、ハリー・ポッターが守護霊騒ぎを引き起こす事なんぞ有り得なかっただろうに。
「上官命令絶対服従は、古今東西問わず、
勿論、あの騎士団長は団員にそれを望んでいるのだろうが、端から無理な話だ。
彼が配下においているのは同じ魔法族であって、そもそも彼自身、スネイプ教授を懐に入れている時点で、真面目に組織経営する気を感じない。幾ら勝利への最短の道だろうが、理屈上は団長に万能の指揮権が存在しようが、組織として選んではならない道、帰属する者に不信や不安を与えない努力義務は有る筈だ。
まあ闇の帝王も割と気にしていないきらいがあるものの、それでもやはり、騎士団長閣下よりは遥かにマシに思える。彼に対する抗命は基本的に死を意味するからだ。また、騎士団長以外は一切が横並びであろう不死鳥の騎士団とは違い、〝純血〟の結束をそのまま転用している都合上、組織内での上下の序列は割と明確に見えるからだ。
「そして最早彼も、僕を仲間に引き入れようとは考えていない」
彼は善人足らんとしているから、僕が屈すれば当然受け容れはするだろう。
しかしミネルバ・マクゴナガル教授が何と言おうと、ハーマイオニーが何と懇願しようとも、協力員が精々。騎士団員として迎え入れる事は無く、中枢に近付ける事も絶対にしない。
「彼とは色々話をしましたが、結局、あの偉大なる魔法使いは理解してくれたんですよ。僕は彼に絶対に従わない。万一成り行きで頭を垂れようと、
マルフォイ家には出来ない。他の大勢の死喰い人も例外では無いだろう。
それでも、僕にはそれが出来る。これは彼との共通認識であり、理解だった。
「彼と僕の勝利条件は一致していない。そしてそれ故に、最後の最後に食い違い、致命的な結末を招くかもしれない。それが伝わったからこそ、あの騎士団長は僕に手を差し伸べる事を諦めた。御互いに、その方が良いと信じたのだ」
誰もが本質を見誤っている。
〝アルバス・ダンブルドア〟の仮面を見て、彼は自分とは違う立派な英雄なのだと。
しかし、違うのだ。彼は怪物だが、それでも全てが人外染みている訳でも無い。
愛する一人と世界を天秤に掛けられれば、愛する一人こそを選んでしまう程度の感性は有している。我が子の為なら大勢を見捨てられる、世の親と同じ弱さを持っている。それ故に、僕の
「……けれども、完全に一致しないという事も無いでしょう。貴方は今のところ、ダンブルドアを決定的に邪魔する行為は取っていない。妥協の余地は有る筈です」
「校長を追い出す事を止めなかった僕に、そう言うのですか」
「貴方が本気であったならば、このホグワーツに闇祓いと死喰い人の両方を引き込んで、彼等が決闘を始める状況を作る位の事はやっていた筈です」
「そこまで褒められると流石にむず痒くなって来ますけどね」
謙遜する言葉すら出て来ない程に呆れ、苦笑する。
ハーマイオニー達が作ったのが
「それでも気に入らない事、共に歩めない場合は存在するという事ですよ。コーネリウス・ファッジが辞めた後、アルバス・ダンブルドア前校長が──まあ、ハリー・ポッターもですか。彼等が魔法省を庇う言動を発信し、役人達を味方に付ける努力を一切しないであろうように」
自分達の気に入らない相手なら、敵に回している方が遥かにマシだというように。
「まして僕達は向いている方向が違うのだから、猶更共に歩めなどしない」
林檎は自然に落ちるのではない。巨大な質量に引かれて落ちるのだ。
今の魔法界にはそれが二つある。一方に引かれないなら、片方に堕ちるしかない。
「ねえ、ミズ・マクゴナガル」
この世界で数十年の生を紡いだ人間に向けて、僕は問い掛ける。
