「アオキさんのことが好きです。恋人として付き合ってください」
過去から現在まで、幾度となく使われてきたありふれた言葉の羅列。それを人間は愛の言葉としてきた。その想いは時に成就し、時に失恋の悲しみを生む。
きっと自分には縁がないと思っていたチリも、気がつけばたった一人の人物に燃えるような恋心を抱いていた。墓場まで持っていくと決めたはずの想いはついに抑えきれず、本人を前に露呈することとなる。その行為を人は、告白と呼ぶ。
自身の気持ちを告白をしてしまえば、もう元の関係には戻れない。それはいい意味でも悪い意味でもだ。同僚という関係性が大きく変わりより近い関係となるか、もしくは関係を示す名称は変わらず、互いに気まずさを感じて今の距離感を手放すことになるか。それぐらい強大な力を持つからこそ、チリはどが付くほどストレートにその言葉を放った。今までこういった感情に縁がなかった顔を鑑みると、もうこの先これ以上の恋はできない。一世一代。まさにその言葉がぴったりであった。
きっと、見かけ上は落ち着き払って見えているのだろう。社会人としてそれなりに場数は踏んできたし、顔色を伺われないことはバトルに強くなるための秘訣の一つでもある。ポーカーフェイスにも自信があった。
だが、心臓は不整脈を疑うくらいにドキドキしていて、鼓動の音が相手にも伝わってしまいそうなほどだった。喉から心臓が飛び出して、その場でタップダンスをし始めてもおかしくない。それぐらい落ち着かない気持ちでいた。だが、この心臓をどうにかできるのは自分ではない。告白を受けた相手側によって全てが委ねられるのだ。
終業後、リーグの屋上に呼び出されたアオキは、チリの言葉を聞いても顔色ひとつ変えなかった。漆黒の瞳は真っ直ぐにチリを見据えて、その言葉の真意を探っている。気まずささえ感じ始める間は、彼が返答を考えているためだと気づいてはいた。
それでもはやく、決着をつけてほしい気持ちで、チリもまた真っ直ぐにアオキの目を見つめ返していた。願わくば、この想いに答えて欲しいという気持ちを込めて。
だが、現実とは非常なもので。必ずしも欲しいものが与えられるほど、世界は簡単にはできていないのだった。
「申し訳ありませんが、貴方をそういった目で見たことはありません。一回りも年が離れていますし、何よりも自分たちは仕事の同僚です」
アオキの口調は常と変わらず、まるで業務報告をしているかのように淡々としたものだった。そのせいか尚更、アオキの言葉は深々のチリの心臓に突き刺さっては、傷口を抉っていくかのように鋭利だった。
フラれたのだ、自分は。
その現実を受け止められない。負けたくない勝負で負けたのだ。あまりのショックで目の前が真っ暗になりそうだった。今すぐアオキに泣きついて、想いを遂げさせて欲しいと駄々を捏ねたかったが、大人としての理性や体裁、そして何よりも、これ以上アオキに迷惑をかける訳にはいかないという自制心のおかげで幼い心を留めることが出来た。
フラれたのだと理解し、一刻も早くこの場から退散したかった。正確には、アオキの視界から消えてしまえたら楽だっただろう。
明日からまた、アオキと同僚としての関係を続けていくためにも、今すぐ一人になって泣いてしまいたかった。思考はもう、いかにして涙の痕を残さないようにするか、目を腫らさないようにするかにシフトしていた。大人の恋は、考えることが多くて嫌気がさす。
少なくとも、今この人の前で泣いてはいけないことはわかっていた。泣けばきっとアオキを困らせることになる。これ以上アオキを困らせるのはチリだって本意ではない。
もう、彼の気持ちはわかった。自分のために時間を割いて、気持ちを聞いてくれただけでも十分だったのだ。さっさと背中を向けて「聞いてくれておおきに」とそれだけ言って、そらとぶタクシーに飛び乗ってしまおうと思った。声を震わせないように、細心の注意を払いながら感謝を述べようとした時だった。
「ですが」
勝手に一人、終わったと思い込んでいたチリの耳にアオキの声が飛び込んでくる。どうやら、彼の言葉にはまだ続きがあるようだった。
もうアオキの顔を見ることすら辛かったが、チリは真っ直ぐに彼の言葉を待った。相対するアオキは、先程とは変わらぬ表情のまま言葉を続けた。
