わたしのこと好きになって
アオキさんのことが好きなチリちゃんの話です。続き→novel/18986152
アオチリの作品めちゃくちゃ多くて嬉しいです。作家の皆様本当にありがとうございます……!
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「好きです、付き合ってください」
女の子からの一世一代の告白を断るための優しい言葉なんて、そう数多く存在していないことをチリはとうの昔から知っている。だから悩むふりだけして、いつものレパートリーの中からひとつの言葉を引き出した。結局のところが、相手が欲しいのは言葉じゃなくて結果だ。どれだけ時間をかけて応えたところで相手を傷付けるのは変わらない。
この容姿のせいか、同性から好意を向けられることも多いが、基本的にチリの恋愛対象は異性だ。初めから勝算のない告白でも彼女の勇気をしっかりと讃え、気持ちを込めた定型文で断れば、彼女はそれを見越していたかのように次の言葉を用意していた。
「じゃ、じゃあ……」
自分とは違う膨らんだ胸の前で重ねられた両手に力が篭ったことは見てわかった。さて、どう来るか。先ほどの告白以上に決意が必要な言葉を受け止める覚悟をするのは、実際これが初めてではない。
今にも泣き出しそうな瞳がぐらりと揺れる。ああ、女の子って可愛いな。そう思っても結局それ以上の感情は湧いてこない。どんな言葉を紡がれたって靡かない自信はあった。いつか自分が似合うと褒めた、桜色のリップが塗られた唇がゆっくりと開かれた。
「一回でいいから、抱いてくれませんか」
消えそうな語尾と同時に吹いた風がチリの視界を掠める。長い前髪の狭間から見える少女は真っ直ぐにチリを見ていた。
こういう展開に慣れているわけではないが、慣れてしまえば終わりだなとも思っている。そう、ごく稀にいるのだ。最後に思い出がほしいとか、そうしたら諦めるとか、自分の思いを告げただけで満足してくれない子は。
自分の名誉のために言い訳するならば、ここで首を縦に振ったことなど一度もなかったし、それ以前によく勘違いされるが同性との経験も皆無だ。
まだ本当の恋も愛も知らないような年下の少女に残酷なセリフを言わせてしまった罪悪感を噛み締めて、そんな言葉この先の人生で二度と言わないでほしいと願いながらチリは答えた。
「そういうの、自分のためにやめとき」
慰めとか同情とか、偽物の愛情とか。そういうのを安く振り撒ける大人でありたくない。たとえそれが本当に最後の思い出になれたのだとしても、自分には背負いきれない。
涙を堪えきれていない少女の頭を優しく撫でながら、好きな人に愛なんて告げたことのないチリは告白に必要な勇気も失恋の痛みもまだ知らずにいる。
□□□
人を好きになるのは思っていたよりずっと簡単なことだった。
むしろ何故今まで知らなかったのか驚くくらいあっさりと、その感情はチリの中に落ちてきた。しかし実際のところは自分に熱い視線を向けてくる少女たちとは違い、甘酸っぱい恋に夢見るような年代はとっくに過ぎている。恋をしたら世界が輝いて見えるなんて全くの嘘だ。仕事、仕事、バトル、視察、バトル、残業、残業……世界は何も変わらない。それでもいつもの日常に好きな人が一人追加されただけで、楽しみが一つ増えたような気持ちになる。
そして意外なことに自分が今まで築き上げてきたキャラクターのおかげで、人に好意を告げるのも思っていたよりも遥かに簡単なことだった。
「アオキさん、好きやで。チリちゃんと付き合お?」
これまで何度ももらってきた言葉も、自分が言うとこんなにも軽々しく聞こえるのかと初めは酷く驚いた。きっと本来ならもっと眩しくてきらきらした宝物のような言葉なのに。自分が告げるとこんなあっさりしたものなのか。大人って怖いなと少し残念に思った。しかし今ならばそれくらい軽率に好きだと口にしてしまえるような性格でよかったのかもしれないとすら思っている。