「貴方がたは、非魔法族──魔法力を持たない者達に対してどれだけ親切なのです? 貴方がたは心の何処かで彼等に対する差別意識、あいつらには何も理解出来ず、自分達が護ってやらねば何も出来ないという選民思想を御持ちではないですか?」
魔法族至上主義者は、この魔法界の全てに蔓延っている。
「百歳を優に超えている老人が、若ければ三十そこそこ、それより年を取っていても精々四十や五十程度でしかないダーズリー家の若造相手に、まるで悪戯小僧のような真似をして良い道理はないでしょう。彼等が幾らハリー・ポッターを虐待していようとも、何の法的根拠も無しに魔法を用いた私刑を許容する事は、この現代社会で有ってはならない」
ハリー・ポッターやウィーズリー兄妹が同じ事をやるのとは違う。
彼等は法律上未成年者であり、ハリー・ポッターについては正当な復讐の範疇ですらあり、けれどもアルバス・ダンブルドアは断じて当て嵌まらないからだ。
そもそも、あの騎士団長は自分の都合でダーズリー家に無理強いをして、ハリー・ポッターを護って貰っている身なのである。彼は決して詐欺や脅迫、偽計を用いてはならない。誠意と共に深々と頭を下げ、ダーズリー家から真の同意を取ろうと努力するのが筋ではなかろうか。
「まして、普通の善良で真っ当な価値観を持っている夫婦相手ならば、猶更に丁重に扱い、懇切丁寧に事情を説明すべきでは有りませんか? 判断材料と成り得る全ての情報を開示し、彼等に自由意思での選択権を与えてこそ、グリフィンドール共が嘯くような魔法族と非魔法族の対等は初めて実現すると言えるのではないですか?」
誰達とは指していない。
けれども、ミネルバ・マクゴナガル教授なら解った筈だ。実際、表情は依然として変わらずとも、加齢により皺が目立つ皮の下には確かで、大きな動揺が見えた。
「僕が今まで一度も考えなかったとでも? 彼等二人が止められないかどうか。貴方達がハリー・ポッターの望みや願いを平気で踏み躙る事が出来るように、彼等もまた同じ大人として、同じ行為に及べないかどうかを」
「……そ、それは、私の両親の事を言っているの?」
「──嗚呼、流石に気付くのか」
気付かないと踏んでいたが、僕が甘く見過ぎていたらしい。
震える声で口を挟んで来たハーマイオニーを一瞥し、しかし向き直る先は教授だった。
「貴方がたは最低限の事情説明はしているのでしょう。けれども、間違いなく全てを伝えては居ない。ええ、貴方がたグリフィンドールは事あるごとに〝マグル〟の味方だと主張しますが、それは身勝手な自惚れに過ぎない。少なくともグレンジャー夫妻はそう看做さない。僕は彼等に直接会った事が有りますから断言して良いでしょう」
今年度の魔法界は見るに堪えないものだ。
一応政府扱いされる組織の頂点が平然と嘘を喧伝し、教育機関の長でしかない筈の前校長が違法に私軍を構築し、生徒が教師の眼を盗んで軍事訓練ごっこをやり始め、そして今は教授ともあろう人間が校内の無秩序状態を黙認している。それに加え、箱庭の外では一つの種の浄化を目論む魔法戦争が既に始まっていると来ている。
去年度までの四年間の秘密の数々を抜きにしても、これらの魔法界の真実を伝えた時にグレンジャー夫妻が為すであろう反応は、やはり容易に想像出来る。性根が真っ当で善良であればある程に、その動きは見えやすいものだ。
「彼等は認めはしない。〝アルバス・ダンブルドア〟の偉大なる計画を、その中にハーマイオニー・グレンジャーを道具として組み込む事を。それが一人の少年を救い、果てに魔法界を救う結果を齎す事になろうとも、絶対に。何故なら知らない他人の子供の命よりも、死に行く無辜の大勢の命よりも、一つの世界の救済よりも、愛娘の安全と幸福の方が遥かに大事だからだ。彼等にとって、十六の小娘は親による絶対の庇護対象だからだ」
