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周回遅れの人生だとしても

以前どこかで、「人生が周回遅れだと感じる」という表現を見かけた。

強く共感できる表現だと思った。

私は、高校を出て、大学を出て、就職する…という現代日本では典型的で恵まれた道の上に居る。一見すれば順調な人生だ。しかしそれはとても表面的な話で、中身は周りに追いつけていないというネガティブな感覚がある。

中身とは、勉学のように誰もが享受できる知識の有無というより、それ以外で身に付けていく社会性の部分だ。

例えば。普通は何歳までにはこんな経験をしているものだ。

何歳ごろには自立心がこれぐらい育っているものだ。

何歳になればこれには飽きて、こちらに関心が向くものだ。

そんな文脈で語られる、恋愛とか、友人関係とか、自我とか、バイトとか、野心とか、夢とか、趣味とか、学業以外の分野で、学生時代に経験したり育てられたりする沢山のことが、社会性を伸ばすのだと思う。

多くの人がそれらのステップをどんどん踏んでチャレンジして失敗しながらも社会に向かって走り過ぎる中、私はそれぞれをゆっくり噛み締めて考えて転ばないように歩いていたらしい。自分の世界の中で視線を上げずにいたら、そんな周りのスピードもよく見えていなかった。

結果として、外見上は年齢や学力という同じ場所に居ながら、気付けば私は周回遅れで歩みを進めていたのだ。

同世代だと思って横を見れば、実は周回先を走っている人ばかり。それに一度気付いてしまうと、自分の愚鈍さに焦りと失望を感じてしまうようになった。

自分はどうしてこの自立心を大学時代に持てなかったのだろう?なぜ高校生の時に人間関係にチャレンジしなかったのだろう?周りを恐れるあまりに好きなものの中に閉じこもって、社会性を上手く育てられなかった、育てられなかったから周りの社会性についていけなくて怖い。こんな情けない自分を周りに見せられない、だから余計に社会性が育たない、今から育てても遅すぎるんじゃないか、苦しいだけじゃないか。

理屈では、自分のペースが大事だとか個性だとか言えたとしても、周回遅れの歩みはとても生きづらく感じるのだ。

何度も何度もことあるごとに周回遅れの自分を自覚して、その度に自尊心を削る日々。

けれど、26を過ぎて後の3年程で随分と自己肯定感が強くなってくると(このあたりの概要はプロフィール記事を見ていただきたい)、そんな自分の受け止め方も徐々に変わってきた。

ようやく芽生え育った自我は、「それでも進むしかない」と声を上げている。

敬愛するアーティストが、「無くしてしまったも、手に入らなかったものを嘆くのはもうやめよう」と言っていたのを思い出す。今自分の手元にあるものを大事にしようというメッセージ。現在を生きて未来に進むとはそういうことだ。

周回遅れであることに、良い意味での諦観を持とうと決めた。

過去の事実として、私は周りのように速く走れなかったのだから仕方ないのだ。そんな自分にしか見えなかった景色もあっただろう。

でも、追いつけないほど遅れたからといって、この歩みを止めてはならない。怖いけど、しんどいけど、進まない自分を見続ける方が嫌だ。

ゆっくりでも、進もうとする自分でありたい。できれば自己肯定感が高まった分、ブーストしたい。そうやって自分なりにより良くなろうと考えている自分の方が好きだ。

だから周回遅れの人生だとしても、これからは怪我をしない程度に歩みを早めてみようと思う。

周回遅れの人生だからこそ、いつまでにどんな人間になっていたいか、ゴールを作って着実に歩みを進めてみよう。

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コメント

note_asahi
ものすごく共感しました!
鳩川あさひ
本当によく分かります……
お互い無理のない範囲で進んでいきましょう
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