フジサンケイの「万骨」 2
飛んで火に入る吉村社長の「仮面」
営業あがりのコンプレックスゆえ、権謀術数でのしあがるや、恣意的な組織再編で大混乱。不満を吸い上げたアンケートに激怒して、総務部長をヒラに降格した。韓国から得体の知れぬゲームを導入しようとして失敗し、社長自ら迷走が続いたが、責任を下に転嫁して糊塗。むざむざ見逃してきた親会社FMHは、金光修社長の「後釜」を狙う野心に気づかないのか。追及第2弾! =一部有料
クリエーターの乱 2
5月6日夜、テレビ東京は経営者インタビュー番組『夢遺産』を放映した。仲間由紀恵のナレーションが流れ、ポニーキャニオンの吉村隆社長の顔がアップされる。
「未来は夢でできている」
冒頭からどうだと言わんばかりのご託宣だ。おやおや、世帯視聴率最下位の座を争うフジテレビのライバル局に、晴れてご出演とは、敵に塩を送るつもりか、それとも局系列など度外視して、ひたすら目立ちたい一心なのか。
社内でもめったに語らない青年期の〝黒歴史〟にさらりと触れてみせたが、ネコまたぎしたのは出身大学である。八王子と西新宿にキャンパスがある工学院大学工学部を1981年に卒業した。偏差値は2023年度で52.5~57.5だが、40年前もそんなものだろう。彼が地味なエンジニアの路を歩まず、畑違いの業種に就職したのは、ローリング・ストーンズに憧れ、素人バンドの演奏に夢中になり、学業そっちのけだったせいなのか。
「足立組」の屈辱をバネに
それが証拠に、往時の演奏姿は見せても、学歴には貝のように口を閉ざす。社内では「社長の前では学歴と髪の話は禁句」だとか。コンプレックスはそれだけではない。入社したのは、音楽製作のキャニオン・レコードと87年10月に合併する前のカセット販売部門だったポニーであり、配属はニッポン放送の送信塔が立っていた足立区竹ノ塚の「足立センター」である。そこにはミュージックテープの製造工場があって(のち野球場となり2011年に閉鎖した)、社内でも「足立組」と呼ばれた製造現場。吉村氏も『夢遺産』では、最初の仕事が「段ボールづくり」で「その経験は大きかった」と明かしている。
屈辱をバネにして営業でのしあがった、というサクセスストーリーにしたいのだろう。足立のあとは大阪の営業を経て、東京の音楽宣伝部や映像マーケティングなどほぼ営業一筋。音楽や映像の製作サイドの実績が見あたらないが、アーティストの夢を断念して音楽を届ける側に回った、と『夢遺産』では説明している。だが、実は滑稽なほどアーティスト気取りなのは、やはり「足立組」が負い目なのではないか。
テレ東が知らないお宝画像がある。2023年2月14日にオンライン配信したポニーキャニオンのイベント「ミュージック・ポスト2023」の冒頭。コツコツともったいぶった足音が東京・芝公園のスタジオの床に鳴り響き、ミキシングルームの扉を開けると、にわかにローリング・ストーンズが鳴り響く。謎の人影は吉村社長自身だった。中学生でJumpin’ Jack Flashに憧れ、バンドを組んで学園祭やライブハウスに出入りした過去を語って、自らエレキギターを手に取るや実演を披露する。彼のドヤ顔が拝める貴重な映像なのだ。
が、よく見ると、指を動かすフリだけ。音と合ってない。演奏は他人で、業界用語で「当てブリ」というが、歌なら「口パク」である。そこまでアーティストぶりたいか、と社内では笑われている。しかも、裏でギターをひいている〝他人〟が、元ギタリストで社員だった鄭淇輿氏。今回の訴訟3連発の原告の一人なのだ。
頭隠して尻隠さず。自慢のギターも、コピーバンドの素人芸とお里が知れる。もっと罪が重いのは「心に刻んだ体験阪神淡路大震災」の字幕が出る場面で語った虚言だろう。
その悲惨な状態を見て、僕たちに何ができるかと考えたんですね。テレビのモニターでも持って、ビデオを持って、デッキを持って〔映像を〕見せてあげたらどうかと言われて「あ、それも一理ありますよね。やってみましょうか」と軽く受けたんですよ。でも、怒鳴られるわけですよ。「ふざけるな、食べ物持ってこい」と。
2週間ほど経って状況が変わった、とナレーションが入る。
歓迎されるようになった。喜んでる姿をみて、やっぱりこれは必要な仕事だと思ったんですよ。直接的には助けてあげられないけど、何かの形で助けてあげられるのではと……。
