A Quiet Place(2018 アメリカ)

監督:ジョン・クラシンスキー

脚本:ジョン・クラシンスキー、スコット・ベック、ブライアン・ウッズ

原案:スコット・ベック、ブライアン・ウッズ

製作:マイケル・ベイ、アンドリュー・フォーム、ブラッドリー・フラー

音楽:マルコ・ベルトラミ

撮影:シャルロッテ・ブルース・クリステンセン

編集:クリストファー・テレフセン

出演:エミリー・ブラント、ジョン・クラシンスキー、ミリセント・シモンズ、ノア・ジュプ

 

この記事は「クワイエット・プレイス 細部の考察、解説、解釈その1」の続きです。

映画の前半については、上記の記事をご覧ください。

 

この記事は完全にネタバレです。

ネタバレ控えめなレビューは、こちらをご覧ください。

③473日目

〈リーとリーガン、エヴリンとマーカス〉

473日目10月3日、日曜日

リーが息子を連れて魚獲りに行くのは、この日が日曜日だからかもしれません。

こんな世界で曜日にこだわる意味はないんだけど、人はそういう決まりごとを求めてしまうものなのかもです。

 

リーガンが母屋の地下室に入ろうとしますが、リーに止められます。

リーガンは音は立てないと言うんですが、リーはとにかく入るなと言って聞きません。

その理由は例によってはっきりとは明示されないのですが、リーは地下の作戦室をリーガンに見せたくなかった。

つまり、自分がクリーチャーと戦って勝とうと考えていることをリーガンに知られたくなかったんじゃないでしょうか。

負けん気の強いリーガンのことだから、それを知ったら彼女も危険を冒して戦おうとするだろうから…。

 

エヴリンがマーカスに勉強を教えています。

こんな世界であっても、普通の暮らしを諦めないというエヴリンの強い意志が伺えます。

勉強すること、普通に家で暮らすこと。それを無意味と感じてしまったら、きっと絶望に呑まれてしまって、この世界で生き抜くことはきっと不可能になるのでしょう。

だから、彼らは自分たちの家で暮らすことにこだわり続ける。エヴリンの妊娠、出産も、その延長にあることなんだと思います。

 

マーカスを連れて、川へ魚を獲りに行くリー。

嫌がるマーカスの代わりにリーガンが行きたいと言いますが、リーは受け入れません。

リーは田舎の男らしく古風で保守的な考えを持っているようで、男の子は外に出かけてサバイバル技術を学び、女の子は家にいて母親を助けるべき…と思っている節があります。

でも、リーガンは自分が連れて行ってもらえないのは、ボーのことで父に嫌われているせいだと思い込んでしまいます。

 

〈川のそば〉

流れの音が激しい川の近くでは、多少の音を立てても安全であることを、リーはマーカスに伝えます。

大きな音が鳴っている場所では安全。それより大きな音を立てない限り。

滝の裏でなら、大声で叫ぶことさえできてしまいます。

 

このシーンから、なぜ川のそばに住まないのか?という疑問もちらほら見かけます。

それに関しても、いくつかの返答はできると思います。

 

一つには、家を川のそばに持ってくることはできない、ということ。

テント暮らしでは家に比べてあまりにも不自由だし、生活音も消せない。それに、それこそ危険が迫った時に隠れる場所もありません。

 

また、川のそばが安全だと言っても、限度があること。

劇中で示されたのは「魚が落ちた音」程度で、それくらいなら水音に紛れるというだけであって、うるさくしても平気なわけでは全然ない

大声で叫んでもいいのはあくまでも「滝の裏」。まさかそんなところに住むわけにはいかない。

 

実際、映画の後半で、水の流れる地下室でイヴリンがクリーチャーと対峙するシーンがありますが、ここではうるさい水音がしているのに、クリーチャーはイヴリンと赤ん坊に近づいていっています。

サイロで大きな音がしたおかげで助かりましたが、そうでなかったら、赤ん坊が泣いた時点でイヴリンは殺されていたと思われます。

つまり、流れる水の音のそばで暮らしても、息を潜めていなくちゃならないのは同じということです。

それなら、監視装置や隠れ場所があって、快適に暮らせる家の方がずっとマシであるはずです。

 

