My Hair is
2017.12.15 Friday
うんと小さな子供の頃、風呂を出た後でっかいバスタオルで親に髪を拭いてもらうのが嫌で嫌で堪らなかった、らしい。
じゃがいもの泥を落とすようにガシガシ拭くのが両親の常だったので、確かにそれは嫌だろうなぁと今になって笑う。
「女の子みたいにサラサラで綺麗な髪ねぇ」
もう少しだけ大きくなった頃、親に連れられて出かけた其処此処で、見知らぬ大人からよくそうやってポンポンと髪を撫でられた覚えがある。「女の子みたいに」というのが全然嬉しくなくって、だけど周りの大人達が皆笑顔でいるものだから、「よく分からないけれど褒められてるんだろう」と能天気に上機嫌だった。
色気付きだした頃、マンガやゲームのキャラクターみたいなツンツンした髪型に憧れて初めて自分で髪を弄りだしたものの、どれだけ引っ張って捻って固めても学校に着く頃には全部リセットされてしまうのが不満だった。毎朝洗面所を長時間占領するのは、家族にしてみれば本当に迷惑だったと思う。
髪弄りの難しさに辟易し始めていた頃に初めて「彼女」というものが出来た。年上で随分背の高い人だったので半分以上子供、というか弟扱いをされていた終始の中で、ワシャワシャと犬を触るみたいに両手で髪を触られるのが嫌で嫌で、だけど向こうはこれぞ愛情表現なんだよと真顔で宣うので、黙ってされるがままだった。ただ、彼女と一緒にいられた間は、スタイリング剤の使用頻度が随分減った。
大学に入学して上京した年、祖父が亡くなった。治療を続ける中で呆けてしまった祖父は、日増しに記憶を無くしてしまっていたようだった。
念願の初孫、しかも男の子という事で親戚中から、それはもう溶けてしまいそうになるくらい、大袈裟でなくそれくらい可愛がって貰った。その中でも特に祖父の可愛がり方は常軌を逸すると言っても過言ではなかったようで、小さい頃の写真はどれも祖父の膝の上に強制的に座らされて写っているものばかりだった。「怒ると鬼のように怖かったあの人がねぇ」とよく母に聞かされたものだった。
結果として最後の見舞いとなってしまったあの日、母と祖母は買い出しやらなんやら別の用事があって、自分1人だけが祖父の病室に向かった。それまでの数回の見舞いではもう誰が誰やらといったような状態だったので、正直なところ見ていられなくて、あまり見舞いに行きたくないというのが本音だった。だからその日も嫌々ながら車に乗って向かった事をよく覚えている。
でも、病室の扉を開けた時、これは今でもはっきり覚えているけれど、ベットの上に半身を起こして背筋もしゃんと伸ばして、焦点の合った目でこちらを見ている祖父がいた。驚いた事に、呆けているどころか病に倒れる以前より元気なんじゃないかと思うくらいに祖父の意識ははっきりしていて、「おう、まさ君か。よー来てくれたな」とまで話しかけてくれた。「初孫、俺の初孫だ。髪の毛まで俺とそっくりだ」と静かに笑いながら、昔と同じように頭をゆっくり撫でてくれた。
なんだよ、末期だなんて大袈裟な、全然大丈夫じゃん。という、僕の間抜けな判断はその後すぐ間違いだったと分かってしまうのだけれど、ただあの日あの時に最後、話をする事が出来て本当に良かったと今になって思い返しても強く思う。
色んな人達にそれぞれに触れられてきて、全部好きとはとても言ってあげられないけれど、少なくない思い出がいくつもある。もう30年近い付き合いになりつつあるんだなぁと、オールバックに掻き上げながら朝、ふと思い起こした、髪の話。
「女の子みたいにサラサラで綺麗な髪ねぇ」
もう少しだけ大きくなった頃、親に連れられて出かけた其処此処で、見知らぬ大人からよくそうやってポンポンと髪を撫でられた覚えがある。「女の子みたいに」というのが全然嬉しくなくって、だけど周りの大人達が皆笑顔でいるものだから、「よく分からないけれど褒められてるんだろう」と能天気に上機嫌だった。
色気付きだした頃、マンガやゲームのキャラクターみたいなツンツンした髪型に憧れて初めて自分で髪を弄りだしたものの、どれだけ引っ張って捻って固めても学校に着く頃には全部リセットされてしまうのが不満だった。毎朝洗面所を長時間占領するのは、家族にしてみれば本当に迷惑だったと思う。
髪弄りの難しさに辟易し始めていた頃に初めて「彼女」というものが出来た。年上で随分背の高い人だったので半分以上子供、というか弟扱いをされていた終始の中で、ワシャワシャと犬を触るみたいに両手で髪を触られるのが嫌で嫌で、だけど向こうはこれぞ愛情表現なんだよと真顔で宣うので、黙ってされるがままだった。ただ、彼女と一緒にいられた間は、スタイリング剤の使用頻度が随分減った。
大学に入学して上京した年、祖父が亡くなった。治療を続ける中で呆けてしまった祖父は、日増しに記憶を無くしてしまっていたようだった。
念願の初孫、しかも男の子という事で親戚中から、それはもう溶けてしまいそうになるくらい、大袈裟でなくそれくらい可愛がって貰った。その中でも特に祖父の可愛がり方は常軌を逸すると言っても過言ではなかったようで、小さい頃の写真はどれも祖父の膝の上に強制的に座らされて写っているものばかりだった。「怒ると鬼のように怖かったあの人がねぇ」とよく母に聞かされたものだった。
結果として最後の見舞いとなってしまったあの日、母と祖母は買い出しやらなんやら別の用事があって、自分1人だけが祖父の病室に向かった。それまでの数回の見舞いではもう誰が誰やらといったような状態だったので、正直なところ見ていられなくて、あまり見舞いに行きたくないというのが本音だった。だからその日も嫌々ながら車に乗って向かった事をよく覚えている。
でも、病室の扉を開けた時、これは今でもはっきり覚えているけれど、ベットの上に半身を起こして背筋もしゃんと伸ばして、焦点の合った目でこちらを見ている祖父がいた。驚いた事に、呆けているどころか病に倒れる以前より元気なんじゃないかと思うくらいに祖父の意識ははっきりしていて、「おう、まさ君か。よー来てくれたな」とまで話しかけてくれた。「初孫、俺の初孫だ。髪の毛まで俺とそっくりだ」と静かに笑いながら、昔と同じように頭をゆっくり撫でてくれた。
なんだよ、末期だなんて大袈裟な、全然大丈夫じゃん。という、僕の間抜けな判断はその後すぐ間違いだったと分かってしまうのだけれど、ただあの日あの時に最後、話をする事が出来て本当に良かったと今になって思い返しても強く思う。
色んな人達にそれぞれに触れられてきて、全部好きとはとても言ってあげられないけれど、少なくない思い出がいくつもある。もう30年近い付き合いになりつつあるんだなぁと、オールバックに掻き上げながら朝、ふと思い起こした、髪の話。
蝶々結び
2016.08.15 Monday
「わたしなんて」と、言う人がいた。
他人から受ける純粋な好意に対して、「ただ、申し訳ない」と。
本当に苦しそうな声で辛そうに、絞り出すような声で、俯きながら話す人がいた。
合間に相槌を打ちながら、「あぁ、懐かしいな。」と頭の片隅で感じている自分がいた。
何時かの自分の姿を、そっくりそのまま彼女に重ねて、