「……今日からは考えを改めようと思います。自分がチリさんのことを恋愛対象として見るまで、返事をお待ちいただくことは出来ますか?」
保留の末
「どういう意味なんやろアレ……」
チリがアオキに告白をして、一晩経った明くる日。いつものようにポケモンリーグに出社し、仕事をする傍ら、チリは昨晩のことを回想してきた。
あの後、アオキの言葉の意味を問い詰めたチリだったが、結局納得のいく説明は貰えなかった。少なくとも自分はまだフラれていない、ということだけ理解し、その場は一時お開きとなった。
ただ思い返せば思い返すほど、アオキが何故あんなことを言ったのかわからない。自分のことを恋愛対象として見ていない、と言った上で、今後は恋愛対象として見るように心がけるとアオキは言ったのだ。好きでもない相手のために、どうしてそこまでしてくれるのだろうと、チリは昨晩別れてから今の今まで考えていた。
自分のために割り振られたデスクの上には確認しなければならない資料やら書類が山積みだ。だが、どうにも目の前よりも昨日のことに意識が向いてしまう。事務椅子の背もたれに身体を預け、くるくるとボールペンを手で弄びながら一人ぼやく。
「可能性があるって……考えてええんやろか……」
「……チリさん」
「どわッ!?」
誰もいないと思っていた部屋に落とされた声に、チリは飛び上がって驚いた。声がした方を見れば、昨日と何ら様子の変わらないアオキが立っていた。今まさに悩みの渦中にいる人物が突然現れたことにより、チリは声を上ずらせながら名を呼んだ。
「ア、アオキさん!? も〜びっくりさせんといてくださいよ!」
「……驚かせるつもりはなかったのですが、すみません」
相変わらずの小さな声。座っているのも悪いと思い、チリは立ち上がろうとしたが、その前にアオキが制した。そして、鞄の中から一枚の書類を差し出す。
「こちらの書類を渡そうと思って」
表題に目をやれば、先月のジムチャレンジのデータをまとめたものだった。ジムバッジを八つ集めたチャレンジャーはなし。暫くは二次試験を行うことは無さそうだと安堵する。
「よかった。暫くはリーグの仕事に専念できそうですわ」
「……はぁ」
「……あぁ! すみません。アオキさんに嫌味言うたつもりはないんです」
「いえ。四天王としての仕事がなければ、自分も多少ゆとりがありますので……」
アオキの言い方的に、恐らく普段の業務量に変わりはないのだろう。もしかしたら、四天王の仕事がないならと常よりも仕事を任せられたのかもしれない。サラリーマンは大変やな、とチリは心中でアオキを労った。
「それでは、資料は渡しましたので」
用は済んだ、とばかりにアオキが踵を返そうとする。仕事モードの彼──仕事モード以外のアオキを見たことはないが──を引き止めるのは悪い、と思いながらもチリは思わずアオキの名を呼んだ。
「……あの、アオキさん!」
アオキの足が止まる。チリの次の言葉を促すように、昨日と同じ眼差しが向けられた。
業務時間中に聞くことではないのだとは思う。だが、こうもモヤモヤしたままでは仕事が手につかないのも事実だ。チリはごくりと唾を飲むと、昨晩のことについて疑問を投げかけた。
「昨日のことなんやけど……チリちゃん、まだフラれてないってことでええの……?」
「…………できる限り、貴方の気持ちに答える努力はします。期待はしないでいてください」
「っ、そんなん無理や! いやでも期待してまう……!」
だって、努力をしますということは、好きになってくれる努力をするということだ。そこまでしてもらう義理はないはずなのに、アオキは真摯にチリの気持ちに答えようとしてくれている。それは詰まるところ、将来的には想いを遂げられる確証でもある。それなのに、期待するなとは酷い言い草だ。
「好きになる努力はしてくれんのに期待すんなとか……無茶苦茶やで、アオキさん……」
「……言い方を変えましょう。もし仮に自分がチリさんを恋愛対象として見る前に、他に良い人が見つかったり心変わりをしたら、気にせずそちらの方を選んでください。昨晩のことも、無かったことにして構いませんので……」
アオキの言葉に、チリはハッと顔を上げた。アオキは、チリの告白をそんなふうに思っていたのだ。一回り年下の女性が気の迷いで告白したのだと。