そう、アオキがチリの言葉に頷いたことなんて一度もないのだから。
きっかけはなんだったか、なんて考えるとすぐには出てこない。でも考えれば考えるほど、アオキを好きになる片鱗は日常に数多く落ちていた。
他人に興味がなさそうなのに、なんだかんだで気遣いができて人に優しいところとか。表に出す気はなさそうだが、実は内には熱いものを秘めているところとか。単純にポケモンバトルが強いところとか。普段は猫背でくたびれて見えるが、実際は背が高くて体つきもしっかりしているところとか。食事をしている時だけは少し表情が柔らかくなるところとか。
そういう細かな部分が全部合わさって形成された感情はみるみる内にチリの中で大きくなった。ポケモンリーグの営業職、ジムリーダー、そして四天王を兼任しているアオキの実力は悔しいが自分以上のものだ。しかし正直なところ、何も知らない人間が見ればちょっと冴えないサラリーマン。ただ、それがいい。全世界が彼の魅力に気づいてしまうとそれはそれで困ってしまいそうだから。アオキの本当は格好いいところなんて自分だけが知っていればいい。でも見ているだけは悔しかった。
好きだと、付き合ってほしいと告げたのは先週末で実に四度目だ。四度も告白している時点でお察しのとおり、チリはアオキから良い返事をもらったことは一度もない。
年が離れ過ぎているとか、職場恋愛はよくないとか、自分はチリに相応しくないとか釣り合わないとか。なにかと曖昧な理由をつけて断りを入れられる。残念なことにチリはそんな答えで納得できるほど、物分かりの良い女ではない。
年齢とか立場とかそういうのじゃなくて、アオキの感情で答えてほしい。もっとはっきりと断られるまでは諦めまいと、日々アプローチを仕掛けているが、なかなかアオキは強敵で、そう簡単には打ち落とされてくれなかった。
カーテンの隙間から見える世界は既に夜の帳が降りている。キーボードを叩く手を休め、チリは軽く伸びをする。まだ肩が凝る年齢ではないと自分に言い聞かせているので、両肩にずっしりと乗っているような何かは今はまだ見て見ぬふりをしている。
定時を一時間半ほど過ぎたリーグ本部に人の気配はまばらで、事務室にはチリ一人だけだった。アカデミーの課外授業・宝探しが始まり、リーグの面接を受けにくるトレーナーが増加したことにより、他の業務が遅れ残業する日々が続き疲労は蓄積している。そもそもバッジを八個揃えてもいないのに面接を受けられるシステムに問題があるとチリは思うのだが、トップからの指示なので従う以外の選択肢は持っていない。
疲れたと口にすると更に疲労が上乗せされそうで、ぐっと我慢する。その代わり二つ隣のデスクに目を向けた。
「アオキさん、まだ戻ってこんのかな。ご飯行きたかったんやけどな」
二時間ほど前にオモダカに呼ばれ、どこかへ消えたアオキはまだ戻ってきていない。彼はいつも愛用のビジネスバッグを持ち歩いているのでそのまま直帰することも可能だが、デスクのパソコンは開かれたままなので一度帰ってくるとチリは踏んでいる。
アオキが帰ってきたら食事に誘おうかと思っていたが、あのトップのことだ、彼がいつ解放されるかはチリが知る由もない。バトルは強く、戦力も優れている。目指そうと思えばもっと上へと登り詰められる。それなのに平凡を愛するアオキに対し、なかなかにオモダカは手厳しい。彼の才能を認めているが故の愛の鞭なのだろうが、アオキは出世にも一向に興味を示すそぶりは見せない。結局彼が関心を見せているのは自分のポケモンたちと一日三度の食事のみだ。
そんな人に、どうやったら好きになってもらえるんやろう。何度考えたって自分の中で答えは出せないでいる。