いかにも被災地の現場でボランティアに加わったかのような、美談のハイライトだが、残念ながらテレ東は裏を取っていない。地震の第一報を受けて「とにかく被災地に何かしよう」と言ったのは、当時のポニーキャニオン取締役、真塩昇嗣氏(故人)である。「現地に行ってこい」と言われた開発部の部下が、東京から軍資金を携えて被災地に飛んだ。
不安におののく子どもたちを励まそうと、ディズニーと組んで『ダンボ』や『白雪姫』など古典アニメを見せようという話になった。電通が中心になって、松竹も大人向けに『寅さん』シリーズを提供、モニター機材はパナソニック、機材運搬のバンはトヨタ、被災地の通行手形は産経新聞……と役割分担ができて、支援体制が組まれた。
公共の電波で美談の虚像
しかし当時、大阪の営業部にいた吉村氏の姿は支援チームのどこにもなかった。パナソニック担当のクリエイティヴ・ディレクター宇和川泰道氏らが参加した電通との打ち合わせには「出席したこともなければ、被災地にも行ってない」と当時の関係者は憤る。「不登校の子まで見に来てくれて『ありがとう』と感謝されたんです。現場を踏んでもいないくせに、『食べ物を持ってこい』と怒鳴られただなんて、被災者に失礼だ」
確かに番組でも「軽く受けた」というくだりで急に声が細くなるのは、後ろめたさからか。いやしくも公共の電波である。他人のフンドシで相撲を取るような虚像を振りまいちゃいけない。メディアグループ傘下の一国一城の主として、このフェイクは恥ずかしくないのだろうか。
『夢遺産』の短いインタビューは、まさに飛んで火に入る夏の虫。吉村社長の「仮面」を剥がす絶好の機会が到来したことを意味する。
ポニーキャニオンの歴史を振り返ろう。火種は随所に撒かれている。創業は1966年、「ニッポン放送サービス」として前身の事業会社から商号変更して発足、初代会長はオーナーだった鹿内信隆氏で、会社も有楽町のニッポン放送本社に同居していた。
ソニーに対抗して「ポニー」
ニッポン放送の大物で同社専務だった石田達郎氏(のち二代目社長)が、ミュージックテープの将来性に目をつけ、ソニーを追い越す心意気で「ポニー」のブランドでカセットパックを売り出し(のち社名もポニーに変更)、高度成長の波に乗って会社を急成長させた。
70年には「ビデオソフト5000億円産業」を宣言、兄弟会社の音楽制作部門キャニオン・レコードをスタートさせ、製造と販売の両輪となってラジオ放送に斜陽の影が差すニッポン放送グループを支えた。「およげ! たいやきくん」のほか、松山千春、中島みゆき、研ナオコ、田原俊彦らのヒット曲もあって、その後は映像にも業容を広げた。
石田氏の後の歴代社長は、日枝氏とともにフジテレビでクーデターを起こした羽佐間重彰氏(77~85年)、伊地知彬氏(85~96年)、稲葉昭典氏(96~2002年)までは、ニッポン放送、フジテレビから重鎮の天下りが続いたが、過剰在庫や海外事業の失敗などで経営が苦しくなり、思い切ったリストラのため、日本ビクター社長などを歴任した佐藤修氏(02~05年)を第6代社長に据えた。
スカウトしたのはフジテレビの実力者となっていた日枝氏だ。盟友のフジパシフィック音楽出版(現フジパシフィックミュージック)社長の朝妻一郎氏から紹介してもらった。ジャズが好きで1964年にビクターに入社、ニュー・ソウルやフュージョンを日本で育てた佐藤氏なら、ポニーキャニオンを立て直せると白羽の矢を立てたのだ。佐藤氏もそこはよく承知していて「経営立て直しとプロパー社長を指名することが使命」と就任時から公言していた。
すでに親会社のニッポン放送は、鹿内家と日枝氏ら経営陣との角逐から、フジサンケイ・グループの事実上の持ち株会社になっていたが、資本のねじれを突いてライブドアが05年2月8日に突然、35%の筆頭株主に躍り出た。フジサンケイ・グループが驚天動地に揺れるなかで、同年、佐藤氏は公約通り、生え抜きで経営企画担当常務だった桐畑敏春氏に社長を譲り、自身は09年まで代表取締役会長を務めた。
営業畑から初代生え抜き社長