少なくともチリは、生半可な覚悟で告白したわけじゃない。他の男に目移りするような浮気性でもない。それだけは胸を張って言えるが、好きな人であるアオキにそう思われていたことがチリの心に傷をつけた。
「なんで、そんなこと言うん?」
「……そんなこと、とは」
「チリちゃんが気の迷いで告白したと思っとるん? チリちゃんの気持ち、無かったことにしたいんやったらそう言ってや……」
「……すみません。貴方を傷つける意図はありませんでした。貴方の好意を無下にしたかったわけでもありません」
困らせているな、と思った。きっとアオキはアオキなりにチリのことを考えてくれた上での発言だったことはわかる。
普段から自分を平凡だと評価するところから分かってはいたが、アオキは自己評価が低い。周りから見ればジムリーダーと四天王を兼任するなど並大抵の人間に成せることではない。
チリに平凡な自分では釣り合わない、とでも考えたのだろうか。だが、チリはジムリーダーも四天王もこなせる強いアオキに惹かれたのだ。他に努まる人間などこのパルデア地方にはいない。
「本気でアオキさんのことが好きなんです、伝わってませんでした?」
「……チリさんが本気であることは伝わっています。ですので、こちらもそれ相応の気持ちでもってお返ししたく思っています。ただそれに時間が必要なだけで……」
「だからそれってどういう……」
「……失礼。次の予定がありますので、この辺で」
そう言うと、アオキは小さく会釈をして部屋を出ていってしまった。
煙に巻かれたのだろうか。一人残された部屋で、チリの気持ちは宙ぶらりんのままだ。
結局その日は一日、仕事に身が入ることはなかった。
それから。今までと同じような日々が続くかと思われたが、チリにとってはちょっとずつ変化のある日々だった。
他の人間には分からないだろう。だが、明らかにチリに対するアオキの態度が以前とは違うのだ。
それは、業務連絡の前後にちょっとした世間話が挟まったり、すれ違った時にわざわざ足を止めてくれたりと些細なことだ。アオキさんなりの意識とやらがどういったものなのかは未だ分からない。だが、好きな人と過ごせる時間が一分でも一秒でも増えるのは嬉しい。だから、いい変化だなとチリは思っていた。
ある時、リーグ本部内での移動でたまたまアオキとエレベーターで一緒になった。二人きりで話さないという方が変だったので、チリの方から話を振った。
「アオキさんはこれからトップのところですか?」
「……えぇ。また新たな施策を思いついたそうで」
「ありゃりゃ……そら大変そうですけど頑張ってください」
そこで話は終わりのはずだった。チリが順番に点灯していく数字をぼんやり眺めていると、妙に視線を感じた。ふとそちらの方を見ると、アオキがじっとチリのことを見下ろしていた。勘違いしてしまいそうなほどの熱視線に、チリは思わず元来のユーモアさで恥ずかしさを誤魔化すことにする。
「アオキさんの視線あっついわ〜! そんなに見つめてチリちゃんの顔になんかついてます?」
「あぁいえ……なんというか、見惚れていたといいますか……」
「……は!?」
突然とんでもない爆弾を落とされ、頭が真っ白になる。「何もついていません」という真っ当な返事が来るかと思い、こちらは「目、鼻、口はついとるやろ〜」とでも返そうかと画策していたのになんてカウンターだ。
アオキの口から女性を口説くような言葉が出たことへのパニックが、チリの元来のふざけ癖を上回った。本当に熱視線だったと気がつくと、なんだか顔に熱が集まってくる。
そんな爆弾を落とした本人は、どうやら自覚がないらしい。
「……これ、セクハラですかね。すみません、気をつけます」
「いやいや! 見惚れてたってどういうことなんアオキさん!? 詳しく教えてや!」
「あ、もうすぐエレベーター着きますね」
そう言うとアオキは、自分はここで、と真っ赤になったチリを置いてエレベーターを降りていってしまった。人の気も知らずに、とチリは地団駄を踏みそうになったが、アオキと入れ替わりでエレベーターに乗ってきた職員がいたのでいつもの笑顔を無理やり貼り付けて誤魔化すこととなった。
また、ある時のこと。午前中の勤務が終わり、昼休みに入った時のことだ。四天王の控え室で一人事務仕事をしていたチリの元へアオキがやってきた。