闇の帝王に牙を剥いたソレが、今世紀で最も偉大な魔法使いにも牙を剥き得る。
両者等しく人でなしなのだから当然の理である。
「そしてミズ・マクゴナガル。貴方もまた、非道を為している」
ならば、この正義と秩序で在るべき教授が全保護者に全てを伝え、非魔法族生まれの全員に対して国外避難を奨励する──そんな善行を僕が期待するのは、果たして筋違いだとまで言えるだろうか。ホグワーツはこの島で最も安全な場所で在ろうと、しかし世界で最も安全な場所だという訳では無い。
「仮に意識的な行いでなかろうとも、グレンジャー家への、そして全ての非魔法族生まれへの罪深さを忘れて貰っては困る。貴方がたの今やっている事は、自分達の事情しか考慮しない身勝手な
焦って口を挟もうとして来た少女を遮って、僕は言い切ってみせる。
「
彼女の進路は、彼女の自由意思の下に決定された。
「僕は彼女の選択を尊重しますし、またアルバス・ダンブルドアと同様に、部外者である非魔法族なんぞ割とどうでも良いと考えている。それは彼女の両親ですらも例外では無い。彼等の我が子への心配や愛情より、ハーマイオニーの決断と行為の方が絶対的に優先される。……そんな顔をするな、ハーマイオニー。やはり現実は正しく認識しておくべきだ」
あの魔法使いはグレンジャー夫妻の居場所を上手く隠し通している筈であり、故に
そして、ミネルバ・マクゴナガル教授の瞳が燃えた。
「──しかし、貴方のように明確に悪へ立つのも違う筈です」
本当に見事なものだ。そうつくづく感服する。
そして先程居た双子も、この場に居る少女も見習うべきだ。心から思う。
教授の眼は初めて見る色をしていた。怒り、敵意、正義感。熱い碧の奥に、僕は確かに不死鳥を見た気がした。獅子やグリフィンではないのは、何だかんだ言って、グリフィンドールの体現者はアルバス・ダンブルドア以外に居ないと、そう僕が見てしまっているからなのか。
身震いする己を自覚し、けれども直ぐにあえなく、儚く消えた。
我に返った教授が大きな咳払いをし、自分を取り戻してしまったからだ。今度の瞳には恥じる色、生徒の前で我を忘れた事への反省が有り、散々逡巡の様子を見せた後、彼女はポツリと零すように言った。
「……貴方は、我が道を行くのですね」
「ええ」
その確認に、僕は確かに頷いた。
ハーマイオニー・グレンジャーは、間違いなく事情を掴めて居なかった。
何故、教授が批難を止め、それ以上を言わなかったのか。何故、僕が何の疑問も持たず、簡単に肯定してしまったのか。一瞬でありなからも多弁であった遣り取りを知らない彼女は、この場から置いてけぼりにされていて、完全な部外者で、けれども介入出来る程の言葉を持たないようだった。
そして僕達は御互いに説明してはやらなかった。
僕は既に説明する言葉を持ち得なかったし、一方で教授はグリフィンドール寮監だ。この場で無かろうと、彼女達には幾らでも話し合う時間は有る。
「僕の頭には幾らでも非道が、〝合理的〟な方法が思い浮かぶのです」
吐露した言葉を、ミネルバ・マクゴナガル教授は黙って聞いていた。
「例えば、狼人間の差別を無くす方法。その最短経路として為すべきは、脱狼薬の改良では決して無い。この魔法界にも幾らでも不治の病が存在し、更に非魔法界のインスリンの歴史すらも知る僕には、狼人間の『治療』薬を発明する魔法薬学者が五年や十年で現れるとは思えない。だからこそ、即効性の有る手法を考えてしまう。彼等に対して一定程度の強姦を認め、統計を取り、研究してやれば良いと」
