「貧困は自己責任」と断じる人の浅すぎる思慮 困難を抱える背景は1つでなく複数の事情だ

2018/09/02 8:00
現実には「自己責任発言=思考停止」なのではないでしょうか(写真:xiangtao/PIXTA)
目次

高校生ワーキングプア:「見えない貧困」の真実』(NHKスペシャル取材班著、新潮社)は、なかなか見えづらい「若者の貧困」の実態をNHKスペシャル取材班が明らかにしたノンフィクション。

取材班は、まだ貧困がいまのように多く語られることがなかったころから、その時代ごとの貧困の実像をとらえる番組を数多く放送してきたのだという。いわば本書は、時間をかけて行われてきた取材実績の、現時点における集大成であるといえる。

最初に、働きながらも生活保護水準以下の暮らしを強いられる人々や、働く貧困層の実態を捉えたNHKスペシャル「ワーキングプア〜働いても働いても豊かになれない〜」を放送したのは2006年だというので、たしかにかなり早くからこの問題に取り組んでいたことになる。その後も、続編「ワーキングプアII~努力すれば抜け出せますか〜」を含め、2007年にかけてキャンペーン報道を展開したのだそうだ。

そして年を経た2014年4月のNHKスペシャル「調査報告 女性たちの貧困〜“新たな連鎖”の衝撃〜」で克明にドキュメントしたのは、女性や次の世代の子どもたちに貧困が連鎖する実態。さらに同年12月のNHKスペシャル「子どもの未来を救え〜貧困の連鎖を断ち切るために〜」では、次の世代にまで貧困が連鎖する実態や、それを乗り越えようとする道筋を示している。

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「彼らが本当に貧困なのか」がわかりにくい

ところが生活に困窮する人たちに話を聞きながら、「彼らが本当に貧困なのか」がわかりにくいと思ったことがあったと振り返ってもいる。

例えば、インターネットカフェに住み続けていた姉妹は、住居がネットカフェと聴かなければ、外見からはとても貧困とは思えなかった。着ているものは今どきの若者と何ら変わらず、メイクも、つけまつげもしていた。彼女たち曰く「百均(100円ショップ)に行けば、つけまセットも100円、リップも100円、服も古着をネットオークションで買えばいい」と話していた。
新宿の街でキャリーバッグをコロコロ転がしながら歩く漂流少女たちも同様だった。家を出てしまったために、風俗店で日銭を稼ぎ、その日に泊まる部屋を提供してくれる男を探す日常は、生活苦であるのは当然のことだ。しかし、彼女たちは、家はない代わりに、皆、唯一のライフラインとして、スマートフォンは持っていた。それをカフェで充電しながらお茶を飲んでいる姿は、時間潰しをしているOLさんか学生さんのようにしか見えない。(「はじめに」より)

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つまり、そんな外的なイメージが、彼女たちの生活の実態を見えにくくしているということだ。事実、「なにが貧困だ。スマホを持っているじゃないか」「服だってきれいにしているじゃないか」というような誤解を受けて苦しんでいる人たちも多かったという。

しかし、それは上記のような生活をしている女の子たちだけではなく、貧困に苦しむ多くの人たちの共通点でもあるようだ。たとえば「序章 働かなければ学べない」で明らかにされている「学ぶために身を粉にして働き続ける子どもたち」の姿を確認すれば、そのことがよくわかる。

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追い詰められる子どもたち

親からネグレクト(養育放棄)され、中学生のとき「捨て子」同然で家を出て、町工場で働きながら定時制高校で学ぶ女子高校生は、「寮費がかかる」という理由から給与は毎月1万4000円だけ。高校の教諭が「勤め先の状況がおかしい」と気づいたことがきっかけで別のアルバイト先に替わることができたが、タダ同然で働かせていた工場長から厳しく監視されていたため、夜逃げ同然でようやく逃げ出すしかなかった。

母親がガンで闘病している男子高校生は、自宅で母親を介助しながら、家計を支えるため、2人の弟の面倒も見ながらラーメン店でアルバイトをする日々。早朝6時前に起きて朝食をつくると弟たちに食べさせ、掃除や洗濯など朝の家事を終わらせてから家を出発。朝9時半から夕方4時までラーメン店で働くと、いったん家へ帰って母親の介助。それから定時制高校へ行って授業を受け、家に帰るのは10時すぎ。そこから洗濯物をたたんだり、洗い物をしたりなど残りの家事をする。

にわかには信じられないような話だが、いま実際に、働かなければ学べない、それどころか、食べていくこともできない子どもたちが増えているというのだ。

こう書くと、

「生活保護があるじゃないか」

と思う人は少なくないだろう。しかし、生活保護の手続きをする親が、それを拒んだり、できなかったりすれば、子どもたちは追い詰められる。結果、自分や家族を守るために、働くしかなくなる。高校生にアルバイトの理由をたずねると、大半が「家計のため」と答える時代を迎えているのだ。

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この「生活保護があるじゃないか」というフレーズにも表れているが、「子どもの貧困」を考える際の問題は、「貧困」という言葉から連想するイメージが人によって異なるということだ。そのためインターネット上などで、

