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須佐之男命は、
(ヤマタノオロチを退治した後)
「宮造作るべき地に求ぎたまひき。
ここに須賀のちに到りまして
詔りたまひしく
吾此地に来て、我が御心すがすがし。」
「故、基地をば今に須賀の云ふ。
この大神、初めて須賀の宮を
作りたまひし時、
基地より雲立ち騰りき。
ここに御歌を作みたまひき。」
と言って、
その地に須賀の宮を造営すると
『古事記』に書かれている。
さて、須賀の地に「須賀の宮」を
作ったと書かれているが、
徳島県吉野川市には、
前須賀、先須賀、東須賀、中須賀、
北須賀、西須賀など、
多くの須賀地名がある。
しかも吉野川市鴨島町牛島字先須賀には、
牛島(うしのしま)という地名がある。
「うし」は「大人(うし)」のことで
「主(ぬし)」が住んでいた所であるから、
牛島周辺もしくは、牛島の南にある
向麻山に須賀の宮があったと考えられる。
現在、鴨島町周辺は、
住宅が建て込んでいるが、
大河、吉野川に広がる須賀の地に、
雨上がりの後立ち上がる雲を見て
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八雲立つ
出雲八重垣 妻籠みに
八重垣作る その八重垣を
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と歌ったことが、
その景観から容易に想像できる。
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吉野川市鴨島町を中心に
『須賀』の地名が点在している。
スサノオと言えば八坂神社。
阿波古代史のバイブル
『道は阿波より始まる』その一 89頁より↓
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日孁命、須佐之男命からは、
天皇を名乗る大王達との血統のつながりが
明確になってきます。
日孁命により近代化された米作に加え、
須佐之男命によって初めて
鉄の生産が伝えられ、
急速に阿波国は発展してきました。
須佐之男命は大倭の真神原では阿波神社、
岡山県玉野地方では八浜の快神社、
諸国では八坂神社、祇園社等で
祀られますが、阿波一国のみで
溶造皇(ようぞうすめら)神社と
称されています。
また、伊太乃郡御所地方では、
吹越大明神とも称します。
以乃山(現 眉山)の山頂にあった神社は
現在の山下の蔵本八坂神社に
下され祀られていますが、
元来以乃山の山頂の溶造皇神社に、
登り口八坂あり、
八坂神社の別称が起こりました。
万葉学者 折口信夫がその最後の著書
『死者の書』の文中で、突然に一行
「須佐之男命が下ったのは阿波だった」
と書き残したのも、
たまたま折口氏の正家が
大倭真神原(現在の明日香村)で
阿波神社の氏子村であった関係でしょう。
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「八坂」の由来について、
はっきりと述べているどころか、
かの折口信夫氏が最後の書籍で
スサノオが阿波に下ったことを記した。
奈良の阿波神社には、
たしかにスサノオが祀られていた↓
●出雲大社と杵築大社
●二拝四拍手一拝
●宇佐神宮の元宮の元々宮
阿須賀(アスカ)…
ここで出てくる重要な地名。太古の粟の神は
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