32 集合
全身が熱を持っていた。
覚醒と同時に全身のあちこちに走った鈍い痛みに、ティノは身体をよじるようにしながら小さくうめき声をあげた。
全身を包む柔らかいベッドの感触もその苦痛を和らげてはくれない。首を伸ばし布団から顔を出すと、クランハウスの側に借りている飾り気のない自室の光景がぼんやりと視界に入ってくる。
『訓練で出来ない事が、実戦でできるわけないよねぇ?』
それがティノの師匠の口癖だった。
死ぬ寸前。生と死の間でのみ許された限界を突破した力に慣れコントロールできるようになる事。それを目標としているらしい組手を受ける度にティノは地獄のような時間を過ごすことになる。
初めて実戦訓練を受けてから随分経つが慣れる気配はない。
身体が上げる悲鳴を仏頂面の内に秘めながら、ティノはなんとかベッドの上に起き上がった。
部屋に飾られた姿見には、ぼさぼさになった髪型とあちこち乱れた服装の不機嫌そうな顔をした少女が映っていた。
恐らく、訓練後に死ぬギリギリの疲労とダメージで動けなくなった自分を、師匠が水洗いしてドロドロになった服を適当に着せ替え、ベッドに放り込んだのだろう。
最初はそれすらなく訓練場に放置されたのだが、あんまりな対応に見るに見かねたマスターの一声により、最低限の事はやってくれるようになったのだ。
だいぶ乱暴な後始末だが、何時間もクランメンバー達の目のある所に放置されるよりはずっといい。
鏡の中に映るティノの肢体には傷はなかった。大きくはだけたパジャマからはまるで荒事を生業にしていないかのような白く滑らかな肌が浮かんでいる。
意識がない間に自然回復したのか、水洗いする前にポーションにでも漬け込まれたのか、あるいは手加減の苦手な師匠がとうとう表に出さないように人を痛めつける技術でも身につけたのか。
ともかく表に傷が残っていない事実に感謝する。
残った痛みも遠くないうちに消えるだろう。それが可能な程度にはティノもマナ・マテリアルを吸収しているのだ。
まだ身体は重く疲労も残っていたが、浴室に行き水のシャワーを頭から浴び意識を覚醒させる。
冷たい水が熱を持った肉体を覚ましていく。鈍い痛みが冷却される心地のいい感覚に目を細め、同時に自分の身体の調子を確認する。
肉体の調整管理はハンターにとって必須の技能だ。特に師匠はティノの調子を考えずに訓練を課してくるので、自然と気をつけることになる。きらきらと水の滑り落ちる肩から腕を擦るようにして、ティノは呆れたように独り言を漏らした。
「さすがお姉さま……痣が一つもない……」
本来『盗賊』というのは攻撃力の低いものだ。だが、今のティノにとってリィズの一撃はたとえガードしても無事に済まないくらいに重い。
武器こそ使ってこないのでまだマシだが、突きだけでなく蹴りも放ってくるし平然と関節を狙ってくる。対応を誤れば致死の一撃だ。骨の数本は折れていたはずだ。内出血の一つもないのが不思議だった。
記憶が混濁していた。訓練中の光景を思い出そうと目を瞑るが、意識が飛び飛びになっていたせいか、ほとんど思い出せない。だが、うまくやったのだろう。死ぬ気で攻撃をさばいたのだろう。
そうでなければ、こうして生きて目を覚ますことなどなかったはずだから。
帝都には戦闘技術を学べる場所が多い。中には引退した凄腕のハンターが師を担っている場所だって少なくない。学校だってある。
レベル3以上のハンターのほとんどが何らかの訓練機関で訓練を受けている。
だが、他のハンター達もこんな過酷な訓練を受けているのだろうか?
地べたを舐め、血反吐を吐き、骨を折り、どう見ても本気としか思えない凄まじい殺気を浴びながら――。
ティノがリィズ・スマートに師事することになったのは、ティノ自身の意志である。
ティノが望み、リィズは最初、それを拒否した。人に教える程暇ではない、と。こうしてティノが今、リィズのたった一人の弟子をやっているのはただの幸運の結果だ。
あの時偶然近くにいたマスターが説得してくれなかったら今頃ティノはハンターをやっていなかっただろう。
強い、と言われる。その年でよくぞそこまで研鑽した、と賞賛される。
いつの間にか死力を尽くすのは当たり前になっていた。
死ぬほど過酷だが、拷問などと称されることもあるが、ティノは弟子をやめるつもりはない。頻繁に挫けそうになるが挫けたことはない。今のところは。
だが、果たして自分はその師の定めた目標に達しているのだろうか?