どこか郷愁にも似た妙に暖かな心持ちで、彼女の声に偉そうにも耳を傾ける今の自分がいた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「自己評価」というものが異常に低い人が、少なからず、今の僕の周りにもいる。
そういう人間性を持ち合わせている人というのは大概、
「他者に向ける評価が高い人」と、相場が決まっているもので、
でも、それ自体はただ単純に素晴らしい要素である事は間違いないように思う。
ただ、その著しく低い「自己評価」と、著しく高い「他者への評価」を、
同一線上で「比較」してしまうようになると、少しだけ厄介な事になる。
「わたしみたいな人間に良くしてくれるなんて、ありがたいのを通り越して申し訳ない」と。
そういう考え方になってしまうと、これはもう重症だ。
「貴方のこういうところが素敵だと思う」という評価に対して、
「そんなことは全然なくて、本当に大した人間じゃないんです」と跳ね返す行為は、
「見てみて、これ可愛くない?」と、自分が素敵だなと思った物を見せた時、
「どこが良いのかこれっぽっちも分からない」と、そう言い放つ事と何ら変わらない。
施し、施されるを繰り返す僕達の間柄を
「ギブアンドテイク」とカタカナで言ってしまうのは、あまりにも味気がないけれど、
でもきっと、僕達の全てはそうした関係性で成り立っている。
「申し訳ない」なんて言葉が聞きたいんじゃない。
「ありがとう」って言って笑っていて欲しい。
そんな言葉すらいらないと無意識に思える間柄であればこそ、
自分の力を、今出来ることを、見返りなく最大限使おうとする事を厭わない。
きっと僕らは「そういう風に出来ているはず」だと。
確信めいて、そう思う。
自分もかつてはそうだった。
だからこそ、今そうして周りからの好意に無意識に壁を作ってしまう気持ちも、よく分かる。
でも、これまたやはり僕がそうであったように、
無意識に高く作り上げた壁を向こう側からぶち壊してくれる人が、崩れ落ちる時が、
必ずいつかどこかであるはずだから。
僕の時は、「うるせーテメー次またそんな事言ったらぶっ飛ばすぞ」と、
ガキ大将の台詞の様な、少々乱暴な言葉と方法ではあったけれど、とにかく。
僕のような「何も持っていなかった」人間ですら、広い世界が見えるようになった。
周りの人間に手を引っ張り上げられて、背中を押されてここまで来れた。
偉そうにも、人に対して自分の想いと考えを、色んな手段で伝えられるようになった。
だから、きっと
そんな風に殻を作って閉じこもっていなくても、大丈夫。
物心が付くか付かないかという幼い頃、誰もが教えられただろう、
あの「紐の結び方」と、人と人との関係性は、多分同じようなことなんだと思う。
右の輪と、左の輪を、同じ力で「せーの」で引っ張り合って、
そうしてあの美しい形は作られるのだから。
どちらに力が傾いていても出来ないものなのだから。
今のままで、大丈夫。そのままでいてくれさえすれば、それでいい。
同じ力で引っ張り合えれば、それでいいから。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
こんな風に落ち着いてあの時、自分の考えを伝えられた自信はないけれど、
電話を切る間際に聞いた「ありがとう」の声の調子に少し混じった明るい音が、
僕の聞き間違いでないことを、ぼんやりと願う。
彼女に対してその時伝えた言葉がそっくりそのまま、
あの時自分が誰かに言って欲しかった言葉でしかなかったのだと、
はっと気付いたのは、狭い自分の部屋に帰ってきてからだった。
他人から受ける純粋な好意に対して、「ただ、申し訳ない」と。
本当に苦しそうな声で辛そうに、絞り出すような声で、俯きながら話す人がいた。
合間に相槌を打ちながら、「あぁ、懐かしいな。」と頭の片隅で感じている自分がいた。
何時かの自分の姿を、そっくりそのまま彼女に重ねて、
どこか郷愁にも似た妙に暖かな心持ちで、彼女の声に偉そうにも耳を傾ける今の自分がいた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「自己評価」というものが異常に低い人が、少なからず、今の僕の周りにもいる。
そういう人間性を持ち合わせている人というのは大概、
「他者に向ける評価が高い人」と、相場が決まっているもので、
でも、それ自体はただ単純に素晴らしい要素である事は間違いないように思う。
ただ、その著しく低い「自己評価」と、著しく高い「他者への評価」を、
同一線上で「比較」してしまうようになると、少しだけ厄介な事になる。
「わたしみたいな人間に良くしてくれるなんて、ありがたいのを通り越して申し訳ない」と。
そういう考え方になってしまうと、これはもう重症だ。
「貴方のこういうところが素敵だと思う」という評価に対して、
「そんなことは全然なくて、本当に大した人間じゃないんです」と跳ね返す行為は、
「見てみて、これ可愛くない?」と、自分が素敵だなと思った物を見せた時、
「どこが良いのかこれっぽっちも分からない」と、そう言い放つ事と何ら変わらない。
施し、施されるを繰り返す僕達の間柄を
「ギブアンドテイク」とカタカナで言ってしまうのは、あまりにも味気がないけれど、
でもきっと、僕達の全てはそうした関係性で成り立っている。
「申し訳ない」なんて言葉が聞きたいんじゃない。
「ありがとう」って言って笑っていて欲しい。
そんな言葉すらいらないと無意識に思える間柄であればこそ、
自分の力を、今出来ることを、見返りなく最大限使おうとする事を厭わない。
きっと僕らは「そういう風に出来ているはず」だと。
確信めいて、そう思う。
自分もかつてはそうだった。
だからこそ、今そうして周りからの好意に無意識に壁を作ってしまう気持ちも、よく分かる。
でも、これまたやはり僕がそうであったように、
無意識に高く作り上げた壁を向こう側からぶち壊してくれる人が、崩れ落ちる時が、
必ずいつかどこかであるはずだから。
僕の時は、「うるせーテメー次またそんな事言ったらぶっ飛ばすぞ」と、
ガキ大将の台詞の様な、少々乱暴な言葉と方法ではあったけれど、とにかく。
僕のような「何も持っていなかった」人間ですら、広い世界が見えるようになった。
周りの人間に手を引っ張り上げられて、背中を押されてここまで来れた。
偉そうにも、人に対して自分の想いと考えを、色んな手段で伝えられるようになった。
だから、きっと
そんな風に殻を作って閉じこもっていなくても、大丈夫。
物心が付くか付かないかという幼い頃、誰もが教えられただろう、
あの「紐の結び方」と、人と人との関係性は、多分同じようなことなんだと思う。
右の輪と、左の輪を、同じ力で「せーの」で引っ張り合って、
そうしてあの美しい形は作られるのだから。
どちらに力が傾いていても出来ないものなのだから。
今のままで、大丈夫。そのままでいてくれさえすれば、それでいい。
同じ力で引っ張り合えれば、それでいいから。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
こんな風に落ち着いてあの時、自分の考えを伝えられた自信はないけれど、
電話を切る間際に聞いた「ありがとう」の声の調子に少し混じった明るい音が、