〈クリーチャーと自然音〉

川のシーンで気づくのはもう一つ、クリーチャーが自然音と人間の立てる音を区別しているということです。

音に反応すると言っても、川の流れる音に反応して、延々と川に攻撃をし続けてしまう…なんてことは起こらない。

風の音や雨の音など、自然界にはいくらでもうるさい音が存在しますが、クリーチャーはそれを敵と判断して襲いかかることはしない。

人間や動物の立てる音、自然音とは違うイレギュラーな音を、ちゃんと区別している。

 

だから、クリーチャーにはやはりなんらかの知性…とまでは言わないまでも、ある種の思考能力、判断能力が存在してるのだと思われます。

 

〈リーとマーカス〉

リーガンが弟の死の責任を感じていること、リーに愛されていないと思っていることを、父親に伝えるマーカス。

リーはやっぱり古風で昔気質の男だから、娘に気持ちを伝えるのは苦手なのでしょう。

でも、このシーンを受けて、リーは最後にストレートに娘に気持ちを伝えることになります。

あの最後の告白は、マーカスの言葉があってのものですね。

 

〈老人の死〉

リーとマーカスは森の中で寂れた家とその住人である老人に出会います。

マーカスはびっくりしてるんだけど、それは彼が初めて来たからで、リーは何度も来てるはずだから顔見知りの人物なんでしょう。

たぶん昔から森の奥のボロ家に奥さんと二人で住んでいる偏屈な爺さんで、異変の前も後もさほど変わらない暮らしをしている…ってとこでしょうか。

リーは魚獲りのたびにこの夫婦の様子を見に寄っていて、今日も魚でも差し入れするつもりで立ち寄ったんじゃないかと思います。

 

老夫妻はこれまで生き延びてきたけれど、奥さんの方が遂に音を立ててしまったのか、殺されてしまった。

お爺さんはそれで絶望して、自分から大声を出して、クリーチャーを呼び寄せることになります。

 

思うんですが、森の奥に隠れて息詰まる暮らしをしたあげく、妻の死をきっかけに生きる希望を失ってしまう老人の姿は、リーたち家族が決してそうなるまいと考えて避けようとしている、正にその姿だと言えるのではないでしょうか。

人間はやっぱり、ただ「死なない」ことだけを目的にして生きていくことはできないんですよ。

なんらかの、未来へ向けての希望を持たなければ生きられない。

 

実際、冷静に考えたら絶望するしかない状況と言えます。

クリーチャーに打ち勝つ方法は見出せない。異変から1年以上経って、軍などが助けに来てくれる可能性も限りなく低い。

このまま運良く見つからないとしても、ただ年老いて死ぬまで息を潜めて隠れて暮らす、何の希望もない人生を送らなければならない。

そう考えてしまったら、確かに自殺するしかないような状況です。

 

これって、この映画の大きなテーマだと思います。

世界が崩壊し、絶望的な状況になった時、人間はどうするのか。

それも、「ゾンビ」のように大人同士が集まった場合でなく、家族の場合

普通だったら子供を守り希望を与えて育てるべき親が、この絶望的な状況に置かれた時に、いったいどんな行動をとればいいのか。

 

この映画の中でリーとエヴリンが選ぶ様々な選択は、決して唯一の正解というわけではないでしょう。

人によって、「自分だったらこうしない」という考えを抱かせるものになっている。妊娠・出産の選択なんて、その最たるものですね。

でも、決してただ映画を盛り上げるためだけの行動ではない。こんな時に親だったらどうするか、考え抜いた上での選択になっています。

 

人は希望がなくては生きていけない

そして、希望を持つためならば、リスクを負ってでもやり遂げる価値がある。

そんなメッセージが、この映画には込められていると思います。

 

〈リーガン〉

父親と感情的に行き違い、一人で家を飛び出すリーガン。

あの年頃の女の子としては、ありがちなことですね。この極限状況では極めて危険なことだけど…。

ミリセント・シモンズの実年齢は15歳。思春期の女の子がこれだけ禁欲的な生活を強いられていたら、イライラするのも無理はないと思えます。

 