「チリさん、もし良ければ昼食ご一緒してもよろしいですか?」
「ええですけど……急になんで?」
今日はポピーは家の用事でリーグには居らず、ハッサクもアカデミーで授業があるためこの部屋にはいない。ということは二人きりでの食事になるということだ。チリにとっては願ってもないことだが、アオキが声をかけてきた理由がいまいちわからなかった。
するとアオキは淡々と、営業職とは思えない無感情さで答えた。
「貴方を恋愛対象として見るために、できるだけ多くの時間を過ごした方がいいかと思いまして」
「どわ……! そ、そういう……!」
「……迷惑なら断ってください」
「全ッ然! 迷惑やないです!!」
慌てて書類をまとめ、勢いよくチリは立ち上がる。動転した様子のチリを見ても、アオキはくすりとも笑わない。だが、チリと並び歩く足並みは常よりも緩やかで、チリの歩幅に合わせてくれているのだろうと知ったのは、何回目かの食事に誘われた時だった。
そんなこんなで最近は二人の時は昼食、時には夕食も共に摂るようになっていた。だが、本当に一緒にご飯を食べる、というだけで話題は専ら仕事のことばかりだ。関連して手持ちのポケモンの話やバトルの話をしたりもするが、同僚としての会話の域を出ない。色めき立つようなことは何も無く、ただ本当に食事の席を共にしているだけなのだ。
正直なところ、ここ最近のチリはアオキの斜め上の言動に振り回されっぱなしだ。意識されているのかされていないのか、絶妙に分からない。アオキ本人が言うからには意識されているのだろうが、一般的な男女のデートとは大きく異なるのも事実だ。
そういったイベントも、数を重ねれば重ねるほど告白直後の気まずさも次第に薄れ、ただの同僚へと戻っているようにも感じられた。だがその距離感が心地よく、さらにアオキに惹かれたのも事実だった。
そんな日々が約二週間続いた頃。まいど・さんどでランチセットのサンドイッチを齧りながら、ふとチリは思い出した。
そういえば自分は、アオキに告白を保留にされているのだと。
あまりにナチュラルに話したり、一緒にご飯を食べたりしているせいで忘れていたが、未だにアオキから明確な返事を貰えていないのだ。
アオキの言い分を信じるなら、アオキがチリを恋愛対象として見てくれるまで待つべきなのだろう。だが、それは一体いつになるのか。こうして曲がりなりにも男女二人でご飯を食べるような仲なら、もう付き合っていることにしてしまってもいいのではないかとまで思えてきた。
ごくり、と食べかけのサンドイッチを飲み込み、チリは恐る恐る目の前の男に声をかけた。
「あの……アオキさん」
「はい」
「チリちゃんな、アオキさんに告白して、で、現在保留中やと思うんやけど……」
「保留という言い方だと私が軽い男みたいですが……一応、そうですね」
「それでな、アオキさんの言う、恋愛対象として見るって……どうなったらその、終わりというか……決着がつくんです?」
そう尋ねた時、アオキはちらと腕時計を見た。そんなに長くなるのだろうかと思っていたが、どうやら自分たちに与えられた時間が無いらしい。
「……お話しようと思いましたが、もうすぐ休憩時間が終わりますね」
「あ、ほんまや」
どうにも間が悪いな、と思っているとアオキの方から声をかけられる。
「……チリさん、今晩ご予定はありますか」
「いや、今んとこあらへんよ」
「今日は自分もノー残業デーなので定時で上がれると思います。もし良かったらご飯を食べに行きましょう。そこで、続きをお話出来ればと思います」
「そんなん言われたら断れへんやん〜。まぁ断る気ぃはさらさらないんやけど」
「では、そういうことで。後ほど店の場所をお送りしておきます」
残りのサンドイッチをお互い胃の中に収め、その場はお開きとなった。
そして互いに仕事を終え、西パルデアの海に日が沈んでいく頃。
チリはアオキに指定されていた店に入る。アオキの指定した店はチャンプルタウンにある居酒屋だった。どうやらあの後予約してくれていたようで、名前を告げれば半個室の席に案内された。まだアオキは来ていないようで、チリは温められたおしぼりで手を拭きながら、少しだけそわそわとしていた。
「すみません、お待たせしてしまいました」
