渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

含みの表現 ~東本昌平作品~

2024年04月30日 | open



なぜ東本昌平作品には1960年
代末期の学生運動のシーンが
やたらめったら多く出て来る
のか。
しかも、日共代々木ではなく
新左翼や全共闘を描く。
それは、作者が深い部分で
「知っている」からだ。
二輪乗りと学生運動参加者は
同じ種族である、と。
危険に怯え、迷える羊になり
たいならば、二輪に乗って走
り出したりはしない。
乗り越える「何か」を持って
いない者は、二輪などには乗
れない。「危ない」からだ。
飼い猫のように家で炬燵で丸
くなっていればいい。
だが、人は、たとえ今夜は果
てしもなく冷たい雨が降って
いても、外に出て旅を続ける。
オートバイ乗りと自ら身体を
張って生きた学生運動参加者
たちは「『僕たちの失敗』を
恐れぬ永遠の旅人」であった
のだ。

だが、時代は流れ、最近では
道草という草ばかりを食う牙
を抜かれた草食動物さえも二
輪に乗るようになった。
単なる移動手段としてのみ。
東本作品での1960年代末期の
学生運動シーンの多発表現は、
あれは懐古主義としての表現
ではなく、本物の魂に基づい
て生きた人々へのレクイエム
なのだ。
その心、たれか知るらむ。

  

 


この記事についてブログを書く
« カフェ | トップ |