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この作品「ふきまわし」は「アオチリ」「ポケモン小説100users入り」のタグがつけられた作品です。
ふきまわし/真野の小説

ふきまわし

26,724文字53分

愉快で苛烈で本心が見えない同僚を遠巻きに眺めていたらいつのまにか渦の中心にいたサラリーマンが、ぼんやり自分に幻滅したり見て見ぬ振りをしたり覚悟を決めたりする話です

○キャラクターの経歴・過去~現在における人間関係など捏造を多く含みます
○キャラクターの一・二・三人称における捏造を含みます
○crに好意を寄せる・危害を加えようとするモブが登場します(cp表現や暴力表現なし)
○今後の展開次第で本投稿を修正・削除する場合があります

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1
 同僚という立場でありながら、チリという人間をアオキはよく知らない。
 そんな風に言い切ってみたものの、とりわけすぐれたじめんポケモントレーナーであること、事務処理から交渉まで手広く得意なこと、故に周囲の同僚から厚く信頼されていること、くらいは把握していた。
「資料、置いときますんで」
「……」
「アオキさぁん?」
「ああ、ありがとうございます」
「寝てましたやん、完全に」
「……まさか」
 なんならチリは自分よりよっぽど気さくに喋る。受け身な立場からよく知らないなどと言えたものだと、おこがましいとでも思われるかもしれない。ただ、だとしても、とアオキは想像の中の苦情に反論する。だとしても、自分は未だチリのことを掴みきれていない。
「こんな美人がデスクまで来てんのに、ようそこまでぼんやりしてられますね」
「はあ」
「また寝てます?」
「起きてます」
「見たらわかるわ、そんなこと!」
 今の時代に良し悪しを断ずることは難しいが、アオキはこれまで、ヒト・ポケモンに留まらずその他あらゆる事物の容姿に対して、興味を抱いてこなかった。美しいものと美しくないもの、その違いに答えなどない、とは更に同僚の美術教師がよくいったものだが、正直その言葉すらピンときていないくらいには。
「そういや今度のチャンプルジムの視察、またチリちゃんが行くんで」
「お手柔らかにお願いします」
「よう言うわ、こないだ行ったときろくにしゃべらんと飯食うてたのに」
 ただ興味がないなりに、チリ本人が称する通り、彼女がいわゆる美人であることは理解できているつもりだった。華やかで整った目鼻立ちと涼しく伸びた長い手脚は、興味関心の壁などあっさりと突破して、客観的な事実として美人であることを見せつけてくる。
 だからこそ、第一印象の時点で、アオキはチリのことが苦手だった。穏やかに生きていくには、目立つ人間とはできるだけ関わりあいにならないほうがいい。
「じゃ、確かに渡したんで。失礼します」
「お疲れ様です」
 そんな容貌に加えて、初対面の人間にも軽やかに距離を詰められる社交性、自分のことをちゃん付けしてほしいなどとのたまえる(ある意味での)図々しさ、何より、四天王として遅れを取らないために遅くまでトレーニングに励む求道的な姿勢まで有しているのだから並じゃない。すべてが人を惹きつけてやまない魅力に繋がっている、のだろう。
 けれど、と去っていく背中を眺めながらアオキは思う。だとしても、繰り返しになるが、自分は未だチリのことを掴みきれていない。
 思い出されるのは、この間のバレンタインデーだった。

 チャンピオンリーグの1次面接をチリが担当しているという話は、少なくともチャンピオンを目指している学生たちの間では有名な話らしい。高い認知度を誇る理由は2つ。1つ目はバトルと別に練習が推奨されるくらいには、面接が厳しいものだから。そして2つ目は、面接官がそれはもうかっこいいから。
 そのためか毎年のバレンタインデーには、面接を受ける名目で訪れ、どうにかチリに贈り物をしようというファンが大勢現れる。毎年リーグ側でも対策を検討・実施しているが、業務を止めるわけにもいかず、最終的にある程度ふるい落とされた先では、チリ自身が彼らあるいは彼女らの対応をするしかなかった。面接自体はどんどん落としていくだけだから特段気にもしてません、と事前の会議でからっと笑っていたのが印象に残っている。
 定時後、プレゼントだらけになった控室の撤収を頼みたいとオモダカから指示があり向かうと、甘い匂いの中、可愛らしいラッピングの前に立ち尽くすチリの姿があった。
 対して気に留めていないような様子で、冷やかす職員たちを軽くいなす姿なら先程見かけた。なのに、目の前のチリはまるで異なる心底興味がなさそうな表情を浮かべている。アオキは驚き、思わずまじまじとその様を見つめてしまった。
「あれ、アオキさん?」
 こちらに気がついたチリが、特に繕うこともせず、にやにやと笑みを浮かべる。一層さっきまでの雰囲気が嘘のようだった。
「どうかしました?」
「……いえ、」
「ははぁん、もしかして自分もチョコレート欲しいと思ってます?」
「流石にそんなことは……」
 アオキの否定も聞かず、これあげるんはマズいしなぁ、と真向かいにあった紙袋の取っ手を指に引っ掛けくるくる回している。最初の歓迎会以降、雑談らしい雑談もしていなかったのに、食べることが好きだとどこかで話したろうか。疑問もわずかに浮かんだが、随分周囲に気を配る質ということは日頃のふるまいから伺えていたので、結局口にしなかった。
「あれやったらチリちゃんが作ってこよか?」
「結構です」
「はは、即答かい」
 んで、なんでここに? もっともな問いに経緯を説明すると弾けるような笑いが返ってきた。
「はー、おもしろ……。別にチリちゃんだけでどうにかするんで、ご心配いただかなくとも」
「そうですか?」
「ゆうてこの辺のもの回収して机戻すだけやし」
 なんも渡せんくてすいません、と口角を上げる目の前の女性が、自身に近づいてくる人々について本当のところどう思っているのか。直接尋ねてみるほどアオキは若くも優しくもなかった。

 あらゆる事物の容姿に対し興味がなくとも、それでもわかるくらいには彼女は美人で、けれどそのように思われることが彼女の人となりにおいてどう捉えられているかはわからなくて……。考えれば考えるほど、自分の中で彼女の言葉とふるまいと不意に見せる表情が整合性の取れないものとなり、そうして、同僚という立場でかつ四天王という共通点までありながら、チリという人間をアオキはよく知らないと言う他なかった。


2
 とっくに暗くなったリーグの廊下で、自分の革靴の音だけが反響していた。
 ここ数日は営業の仕事が立て込んでいて、いよいよどうしてジムリーダーと四天王とを両立しているのかアオキ自身もよくわからない様相を呈していた。年度始めはいつもこうだが、サボる隙を探すたびに、何故か仕事が増えている。
「あ、アオキさん、お帰りですか」
 現状を憂いながら歩調を早めていると、もうすぐ出入り口というところで、突然警備員に呼び止められた。普段は挨拶を交わす程度のため驚いていると、中央玄関の自動ドアで点検が行われており、迂回してほしいと告げられる。そういえば1年おきの定期点検について、アナウンスがあったかもしれない。数年同じ場所に勤めていると、これで春の訪れを感じるようになるからやるせなかった。
 仕方なく巨大な建物を再度横断する。裏口までたどり着くと、そこには見知らぬ女性が立っていた。
「……?」
 女性は扉が開いたのに合わせてばっと勢いよく顔を上げ、望んだ人物ではなかったからか、大きく肩を落とした。誰かを待っているのは一目瞭然だが、こんな時間にもなって中に残っている人間などほとんどいないだろう。先に帰ってしまったのでは、などと教えてあげるべきか迷っていると、後ろから、アオキさんお疲れさんですー、と慣れた訛りが耳に届いた。アオキが振り返るより早く、目の前の女性がチリさん、と再び顔を上げる。
「遅なって堪忍なぁ」
 帰っててってゆうたのに、と軽やかな足取りで女性の隣に並び立ったのは、確かに今の今まで仕事をしていてもおかしくない同僚だった。
「おつかれさまです」
「……そんな顔にもなるか」
 女性はすっかりチリの方に身体ごと向けていたが、そんな熱視線を躱して、チリは大げさに肩をすくめた。赤い瞳が、気まずそうにこちらを見る。
「ええっと、詳しくはまた説明するんで……」
「詳しくというのは」
「あれ、そういう感じ?」
 アオキが言葉の意味を測りかねたのを確認して、不幸中の幸いやな、と頷いている。その様子でようやく、これはチリにとってあまり具合がよくない局面なのだと気がついた。
「アオキさん悪いねんけど、とりあえず今見た一連のもの、内緒にしてもうてもいいですか」
 誰に、かは明言されなかったので、とりあえず共通の上司の顔を思い浮かべる。これが一体どんな不都合なのかは不明だが、ややこしい事態には巻き込まれたくない。そんな一心で首を縦に振った。
「よかったー、助かります」
 アオキの回答で大げさに喜んだチリは、いかにも言い慣れたリズムで、今度何か奢るんで! と続けた。いまさら上司でもない年下の同僚に奢ってもらうなど、社交辞令にしたって到底想像できない。いよいよ曖昧に礼をして、アオキはその場を後にした。あれだれ? という声が背中に聞こえる。