そんなリーガンに対して、エヴリンもそれほど干渉はしないんですね。

リーガンが一人で出かけたのも、最後まで気づかないくらい。基本的に子供を信用して、自由に任せている。

この状況だからと言って、子供を四六時中監視して、見張っているようなことはしていない。そうでないと、逆に精神が参ってしまう…というのもあるんでしょうけど。

子供であっても、過剰に束縛せず信用して行動させる。それが、アボット家のスタイルであると言えそうです。

 

ただ、自由には責任が伴う。

それが正に現れてしまったのが、ボーの一件なわけですね。リーガンはボーにおもちゃを渡してしまったことを悔やんでいるし、リーとエヴリンはボーから目を離してしまったことを悔やんでいる。

それぞれが自由な考えのもとで選んだ行動は、それぞれの人生に重い後悔としてのしかかってしまう。

でもやっぱり、それを引き受けることが生きること、というか。

たとえ危険の中であっても、100%の管理より自由であることを選ぶ。とてもアメリカ的な価値観と言えるかもしれません。

 

リーガンが一人でやって来たのは、ボーがさらわれた橋の上でした。ボーの墓標に、リーガンはスペースシャトルのおもちゃを捧げます。

配線を切った上でスイッチを入れて、ライトだけを点灯させるんですが、リーガンは本当に音が出ていないかどうかを確認できないんですよね。いい度胸というか、子供らしい無鉄砲というか…。

 

〈エヴリン〉

家に残ったエヴリンは、予定日より早く破水してしまいます。

母屋の地下への階段で釘を踏み抜いてしまったエヴリンは、大きな音を立ててしまう。

それを受けて、クリーチャーが遂に家の中に入ってくる。

家族に非常事態を知らせる赤いライトが点灯して、映画はここから違うフェイズに入っていくことになります。

ようやく、ホラー映画としてのフェイズが始まるとも言えます。

これまでちらっとしか見えなかったクリーチャーも、ようやく姿を見せてきます。

キチキチキチ…という声が最高に嫌な感じです。ある種の昆虫を思わせるような、非知性的で肉食生物的な声。この声でクリーチャーの存在感が5割増しになってる。素晴らしい。

 

出産が近づいた時の手はず、クリーチャーに侵入された時の手はず。いろんな手はずは、あらかじめ詳細に決めてあったはずです。

ただ、それが同時に起こるというのは想定外で、ここから映画は予定通りの行動ととっさの対応が入り混じることで、スリルを高めていくことになります。

キッチンタイマーは、こんな時のために用意されていたアイテムですね。本来の用途では、絶対に使われるはずがないのだから。

 

地下室を出たエヴリンは外に逃げようとします。赤ちゃんを隠す部屋は納屋にあるので、そちらに向かおうとしたはず。

しかし外にはもう1匹のクリーチャーが。

エヴリンはやむなく2階に上がり、バスタブに身を隠します。

高まる陣痛。しかし声を出すことはできない。

分娩の時とクリーチャーと、その両方に追い詰められる斬新なサスペンスシーンですね。

 

この映画の独特なのは、クリーチャーから逃げるのに姿を隠すことは意味がない、ということ。

だから、バスタブみたいなすぐ見つかりそうなところでも別に構わない。問題は音であって、音を立てずにやり過ごすことさえできれば、なんだったら隠れていなくても構わないわけです。

だから、最大の障害が陣痛である、ということになる。

 

花火の炸裂とともに、エヴリンが悲鳴をあげる。この映画で一度だけの悲鳴はクリーチャーを前にしての悲鳴ではなく、分娩の痛みによる悲鳴です。

 

〈花火〉

赤い光が灯って、家の中にクリーチャーが侵入した場合、花火を上げて引きつける。これも、家族の間で事前に決められていた作戦でしょう。

マーカスは怖がりながらも、いざとなったらためらわない動きで一連の流れをこなしました。きっと、何度も練習をしていたのだろうと思われます。

これまでの徹底した静寂を破って、花火が上がるカタルシス。実に気持ちが高揚する、素晴らしく映画的な見せ場だと思います。

 