第7代社長の桐畑氏は、営業畑の出身だった。音楽に一家言のある佐藤会長には、なかなか頭があがらなかった。佐藤氏が日本レコード協会会長まで務めたからなおさらである。それでも、期間限定でビデオやDVDの国内販売権を買った映画『ロード・オブ・ザ・リング』が大ヒットし、ビデオからDVDへの移行でレンタル店での仕入れ直し需要という僥倖もあって、経営が立ち直り、桐畑社長はその立役者になることができた。
だが、営業一筋の桐畑社長の下で割を食ったのは、音楽・映像部門のクリエイティヴ側だった。桐畑氏のライバルで映像事業部門を開拓した石崎邦彦専務がまず外された、その門下で「石崎チルドレン」といわれたアニメの古川陽子氏と、韓流ドラマなど実写物の大柳英樹氏にも強い風圧がかかった。慶應幼稚舎出という育ちのよさから、吉村氏に毛嫌いされた大柳取締役は子会社に追い出され、古川氏は残ったものの後の『けいおん!』トラブルで専務辞任に追い込まれた。いずれも営業畑による執拗な冷遇の伏線があった。
「才なき者」の唯一の才は嫉妬である。
他方、マーケティング部門で桐畑氏の部下として仕えた吉村氏の運が、これで開けた。本部長、取締役、常務、専務へとトントン拍子に出世街道を歩み、2015年6月に桐畑氏から後継社長の指名を受けた。ところが、実はクーデターによる社長交代だったのである。
「殿ご乱心」に寝首を掻く
桐畑社長が社業とは無縁の鶏糞事業を始めると言いだし、それを旧足立センターの子会社ポニーキャニオンエンタープライズに出資を無理強いしようとしたからだ。“殿ご乱心”を阻もうとして寝首を掻いたのが、当時の吉村専務だった。いかにもフジサンケイらしい権謀術数劇である。
結局、現在も副社長の座にある井上信悟氏(当時専務)が、FMHにほとんどパイプを持っていなかった吉村氏に代わって、〝天皇〟日枝代表の周辺に工作したと思われるが、ほかに鶏糞事業を強いられた当事者のポニーキャニオンエンタープライズ社長の細字慶一氏(元ポニーキャニオン人事担当役員)も、FMHの経営企画局担当だった金光修氏に働きかけたとみられる。細字氏がシンガポール駐在時代に人気番組『料理の鉄人』を企画した金光氏に協力し、懇意になっていたからだろう。現在もまだポニーキャニオン監査役に居座っていられるのは、この時の功労ということなのか。いずれにせよ、それぞれ手分けして〝上奏〟したのが日枝氏にも聞き届けられたらしい。
FMHは基幹子会社を一体とみなしていたから、ハイリスクな鶏糞事業への脱線を許さなかったのだろう。FMHでポニーキャニオンの社長交代が決まり、表向き「最後まで社長を守り抜く」と舌をそよがせていた吉村専務を、桐畑社長が後任に指名した。この腹心が実は後ろから袈裟懸けに斬り捨てた張本人とは、桐畑氏本人も「知らぬが仏」だったのだろう。鶏糞事業はお蔵入りとなり、桐畑氏も会長1年で退いたから、新社長は社内に怖いものがいなくなった。すると、吉村社長の暴走が始まる。
人望のないトップが自己満足のためによくやることで、人心収攬のつもりで既存の組織をひっくり返し、自分の言うことを聞く組織に組み替えようとした。社長2年目の16年7月、「Division制」という機構改革を発表、社内は仰天し大混乱に陥った。
本部制ガラガラポンで大混乱
それまでの本部制を解体、音楽も映像もいっしょくたに「クリエイティヴDiv.」に放りこみ、指揮系統が混乱の極みに達した。しかも音楽と映像で本社ビルの3フロアを占めていたのを、7階の1フロアに押し込めた。対する営業部門は「ディストリビューションDiv」となり、法務、経営情報、経営企画、人事などのバックオフィスとともに温存された。組織の効率性より、社長に尻尾を振らないクリエーター部門に対して、ごっつい五寸釘を刺した再編としか見えない。
発案は東大卒の執行役員で企画推進本部総務人事部長の盛田洋氏らしいが、机上の空論だった。機構改革前の組織図と、改革後の組織図を見比べればいい。社内に不満が渦巻いたのも当然だろう。
それを察した経営情報Div.の総務部長、谷口晶郎氏が17年初頭に職場アンケートを行った。当然、不平不満が噴き出し、役員批判もあったため、その結果の報告を見た吉村社長が雷を落とす。「誰だ、こんなアンケートを取ったのは?」。報復人事が待っていた。
翌17年6月の組織図を見ると、「Div.」の名こそ残したが、社内のガス抜きのためあっさり1年で前年の機構改革を撤回して、アニメと映像を再び切り分けるなど、事実上の本部制を復活させている(18年には名称も「本部」に戻す)。