彼等が魔法界から排除されている最大の理由。
それは、彼等の形質が子供に継承されるのではないかという恐怖である。
その答えを魔法族は知らない。
何故なら、魔法族が狼人間に対して大きな関心を抱いて来なかったからだ。狼人化の機序が全く周知されていないからだ。何より単純に、狼人間とその子供という研究対象──実験材料が少ないからだ。
けれども、闇の時代ならば。
やはり、〝科学〟をやれるだろう。
数百の実例を観察した上で人狼化が遺伝に纏わる病でないと判明すれば、彼等を差別する理由の一つが即座に消える。残念ながら遺伝病だと判明したとしても、狼人間を自由に解体出来る世の中が来れば、魔法界の〝医療〟を数十年進め、今後苦しむ子供達を減らす事になるかもしれない。
「……貴方の価値観は、それを肯定するのですね」
「ええ。狼人間達は長らく虐げられ続けて来た。何十年と待ち、耐え忍んで来た。それに対する魔法族の回答は三年前の『反狼人法』でしょう。この状況で彼等に更に待てと言うのは魔法族の一方的な我儘で、余りにも道理が通らない」
リーマス・ルーピン教授は思った筈なのだ。
アルバス・ダンブルドア前校長が魔法大臣であれば、あの法は廃案に持ち込めたのではないかと。そして、世の狼人間達が失望を抱き、自暴自棄になるのも当然だろう。また、この魔法界が曲がりなりにも共同体である以上、起草者であるドローレス・アンブリッジならず全ての魔法族が責任を負うべきである。
「魔法界についても同じ。アルバス・ダンブルドア前校長、そしてその教え子達が作って来た結果が現在の魔法界だ。しかもコレを作るのに費やされたのは単なる五十年ではない。今世紀で最も偉大な魔法使いという最強のカードを有していた上での五十年だ。であれば、貴方がたが勝った後の五十年もまた全く期待出来ない。そう考えるのは非合理的でしょうか?」
内心でドローレス・アンブリッジへの抵抗運動を支持するように。
僕の感情はダンブルドア王への抵抗運動、既に持つ者への叛逆を支持してしまう。
「一方で今世紀で最も偉大な魔法使いが斃れ、闇の帝王が魔法界に君臨すれば即座に変わるでしょう。世界は変わらざるを得ない。負けた貴方がたの側も、勝った彼等の側も。ええ、闇の側ですら〝外〟に無関心で居られない事は既に示している。非魔法界への接近は、スリザリンを主導としても可能だ」
スリザリンが『純血一族一覧』を産んだ数十年後にグリフィンドールが産んだのは、ウィーズリー兄妹であり、ネビル・ロングボトムでもある。自分の血の意味を理解せず、非魔法界への近接すら考えない者達である。この有様で彼等が〝マグル〟の味方を標榜するのは、余りに自惚れが過ぎるというものだろう。
そして、闇の帝王もスリザリンの〝マグル化〟を止められない。
非魔法界こそが彼の出生の神聖を保証するからこそ、止める事が出来ない。
「闇の時代が善いモノにならない。そんな貴方達の主張は正しいのでしょう。それでも尚、闇の帝王が汚名と悪名を一身に背負い、意図しない結果だとしても種族の時計の針を進めてくれると言うのなら、僕はそれを善で正義だと肯定する。肯定してしまう。貴方がたはコレを悪だと仰るが、僕もまた、貴方がたの作った世界を善だと認めていない。こうして敵対するのは必然なのです」
東方遠征にしても十字軍にしても、或いは大航海時代や植民戦争にしても、それらは世界の広範囲へ多大な災禍と不幸を撒き散らした。彼等の一方的で身勝手な獣欲は多くの人命を奪い、暮らしを永久に破壊し、貴重な建物や文物、文化そのものを灰燼に帰して来た。