 チリが自席までやってきたのは、次の日の夕方だった。
 四天王としての出番は互いにない日だったため、顔を合わせるのは昨日ぶりになる。にもかかわらず来るなり人のデスクに軽く腰掛けて、昨日のなんですけど、と言ってくるものだからアオキは挨拶すら間に合わなかった。様になる姿勢からか、フロアの離れた卓から嬌声が聞こえる。
「人払いみたいなもんなんです」
「ひとばらい」
「そんなポケモンの技みたいに」
「言ったのはあなたでしょう」
 耳馴染みのない言葉を繰り返したアオキを放って、仕方のないことなんやけど、とチリは遠くからこちらを伺っていた営業担当の職員たちにひらひら手を振った。作り物めいた黄色い歓声が上がる。
「アオキさんもご存知の通り、チリちゃんそれはもうとんでもない美人やろ」
「……」
「なんか言うてや」
「ちょうど見せつけられたので、よく存じてます」
「……まあそれで、仕事帰りにも結構いろんな輩が近づいてくんねん」
 要するに、チリ1人でリーグ周辺やテーブルシティを歩くとトラブルに繋がりかねないため、いわゆるマッチングサービスで見知らぬひとに代わる代わる声をかけ、途中まで帰路をともにしてもらっているらしい。
「それは……」
「不健全ですか?」
「ではなく、却って危なくないですか」
「え?」
「それに、知り合いに頼んだほうが話も早いように思います」
「……ふーん」
 デスクから腰を浮かせたチリが、座ったままのアオキを見下ろす。
「ほんなら、アオキさんやってくれます?」
「……」
 突然自分にボールが投げられて反応ができなかった。黙ったことが予想通りだったのか、言わんこっちゃない、とチリは笑った。例えば仕事の人らにこんなんで迷惑かけるんは違うやろ、とすげなく却下される。それくらいは最初の最初に検討している、とでも言わんばかりの態度だった。
「やましいことはないけど、中途半端に知られたら誤解されてまいそうやろ? だから他のみんなには黙っててほしいんですよ」
 てなことなんであんじょう頼みます、と言い終えて、彼女は颯爽と戻っていった。翻るポニーテールを目で追いながら、手持ちのタイプに反して嵐のような人だとアオキは考えていた。

 結局その後の残業帰りにも、複数人の男性だったり女性だったりを連れて帰宅するチリの姿を見かけることがあった。とはいえ、とても理解できない世界である以上はどうしようもない、と判断したアオキには関係のない話だった。そもそも仕事でしか接点のない相手である。最低限の会話さえ交わすことができれば、一層距離を置いたところでアオキは何も困らなかった。


3
 その日もアオキの仕事はハードだった。
 各地にちらばるポケモンセンターを訪問してリーグ職員から業績のヒアリング。終えてからはリーグに戻って他業務で出られなかった会議資料に目を通す。総じて効率が悪すぎるスケジュールだった。
足も目も疲れて仕事にならなくなったあたりで、ようやく残りは明日の自分に任せられる程度になる。帰ろうすぐに、と立ち上がった。
 帰り際、つきっぱなしのモニターがあったので電源を切るべく近づくと、今日の四天王対戦記録が投影されていた。随分挑戦者の多い日だったらしい。ほとんどがポピーまでで敗れているが、アオキが不在だったこともあり、数名は明日へ持ち越しになっているようだった。つまり、明日は朝からバトルになる、ということだ。数分前に立てた明日の段取りを脳内でキャンセルする。ポケモンたちの調子も見ておかなければならないし、などといくらか考えつつ居室を出ようとしたところで、ばったりチリと行き当たった。向こうは向こうで上の空だったらしく、よそ見同士で派手にぶつかり、当然、チリの方が数歩後ろによろけていった。あぶない、と咄嗟に腕を取り、後から鞄が落ちた音と状況把握が追いついてくる。
「っ、すみません、」
「ああ、こっちは大丈夫やけど、こちらこそ、」
 そこでチリは不自然に言葉を切って、まだ青ざめているアオキをじっと見つめた。そうか、と小さく呟く。
「アオキさん、このあとちょっと時間ありません?」
「用件に、よります」
「……やっぱええわ。忘れてください」
 結局首を横に振って、そのまま駆け足で出入り口とは反対の方向へ去っていった。
 なんだったのかという疑問もあったが、わざわざ走って聞き直すのも、やられる方からしたら気味が悪いだろう。アオキはそのまま鞄を拾い直して建物を出た。
「……ん?」
 がさがさ草が擦れる音と、動転したような鳴き声が聞こえる。ポケモンの接近を感じて、ムクホークのモンスターボールを構えながら身体の向きを変えると、そこにいたのはウパーだった。警戒するアオキの体勢にも構わず、急いで駆けてくる。
「あなたは、チリさんとこの……?」
 野生にしては無防備すぎる、と姿勢を戻している間に、ウパーはアオキの革靴にまで乗りあげて困惑した様子でぱたぱた身体を揺らした。野生でないポケモンが単独で他の人間に助けを求めてくる場合には、トレーナーに何かあったと考えるのが自然である。チリさんはどこに? と問いかければウパーはくるりと転換して逆方向へ走っていった。聡明さに感心しながら後を追う。
 ぐるっと建物を回り裏口へ近づくにつれ、明らかに、今度は人間が揉めている気配があった。よっぽどポケモン同士より厄介かもしれない。嫌々ながらに死角から顔を出すと、そこにはこないだ遅くまでチリを待っていた女性と、もうひとり見知らぬ男性が建物に半身立ち入るようにして誰かへ詰め寄っていた。ちょうどアオキの位置からは見えないが、おそらくそこにチリがいるのだろう。大変めんどうなことになっている。聞かなくともわかる。
「……ここで待っていてください」
 ウパーに言い置きその場で、あの、と呼びかけたが、アオキの声はなにせ通らない。全くやり取りは止まらなかった。しかたなく、いよいよ建物の角から出て近づく。
「すみません、よろしいですか」
「……アオキさん」
 ようやくチリ含めた3人が、アオキの存在に気がついた。一切の興味を抱かれなかった前回とは打って変わって、即座に、チリ以外の4つの瞳もこちらに向く。おっさん何? と男性のほうが尖った声を上げる。こっちが聞きたい。
「……こちらは、関係者以外立ち入り禁止になるので」
「は?」
「うちの職員とのトラブルなら、一旦警備の方を交えてお話しましょう」
 努めて、冷静にそういう旨を伝えると現実的な言葉に怯んだのか、登場人物が増えることを恐れたのか、男性は舌打ちしてそのまま去っていってしまった。追うようにして、けれどチリを名残惜しそうに一目見て、女性も走り去る。
「……」
「大丈夫ですか」
 にじり寄られるまま壁にもたれていたチリが身を起こし、 アオキの足元をうろうろしていたウパーをスムーズな動作で抱え上げた。
「すいません、助かりました」
「その方がこちらまで案内してくれたので」
 チリはほんまに、と眦を下げた。ありがとうの言葉とともに、ボールを取り出し迎え入れる。
 事態は一段落したようだし、残っていても仕方がない。とはいえ帰る前に表にいる警備員に話は通しておくべきかもしれない。どうしようかとアオキが考えていると、チリが今度は穏やかでない雰囲気で、さっきの兄ちゃんな、と口の端を歪めた。
「彼女がチリちゃんにかまけすぎて別れそうやからって、ここまで突撃してきてんて」
 知ったこっちゃないそんなん、と低く唸り、チリは裏口のわずかな段差に腰を下ろした。長い脚が乱暴に組まれる。どこか自暴自棄な空気を感じて、アオキは、なぜか頭で考える前に口を開いてしまっていた。本当に珍しいことだった。
「正直あまり、首を突っ込みたくはないと思っていたのですが」
「正直すぎるって」
「……」
「……なんですか?」
「やはり、素性がわからない方と接触するこのやり方は、危険だと思います。」
 人払いの説明を受けた際からずっと感じていたことだったからか、思いの外すらすらと言葉が出てくる。一方チリはアオキを見て、は、と息が吐いた。
「何やろ、らしないこと言いますね」
「らしない……?」
「なんで忠告しようなんて思ったんです?」
「それは、」
「私が自分より背ぇ低いから? カラが小さいから?」
 だから仕事の人にはよう頼まんねん。苦々しく落ちた思わぬ方向性の言葉に、何も返すことができなかった。固まるアオキに向かって険しく暗い目が刺すように細められる。
「なまじっか普段を知ってる分、余計なこと言うてくるやろ」
「チリさん」
「こないだから言うてるでしょ、それやったらアオキさんがさっきの娘の代わりやってくださいよ」
「……」
「……冗談です」
 助けてくれはったんはありがとうございました。頭を下げると、チリは足を解いて立ち上がり、建物の中に戻っていった。
 まるでさっきまで自分を詰っていた彼らと変わらないとでもいいたげな視線に対して、アオキは怒りや悲しみより驚きを強く持っていた。そして同時に、納得感もある。言葉も行動も、確かにおせっかいが過ぎていた。自分にはとても想像がつかないから距離を置こうと、ちょっと前に思ったばかりだったのに。
まるで助言をするように上から喋ってしまったのは反省した方がいい。明日からはまたいつもどおりにしよう。再び鞄の柄を持ち直し、まっすぐ帰宅することにした。