僕の聞き間違いでないことを、ぼんやりと願う。
彼女に対してその時伝えた言葉がそっくりそのまま、
あの時自分が誰かに言って欲しかった言葉でしかなかったのだと、
はっと気付いたのは、狭い自分の部屋に帰ってきてからだった。
始まりと根幹と、そして全て。
2016.08.14 Sunday
「服が好きだ。」と思うようになった、僕の原点の話。
同時に、僕のコンプレックスの話。
本が好きな子供でした。辞書や電話帳や図鑑を、父の書斎で一人、黙々と読みふける様な子供でした。
スポーツに魅力を感じる事が出来ませんでした。
体力も無ければ、運動神経も無い。
ドッヂボールの楽しさも、野球やサッカーの試合に熱中する周りの友達も、全然理解が出来ませんでした。
「それ」に気付いたのは、忘れもしない、中学一年生の時。
小学生から中学生へと環境が変わり、皆がみんな浮足立っていた頃。
無理に背伸びをして大人の真似事をしたがって、けれども中身は「無邪気」な、
言い換えれば「無自覚な残酷さ」が精神の大部分を占めていた、そんな年頃の子供たちの集団の中で、
ある日突然に、僕は孤立していました。
今思い返してみれば、きっと明確な「理由」なんて無かったんだろうなぁ、と思います。
ただ何となく、「ウザかったから」「弱そうだったから」。その程度なんだろうなぁ、と。
小学生の頃はそれなりに友達も多くて、同性異性関係なく周りにいつも人がいたので、
当時の僕にはそれなりにショッキングな出来事でした。
そうした事がきっかけで、元々インドア派だった事もあり、僕は内向的な人間へとそのまま成長していきました。
周囲の人間全てに対していつも苛ついていて、同年代なんて特に大嫌いで、人と話すのも苦手で億劫で、
本とTVとPCばかり触っていました。
今の僕の性格やキャラクターを知っている人からしたら信じられないかもしれないくらい、
只々根暗でコミュニケーション能力の欠落した、典型的な「いじめられっ子」でした。
高校に入学し、行動範囲が多少広がり、自由に使えるお金も少しだけ増えて、
入学したばかりの春休みに、一人で出かけた先が「大須」でした。
愛知在住の方なら分かるかと思いますが、大須という土地は、東京でいうところの吉祥寺の様な高円寺の様な、
大阪でいうところのアメリカ村の様な、雑多な店にあふれたサブカルチャーな匂いのするエリアで、
田舎育ちの高校生にはそれなりに新鮮に楽しめる場所でした。
その日も大須をふらふら歩きながら、お腹が空いたら唐揚げを食べ、喉が渇いたらタピオカミルクティーを飲んで、
商店街をぶらぶらしていました。
そうしている内に目についた、1軒の古着屋に、何も考えずに入りました。
大須に数ある古着屋の中でも割りと老舗の人気店であったという事は後から知りましたが、そんな事は関係なく、
「Avail」や「RightOn」で洋服を買っていた当時の僕には、その店のラックに掛かっていた物全てが新鮮でした。
あの古着屋独特の、柔軟剤とインセンスの煙が混ざった甘い匂いを吸い込みながら、
訳も分からず店内をキョロキョロ眺めていたら、当時の看板店員だった男性店員さんが、
昔からの友達かのように、こっちが驚くくらいのフランクさで、陽気に話しかけて来ました。
「気になるものがあったら、着てみてねー」と。
そうして。
その店員さんの言われるがまま頭の先から爪先まで全身をコーディネートされ、そうして姿鏡に映った自分を見て、
「良いかもしれない」と、単純にそう思いました。
その日、良く分からないままに財布に入っていたありったけの所持金を全部出して、
U.S.NAVYのチノトラウザーズと、HanesのVネックTシャツ、スウェードのビルケンシュトックのボストンを買って
ソワソワしながら家に帰ったのを、まるで昨日の事ように覚えています。
暫くしてから、「球技大会の打ち上げ」と称したクラスの集まりがあって、
その時初めて、全身「大須」で買った古着を着て、遊びに行きました。
馬鹿にされるんじゃないか。いや、そもそも話しかけても貰えないだろう。
でも、だったら陰口を言われるんだろうな。
そんな風にびくびくしながら。
集合場所に行った時、既にほとんど全員が集まっていて、
「おー!来たな!」と、幹事の男の子が声を発した瞬間に、ほぼ全員の目が一斉に僕の方を向きました。
ふざけんなよ。やめてくれよ。こそっと入って隅のほうで携帯でも弄っていようかと思っていたのに。
怯える僕を他所に、その時輪の中心にいた1人の女の子が開口一番言い放った一言は、
「うわっ、すっごいオシャレだね!」
その日のその後のことは、残念ながらもうほとんど覚えていませんが
高校を卒業し地元を離れ、大学も卒業し社会人となった今でも、
年に何度も高校の同級生の彼等と変わらず交流がある事。
接客業を経て、今は営業という仕事をしている事から鑑みるに、
きっとあの日あの時が、僕の人生のとっての、大きな大きな転機だったように、そう思います。
人に誇れる物が何も無かった。自分自身に自信が一切無かった。
だから人から遠ざかって、周りを全て拒絶した。
そんな僕の事を「オシャレだね」と。「格好良いね」と言ってくれたあの子がいたから。
「何でもそうだけど、特に服って興味持ち出したらキリがないから、楽しいぜ~!」と、
頼んでもないのに全身をコーディネートしてくれたあの店員さんがいたから。
きっと今、僕は、僕自身でいる事を楽しみながら、生きていられるのだと。
そう強く、感じています。
心の底から、真っ直ぐに。
「美しい装いは、人に勇気と自信を与えるわ。あなたにも、魔法がかかったかしら。」
大好きな漫画の、大好きなキャラクターのセリフ。
今僕も、このセリフを信じて、「洋服」の持つ力と必要性というものを信じて、
公私ともに、服というものに溺れて生きています。
色々なブランドがあったっていい。色々なスタイルがあったっていい。
「正解」なんてどこにも無いし、そんなものを探すことそれ自体がナンセンスだ。
その人にとって、それが「美しい装い」であるのなら、
きっとその洋服達は、その人の人生を、毎日を、その日1日を、輝かせてくれる「名脇役」であり得るのだと。
そう信じて止みません。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
これが、僕の原点。「服が好きだ」と思う根拠。
願わくば、この記憶だけはいつまでも忘れずにいたいものです。

同時に、僕のコンプレックスの話。
本が好きな子供でした。辞書や電話帳や図鑑を、父の書斎で一人、黙々と読みふける様な子供でした。
スポーツに魅力を感じる事が出来ませんでした。
体力も無ければ、運動神経も無い。
ドッヂボールの楽しさも、野球やサッカーの試合に熱中する周りの友達も、全然理解が出来ませんでした。
「それ」に気付いたのは、忘れもしない、中学一年生の時。
小学生から中学生へと環境が変わり、皆がみんな浮足立っていた頃。
無理に背伸びをして大人の真似事をしたがって、けれども中身は「無邪気」な、
言い換えれば「無自覚な残酷さ」が精神の大部分を占めていた、そんな年頃の子供たちの集団の中で、
ある日突然に、僕は孤立していました。
今思い返してみれば、きっと明確な「理由」なんて無かったんだろうなぁ、と思います。