予定通りであれば、出産は納屋の地下の防音室で行われるはずだったでしょうから、まさか「赤ちゃんの産声をごまかすための花火」じゃないでしょうけど。

でも、結果的にはそうなりましたね。

花火が上がっている間に赤ちゃんを産み落としたエヴリン。さすが、4人目の母親ならでは。

 

〈弱点の露呈〉

花火をあげて戻ろうとするマーカスはクリーチャーの接近を感じ、トウモロコシ畑の中へ逃げ込みます。

畑の中を走ることでかえって音を立ててしまって、気づかれているようにも見えます。

足音を立てないように砂の道を走って逃げる、というのが最適解ではないだろうか…というふうに、「俺だったらどうする」みたいなことを考えちゃうのもこの映画の楽しみの一つですね。

 

花火を見て駆けつけたリーガンがマーカスを探し、そこにクリーチャーが近づきます。キチキチキチ…という声もリーガンには聞こえない。

そこでリーガンの補聴器がノイズを発して、クリーチャーはそれを嫌がって去っていきます。

ここで、クリーチャーの弱点が早くも露呈しちゃうんですよね…ここは、僕にとってはこの映画の数少ない不満ポイントです。ちょっと早すぎると思うんですよね…。

クリーチャーへの対処方法が早々に観客にはわかってしまって、後はリーガンたちがいつ気づくのか…という興味になってしまう。

せっかく存分に高まっていた緊張感が、ここで少々削がれてしまうように思います。もうちょっと後まで見せない方が良かったんじゃないかな。

 

補聴器が原因であることを見せてしまわずに、引っ張る手もあったんじゃないかと思うんですよ。

クリーチャーがなぜかリーガンだけは襲わない。その理由はなかなかわからない…「エイリアン3」のパターンですね。

 

〈Who are we?〉

納屋の地下の防音室で、エヴリンは目を覚まします。

赤ちゃんは空気マスクをつけて箱の中。子供たちがまだ外にいると知ったエヴリンは、リーに「今度こそ子供たちを助けて」と求めます。

 

ボーを救えなかった後悔を語るエヴリン。

「抱いていればよかった。私の両手は空いていたのに」

あの時、リーの両手は塞がっていたんですよね。病気のマーカスを抱いていたから。

普段なら、いちばん幼いボーはリーが抱っこしてやっていたはず。

だから、リーが無理だったなら、ボーを抱っこして運んでやるとすれば、それはエヴリンだった。

 

そんなふうに後から客観的に眺めたら、いくらでも責めることはできるんですよね。

親なら当然そうするはず。そうしてるのが当たり前。そんなことにも気づかないなんて親失格…なんて具合に。

 

でも、そんなことって、実際問題としていくらでもあるじゃないですか。

だって、ボーは「小さいのに重い」から。一日歩いて疲れた帰り道に、抱っこして歩くのはしんどいから。

楽できるもんなら楽したい。ぐずったら仕方がないけど、機嫌よく歩いてくれているなら、歩いててくれたらありがたい…。

 

いや、それは平常時の話で、いつ怪物に喰われるかしれない世界なら違うはずだ、と言われるかもしれません。

でも、平常時にできないことが、異常事態であれば急にできるようになるものかな?とも思うんです。

人間って、そこまで便利なものではないんじゃないかな。

映画ならこの1シーンだけのことですけどね。現実なら、その前後にずーっと続いているんだから。

 

だから、この映画はうまいこと「無理のない過失による取り返しのつかない事態」を描いていたと思います。

そして、いくら「無理のないこと」であったとあったとしても、親は絶対に後悔して、自分を責め続けるものだということも。

 

それにしても、今はそれはいいから早よ子供たちを助けに行け!とは思いましたけど。

 

〈サイロの危機〉

サイロの上に逃げたリーガンとマーカスは、火を焚いて父に居場所を知らせようとします。

ここで彼らが火を灯したのは父に向けてだと思うんですが、もしかしたら前日にリーがかがり火で通信していた、近くに住んでいると思われる人たちに助けを求めた…ということもあるのでしょうか。定かではないですが…。