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「すいませんでした!」
「うわ」
 翌日の朝、コートの隣に位置する四天王の控室まで赴くと、既にチリの姿があった。勢いよく下げられた頭に慄いているとそのままの姿勢で謝罪が続けられる。アオキはまた挨拶すらできなかった。
「負けが込んでポピーに全部尻拭いさせてもうて、急に知らん男に押しかけられて、自分で対処もようようできんくて、それで、全部自分のせいやのに、アオキさんに当たってまいました」
「……あの、」
「らしくないとか、知ったような口まで聞いてもうて、ほんまにすいません!」
「チリさん」
 文章の区切りで呼びかけをようやく挟み込む。低い姿勢のまま顔がこちらを向いた。昨日の冷たい印象とは異なり、アオキが想像していたよりずっと申し訳無さそうな表情だったので、少し意外に思う。
「もう、大丈夫です」
「でも助けてくれた人に、あんまりな態度やったから」
「自分も出過ぎた真似でしたし、」
「そんなわけないやろ!」
 とても自分では出せない声量で返されて、思わずのけぞった。アオキの反応を見てか、すみません、と今度は幾分小さい声で謝られる。
「出過ぎた真似やないし、だったとしても、そんなんアオキさんに失礼言っていい理由にはならへん」
「……わかりました」
 お詫びを受け取りながら、アオキは頭の片隅で、こうした誠実さも人に好かれる理由なのだろうとなんとなく思っていた。普段の軽やかな振る舞いと、面接での厳かな空気と、昨日のような怜悧な受け答えと。そのすべてが鮮烈な感情表現の中で違和感なく発露されているのだと、考えを改める。周囲にとっても、見ていて気持ちがいいのかもしれない。再三営業職でメリハリをつけろと注意されてきたが、これは一朝一夕で身につくスキルなどではないだろう。
 とはいえ、とも思う。
「なら、初めに見かけた時点でフォローすべきだったかもしれませんね」
「え?」
「確かにチリさんは軽薄な雰囲気ではありますが」
「そんなふうに思ってたん?」
「けれど、人払いといって見ず知らずの人間に帰宅の同行を頼むのは、やはりあまり正常な判断でないように思います。よっぽど疲弊していたのではないかと……」
 かといって、アオキに問題自体を解決する力は残念ながらない。だとするならば、せめて、上司へのエスカレーションをチリに促すべきだったのではないか。助言できるタイミングがあったのだから。齟齬が生じないようになるだけ丁寧にその旨を話すと、なんでアオキさんが反省するんすか、とチリは眉を潜めた。思わぬ言葉だったらしい。
「ほんまに、チリちゃんが悪い話やのに」
 怪訝な言い回しに牽制するように、あなたが女性だからとかではないです、とアオキは念を押す。
「自分はあなたの同僚なので」
「……」
「あなたがどんな人となりでどんな容姿をしていても、同じように思う、はずです」
 仕事の人に迷惑をかけるのは違う、と言っていたが、それで昨日のようなトラブルに巻き込まれてしまうのでは本末転倒だ。結果的にもっと迷惑をかけることにだってなる。第一、帰宅時間をずらすように業務を調整したり、タクシーを間近まで手配することだって、例えばあの上司の手にかかれば簡単なはずだから。
「なんなら、昨日は冗談と仰っていましたが、やりますよ」
 必要とされるならば昨日の女性の代わりだって。静かに告げるとチリはしばらく押し黙り、それからふてくされるように唇を尖らせた。一言低い声で、ずる、と呟く。
「そんなん言われたらほんまに肝心なとき甘えますけど」
「どうぞ」
「絶対面倒って思いそうやけどなぁ」
「内心はそうかもしれないですが……、ほどほどであれば構いません」
 大人ですから、と添えたところで、最初の挑戦者が到着したとスマホロトムが数度震えた。

5
 そんなやりとりがあってから、チリと会話をすることが少し増えた。
「アオキさぁん、何してるんです?」
「……チリさん」
「昼食べました? あれやったら一緒に行きません?」
 人だかりの中心から声をかけられるのも、1人でいるところに押しかけられるのも毎度毎度大変迷惑ではあったが、わざわざ言うほどのことでもなく、あるいはもしかしたらこれが人払いになっている可能性もと考えると応答せざるを得なかった。
 ただし、バレンタインデーの頃などとは違って、アオキもチリとの交流に居心地の悪さや違和感を感じることがなくなっていた。あれらの1件によって、ばらばらで不明瞭に見えていたチリの在り方に、なんとなく1つのまとまりを見出すことができるようになったからではないか、とアオキは見当をつけている。