ふと浮かびかけたそんな疑問にぞくりと肩を震わせ、ティノは震える手でシャワーを止めた。
§
身支度を整えると、ティノはいつも通りクランハウスに向かった。
近いからという理由で借りた家からクランハウスまでは歩いて十分ほどだ。
クランハウスは周囲の建物よりずっと背が高いため、ティノの部屋の窓から顔を出せばその頂きを確認することができる。ティノの視力では全く見えないが、師匠いわく、この部屋からは『足跡』のクランハウスの最上階――クランマスター室が見えるらしい。
それもティノが今の家を借りた理由の一つだった。
ハンターの中には拠点を定めず、ずっと宿に滞在する者もいるが、ティノは今のところ帝都から離れる予定はないので借家の方が便利なのだ。
ティノはまだハンターとしては半人前だ。レベルは中堅以上を意味する4だし、宝物殿の探索を行ったりもするが、リィズからは認められていない。
ティノが帝都からほとんど出ないのも、本来パーティを組むことが推奨されるハンターをソロでやっているのも、まだ修行中だからだ。
そんなティノにとって生活の全ては修練に当てられる。
リィズは師匠であると同時にハンターでもある。飽き性で自由奔放な『お姉さま』の教えを受けられる時間は実はそれほど多くない。
ふらっと何も言わずにいなくなることなど日常茶飯事だ。そのため、師匠が確実に帝都にいるとわかっている時は自分もなるべくその近くにいるようにしていた。
クランハウスの前には珍しく数台の馬車が止まっていた。
何人も乗れるような大型の馬車だ。貴族所有のものとは異なり装飾などがなされていない鉄製の馬車は、どこか戦車のような印象を抱かせる。
つながれた、魔物や幻影が現れる土地を走破するよう特別に配合された屈強な馬が苛立たしげに地面を掻いている。
クランハウスの中――ロビーには数十人のハンターが集まっていた。
もしかしたら遠征でもあるのだろうか。いつもは広々としたロビーもこれだけ集まると手狭に見える。
職も出で立ちもレベルも様々なハンターたちの唯一の共通点はこのクラン――『足跡』に所属するというただ一点だけだ。
各々、武装したトレジャーハンター達が集まっている様子はまるで戦争に行く前のようだった。
その様子にティノが眉を顰める。
『足跡』の所属ハンターの数は帝都に存在するクランの中でも屈指の数である。だが、こうして所属しているハンターが大勢一処に集まるという事は滅多にない。
もともとクランという組織は互助会のような立ち位置にある。所属するハンターの行動を縛るようなものではないのだ。
便宜上のトップに位置づけられるクランマスターの権力だってそこまで強くない。
クランによってはルールが異なるらしいが、『始まりの足跡』において、マスターは所属ハンターへの命令権を一切持っていなかった。それが『足跡』を発展させた一つの理由とも言える。
発足当初からクランに所属するティノにとってクランに所属するハンターは顔見知りだ。
近くにいた剣使いのハンターの男に尋ねる。
「何があったの?」
「ん……あー、ティノ。聞いてないのか? 昨日、招集がかかったんだ。探協との共同作戦で、『白狼の巣』に乗り込むらしい」
「……こんな人数で?」
聞き覚えのある宝物殿の名前に目を見開くが、改めてロビーを見回す。
ロビーには錚々たるメンバーが集まっていた。人数だけ数えても足跡の半数が集まっている。遠征しているメンバーも多いので、もしかしたら帝都に滞在中のメンバーのほとんどが集まっているかもしれない。
命令権はないはずなのにこんなに集められるなんてさすがマスター……。
そんな思いを抱きながらも、疑問は消えない。
確かに『白狼の巣』は厄介だったが、『足跡』のメンバーは精鋭である。ティノより格上のメンバーだって少なくない。
調査が行われるという話は聞いていたが、これは調査という規模じゃない。これだけのハンターが動員されるとは、一体どれほどの難事が発生したのか。
ボスは片付いている。マナ・マテリアルが貯まれば復活するだろうが、あそこまで強力な幻影はそう頻繁に発生したりしないだろう。
訝しげなティノの表情に、ハンターの男が声をあからさまに潜めていった。
「ここだけの話だがな……マスターは最初アークさんを派遣すると言ったらしい」
「……え?」
何言ってるのこの人……?