「雨風をしのげる家があれば、貧困ではない」

「終戦直後の方が、食べ物も着るものもなく厳しい生活だった。あのころにくらべたら、いまの子どもたちは貧困ではない」

というような“貧困バッシング”が起こってしまうわけである。

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「自己責任発言=思考停止」なのではないだろうか

しかも、「貧しいのは、頑張らない自分の責任だ」という自己責任論がいまだ根強く残っていることも問題だと著者は指摘する。

インターネット上には、「子どもが貧困になるのは、子どもも親も努力しないため」という書き込みがあふれている。
「家計が苦しいのは、親が給料の安い仕事にしか就けなかったから」
「母子家庭になったのは、我慢が足りず、離婚したから」
こういう努力の足りない家庭を税金で支援する必要はない、というのがネット上の「自己責任論」だ。確かに、本人にも責任があるケースがないとは言えない。しかし、こうした自己責任論がことあるたびに繰り返されることで、追い詰められてしまう人がいる――そう思うと、報道機関にいる私たちは悔しく、もどかしくて仕方がない。(156〜157ページより)

仕方がないことなのかもしれないが、それでもイメージだけでものごとを断定する人々の罪は大きい。本書を読んでいると、そういう人たちの心ない言動が「働かなければ学べないから懸命に働いている」子、あるいはその親の足を引っ張っていると感じずにはいられない。

先に触れた「なにが貧困だ。スマホを持っているじゃないか」という意見がそのいい例だ。事実、著者も「相対的貧困の実態を伝える際に、インターネットなどで決まって批判の的になるのが、スマートフォンだ」と主張している。貧困家庭の子どもがスマートフォンを持っていると、

「スマホなんて贅沢だ」

「スマホを持っているなら貧困ではない」

というような批判が出るというわけだ。しかし、スマホを持っているから貧困ではないなどという単純な問題ではなく、「スマホがないと生活が成り立たない」という現実があるのだ。たとえば次に紹介するのは、母親、弟、妹と暮らす高校生の話である。

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使い始めてすぐ、スマートフォンは欠かせない存在になった。
朝から晩まで働く母親の陽子さんとの連絡手段として、ライフラインの役割を果たしているからだ。弟も妹もスマートフォンや携帯電話を持っていないため、舞さんが母親との連絡役を務めている。
さらに、今は、中学生や高校生たちはスマートフォンが必需品になりつつある。友達どうしの関係を維持したり情報交換をしたりする上で、LINEやSNSが欠かせないためだ。スマホがないと友達の輪から外れてしまったり、話題についていけなかったりと、子どもたちの人間関係にも大きく関わる。(中略)
スマホは、さらに進学や就職活動などにも欠かせないものになりつつある。大学の願書の提出もインターネットから行う時代だ。(中略)
若者にとって生活全般に欠かせないスマホだが、それでも「スマホを持っていれば贅沢で、貧困とは言えない」と断じるのだろうか。(159〜160ページより)

子どもたちの実態以上に気になってしまったのが、こうした外部の無責任な発言だった。「自己責任」と断ずることでなにかが解決するのであれば、大いにすればいい。しかし現実的には、「自己責任発言=思考停止」なのではないだろうか。そもそも、そんなふうに割り切れるほど単純な問題ではないのだ。

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自分の身に置き換えて考えてみる

子どもの貧困の最も大きな特徴のひとつは、見ようとしないと「見えない」ことだろう。子どものいる家庭が経済的な困難を抱える背景は、ひとつではなく、複雑な事情が絡み合っていることが多い。
親の離婚、借金、低賃金の仕事、精神疾患、家庭内暴力、虐待、ネグレクト、周囲からの孤立――ひとつでも大変な問題を、複数抱えているケースがほとんどだ。
当事者の親は、自分の生活を守ることで精一杯で、人に助けを求める余裕を失ってしまう。もしくは、「情けない状態を他人にみせたくない」という理由から、助けを求めること自体を嫌がったり避けたりする。その結果、周囲に気づかれないまま家族が孤立していく。
一方、その子どもは、家庭という閉ざされた空間の中で人知れず追い詰められていく。たとえるなら、「川の岩陰で溺れた状態だ」。(151ページより)

川で溺れる人がいたなら、「どうしたら救えるだろう?」と考えるが通常の思考ではないか。川に飛び込むという手もあるだろうし、泳げないならなんらかの手段を考えればいい。手段はいくらでもあるはずだ。

そして、そんなときに重要なのは、「溺れているのが自分だったとしたら」と考えてみることだろう。もちろん行動も大切だが、自分の身に置き換えて考えてみることも、同じように大切なことであるはずなのだから。

印南 敦史 作家、書評家

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いんなみ あつし / Atsushi Innami

1962年生まれ。東京都出身。広告代理店勤務時代にライターとして活動開始。「ライフハッカー[日本版]」「ニューズウィーク日本版」「WEBRONZA」「WANI BOOKOUT」などで連載を持つほか、「ダ・ヴィンチ」など紙媒体にも寄稿。『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)、『世界一やさしい読書習慣定着メソッド』(大和書房)、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)、『読んでも読んでも忘れてしまう人のための読書術』(星海社新書)など著作多数。

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