 数ヶ月後、業務を終えて1人で帰ろうとしていると、今日は中央玄関の方にチリが立っていた。
「お疲れ様です、チリさん」
「ああ、おつかれさんです」
「どうしてここに、なんて聞くまでもないですね」
 軒先の向こうは近くの山並みすら見えないほどの猛烈な雨だった。季節も過ぎた夏の盛り、最近は数日振ったり止んだりの天気が続いていたものの、ここまでの気候はなかなかない。
「流石にこん中を丸腰で帰るんは厳しいなぁって」
「傘は」
「ついさっきまで小降りやったから、席が隣の後輩にかっこつけて貸してもうたんよ」
「なるほど……」
 その様は容易に想像できた。日がなモテすぎて困るわなどと自分で言う割に、根っこの部分の引力を隠しきれていない。勝手に納得しているアオキの横で、しゃあないしタクシー乗り場まで走って行こかな思てたんですけど、と話は続いていた。
「着く頃にはびっしゃびしゃなりそうで怯んでもうて」
「まあ、そうでしょうね……」
「手持ちらが傘になってくれようゆうて出てきたりでてんやわんややったんです」
 とはいえじめんタイプの彼らを風雨に晒してしまうのは気が引けるのだろう。自分たちのようにやわでないことなどは承知の上で。おおよその事情を理解したアオキは、右手に持っていたものを差し出した。
「使ってください」
「え、他に置き傘とかあります?」
「いえ」
 案の定入ったツッコミに鞄があります、と返すと何のフォローにもなってへんと肩を竦められてしまった。
「アオキさんがびしょ濡れなるだけやんか」
「自分が濡れたところで今更誰も困りません」
「そんなん言い出したらチリちゃんが濡れても一緒やろ」
「では」
「ちょっ、待たんかい!」
 無理やり押し付けて振り切り走り出そうとしたものの、さほど変わらないリーチのせいか勢いよく腕をひっ捕まえられる。存外強い力にやむなく振り向くと、なら、と提案が飛んできた。
「一緒に入りましょう」
「いやそれは……」
「そもそも自分の傘やないのにこんなん言うの、変やけど」
 2人で傘に入って乗り場まで行けば2人とも濡れない、と、そういうことが言いたいらしい。けれど、ではそうしましょうと気安く受け入れることはアオキにはできなかった。
「2人入るには小さいです」
「こんないかにもおっさん用デザインの傘が小さいわけあるかい」
「ですが……」
「……何で渋ってます?」
「……」
 答えに窮して目を逸した先に、チリが上半身を折り曲げるようにして入り込んでくる。はああ、と大きくため息を吐かれた。
「別に思春期でもないねんから、相合傘くらいなんでもないやんか」
 その主張をされた時点で詰みだった。これ以上頑なに首を振らないものなら、却って下心があるように思われかねない。残念ながら降参する他なかった。
 一度はチリの手に渡った傘を受け取り、外に向かって開く。指摘された通り、多少身を寄せれば2人入ることができるくらいの大きさだ。ただ、当然身を寄せることなんてしていいはずがないので、気が付かれない程度にアオキは外にはみだした。鞄の影に入ろうとするよりは幾分マシだから構わない。
 数歩進んだところで、アオキさん毎回いいタイミングで来てまうから、とチリが口を開いた。
「お世話になりっぱなしやなぁ」
「……機を狙っているわけでは」
「そら、自分に限ってそんなことないやろ」
 アオキ側にもよく居合わせている自覚があったため、思わず不要な弁解もしてしまう。そんな逡巡を知ってか知らずか、ハッサクさん代わりに呼んだって返しきれる恩でもないなぁ、とチリは芝居がかった調子で腕を組んだ。そんな大したことをしたつもりはない。
「今日はおひとりだったんですね」
「……あー、それ聞きます?」
「気に障ってしまったらすみません」
「まさか……、てか、アオキさんには報告しとくべきやし」
 咳払いの後、やめました、と、豪雨の中でもはっきり聞こえる声でチリは言った。視線はまっすぐ前を向いたまま。
「あんなことなるんやったら、まだ好意的な出待ちとかがおる方が楽やわ」
「それは自分には共感できませんが……」
 チリと同様、雨で白んだ進行方向を見つつアオキが言うと、代わり頼むとかは言葉のあやなんで心配せんといてください、と笑われる。
「でも意外やったな、あんなふうに言うてくれるなんて」
「あんなふう?」
「……、まあええんねんけど」
 案外押し付けられてるんやなくて自分で仕事引き受けてんちゃいます、などととんでもないことを言うのには、勘弁ほしいと首を振った。あのとんでもない上司に告げ口でもされたら敵わない。
「にしても、」
 アオキの反応を見て愉快そうにしていたチリが声のトーンを落としてぽつりと零した。
「これまでの人生、あんまり同じところにとどまってこんかったから、なんやろうな、1つ1つの関係とかもっと大事にせなあかんなーって思いました」
 同僚という立場でありながら、チリという人間をやはりアオキはよく知らない。
 知らない、などと言いつつも、とりわけすぐれたじめんポケモントレーナーであること、事務処理から交渉まで手広く得意なこと、故に周囲の同僚から厚く信頼されていること、に加えて、チリがパルデアでない他所の地方からやってきたということも、アオキはかろうじて把握していた。と言っても、そんな偉そうなものではなく、強く残る訛りについて他人が話していたのを漏れ聞いただけだ。
「私好きなんよ。年齢も肩書も出自も問われない、実力があれば認めてもらえるこの環境」
「チリさんらしいです」
 口にしてから、知ったようなことを言った、とチリに謝られたことを思い出す。無意識にやり返すようなことをしてしまった。徐々に慌てだしたアオキにチリは、別にいいですよ、とますます笑った。再三指摘される希薄な表情から、何を思ったのか読み取ってくれたらしい。
「パワハラとかにはなってないんで、今んところ」
「以降気をつけます」
「だから別にええねんてば」
 呆れたように、とん、と近い方の肩を小突かれたところで、やっと乗り場の屋根にたどり着いた。行列こそないものの、今停車しているタクシーは1台だけだったので、1人はもう少しここで待たなければいけないようだった。変わらず雨は強く降っている。
「傘、降りてからも使われますか」
「や、家に直で帰るんで大丈夫です」
 断りの言葉に、せめての思いで先を譲ると、嫌や! と露骨すぎる拒絶があった。
「年功序列やろ、こういうんは」
「……」
「おっさん扱いしたわけちゃうで」
「先程傘がおっさん用デザインと言及がありましたが」
「あー、……言うてもうたなぁ」
「……」
「わかったわかった! じゃあ、お言葉に甘えます」
 意外と根に持つタイプなんかい、と苦笑いして、チリはタクシーに乗り込んだ。扉が閉められる間際、アオキさん、と改めてよく通る声で呼びかけられる。
「めっちゃ助かりました。おおきに」
 飛んでいくタクシーの影を見ながらアオキは、チリはパルデアリーグに就職するに至るまで、どのような生活を送ってきたのだろうと考えていた。それこそ、いよいよ自分の想像では及ばないものなのかもしれない。特に未来へのビジョンもなく、なんとなくパルデアの地に根を張るつもりの自分では。
 でも、だからこそ、彼女にとって今の環境がよいものであるならよかったと、素直に思えていた。それはどちらかといえば、安堵に近い心の動きである。

6
 次の次の日。昼休憩を終え座席に戻ろうとする道中、突如進む先に割って入ってくる影があった。何事かと思って顔をあげるとハッサクである。相変わらず眼力が強い。
「アオキ、少しよろしいですか」
「……なんですか」
「ここでは少し憚られるので、移動しましょう」
 大音声に連れられるまま比較的人の少ない廊下に出ると、本来あまり詮索するのもよくないことです、と妙な前置きをされた。心当たりは無い。
「受け持っている生徒が、チリと相合傘で歩いているのを見たそうです」
 別に思春期でもないねんから、というチリの声が脳内でリピートされた。思春期ではないから提案を了承したが、そっくりそのまま、思春期からみたら騒ぎの対象だったらしい。その生徒は一応初めに小生のところへ教えに来てくれました、と渋い顔をされる。が、自分の方がもっと渋い顔をしている自信があった。
「随分遅い時間まで外をうろうろと」
「その点については小生も思ったので学内で相談済みです」
「そうですか」
「……事実なんですね」
「お言葉ですが、その生徒が思ったような関係ではないですし、断じて、下心もないです」
 言い切るアオキの様子を見て、ハッサクはやれやれと眉間を押さえた。疑ってもいないですし、と先程までに比べて穏やかな声色で続けられる。
「何かあったとて、正直構いませんです」
 しかし、と、不自然に言葉が止まった。ハッサクにしては珍しく、何を言うべきか迷っているようだった。
「……どういった懸念をされているか知りませんが、杞憂です」
「ええ、そうでしょう」
 あなたたちのそういうところが信頼されているのだと小生も理解はしていますです、なんて漠然と呟かれた。自分に言い聞かせているようにも見える。もう一回昼休憩を取りたい、とアオキは既に意識を遠くに飛ばしていた。

