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クララ語録/ピアノ教授編


ピアニストの演奏態度について
「今、あなたがその様に弾いていたときに、あなたは何を表現しようとしていたの?」
 少女は答えました;「私は、私自身を表現しようとしていました。」
「ねえ、ベートーベンはあなたよりも偉大だとは思わない?」と、夫人は優しく訊ねました..
「作曲家の素晴らしく偉大な考え方とか情感を表現してゆく努力をする中で、あなたは自分自身のパーソナリティを忘れなくてはいけません。作曲家への崇敬の無い演奏家など、偉大ではありえません。」

(Recollection by Ilona Eibenschutz)
 


 
ローベルト・シューマンの曲の演奏について
「リズミカルで無かったら、シューマンは台無しです。
彼は詩人でした。そして感情(sentiment)と幻想に充ち溢れてました。
しかし彼は決して感傷的(sentimental)ではありませんでした。
ですから、あなたは決して、シューマンの曲をセンチメンタルに響かせてはなりません。」

「彼は意味のない符号、休符、あるいは付点を書いた事はありません・・・・
書いてある通りに弾いて下さい。優れた洞察力を持つ人にとって、全ては楽譜に書いてあります。」

(Recollection by Fanny Davies)
 


 
シューマン・ピアノ協奏曲作品54の演奏について
(シューマンの)ピアノコンチェルトを教えるとき、クララシューマンは過酷なまでに厳格でした。
「オープニングの主題では、両手の各々の指は、厳密に同じヴァリュー(長さ、響き)の音を作り出さなければなりません。続く優雅な第二主題では決して急いではいけません。左手のdiminuendoに細心の注意を払いながら厳密に丁度同じ時間で弾かなければなりません。カデンツァは殆どの人が誤解しています。テクニックではなく思考力が演奏解釈の基本であるべきです。正統なシューマンの伝統に従えば、芸術家にとって非常に難しい役割に対する謙遜と愛を以て、とても静かに、憂いと共に、穏やかに弾かれなければなりません。役割、つまり(テクニックによらず)シンプルに聴こえる演奏によって美を表現することは、考え得るいかなるテクニカルな問題よりも難しいのです。」

第二楽章を私たち生徒がセンチメンタルに弾こうとすると、夫人は何も認めてはくれませんでした。
「これはオーケストラとピアノ独奏者の間の情熱的な会話なのです。その「会話」はとても穏やかで優しいものですが。」
「最終楽章は、殆どの人が速すぎる演奏をしています。それによって、とても素敵なフレーズや、交差するリズム、あるいは全体を通じて流れるワルツのモチーフが失われてしまっています。」

(Recollection by Adelina de Lara)
 


 
 


クララの演奏を語る言葉


私は(ツェルニーの”School of Velocity”)の中の1ページを弾きました。すると母は...
「そうね、大体いいわ。でもこの様に弾くと、和音がもっと素敵だと思わない?」と言って最初の八小節を、手首から先だけで、すべての音を同じ強さのフォルテで、しかしこの上もなく柔らかいトーンで弾いたのです。手首は片時ももこわばることはなく、和音をひとまとめにしてリズミカルに紡いでいったのです。すると突然に単純な曲に生命の息吹が宿ったのです。
それは私にとって一つの天啓でした。私のタッチとリズムの美しさに対する感覚は、あの瞬間に目覚めたのです。

(Eugenie Schumann)
 


 
クララは決して鍵盤から手を持ち上げなかった。スタッカートの走狗においても、鍵を叩くよりも押すように弾いた。彼女の腕の力は、肘よりも手首の方に集中していた。

(Berthold Litzmann)
 


 
彼女の手から紡ぎ出される音は決して耳障りに、汚く響いたことはありませんでした。彼女は「駄作」を決して演奏しませんでした。それだけにクララの演奏する「優れた作品」を聴いた後では、誰もが「こんな美しさが隠されていたのか!この曲には」と気づかされたと言って過言ではありません。それは疑いも無く、彼女が生み出す格別に美しい音、芳醇で生き生きとして、耳障りなところがかけらも無い音によるところが大でした。そしてその音は、最強奏の走狗に於ても叩くというよりは、指で押さえつけるような弾き方から得られたのです。
彼女が演奏しているときに、粗野な動きというものは全くありませんでした。速い走狗においても、彼女の指は鍵盤のすぐ上に有り、鍵を叩くというよりは撫でるように弾いたのです。和音も肘から叩くようにではなく、手首から先で掴むように弾かれたのです。
彼女のこのテクニックの基礎は、父であり指導者であった、フリードリッヒ・ヴィークの「タッチは聞こえてはいけない。ただ音楽だけがそこにあるべきだ」という理念により醸成されたのです。
 