ただ何となく、「ウザかったから」「弱そうだったから」。その程度なんだろうなぁ、と。
小学生の頃はそれなりに友達も多くて、同性異性関係なく周りにいつも人がいたので、
当時の僕にはそれなりにショッキングな出来事でした。
そうした事がきっかけで、元々インドア派だった事もあり、僕は内向的な人間へとそのまま成長していきました。
周囲の人間全てに対していつも苛ついていて、同年代なんて特に大嫌いで、人と話すのも苦手で億劫で、
本とTVとPCばかり触っていました。
今の僕の性格やキャラクターを知っている人からしたら信じられないかもしれないくらい、
只々根暗でコミュニケーション能力の欠落した、典型的な「いじめられっ子」でした。
高校に入学し、行動範囲が多少広がり、自由に使えるお金も少しだけ増えて、
入学したばかりの春休みに、一人で出かけた先が「大須」でした。
愛知在住の方なら分かるかと思いますが、大須という土地は、東京でいうところの吉祥寺の様な高円寺の様な、
大阪でいうところのアメリカ村の様な、雑多な店にあふれたサブカルチャーな匂いのするエリアで、
田舎育ちの高校生にはそれなりに新鮮に楽しめる場所でした。
その日も大須をふらふら歩きながら、お腹が空いたら唐揚げを食べ、喉が渇いたらタピオカミルクティーを飲んで、
商店街をぶらぶらしていました。
そうしている内に目についた、1軒の古着屋に、何も考えずに入りました。
大須に数ある古着屋の中でも割りと老舗の人気店であったという事は後から知りましたが、そんな事は関係なく、
「Avail」や「RightOn」で洋服を買っていた当時の僕には、その店のラックに掛かっていた物全てが新鮮でした。
あの古着屋独特の、柔軟剤とインセンスの煙が混ざった甘い匂いを吸い込みながら、
訳も分からず店内をキョロキョロ眺めていたら、当時の看板店員だった男性店員さんが、
昔からの友達かのように、こっちが驚くくらいのフランクさで、陽気に話しかけて来ました。
「気になるものがあったら、着てみてねー」と。
そうして。
その店員さんの言われるがまま頭の先から爪先まで全身をコーディネートされ、そうして姿鏡に映った自分を見て、
「良いかもしれない」と、単純にそう思いました。
その日、良く分からないままに財布に入っていたありったけの所持金を全部出して、
U.S.NAVYのチノトラウザーズと、HanesのVネックTシャツ、スウェードのビルケンシュトックのボストンを買って
ソワソワしながら家に帰ったのを、まるで昨日の事ように覚えています。
暫くしてから、「球技大会の打ち上げ」と称したクラスの集まりがあって、
その時初めて、全身「大須」で買った古着を着て、遊びに行きました。
馬鹿にされるんじゃないか。いや、そもそも話しかけても貰えないだろう。
でも、だったら陰口を言われるんだろうな。
そんな風にびくびくしながら。
集合場所に行った時、既にほとんど全員が集まっていて、
「おー!来たな!」と、幹事の男の子が声を発した瞬間に、ほぼ全員の目が一斉に僕の方を向きました。
ふざけんなよ。やめてくれよ。こそっと入って隅のほうで携帯でも弄っていようかと思っていたのに。
怯える僕を他所に、その時輪の中心にいた1人の女の子が開口一番言い放った一言は、
「うわっ、すっごいオシャレだね!」
その日のその後のことは、残念ながらもうほとんど覚えていませんが
高校を卒業し地元を離れ、大学も卒業し社会人となった今でも、
年に何度も高校の同級生の彼等と変わらず交流がある事。
接客業を経て、今は営業という仕事をしている事から鑑みるに、
きっとあの日あの時が、僕の人生のとっての、大きな大きな転機だったように、そう思います。
人に誇れる物が何も無かった。自分自身に自信が一切無かった。
だから人から遠ざかって、周りを全て拒絶した。
そんな僕の事を「オシャレだね」と。「格好良いね」と言ってくれたあの子がいたから。
「何でもそうだけど、特に服って興味持ち出したらキリがないから、楽しいぜ~!」と、
頼んでもないのに全身をコーディネートしてくれたあの店員さんがいたから。
きっと今、僕は、僕自身でいる事を楽しみながら、生きていられるのだと。
そう強く、感じています。
心の底から、真っ直ぐに。
「美しい装いは、人に勇気と自信を与えるわ。あなたにも、魔法がかかったかしら。」
大好きな漫画の、大好きなキャラクターのセリフ。
今僕も、このセリフを信じて、「洋服」の持つ力と必要性というものを信じて、
公私ともに、服というものに溺れて生きています。
色々なブランドがあったっていい。色々なスタイルがあったっていい。
「正解」なんてどこにも無いし、そんなものを探すことそれ自体がナンセンスだ。
その人にとって、それが「美しい装い」であるのなら、
きっとその洋服達は、その人の人生を、毎日を、その日1日を、輝かせてくれる「名脇役」であり得るのだと。
そう信じて止みません。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
これが、僕の原点。「服が好きだ」と思う根拠。
願わくば、この記憶だけはいつまでも忘れずにいたいものです。
2016年7月
2016.08.03 Wednesday
7月14日
「あの頃は良かった」
そんな美しい“思い出”に自分を縛って
身動きを止めてしまうのではなくて、
背中でしっかり背負いながら、
目紛しくも輝かしい、連続した“今”の積み重ねに、
楽しさを感じられる人間で在りたい、と。
「色んな事があったけど、今が1番楽しいね」
朗らかに笑う、御年78歳の方の言葉を聞いて、今。
強く思います。
7月21日
行きたい場所があって、
見たい景色があって、
笑い合いたい人達がいて、
やっていきたい事がある。
のであれば。
“足りない”物ばかりを数えるのは、
もうそろそろ、辞めた方が良さそうです。
雨上がり。こんな場所でも、どこか近くで蝉が鳴いてる。
7月24日
「夏なんて、待ってなくても来るけれど」
「いつまで待っても、来ない人もいるのよねぇ」
小淵沢の駅の待合室にて。
家族の車を待つ間、汗をかきつつお話しをした、
ご高齢の車椅子のご婦人の言葉の一つ一つが、
耳鳴りの様に、今も。纏わりついて離れない。
7月28日
少し軽くなった髪が揺れる度に香る、
パーマ液の独特な匂いを嗅ぐ度に、
色々な事を刹那的に、曖昧に、
次から次へと思い出す。
「アンタの頭の中身が好きだ」
あんなに嬉しい事をあの人に言って貰えたのは
一体いつ、どこでだったのか。
明るい恵比寿の駅前で、
笑ってしまいそうになる、夏の風物詩を見た。
近所のスーパーに「原液」は売ってたっけなぁ、と。
妙にワクワクしながら改札を潜って、
イヤホンを耳に突っ込んで、音量を2段階上げて
ホームまでの階段を鼻歌交じりに小走りで
一段飛ばしで、登っていく。
「あの頃は良かった」
そんな美しい“思い出”に自分を縛って
身動きを止めてしまうのではなくて、
背中でしっかり背負いながら、
目紛しくも輝かしい、連続した“今”の積み重ねに、
楽しさを感じられる人間で在りたい、と。
「色んな事があったけど、今が1番楽しいね」
