1991年8月29日付 日記より
しかし、あの夜、僕はこのレコード(マーラー
交響曲「大地の歌」第六楽章.ワルター指揮、ニューヨーク・フィルハーモニック.メゾ・ソプラノ エルンスト・ミラー.CBS SONY盤)をかけ、おそらくこれが最期にだと思って、自分の部屋で言わば聴き納めをしたのだった。
夜のとばりの降りた山影の木立の間から、うす暗くなった辺りを見渡して、詩人は辞世の歌を詠む。
この空気、二度と観ることのない浮世を表現して、この演奏は何と美しいものか、と僕は心の底から感じたものだ。
二度と観られない故の、欠け替えのない美しさ。
木立一本一本、否、草木の一草一草が生命というものの尊さを、精一杯訴えかけてくるではないか。
*
小鳥たちは無常というものの中にあって、この一時を楽しみ、その豊かさを詩人に、この瞬間になって語りかける。
詩人は、今さらのように、自然の美しさ、尊さに驚嘆し、もはや、ため息すら出ない。
そして、その懐につつまれて、改めて己の孤独を顧みる、儚いうつつに身を浸しつつ・・・。
かつて、若かりし日々、共に情熱を語り、夢を追いかけた友は、いつしかどこかへ別れ別れとなり、今はいない。
おそらく、私が死んでも、この自然は同じように果てしなく続いていくだろう、と詩人は想う。
その中で、私は今、一人で死出の旅に向かおうとしている。ついに手に入れることのできなかった、かつての情熱、夢への無念を誰にも語ることもできず、私は今、一人で、そう、たった一人で、この世を去ろうとしているのだ。
詩人は、本当の孤独の意味を知り、人間の存在のちっぽけなことを悟る。
すると、かつての友が、彼の傍らに現れる(それは、幻か)。
詩人は嬉しさのあまり、今一度、昔の情熱、夢を語ろうとするのだったが、友は苦笑を浮かべ、彼の口を封じた。
――――― 友よ、と友は語る。もう、昔の夢は語るな。俺もまた、おまえと同じように、今となってはたった一人だ。そして、おまえと同じように、俺も無念な想いを込めて、死出の旅を前にして、この自然の美しさ、尊さに言葉がない。
――――― 友よ。己のちっぽけさに気づいて、俺は恥ずかしさに耐えられぬ。孤独と無念、そして、羞恥。俺は今、俺に相応しい死に場所を求めて、この山に分け入って来た。
詩人は、この幻の友を見上げて、彼もまた同じ境地にあることを知り、この幻が実在であってくれと、心の底から叫びたかった。だが、しかし、それを叫べば、この幻が消えてしまうのではないか、と深く怖れた。たとえ幻であったとしても、この死出の旅を前にして、少なくともこの世にたった一人でも、自分の気持ちを理解してくれる友がいるのだと信じて、そう、そう信じていたかった。
――――― 友よ、観るが良い。不思議な縁で俺とおまえを結び、この時に二人を巡り合わせた。今、こうして、この静かな―――そう、何という静かさだ!―――自然につつまれて、俺たちはこの世に別れを告げようとしている。
――――― 友よ。想えば、かつての情熱、あの夢は何だったのだろうか。
詩人には、答える言葉もなかった。
――――― 友よ。そして、この瞬間に至って、俺たちはこれまでの人生を振り返って、どんな言葉を語ることができるだろうか。俺たちは、あの情熱の何百分の一を、今、持っているだろうか。俺たちは、あの夢の何千分の一を実現しただろうか。
詩人は、幻の問いかけに、ここで答えることができない自分を恥じた。そして、うつむいた。
――――― 友よ。
詩人が顔を上げると、もはや幻はそこにはなく、ただ声のみが、彼に語りかけてくる。
姿がないというのに、その声の実在感の大きさに、詩人はただ、ただ圧倒された。
――――― でも、嘆くことはない。
確かに、俺たちは情熱の何百分の一も持ち続けることができなかったにせよ、確かに、俺たちは夢の何千分の一も実現できなかったにせよ、とにかく、ここまで、その情熱を、夢を持ち続けられたことに感謝しようではないか。
詩人は、今や実体のない彼方の声に向かって大きく頷く(そうだ、友よ。そのとおりだ!)。
――――― 友よ。もう一度観るが良い。俺たちをつつむ自然の無限の大きさ、その永遠の無常。この中で、俺たちちっぽけな人間に、果たして、どれだけのことが許されていようか。
確かに、俺たちは今、この世に別れを告げ、その自然に帰ろうとしている。
そう、俺たちは無限と、永遠に帰ろうとしているのではないのか。
――――― 友よ。俺たちをつつみこむ自然は、その大きな力でやがて、光り輝く春、萌える青葉の季節に俺たちを誘ってくれるはずだ。
そして、その時、もう一度、俺たちの情熱、夢について語ろうではないか。
――――― 友よ。いよいよ別れを告げる時だ。
声は、暗闇の彼方に消えた。
だが、詩人にはもはや自分一人ではないという確信があった。
*
辞世の歌
太陽が山の彼方に去り、
すべての谷々に夜がおりてくる
ひえびえとした影とともに
おぉ、見よ、しろがねの小舟が浮かぶように
月が青い大空の海に浮かぶ
私はほのかな風のそよぎを感じる
ほの暗い松の木の影に立って!
大地は憩いと眠りに満ちて息づき
すべてのあこがれを夢見はじめている
衝かれた人間は、我が家に帰って行く
忘れてしまった幸福と若さを
いま一度眠りの中で学び直そうとして
小鳥は音もなく枝にうずくまる
すべてこの世は眠りに入った!
松野木陰を、風がつめたく吹き過ぎて行く
ここに私は立って、友を待ちわびている
私は彼を待っている、最後の別れを告げるために
おぉ、友よ、私はどんなに望んでいることだろう
君にかたわらで、この夜の美しさを味わうことを
どこにるのだ! 君は長い間私をほったらかしているのだぞ!
私は琴を抱いて、あちこち歩き回る
柔らかな草でふんわりしている道を
おぉ、美よ! おぉ、永遠の愛に、生命に酔いしれた世界よ!
彼は馬から降りて
別れの盃を差し出した
彼に尋ねた、どこへ行くのか、と
そして、なぜ行かねばならないのか、と
彼は答えた、その声は曇っていた
「友よ、
俺はこの世では志を得ることができなかった!
どこへ行こうか、そう、俺は山をさまよって入って
俺の孤独な心の憩いを求めることにしよう!
俺は故郷を、安住の地を求めてさすらって行く
だが、遠い国々へ行くまでもない
俺の心は静かに、その時の来るのを待ちわびている!
なつかしい大地には、春が来れば
いたる所で花が開き、新たな緑が萌え出るのだ!
見晴るかす限り、どこもかしこも、永遠に輝く、永遠に、永遠に
(「ライナーノート」訳詞)
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