「すみません、貴方とはお付き合いできません」
聞きなれた、しかし自身が常より聞く声よりも大きくはっきりした声がチリの耳に届く。喫煙所で煙草を吹かしていたチリはピタリと動きを止め、咥えていた煙草の火をぐしゃりと潰して消すと恐る恐る声のした方向に近づいた。
あーあ、煙草消してしもた。高いのに。
若干の後悔が残るが、気になるのだから仕方ない。煙草の煙なんてくゆらせながら近づいたらバレてしまう。
あの人でなければ良いと願いながら、自分があの人の声を聞き間違うはずが無いのだとも理解している。
曲がり角で恐る恐る覗き込むと、やはりそこに居たのは自分の思い描いた通りの人物で、チリは胃の底が重たくなるのを感じた。
アオキはこちらからは背を向けていて、どんな表情をしているのかは分からない。いつも通りの無表情なのだろうか、それとも困ったような顔をしているのだろうか。多分困った顔だろうな、とチリは普段のアオキを思い浮かべる。鉄面皮の印象を受けるアオキは、その実結構分かりやすい。不満な時は不満げに顔を逸らすし、食事を前にすると満面の笑みを浮かべるし、困っていると下がり眉でチリに無言で助けを求めてくるのだ。
チリは惚れた欲目なのか、それがどうしても可愛く思えてしまってついつい手助けしてしまうものだから、いつもハッサクに甘やかしすぎるなと怒られてしまっていた。
アオキの表情は分からないが、対面している相手の顔は良く見えた。確かリーグの受付に最近入ってきた新人の女の子で、最近アオキにアプローチをかけていた子だ。何度か捕まって困っていたところに助け舟を出したこともある。
成程、遂に痺れを切らして告白したのか。
ーチリは思わず、凄いな、と感心した。こちらから見える彼女の可愛らしい顔は今にも泣きそうで、紅潮した頬に涙が伝って、祈るように組んだ手が震えている。「貴方が好きです」とその一言を伝えるのに、彼女は一体どれだけの勇気を必要としたのだろう。
彼女が泣いていることに気が付いたアオキは、そっとハンカチを差し出しながら優しい声で諭す。
「…気持ちを伝えてくれてありがとうございます。貴方はまだ若い。自分は貴方の気持ちに応えることは出来ませんが、何時か必ず、勇気ある貴方に相応しい方が現れますよ。」
アオキの誠実で優しく、そして残酷な言葉を受けて彼女は遂に顔を覆った。
ーチリは覗いてしまったことを後悔した。体を戻して思わず壁に背に付けて、ずるずると座り込む。まるで先程の彼女へ向けた言葉が、自分に向かって言われたように思えてならない。
例えば。チリが同じように、アオキに「好きだ」と告げたらどうするのだろう。きっとあの彼女の時と同じように、とても困った顔をして、それでも目を逸らさずにしっかりとこちらを見て返事をするのだろう。
…先程のように、誠実に、紳士に、そして一片の期待もさせないように残酷な言葉で叩きのめすのだろう。チリがもう二度と立ち上がれなくなるくらいに。
何だか凄く泣きたいような気持ちになって、チリは顔を俯かせた。あの子はそんな事も分かっていて、それでも想いを告げたのに。チリは想いを伝えるどころかここから一歩も動くことが出来ずにいる。情けない、なんてザマだろうか。告白した彼女とは大違いだ。
同じ土俵にすら上がれていないというのに、彼女が彼に慰められているという事実に一丁前に嫉妬心すら抱くのだから嫌になる。
それでも、早くここから去らねばアオキがこちらに来てしまう。盗み聞きしていたことがバレれば流石に非難されるだろうか、それとも気まずそうな顔をするだろうか。どちらにせよチリは耐え切れる気がしなくて、顔を俯かせたままのろのろと重い腰を上げて執務室に向かってふらふらと歩き出した。
喉の奥にドロドロと重たいタールのようなものがへばりついて、最悪な気分だった。
どれだけ気分が乗らなくとも、社会人である限り仕事はしなければならない。チリは昼間の出来事を内心引きずりながら表面上はいつも通りにこやかに、何も無かったように振舞った。
あの後アオキはそのままジムリーダーとしての仕事があったようで、リーグに戻っては来なかった。例の受付の子は泣き腫らした顔で戻ってきたもののどこかスッキリとした顔で、皆に何かあったのかと心配はされていたものの化粧を直してからはきっちりと仕事を終わらせて、笑顔で挨拶をして定時で帰って行った。
きっとこれで仕事がおぼつかなくなればアオキに顔向けできないと思ったのだろう。
強いなあ、とチリは独りごちる。心の強い、素敵な女性だ。そういう人だからアオキの魅力に気がついて惹かれたのだろう。