7
 その日はチャンプルジムの視察で、チリが新しく配属になったリーグ職員を2人連れてやってきていた。せっかくチャンプルタウンまで来たのに食事を取る余裕もないらしく、次来たときこそは、と物々しい顔を作って嘆いている。
「アオキさんこのあとって直帰なん?」
「いえ、リーグに寄ります」
「ほんならタクシー呼ぶんで、一緒に行きましょうよ」
 訝しむ暇もないほどのスマートな誘いだった。断る理由もないように思えたので、相乗りさせてもらうことにする。

「なんか、新鮮やなぁ」
 視察行程を終え、リーグへ向かう最中だった。職員たちを先に行かせてから、自分たちも同様に乗り込んでいる。月の昇り始めを確認できるような時間だった。
「新鮮?」
「視察で行っても、今までアオキさんろくすっぽ対応してくれんかったやんか」
「その節は……」
 ジムリーダーがリーグ職員であるため、チャンプルジムの視察はどうしても他に比べて形式的になりがちだ。だから相応にアオキも手を抜いていたことは否めない。身を竦めたアオキに、次おすすめの店紹介してくれたら不問にしますんで、とチリは口角を緩めた。
 その後もいくらか仕事の話をしたところで、全然話変わるんやけど、と声を潜められる。他人に聞かれてまずい機密ならちょっと、と思ったが、予想外の台詞が続いた。
「恋バナしてもええ?」
「遠慮します」
「なんで!?」
「……面倒には巻き込まれたくないので」
 外の景色に視線を移しながら答えると、そういうんと違うねんて、と身体を揺すられた。実のところ、ここまで長時間近い距離にいることは珍しく、アオキは内心気が気でなかった。
「そういう、具体的な話じゃないから」
「どうだか」
「疑ってる間に話してまうけどな、」
 あんましっくりくることがないねん、恋だの愛だのいうやつ。滅茶苦茶な切り出し方の割にのんびりとした口調でチリが言う。アオキが向き直ると、裏に待たせてた人らにもな、と続けられた。
「わかりやすい関係になってほしい、とか、そういうのも結構言われてんけど」
「……」
「でも、なんか息苦しそうやし、全部断ってもうたわ」
 昨年のバレンタインデーで偶然見てしまった表情を思い出す。まるで理解ができないとでもいうような素振りで、自分に向けられたたくさんの好意を前に立ち尽くしていた。
「アオキさんって、あれ、既婚者やっけ」
「いいえ」
 予定もないです、と付け足せばチリは、そんな淡々と、と上半身を折り曲げた。そこまで面白いことを言ったつもりもない。が、実際相手が同世代だと深刻に受け取られがちな話題でもあるため、面白がってもらえるなら助かるというのが本音だった。
「仕事が忙しいことを盾に、去っていく人を追いかけもしない、というのを何度かやってしまったので、……もういいんです」
「アオキさんの場合、仕事の量は正当な理由の感じするけど」
「改善しようという気も起こさなかったので」
「仕事と私どっちがーってやつや」
 わかるけどな、などとチリは言ってくれたが、状況こそ同じでも、自分は厄介なトラブルに見舞われることもなく、波風立たず今に至っているだけだ。なんからしいわぁ、と顎に指を添えるだけで様になってしまうチリとは大きく異なっている。
「今気づいたんやけど、さっきの質問ってセクハラなる?」
「どうでしょう……、念のため自分以外にはやめた方がいいかもしれません」
「や、そうやなくて、」
 彫刻のような指が再びアオキの肩に触れようとして、一瞬の間が空き、結局はチリのポケットに収まっていった。困ったように眉を下げてから、今はアオキさんの話してんねんけどなぁ、と唇を噛んだ。
「アオキさんがどうかを聞いてるんで、嫌やったら言うてください」
「……平気ですよ、本当に」
 随分しおらしい様に思えたので、アオキはアオキで戸惑っていた。語弊を恐れないのならば、リーグでの勤務でここまで気を遣われたことはない、と言い切っても過言ではなかった。幸か不幸か心身ともにある程度頑丈にできているので、それに見合った扱いをされがちである。できるかどうかは置いておいて、よっぽどでない限りやりきれてはしまう、という。
「てか、またらしいとか決めつけてしゃべってもうたし、すいません」
「あながち間違っていないのでなんとも……」
「ならええねんけど」
「それに自分も、似たようなことをあなたにしていないか、心配があります」
 あなたも嫌なことがあったら言ってください、と再度窓の外に目を遣りながら言うと、ポケットの中で手のひらを動かしていたチリが、勘弁してぇや、とうなだれた。ポニーテールの先が宙を彷徨い、最終的にアオキの膝にかかる。
「これ以上何の文句があんねん」
 前髪が下りていることで表情こそわからなかったが、小さく笑っているらしかった。声小さいことと覇気がないことくらいやろ、と景気よく苦情が並べ連ねられる。
「話しやすい相手失うんは痛いから、勝手に身ぃ引くとかなしやで」
「どのみちこれ以上踏み込んだ相談には乗れないですが……、大した経験もしていないので」
「ようよう覚えておきます」
 窓に映るのは、尖った端正な面差しだ。視線に気がついたのかこちらを向くので窓越しに目が合ってしまう。どうしてか逸らすことができず、暫く膠着してから、チリは難しいなぁと微笑んだ。言葉が何を指しているのかわからなかったが、問いかける前に話題は仕事に戻っていった。

8
 今年もバレンタインデーがやってくる。
 そもそもの話をすれば、とうに義理チョコの制度も撤廃されているこの場所で、バレンタインデーはさして大きなイベントではない。にも関わらず、例年チリに近づこうと侵入を試みる人間は後を絶たなかった。組織内の事情など知ったことではないだろうから仕方ないのかもしれないが。
 いわゆる人払いをやめたことが影響しているのか、前日までに面接を希望している人数だけでも今年はかなり多いように見えた。真剣に挑戦しようという人々には悪いが、これでは仕事にならない。対策がどうしても必要だった。
 そんなわけで紆余曲折あり、何故か面接官代理のお鉢がアオキまで回ってきた。小生でもよかったですが、と、トップからの指令を伝えるだけ伝えて、ハッサクが言う。
「できる限り、生徒たちとは関わりの薄いひとに任せたいそうですよ」
「理屈だけはわかります」
「理屈だけ、とはなんですか!」
 当日、チリに会えるだろうとうきうきで訪れた挑戦者が、扉をくぐった時点でのきなみ絶望していくのは非常に申し訳無かった。こっちだって憂鬱だと主張するわけにもいかず、普段張り詰めた空気の部屋は、全体的にどこか淀んでいたように思う。
 退室時にせめてこれだけでも、と強く差し入れを渡してくるところまでお断りした。正々堂々挑むようあとでハッサクに伝えてもらおう、と考える。面接とその後のフィードバックまで終え、珍しく定時退社の準備を整えていると、部屋の扉が開いた。
「おつかれさんです」
「ええ、非常に」
「だからぁ、申し訳無いとは思ってますって」
 チリちゃんに人気がありすぎるばっかりに、とのたまう横を通り過ぎようとすると、あ、とチリが何か思い当たったように声を上げた。
「バレンタインデー買うてくればよかったですね」
「チョコレートですか?」
「そういう文化がずっとなくて」
「……?」
「アオキさんかて、横流しは嫌やろ?」
 開いた扉にもたれかかりながら、茶化すようにチリが問いかけた。どうやら去年といい今年といい、アオキが大量のチョコレートを羨んでいるように見えているらしい。実のところ、その見立ては半分だけ合っている。正確には甘い匂いにつられて空腹は感じるものの、チョコレート自体がどうしても大量に食べたいということではなかった。それに、とアオキは思う。
「あなたから抜け駆けでいただくなんて、いよいよ学生たちの恨みを買います」
「そんなん別にええやん」
 もっともらしい意見のつもりで言ったのに、チリは悪い笑みで返すばかりだった。いいわけない。チリとしては、こういった贈り物の類はもう少しそつなくやりたかったというが、現物が差し出される前に断ることができてよかった、とアオキは考えていた。
「要領のよさがチリちゃんのいいとこなはずやのに、調子出んなぁ」
「そんな要領は今後も出さなくていいです」
「まあバレンタインってなるとお返しとかもややこしいし、だから、」
「だから?」
 不意に緩やかになった口調にアオキが首を傾げると、ずっと壁に体重を預けていたチリがすっと姿勢を直して向き直った。代わりに今度、仕事終わり飯行きません? と何気ない誘いが向けられる。
「ほら昔奢るって言うたのに、反故にしてもうてたから」
 確かに以前裏口でそんな話があったかもしれない。ただ自分も忘れてしまっていたので、随分律儀なことにアオキは驚く。
「全然、嫌やったらよくて」
「行きましょう」
「え、ほんまに?」