(Franklin Taylor)
 


 
ママは、ピアノを弾いている時は指の存在を意識した事は無いと常々言っていました。これって、私が思うにママの特徴なんです。ママの演奏を聴いていると、私もママの指の事を意識したことがありませんでしたから。
(指の存在を意識させない)一つの要素として、ママの技巧が完ぺきなまでに確実だった事があります。音楽は本当に奇跡のように奏でられます。そしてどんなに難しいパートでもママが失敗したなんて、聞いたことが無いんです。それは例えば幻想曲作品17の第二楽章の様に演奏者への要求が本当にとてつもなく高い、16分音符に最大の音量(ヴァリュー)を与えなければならないのに、同時に最大限の情熱表現も要求されるようなパートに於てでもです。
ママの子供である私たちは、ママの完ぺきな技巧が肉体的な強靭さに支えられている事を知ったのですが、しかし聴衆の人達がそれを悟ることは出来ませんでした。私でさえ、ママのこの上も無く感動的な演奏の前では、しばしその事を忘れてしまったのです。

私がママの演奏に抱く印象というのは、ゴシック建築に抱く印象に近いです。厳格な対称性を持った複数の線が一番高い所を目指して上に向かって伸びて行くさまは、何度見ても常に目に新鮮に映ります。ママは一つ一つの作品をとても雄大に、情熱的に、そして論理的に紡ぎあげてゆきます。急ぐことも無いし、突然の絶頂もありません。厳格な芸術の法則に従いながら、それでいてとても自然で自由なのです。それら一つ一つの芸術的創造は芸術家の手から流れ出てきます。聴衆を最後まで虜にしたままで。

(Eugenie Schumann)
 


 
(シューマンの三つのロマンス作品28の第三曲、ロ長調の)最初のセクションは、曲の終わりまでに四回再現し演奏されますが、母はそれら全てを、髪の毛一本の幅ほども狂わない、完全に同じテンポで演奏しました。これにより母はこの曲の強固な土台を作り上げ、構成上の統一性を失うことなく、その土台の上に彼女の想像力を自由に発露できる演奏の場を与えたのです。

(Eugenie Schumann)
 

Pupils of Clara Schumann(クララ・シューマンの弟子たち)というCDのライナーノーツにある文章を、私自身が翻訳しました。音楽専門用語の英語表現に詳しくないので、一部に誤訳があるかもしれません。

 

ローベルトがクララを語る言葉

夢幻の姿 9月9日の夕べ~C・Wのコンサート
小さな天使がひとり 天上から舞い降りて
グランド・ピアノに向かって 歌を創った
そしてピアノを弾くうちに
魔法の輪のなかへとさまよい入った
人影から人影へ
絵姿から絵姿へ
魔王は老いて
そしてミニョンは優しく
また 反抗的な騎士は
ピカピカの武装
それからひざまづく尼僧は
祈る喜びの内にいる
これを聴いた人々は 喜び 湧いた
歌姫をたたえるように
けれども小さな天使は ぐずぐずせずに
生まれ故郷へ 帰りを急いだ
FとE
ローベルト・シューマン 引き裂かれた精神(原題は「愛と作品」)
ウード・ラオホフライッシュ著 井上節子訳 音楽之友社 P78から引用

 
 