けれどもそれが全てでは無い。
殺し合いは往来を、そして交流を産んだのだった。
「……闇に堕ちるという事は、貴方が思う程に素晴らしい道では有りません」
念押しのように小さく紡がれた言葉に、僕は微笑みと共に答える。
「承知の上だ。僕はグレンジャー夫妻に磔の呪文や死の呪文を放つ事を想定し、覚悟している。そして僕は間違いなく、一切の躊躇いなくやれる人間だ。少数の、しかしスリザリンにも確かに居る死喰い人に向かない者達を知るからこそ、逆にそれを確信出来ている」
「…………その果てにグレンジャーと殺し合う事になるのだとしても?」
「それは有り得ませんよ。ハーマイオニー・グレンジャーが完全な敵に回れば、僕に殺し合いなど出来ない。何も出来ず、ただ一方的に殺されるだけです」
悪の報いは受けねばならないのだ。
「────」
そうして、僕はとうとうミネルバ・マクゴナガル教授にソレを見た。
諦念。そして受容。
彼女は僕の更生不能を認めていた。僕を光の陣営に引き込む事を断念し、僕が死喰い人に堕ちる事を許容してしまっていた。彼女は、僕と杖を向け合い、殺し合う未来を見ていた。
自分で生み出しておきながら目にしたくなかったというのは、流石に身勝手が過ぎるだろうか。意図通り、希望通りだというのに何の勝利感も抱けやしない。寧ろ逆、敗北すら感じていたし、そして、このような一種の感動を僕が覚えられるのは果たして何時までの事だろうか。
更に笑みを深めた後、ローブを翻そうとし、
「──嗚呼、それと。ハーマイオニー・グレンジャー」
しかし、伝え忘れてはならなかったと。
放心状態で、眼の焦点すら合っていない彼女に呼び掛ける。
彼女が気付いているなら一向に構わないのだが、気付かないまま変な迷いを抱かれる方が困る。意味が薄かろうとも、言葉にして伝えておくべきだろう。
「先程はああ言ったが、君がこの魔法界に留まる事は、
ハーマイオニー・グレンジャーは正義である。
徹頭徹尾、たとえ一つの世界が崩壊しようと、そう在らねばならない。
「──ミネルバ・マクゴナガル教授。貴方なら答えを御持ちでしょう」
今度は眼に見えて混乱を始めた少女でなく、僅かに冷静さを取り戻した教授へ問う。
「第一次魔法戦争時に杖を取りもせず国外に逃げ去り、或いは非魔法界に隠れたりした〝マグル生まれ〟。彼等の振舞いを、自分に命の危機が迫ったのだから已むを得ないのだ、そう言う人間は確かに居るでしょう」
僕とて、その想いが全く無い訳ではない。
「けれども僕はこうも思ってしまう。彼等は〝穢れた血〟だと呼ばれるのも当然の愚物だと。サラザール・スリザリンの述べた通り、最初からホグワーツが迎え入れるべきでない不適格者だったのだと。その理由を、真なる魔法族である貴方なら察せる筈だ」
侮蔑を籠めた差別用語に彼女は顔を顰めたが、それでも答えを紡ぐのは躊躇わなかった。
「……魔法使い機密保持法が存在する以上、彼等の子供は何れホグワーツに……若しくは他の魔法魔術学校に通う事になるから。違いますか?」
「正しくその通りです。彼等の逃亡は、彼等に流れる血への裏切りだ」
自分達は悲劇から逃れられても、自分の子達こそが宿業を負う。
魔法力を有する子を産めば、この世界で生きる事を事実上強制させられる。だからこそ、ジェームズ・ポッターとの結婚という理由が有ったにせよ、リリー・エバンズの行いは正しい。
勿論、ホグワーツは家庭教育を認めはする。他の魔法魔術学校も大概そうである。
けれども、本当に家庭教育が可能なのだろうか?