 1週間後、定時後にチリが予約していたのはテーブルシティのレストランだった。個室に案内されたのには怯んだが、チリちゃんとバレンタインデー直後に食事してんの見られたら恨み買うで、という言葉がまったくその通りだったのでアオキは大人しく席についた。相合い傘の例もある。自分への恨みで済めばいいが、チリに迷惑をかけるは避けたい。
「適当に頼んでもうてください、大船に乗ったつもりで」
「その件についてですが……」
 チリが机に立てかけられていたメニューを手渡してきたところで、アオキはずっと引っかかっていた部分について切り出した。年下でとか、同僚でとか、そういった点以前に、アオキは奢られるのがあまり得意でない。奢られるならいっそ奢る方が(場合にもよるが)マシかもしれない。それは、最初に与える印象に反して自分がよく食べることを自覚しているからであり、自覚するに至るまでの間にそれなりの苦労があったからだ。
「そんな食べます?」
「そんな食べます」
 思えばチリと面と向かって食事を取るのは、彼女の歓迎会と称された飲み会以来かもしれない。そういった場ではそもそも1人1人に割り当てられる食事の量などたかが知れている。食べることが好き、というイメージはあっても、大食いには結びつかないのだろう。
 気を使って十分に食べられない、という旨を素直に主張すると、チリは思ったよりあっさりと、ならしゃあないですね、と飲んでくれた。それぞれの妥協点として割り勘になったところでようやくメニューを開く。
「ところでアオキさんここ来たことあります?」
「何回か、片手で数えられるほどですね」
「じゃあチリちゃんのが来てるわ」
 チリがおすすめ何品かを選んだ段階で店員を呼び、それらと酒を頼み、あとはアオキが気になるメニューをひとしきり指さしていった。店員が去った後にチリの方を見ると、明らかに唖然としている。割り勘にして正解だった。
「今日は、誘ってくださってありがとうございました」
「いやいや、そんなん。仕事大丈夫やったんですか」
 まさかこの後戻るとか言わないですよね、と可能性に気がついたチリが顔色を変えたが、流石のアオキでもその予定はなかった。
「あまり私用のために業務を調整することがないので、特別感があります」
「確かに、そんなアオキさん見たことないなぁ」
 明日以降にしわ寄せ言ったら責任取って手伝いますんで、と気安く零してチリは笑った。現実問題そんなことができるかは置いておいて、不思議と頼もしい一言だった。
 いざ机に皿が並び食べ始めると、基本的にチリはアオキの食べる様を見ながらグラスを煽るばかりだった。聞けば、注文のときは本当に食べ切れるのか半信半疑だったらしい。
「今まで知り合った中で1番よう食べる人かもしれんなぁ」
「不快に思いました?」
 はっとして燻した魚を切る手を止めたアオキに、チリは今さらやなぁと苦笑を浮かべる。
「全然不快なことないですよ。めっちゃ太ってるわけでもないのに、どこ入ってんねんってなってるくらいで」
「安心しました」
「待って、また見た目がどうとか言うてもうた」
「問題ないです」
「はああ、チリちゃんそういうん言われすぎて感覚おかしなってるかも」
 でもアオキさんはあんま言わんね、とチリはしばらく手元でくるくる回していたグラスを置いて、まっすぐ視線をこちらに寄越した。
「そうでしょうか」
「あんまし好みちゃう?」
 酔っ払っているのかとも思ったが、見たところまだまだチリはしっかりしている。つまり、至って理性的な思考に基づいた問いかけだった。見た目がどうとかの話よりよっぽど危ない発言にも思えたが、ひとまずその感想は口に出さないと決めておく。何が危険なのかと切り返される可能性があるからだ。その上で、否定することも肯定することもできない隘路のような質問に、途方に暮れる。
「かなり表現を選ばず答えると、」
「……なに?」
「あなたは、そのように外見に触れられることを、あまりよく思っていないんじゃないかと」
「……チリちゃん結構自分から言ってんで」
 的外れな思い込みだったのか、チリは眉間に皺を寄せた。自分でもあまり根拠のない言説という認識はあったため、それもそうですねと早々に引き下がる。ほんま変わったこと言うなぁ、と表情を崩してくれたのが幸いだった。
 次から次へと料理が運ばれてきたため、暫くはあっちを食べては美味いと言い、こっちを食べては美味いと言うような、チリにとってはさぞかし退屈だろう時間が続いていた。が、当の本人が、アオキのありふれた感想を聞くたびによかったです、だの、口に合って何より、だのまるで自分が作ったような顔をして杯を空にしていたので、一旦は気にしないでおく。どうやらかなり酒に強いらしいが、チリ自身がそれを語ることはなかった。
「アオキさん」
 最初の注文が揃って、そろそろ追加で何か頼むかと考えだしたあたりでチリが声を潜めてこちらに向いた。この流れ、アオキには覚えがある。
「なんでしょう」
「恋バナ聞いてくれへん?」
「……抽象的な話ですか」
 話が早いアオキに、チリはおお、と感心したように声を上げてから、どうやろうなぁ、と腕を組んだ。
「こないだよりは、ちょーっとだけ具体的かもしれん」
「なら、自分より話すにふさわしい方がたくさんいるかと」
「適当に聞き流してくれるひとがちょうどええねんて!」
 流石に入店時と比べれば赤い顔をしているチリが、机の下で長い脚を組み替える。靴の端がアオキの椅子の脚に軽くぶつかった。おねがい、と頼み込むようなポーズまでされて、結局どうぞと言ってしまった。アオキはアオキで定時退社からの美味しい食事、という流れで、少しばかり浮かれていたのかもしれない。助かるわぁ、と目の前で姿勢が正された。
「前に、恋だの愛だの、しっくりけぇへんって話したやんか」
「ありましたね」
「実は、今、このひとならええかなっていうひとがおって」
 予期せぬ言葉に、それまで皿の上に目をやっていたアオキも顔を上げた。視線の先では、これまで見たことのない、どこか緊張したような面持ちのチリが落ち着きなくグラスの柄を触っている。
「それは、」
「たった数ヶ月で何を、って感じやけどな」
 アオキは驚いていた。チリの言葉自体にも、そして、それを聞いて、まるで地面が抜けるような心持ちになっている自分にも。突然、鏡を突きつけられたようだった。
「なるほど……」
「……アオキさん?」
「ええっと、どういった方なんですか」
 そんなこと本音でも建前でも聞かない方がいいに決まっている、と頭では思っているのに、まるで混乱しているのか、口から意図しない問いが落っこちていった。
「どういった方、かぁ」
「……」
「なんか、よくわからんひと」
「気になる人なのに?」
「うん、そんで、なんやろうな、知りたくなるようなひと」
 恋だの、愛だのが、そういう心の動きのことやったらええなって思ってん。
 チリの言葉に、アオキは合点がいっていた。確かにそうなのかもしれない。チリという人間を、アオキはよく知らない、が、いつからか知りたいと思うようになっていた。それで、仕事を調整して、こんなところまで来てしまった。迷惑をかけたくないのなら、そもそも誘いに応じなければいい話なのに。数ヶ月前の約束など、適当にはぐらかしてしまえばいいだけなのに。
 この場所にいることが、全てを詳らかにしているようだった。アオキさん、とまた呼びかけられる。いつもより、酒で綻んだ声。
「アオキさんは、どう思います?」
 あまりにも浅はかで、ふさわしくない感情をいつの間にか自分が抱いていたこと。その事実はあまりに衝撃で、それが、とうに叶わぬものになっていたこと以上に暴力的だった。
「……あまり、無責任なことは言えないですが、」
 どうにかあらゆる感情が滲まないように絞り出した、応援しています、という陳腐な返しは、果たしてチリにどう聞こえたのだろうか。ゆっくりと目が見開かれていって、それから声を上げて笑われる。
「そっかぁ、おおきにな」