何となく帰る気にはなれなくて、ただアオキに会いたいとも思えなくて、チリは四天王用の執務室で仕事に没頭していた。働いていれば余計なことを考えずに済む、大人になってから学んだことだ。
そうやっていたら気がついた時にはとっぷりと日が暮れていて、リーグ内にはチリしか居なくなっていた。流石にやり過ぎた、と反省してパソコンの電源を落とす。オモダカは鬼上司だが存外時間外労働に厳しく、過度な残業が続くとあの笑顔で強制的に休みを取らされるのだ。あれは勘弁して欲しいとぶるりと背筋を震わせ、さっさと帰ってポケモン達にご飯をあげなくてはと扉に向かう。
だが、ドアノブを掴もうとした瞬間にガチャリと反対側から扉が開いて、驚いた表情のアオキと間近で目が合った。
「…チリさん、お疲れ様です」
「あっあー…お疲れさんです…」
よりにもよって今日会ってしまうとは。早く帰るべきだったと内心で猛省しながら、チリは気まずげに挨拶する。
こんな時間まで残業ですか、と眉間に皺を寄せるアオキに、そっちこそ今日は戻らんと思ってました、と返答してチリはへらりとした笑顔を向けた。
アオキはいつも通り淡々と、機密書類は持ち帰れないので、と返答しながらチリの横をすり抜けて自身のデスクに向かい、鞄から書類を取り出す。チリはどうしてかお先にと退室することも、一緒に帰りましょうと誘うこともできず、そんなアオキの様子をぼんやりと眺めていた。
手持ち無沙汰なチリの様子をちらりと横目で見て、アオキは静かに話しかける。
「…昼間」
「え?」
「休憩中に巻き込んでしまってすみませんでした」
ボソリとアオキが呟いた言葉に、見ていたのがバレていたのだと察してチリの心臓が嫌な音を立てる。
「…あ、あー…すみません、覗くようなことしてもうて…わざと聞くつもりやあらへんかってんけど、失礼やんな」
ドクドクと音を立てる心臓を押さえつけるようにして、チリはスっと頭を下げる。顔は見えないが途端にアオキの慌てるような気配がして、謝らなければいけない状況なのに笑いそうになってしまった。
「か、顔を上げてくださいチリさん…貴方に頭を下げさせているところなんて見られたら自分の首が飛びます…」
余りに必死な声にチリは遂に耐えきれずに吹き出してしまう。
「なんでやねん、チリちゃんかて悪かったら謝らなアカンやろ!そんなんで首が飛ぶかいな」
「いえ、本当に…そもそも貴方が悪い訳では無いので…」
常より悪い顔色を更に青ざめさせたアオキの懇願に、仕方ないなあとチリは苦笑する。こういう気にしいな所が生きづらそうだなと思うし、やっぱり好きだなあと思うのだ。
「…あの子なあ、泣き腫らしとったけどちゃあんと仕事きっちり終わらせて帰ってったよ」
強い子やなあというチリの言葉にピクリと反応したアオキは、そうですかと気まずげに言葉を返す。
「…素敵な人ですから、その内こんなおじさんよりももっと好い人が現れるでしょう」
「それ振った本人が言うん?残酷なお人やなあ」
アオキの言葉に苛立ったチリは、つい詰るような声音で返してしまう。ああ、しまったと思うが口から飛び出た言葉はもう取り消せなかった。
チリの責めるような声音に驚いたのか、アオキは僅かに目を見開いて口を開く。そのまま逡巡して、結局何を言うことも無く目を逸らした。
「…あの」
踏み込みすぎた、謝らなければとチリが口を開いた瞬間、アオキが目を逸らしたままボソリと問いかける。
「…チリさんは」
「え、あ、何です?」
「…あの方が好きだったのでしょうか」
「………は?」
「怒っていらっしゃるように、見えたもので…貴女の好きな方を泣かせてしまったから、そんなに怒っているのかと」
「はァ!?」
真顔ですっとぼけた事を抜かすアオキに、ンな訳あるかい!と思わずチリは突っ込む。突然の大声にアオキはびっくりしたように目をぱちくりさせて、すみません、と謝ってきた。
営業やってる癖にどんだけ鈍いねんこの人、と頭を抱えたくなるチリに、アオキは何故かふと表情を緩めると、唐突に礼を言ってきた。
「別に今お礼言うとこちゃうやろ」
「いいえ。彼女のこと、気にかけて下さったのでしょう。自分が至らないばかりに貴女にはいつも助けて貰ってばかりいますから…ありがとうございます、チリさん」
「…さよか」
優しい表情で、アオキはこちらに再度礼を述べてくる。チリは途端に罪悪感を感じながらも、やっぱりこの人が好きだと感じた。