それは親達が杖の技術を教えられるのかという意味では無い。
非魔法界育ちの魔法族の子供に、自分が孤独のまま研鑽を積まねばならない──家庭教育を選んでも、血縁や仕事等の理由で子供間の交流が維持される純血達とは違う──環境を、果たして当人に納得させられるのかという疑問である。
魔法魔術学校を頼らずに魔法力を持つ子供を育てるとなれば、親は必然的にその子供を軟禁状態に置く羽目になる。
何せ国際機密保持法の縛りが有る以上、魔法の力は外部に秘密にせねばならない。更に制御不能の魔法は他人を、特に自力で身を護れない非魔法族の子供を容易に傷付け得る。だから、非魔法界で同世代の子供と交わるなんぞ以ての外で、そして非魔法界には魔法族の子供は居ない。彼等の全てはやはりホグワーツに行くのだから。
そのような隔離措置は、この僕ですら割と嫌気が差していたのだ。だから、真っ当な子供ならば余計に耐え切れないように思える。一度は強情を張った親達も、最終的にはやはり、ホグワーツ或いは他の魔法魔術学校に子供を通わせる事になるのではないか。
「故に、彼等は闇の帝王と戦うべきでした。この魔法界の呆れた因習から逃げる事なく、踏み留まって社会改革へと挑むべきでした。文字通りに新しい血である彼等にこそ、それが望まれていた筈で、けれども彼等は
彼等は自己の幸福を優先して、この腐った世界を見捨てて去って行った。
それが巡り巡って彼等の不幸へと繋がるという現実に向かい合いもせず。
「そして、僕が『ダンブルドア軍団』に期待した真の理由はそこですよ。ハリー・ポッター達は余り自覚しているようには見えませんが、彼等の心の根底には明らかに非魔法界が在る。魔法界に染まりきっていない。まあ、今回は学生の
最終的な結果が出るのは数十年先の話だ。
彼等の中にはスリザリンが居ないようだが、
『生き残った男の子』の〝革命〟に役立ってくれる事だろう。
そうして、僕は今度こそローブを翻した。
何も言い残す事も無く、何も言えなくなった二人を後に、僕は狭苦しい部屋を去る。
いや、去ろうとしたが、それは許されなかった。ミネルバ・マクゴナガル教授は間違いなく敗北した筈だが、それでも〝
「──貴方が真に選択を決する際、もう一度、私の下を訪れなさい」
その言葉の真意を図りかね、思わず立ち止まる。
数秒の時間を費やして、それが何処から来た言葉なのかを漸く思い出した。
「……確か、三年前の事でしたか?」
バジリスク関連のイメージが付着しているから、その辺りの筈だ。
朧気な記憶を何とか掘り返しつつ、立ち止まったまま、振り向く事もなく続ける。
「約束と言う程でも無かったような気がしますし、こんな流れの話でも無かった気もしますけれど。そもそも僕の選択云々と貴方の話云々は、直接関連するような話題でも無かった筈だ」
「貴方にしては、そのような曖昧な表現は珍しいですね」
「全てを記憶している訳では有りませんよ。また、更に印象的な事が有れば忘れもします」
この教授が完全に〝教授〟で無くなったのは、未だにあの一回だけだ。
「けれども、貴方が一体何の話をしようとも、僕は決して変わらない。貴方が言うような善の道には進まない。それは貴方にも理解して頂いた筈だ。だと言うのに何故、今そのような事を改めて伝えて来たのです?」
教会文学のように、一人の師の言葉に感激し、改心する事など有り得ない。
たった七年しか触れ合わない赤の他人を理由に、悪へ堕ちる道を曲げやしない。だというのに尚も関わりたがる理由は、一体何処に在るというのか。
そう問うてみれば、やはり返ってくるのは凛とした答え。
「生徒の何も変えられないようだからと言って何も伝えないままで居るのならば、その人間はもう教師と呼べません」
その回答に声を出さないまま笑った後、何か気の利いた切り返しが出来ないかと逡巡したが、やっぱり何も浮かびはしなかった。だから僕は深く一礼した後、杖を振って自分の姿を隠した上で、その狭苦しい部屋を立ち去った。
そうしてウィーズリーの双子達は『卒業』して行った。
噂に聞く限りでは、非常に劇的なモノだったらしい。
らしい、と表現するのは、単純に僕が直接見ていないからである。
