「森蘭丸」(もりらんまる)は、「織田信長」の側近として最期まで献身的に仕えた小姓(こしょう:武将などに仕えた世話役)です。ゲームや時代劇、映画には、「美少年」として描かれている有名な人物。織田信長のお気に入りとして多くの逸話が残されている森蘭丸の生涯を、逸話・名言・家紋と共にご紹介します。
森蘭丸
「森蘭丸」は、1565年(永禄8年)生まれ。父「森可成」(もりよしなり)は、1554年(天文23年)に「織田信長」の客将として迎えられ、若い頃の織田信長を支えた武将でした。
森可成は、清和源氏である「源義隆」(みなもとのよしたか)の子孫で、「攻めの三左」という異名で知られた槍の名手でしたが、1570年(永禄13年)、森蘭丸がわずか5歳のとき、「宇佐山城の戦い」にて城を守りながら戦死しています。
母は森可成の正室で、美濃斎藤家家臣の「林通安」(はやしみちやす)の娘である「盈」(えい:妙向尼[みょうこうに])という見解が一般的です。
しかし、一説では側室の「高子」(たかこ)が母親だという見解もあります。
高子の出自は、戦国時代絶世の美女と言われた織田信長の正室「濃姫」の一族。そのため、美少年とされる森蘭丸の母親と考えられているのです。
森蘭丸は、6人兄弟の3男として尾張国葉栗郡(現在の愛知県一宮市)に生まれました。「蘭丸」は幼名・通称で、本名は「森成利」(もりなりとし)。
通称・幼名も、本来であれば「蘭」ではなく「乱」の字を当てるとされているため、史料には「乱」、「御乱」、「乱法師」の名で登場します。
森蘭丸は、「美少年」と噂されるほど容姿端麗だったと言われていますが、史実の森蘭丸は品行方正で、武芸・学問に優れた、立派な若者に成長していました。これは、幼い頃より父・森可成に、「織田信長様に立派に仕えられるように」と厳しい英才教育を施されていたためです。
織田信長
森蘭丸は1577年(天正5年)、13歳で織田信長の小姓として仕えはじめました。
「小姓」とは、主人の身の回りの世話だけでなく、「奏者」と呼ばれる取次役や検使(けんし:事実を目視で確認するために派遣される使者)、副状の発給、使者、来客の応対、各種の奉行など、仕事内容は多岐にわたっています。
このとき、弟であり4男の「森坊丸」(もりぼうまる)、5男の「森力丸」(もりりきまる)も一緒に、織田信長の小姓として迎えられました。
織田信長の小姓となった森蘭丸は、織田信長の側で働きはじめます。この頃、織田軍の勢威が増し始め、森蘭丸の仕事も忙しかったとされ、森蘭丸は奏者として諸将への「武家伝奏」という、武家の要請を朝廷に伝える役目を担当していました。
また、森蘭丸は織田信長の小姓として、身の回りの世話から家中・諸大名との取次等、様々な雑務をこなしており、優秀な事務官として「織田信長の秘書」となります。
また、当時織田信長には、検使であるもうひとりの小姓「万見仙千代」(まんみせんちよ)がおり、万見仙千代は数多の戦場に派遣され活躍していました。
しかし、万見仙千代は1578年(天正6年)、織田信長への反抗が目立っていた「荒木村重」(あらきむらしげ)の謀反に巻き込まれ戦死。その後、森蘭丸はこの万見仙千代に代わり、仕事を引き受けるようになりました。
「信長公記」(しんちょうこうき)によると、1579年(天正7年)に、森蘭丸は織田信長の指示で摂津国(現在の大阪府北中部)の「塩川伯耆守国満」(しおかわほうきのかみくにみつ)に、褒賞である銀子(通貨)100枚を届けています。このとき織田信長は、塩川国満が森蘭丸の容姿やふるまいに感激したと記しているのです。
上杉謙信
森蘭丸は、ただの秘書から「織田信長お気に入りの秘書」となっていきます。また、森蘭丸の上品で堂々としたふるまいは、織田信長の側近として、織田家の家臣団や敵にも認められていきました。
あるとき、森蘭丸は織田信長と対立関係にあった「上杉謙信」(うえすぎけんしん)の領地にスパイとして潜入することになりますが、上杉側にばれてしまい、森蘭丸は自害しようとします。