 大抵はシニカルに細められた赤い瞳を思い浮かべながら、知ったような口をきいてしまって、と謝られた過去を思い出す。曖昧だった彼女の像が、いつの間にか自分の中で結びついていると、そんな気になっていた。思い込むこと、レッテルを貼ること。それは何よりもチリ自身が忌避する行為のはずなのに。無自覚にわかった気になって、挙げ句、近づこうとしていた。
「恋だの、愛だの……、」
 チリが尊重されるのであれば、それで問題はない。気にすること自体、もはや余計なお世話だろう。まして大人であること、先輩であることにかこつけて、彼女の信頼を利用しようとしていた自分には。
 チリと別れ、レストランから帰路についていたアオキが決めたことは2つあった。これ以上近づかないこと。裏口で出会う前の、適切な距離に戻ること。

9
 それからも、チリがそれらしき人物と落ち合っているところを目にすることはなかったが、もはやアオキには関係ない話だった。今までどおり、四天王の仕事があるときにだけ顔を合わせ、必要な話をいくらかする。案の定、それだけで何も問題はなかった。

 その日はリーグ内での引っ越しに伴い、アオキも掃除をさせられていた。自分がいる居室に入れ替わりはないものの、せっかくの機会だから古い備品の整理をしようと、そんな流れになってしまったからである。とはいえ整頓になんの知見もないアオキは、壊れた備品を外に持ち出す仕事とこのペーパーレスの時代にあるまじき大量の書類を保管庫まで運ぶ仕事を延々と引き受けるようにしていた。疲れはするが、自分のペースでやれるだろうという算段で。
 何往復かの後に手をつけたのは封筒の山だった。もともと積んであったものをそのまま運びだした、はいいが、高く積まれすぎていて足元しか見えない。初歩的な過ちを犯していたことに、気がついたのは数歩進んでからだった。誰かに手伝ってもらうべきだったと思ったがもう遅く、手が塞がっている以上モンスターボールも取り出せない。
 仕方なく危ない足取りで廊下を進んでいると、前から、姿こそ見えないが足音が聞こえてきた。迷いのない歩調の時点で、おおかた誰なのか予想できてしまい気が重い。アオキ、という簡潔な呼びかけが廊下に響く。見える範囲に、装飾のついた豪奢な靴が入り込んでくる。
「今いいですか」
「いいように見えますか」
「聞こえているなら十分です」
 相変わらずどうしようもなく勝手だ。これ以上反駁したところで聞く耳を持たれないことは明らかなので沈黙する。今から私の意見を話しますが、と前後の文脈が一切読み取れない切り出し方をされた。
「公私混同しないのであれば、構いません」
「……何の話です」
「はぐらかす必要はないですよ、前例もあります」
「だから、何の話ですか」
 アオキが2度聞き返したタイミングで、ずっとよたよたとした歩みに付き合っていたオモダカが、ぴたりと脚を止めた。別についてこられずとも結構だが、相手が相手なので残念ながら自分も止まらざるを得ない。どこまでもこの人の言いなりか、と不自然な姿勢で次の言葉を待っていると、アオキ、と再び名前を呼ばれた。
「ほんとうにわかっていないのですか」
 あくまで声色で判断することしか今のアオキにはできないが、今の言葉は責める意図すら滲んでいない単純な呆れによるもののようだった。嘘をついても仕方がないので、わかりません、と返したが、反応がない。
「それで、どういった用ですか」
「……相変わらず、ぼんやりしていますねあなたは」
「はあ……」
 アオキを置いて、その分なら問題ないのでしょうね、と独り言を呟いている。
「あなたたちのそういうところを、私は信頼しています」
「あなたたち?」
 アオキが聞き返しつつ、どうにかいい体勢を見つけて顔を出すころには、オモダカはもうとっくに背中を向けて歩きだしていた。呼び止めればより面倒な仕事を任せられかねないので、問いかけの言葉はなかったことにする。
 忙しいだろうに、わざわざどうしてここまで来たのだろう。あなたたち、信頼、と単語を並べると、少し前に似たようなことをどこかで言われた気がした。が、どうにも思い出せず、抱えた荷物の重さに思考は塗り替えられていった。

