春秋15.諱疾忌医
桓公を診る扁鵲
本画は《史記・扁鵲倉公列伝》にある名医・扁鵲(へんじゃく)が斉の桓公田牛(紀元前400-357、注:春秋五覇の斉桓公は別人)を診察したという故事を基にしている。
扁鵲は戦国時代の伝説の医学家で姓秦、名越人で渤海郡生まれである。長桑君の弟子で各地を回って豊富な医療経験を積み、四診ーとくに脈診と望診を得意とした。
ある日、扁鵲は桓公(かんこう)の顔色を見て「大王は皮膚に病があります。早く治療しなければ悪化します」と申告したが、桓公は「吾は無病」であると聞き入れず、官員に「医者は病であると惑わして利を得ようとするものだ」と笑いながら言った。
五日後、扁鵲は桓公に会い「皮膚と筋肉の間にまで病気が進行しています」と説いたが、桓公は取り合わなかった。さらに五日後、扁鵲は「胃や腸にまで病気が進み危険です」と忠告したが、国王の態度は変わらなかった。
その五日後、扁鵲は桓公に四度目の謁見をすると、国王を見ただけで何も言わずその場を立ち去った。
不思議に思った桓公が使いの者を派遣し理由を訊ねると、扁鵲は「病が皮膚だけなら温湿布、筋肉までなら鍼治療、胃腸まで及べば煎じ薬で治ります。しかし骨髄まで侵されては治療法がない。骨髄まで及んだ国王の病は手遅れです」と語った。
果たして五日後に桓公は耐え難い痛みに襲われて、ようやく扁鵲の話を信じたが時既に遅く間もなくして亡くなった。扁鵲の建議を拒否しつづけた結果、ついに“病膏肓に入っ”たのである。
諱疾忌医(きしつきい)は、病気をかばい隠して医者の治療を受けずに重病に陥るという意味の成語である。
これは、一切の禍患は初めは微々たる徴候で始まるが、注意を怠ると量的質的に変化して大害を引き起こすという戒めであると同時に、災いを避けるには卓識者の意見に耳を傾けよと忠告している。
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