しかし、森蘭丸を見込んだ上杉謙信がそれを諫めました。それだけではなく、上杉謙信は森蘭丸に「城下を自由に見て回って良い」と許可したとされています。
このように森蘭丸は、敵にも認められる素質がありました。織田信長は、それを誇らしく思い、諸将や側近に「自慢できるもの」として「第一に白斑の鷹、第二に青の鳥、そして第三に蘭丸」と述べたと伝わるほど、織田信長に寵愛されていました。
森蘭丸には聡明さが備わっており、忠義を尽くす性格だったため、惚れ込んだ織田信長が森蘭丸と男色関係を持ったとされる話は有名です。とは言え、当時は主従の信頼関係を示す手段として、衆道(男色)は特別珍しいことではありませんでした。
織田信長は、森蘭丸の進言であれば、素直に受け入れたと伝えられています。さらに、織田信長に絶大な信頼を寄せられていた森蘭丸は、戦場で武功こそ挙げませんでしたが、その働きぶりが認められ、1581年(天正9年)には、織田家家臣として近江国(現在の滋賀県)内の500石が与えられ、大名となりました。
森蘭丸は諸事奉行、加判奉行(ハンコ押し)などの事務的な業務にも携わっていましたが、その他にも織田信長の使者や大名の取次役として、多くの地に派遣されています。
森蘭丸は、織田信長の息子3人に織田信長からの脇差を送り届け、1582年(天正10年)には、伊勢神宮への寄進に関する連絡で「織田信忠」(おだのぶただ)からの内容を織田信長に伝えました。
また、同年1月、「紀州征伐」の「雑賀攻め」で武功を挙げた「斎藤六大夫」(さいとうろくだゆう)に対しても織田信長からの褒美を渡し、3月には「甲州征伐」後に降伏した元武田家家臣「小笠原信嶺」(おがさわらのぶみね)が織田信長に挨拶に来た際、本領安堵(ほんりょうあんど:将軍に対して忠誠を誓った武士に将軍の領地を与えること)の朱印状を与えるなど、織田信長の使者として多くの抜擢を受けています。
岩村城
織田信長らが武田家を滅ぼした甲州征伐では、1582年(天正10年)、戦功を挙げた森蘭丸の兄・森長可が、織田信長から旧武田領の信濃国川中島四郡(現在の長野県北部)を与えられました。
この際、森蘭丸も森長可の所領であった美濃金山城(岩村城という説も)を与えられています。
さらに森蘭丸は、織田信長から美濃岩村城(現在の岐阜県恵那市)を授かり、岩村の地5万石を治めることになりました。
岩村城は「日本百名城」、「日本三大山城」に選定されるほどの名城で、堅牢な石垣の造りが魅力的です。高低差があり、霧が発生しやすい気象や地理条件を利用したため「霧ケ城」とも呼ばれていました。
このように、堅牢で霧が美しい城でしたが、当時森蘭丸は織田信長の秘書として活躍していたため、領地に赴くことができません。そのため、森蘭丸は家臣を城代(じょうだい:城主の代理で城を管理・守護する者)として派遣したとされています。
しかし、森蘭丸は結局、その生涯で岩村の地を訪れることはありませんでした。
森蘭丸は、小説やゲームなどで絶世の美少年として登場することも少なくありません。しかし、実際本当に美少年だったのかと言うと、疑問が残るという見解が、現在では一般的になっています。
森蘭丸の生きた時代、まだ蘭という文字は使用されていませんでした。しかし、江戸時代には、もうすでに「森乱丸」ではなく、華やかな森蘭丸という名で描かれているため、当時森蘭丸の美少年説はもうすでに広まっていたと考えられます。
森蘭丸の父・森可成は攻めの三左と恐れられるほどの腕前を持った武将でしたし、森蘭丸の次兄・森長可は「鬼武蔵」と恐れられるほどの容貌を持った鬼武者でした。信長公記には、森蘭丸の容姿について褒められているという記述があり、森蘭丸の立ち居振る舞いには品があったと言われています。
しかし、当時の美的感覚と現代の美的感覚では差異が生じているため、森蘭丸も、父や兄と同じような「美丈夫」(美しく立派な男)だったのではないかというのが現在の一般的な見解です。