ティノが瞬きすることすら忘れじっとその顔を見るが、冗談を言っている気配はない。
その表情に、男が我が意を得たりと言った様子でにやりと唇を歪め、笑う。
「くっくっく、冗談みたいな話だろ? たったレベル3程度の宝物殿の攻略を、このクランでもトップのハンターに頼もうだなんて」
「……」
「だが、アークさんは今不在だ。ここに集められたのは……代わりだよ」
その言葉に、ティノはここに集められたハンター達がどこかぴりぴりしている理由に気づいた。
同じクランのメンバーなので諍いすら起こっていないが、その表情からはまだ安全な帝都にいるにも拘らず、まるで宝物殿の中を探索しているかのような緊迫感が伝わってくる。
アーク・ロダン。それは、帝都で最も有名なハンターの一人だ。
天上のあらゆる神々から祝福を受けて生まれた英雄の地位を約束された男。
あらゆる魔法、技術を修めた万能なるハンター。その剣閃はまるで万の雷の如く世界を切り裂くという。
最も完成されたハンター、次代ハンターの星とされる男だ。
帝国上層部にも、そしてこの足跡の中にも強烈な信奉者がいる。ティノの師匠たちのライバルでもある。
本来、レベル3程度の宝物殿の異常などで動くような、動かしていいような男ではない。
物事には適切な対処という物が存在する。
探索者協会では、ハンターは適切なレベルの宝物殿を探索すべしと定めている。
高レベル認定されたハンターが低レベルの宝物殿を荒らし、幻影を殺し尽くし宝具を奪い尽くせば、低レベルのハンターが困窮することになる。
いざという時に高レベルのハンターが動けなくなる可能性だってありうる。
当然だが、マスターがそれを知らないわけがない。
つまりそれは、あの宝物殿では今、アーク・ロダンを動かさなければならない程の異常が起こっているという事を意味していた。
神ならぬティノの身では何が起こっているのかは全く想像すらできないが、もしもティノがこの場にいるハンター達と同じ立場だったとしたら同じように険しい表情で遺書を書いていたことだろう。
少なくとも、この間ティノが遭遇した幻影以上のものであることは確かだ。
いや、今お姉さまに出会ったらもしかしたら、ここに叩き込まれる可能性も――。
「……これっぽっちの人数で、なんとかなるの?」
「おいおい、馬鹿にするなよ。と言いたいところだが、なぁ……」
不安を振り払い、尋ねたティノの言葉に剣使いの男がぼりぼりと顎を掻く。
アーク・ロダンは疑うものさえいない、この帝都で最強のハンターの一人だ。
魔術と剣。どちらか一方を極めるだけでも超一流のハンターになれるが、勇者とも呼ばれるその男はその双方を極めて高度なレベルで融合させている。
その力は最強を自負しているティノの師匠が認めるほどのものだ。
もしも彼のパーティ――『聖霊の御子』の他のメンバーがアークの七割程度の力でも持っていれば、若手最強のパーティの座は彼のものだったかもしれない。
トレジャーハンターの個人差は大きい。人数で補うのにも限界はある。
だが、男は頬を引きつらせるような笑みを浮かべてみせた。強い戦意と、僅かばかりの恐れが見える。
「まぁ、なんとかなるだろ。『足跡』以外のパーティも来るらしいし――」
そこまで言いかけた所で、ふとその場がざわついた。
視線がふらふら階段を降りてきた一人の青年に集中する。
『千変万化』。足跡のトップにして万物を見通す力を持つ男。隣ではそれとは真逆に、ピンと背筋を伸ばしたその片腕足る副マスターが怜悧な目つきで集まった面々を確認している。
一瞬でざわつきが止まる。皆がマスターの言葉を待っていた。
この間宝物殿に助けに来てくれた時とは異なり、カジュアルな格好のマスターは完全武装でピリピリしたハンターたちの中でとても目立つ。
「ん? あれ? なに? どうしたの、こんなに集まって? 祭りでもあったっけ?」
「クライさん、ガーク支部長が言っていた例の件です」
「あー、あれかぁ。でもこんなに大勢――」
「クライさんはアークさんを所望しておりましたが、アークさんは不在ですので……代わりに招集をかけました。私の計算では十分な戦力が集まったと考えています」
エヴァの言葉にクライが目を見開く。
一般人の中にはハンターの力量について勘違いしているものも多い。
同じ人間なのだから注意すれば大丈夫だろうと、宝物殿に向かい戻ってこない一般人が毎年一定数出る。認識の甘さが招く不幸だ。
エヴァはハンターではないが、誰よりも――マスターを除いて最もこのクランのハンターのことを知っている。
こうして誰も不満を漏らす様子がないという事実が、その計算が妥当なものだという事を示していた。
誰もが納得したその人数に、しかしマスターがなんとも言えない表情をする。
「え!? …………あ、うん。うんうん、そうだね。そっかー、こんなにか……」
「!? ……何か、至らない点などあれば、言って頂けると」
場が静まる。アークはこのクランの中でも頭ひとつ抜けた最強の単体戦力だ。
このクランの中でその突出した力を知らぬ者はいない。アークを見ても自分が最強などと言い張れるのは『嘆きの亡霊』のメンバーくらいだろう。
誰もが異を唱えなかった編成に、マスターはしばらく首を傾げて眺めていたが、どこか自信なさげな笑みを浮かべて言った。
「んー……うちって精鋭ばっかりだし、半分でもいけるんじゃないかな?」