しかし総務部長だった谷口氏の名は、組織図のどこにもない。同じDiv.のプロジェクト推進部に横滑りして、部下のいない部付部長に格下げされたからだ。その後もイジメは続き、社内でのグレード(職級的なもの)は、部長格のFグレードから新入社員に毛の生えた程度のCグレードまで下げられた。管理職をヒラに落とす見せしめである。
朝令暮改は機構改革だけではなかった。着任早々の成果をあげたい吉村社長が肝煎りにした新事業「レジェンドベースボール」も頓挫している。16年12月に入社して、経営企画Div.の統括に就任し、翌年6月に執行役員に昇格した藤代哲氏が持ち込んだ案件だった。
吉村社長が盛田氏に外部人材を探させ、リクルートの紹介で来た藤代氏は、もとは広島に本社のあった東証1部の不動産会社、アーバン・コーポレイションの経営企画に在籍していたという。房園博行社長のもとでアーバンは資金難に陥り、08年8月に民事再生法を申請して経営破綻したため、藤代氏はしばらく職を転々としたようだ。
韓国スクリーンゲームに飛びつく
ポニーキャニオンに来る直前は、パチンコ・パチスロ機販売の大手フィールズにいたという。そこで知り合ったファンド関係者から紹介された「もうかる話」を持って、藤代氏はポニーキャニオンに乗り込んできた。
これがバッティングセンターとスクリーンゲームを組み合わせた体験型の娯楽施設で、飛んできたボールを打つと、スクリーン上のスタディアムに打球の軌道が映るというもの。ゴルフのシミュレーションゲームに似ていて、そう斬新なアイデアとも思えないが、藤代氏は韓国クラウドゲート社の子会社「レジェンドベースボール」社製の機器一式を導入しようと持ちかけた。
それに飛びついた吉村社長らが常務会で企画を通し、藤代氏が入社してわずか3カ月後の17年2月、レジェンド社と業務提携に基本合意する。得体の知れない韓国系ゲーム会社にのめりこむ吉村社長に「桐畑社長の二の舞」と危惧する声も社内にはあったが、同7月にポニーキャニオンはレジェンド社株式の4.5%を3000万円で取得し、国内での店舗展開を共同で行う資本業務提携に合意した。
が、それはまだ序の口にすぎなかった。17年12月22日、千葉・幕張のイオンモールに「体験型スポーツテーマパーク」第一弾がオープンした。野球だけでなく、サッカーや射撃、アーチェリーなどのソフトも入った多機能型だが、開業以来赤字が続くことになる。場所を食うばかりで、性能もいま一つ、収益もあがらないお荷物となることが目に見えていた。
独占販売権で散々ムシられる
やがてカプコンが新潟で、ナムコが筑波でレジェンドの施設を導入するなど競合相手が出てきたため、負けじと18年2月、レジェンドのコンテンツ優先販売権をポニーキャニオンが独占するという覚書を交わし、対価として最低保証金3億円を支払った。しかもレジェンドの親会社、韓国クラウドゲートの代表オ・ドンソク氏の出資する会社にまで9億5000万ウォンを貸し付けている。同5月には、独占販売権の覚書第2弾を交わし、独占期間を延長する対価として、最低保証前渡金3億円を支払って、さらに深入りしたのだ。
(中央)とレジェンドベースボールの山内恵一社長(右)=2018年12月18日
この慌ただしい出費は、吉村社長の焦りからだろう。18年夏、フジテレビがお台場で開いたイベント「ようこそ!!ワンガン夏祭り THE ODAIBA2018」(いわゆる「お台場冒険王」)の協賛社ブースにレジェンドが出店した。場所がフジテレビ本社のおひざ元であり、元読売巨人軍の宮本和知氏まで野球教室で花を添えたから、FMHもレジェンドを「知らなかった」では済まされない。レジェンドには親会社のお墨付きがついたかに見える。だが、この夏祭りでは地の利(?)を生かせず、1プレー500円取っても目もあてられない大赤字だった。
続く同年10月には東京・立川にもオープンしたが、かねての危惧が現実化し始める。レジェンドは17年度の当期純損失が2億円だったのが、18年度は同4億円に拡大した。保証金だの前渡金だのは、その穴埋めのために消え、実はいいようにポニーキャニオンはムシられていたのではないか。ついにキャッシュが涸渇して、給料の遅配や社会保険料を滞納するようになり、翌19年3月には厚生労働省の社会保険事務所がレジェンドに対し差し押さえ処分に踏み切った。