朗らかに笑う、御年78歳の方の言葉を聞いて、今。
強く思います。
7月21日
行きたい場所があって、
見たい景色があって、
笑い合いたい人達がいて、
やっていきたい事がある。
のであれば。
“足りない”物ばかりを数えるのは、
もうそろそろ、辞めた方が良さそうです。
雨上がり。こんな場所でも、どこか近くで蝉が鳴いてる。
7月24日
「夏なんて、待ってなくても来るけれど」
「いつまで待っても、来ない人もいるのよねぇ」
小淵沢の駅の待合室にて。
家族の車を待つ間、汗をかきつつお話しをした、
ご高齢の車椅子のご婦人の言葉の一つ一つが、
耳鳴りの様に、今も。纏わりついて離れない。
7月28日
少し軽くなった髪が揺れる度に香る、
パーマ液の独特な匂いを嗅ぐ度に、
色々な事を刹那的に、曖昧に、
次から次へと思い出す。
「アンタの頭の中身が好きだ」
あんなに嬉しい事をあの人に言って貰えたのは
一体いつ、どこでだったのか。
明るい恵比寿の駅前で、
笑ってしまいそうになる、夏の風物詩を見た。
近所のスーパーに「原液」は売ってたっけなぁ、と。
妙にワクワクしながら改札を潜って、
イヤホンを耳に突っ込んで、音量を2段階上げて
ホームまでの階段を鼻歌交じりに小走りで
一段飛ばしで、登っていく。
引き寄せて
2016.04.06 Wednesday
「引き寄せの法則」という物があるらしい。
生憎とそちらの方面に疎い門外漢であるし、
だから、専門的なレベルでの理解なんて勿論全く出来ていない。
其処此処でこの法則の名を耳にするようになって、
表面だけをなぞるように、軽く調べてみた時には、
「なるほど、そうか。新手の宗教みたいなモンか」
という浅い段階で、理解しようとする事を諦めた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
時間が、足りない。
頭も目も耳も口も足も携帯の充電も、
圧倒的に、足りていない。
そんな毎日をここ暫くは送っている。
この文章も、移動の最中、電車の中や歩いている時に、
一文打っては下書き保存し、また打っては上書いて、
入力が面倒な時にはイヤフォンのマイクに向かって喋りかけてメモに残して、と
そんな風に、ちまちまちまちま書いていたら、
気付けば書き始めてから一週間は経とうとしている。
「忙しいアピール」をしたい訳じゃあ無い。
アピールしたいのは、僕が今伝えたいのは、ここに書き残しておきたいのは、
「毎日毎日毎日、無茶苦茶に楽しくって参っちまうぜコノヤロー!」という、
そんな乱暴な言葉に尽きる。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
昔から、何をするにも要領が悪いタイプだった。
手先が不器用過ぎて、笑い話にされる事だって多々あった。
絵を書けば「画伯」と呼ばれ笑われたし、
折り紙で鶴を折ろうとすれば毎回必ず、それはモンスターになった。
「何かを新しく生み出すという事は自分には不可能だ」
と、クリエイターの道を自ら早々に諦めた事は
だからきっと必然的な事であったのだろうと思うし、
その選択を今振り返ってみても、
何一つとして、間違っていなかったと確信している。
でも、それならば。
自分の手で何かを作り出すという事が、出来ないのならば。
その他に自分には何が出来るのかという事を、考え続けるべきなのだと。
そう思えるようになったのは、いつからだったか。
山向の田舎町で生きていたあの頃から、
文字通り「服に狂って」ここまで生きてきた。
服のおかげで、生きているのが楽しくなった。
そうして日々を過ごす内に、
「洋服」以上に、自分は「人」が好きなんだという事に気がついた。
話をする事が好きだ。
話を聞くのだって、大好きだ。
自分が心の底から好きな物を、自分が好きだと思う人達に
共感して貰えた時っていうのは、なんだってこんなに嬉しいんだろう。
それならば。
【0から1を生み出す】事は、自分には一生出来ないとしても、
【1を100に昇華させる】事は、きっと出来る。
世に溢れんばかりに存在する多くのモノを、
咀嚼して飲み込んでインプットし続けて、
そうして最後に、自分というフィルターを通して、一つの形に作りあげていく。
自分なりの言葉で、表現で、時には身振り手振りだって大いに交えて、
理想として想い描く、ずっと追い求めてきた「世界観」を、
具現化していく事。伝えていく事。
そういう事を、僕は今、やりたい。やっていきたい。
より良い世界の中で、死ぬまで生きていきたい。
そう思いながらも慌ただしく其処此処に、
足を運んで顔を出して口を挟んでいる内に、ふと気がつけば、
「いいね!面白いね!やってみたいね」と、沢山の人達が言ってくれる様になった。
「こういう事をやりたい」と願った時に、
「一緒にやろうよ!」と、言ってくれるだけじゃなく、
そんな人達が、次から次へと繋がって、新たにどんどん現れるという事を
極々冷静になって、出来る限り客観的に鑑みてみても、
どうだろうか、自信は無い。けれど、でも、
「『引き寄せの法則』って、こういう事なのかもしれないな」と、
ほんの少し頭を過るくらいには今、僕の人生は好調の波に乗っているのだと、
今この瞬間にも、強く思う。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
つい先日。
大学時代の友人に、アルコールに犯された頭と口で、
上記の駄文をもっともっと乱雑な言葉で伝えていたら、
帰り際、別れる時になって、彼から偉人の言葉をプレゼントされた。
『君は自由だ。選びたまえ!』
サルトル。
偉大なる哲学者が残した名言と呼ばれるこの一文は、あともう一言だけ続く。
『つまり、作りたまえ。』
そうだな。そういう事なのだと、思う。
生憎とそちらの方面に疎い門外漢であるし、
だから、専門的なレベルでの理解なんて勿論全く出来ていない。
其処此処でこの法則の名を耳にするようになって、
表面だけをなぞるように、軽く調べてみた時には、
「なるほど、そうか。新手の宗教みたいなモンか」
という浅い段階で、理解しようとする事を諦めた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
時間が、足りない。
頭も目も耳も口も足も携帯の充電も、
圧倒的に、足りていない。
そんな毎日をここ暫くは送っている。
この文章も、移動の最中、電車の中や歩いている時に、
一文打っては下書き保存し、また打っては上書いて、
入力が面倒な時にはイヤフォンのマイクに向かって喋りかけてメモに残して、と
そんな風に、ちまちまちまちま書いていたら、
気付けば書き始めてから一週間は経とうとしている。
「忙しいアピール」をしたい訳じゃあ無い。
アピールしたいのは、僕が今伝えたいのは、ここに書き残しておきたいのは、
「毎日毎日毎日、無茶苦茶に楽しくって参っちまうぜコノヤロー!」という、
そんな乱暴な言葉に尽きる。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
昔から、何をするにも要領が悪いタイプだった。
手先が不器用過ぎて、笑い話にされる事だって多々あった。