森蘭丸は忠義心にあふれ、良く気が付く性格だったため、その才能を取り上げた話が多く残されています。「鳩巣小説」(きゅうそうしょうせつ)には、このようなエピソードが描かれていました。
ある日、織田信長が森蘭丸に「障子が開いているから閉めてきてくれ」と命じます。しかし、森蘭丸が障子の近くに行くと、障子は開いていません。このまま開いていなかったと報告すれば織田信長が恥をかくことになります。
森蘭丸は少し考え、わざと障子を一度開けてから音が出るように閉め直し、織田信長に「障子は閉まっておりました。」と伝えました。織田信長は「大きな音がしたぞ」と問うと、森蘭丸は「殿が恥をかくと思ったので、わざと音を立てて閉め直しました」と正直に答えたと言われています。
これは、当時下克上が横行して家臣を信頼しきれない世の中で、嘘をつかない忠誠が表れている出来事とされました。
他にも、「老談一言記」や「朝野雑載」(ちょうやざっさい)にはこのようなエピソードが描かれています。
ある時、織田信長が自分の爪を切り終わると、その爪を森蘭丸に捨てるように命じました。爪を捨てた森蘭丸でしたが、爪の数が9つしかないことに気が付くと、戻って残りの爪を探したのです。当時、爪や髪などは呪術に使われるなどしていたため、森蘭丸はそれを心配していたのではないかという推測もなされています。
ですが、織田家の中で織田信長の爪の数にまで注意を払うことができる側近は、恐らく森蘭丸だけだったでしょう。
あるとき、愛刀である「不動行光」(ふどうゆきみつ)を近習や小姓達に見せていた織田信長は、「この刀剣の鍔(つば)に描かれた花びらの数は何枚だと思う?」と問いかけました。
小姓達は数を答えていきますが、森蘭丸だけは答えません。そこで織田信長は「なぜ答えないのか」と尋ねます。
森蘭丸は、「以前信長様が厠(かわや:トイレ)に行った際に刀剣を預かりました。その際に花びらの数を数えてしまったのです」と答えました。森蘭丸は最初から答えを知っていては問いかけが成立しないと思い、答えなかったのです。
結局、森蘭丸の正直さの褒美として、不動行光は森蘭丸の物になりました。
この森蘭丸の出来事は、1891年(明治24年)に、淡路島にあった「瑞井尋常小学校」の教育に使用されました。児童に正直であるべきことの大切さを伝えるための教材として、森蘭丸をモデルとしたとされています。
ある日、森蘭丸が大量のみかんを運んでいる姿を見た織田信長が「そんなに大量のみかんを持ったら危ない、転んでしまうぞ」と注意すると、森蘭丸は本当に転んでしまいました。
後日、その様子を見ていた織田家家臣らが森蘭丸に、「なぜ殿の注意を無視したのだ?大量のみかんをなぜ一度置かなかったのか」と尋ねます。
すると森蘭丸は、「織田信長様に転んでしまうと言われたので転んだのです」と答えました。それを聞いた家臣らは、その忠誠心に関心したという話が残されています。
ある日、織田信長が森蘭丸に褒美を与えようとしましたが、森蘭丸は「褒美など要りません」と興味を示しませんでした。
そこで織田信長は「掌に欲しい物を書いて見せ合おう」と言い、織田信長と森蘭丸はお互いに自分が掌に書いた望みを相手に見せます。すると、掌に書いた文字は「近江坂本6万石」(8万石という説も)で一致したという話が残っています。
近江坂本は、亡くなった森蘭丸の父・森可成の元領地で、父の墓標もこの地にありましたが、当時はこの地を「明智光秀」(あけちみつひで)が治めていました。この近江坂本の地を取り戻すことが森蘭丸の願いであり、織田信長は森蘭丸のその願いを知っていたのです。
一説では、そのことを襖越しに盗み聞いた明智光秀が、織田信長に疑念を抱くようになったともされています。
明智光秀
あるとき、織田信長は同盟を結んでいた「徳川家康」を招いて、安土の地で歓迎することとなり、その接待役として、当時公家ともつながりのあった明智光秀を選びました。
明智光秀は、徳川家康が宿泊すると決めてあった大宝院に急遽御殿を用意させ、壁には絵を飾って、御殿の柱には彫刻を施します。
さらに、御殿の庭には珍しい植物を植え、周囲の警備は厳戒態勢とするなど準備を万全にしたのです。