もうこんな遅い時間です、女性が一人で夜道を帰るのは危ないでしょう。タクシーを呼ぶので今日はもう帰った方がいい。そんな事をいいながらスマホロトムを操作するアオキの横顔を見て、チリは咄嗟に口を開いた。
「…あんな、アオキさん」
「はい」
「チリちゃんな、あの子のこと、好きやから気にかけてたんとは違うよ」
「はい、聞きました」
「せやけどあの子のことは気になっとった、昼休みに告白してんの聞く前から」
「……」
「あの子な、チリちゃんのライバルやねん」
「…チリさん、それは」
「なあ、アオキさん」
「ウチがアオキさんのこと好きやって言うたらどうするん?」
するり、とアオキの手の中にあったスマホロトムが滑り落ちる。カシャンと高い音を立てて床に反響した音を何処か遠くで聞きながら、チリは遂に言ってしまったなあと何処か他人事のように考えていた。
痛い程の沈黙が場を支配する。今この瞬間、冗談だ、と笑い飛ばしてしまえばもしかしたら、いつも通りの関係に戻れるのかもしれない。女性がそんな冗談を言うものでは無いと怒られて、明日からはただの同僚に戻れるのかもしれない。でももう、チリはこれ以上誤魔化すことが出来なかった。
「…チリさ、」
「好きです」
「アオキさんが、好きなんです」
昼間の彼女の姿が脳裏によぎる。震える手で勇気を振り絞った彼女。立ち上がることすら出来なかった自分。振られることが怖くて、怖気付いていた自分。
この後アオキに振られたら、多分三日三晩は泣き明かす。1年は引きずるし、3年は恋人は作れないと思う。だってそれくらい好きなのだ。好きで好きで、息もつけないほど苦しくて、この人の全部が欲しくて、その目に自分を映して欲しかった。
振られてもいい、こちらを見て欲しい。貴方を好きな自分を認めて欲しい。あの残酷な言葉で、もう二度と立ち上がれなくなるくらいに、叩きのめしてくれていいからーー
「…自分などよりも、貴方にはお似合いの方がいらっしゃいますよ」
例えば。チリが同じように、アオキに「好きだ」と告げたらどうするのだろう。きっとあの彼女の時と同じように、とても困った顔をして、それでも目を逸らさずにしっかりとこちらを見て返事をするのだろう。
…先程のように、誠実に、紳士に、そして一片の期待もさせないように残酷な言葉で叩きのめすのだろう。チリがもう二度と立ち上がれなくなるくらいにーー
アオキの目は、こちらを見なかった。
「…なんで」
チリの目の前が真っ暗になる。喉の奥がひりついて、焼けるように熱くなった。
応えてくれなくたって良かった。はっきりごめんなさいって断ってくれれば、一日に2回も振らせてすんませんって笑って、帰ってから大泣きして、明日からまた同僚として頑張ろうって思ってたのに。
目も合わせてくれない。はっきり振ってもくれなかった。自分より好い人がいるなんて言葉で誤魔化して、チリの気持ちを受け止めてすらくれなかった。
チリの目から、ボロボロと涙が零れる。もう耐えられなかった。アオキの目は相変わらず床に固定されたままで、こちらに見向きもしない。
なんで、何が違うの、何がいけなかったの?ぐるぐると頭を激情が支配して、冷静に考えることが出来ない。
「…貴女は、美しくて、可愛らしくて、魅力的な人です。眩しく感じるほどに。
何を勘違いしているのか分かりませんが、自分は平凡な男だ。年も離れていて、貴女には到底釣り合わない。…こんな自分の為に、貴方の貴重な時間を割くべきでは無い」
目の前の男は、何を言っているのだろう。そんな建前が聞きたいんじゃないのに。瞬間的に怒りがチリの体を駆け巡って、おもわずチリはアオキの胸ぐらをつかんで引き寄せた。
「…誰もそんなん聞いてへん」
「っ、チリさん、」
「ウチが聞きたいんはアオキさんがどう思っとるかや!釣り合うとか釣り合わんとかグダグダグダグダ、やっかましいねん!その気無いんならはっきり言えや、あの子の時はそうしてたやろ!」
泣きながら胸ぐらを掴んで揺さぶってくるチリに、アオキは何かを堪えるように目を閉じる。頑なに目を合わせようとしない男に、とうとうチリは縋り付くようにもたれかかった。
「…そんなに、迷惑なん?チリちゃんの気持ち、目も合わせたないくらい、嫌やった?」
「………、困ります」
ー心臓が、冷えきってしまうと思った。言葉なんてもう出て来ない、指先の力があっという間に抜けて、腕がだらりと下がった。
もう無理だ。顔なんて上げられそうもない、もう、もう、頑張れない。
仄かに青木の服から香る柔軟剤とシトラスの匂いが、チリの心をめちゃくちゃにする。この人の匂いを知るのが、想いを拒否される日だなんて。そんなこと、知りたくなかった。