程なくしてアオキがやってくる。昼も共にしたはずなのに、なぜだか久々に会ったような気がして、恋とは難儀なものだなとチリは自嘲した。
アオキはジャケットを脱いでハンガーにかけ、僅かにネクタイを弛める。仕事モードが僅かに緩むその瞬間を目にし、チリの心臓は人知れず大きく高鳴った。
「どうかしましたか」
「んーん。なんもありません! アオキさん、お酒飲みます?」
「少量、頂こうかと」
「じゃあチリちゃんもちょっと飲もうかな」
食べることが好きなアオキは、付き合い程度にしか酒を嗜まないことをこの数日間でチリは理解していた。互いに生ビールを一杯ずつと、ちょっとずつご飯ものを注文する。まだ日が沈みきっていないのもあってかペースは緩やかだ。
運ばれてきたビールで乾杯をし、互いに労をねぎらう。次々に運ばれてくる食事に手をつけながら、初めは午後の仕事についてや今後のリーグのスケジュールについてなど同僚としての会話を弾ませた。
チリとて、早く本題に入りたい気持ちはあったが物事には順序というものがある。少量ではあるがアオキがアルコールを入れたということは、素面で話すには少し勇気がいる内容なのだろう。
メインデッシュの皿の底が見え始めた頃、そろそろかと思いチリは本題を切り出した。
「……アオキさん、そろそろ昼の話の続き聞いてもええですか?」
「……そうですね。恋愛対象として見る、ということはどういうことか、というお話でしたね」
そう言うとアオキは箸を置き、居住まいを正した。その様子を見て、チリも自然と背が伸びる。これからのアオキの言葉次第で、自分の想いが成就するのかが決まるのだから当然だった。
「まだ交際にすら至ってない方に言うのは躊躇われますが、大きく三つありまして」
まるでプレゼンでもされるかのような口ぶりだ。アオキにとっての恋愛対象になるために必要な要素を一つたりとも聴き逃してなるものか、とチリは目の前の男に全神経を集中させて話に聞き入った。
「一つ目は容貌が好ましいと思うかどうか。チリさんの顔をよく見ていたのはこのためです」
「……あ、見惚れてたって、ホンマにそのままの意味やったん……!?」
なにかの言葉の綾だと思っていたが、まさか本当にそのままの意味だったとは。恥ずかしさがぶり返してきて、また顔が熱くなった。
「まぁ、はい。でもご自分でも良く綺麗な顔立ちだと仰るでしょう」
「自分で言うんと好きな人に言われるんは全然別物や……!」
「そういうものですか……。事実、チリさんは綺麗な方だと思います」
「あー! 褒めても何もでぇへんで!」
それでも、アオキに好ましいと思われていたことは純粋に嬉しい。遠いジョウト地方に住む両親に、チリは心の中でアオキさん好みの綺麗な顔に産んでくれてありがとうと感謝を告げた。
火照った顔を覚ますために、残っていたビールを一息に煽る。その様子を見届け、アオキは続きを話し始めた。
「二つ目は人柄が好ましいと思うかどうかです」
「人柄……性格みたいなことですか」
「そうですね。私は平凡かつつまらない人間ですので、一緒にいて苦になるのではと普段は思っていますが……」
「そないなことあらへん! チリちゃんは、アオキさんとおるのめっちゃ楽しい……!」
「……はい。チリさんがそう言って下さるので私も気疲れしませんでした。それに、私もこうして共に食事をさせて頂くのはとても楽しいです。どんなことでも興味を持ってお話してくれたり、聞いたりしてくれるので……」
「うひゃあ……えらい口説き文句やで……」
「……事実を述べているだけですが」
それが顔を熱くしている原因であることを分かっていないのだから困る。無自覚にこちらが照れてしまうようなことを言っているのだから、タチの悪い人たらしだ。いや、この場合はチリ限定の人たらしかもしれない。
どちらにせよ、アオキの言い分的に二つのうち三つの条件を、チリはクリアしているらしい。全く脈がない、というわけでもなさそうで、俄然期待してしまう。
「そして、最後が……」
そこまで言って、アオキは口を閉じた。逡巡するように目を伏せ、考え込むように手元に視線を落とす。言いづらそうな様子に、チリの方から続きを促した。
「……最後が?」
「……少し、前の二つとは毛色が違うのですが……」
「おん」