自分の容姿が優れている自覚はある。それに魅かれて近づいてくる人間は、男も女もごまんといる。ただそういう部分を武器にしたところで、アオキがこちら側に落ちてくれないことをチリは知り尽くしいている。それに、多分彼のそういうところが好きだ。性格はとっつきやすくて自分でいうが愛嬌がある方だと思っているけれど。口数が少なく静かな彼とはまるで月と太陽のように真逆だ。アオキからすると自分のようなやかましい人間は苦手な部類に入るのかもしれないが、それでもお構いなしにアプローチを続けた。食事に誘うと大体応じてくれるし、自分が疲れていると気遣いの言葉と缶コーヒーをくれる。誰にも悟られなかった体調変化にも気づき、仕事を替わってくれたこともある。優しい人だ、誰に対してもそうなのかもしれないが、少なくとも嫌われていないとは思っているけれど。もう一歩先へ踏み込んでもらいたい。
こんなええ女振るなんて、アオキさんくらいやで、ほんま。
正直なところ思えば思うほど虚しくなる。断りの言葉をもらったって、いつもの調子で笑い通してきたけれど、気にしないふりをしながらも流石のチリも四連敗には堪えている。過去に自分が振った人たちをこんな気持ちにさせていたのかと思うと余計に胸が痛い。
押してもあかんなら引いてみるべきやろか、なんて次の作戦を練っていると事務室のドアが開いた。アオキが戻ってきた、そう踊る胸を隠しもせず立ち上がりかけたが、姿を見せたのはアオキより一回り小さいシルエット、人懐っこい笑顔の後輩の男だった。
「チリさんお疲れ様です!」
「おお、あんたか。おつかれ」
彼は挨拶と共に真っ直ぐに自分のデスクへと向かった。自分とアオキ以外既に帰宅したと思いこみ、気にもかけていなかったが、まだ彼のデスク脇には通勤用のリュックが置かれたままだった。そんなことにすら気付かないとは。いかにアオキのことしか考えていなかったか思い知らされて恥ずかしくなる。しかしそんな素振りは表に出さず、帰宅準備をしている後輩に声をかけた。
「自分こんな遅くまでどないしたん。もう帰った思とったわ」
「バトルルームの整備してたら遅くなってしまって」
「そうなん?こんな時間までありがとうな」
バトルルームを使用するのはチリら四天王の四人のみだ。自分達のために定時を過ぎてまで作業をしてくれていたのかと思うと頭が下がる。非常によく出来た後輩だ。ちなみに彼がリーグ職員に就任した当初の教育係は自分だった。さすが自分が育てた後輩である、先輩としても鼻が高い。
さすがチリちゃんの後輩や、もっと褒めたろう、そう思ったが先に口を開いたのは彼の方だ。
「いえ!俺にできることなんてそれくらいしかないんで!」
そう明るく笑った瞳はどこか寂しそうで遠い過去でも見ているようだ。
彼はアカデミーの卒業生で在学中はチャンピオンクラスを目指していたと聞いた。実際頂点まで辿り着けなかったものの、在学時の成績の良さを買われ、卒業後リーグ運営職員に就任した。
自分が夢に見た、それでも手が届かなかった場所・ポケモンリーグ。今ではそこに毎日のように足を運ぶ。夢を追う者、掴んだ者、敗れた者。数多くのトレーナーが訪れるこの場所で、毎日のようにかつての自分と対峙している。それは良い夢なのか、悪い夢なのか、チリには判断がつかない。
決して自分は立つことのできない、頂点に一番近いバトルコート。どんな気持ちで、眺めているのだろう。
「そんな言い方せんでや。いつも十分助けてもろとるよ。ありがとうな」
チリら四天王が日々悔いのないバトルを出来るのは、彼らサポートしてくれる面々がいるからだ。決して自分達だけでは成り立たない。そこへ敬意と感謝は忘れてはいけない。月並みな言葉を並べただけかもしれないが、それは間違いなくチリの本心だ。
彼の表情はぐらりと揺れ、何かの感情を噛み締めているように見える。
「チリさん、あの……」
彼が荷物をまとめる手を休め、チリの隣へと歩みを進める。見上げると業務中とはまた違う真剣な眼差しでチリを見下ろしている。
誰もいない、定時後のオフィス。二人きり。それは見たこともないような、男の顔。
ああ。彼が口を開くまでにチリは悟った。こういうシチュエーションは慣れている。他人から向けられる好意には敏感な方で、それが尊敬とか憧れから別の形になった瞬間、今まで築いた関係が崩れてしまう気がして。どうしてかいつも虚しくなる。それでも相手の誠意を下手な冗談で揶揄うなんて出来るわけもなく。チリは彼が口を開くのを静かに待った。