しかし、織田信長は呆れて明智光秀を呼ぶと、「武将の徳川家康を招くときにこれほど手厚くもてなしたら、武将よりも位が高い朝廷を招くときはどれほど高価な対応をしなければいけないと思っているのだ」と叱り付けます。織田信長は、「誰か明智光秀の頭を打て」と周囲の者に命じましたが、明智光秀は織田家の重鎮であり、彼の頭を打てるほどの身分や度胸のある者はいません。
織田信長が怒り、周囲の者も「このままでは織田信長公が明智光秀を切り捨てかねない」とざわめく中、森蘭丸は立ち上がると明智光秀を鉄扇で打ったのです。明智光秀は、そのままその場を去りました。これは「本能寺の変」が起こる半月ほど前のこととされています。
明智光秀は織田信長に注意を受け、厳しく叱責されていました。明智光秀は、「大きな御恩があるため謀反など考えたこともありませんが、この仕打ちはあんまりです」と涙ながらに訴えます。
その場で聞いていた森蘭丸は、この発言こそが謀反の気配だと訴えますが、織田信長は取り合いませんでした。
織田信長は、森蘭丸の話を無視して、毛利征伐に向かっている「豊臣秀吉」の援助に向かうように明智光秀に指示を出し、大軍を与え出陣させます。その後、本能寺の変が起こってしまったのです。
本能寺の変
1582年(天正10年)6月2日、豊臣秀吉から「中国征伐」の救援を受けていた織田信長は、その道中、京都にある「本能寺」に宿泊をします。
そこでは、博多の豪商で「博多の三傑」のひとりである「島井宗室」(しまいそうしつ)を正客に、織田信長自慢の38種類の茶道具を披露した茶会を開いていました。
本能寺には、織田信長や森蘭丸の他、小姓衆・厩番(うまやばん)衆・中間(ちゅうげん)衆などの身分が低い使用人、女性なども合わせて100人程度がいたと伝えられています。
明智光秀はその晩、織田信長を討つため、本能寺に13,000の軍で攻め入りました。明智軍が本能寺を完全に包囲する形となったとき、織田信長と森蘭丸は殿舎にいたと言われています。
織田信長が「これは謀反か?誰の仕業だ」と問うと、森蘭丸が「明智の軍勢と推測されます」と答えました。すると、織田信長は悟ったように「是非に及ばず」(やはりな)と答えたと伝えられています。
森蘭丸は、最期まで織田信長の側を離れず、戦闘経験が乏しいながらも多勢相手に織田信長を果敢に護衛しました。小姓としての役目を全うし、明智配下の先発隊「安田国継」(やすだくにつぐ)に討たれます。1582年(天正10年)6月、森蘭丸は18歳の若さで亡くなりました。
森蘭丸には多くの兄弟がいましたが、長男・森可隆は1570年(永禄13年)に戦死、森蘭丸と共に織田信長の小姓となった森力丸、森坊丸も本能寺の変で戦死。森家の家督を継いだ兄・森長可は、1584年(天正12年)の「小牧・長久手の戦い」で戦死しています。
最後に生き残ったのは6男の「森忠政」(もりただまさ)のみ。森忠政は、1582年(天正10年)に織田信長の小姓となります。しかし、同僚にちょっかいを出されたことに憤怒した森忠政が、織田信長の前で同僚の頭を扇子で叩き、その行為が「まだ幼すぎる」として美濃の母親のもとに帰されていました。
これが実は本能寺の変から3ヵ月前のことであり、森忠政は奇跡的に本能寺の変を回避できたのです。森忠政は、兄弟が全員戦死したのちに家督を継ぐこととなり、美作国(現在の岡山県北東部)約19万石の大名となっています。
鶴丸紋
森家の家紋は鶴丸紋です。この紋は、源氏にゆかりの深い家紋。
森蘭丸の祖先は、清和源氏である「八幡太郎義家」(源義家)の7男源義隆で、相模国愛甲郡毛利庄(現在の神奈川県中部)で領主を務めた際に「森冠者」と名乗ったのが始まりです。
鶴丸紋は、源氏の家紋でもあるため、旗印に掲げれば、源氏の一流であることが一目で分かる家紋でした。
また、「鶴は千年、亀は万年」で「長寿」を表す鶴を一族繁栄の願いを込めて家紋とする家も多く、有名人では「太宰治」(だざいおさむ)も鶴丸紋を使用しています。