10
 年度末に差し掛かったリーグは当然慌ただしい。特に、学期が切り替わる前にバッチ取得やリーグ制覇を狙う生徒が多く、必然的にアオキは行ったり来たりの生活となる。バトルに押し出され時間が足りなくなる業務については、ずるずる夜間に伸ばして対応をするしかなかった。なんだかんだ1年で1番忙しいかもしれない。
「アオキさん、今日も遅くまでお疲れ様です」
 切りの良いところまで片付けて、なんとか帰路につこうと建物の中を歩いていると、警備員に声をかけられた。会釈をするアオキに、非常に申し訳なさそうな顔をする。
「自動ドア、点検入っちゃったんですよ。毎年より1ヶ月早くて」
「……ああ」
「どうかしました?」
「いえ、前にもこんなことがあったので」
 あのときもこうして裏口まで回り、そして、チリが見ず知らずの女性と待ち合わせているところに居合わせた。半ば自棄に見える手段を取っていた彼女にも今や好意を寄せるひとがいるわけだが、まさか、その事実を相談してもらえる立場になるとは予想もできなかった。
 それだけで、ずいぶん幸運なことだったのだと思う。そう言い聞かせながら裏口にでると、軒下にちょうど人影があった。
「チリさん?」
「はは、ほんま毎回いいタイミングやなぁ」
 段差の端に堂々足を広げて座っていたチリが、腰を上げ、立ち塞がるようにこちらを向いた。
 タイミングについては、こちらだって思うところがある。ちょうどあなたのことを考えていましたなんて、言えるわけもないけれど。そんな風に気を取られていたために、挨拶も、ここにいる理由の問いかけも遅れてしまい、先に、さっきまでものごっつい雨降っててなぁ、なんてことないように言われた。
「雨、ですか?」
「……、流石にバレるか」
 日中、往来を繰り返していたため、アオキは今日の空には雲ひとつなかったと、確認していた。一瞥してわかる嘘をついたチリが乾いた地面をそっと見つめる。長いまつ毛に月の光が落ち、頬に影を作っていた。
「避けるから、やっぱりあかんよなぁとも思ってんけど」
「避ける?」
「駆け引きみたいなことして、勝手に傷ついてて、おかしいやろ」
 主語なく始まった言葉に首を傾げる。誰も彼も、受け取り手を信用して話をしすぎだ。自分のようによくよく覚えていられない人間のことも少しは考えてほしい、と思ったが、チリはアオキのそんな様子も、視線を地面に向けているために気づかない。
「でもなあなあにしてると、まだチャンスあんのかなとか勘違いしそうやから」
「……」
「潔く、振られにきたったで」
「……誰にですか?」
「え?」
「え?」
 アオキがどうにか口にした疑問をきっかけに、チリはやっと首を上げた。信じられない、とでもいうように目を丸くしている。日頃の鋭い光を湛えた眼差しはそこにはなく、目が大きいな、などとアオキは刹那全く違うことを考えてしまった。が、人差し指の先がこちらに向けられたことで引き戻される。誰にもなにも、と言うチリの声は震えていた。
「……どうしてあなたが自分に振られにくるんです」
「ほんまに?」
「はあ」
「え、ほんまにゆうてる!?」
「そうですね」
 あー、とチリが同じポーズのまま、脱力する。
「好きやからやんか……」
「……、だ、れを誰が」
「チリちゃんが」
「はい」
「アオキさんを」
「……待ってください」
「いや鈍すぎる!」
「鈍いとかではなく」
「ほんまに聞き流してどうすんねん!」
「そうでもなくて、」
 本来震えなければならないのはアオキの方だった。なぜって、意味がわからない。
 チリがいう駆け引きの相手が自分であることも、自分がそれに対してなあなあな態度を見せ、距離を取ろうとしていることも、今から彼女を振ろうとしていることも、現実と何もかも違う。違いすぎる。質問の後に準備していた言葉などすべて吹き飛んでしまった。第一自分はこの間、あなたから相談を受けてようやく、
「ちょお、待て、固まらんといて」
 動きを完全に止めそうになっていたアオキを制したチリが、ええっと、と額に手を置いて仕切り直そうとしていた。つまり振った記憶は無いってことなんよね、などと当たり前のことを尋ねてくる。
「記憶は無いも何も、そんな風には到底……」
「うーん、回りくどすぎたんかなー」
「どういうつもりですか」
 後ずさるアオキに、どういうつもりってこないだ言うたでしょ、とチリが迎え撃つように言葉をかけた。このひとならええかなってひと、のことだった。
「が、アオキさんやねんて」
「どうして」
「それも言ったとおりやで」
 軒先の段差をつま先で軽く蹴って、チリは淡々と口にする。もう少しアオキさんのこと知ってみたいねん、と、アオキさんの考え方のおかげで救われた夜道があるから、と、都合のよすぎる話が繰り広げられる。
「納得してもらえます?」
「、いいえ」
「なんっでやねん!」
「納得なんて、できるはずがないでしょう……!」
 理由なんて簡単だ。そんなはずがないから、の1点に尽きる。自分はあなたにふさわしくない、と半ば捨て鉢で、自白に近い拒絶を吐いた。
「年齢なら、関係ないって意見やで」
「歳ももちろんそうですが、それだけではありません」
 じゃあなに、とチリがもはや呆気にとられた風に零した。こうなったらどのみちすべて明らかになることは避けられない。失うなら四天王の立場からだろうか、などと覚悟してアオキは口を開いた。
「あなたが評価してくださった、やけに先輩らしい言動なんか、仮初めです」
「仮初めだろうが間に合わせだろうが、でけへん人のが多いわ」
「全部、あなたに近づくためでした。これは、信用の問題になります」
「そんなん、悪いと思ってくれただけで十分です。気にしません」
「チリさんが気にするかしないかではなく」
「チリちゃんが気にするかどうかちゃうんかい!」
「……確かに、それはそうですが」
 過去の会話に追いつかれて、アオキは手で顔を覆った。いつのまにか大変な窮地に追い込まれている。簡単な話じゃないかと、開き直ったようなことを言い出す自分も内心にいるから困る。
「ですが、チリさんのような人が自分を、」
「もう……、大人って難しいなぁ」
 好きになるわけがない、と言うことすら憚られ黙り込んだアオキを見て、チリは目を伏せた。
「これ以上、どういう言い訳があればいい?」
 初めて見る寂しげな表情に、アオキは焦った。
 これまでずっと、チリにとってパルデアの土地がよいものであって欲しいと思ってきた。薄っぺらな下心に下支えされていたとしても、願いの形をとっていたそれは、しばらくアオキの心のうちにあったために、いつしか当たり前のものになっていた。
 だからこそ、自分自身がチリにそんな顔をさせている実感は、あらゆるためらいを越えて、乱暴にアオキの背を押す。どん、と音が聞こえた気さえした。
「チリさん」
「……なに?」
「自分は、あなたが好きです」
「……」
「ですがどれだけあなた自身の言葉を聞いても、不相応な感情としか思いません」
 アオキの言い様に、チリは痛みから身かばうように目を眇めた。その様に耐えきれず、アオキは急いで息を吸う。
「ただ、……」
「ただ?」
「ただ、弱い部分や人からは見えない部分は誰にでもあります。自分にも。それを支えたいという気持ちや知ってみたいという気持ちもあります。特に、親しく想う相手になれば、なおさら」
「……うん」
「ごちゃごちゃ言ってしまいましたが」
「うん」
「だから、あと少し、距離を詰めても許されますか」
 許す、という表現をしたこと、もしかしたらチリは卑怯と思うかもしれない。そんな風に思い及ぶより先に、当然やんか、ときれぎれの返事があった。恐る恐る、チリの方に右足、左足の順で踏み出す。大きく手を伸ばさなくとも触れられる距離にはなったが、疲弊した目では、凛とした立ち姿もまだぼやけて映っていた。
「……もう少し、いいですか」
「ええよ」
 さらに1歩進むことで、大雨の最中、傘の柄を挟んで立ったくらいの近さまできた。ようやくその鮮やかな瞳に、自分の姿が映る。平凡で、パッとしない、あまりにも特別じゃない姿。やはり、と思ってアオキが首を振るのとほぼ同時にチリが、待って、と声を上げる。最後の最後までこの時間差に救われていた。
「今余計なこと考えたやろ」
 チリは度々、アオキの人格を決めつけてしまったなどと気にしていたが、やはりそれなりに当たっていたのだった。それは彼女が知ろうとしてくれていたから、などと考える余裕は今のアオキにはない。
「もう、聞かんでええよ」
「……チリさん」
「嫌に思うことはないし、それにたぶん、おんなじ気持ちやから」
 だから分不相応とか、言わんといて、思わんといて。引き攣れたような声が途切れる前に、額が肩口に押し付けられた。そっと腰回りに手が回る感触がある。心臓が壊れたように早く動く。頭が痛い。
「アオキさん、嫌やなかったらその手、どうにかして」
 チリの身体に触れぬよう浮かせていた手のことである。この期に及んで半ば強制力のある言い回しだったのは、最後までアオキに言い訳の隙を与えてくれたからかもしれなかった。諦めてそっと腕を回すと、初めて、その身体が燃えるように熱いことに気がついた。
「みんなこんなことやってんの? 尊敬するわ、ほんま」
「その、……、本当に後悔しませんか」
「ここまでさせておいてもうええって」
「ですが、」
「あー、もう! こういうことやろ?」
「こういうって、」
 しびれを切らした叫びから間髪入れず、ぐいっと、ネクタイの結び目に指が引っ掛けられる。何を、という問いかけが形になることは、そのまま口を塞がれたためになかった。初々しいものにするつもりは更々ないのか、揶揄うように下唇を舌でなぞられたので、やり返すつもりで後頭部に手を回す。角度を変えながら、攻防は頭が痺れるまで続いた。
「は、ええ、急にやる気なるやん」
「……そんなつもりは」
「あー、でも、ここでは、せんほうが良かったかも」
 思わぬ言葉にだから言わんこっちゃないと目の前の肩を掴みそうになったが、そういう意味やなくて、と先手を打たれた。
「チリちゃんの方からやと、背景完全にリーグやねん」
「……」
「まあこの時間に通る人なんかほとんどおらんやろうからそれはええんやけど、なんか、絶対そんなことないのに、トップに見られてる気がして、……ってそんな嫌そうな顔せんでも」
 考えうる限り1番の最悪でしかも何故か共感できる内容だったので、アオキは目眩がした。次はもう少し状況を考えてしましょう、とてきぱきまとめようとしてしまうくらいには嫌な話だった。
「へえ、次がありますか?」
「すみません、調子に乗りました」
「なんでそうなんねん! 私は、なんぼでもしたいのに」
 視界の端で、チリの長い髪がたなびいていた。つくづく信じられないことばかりが起きていた。けれど、頬にあたる夜風が全て現実だと突きつけてくる。心臓はおさまりそうにない。
「やっと受け入れる気ぃなってくれました?」
「……なんていうかどっと疲れて、腹が減ったなと思って」
「結局食い気かい!」
 でも、まあ、ええわと言って、チリは緩やかに瞬きをした。一連の所作に見とれていたアオキに、とびきり、それはもう綺麗な笑顔が向けられる。
「ついでやし1つ知っといてほしいんですけど」
「はい」
「チリちゃんはアオキさんのそういうとこが、好きです」

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コメント

  • Vサイン

    雰囲気が最高です!書いてくださりありがとうございました!

    2023年10月1日
  • げん
    2023年9月18日
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