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会話

最近、ツイッター上で原爆投下を正当化する言説が大量に流れている。パール博士はそれについて、72年前に広島で痛烈に批判している。 「広島、長崎に原子爆弾が投ぜられたとき、いったい彼らによってどのような口実、言訳、説明がなされたか。このことは極く最近に起こったことであり、まして広島のみなさんはその直接の被害者であったからおわかりのことと思う。 いったいあの場合、アメリカは原子爆弾を投ずべき何の理由があっただろうか。日本はすでに降服すべき用意ができておったのである。広島に原子爆弾が投ぜられる二カ月前から、日本はすでにソビエトを通して、降服の相談、交渉をすすめる用意をもっておったのである。当時すでに日本は、連合軍との戦において敗北したということは、明白に分かっておったのである。彼らはそれを充分知っていたにもかかわらず、実に悲惨なる破壊力を持つところのこの原爆を、日本に対して投じたのである。しかもこれは一種の実験として、この日本に投じたのである。 この惨劇について、我々はそこに、いろいろの事情を汲みとることができないでもない。しかしながら、これを投下したところの国から、真実味のある、心からの懺悔の言葉をいまだに聞いたことがないのである。今後平和をともに語る上において、果たしてそうした冷酷な態度が許されるだろうか。 いったい、この原爆投下について、西洋諸国がこれまでいろいろと説明あるいは口実をもうけているが、その説明あるいは口実はどのようなものであったか、私はここに原爆投下の意義をじゅうぶん考えてみたいと思う。 原爆を投下するということは、男女の別なく、戦闘員と非戦闘員の別なく、無差別に人を殺すということである。しかも最も残虐なる形においての大量殺人である。しかしながら、彼らの原爆投下の説明、あるいは口実となっているところのものは、「もしもこれを投下しなかったならば、さらに幾千人かの白人の兵隊が犠牲にならなければならなかったであろう……」これがその説明である。いったい、この幾千人の軍人の命を救うということが、どういう意味があるだろうか。どういう価値があるだろうか。その代償として、罪のないところの老人や、子供や、婦人を、あるいは一般の平和的生活をいとなむ市民を、幾万人、幾十万人、殺してもいいというのだろうか。 このような空々しい説明や口実がなされたということそれ自体、この説明で満足するところの人々が、彼らの中にたくさんいることを証明するものである。こんな説明で満足しているような人々によって、人道主義だとか、平和だとかいうような言葉が弄せられていることを、我々は深く悲しむものである。我々はこうした手合いと、ふたたび人道や平和について語り合いたくはないのである」 (1952年11月4日、広島で開かれた世界連邦アジア会議での特別講演より) 写真は広島の原爆慰霊碑の前に立つ、沈痛な表情のパール博士。
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引用
和中 光次(わなか みつじ)
@111g0
昭和27年に来日にしたパール博士が大川周明に語った言葉。 「日本は独立したといっているが、これは独立でもなんでもない。しいて独立という言葉をつかいたければ、半独立といったらいい。アメリカによって与えられた、歪められたものの見方や、考え方が少しもとれていないではないか」…
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