「俺、チリさんのことが好きです。俺と……付き合っていただけませんか」
ほら、やっぱり。
ゆっくりと口を開いた彼の言葉は酷く震えていた。それでも覚悟と勇気は確かに感じ取れて、言葉の重さがのしかかる。
好意を抱いてくれることは嬉しいが、本音を言えば自分を慕ってくれる可愛い後輩のままでいてほしかった。受け入れられることのない愛なんて儚く壊れてしまうだけで、これまでの関係には戻れない。
今まで気にも止めていなかった時計の秒針の音が妙に存在感を増す。カチカチと、まるで返事を急かすかのように。それでも二人だけの世界は酷く静かで、彼の心臓の音がこちらまで届いてしまいそうだ。
今ならばわかる、好きな人の好きな人になれない悲しさも悔しさも。それでも軽い気持ちで職場の後輩と付き合う覚悟も、その純粋な心を弄ぶつもりも微塵もない。
チリは言葉を紡ぎかけたが、それをかき消すように彼は口を開いた。
「なんて、俺なんかじゃ無理ですよね!困らせてすみません!ただ伝えたかっただけなんです」
冗談めかしくへにゃりと笑うその顔は寂しさを隠し切れていない。その気遣いがチリは妙に痛かった。きっともっと自分は痛いだろうに、これ以上チリを悩ませまいと出た答えなのだろう。
彼の瞳を真っ直ぐに射抜いて、素直な気持ちをそのまま言葉にした。
「好きって言ってくれて、ありがとうな」
「いえ……。チリさんは格好良くて強くて……。俺の憧れの人です。それはきっとこれからも変わりません。……じゃあお先に失礼します。お疲れ様でした!チリさんも早く帰ってくださいね!」
慌ただしく荷物をまとめ、彼はバタバタと早足で部屋を後にした。ドアが閉まると同時に静寂を取り戻した一人きりの部屋。チリはため息を一つ、意味もなく足を組み直した。
ええ子なんやけど、なぁ。
もし自分に好きな人がいなければ、考えないわけではない相手だ。実際付き合ってみると好きになれるかもしれない。そんな気持ちで過去に付き合った男を本当に好きになったことなんて、一度もないのが現実なのだが。
誰と付き合ってもしっくりこず、結局長続きしないのがチリの恋愛だ。そこに本物の愛情がなくってもキスもセックスもできる。そんな夢のない恋愛を続けるのも馬鹿らしくて、最近は特定の相手は作っていなかった。
手頃なところで手を打つ恋愛はもうやめた。……肝心な本命には相手にしてもらえないのが現実だけれど。
恋愛って難しい。わざとらしく目を閉じうーーんと深く考えるチリは静かに入室した男の存在に全く気づいていなかった。
「チリさんお疲れ様です」
「っっうぉっ!なんやアオキさんかっ!びっくりしたわっ!」
ドアの開閉にも気配にも全く気付かないほど没入していた一人の世界を耳心地の良い低音が切り裂いた。突如視界に入るのは見慣れたグレーのスーツ。いつの間に隣にアオキが立っていた。
「アオキさんもう帰れるん?」
「はい……やっと解放されました……」
一体どんな無理難題を押し付けられたのか。解放されたという割に数時間前よりもどこか疲弊しているように見える。お疲れ様ですとある意味同情にも似た気持ちが湧き上がる。それだけトップはアオキに期待しているのだろうが、アオキはそれを一切望んでいないことにより、二人の間には最悪の化学反応が生まれている。アオキには申し訳ないがチリにはどうすることもできない。御愁傷様状態だ。
彼は自身のデスクにつきスリープ状態だったパソコンをシャットアウトし、出しっぱなしの書類をまとめている。チリは頬杖を付き隠すことなく横目に眺める。チリの視線にいちいち興味を示すような男ではないのは知っている。揃いの黒いグローブ、自分とは違う男の手がパソコンを閉じる。そんな些細な仕草にも目が釘付けになる。その手のひらで触れてもらえるポケモンたちを羨ましく思っていると珍しくアオキの方から声をかけてきた。
「考え事ですか?」