吉田氏は藤代統括の部下の位置にいたが、レジェンド事業は「早く撤退すべきだ」と主張し、FMHの経営企画局にも事態の深刻化を報告していた。当時の金光FMH専務(同年に社長昇格)の耳にも届いたはずだが、ポニーキャニオンに火の車のレジェンドと手を切るよう動いた形跡はない。しかし、さすがに国の差し押さえがあっては、もはやゲームセットだった。
特損計上で先送りを封じる
損失を顕在化させたくなかった吉村社長は、レジェンド社から共同事業の持ち分(1.25億円)を買い取る形で先送りしようとした。しかし経営企画Div.にいた吉田氏は「特別損失に計上できるようにするから、持ち分買い取りはやめてほしい」と懸命に説得した。特損に計上しないと、投入した8.2億円が営業費用扱いになり、営業赤字に転落してしまうことがポイントだった。このとき持ち分を買い取って先送りしていたら、いずれ最終損失は10億円近くに達しただろう。
何とか監査法人を説得して、2020年3月決算で8.2億円の特損計上にこぎつけ、レジェンドの膿を出し切ることができた。もし説得に失敗していたら、この期の決算は営業利益が4.2億円だったので、単純計算で4億円の営業赤字に転落するところだった。これを受けて、ポニーキャニオンはレジェンド社の「経営状況が著しく悪化していることを鑑み、同社グループが関連する全ての事業から撤退する」ことを、持ち回りで機関決定(臨時取締役会決議)した。
特損計上には、上記機関決定だけでなく、ポニーキャニオンとレジェンドが共同で設立した民法組合の解散を、官報に掲載しなければならない。これで対外的にはレジェンド事業案件の失敗が公然化した。それでも、なぜかこの特損で吉村氏の経営責任が問われることはなく、藤代氏だけ統括から降格され、19年9月末には人知れず退社した。
掲載された民法組合解散のお知らせ
この新規事業の失敗は、外部人材が持ち込んだ杜撰な企画に安易に乗ったことに起因する。どうやら吉村氏には、人も事業も見る目があるとは思えない。そこにいつも内部から警告のホイッスル(笛)が鳴るのに、頑なに我意を通そうとする。時期がほぼ並行している『けいおん!』ゲーム化アプリも、共通しているのは吉村社長がメンツにこだわって方針転換が遅れ、現場のブレーキが利かなかったことである。しかもいざ失敗すると、責任を下に転嫁して経営者だけ不問に付すことだ。
その意固地の裏には、学歴と「足立組」と「なんちゃってアーティスト」という三重のコンプレックスがあるのではないか。
吉村氏は社長就任早々、アニメ部門を率いる古川常務の評判を、現場にヒアリングしていたことがある。個性的な彼女のモーレツぶりを現場が明かすと、嬉しそうだったという。どうやら、自分になつかない古川氏のネガティヴな材料を探っていた節があり、これまた自らを脅かす次の芽を摘むフジサンケイ流の兵法だろうか。
デキる女性への警戒心だとすれば、モーツァルトに嫉妬する〝凡人〟アントニオ・サリエリのような役回りを演じている。『けいおん!』で下した処分は、念願の標的を仕留める願ってもない材料だったことになる。自分のチョンボだったレジェンドの特損には口を拭っておいて、この厳罰はどうみても理屈が立たない。あの批判厳禁の指示書もそれゆえの口封じだろう。
未来は嫉妬でできている
ああ、「才なき者」の唯一の才。『夢遺産』で吉村氏は、震災の虚言より「未来は嫉妬でできている」と正直に呟くべきだった。社内では、吉村社長が自身の後継にナンバー2の深町徳子常務を指名し、自分はFMHの“殿上人”に昇格したうえ、あわよくば金光社長の「後釜」を狙っている、という観測が流れている。むろん、真偽は定かでないが、「FMHにはポスト金光を狙えるような取締役がいないから」と豪語している、との尾ひれまでついている。
これは社内のやっかみなのか、それとも下剋上への期待なのか――。
次回は吉村社長がビクターから呼んだ外部人材に、音楽配信プラットフォームを運営するフランスの『Believe』と、異常な条件で包括契約を締結させようとした顛末と、その部下だった鄭氏へのパワハラ問題を扱おう。(次回に続く)■