「……体裁や肩書きを気にせず一人の男として……身体的接触をしたいと、思えることです」
「……ッ、え!?」
普段のアオキのイメージからかけ離れたワードに、思わず声を上げてしまう。身体的接触と固い表現をしてはいるが、それは、その、つまり、そういうことだろうか。
チリの中で、また別の意味での羞恥心が湧き上がってくる。子供というには大きすぎる年齢で、そういった機会がなかった訳では無い。それでも、好きな人からそういった事を匂わせられるだけでこうも動揺してしまうものなのか。
チリの反応を受け、アオキは慌てたように言葉を付け足した。
「……あ、いえ……その、なにか誤解を生んだ気がします。身体的接触というのは、手を繋ぐ、とかそういうことも含みますので」
「……含むってことはそれ以上もある……ってことですよね?」
「…………まぁ、否定は……できません……」
一応これでも、男なので。
そう言うとアオキは、気まずさを打ち消すように残っていたジョッキに口をつけた。
つまり、アオキがチリを恋愛対象として見るための最後の条件は、アオキに触れたい、と思ってもらうことだということだ。
感情という機能が人間に備わっているため、愛や恋を語る上で肉体の触れ合いは避けることの出来ない話題だ。恋愛と性欲は切り離せないとまで言われている。仮に切り離せていたとしても、手を繋いだり、抱きしめあったりはしたい。その気持ちはチリにもあったし、もしするのであれば相手はアオキがよかった。
アオキにもそう思ってもらえるなら、とチリは向かい合っているアオキに手を差し出した。
「ほな……手、繋いでみます?」
「……は?」
「ほら、付き合うてない男女が手を繋ぐこともありますし? お試し、的な……」
苦し紛れの言い訳だなと思う。アオキの為でもなんでもない、手を繋ぎたい、そしてあわよくば好きになってもらいたいというただの自分のエゴだ。
「……あまりそうやって自身を切り売りするのは良くないと思いますが」
そのアオキの言葉に、チリは思わず立ち上がった。勢いのあまり、テーブルの上の皿がカチャンと音を立てる。だが、そんなことを気にしている場合ではなかった。
「誰にだってこんなことするわけやない! アオキさんが相手やからこないなこと言うし、絶対に好きになってもらいたいからここまでするんです……!」
自分が必死になっている自覚はあった。しかし、ここまで散々焦らされて、可能性までチラつかされて、「やっぱり貴方ではダメでした」なんて言われたくない。
色仕掛けだろうがなんだろうが、彼の心臓を掴みたかった。どんな手段でもいい。少しでも彼に触れたいと思って欲しい。何としてでもこの恋を成就させたかった。
なんや自分はこんなに女々しかったんか、と嫌気がさすくらい情けない気持ちになってくる。
「……アオキさんのことが、好きやねん」
情けないなら情けないなりに、言いたいことを全部吐き出してやろうと思ったが、拙い言葉でアオキへの気持ちを吐き出すのが精一杯だった。
「やから……、好きになって。チリちゃんと、手ぇ繋いで……?」
我ながら弱々しい声音に、思わず顔を俯かせた。真っ直ぐにアオキの顔を見ていられない。駄々をこねる子供と何ら変わらないお願いを、目の前の男が聞き入れてくれることだけを願った。
アルコールのせいだろうか。少しだけ視界が歪んできた。瞳に涙の膜が張るのがわかる。あかん、こんなん普段のチリちゃんとちゃう。そう思っていてもままならない自分の身体に、恋の恐ろしさを再確認した。
四天王である自分を弱らせたのだ。責任を取ってもらわなければ困る。きっとこれから先の人生、こんな恋をすることはないだろうから、せめて綺麗な思い出にしてほしかった。
「……その」
重々しく、アオキが口を開く。
あぁ、ついにその時が来るのだなと思った。アオキの言い分に胡座をかいて、同僚という立場のままご飯を食べる関係を続けることも出来たはずだ。でも、それをしなかったのは、恋人になりたいという自分の我儘のせいだ。しかし、今はその我儘のせいで、親しい同僚という立場まで失いかけている。
そして恐らく、次のアオキの言葉がその引き金となるであろうことは予想がついていた。
二回も振られるなんて、嫌やなぁとぼんやり思いながらもチリは意地で顔をあげた。