パタパタと涙を落とすチリに、アオキは苦しそうに口を開く。まるで懺悔するように、何かと格闘しているかのように。
「……困るんです。……困るんですよ、貴方に好意を告げられて、それを嬉しく感じてしまう自分がいるのが…」
パタ、とチリの涙が止まる。は、と息を付いたチリに畳み掛けるように、上から言葉が降ってきた。
「…貴女は勘違いしている。自分は貴女が想像するようなご立派な人間じゃないんです。貴女に想いを告げられて歓喜しているし、叶うのならば貴女に触れる権利を手に入れたいと夢想するような、そんな、下らない男です。」
「ぁ、アオキさ、」
「分からないでしょうね、だって貴女は諦めるつもりだったのでしょう。叶わないからと振ってもらって、さっさと次にいくつもりだったのでは?」
その通りだ。アオキがこちらを振り向いてくれるなんて、その実全く期待してはいなかった。でも最後のは聞き捨てならない、こんな重たい恋を抱えてさっさと次になんていけるものか。
「…アオキさんに振られたら3年は引きずるわドアホ……」
なんとも情けない反論だったが、事実だ。人を尻軽みたいに言わないで欲しい。
「そうですか。それは良いですね」
「何がええねん。人の事メッタメタにしておいてこの鬼」
チリの涙声での詰りに僅かに微笑むと、アオキは俯いていたチリの額に張り付いた前髪を掻き分ける。アオキが断りもなく自分に触れるなんて初めての事で、チリは思わず固まってしまった。そんなチリに構うことも無く、アオキはチリの頬に両手を寄せ、そっと上を向かせる。
ーアオキがどうして目を合わせたがらなかったのか、チリはここに来て漸く理解した。
まるで、猛禽類の目だ。
「…幻滅しましたか」
貴女の前で誠実でいられた事などない。笑いかけられる度に欲を掻き乱されて、手に入れられたらと何度も分不相応な夢を抱いた。
悔恨するかのように吐き捨てるアオキの姿に、チリは散々泣かされたというのに、目の前の男を抱き締めたいと思ってしまった。
そうだ、この人はなんとも不器用な人なのだった。頑固な割に気にしいで生きづらそうで、そういう所が可愛くて、好きで、愛おしいと思ったのだ。
「…自分、アホやなあ…」
呆れたような声を出して、チリは笑ってしまう。両想いだと分かった時点で素直に喜べばいいものを、年齢だのなんだの考えすぎて一周まわって拒否してしまうなんて、余りにも面倒くさくて不器用すぎる。
「チリちゃんなあ、アオキさんが想像する5倍くらいアオキさんのこと好きやねん」
「はあ」
「好きな女が愛の言葉囁いてんねんからもうちょい喜ばんかい!
せやからな、アオキさんがチリちゃんのこと好きすぎてしゃーないの分かっても全然受け入れられんねん」
チリの自信満々な笑みを見て、アオキは苦々しい顔をして忠告する。
「…おじさんの拗らせた恋愛感情なんて、多分チリさんが想像する5倍くらい重いですよ」
「ほーかほーか、そんなら丁度ええなあ。お互い同じくらい好きってことやんな?なーんも問題あらへん」
にこにこと嬉しそうに笑うチリに、アオキはぎゅうと眩しそうに目を瞑ってから、観念したようにはあ、と溜息を付いた。
「…大変申し訳ありませんが、一度手に入れたら逃がして差しあげられる自信はありません。それでもよろしいですか」
「上等やん。手放すなんて阿呆なことしようもんなら何がなんでもしがみついたるから覚悟せえよ」
「あとこの歳なので、お付き合いするのであれば結婚を前提にさせて頂きますが」
「ええの!?一生幸せにするわハニー…」
「…そういう台詞はこちらから言わせて貰えますか、ダーリン」
顔を寄せあって軽口を叩き合いながら、アオキはかさついた指の腹でチリの目元をそっと拭う。お返しのようにチリがアオキの痩けた頬に手を伸ばすと、少しだけ目元が下がって緩やかな表情になるものだから、やっぱり可愛い人だなあとチリは思うのだ。
「…お返事、まだでしたね」
「うん」
「チリさん、自分も貴女が好きですよ。」
「…うん…」
「…沢山泣かせてしまってすみませんでした」
申し訳なさそうに猫背を丸めて謝罪するアオキに、チリは先程までこちらが喰われそうなほど鋭い目をしていたのに、と思わず吹き出しそうになる。
このチリちゃん泣かせられんのなんてアオキさんくらいやで、責任取ってな。なんて冗談を飛ばしてみたら、責任…辞表と婚姻届とどっちがいいですか、なんて真面目な顔して言うものだから、チリは遂にナッハッハ、と声を上げて笑ってしまった。