絵を書けば「画伯」と呼ばれ笑われたし、
折り紙で鶴を折ろうとすれば毎回必ず、それはモンスターになった。
「何かを新しく生み出すという事は自分には不可能だ」
と、クリエイターの道を自ら早々に諦めた事は
だからきっと必然的な事であったのだろうと思うし、
その選択を今振り返ってみても、
何一つとして、間違っていなかったと確信している。
でも、それならば。
自分の手で何かを作り出すという事が、出来ないのならば。
その他に自分には何が出来るのかという事を、考え続けるべきなのだと。
そう思えるようになったのは、いつからだったか。
山向の田舎町で生きていたあの頃から、
文字通り「服に狂って」ここまで生きてきた。
服のおかげで、生きているのが楽しくなった。
そうして日々を過ごす内に、
「洋服」以上に、自分は「人」が好きなんだという事に気がついた。
話をする事が好きだ。
話を聞くのだって、大好きだ。
自分が心の底から好きな物を、自分が好きだと思う人達に
共感して貰えた時っていうのは、なんだってこんなに嬉しいんだろう。
それならば。
【0から1を生み出す】事は、自分には一生出来ないとしても、
【1を100に昇華させる】事は、きっと出来る。
世に溢れんばかりに存在する多くのモノを、
咀嚼して飲み込んでインプットし続けて、
そうして最後に、自分というフィルターを通して、一つの形に作りあげていく。
自分なりの言葉で、表現で、時には身振り手振りだって大いに交えて、
理想として想い描く、ずっと追い求めてきた「世界観」を、
具現化していく事。伝えていく事。
そういう事を、僕は今、やりたい。やっていきたい。
より良い世界の中で、死ぬまで生きていきたい。
そう思いながらも慌ただしく其処此処に、
足を運んで顔を出して口を挟んでいる内に、ふと気がつけば、
「いいね!面白いね!やってみたいね」と、沢山の人達が言ってくれる様になった。
「こういう事をやりたい」と願った時に、
「一緒にやろうよ!」と、言ってくれるだけじゃなく、
そんな人達が、次から次へと繋がって、新たにどんどん現れるという事を
極々冷静になって、出来る限り客観的に鑑みてみても、
どうだろうか、自信は無い。けれど、でも、
「『引き寄せの法則』って、こういう事なのかもしれないな」と、
ほんの少し頭を過るくらいには今、僕の人生は好調の波に乗っているのだと、
今この瞬間にも、強く思う。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
つい先日。
大学時代の友人に、アルコールに犯された頭と口で、
上記の駄文をもっともっと乱雑な言葉で伝えていたら、
帰り際、別れる時になって、彼から偉人の言葉をプレゼントされた。
『君は自由だ。選びたまえ!』
サルトル。
偉大なる哲学者が残した名言と呼ばれるこの一文は、あともう一言だけ続く。
『つまり、作りたまえ。』
そうだな。そういう事なのだと、思う。
trigger
2015.03.19 Thursday
道を歩いていて、
ご飯を食べていて、
湯船に浸かっていて、
気の置けない友人と他愛ない話をしていて、
ふとした時に、トリップしてしまう事が、よくある。
大抵そういう時は、気付かぬうちに何かが自分の"五感"に働きかけていて、
その"何か"に紐付いた記憶の世界に引きづられる、という事ただそれだけであって、
思い起こしている「今」その瞬間に、現実的な影響を及ぼす事など無いのだけれど、無いはずなのだけれど、
あの日あの時あの瞬間の、
匂いや手触りや音や感情に至るまで、
まるでつい今しがたの出来事でもあるかのように、
燦燦と自分の身に降り注ぐ事も、稀にあったりするもので。
自分が男性だからなのか、
はたまたそうした事は関係なくて、僕個人の人間性がそうだからなのか、
どちらなのかは四半世紀以上を何とか生きてきた今でもまだ皆目見当がついていないけれど、とにかく、
「初恋の人」というのは、
僕にとって今も尚、あまりにも特別な存在として、在り続けている。
*****
初めて「お付き合い」をしたあの人は、背がすらりと高くて、長く伸ばした真っ黒な髪がよく似合う、文字通り病的に線の細い、四つ歳上の女子高生だった。
その時僕は中学に入ったばかりの頃で、
周りからは拒絶されて自分の内に篭り、女の子達よりもずっと背が低く、前髪を鼻まで伸ばし、いつも猫背で下を見つめて歩いている、陰鬱とした少年だった。
最初は、「姉弟」のような関係だったように思う。
彼女は僕を「何にも物を知らない可愛い男の子」だと思っていただろうし、
僕は彼女を「新しい事を何でも教えてくれる綺麗なお姉さん」くらいに思っていた。
そうこうしている内に、
ひょんな事から二人で過ごす時間が増え、そこかしこに足を運ぶようになり、居心地が良いと感じ始め、
気付いた時には「そういう」関係になっていた。
男にしては長く伸びた僕の猫っ毛を、ぐしゃぐしゃと、犬にするように掻きむしるのが彼女は好きで、
けれど僕は、何だかそれが「子供扱い」されてるようにしか思えなくて嫌いだった。
「これは、付き合ってるっていう事で、いいんだよね?」と真顔でおずおずと聞いた覚えがある。
我ながら本当に可愛らしい馬鹿さ加減だなぁと、今になって思う。
それから。
彼女が洋楽にハマっていると知れば、
レンタル屋まで自転車を飛ばして借り漁ってはMDに焼き続け、
彼女がある小説家にご執心だと知れば、
学校の図書館で片っ端から著作を借りて授業中に机の下で読み耽り、
行きたいところがあると知れば一緒に行って、食べたいものがあると言えば一緒に食べた。
きっと、背伸びをしたい年頃だったのだ。
同じ目線で話が出来るような、隣に立っていても恥ずかしくない、そんな存在になりたいと真剣に思っていた。
最終的には、
今思い返せば笑ってしまうような、本当に下らない事でお互い意地を張り合って、
あまりよろしくない終わり方を迎える事になったのだけど、
それまでの期間、彼女が僕に与え続けた影響はきっと、今日に至るまで脈々と、僕の中に根付いている。
*****
携帯が鳴った。
知らない番号からだった。
あれは確か大学に入学したばかりの頃で、
上京して一人暮らしを始め、右も左も分からなくて、友達もまだまだ出来なくて、
一人で潰す時間の驚く程の冷たさに飽き飽きしていた頃で、
梅の花がそこかしこで香りを撒き散らし、桜の花はもうあと少しで咲きそうだ、という時だった。
おっかなびっくり電話に出ると、
声の主は、数年前に別れたっきりの、件の彼女だった。
社会人になっていた彼女は、あるツテを辿って僕の連絡先を知り、ついでに僕が上京をした事まで知っていて、
自分も暫く前から東京に出てきている事、
頑張って就活をして夢だった仕事に就けた事、
久しぶりに色々話をしたいのだというような事などを、流暢な「東京弁」で、一方的にまくし立ててきた。
数日後。
新宿の、小洒落たカフェで、僕と彼女はテーブルを挟んで向かい合っていた。
申し出を断る理由は特に見当たらなかった。
4、5年振りに会った彼女は、
自慢だった長い黒髪を男の子みたいにばっさりと切っていて、
背は僕よりも頭一つ小さくなっていたけれど、
それでも、僕の口から出る他愛ない話にころころとよく笑う、あの時の彼女のままだった。