 
R・シューマンによるクラーラへ捧げたささやかな詩
1838年12月 ウィーン
二十歳台の男を夫に選ぼうとしないある花嫁に

花嫁は二十過ぎ 花婿は三十過ぎ
若枝も 枯れ枝となり
婚約時代は はや五年
まもなく二人は棺桶入り

月桂冠が この女流芸術家には
良く似合う
ミルテの花冠が この娘には
良く似合う

われには 素晴らしい花嫁あり
その目を見しものは
婦女の貞節を信ずるなり

貞節あれば悔いはなし

かのエグモントの恋人の名はクレールヒェン・・・
ああ このうえもなくすばらしき名

クレールヒェン・シューマンとは
天使の名づけし名

離れ離れの二人
天空の、二つの星のごとし
前後して 後を追いつつ
夜も そして昼も

クラーラという名 わが名を飾るべし
われらがともに 楽の音を奏でれば
天上の天使も 心を動かされるべし

われらのごとき 深き愛を
この世のはてまで 探してもみよ
乙女 喜びのとき
われを 悲しませりと
信ずるなり

われら、悩みしときは 多かりき
悩みの種は 数知れず
かたい葉叢(はむら)の ただなかに
アナナスの花 咲きいでたり

乙女 われを待たせて 久しく
わがよろこびの日は いまだ来ず
長き貞節 守りぬかば
ミルテの花は 倍して飾られる

されど 待つ時の 長ければ
わが心は 不安に駆られ
心は老い
人も 冷たくなりにける

フローレスターンが怒りなば
オイゼービウスにこそ 頼れ

フローレスターンのたけだけしさと
オイゼービウスの優しさを
そして涙と炎さえ
ともに 受け入れよ
わが心中の
苦しみと よろこびも!

フローレスターンは 嫉妬深き男
オイゼービウスは 疑いをもたぬ人

心より 夫婦契りのくちづけを与えたきはだれ
きみと、自身に もっとも貞節なもの

きみが スリッパをふりかざし
二人して相争うとき
勝つのは たれぞ
負けるは たれぞ

しかるのち われらは きみを
寛大にも 王座につけん
われらは右と左に 控えん
きみ右の一人を 追放せんとせば
左の一人にも 同じことを命ずるか

きみの心を のぞきしことの よくありき
しかして きみがまなざしに 幸せを見き
この胸に きみが見しものは
鏡に映るがごとき きみ自身では?

されど わが心中を打ち明くれば
きみの見しものは 暗き想念
重苦しき 悲しきものおもいならん・・・

されど 問うなかれ! 信じ 愛せよ!

きみにもたれ
きみが胸に やすらわん
されば きみは言わん
神の作りし もっとも情愛深きものは
よき夫なりと

あまりにうわべだけを とらえずに
かつ 細かきこと言わず
急ぎにすぎず 遅きにすぎず
かかる妻をば 望むなり

暖炉で 薪の燃える音のする
日暮どき
心のなかで ささやく声のする
花嫁よ いつ来るらんと

きみ まだ幼少でありし折
われ夜 幽霊の姿にて
きみが部屋を 訪れしことも よくありき
われとは知らず 悲鳴を挙げしきみ
ああ このいまも幽霊となりて
きみを訪れに行きたし
されば きみわれを認め ささやかん
「変装したる わがいとしき花婿よ
 なによりもまず くちづけを」

謎かけ合いしことも よくありき
されど われら二人に
思い浮かばざりしは
都市のなかの都市
ROMAの逆さ読みの意味なりき
しばし われらが間に位した
さかさまの町 ROMAにて
柔らかき 唇の橋の上にて
くちづけの使節を 交わさん

きみ かつてガチョウをアヒルとまちがえし
いまはなつかしき こぞの思い出

「心憎き人 忘れませ
 こぞのことは!」
「いかぞ たまさかに幸せに満ちしときを
 記憶のなかに 甦らせん!」

くちづけを 優しき花嫁
いまひとたび 言わんとぞ願う
「天の契りは 地の契りと」

ともに生き ともに死なん
そは きみに会いしわが最後の言葉なりし
そは この世の別れの如くあり・・・
きみ したわしき眼にて われを見・・・
ただひたすらに・・・
ともに生き ともに死なん
ああ 至福に満ちし言葉

いつの日か きみ死なば、もろともに
暗き冥界へと 降りてゆかん
さらば、きみ 黄泉の国の人となりて
神の御姿を
罪に悩みしわれに 示すらん

ローベルト&クラーラ・シューマン「愛の手紙」
ハンス=ヨーゼフ・オルタイル編 喜多尾道冬・他・訳 国際文化出版社 P159~P163より引用


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