「まあ、ちょっとなー。チリちゃんも悩めるお年頃なんですわー」
チリも今日はここまでにしようとデータを保存する。残業して同じタイミングで帰るのはあからさますぎるけれど、仕事が残っていたのは紛れもない事実だ。席を立ち荷物をバッグに片付ける彼を、このあと食事でも、そう誘おうとしたがアオキの口から飛び出してきたのは予想外の言葉だった。
「……彼と、付き合わないんですか?」
「はい?」
あまりに予想外のフレーズに間抜けな返答をしてしまう。彼があまりにも自然にさらっと紡いだその言葉の意味を理解するのに、どうしてか時間がかかった。何か悪い冗談のように聞こえ、マウスを動かす手なんてとっくに止めて。食事に誘おうと意気込んでいたご機嫌な心が打ち砕かれたように感じて、ただ真っ直ぐにアオキを見た。
「すみません、聞こえてまして……」
なにが、なんて主語がなくてもたった一言で全ての状況は理解した。ただそこは、チリにとって大して問題ではない。問題なのはその前の彼からの問いの方だ。アオキは少しだけ罰が悪そうで、それでもいつものトーンで会話が続いていく。珍しく今日の彼は饒舌なようだ。
「彼、いいじゃないですか。業務成績も優秀ですし若くて格好いい。トップからの評判も上々で今後を期待されている人材です。……チリさんにお似合いじゃないですか」
「は……?」
そう言い切った彼の顔色も声色もきっと普段と変わらない。それなのに確かに自分の感情だけが酷く掻き乱され始めていて、全身が熱を持ち始めた。どういうこと、意味わからんのやけど、なんでそんなこと聞くん。様々な形の疑問符がチリの脳内を埋め尽くし真っ黒になっていく。
だって、貴方が一番知っているはずなのに。自分が誰を好きか。誰と付き合いたいか。それなのに。
「なんで、そういうこと言うんですか?」
思ったより低い声が出てしまって、空気を何段階も重くした自覚はあった。でも全ての原因はアオキにあるので責任は転嫁する。今自分がどんな顔をしているかわからない。美人の真顔は怖い、そう言われるから怖がられないように表情も言葉遣いも気にかけてきたけれど、今は取り繕っている暇もない。
デスクを一つ挟んだ微妙な距離。それなりに仲良くやってきてると思っていたが思っていたよりアオキの心は思っていたより遠かったのかもしれない。自分の気持ちなんて、何一つ伝わっていなかったのか。それを
ともそれを知った上で、他の男と付き合わないのかなんて言い放つのか。
たった四回フラれたくらいで簡単には諦められない。絶対振り向かせてやる。そう思っていたけれど。
なんか、好きになってもらえないのって普通につらいな。
だめだ、そう思った時にはもう遅かった。これまで必死に抑え込んで隠し切って視界に入れまいと何重にも鍵をかけて閉じ込めていた感情が顔を見せ始める。ぷつりとチリの中で何かが途切れ、日々積み重ねてきたものがぐらぐらと崩れ始めた。
「わたしが、アオキさんのこと好きやって知ってるくせに、なんでそういうこと言うんですか」
気付かぬうちに一人称すらあやふやになってしまうくらい乱された気持ちが抑えきれず吐き出されていく。それすらまるで他人事のようにすら感じる。いつものように冗談で受け流すだけの余裕なんてとっくに失っていて、醜い感情だけが沸々と湧き上がる。
こんな時でもアオキの鉄壁の表情を崩すことができない。どんな言葉も感情も、地震のように彼を揺さぶることはできないのか。社会の先輩として場慣れしているのか、焦りも困りもせず、アオキはいつものように淡々と答えるだけである。
「……あなたには自分より彼のような人の方が相応しい。誰だってそう思いますよ」
「他人の意見なんか知らん。わたしが好きなんはアオキさんやって、何遍も言うてるやん。なんも伝わってなかったん?」
効果は今ひとつどころか、無効だったのか?自分の言葉の効力の弱さに虚しくなった。今まで自分に好きだと伝えてくれた人たちの言葉とは一体どう違うのか。なら抱えきれないくらい大きな感情はどうすれば伝えることが出来るのか。
