『高校生ワーキングプア:「見えない貧困」の真実』(NHKスペシャル取材班著、新潮社)は、なかなか見えづらい「若者の貧困」の実態をNHKスペシャル取材班が明らかにしたノンフィクション。
取材班は、まだ貧困がいまのように多く語られることがなかったころから、その時代ごとの貧困の実像をとらえる番組を数多く放送してきたのだという。いわば本書は、時間をかけて行われてきた取材実績の、現時点における集大成であるといえる。
最初に、働きながらも生活保護水準以下の暮らしを強いられる人々や、働く貧困層の実態を捉えたNHKスペシャル「ワーキングプア〜働いても働いても豊かになれない〜」を放送したのは2006年だというので、たしかにかなり早くからこの問題に取り組んでいたことになる。その後も、続編「ワーキングプアII~努力すれば抜け出せますか〜」を含め、2007年にかけてキャンペーン報道を展開したのだそうだ。
そして年を経た2014年4月のNHKスペシャル「調査報告 女性たちの貧困〜“新たな連鎖”の衝撃〜」で克明にドキュメントしたのは、女性や次の世代の子どもたちに貧困が連鎖する実態。さらに同年12月のNHKスペシャル「子どもの未来を救え〜貧困の連鎖を断ち切るために〜」では、次の世代にまで貧困が連鎖する実態や、それを乗り越えようとする道筋を示している。
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「彼らが本当に貧困なのか」がわかりにくい
ところが生活に困窮する人たちに話を聞きながら、「彼らが本当に貧困なのか」がわかりにくいと思ったことがあったと振り返ってもいる。
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つまり、そんな外的なイメージが、彼女たちの生活の実態を見えにくくしているということだ。事実、「なにが貧困だ。スマホを持っているじゃないか」「服だってきれいにしているじゃないか」というような誤解を受けて苦しんでいる人たちも多かったという。
しかし、それは上記のような生活をしている女の子たちだけではなく、貧困に苦しむ多くの人たちの共通点でもあるようだ。たとえば「序章 働かなければ学べない」で明らかにされている「学ぶために身を粉にして働き続ける子どもたち」の姿を確認すれば、そのことがよくわかる。
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追い詰められる子どもたち
親からネグレクト(養育放棄)され、中学生のとき「捨て子」同然で家を出て、町工場で働きながら定時制高校で学ぶ女子高校生は、「寮費がかかる」という理由から給与は毎月1万4000円だけ。高校の教諭が「勤め先の状況がおかしい」と気づいたことがきっかけで別のアルバイト先に替わることができたが、タダ同然で働かせていた工場長から厳しく監視されていたため、夜逃げ同然でようやく逃げ出すしかなかった。
母親がガンで闘病している男子高校生は、自宅で母親を介助しながら、家計を支えるため、2人の弟の面倒も見ながらラーメン店でアルバイトをする日々。早朝6時前に起きて朝食をつくると弟たちに食べさせ、掃除や洗濯など朝の家事を終わらせてから家を出発。朝9時半から夕方4時までラーメン店で働くと、いったん家へ帰って母親の介助。それから定時制高校へ行って授業を受け、家に帰るのは10時すぎ。そこから洗濯物をたたんだり、洗い物をしたりなど残りの家事をする。
にわかには信じられないような話だが、いま実際に、働かなければ学べない、それどころか、食べていくこともできない子どもたちが増えているというのだ。
こう書くと、
「生活保護があるじゃないか」
と思う人は少なくないだろう。しかし、生活保護の手続きをする親が、それを拒んだり、できなかったりすれば、子どもたちは追い詰められる。結果、自分や家族を守るために、働くしかなくなる。高校生にアルバイトの理由をたずねると、大半が「家計のため」と答える時代を迎えているのだ。
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この「生活保護があるじゃないか」というフレーズにも表れているが、「子どもの貧困」を考える際の問題は、「貧困」という言葉から連想するイメージが人によって異なるということだ。そのためインターネット上などで、
「雨風をしのげる家があれば、貧困ではない」
「終戦直後の方が、食べ物も着るものもなく厳しい生活だった。あのころにくらべたら、いまの子どもたちは貧困ではない」
というような“貧困バッシング”が起こってしまうわけである。
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「自己責任発言=思考停止」なのではないだろうか
しかも、「貧しいのは、頑張らない自分の責任だ」という自己責任論がいまだ根強く残っていることも問題だと著者は指摘する。
仕方がないことなのかもしれないが、それでもイメージだけでものごとを断定する人々の罪は大きい。本書を読んでいると、そういう人たちの心ない言動が「働かなければ学べないから懸命に働いている」子、あるいはその親の足を引っ張っていると感じずにはいられない。
先に触れた「なにが貧困だ。スマホを持っているじゃないか」という意見がそのいい例だ。事実、著者も「相対的貧困の実態を伝える際に、インターネットなどで決まって批判の的になるのが、スマートフォンだ」と主張している。貧困家庭の子どもがスマートフォンを持っていると、
「スマホなんて贅沢だ」
「スマホを持っているなら貧困ではない」
というような批判が出るというわけだ。しかし、スマホを持っているから貧困ではないなどという単純な問題ではなく、「スマホがないと生活が成り立たない」という現実があるのだ。たとえば次に紹介するのは、母親、弟、妹と暮らす高校生の話である。
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子どもたちの実態以上に気になってしまったのが、こうした外部の無責任な発言だった。「自己責任」と断ずることでなにかが解決するのであれば、大いにすればいい。しかし現実的には、「自己責任発言=思考停止」なのではないだろうか。そもそも、そんなふうに割り切れるほど単純な問題ではないのだ。
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自分の身に置き換えて考えてみる
川で溺れる人がいたなら、「どうしたら救えるだろう?」と考えるが通常の思考ではないか。川に飛び込むという手もあるだろうし、泳げないならなんらかの手段を考えればいい。手段はいくらでもあるはずだ。
そして、そんなときに重要なのは、「溺れているのが自分だったとしたら」と考えてみることだろう。もちろん行動も大切だが、自分の身に置き換えて考えてみることも、同じように大切なことであるはずなのだから。
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