涙が零れることはなかったが、綺麗な笑顔を作れた自身もなかった。それでも、真摯に向き合ってくれたアオキに対して、最後くらいは自分も真摯に向き合おうと思ったのだ。
だが、顔をあげたチリの視界に入ってきたアオキの表情は予想とは少し違った。
アオキは口元を覆うように手を当てて、チリを見据えている。その瞳は常よりも僅かに見開かれていた。
あれ、とチリが思ったのも束の間、アオキが口を開いた。
「……たった今、チリさんが恋愛対象になったのですが……」
ぽつり、と呟かれた言葉。それまてガヤガヤとしていた居酒屋が水を打ったように静かになった気がした。チリが、アオキの呟いた言葉を飲み下し、意味を理解するのに相当な時間がかかった。水が染み込むように、その意味が段々と分かってきた時、チリはやはり素っ頓狂な声を上げてしまった。
「は……え!? それって……!? いやちょいまち、自分、どこの琴線に触れたんや……!?」
「……それを口にさせるのはあまりに鬼かと……」
「……もしかしてアオキさんってものごっつムッツリだったりします……!?」
「……誤解が誤解をよんでいる気がします……。とにかく一度落ち着いて」
一度座ってください、とアオキに勧められ、チリは腰を下ろす。いつの間にか涙は引っ込んでしまった。自分に都合よくアオキの言葉を理解してしまっているのではないかと思い、チリは一つずつ確認することにした。
「……今のって、チリちゃんの聞き間違いやあらへんよね?」
「……はい」
「その……告白の返事はOKってことで、あっとる?」
「……はい」
「渋々とか……嫌々とかやない?」
「はい。私自身の意思で、チリさんの気持ちに答えました」
「つ、つまり……!?」
「……言わせるんですか」
「言ってくれへんと、信じられへん……!」
「……私は、貴方に惚れてしまったようです」
「うわぁああッ……!」
信じられない。いや、こうなることを望んでいたはずなのに、いざアオキの口から答えを聞いてしまうと夢物語だと思ってしまいそうだ。
舞い上がりそうなほど心臓が高鳴っている。今、自分の目の前にいる人が、自分に惚れてくれた! その事実だけで空を飛べそうだ。
舞い上がり過ぎて半ば暴れているチリを見遣り、アオキが口を開く。
「……チリさんの方は、心変わりはされてませんか?」
「見たらわかるやろ! しとるわけないやん!!」
「……それなら、よかった」
ふ、とアオキの顔が緩む。真正面から初めて見たアオキの柔らかな微笑みに、チリの鼓動がまたギアを上げた。これ以上心臓が高なったらドキドキして死んでしまうかもしれない。
びっくりするほど顔が赤いのが自分でもわかる。ぱたぱたと手で仰ぎ始めるくらいには熱いし、恥ずかしい。好きな人と両想いになることが、どれだけの奇跡の上に成り立っているのかを考えれば、この興奮度合いは致し方ないだろう。
「ほ、ほんまにアオキさんが……? めっちゃ夢みたい……。てか無茶苦茶恥ずい……!」
「……そうも照れられると、こちらも恥ずかしくなってくるのですが」
「全然見えへん! アオキさん、ほんまに照れとる!? てか決め手は何やったん!? いつどこのタイミングでチリちゃんのこと触りたくなったん!?」
「……黙秘で、お願いします」
一体アオキに何が刺さったのか、アオキ自身は言うつもりは無いらしい。気になって気になって仕方がないのは事実だが、これから先の長い時間の中でいつか話してくれる時を待つのもいいかもしれない。
向かいに座るアオキの頬に、ほんの少しだけ赤みがさして見えるのは、気のせいではないと思いたい。
一通りチリが照れ終え、答えて貰えない質問責めを終えた頃、アオキが腕時計をちらりと見やった。
「……店を出ましょうか」
「えっ、もう帰るん!? せっかくお付き合いするってなったのに!?」
「帰るわけではありませんよ。ただ……」
「チリさんの気が変わらないうちに、手を繋がせて頂こうかと」
「っ、そ」
そんなん、ズルい!
今のは確信犯だったのか、アオキはそれだけ言うとジャケットを羽織り、伝票を手にしてしまう。もしかしたら照れていたのかもしれないが。慌ててチリも荷物をまとめ、アオキの後を追う。
外はもうとっくに日が沈み、昼間の熱さが引き始めていた。
きっと、大人二人が手を絡めるには、丁度いい気温だろう。