アオキはただ黙ったまま、チリの視線と言葉を受けとめている。何を考えているのか一切わからない。好きな人の感情すら掴めない自分が悔しくて、どうすればその壁を壊せるのか、模索したところで冷静さを失った現状は良策など出てくるはずもない。
ぎゅっと両手を握りしめる。先ほど後輩に、早く帰ってくださいね、なんて言われたが今日はまだ帰れそうにない。
諦めない、振り向かせてやる、好きになってもらいたい。そんな前向きな気持ちで必死に蓋をしていた負の感情が一気に溢れ出し、火山のように噴火していく。もう止められない。どうしたら自分の言葉がアオキに届くのか。瞬きも忘れるほど真っ直ぐにアオキを見つめ、彼の心に訴えるようゆっくりと言葉を並べた。
「アオキさんがチリちゃんのこと嫌いとか、好きやないとか、他に好きな人がいるとか。そういう自分の感情で振ってくれるまでは諦めへんつもりやった。チリちゃん負けるの嫌いやもん。絶対好きにさせたる思ってた。でも」
「……、チリさん」
「もういいわ……」
チリは立ち上がりアオキの前まで歩みを進める。二つ隣のデスクまで、たった数歩がものすごく重い。しっかりと一歩一歩を踏みしめないとその場に崩れ落ちてしまいそうだ。手を伸ばせば彼に触れられる、そんな距離まで近づく。自分が女性としては長身であっても彼と視線を合わせるにはやっぱり見上げなければいけない。ああ、この絶妙な距離が心地よかったのに。
ようやくアオキの表情が少し変化する。まるでチリを心配するかのような口振りでチリの名を呼んだが、それももう耳には届いていない。先ほどはあんなにうるさく感じた秒針の音ももうわからない。音だけでなく色さえも世界から消えた気がした。
「もうつらい。やめる。アオキさんのこと好きなんやめるわ」
「っチリさん、自分は……」
「やから、」
これ以上は、彼の目を見て言えなかった。
縋るように彼の両肘を掴み俯くと、二人分の靴と真っ白な床が目に映る。彼と共に世界を歩んできたしっかり磨かれた大きな革靴。傷の数は経験値だ。彼の隣を自分も歩みたかったな。もう全部遅いけれど。
その言葉は呪いだ。優しい彼を困らせるだけだ。
もう一人の自分が必死に呼びかけている。言ってはいけないと。しかしチリは自分の狡さを思い知る。ここまで壊れた感情は制御できず、それでも零れ落ちそうな涙だけは必死に抑えて、チリはアオキに深く呪いをかけた。
「一回でいいから、抱いてください」
「っ、」
「そうしたら、諦めるから」
抱いて、そう自分に縋るいつかの少女の決意が、今なら痛いほど理解できた。そんなことしたって虚しいだけでと思っていたが、その思い出だけで一生生きていけるなら安いものだと今なら思う。
後から今日を思い返すと我ながら最低だと取り消したい言葉になることは確定しているが、そんなこと考えている余裕なんてとっくに残っていない。こんな女にはなりたくないと必死に閉じ込めていた感情たちはもう取り消すことはできなくなっている。
アオキの表情も見られず、自分の顔も見られたくない。顔を上げることができないチリの頭上に言葉が落ちてくる。
「……そんなことしたって、どうにもならないってこと、あなたが一番知っているのでしょう」
一度必死に堪えた涙たちが二度目はないとぼろぼろと溢れ出した。アオキの肘を掴む腕が震える。自分で立っているのが難しくなりそうなくらい、頭がぐらぐらする。
わかってる。彼が言う通りそんなこと、一番知っている。なんの解決にもならない、ただ相手の心と人生に深い傷跡を残したいだけの酷く我儘で自分な勝手な女の醜い欲望だって、そんなの一番知っている。
「あなたの口からそんな言葉、聞きたくなかったです」
「言わせたんは、あんたや。こんなこという人間になりたくなかった」
「……そうですね。自分が情けない」
ゆっくり、ゆっくりと顔を上げた。アオキは困ったかのような顔をして、視線は逸らさずチリを見下ろしている。それが彼なりの誠意なのだろう。そういうところまで律儀で嫌になる。
