車とバイクが大事だというが

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和久井学容疑者(51)がひとびとの共感を集めている。殺害されたガールズバー経営の25歳の女はタワマンに住んでおり、おそらく頂き女子だと推察されているからだろう。(その真偽はここでは問わない)。そして、レアな車とバイクを売却して貢ぐお金を捻出した件について、その宝物を手放した悲しみについても共感されているようだ。わたしはここでやや疑問を持ち「自分で車やバイクを作ったわけでもあるまいし」と思った。しかし、さらに考えてみると、われわれの所有しているもののほとんどは、自分が作ったものではない。他人が作ったものを大事にしているのである。タワマンに住んでいる人も、自分でタワマンを建設したわけではあるまい。いかにわれわれが、他人の制作したものに取り囲まれていて、そしてそれを「自分の宝物」として所有しているか、なのである。和久井学容疑者(51)が車やバイクをアイデンティティにしていたとしても、その所有欲とか、所有することの満足感をナンセンスだということはできない。われわれには自己愛というものがあるが、わりと空想的であることが多く、必ずしも、自分自身を本当には愛でていない。自分で自分を楽しむことはなかなか出来ないのである。自己愛を満たすとなれば高級腕時計を身につけるとか、そういう短絡的な手段を考えるのであり、だからこそ、和久井学容疑者(51)の車とバイクへの愛情が奇妙には思われていない。車にせよバイクにせよ、腕時計にせよ、作っている人はいるのだから、人類全体が疎外されているわけではないが、車の工場で働くよりは、購入して所有するほうが満足度は高そうだし、そこは人間の本質的な倒錯である。車を作る才能があるとして、その才能を他人に譲渡することはできないのである。自分で車を作って他人に使わせることしかできない。なぜ脳みそから才能というパーツを取り出して他人に譲渡できないのか、いずれは科学の発展でできるようになるのか、そこは不明だが、たぶん出来ないだろうし、この譲渡不可能性からすると、才能こそがアイデンティティの根源という気もするが、そう都合よく独特の才能があるわけでもないので、他人が作ったものを所有するということに落ち着くのである。
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