子どもの頃から自分の才能を信じていた
今から24年前、1999年2月に「フジコ 〜あるピアニストの軌跡〜」NHKのドキュメント番組が放送された。フジコさんの母が残した下北沢の古い洋館でピアノを弾き、家族である数匹の猫たちの世話をしながら思い出話をした。スウェーデン人の画家で建築家でもあった父と日本人ピアニストの母のもとにベルリンで生まれ、5歳で日本に帰国してから、母の手ほどきでピアノを始めたこと。10歳で、当時すでに世界的ピアニストだったロシア系ドイツ人のクロイツァーに師事し、初めて演奏を披露したときに、「これはすごい、天才だ!」と絶賛されたこと。
東京藝大を経て、ドイツに留学したこと。ドイツでは、仕送りが届くまでの1週間を砂糖水だけで過ごすほどの貧乏を経験したこと。バーンスタインに認められ、ウィーンで演奏会をする直前に、風邪が原因で両耳の聴覚を失ったこと。現在は左耳の聴覚が半分ほど回復していること。母親が亡くなったことを機に帰国し、日本で猫たちとの暮らしをスタートさせたこと――。そのドキュメンタリーは、放送直後に大変な注目を集め、何度も再放送を重ね、続編も制作された。同年夏にリリースされたデビューアルバム「奇蹟のカンパネラ」は、空前の売り上げを記録。クラシックとしては異例の200万枚を売り上げ、今もその記録を更新し続けている。
フジコさんのピアノは、「自由な精神に彩られている」「フジコの『ラ・カンパネラ』は哀しく、深く、人生を考えさせるものだ。生きざまが投影された味わい深い演奏である」などと評される。今も精力的に演奏活動を続け、世界中のあちこちで“感動が喝采に変わる瞬間”を生み出している。コロナ禍で、どんなに心を動かされても、その感動を肉体で表現することができなかった3年を経て、今また我々観客は、情動を内から外に表出するという、「喝采という自己表現」を取り戻すことができた。
それにしても、「天才」とは何なのだろう?
フジコさんは、なぜ、そんなにも豊かな才能を持ちながら、長い不遇の時代を体験しなければならなかったのか。若い頃に評価された才能と、年齢を重ねてから発揮できる才能は別のものなのだろうか。フジコさんはいう。
「自分でこんな事を言うのは恥ずかしいのですが、私は子どもの頃から、いつも自分のピアノの才能を信じていました。私は見た目も外国人っぽくて、普通の小学校に行ったら苛められるだろうと考えた母が、小学校から青山学院に通わせてくれたのだけれど、卒業記念のサイン帳には、担任の先生から『世界的になってください』と書かれています。ドイツに留学してから、『君のような才能はこの地上に一人もいない』と褒められたこともあります。
でも、私がチャンスを掴めなかった。その理由は2つあると思っています。一つは、嫉妬心に駆られて足を引っ張る人間がいたこと。もう一つは、恐怖心や不安、母が私を罵る声に苛まれ、大事な場面で失敗することが多かったことです」