もっと困って。もっと焦って。もっと自分でいっぱいになって。そして、もう、終わりにして。チリは彼の心に揺さぶりかける。
「お願い、これ以上チリちゃんを惨めな女にせんといて。嫌いやったら嫌いって言って。もう付きまとわんから。そのかわりもう優しくせんといて。虚しくなる」
「……」
「お願い……わたしのこと、好きになって……」
言ってることも要望もまるでめちゃくちゃだ。自分にこんな面倒臭い女の顔があったことを知りたくなかった。今まで必死に、強くて格好いい理想のチリちゃんを築き上げてきたのに。こんな簡単に崩壊するなんて。人前でなんて泣きたくなかったのに。格好悪い。その涙を拭ってくれる人もいない現実はえらく冷たい。
二人の世界には長い沈黙が流れる。アオキは何度か口を開きかけてはやめてを繰り返している。チリはこれ以上なにも言わなかった。何を言ってももう戻れないし、進めもしないと悟ったからだ。
結局重い空気を破ったのはアオキの方だった。
「……本当に、あなたは酷い人だ」
「うっさい。そんなん自分が一番知っとるわ……」
改めて言われると、つらい。自分の言葉が彼を傷つけたことも、追い詰めたことも、泣けてくるくらい理解している。職場で顔を合わせるたび思い出してきっとこの先の人生で死ぬほど後悔と反省を繰り返す。最低な未来しか見えないが、全部全部
自分のせいだってわかっている。
「手、離してもらえますか」
ずっとアオキの両腕を掴んだままだった。痛かっただろうか。自然と力がこもって、きっとスーツは皺になっているだろう。この手を離すと二度と掴めないような気がしている。ああこれが終わりの合図だ、全てを諦め聞き分け良くゆっくりと指をほどき、チリの両腕は彼から離れていった。
解放されたアオキは何事もなかったかのように、ポケットからスマホロトムを取り出し、慣れた手つきで操作を始める。こんな時まで仕事優先かと更に泣きたくなった。もうそれを言葉にする気も湧かず、しばらくするとチリのデスクの上のスマホが震えた。アオキはスマホをポケットに入れ、まるで何事もなかったかのようにビジネスバッグを手にかけた。
「今うちの住所を送りました。自分は先に帰ります。……本当に、抱いてほしいと言うのなら、来てください」
「っ、……」
「ただ生憎……恋人以外の女性を抱く趣味はありません。本当にあなたが自分でいいと言うのなら……お待ちしています」
「、っ、ちょっ、それってどういう……!」
どういうこと、そう言い終えるより先にアオキはチリに背を向けて帰っていった。律儀な彼が、お疲れ様も言わずに。いつもと変わらない背中、アオキの感情はわからない。追いかけて問い詰めるだけの気力はもうなかった。ぱたりとドアが閉まり、しばらく呆然と立ち尽くしていた。なんなん、意味わからん。どういうこと。ねえ、それって。疑問で埋め尽くされた頭、驚きすぎて涙は乾いたらしい。
「意味わからん……なんなん?どういうこと……」
右へ左へ振り回されて忙しすぎる感情はもうとっくにパンクしている。先ほどの彼の言葉がまるで暗号のようでうまく読み解くことができない。
そうだスマホ、と確認すればメッセージアプリにはアオキの自宅であるチャンプルタウンの住所が送られている。そのたった一行が現実を物語る。
再び訪れた一人きりの世界、チリはお守りのようにスマホを握りしめ膝を抱えてへたり込む。顔が燃えるように熱い。自分優位な解釈は自滅を招くだけだ。それでも願わずにいられない。
「お願い……チリちゃんのこと好きになって」
もう見て誰もいない。ぐちゃぐちゃの感情のまま、祈るように唱えながらやっぱりもう少しだけ泣いた。
□□□
窓からはテーブルシティの煌びやかな夜景を一望できる暗い廊下、静寂を破るように一人分の足音だけが響く。うるさい鼓動をかき消すようにアオキが一人ため息のように呟いた言葉をチリはまだ知らない。
「全く……これ以上好きにさせないでください」