結局、ミネルバ・マクゴナガル教授は危惧を捨てられなかったようだ。その騒ぎの最中、僕は一貫して罰則名目で軟禁され、彼女の監視下に置かれ続けていた。爆発や叫び声が近くで聞こえても僕を外に出さなかったし、扉を開けて確認する事すらしなかった程の徹底振りだった。そんな教授の努力の甲斐有ってか、彼等はホグワーツの伝説として刻まれた。彼等はホグワーツを去って以降も、生徒達に影響を残したままで居る事に成功した。
そしてその後は、〝無秩序〟が……訪れはしなかった。
人によっては一応そう呼ぶのかもしれないが、僕にとってはそうではない。予測した程の規模では無かったからだ。勿論、教授陣の期待通りでは有るのだろうが。
パンジー・パーキンソンやカシウス・ワリントンを筆頭に、尋問官親衛隊にはすぐさま『不思議なこと』が起こりはした。しかしそれは精々一、二日医務室送りにされただけで、直ぐに回復出来る程度の〝悪戯〟でしかなかった。後は思い出したように時折誰かが医務室送りにされては居たが、それは何時も通りのホグワーツである。そして六月に入る頃には生徒関連の事件自体が殆ど起こらなくなった事を思えば──まあ親衛隊連中が馬鹿な嫌がらせどころでは無くなったのが一番大きいのだろうが──何処かからの統制が利いているのは明白だった。
もっとも、その煽りを受けてか、ドローレス・アンブリッジとアーガス・フィルチは学年末まで散々な目に遭い続けていた。更に腹いせのように廊下や空き教室が頻繁に爆破されたり、双子が残して行った悪戯グッズが放し飼いにされる事は一切止まらなかったものの、それらすらホグワーツは段々と日常として受け容れ始めていた。僕が自主的に時間外労働、二人への助力を申し出てやる位には、この魔法魔術学校はつくづく恐ろしい世界だった。
一方でハーマイオニー・グレンジャー。
またもや叩きのめしてしまった少女の方はと言えば──大きく変わりはしなかった。
それは表面上の事に過ぎないと看破はしていたが、彼女は何も無かったように振る舞おうとしたし、僕に気を使われる事自体を嫌がった。その意思は、十一月の時より遥かに強固に見えた。グリフィンドール寮監が諦めて尚、彼女は諦めを持つには至らなかったらしい。
『ステファン。私達の卒業まで、まだ後二年残っているわ』
噛み締めるように言った彼女に、今度は皮肉を返しはしなかった。
フラーと同様、彼女に僕を見限らせる為には行動以外に無い。そう思ったからだ。
だからハーマイオニーの好きにさせたし、そしてそれ以上に、彼女の方が直ぐに僕と仲違いを考えるどころの状態ではなくなった。O.W.L.試験が近付いたからだ。
学年一の優等生の頭は、六月が迫るに比例して試験一色になっていた。
それも、僕が予期していたより遥かに酷い有様で。
進路相談後から割と怪しくは有ったのだが、試験前一ヶ月を切ると段々と勉強以外の会話が余り成立しなくなり、六月に突入して以降は完全に正気を失っていた。その取り乱しようは心配になった屋敷しもべ妖精が相談しに来る位で──非常に意外な事に、妖精達もまた僕から距離を置かなかった。ウィンキーを含め、丁重さすら増していた──彼女達の力を借りて幾度か『必要の部屋』を使用したのだが、まあ、処置無しと言った所だった。仮にハーマイオニーが試験を落とすなら五年生全員が落第になるだろうに、良くもあそこまで不安になれるものだと思う。
……嗚呼、そして。
僕は彼女の一切を止めなかった。
その普通のホグワーツ生らしさを。平凡で陳腐な幸福の日々を。今は苦しくても、将来的には良い思い出として語り得るであろう学生生活の一幕を。今回も、また。それが近い将来壊れるのだと既に予測し、今度喪う事になるのは
結局、これが普通で、真っ当な反応と言うべきなのだろう。
ハーマイオニー・グレンジャーは優秀だ。
そしてどんなに優秀であったとしても、それは学生の域を出ない。
嗚呼、彼女は第一に〝ホグワーツ生〟なのだ。騎士団員志望者以上ではない。