珈琲が出てくれば、無言でスティックシュガーとポーションをこっちに寄越して「使うでしょ?ブラック飲めないもんね。」というような顔をして、
頼んでもないのに店員に灰皿を注文して、驚く僕の目の前に置いて、
「吸うようになるだろうなぁって昔から思ってたよ。君は格好つけたがりだから。」と、猫みたいに意地悪く笑う、
あの時の彼女のままだった。
「敵わねぇなぁ。」と
内心苦笑しながら煙草を吹かす僕を尻目に、彼女は、
「私ねぇ、結婚するんだよね。」と。
唐突に、そう言った。
「旦那の仕事の関係で、夏からは海外生活になるの。」とも。
そこから、
次の記憶はその年の夏に飛ぶ。
当たり障りなくお茶の時間を終え、
新宿駅のホームであの日別れた彼女から、
またしても突然、電話があった。
「今ねぇ、空港なの。」
「どうせ暇でしょ?フライトまで時間があるから、見送りに来てよ。」と。
「どうせ」のところにわざわざスタッカートを付けて言う辺りが、彼女らしいと思った。
数時間後。
空港の、搭乗前の検査と手続きを待つ人々が腰掛ける場所の一角に、僕らは並んで座っていて、
あーだこーだと、ここでもまた他愛ない話を僕がして、彼女が笑って僕の肩をバシバシ叩いて、
そうして時間を待っていた。
飛行機の行き先と定刻を知らせる表示板が忙しなく動いて、
彼女の乗る便が表示されて、
「じゃあ」と、お互いに立ち上がった後。
「あ、ちょい待ち。」と、
彼女が僕を呼び止めた。
「こっち向いて。」と彼女が僕の肩を掴んでぐるっと回し、
土足のままでぴょんっと椅子の上に飛び乗って、
にんまりと、心底意地悪く笑った。
訳が分からず目を丸くしながら見上げた彼女は、
僕が「あの時」、無理に背伸びをして追いかけた、背の高い、「綺麗なお姉さん」だった。
ぐしゃぐしゃと、犬にするみたいに僕の髪を掻きむしって、
「じゃあね。」と、明るい声でそう言うと、
放心している僕をその場に残して、大きなキャリーケースを転がして、颯爽と搭乗口に消えていった。
一度も振り向かなかった。
******
ここまでドラマチックに書き綴った、僕の大層下らない恋愛経験は、その後特に盛り上がりを見せず、平穏な終わりを見せる。
3年ほど前に一度、
これまた唐突に連絡が来て、
元気な赤ちゃんが生まれたと、飛び抜けて明るく幸せそうな声で報告を貰ったのが最後だ。
こんな事を今再び、ありありと思い出したのは、
会社への行き帰りの途中に咲いている梅の花の香りが、きっと、そうさせているんだろうと思う。
若かったなぁ。と。
青かったんだなぁ。でもそれは、今でも大して変わらないだろうか。と。
つらつらと思い返しながら、駅までの道を歩いていた今日。
携帯が鳴った。
見覚えのある番号からだった。
******
ご飯を食べていて、
湯船に浸かっていて、
気の置けない友人と他愛ない話をしていて、
ふとした時に、トリップしてしまう事が、よくある。
大抵そういう時は、気付かぬうちに何かが自分の"五感"に働きかけていて、
その"何か"に紐付いた記憶の世界に引きづられる、という事ただそれだけであって、
思い起こしている「今」その瞬間に、現実的な影響を及ぼす事など無いのだけれど、無いはずなのだけれど、
あの日あの時あの瞬間の、
匂いや手触りや音や感情に至るまで、
まるでつい今しがたの出来事でもあるかのように、
燦燦と自分の身に降り注ぐ事も、稀にあったりするもので。
自分が男性だからなのか、
はたまたそうした事は関係なくて、僕個人の人間性がそうだからなのか、
どちらなのかは四半世紀以上を何とか生きてきた今でもまだ皆目見当がついていないけれど、とにかく、
「初恋の人」というのは、
僕にとって今も尚、あまりにも特別な存在として、在り続けている。
*****
初めて「お付き合い」をしたあの人は、背がすらりと高くて、長く伸ばした真っ黒な髪がよく似合う、文字通り病的に線の細い、四つ歳上の女子高生だった。
その時僕は中学に入ったばかりの頃で、
周りからは拒絶されて自分の内に篭り、女の子達よりもずっと背が低く、前髪を鼻まで伸ばし、いつも猫背で下を見つめて歩いている、陰鬱とした少年だった。
最初は、「姉弟」のような関係だったように思う。
彼女は僕を「何にも物を知らない可愛い男の子」だと思っていただろうし、
僕は彼女を「新しい事を何でも教えてくれる綺麗なお姉さん」くらいに思っていた。
そうこうしている内に、
ひょんな事から二人で過ごす時間が増え、そこかしこに足を運ぶようになり、居心地が良いと感じ始め、
気付いた時には「そういう」関係になっていた。
男にしては長く伸びた僕の猫っ毛を、ぐしゃぐしゃと、犬にするように掻きむしるのが彼女は好きで、
けれど僕は、何だかそれが「子供扱い」されてるようにしか思えなくて嫌いだった。
「これは、付き合ってるっていう事で、いいんだよね?」と真顔でおずおずと聞いた覚えがある。
我ながら本当に可愛らしい馬鹿さ加減だなぁと、今になって思う。
それから。
彼女が洋楽にハマっていると知れば、
レンタル屋まで自転車を飛ばして借り漁ってはMDに焼き続け、
彼女がある小説家にご執心だと知れば、
学校の図書館で片っ端から著作を借りて授業中に机の下で読み耽り、
行きたいところがあると知れば一緒に行って、食べたいものがあると言えば一緒に食べた。
きっと、背伸びをしたい年頃だったのだ。
同じ目線で話が出来るような、隣に立っていても恥ずかしくない、そんな存在になりたいと真剣に思っていた。
最終的には、
今思い返せば笑ってしまうような、本当に下らない事でお互い意地を張り合って、
あまりよろしくない終わり方を迎える事になったのだけど、
それまでの期間、彼女が僕に与え続けた影響はきっと、今日に至るまで脈々と、僕の中に根付いている。
*****
携帯が鳴った。
知らない番号からだった。
あれは確か大学に入学したばかりの頃で、
上京して一人暮らしを始め、右も左も分からなくて、友達もまだまだ出来なくて、
一人で潰す時間の驚く程の冷たさに飽き飽きしていた頃で、
梅の花がそこかしこで香りを撒き散らし、桜の花はもうあと少しで咲きそうだ、という時だった。
おっかなびっくり電話に出ると、
声の主は、数年前に別れたっきりの、件の彼女だった。
社会人になっていた彼女は、あるツテを辿って僕の連絡先を知り、ついでに僕が上京をした事まで知っていて、
自分も暫く前から東京に出てきている事、
頑張って就活をして夢だった仕事に就けた事、
久しぶりに色々話をしたいのだというような事などを、流暢な「東京弁」で、一方的にまくし立ててきた。
数日後。
新宿の、小洒落たカフェで、僕と彼女はテーブルを挟んで向かい合っていた。
申し出を断る理由は特に見当たらなかった。
4、5年振りに会った彼女は、
自慢だった長い黒髪を男の子みたいにばっさりと切っていて、
背は僕よりも頭一つ小さくなっていたけれど、
それでも、僕の口から出る他愛ない話にころころとよく笑う、あの時の彼女のままだった。
珈琲が出てくれば、無言でスティックシュガーとポーションをこっちに寄越して「使うでしょ?ブラック飲めないもんね。」というような顔をして、