もしそうだとしても、SOSに答えて助けに来る人なんて誰もいないようです。みんなそれどころじゃないのが当たり前とは思いますが。

 

トウモロコシのサイロでのサスペンスシーンは、この映画の独創的な見せ場ですね。

サイロに溜まったトウモロコシが流砂のように、人間を呑み込んでしまう…すごく怖いシチュエーションでした。

 

アメリカの農場を舞台にしていて、トウモロコシ畑とサイロがあって、登場人物がニール・ヤングを聴いている雰囲気の映画だからこそのホラーシーン。

映画のムードにあったスリルを創出していたと思います。

 

〈リーの最期〉
サイロから出た子供たちと再会した後、屋根の上にいるクリーチャーがリーに襲いかかります。

ここはちょっと不可解。この時、リーは大きな音を立ててはいないはずです。屋根の上という少し離れた場所にいるクリーチャーは、まるでリーが見えているように正確に飛びかかっています。

 

解釈を考えるなら、正確に飛びかかってはいないのかもしれません。

その証拠は、リーが即死してはいないこと。クリーチャーはリーの正確な場所がわからないまま飛びかかって、だからリーは致命傷を負わずに済んだのかもしれない。

 

あるいは、この距離であればクリーチャーは息遣いや心音などの僅かな音を聞き取ってしまうのかもしれません。遠くの音を聞きつけるということは耳が良いということで、近くによれば小さい音も聞けるはずですから。

納屋の地下でエヴリンと赤ん坊に近づいた時には、すぐ近くで水が流れていました。そのおかげで、クリーチャーはエヴリンの気配に気づきつつも、正確な場所がわからなかったのかもしれない。

この戸外では、邪魔な音はほぼありませんでした。

 

マーカスのアドバイスを受けて、リーはリーガンにまっすぐな言葉を贈ります。

I have always loved you.

お前をずっと愛していた、と。

 

わかっちゃいるけど、泣かせるシーン

こう展開してくるなら、もうこうなるしかないんですよね。その意味では、決して意外性のあるシーンとは言えないんだけど。でも、収まるところに収まる気持ちの良さはあるし、それにやっぱり何と言っても泣けてしまいます。

 

この辺りで、少しずつ空が白み、夜が明け始めています。

薄明かりの青白い空と、トウモロコシ畑から聞こえる虫の声。すごく雰囲気のある空気感。こういうところのムードが、この映画の魅力なんですよね…。

 

〈そして反撃へ〉

最後のオチというか、「勝ち方」というのはずいぶん早くに弱点を見せてしまったこともあって、意外性というのはほとんどなかったですが。

でもやっぱり、描き方がとても上手いと思いました。「あっもしかしてこれが!」とか、「パパの補聴器がもしかして…」とかベタなことを言わないで、言葉を排除してただ行動だけで示していく。

リーガンとエヴリンがアイコンタクトして、皆まで言わずともやるべきことをわかりあって。

追い詰められていた彼女たちの気持ちが反転するさまを、言葉を一切使わずに見せるんですよね。すごくスマートで、気持ちの良い描き方でした。

 

そして、前にも書いたけど、あのラストのエヴリンの表情

強くて頼もしい、むしろもう反撃が楽しみになっちゃってる、怖いくらいのあの表情。美しい!って思いました。

 

一つの映画について、ついつい長々と書いてしまいました…。

なんていうか、詳細な鑑賞に堪える作品だと思います。劇中の行動の一つ一つに好みは分かれる(自分だったらこうしない、という感想になる)とは思いますが、でも適当な行動とか、ホラーだからこうだろう!みたいな安直な行動はない

しっかりと登場人物の心理を考え抜いて、選ばれている行動が描かれていたと思います。結果的に失敗やろ!みたいな行動も含めてね。

 

この状況に置かれたら、自分だったらどうするか。父親の立場だったら、母親の立場だったら、どうするか…。いろいろと想像して考えてみるのも、楽しいんじゃないかと思います。 

 

 

 

 

 

 

 

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