箱庭の外で大勢を殺す為の計画が進行し、その対象として彼女が狙われているかもしれないとしても、彼女は普通の日常へと没頭する事が出来る。O.W.L.を前にした彼女の頭にはS.P.E.W.も無く、ダンブルドア軍団も無く、魔法省や魔法族の未来も無く、ハリー・ポッターの閉心術の事も無い。何処かの時点でふと過ぎる事が有ったとしても、やはり眼の前の学生生活が最優先で──本当に重要な事を後回しにしてしまった際に払うツケの事を、一切思考しないままで居る事が出来る。
勿論、それは正騎士団員の大多数、
ハーマイオニーは単に彼等の方針に沿って過ごしただけで、彼女に咎など在る筈が無い。長く生きている事だけを理由に勝手に決め、意思を踏み躙り、型に嵌めようした結果がこれだ。結局、人間は年齢の積み重ね程度で進化する程上等な生物ではないのだろう。そうである以上、この結末が万一悲劇に終わった時の責任は、全員が等しく罪を問われるべきである。
そして当然、僕の手出しが許される領分でもない。
僕は彼等に反する側に立ち、違う側に賭けてしまっている。だからこそ、後は果たして誰が正しかったのかと、それを示す目が出るのを待つだけだった。
今回も起こる事は解り切っていて、後は何時起こるかと言う問題に過ぎなかった。
故に、O.W.L.最後の魔法史の試験中、ハリー・ポッターが絶叫と共に倒れた瞬間に、案の定の事態が起こった
まあ、事象としては一人の生徒が倒れただけではある。
これが初めてだというなら見過ごすのも已むを得ず、実際試験官で有ったトフティ教授はハリー・ポッターに単なる心配の感情だけを向けていた。
しかし、彼を良く知る者達にとっては違う。
『生き残った男の子』が学年末に騒ぎを起こすのは恒例行事であり、しかも前日から異変──ミネルバ・マクゴナガル教授の昏睡と、ルビウス・ハグリッドの逃亡という一連の事件が起こっている。更に翌日の夕刻まで待たされたのは少々、いや、かなり意外ではあるにしても、それでもコレで異常無しと判断してしまう人間は真正の大馬鹿野郎に違いない。
今回盤面に唯一残された灰色の駒も、間違いなく僕と同じ結論を下した筈で。
僕は彼等の動きの一切につき、
次回更新(三、四話程)で不死鳥の騎士団編は終了。
・神秘部の戦い当日の時間軸
割と不明な点が多いが、原作内で伺える時刻描写は以下の通り。
ハリーがシリウスの拷問風景を見た後の時刻は『いま、夕方の五時よ……魔法省には大勢の人が働いているわ』。
アンブリッジに捕まって禁じられた森に向かう最中、生徒達は『夕食を楽しみ、試験が終ったことを祝って』おり、『太陽が、禁じられた森の木々の梢にまさに沈もうとしていた』。
セストラルの速度につき『ハリーは、これまでこんなに高速で移動したことはないと思った。』
セストラルに乗っている間に『陽が落ち』、更には『深まる闇の中を飛びに飛んだ』。
戦いが終わった後、ダンブルドアの部屋でハリーは『地平線が爽やかな薄緑色に縁取られている。夜明けが近い。』と認識した。
しかしながら、先の描写内には日出・日没時刻の問題が有る。
六月半ばのスコットランド(エディンバラ)の日没は概ね午後十時、日出なら午前四時半。ロンドンであれば日没は概ね午後九時過ぎ、日出なら午前四時半過ぎ。
ホグワーツがスコットランドの何処に存在するかにより前者の時刻には多少ズレが生じるが、それでもハリー達、スネイプ、ヴォルデモート、ルシウス、騎士団それぞれの行動についてタイムラインを組もうとすると、どうしても不整合が生じるように思える。
・閉心術訓練の空白期間
憂いの篩の中でハリーがスネイプの記憶を見て追い出されたのが、イースター休暇前最後の週(五巻・第二十八、二十九章)。その事実がシリウスとルーピンに伝わったのが、休暇明けの双子の大騒動&卒業日(同・第二十九章)。そしてOWL試験は6月(同・第三十一章)。なお、現実の1996年のイースターは4月7日である。
暖炉で会話して以降、シリウスやマクゴナガルがハリーに接触してくる事は無く、必然的に閉心術の習得をどうするかの話し合いもなかったので(魔法薬学の授業においては、スネイプは一貫してハリーが居ない扱いをしていた)、約二ヶ月にわたるダンブルドアの動向や思惑は不明である。
しかし少なくとも神秘部の戦いの後、ダンブルドアは、スネイプが閉心術の授業をやめた事は『知っておる』と回答している。