頼んでもないのに店員に灰皿を注文して、驚く僕の目の前に置いて、
「吸うようになるだろうなぁって昔から思ってたよ。君は格好つけたがりだから。」と、猫みたいに意地悪く笑う、
あの時の彼女のままだった。
「敵わねぇなぁ。」と
内心苦笑しながら煙草を吹かす僕を尻目に、彼女は、
「私ねぇ、結婚するんだよね。」と。
唐突に、そう言った。
「旦那の仕事の関係で、夏からは海外生活になるの。」とも。
そこから、
次の記憶はその年の夏に飛ぶ。
当たり障りなくお茶の時間を終え、
新宿駅のホームであの日別れた彼女から、
またしても突然、電話があった。
「今ねぇ、空港なの。」
「どうせ暇でしょ?フライトまで時間があるから、見送りに来てよ。」と。
「どうせ」のところにわざわざスタッカートを付けて言う辺りが、彼女らしいと思った。
数時間後。
空港の、搭乗前の検査と手続きを待つ人々が腰掛ける場所の一角に、僕らは並んで座っていて、
あーだこーだと、ここでもまた他愛ない話を僕がして、彼女が笑って僕の肩をバシバシ叩いて、
そうして時間を待っていた。
飛行機の行き先と定刻を知らせる表示板が忙しなく動いて、
彼女の乗る便が表示されて、
「じゃあ」と、お互いに立ち上がった後。
「あ、ちょい待ち。」と、
彼女が僕を呼び止めた。
「こっち向いて。」と彼女が僕の肩を掴んでぐるっと回し、
土足のままでぴょんっと椅子の上に飛び乗って、
にんまりと、心底意地悪く笑った。
訳が分からず目を丸くしながら見上げた彼女は、
僕が「あの時」、無理に背伸びをして追いかけた、背の高い、「綺麗なお姉さん」だった。
ぐしゃぐしゃと、犬にするみたいに僕の髪を掻きむしって、
「じゃあね。」と、明るい声でそう言うと、
放心している僕をその場に残して、大きなキャリーケースを転がして、颯爽と搭乗口に消えていった。
一度も振り向かなかった。
******
ここまでドラマチックに書き綴った、僕の大層下らない恋愛経験は、その後特に盛り上がりを見せず、平穏な終わりを見せる。
3年ほど前に一度、
これまた唐突に連絡が来て、
元気な赤ちゃんが生まれたと、飛び抜けて明るく幸せそうな声で報告を貰ったのが最後だ。
こんな事を今再び、ありありと思い出したのは、
会社への行き帰りの途中に咲いている梅の花の香りが、きっと、そうさせているんだろうと思う。
若かったなぁ。と。
青かったんだなぁ。でもそれは、今でも大して変わらないだろうか。と。
つらつらと思い返しながら、駅までの道を歩いていた今日。
携帯が鳴った。
見覚えのある番号からだった。
******
火傷
2015.01.11 Sunday
尖るという事。突き詰めるという事。
強く強く、自己主張していく事。
そうした事を、求められる人達の事をクリエイター、創造者と言うのであれば、
彼等にはきっと、いや当然にして、
僕のような凡人には果たして到達し得ないような苛烈な苦悩が、多くあるのだろう。
これが正解だ!と、
胸を張って疑いもなく、意気揚々と声高に、
世に自分を知らしめていく過程は、
それは違う。と、
糾弾される恐ろしさに怯えながら、
灯の無い路を手探りで一歩一歩踏みしめていく、そうした勇気の足跡に他ならないのだろう。
だから僕は、そんな彼等を尊敬する。
前を向いて歩いていく彼等を、
そして、これから歩んでいこうとするまだ見ぬ多くの人々を。
最大限の賞賛を持って、彼らが歩く道程の傍で、
紅くなるまで、僕は手を叩き続けるだろう。
自分は尖る事が出来なかった。
けれどその分、受け入れる為の心は均された(と思っている)。
賛辞を送る事以外に、僕が彼等には出来る事は何だろう。
そうした事を考えるだけでも、彼等が発し続ける熱の中に、
自分も片手くらいは突っ込んでいられるような、そんな都合の良い勘違いが出来て、
だからきっと、こういう痛みを負うことは、
上手く言えないけれど、何だかとても、心地良い気がするのだと思う。
強く強く、自己主張していく事。
そうした事を、求められる人達の事をクリエイター、創造者と言うのであれば、
彼等にはきっと、いや当然にして、
僕のような凡人には果たして到達し得ないような苛烈な苦悩が、多くあるのだろう。
これが正解だ!と、
胸を張って疑いもなく、意気揚々と声高に、
世に自分を知らしめていく過程は、
それは違う。と、
糾弾される恐ろしさに怯えながら、
灯の無い路を手探りで一歩一歩踏みしめていく、そうした勇気の足跡に他ならないのだろう。
だから僕は、そんな彼等を尊敬する。
前を向いて歩いていく彼等を、
そして、これから歩んでいこうとするまだ見ぬ多くの人々を。
最大限の賞賛を持って、彼らが歩く道程の傍で、
紅くなるまで、僕は手を叩き続けるだろう。
自分は尖る事が出来なかった。
けれどその分、受け入れる為の心は均された(と思っている)。
賛辞を送る事以外に、僕が彼等には出来る事は何だろう。
そうした事を考えるだけでも、彼等が発し続ける熱の中に、
自分も片手くらいは突っ込んでいられるような、そんな都合の良い勘違いが出来て、
だからきっと、こういう痛みを負うことは、
上手く言えないけれど、何だかとても、心地良い気がするのだと思う。
13.幾重もの人の芳情の上
2010.12.04 Saturday
僕が今立って、生かされている場所。
心も容赦も微塵も無く、
理不尽で粗雑で横暴な発言や事態に、膝を折られても
周りからの温かな好意や懇意に立たされ、励まされ、
鮮やかな元気を貰い、眩しい笑顔を授かって
背筋を伸ばされ、肩を叩かれ、
そして最後は背中を押されて
そうして今、僕は生きている
否、生かされているのだと。
そう、犇々と感じる日々がここのところ続いている。
「周りの人への感謝を忘れずに」とは、まぁ良く言った物で
今まで僕は、この言葉の月並み具合、というか「薄っぺらさ」が余好きではなかったのだけれど
(というか鼻で笑っていたのだけれど)
その時の自分を今、
高らかに、声高に、涙を浮かべて指まで指して腹を抱えて
爆笑してやりたい。
そう思う。
心の一番深い部分から。真っ直ぐに。
あとは言葉だけが一人歩きしない様に
行動を伴わせていければ、尚良いのだろう。
周りから、そうした人間だと思われる様になりたいと、
この年になって初めて気付いたのであった。
心も容赦も微塵も無く、
理不尽で粗雑で横暴な発言や事態に、膝を折られても
周りからの温かな好意や懇意に立たされ、励まされ、
鮮やかな元気を貰い、眩しい笑顔を授かって
背筋を伸ばされ、肩を叩かれ、
そして最後は背中を押されて
そうして今、僕は生きている
否、生かされているのだと。
そう、犇々と感じる日々がここのところ続いている。
「周りの人への感謝を忘れずに」とは、まぁ良く言った物で
今まで僕は、この言葉の月並み具合、というか「薄っぺらさ」が余好きではなかったのだけれど
(というか鼻で笑っていたのだけれど)
その時の自分を今、
高らかに、声高に、涙を浮かべて指まで指して腹を抱えて
爆笑してやりたい。
そう思う。
心の一番深い部分から。真っ直ぐに。
あとは言葉だけが一人歩きしない様に
行動を伴わせていければ、尚良いのだろう。
周りから、そうした人間だと思われる様になりたいと、
この年になって初めて気付いたのであった。