ついこの間、ナチスの話がTwitterで話題になっていたのですが、そういえばあんまりナチスのことをきちんと勉強したことがないなと思いいたったので図書館で借りてきました。『ファシズムの教室 なぜ集団は暴走するのか』の著者である田野大輔氏の手によるものです。

 本書は、同性愛の弾圧や産めや増やせや的人口増大政策などから、これまで旧来の保守的思想に沿っていたと考えられていたナチスドイツの性的規範について、実は単に保守的なのではなく性欲を肯定し開放することで国民の支持を得ていった側面があると指摘するものです。
 まぁ、その前提となる「ナチスの保守的な家庭政策」や「ナチス以前のドイツの性に対する見方」を抑えていないと、対比としてのナチスのありようが分かりにくいという問題はあるのですが。

ナチスの反発と思惑

 ナチスは登場から崩壊に至るまで、国民の性という分野において2つの主要な軸となる方針を持っていました。

 1つは、旧来のキリスト教保守にありがちな発想を偽善として否定する方針です。ナチス以前のドイツにおける性道徳は、当たり前ですがキリスト教をベースとしていました。その規範は「婚前交渉はNG」のようにわかりやすく保守的なものでしたが、ナチスは「そういうあいつらは(自分との結婚前に性交渉をしているはずの)未亡人と結婚している。矛盾だ」などと指摘し、こうした規範を偽善的で「上品ぶっている」として否定しました。

 未亡人云々は難癖だとしても、あらゆる規範は一定の偽善性を持たざるを得ないのも事実です。すべての個人と組織は完璧であり得ず、自らが提唱する規範に逆らうこともままあるからです。ナチスはそうした矛盾を全面的に否定し、むしろ素直に性欲の充足を認めることが正しい態度であるとしました。

 もう1つの軸は、そうした性欲の充足を純粋なドイツ国民の繁栄に繋げること、要するに「ドイツ人」に子供をたくさん産ませることに利用することです。どのような国でも人口の増加は重要な意味を持ちますが、アーリア人の優位性を強調するナチスにとっては特に重要でした。なので、アーリア人の男女の間に子供がたくさん出来ることがとにかく求められました。

 そのため、ナチスは従来の婚外交渉禁止を否定するだけでなく、重婚すらも認めようと動き始めます(まぁ、これは公然と浮気してたナチ幹部の都合によるところもあったようですが)。要するに、健全なアーリア人男性が「種をばらまけ」ば子供がたくさん生まれるという単純な発想です。

 そういう2つの軸からわかるように、ナチスの唱える愛と性の自由化は極めて一面的なものでした。子供を作るべき男性からその機会を奪うことになる同性愛は徹底的に弾圧しました。また、男性(特に戦時中の兵士)の性的遊行をかなり寛容に見た一方で女性のそれはそうではなかったので、当然女性からは強い不満が聞かれるようになります。そんなわけで、女性も「男性が許されるなら」と自由な恋愛に繰り出し、当時ドイツに多くいた外国人労働者との関係がナチスにとって重大な問題となっていきます。

曖昧な表現規制

 性愛の自由化を打ち出したナチス支配下のドイツでは、当然のように性的なメディアが氾濫しました。こうした野放図な表現の氾濫には批判もあったのですが、案の定、ナチスはそうした批判を偽善であると否定しました。

 とはいっても、ナチスも性的な表現を完全に認めていたわけではありません。ナチ内部にも保守的な人々が多くいたため、どのような基準で線を引いてセーフとアウトを区別するのかについて共通理解が全然得られなかったことが大きな理由の1つです。性教育についてすら、あれはまずいんじゃないかいや別にいいんだと政府の中でやりあっているくらいです。

 また、そもそもナチスが打ち出したセーフとアウトの基準があまりにも曖昧であったというのも大きな理由です。
 ナチスは女性の裸体の表現について、健康で自然的、健全な表現とそうではない猥雑な表現とに区別に、後者を否定しました。しかし、その2つの区別はかなり曖昧で、本書に掲載された写真を見れば「まぁ言わんとすることはわからんでもない」という感じなのですが、言葉で説明するのは困難を極めます。また、健全とされた表現でも性的な魅力を表現していることには変わりなく、文脈や少しの差異で猥雑な要素が出てしまうことは避けがたいといえます。

 何より、こうしたナチスによる2つの区別は、ほとんど市民に理解されませんでした。そのため、「健全な」裸体表現への是認が、そのままヌード表現一般に対する是認と解釈されましたし、それは無理からぬことでした。

 そもそも、ナチスが男性兵士の性欲を肯定し、各地に売春街を作り、そこに制服姿の将校が出入りするという現状がある時点で、健全な裸体表現という名目は砂上の楼閣でしかなかったわけですが。

ナチス的なもの

 本書はナチスを論じたものですが、そこで語られるナチスの発想と態度には強烈な既視感を覚えずにはおれません。
 身もふたもない言い方をすれば、ここで論じられるナチスの態度は、きわめて「橋下的」で「維新的」であるといえます。

 橋下徹氏を中心とする維新の会の主要イデオロギーはインテリと知性の否定にあります。彼らが知性を否定するときの語り口である「現場を知らない」とかそういった発言は、ナチスが旧来の性道徳を否定したときの語り口とどうしてもオーバーラップします。インテリが現場を知らないのも保守的な道徳が偽善性を持つのも一定程度は事実ですが、彼らはそのかすかな事実を際限なく拡大し、否定の根拠にするのです。そして、自分たちもまた現場を知らず偽善的であることは棚に上げ、自らを旧来の勢力に対するカウンターパートして位置づけ、市民を煽って支持を得ます。

 また、橋下氏はかつて、沖縄での米軍人の性犯罪に対し「風俗を利用しろ」などと発言して批判されましたが(『沖縄・元米兵の殺人事件で同じ詭弁を繰り返す人々』参照)、このような「女性性の道具化」という発想は、軍人が滞在するところに売春街を作ったナチスを何ら変わるところがありません。

 一方、ナチスの性表現に対する態度には、なんとなく自民党、というか山田太郎的なものを感じずにはいられません。ナチスは様々な理屈をつけて性表現を肯定しますが、別に表現の自由を肯定したかったわけではなく、そうするほうが国民の支持を得るためにも、自らの欲望を充足させるためにも都合がよかったからにすぎません。

 山田太郎もまた、別に表現の自由を尊重したいわけでもないのに表現問題を扱っていますが、そうした「下心」から当時のナチス的な要素、もっと一般的な表現をするならば「不誠実な問題利用」的な要素を見出すことは、決して牽強付会ではないでしょう。

 また、こうしたナチスの歴史から、あえて我々の生きる現代に対する教訓を引っ張り出すならば、それは「表面上の政策や主張だけでなく、動機にも注目せよ」ということになるでしょうか。ナチスは自由な性愛を肯定しましたが、それは本当に自由な性愛を肯定したかったからではありません。ですから、同性愛者は弾圧されましたし、女性が外国人と付き合うことも否定されました。本心の動機である「アーリア人の繁栄」に都合が悪かったからです。

 いかに表面上の主張が立派で、実施される政策が良いものに見えたとしても、その裏にある本当の動機がどうしようもないものであれば、結局は本当の自由を得ることはできません。

 田野大輔 (2012). 愛と欲望のナチズム 講談社